◆★ロシア通史 ロシア史鳥観短文 江東64屯大虐殺説明記事 1回目〜5回目 の続き
1939年(昭和14)5月〜8月 ノモンハン事件は第二次世界大戦の発火点(始まり)、なぜ発火したのか? それは、スラブ民族の自信過剰癖復活エネルギーとドイツの狂気エネルギー(不必要民族の絶滅政策)とが互いに頂点に達したから。これをきっかけに文明諸国は次々といつの間にか戦争状態に突入していました。「宣戦布告」は無く、民族の絶滅回避に最も必死だったのはソ連でした、かつての対ナポレオン皇帝戦(1812)と同様な「民族絶滅危機」を乗り越えるべく必死でした。 ソ連(現ロシア連邦、この時はまだ ソ連)はロシア革命の混迷から這い上がり、「世界経済大恐慌」を「共産主義経済圏」でかわし、重工業を起こし、戦車・航空機 の実力を蓄えた上で日本軍と局地戦を戦い「互角の勝負ともいわれるほどに日本軍と戦うことの出来る祖国の発見」は日ロ戦争の敗北感をも癒しました。(一説には日本軍大敗、 13000 の兵のうち 8000 の死傷者を出した、上廣哲彦著「実践一路」なお、真実は謎) 「革命の成功」と「共産主義経済圏構築」の成功と「日本にも負けない交戦能力」に自信を持ち、ドイツと相互不可侵条約を結んで互いに近づき、ポーランド分割の約束を交わしました。ドイツにポーランドの半分を取られるやいなや直ちにドイツを撃破しようとします、しかしドイツによる想定外の反撃を受けてスラブ民族はあわや全滅かと思われたにも関わらず 「スラブ民族大祖国戦争!!」 を合言葉に劣勢に耐えます 1945年 まで持ちこたえ、ついに軍事大国のドイツを撃破します、ベルリンまで押し返し、ドイツのヒトラー総統は自殺します、 以後 ソ連 を率いるスターリンは大いなる自信のもとに 人類史上最強の 独裁者 として 第二次世界大戦の二大強国(米ソ)の一国としてアメリカと世界覇権(地球で一番)を競うようになります、1953年74才で死ぬまで粛清に粛清を繰り返しながら31年間(1953-1922=31)も独裁を続けます。ちなみに昭和天皇は62年間(1988-1926=62)日本に君臨。 ノモンハン事件は局地戦のゆえにあまり有名ではありませんが、ソ連という軍事大国に自信を持たせた戦いだったと思います、私にはノモンハン事件での「互角に等しい勝負」の味がさぞかし 「旨かった」 のだと思われます、その味を知ったとたんに日本との交戦はほったらかしてドイツとの「ポーランド争奪戦」へと向かったのでした。 しかし、その後1991年には 国家破産 を体験し再び 「国の自滅、荒廃・無秩序 の1年間」 の状況に陥り、兵は無給に耐え切れず持ち場を放棄しましたが、領土を奪おうとする国は現れず世界先進諸国の援助で民主主義国(ロシア連邦)として生まれ変わり(1992)、現在(2021年)に至っています。スラブ民族はこの先も「民族絶滅危機」に出会う気がします、その時はもしかしたら「国」が無くなるかもしれません。 |
この表で・・・[江東六十四屯] 措置の推移と追記 1回目、2回目、3回目、4回目、5回目 |
私の見解1(現在の危機二つ、ともにアジア区)、それと、スラブ民族の放つ危機 私の見解2(日本国憲法前文)、この2つを連続的に記述 私の見解3(今後の世界予測) ■区画 歴史の真実を探る■へ
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【2】日本 ww2戦後日本史 |
【日本】【日本WW2終戦 直前 の3大異常事件と現在(2019年3月 [平31年3月])への影響】 [1]*1945年(昭20年)4月7日午後2時23分"戦艦大和の沖縄特攻、最優秀な海軍将兵3千人、「戦後は科学技術の進歩を!!」 と遺言し、一致団結して戦い死んで行った。この効果は直ちに現れ、急激な経済の高度成長と、ノーベル科学賞受賞者多発を生んだが 「科学教育」 へのかたよりは多くの不適応青少年を生んだ。現在では福一事故(核力発電所レベル7事故 2011,3,11)後、科学全般、特に核物理学への疑惑が進行中、海軍将兵3千人特攻の遺言は「進歩」ではなく「煩雑化・劣化」へと向かっている。30年以上もの間、核物理学者として 「原発の廃止」 を主張し続けて来た 小出裕章(京大核物理学者) は福一事故後も次々と再稼働させる日本人の不道徳を嘆いて次の通りの感慨を述べている、「東南海地震が予告されているにもかかわらず、なぜ原発(核力発電所)を廃止しないで避難訓練ばかりしているのか??」と。 ▲▲先頭へ▲▲▲ [2]*1945年8月6日午前8時15分 8月9日午前11時2分核爆弾各1発、 「人類の道徳的堕落(人道に反する大量虐殺)」 の現場にいて自らも被爆した一教師(上廣哲彦氏)は実践倫理宏正会という社会教育団体を興し(1946{s21,5})、「朝起き会」という実践倫理運動を始めました。 理由は、人類の平和は 「宗教」 によってはもたらすことが出来ないことが証明されたから。 キリスト教という宗教を道徳の基礎としていたヨーロッパ諸国同士が2回にわたり世界大戦を起こし、世界を戦乱の渦に巻き込んで真摯な反省行動をせず、キリスト教と無関係な敗戦国(日本)に責任を負わせた(極東軍事裁判)ことを氏は重大な人類現象と受け止めたのだと思います。 倫理(道徳)は人類に共通して存在し、民族を超えて存在する、したがってこれからの世界を 愛和・共生 たらしめるには 「道徳本能力の鍛錬」 が必要(早起きと夫婦愛和の鍛錬が必要)であり、この必要が満たされれば核爆弾を落とすというような不道徳を防ぐ事が出来るとお考えになったのだと思います。 個人は自由に自分の信じる宗教によって 「あの世での幸せ」 を目指せばよい、一方、 「この世での幸せ」 を得るには各人が人類共通の道徳力(倫理力)を高め合う以外に方法は無いとの考えから自らが被爆者であるにもかかわらず著書を自費出版して売り歩き、朝早く起きる事を奨励し始めたと知り、この人物の深い人類愛は必ず結実すると私は高く評価しています。 ★註1 : しかし、私は入会1年(2018-2019)で退会を決意しかけて思いとどまり、大津支部への在籍は続けることにしました。理由は、一つには 「人類愛理想」 の勢いが衰えてきているのではないかとの疑問に突き当たったから。「人類愛理想」は親子3代にわたる血縁によって引き継がれることには無理があるのではないかという点も気にかかりました。2019年現在の年次大会参加体験は何かしらの違和感を私にもたらしました、この違和感は何だったのかと思ったこともその理由です。 特に 核力と核力発電に関しては75年にわたって今もなお国策追従ではないかとも思いました、この会は政治団体ではないのでそれでもかまわないのかどうかという疑問も乗り越えなけばならないとも思いました。 ▲▲先頭へ▲▲▲ 核力利用を不道徳と指摘し続けて来ている私にとってはしばらく時間をかけて考える必要を感じたのです。在籍は続けることの理由は、毎日の 朝起き会場 での「朝の誓い」の唱和は私の心に力を与えてくれますので私はこのグループが 集団主義・事なかれ主義 の方向に堕ちていかないよう微力ながら方向付ける役割の一端を担おうと思ったことです。 そして、より深く考えるならば、朝起き会は政治経済の基盤となる「道徳実践の会」であることを肝に銘じるならば外観にこだわる必要はないと考え直し、やめないでよかったとし、新型コロナウイルスの感染防止のために地区集会が無い昨今(2020〜)は、朝の誓いを一人で自宅で実践しています。 ★註2 : 朝起き会大津支部提供資料一覧表はここにあります [3]*1945年8月9日午前0,00"ソ連が対日参戦、日ソ中立条約の有効期間内であるにもかかわらず条約を、4月の「破棄通告」もなく突然の侵略を開始、瀕死の友人を背後から襲い、殺すがごとき冷血なソ連への不快感は戦後75年を経ても癒やされず、現在でも両国間に平和条約は締結されていない、ソ連の侵略癖は共産主義国家崩壊(1991)を経て形式上選挙のある民主主義国家へと変化しても変わらず、2014には国際条約を破ってクリミアを強制編入という名目で侵略、新型兵器を次々と開発、ますます深く侵略性の度合いを深めている。 ▲▲先頭へ▲▲▲ ================================================ ▲↑[WW2後の日本(1)]
▲▲先頭へ▲▲▲*1951,9,8サンフランシスコ講和条約、日本独立・日華平和条約 [その1] [々その2], 日米軍事協定略史,*1952諫早湾等干拓事業 食糧難対策,諫早だけが事業目的が変化(70 企業団地構想 80 防災事業)*1953日北朝は休戦(自衛隊が多国籍軍に参加したので), *1954日米相互防衛援助協定(新安保条約), *1954,洞爺丸台風,*1954(S29)ビキニ水爆実験で死の灰,*1955(S30)原水禁世界大会於広島,*1956日本被団協,*1956日ソ共同宣言,*1956日本国連に加盟,*1956南極観測予備隊,*1957核反応炉(原子炉)点火 東海村, *1957砂川事件,*1959朝鮮人帰国事業, *1959(S34)伊勢湾台風 死者 5098人、被害家屋 51万棟。
▲▲先頭へ▲▲▲*1960年1月アラビア石油(株)、主要電力源が石炭・水力⇒石油,*1961(S36)黒部第4発電所発電開始,
[1969 (44)] イスラエル 核兵器を保有していることが判明 *1970(S45)よど号ハイジャック事件,*1970(S45)日本万博, *1971沖縄返還協定調印,*1971(S45)連合赤軍・山岳ベース事件,
▲▲先頭へ▲▲▲*1972(S47)「日本赤軍」テルアビブ事件,*1972横井庄一さん帰国,*1972(S47)あさま山荘事件(連合赤軍),*1973(S48)金大中(キムデジュン)拉致事件,*1973(S48)第1次オイルショック,*1974(S49)小野田寛郎さん帰国,*1974佐藤栄作首相ノーベル平和賞,*1975「日本赤軍」クアラルンプール事件,*1975(S50)ベトナム戦争でアメリカ敗戦,*1975(S50)昭和天皇(74才)アメリカ訪問, *1977「日本赤軍」ダッカ事件,*1977横田めぐみさん拉致事件,*1979(S54)第2次オイルショック,
▲▲先頭へ▲▲▲
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (昭和は 64[1989],1,7 日まで)⇒平成1年は 1989[昭和64],1,8 から ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ▲▲先頭へ▲▲▲ *1990国際花と緑の博覧会(花博、鶴見緑地[大阪市・守口市]),*1991(H3)バブル経済終息,*1991普賢岳噴火・火砕流,*1991朝日新聞慰安婦捏造記事,*1992PKO法成立,*1992(H4)平成天皇(59才)中華人民共和国訪問 ,*1993北海道奥尻の地震,*1993河野官房長官談話,*1993米騒動,*1993エリツィン・ロシア連邦大統領の謝罪,*1994村山首相談話,*1994大江健三郎ノーベル文学賞, *1995(H7)らい 予防法の廃止, *1995(H7)阪神・淡路大震災,*1995 東京地下鉄サリン事件, *1995(H7)〜2007アジア女性基金, *1995(H7)インターネット普及開始 *1995(H7)‘もんじゅ’試運転で事故,*1997東海村アスファルト事故(再処理施設で爆発),*1997アジア通貨危機 ,*1999本州四国連絡橋3ルート完成,*1999周辺事態法成立、*1999(H11)原子力(核力)発電量が火力発電量を抜く,*1999東海村臨界事故 ,*2000白川英樹ノーベル化学賞,*2000三宅島噴火,*2000年〜を通過しますます激しさを増す少年非行、少女売春・殺人等, ▲▲先頭へ▲▲▲*2001野依良治ノーベル物理学賞,*2001(H13)朝日新聞の慰安婦報道はねつ造報道と読売新聞が指摘,*2001北朝鮮工作船事件,*2002サッカー・ワールドカップ, *2002小柴昌俊ノーベル物理学賞,*2002田中耕一ノーベル物理学賞, *2003有事法制関連3法成立, *2004(H16)拉致家族帰国,
▲▲先頭へ▲▲▲ *2011(H23)中共国の反日に拍車、*2011(H23)東日本大震災・福島第1原発(核力発電所)事故,*2011リニア中央新幹線建設を決定,*2011(H23)日本被団協「脱原発」へ,*2012(H24)韓国の大統領竹島への上陸強行且つ天皇を侮辱,*2012(H24)山中伸弥ノーベル医学生理学賞,*2012(H24)民主党沖縄政策失敗,*2013(H25)自民党政権復帰衆参共,*2013(H25)伊豆大島水害,*2013日本、核不使用 署名, *2013中共国は防空識別圏を突然設定,*2013特定秘密保護法,*2014慰安婦の 件で石原元内閣官房副長官証言,*2013(H25)西之島噴火・3年で面積が10倍, *2014防衛装備移転に関する原則,*2014改正国民投票法成立,*2014集団的自衛権行使閣議決定, *2014朝日新聞慰安婦報道で謝罪,*2014広島市豪雨災害,*2014(H26)信仰の山御嶽山噴火,*2014赤崎勇、天野浩、中村修二の3名ノーベル物理学賞, ,*2015中東暴力集団IS日本人も殺す,*201518歳選挙権成立, ▲▲先頭へ▲▲▲註 : 2016年6月19日施行。
▲▲先頭へ▲▲▲
▲▲先頭へ▲▲▲ *2018,10,2 ノーベル賞、 京都大学高等教育院特別教授 本庶佑 氏 医学生理学賞受賞、オプジーボという抗がん特殊タンパク質の発見開発 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ *(平成は 31[2019],4,31 まで) ⇒令和1年は 2019[平成31],5,1 から ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*2019,9,27 関西電力巨額の汚職事件を起こす *2019,10,9 ノーベル賞化学賞、 吉野彰 氏 旭化成名誉フェロー 京都大学工学部出身 リチウムイオン電池開発、電気自動車等の動力源とする電池の開発が未来を拓く発明であることを高く評価された。 *2019,10,12 台風19号日本列島東側を北へと縦走、甚大な被害 |
【3】日本 ww2戦後 安保・外交 等 |
【日本】 ★、1951,ユネスコに加盟 註 : 「ユニセフ」というよく似た名前の国連総会の補助機関もありますので混同に要注意です。 ★、1951,日本独立(サンフランシスコ講和条約) ★、1952,日華平和条約 ★、1956,日ソ共同宣言 ★、1960,日米新安保条約 ★、1956,国際連合に加盟 ★、1965,日韓基本条約、竹島密約:漢江の奇跡 ▲▲先頭へ▲▲▲ ★、1972,沖縄返還 ★、1972,「日中共同声明」日中平和友好条約の下準備 ★、1952-1972日中戦争終了過程 ★、1975,昭和天皇のアメリカ訪問、 ★、1977,8文化大革命終わる、 ★、1978,「日中平和友好条約」巨額なODA援助開始 ASEAN+3 、、註 : 2018,10 終了 ★、1991湾岸戦争 ★、1991,6-9,海上自衛隊初の海外派兵、ホルムズ海峡の機雷除去、国連多国籍軍の一員として、々12月ソ連邦崩壊、東西冷戦構造の消滅 ★、1992,国連平和維持活動(PKO)協力法成立(世界史本流位置はここ) ★、1992,平成天皇中華人民共和国訪問 ★、1999,「周辺事態法」成立 ★、2001,アフガニスタン戦争、タリバン政権、オサマ・ビンラーディン潜伏 ★、2003,イラク戦争 ▲▲先頭へ▲▲▲ ★、2003,イラク特措法等3法案成立イラク復興支援 (これらは後日成立の 「安全保障関連法案 2015」に吸収された) ★、2009, 海上自衛隊の護衛艦2隻をソマリアに派兵(世界史本流位置はここ) ★、2015,「安全保障関連法案」成立、自衛隊の海外での活動を大きく拡大 ★、「安全保障関連法案」追記 ★、2015,10,1 防衛装備庁発足 ★、2016,3,29 安全保障関連法(集団的自衛権行使可を含む)施行 ================ ★、1953,アトムズ・フォー・ピース演説 ★、1957,森瀧・ラッセル 会談 ★、1991,吉田清冶 ◆、1933,河野談話〜村山談話、時系列概観、 ◆、2011,福島第1核力発電所(原発)事故、 ▲▲先頭へ▲▲▲ ★、2013,村山談話後の「新たな歴史談話(ポスト村山談話)」必要論 ★、2014,河野再談話、 ================ ■、外交(憲法9条関連論議集) ★、2014,集団的自衛権行使閣議決定、9条議論特集 1)〜18) ◆、2015,スイスの現実主義安全保障について(参考) ★、2015,現日本国憲法の生かし方、「新約聖書」や「仏典」のように! ※、表、2015,私の憲法論、【武装】と【矛盾】、9条は「解釈」で前文は「全面改正で!」 ※、2012,詳細はここで述べています ★、2014,朝日新聞が「慰安婦記事」を取り消す ★、2014,御嶽山噴火、日本は天災大国、(寸考) ★、2014,ノーベル賞、LED発明・普及、赤崎・天野・中村の3氏が受賞、「21世紀を照らす光、軍事転用の少ない技術」 ===基地問題==== 基地問題特集, ▲▲先頭へ▲▲▲ ===外交問題==== ★、寸考東京都知事4選・原発事故・中国嫌日暴動 ★、共謀罪 わかる? 乱用の恐れは払拭されたと思うこの法案は 2017,6,15 成立しました。187の国・地域が連結している国際組織犯罪防止条約に参加することになりました。 ★、 対ロシア外交 「第二次世界大戦の結果として北方4島はロシア領となった」 では対ロシア外交打つ手なし |
【4】A(1):ヨーロッパ | ★、EU を中心としたヨーロッパ現代史 普仏戦争 1870〜 |
【5】A(2):ヨーロッパ |
▲▲先頭へ▲▲▲★、その他の現代ヨーロッパ史 ★、1953,ソ連、チュメニ油田発見開発 ★、1991,ソ連邦消滅 ★、1992〜1995, ユーゴスラビア・ボスニア紛争 ★、1990, 1990 頃の混乱した ロシア・バルト・チェチェン(黒海周辺)および国際情勢 ★、1995, ボスニア・ヘルツエゴビナの活躍(於サッカーワールドカップ) ▲▲先頭へ▲▲▲ ★、1992-1995 バルカン半島の現代政治情勢 ★、1919-1922ギリシャ・小アジア(アナトリア) ★、2008,8アブハジア・南オセチア紛争 ★、2010,10 ロシア連邦、東シベリアで大規模油田発見 ★、2014,6 ボスニア・ヘルツエゴビナの復活(於サッカーワールドカップ) |
【6】B(1):アジア、中共国 | 中共国現代史、
▲▲先頭へ▲▲▲★、(はじめに) : 1)、数千年にわたってこの地域に去来した「国々」の「体質」が現在にも変わらずに引き継がれています(一人っ子政策)。 2)、「体質」とは、「戦争・内乱・政争」です。この体質は諸発明(例えば人類4大発明)が根付かず、西方へ伝搬してははルネッサンス活性化、東方へ伝搬しては日本の仏教・儒家思想・漢字文化の成熟化をもたらしたのに自国では「戦争・内乱・政争」繰り返され、現在も同じです。 3)、現代最新の大政争は「文化大革命」でした、上記体質により国内の文化財は破壊しつくされ残った文書は「毛沢東語録」だけ、そして8000万人が死んだと言われています。 4)、現在の国(中華人民共和国)の国際法を無視した行動にも同じ「体質」を見て取る事が出来ます、例えば、尖閣問題、南沙諸島の岩礁埋め立て問題が顕著です、WW2後の世界秩序を導いてきたアメリカの「助言」に対しても「面談」の場で「古来私の国の領土である」と言って「居直る」姿はまさしく「争いを好む体質」そのものです、この国を深く理解しなければ私たちは世界規模で「争い」に巻き込まれる可能性があります、この「体質」を指摘した上で、この地域の国々(中華民国と中華人民共和国)現代史を語りたいと思います。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ★、1945,WW2終結時点で「国家」を代表する政権は「国民党政権(中華民国、蒋介石)」で、「共産党政権(毛沢東)」は激しい憎しみを抱きつつ表面的に政権に追従し、WW2終結と同時に国家転覆の行動を起こしました。 ★、蒋介石と毛沢東 ★、毛沢東とケ小平に焦点を当てた中華人民共和国史。 ★、1948-1951 中華人民共和国のチベット侵略 ★、1949,蒋介石は毛沢東に負けました。 ★、1949,蒋介石は「台湾」に政権を移し、引き続き「中国地域の代表」としての地位を保ちました。 ★、1966-1977,毛沢東は「文化大革命」を起こし、青少年まで動員して、自己の政権内部結束を高めつつアルバニアも利用して国連における多数派工作を行い、わずかの票差で成功し、 ▲▲先頭へ▲▲▲蒋介石を国連の場からも国連安全保障常任理事国の席からも追放することに成功しました。 その後はしつこく蒋介石政権消滅の宣伝工作(例えば「台湾」の選手を参加させるオリンピックには参加しない、なぜなら中国地域を代表する政権は一つしかない、と言って東京オリンピックを含む7回ものオリンピックをボイコット)を続けています。 ★、1989,第二次天安門事件(六四事件)、 ※、ケ小平が実行した人事と日本への影響 ※、習近平(2013〜)は修復・改革・発展 出来るか? ★、【『軍』を掌握する者(中国共産党中央軍事委員会主席=人民解放軍総司令官)が中華人民共和国を動かす権力構造は古代からの伝統だと思います、「党主席」よりも実力と実績のある「軍総司令官、例えばケ小平」が国を動かすのです(人治)。 ★、2013年以降時事問題 ★、(おわりに) : この国は 共産党一党独裁 ⇒ 議会制民主主義 と変化する必要があります、今のままでは民衆は「自由」という基本的人権を持てません、この国には古代から現代に至るまでずーっと「人権無視」の文化、宦官・纏足、辛亥革命(1911)までが根付いてきました、そのなごりは2015年9月現在も行われている「一人っ子政策」という行政に見ることが出来ます。 数千年にわたって指導層のDNAに織り込まれた「人権無視」の文化はそう簡単には克服できません、岩礁を埋め立てるなどという性急で極端な行為は「漢民族の間違った誇り」をあおる非常に危険な自己破壊行政だと思います。 民衆の人権無視被害意識を押さえつける場合に生じる不平不満を外へと噴出させるいう一時しのぎには効果的でしょうが「人権無視」の文化を改善し「民衆を正しい誇り」へと導くことは出来ません、 2015年10月にやっと「一人っ子政策」⇒「二人っ子政策」の政策転換が計画され始めたようですが、これをきっかけとして「人権重視」の方向に国政の舵を切ることをお願いします。 |
【7】B(2):アジア、朝鮮半島国 |
朝鮮半島国現代史
日韓併合 1910〜 その後の世界史本流での位置はここ (はじめに) : ★、挿話・挿画3、1900年頃の韓国首都情景 ★、1894-1998,5回もの援助 ★、1894,東学党の乱 ★、1895,閔妃(ミンぴ)暗殺事件(乙未事変、いつび事変) ★、1909,伊藤博文暗殺事件 ★、1950-1953,朝鮮戦争 ▲▲先頭へ▲▲▲ ★、1958-2014,「北」「南」事件年代順列挙 ★、1912-2015,「金氏3代独裁物語」 ★、2003-2015,「北」「南」反目の日本への影響 ★、2015, 「法統」の概念を導入し南が現在有勢 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ★韓国現代史、1945〜 ★、挿話4, 2000,単独ノーベル平和賞 ★、挿話24, 1965,日本のおわびとハンガン(漢江)の奇跡 〜〜〜〜〜〜〜〜 ★北朝鮮現代史、1945〜 ★、挿話17 1912-2015,(金日成以下三代独裁物語) ★、2013,南北統一の私の予感 |
【8】B(3):アジア、中東 東南アジア インド 、アフガニスタン | ★、▲↑国連、パレスチナ分割・ユダヤ民族独立案可決、翌年イスラエル共和国成立 1947〜、中東地域(イスラエル・アラブ・イスラム、中東戦争
)概史・近況
★、アセアンプラス3(ASEAN+3)成立 1977〜、▲↑東南アジア情勢(ASEAN+3,含現況) ========== ★、1980-1988,イラン・イラク戦争 ★、1991,湾岸戦争 ★、アフガニスタン近代史概略 ★、2001-2016(予定)アフガニスタン戦争 ★、2003-2011イラク戦争 ★、1923-ベトナムの現代史 ★、2004,スマトラ沖地震・津波 ★、2015,11シリア内戦、ロシアがアサド政権支援、空爆をこの10ヵ月間。国内はドロ沼 |
【9】アフリカ | ★、1910-▲↑南アフリカ連邦 |
【10】D(1):北アメリカ | 世界史概観・上・下 に吸い上げられています、ホームページの「検索」でお探しください |
【11】D(2):北アメリカ | 世界史概観・上・下 に吸い上げられています、ホームページの「検索」でお探しください |
【12】E:南アメリカ | 世界史概観・上・下 に吸い上げられています、ホームページの「検索」でお探しください |
【13】F:オセアニア | 世界史概観・上・下 に吸い上げられています、ホームページの「検索」でお探しください |
寸考、アインシュタイン と 湯川秀樹 アインシュタインは後日(1948)、訪米した湯川秀樹博士を待ちかねたように訪問し、湯川の両手を握って泣き出しました、そして 「原爆で何の罪もない人々を大勢死なせてしまいました。許して下さい」 とくり返し述べた。「倫風宏話2015,9」 上廣榮治著。アインシュタインは物理学の第1人者である自分がアメリカ政治を動かした事を後悔していたのでした。 |
寸考、アインシュタイン と スターリン と ヒトラー
「科学」の突出と「政治」の衰退が激しく反応し合って WW2 を生んだ。「科学の代表者」はアインシュタイン、「政治の代表者」はスターリンとヒトラー |
アインシュタインの実像 アインシュタインは当時の「科学」の最先端を行く学者でした。学者は本来的に「非政治」の立場を取らねばならないにもかかわらず、その立場をわきまえず「政治」に関与したのです。アメリカ大統領の耳に「核爆弾の製造は可能ですよ」とささやいたのです。この時に「科学現象」は「政治現象」と激しく反応し合ったのです。極論すれば、アインシュタインが WW2 の原因人物であるということが出来ます |
スターリン大粛清の実態 スターリン時代の大粛清は 1937〜38年(ドイツのゲルニカ空爆のころ) にピークを迎え、130万人以上が裁判を経ずに有罪を宣告され、70万人が銃殺された、(毎日新聞,2016,11,1 記事より)これは共産主義思想実験の華やかさの陰で進んでいた政治の衰退現象です。「恐怖心」を利用して国民を統治することは政治ではなく暴力支配であり、未来へと続きませから。 |
ヒトラー大虐殺の実態
ドイツ首相ヒトラーは非合理的侵略意思{ユダヤ民族絶滅・スラブ民族(ロシア人)・ロマ人(ジプシ-)絶滅という意思}の持ち主でした。ユダヤ人等絶滅政策は 1941年から実施、これは政治の衰弱現象を意味します。民衆の陥っている「不満」という差別感情を極端に刺激し、民衆を興奮させた上で殺すことは国民の感情的一体感は達成できても一時的「うさ晴らし」に過ぎず、未来へと続きませから。 |
連合国 | イギリス、南アフリカ連邦、イギリス領インド帝国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ソビエト連邦 1941-、アメリカ合衆国 1941-、中華民国、フランス共和国-1940 、自由フランス 1940- 、フランス共和国臨時政府 1944- 、ポーランドなど (共同参戦国 : イタリア王国 1943-1945 ルーマニア王国 1944-1945 ブルガリア王国 1944-1945) |
枢軸国 | ドイツ国、大日本帝国、イタリア王国 1940-1943 、イタリア社会共和国 1943- 、ルーマニア王国 1941-1944 、ハンガリー王国 1941-1945 、フィンランド 1941-1944 、ブルガリア王国 1941-1944 、タイ 1942-1945 、ビルマ国 1943-1945 、(非宣戦国家 : イラク 1941 満州国 1945 フランス国 1941-1945) |
開戦日 |
1939,9,1 ドイツがポーランドに電撃侵攻 1940,9,9 イタリアがエジプト(スエズ運河)に侵攻 1941,12,8 日本がイギリス領コタバル(マレー半島のタイとの国境沿)u★、真珠湾はこの1時間後 |
終戦日 |
1943,9,8 イタリア降伏 1945,5,8 ドイツ降伏 1845,9,2 日本降伏(ただし、8,15 に全世界に向け戦闘意思放棄のラジオ放送を行っていた) |
第2次世界大戦についてのあらすじ解説
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英: World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻に連動するソ連軍のポーランド侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本と米英との開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大規模の大戦争となった。 ▲▲先頭へ▲▲▲ 第一次世界大戦との比較では、ともに総力戦であったが相違もあった。世界規模の戦場拡大は無線通信を用いた機動戦の結果である。これは、一次大戦が塹壕戦とケーブル切断を主体に展開されたことと最も対照される。無線は電信と違い傍受されたので、暗号解読により主要な戦果がもたらされた。Wikipedia をコピーしました。 |
原因について(筆者の推定)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 [根本原因] WW1で負け天文学的賠償金を課されたドイツの生き残る道は他国の領土を奪うことだった、共産革命という内戦から立ち上がったばかりのロシアの弱さに付け込んでその広い領土を奪おうとしたこと。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 1)、ドイツの国民を挙げての復讐心、ナチズム(語源はNational 「国民の」の Nati )で団結し、第1次世界大戦敗戦で課された天文学的数値の賠償金に怒った。国の運命をナチズム筆頭者のヒトラーに委ねた。「思ったとうリにやったらいい」 と。 ▲▲先頭へ▲▲▲ 2)、世界の自由主議経済は世界大恐慌のため全く機能しなくなっていた、ヒトラーは戦争を興すことによって経済危機を打開しようとした。約束事を片端から無視して先ずポーランドをソ連と分割、なんと次にはソ連を侵攻したのです。 3)、ユダヤ人とスラブ人への憎しみをあおり、両人種絶滅作戦を実行。ユダヤ人は600万人、スラブ人は2000万人が死んだと言われ、ソ連は 「第2次大祖国戦争」 と名付けて「ドイツの奴隷とされる」ことを避ける戦いをしたが戦争参加国中最も多い死者を出しても負けなかった。戦後、労働人口が不足し、日本・イタリア・ドイツ の捕虜を抑留して働かせた(これは国際法違反) 4)、イタリアはムソリーニが「結束主義(ファッシズム)」を掲げて戦ったが国民は思ったようには結束せず、一番早く降伏した。 5)、日本は、英・米・蘭 の原油封鎖作戦に遭い、エネルギー不足のため、いちかばちかの賭け(東南アジアの植民地横取り作戦)に出たが原油獲得には失敗。 6)、日本にはヒトラアーやムソリーニのような強力なリーダーはおらず、 「生真面目さ」 で国民は団結して戦った。 |
科学が進むべき道を間違えたことを今後の教訓とするために暗記すべき年号は
西暦1939年ですが和歴では昭和14年です。 和歴 ⇔ 西暦 簡易換算方法についてはここに記しています、すなわち 25 を足したり引いたりして正解の見当を付けられます、 昭和14年 は 西暦 1939 年 (14+1925=1939) 西暦 1939年は昭和14年 (1939-1925=14) |
寸考
:
日本も湯川秀樹博士を中心とした「核」科学者は多くおりました。もしもこの時点で、世界に向かって「核爆弾は非人道」との声明を出していたら「広島」「長崎」の 核爆弾悲劇 は戦争犯罪であるとして防止することが出来たでしょう。 戦争は「政治」の延長なので科学者も政治について深い見識が必要であることの良き事例として、また、今後の人類への教訓としてこの失敗は生かされねばなりません |
日本の場合は、 映画「愛する、私が棄てた女」 が参考となります。 |
(寸考、この戦争の原因について) |
なぜアメリカは日米首脳会談を拒否しABD包囲網を敷 き日本を経済的に孤立させ戦争させようとしたのか? |
私は、その答えは「アメリカの日本へのねたみ(嫉妬)」だと思います。 「アメリカは国際連盟理事国である日本の文化的実力(「武士道」「国民の平等」「長い歴史」)、日本の国際連盟での評判の良さに嫉妬(しっと、ねたむ、うらやむ事)していました。 アメリカは当時の発展途上国として軍事力は強かったけれども侵略性が強く、国際連盟には初めから終わりまで参加しませんでした、また、国内には「黒人差別」がありました。 反面、日本は新渡戸稲造が事務次長として国際連盟に6年間(1920-1926)就務した間に スウェーデン・フィンランド紛争を解決に導き、アメリカへは「人種差別撤廃(アジア人への差別廃止、黒人への公民権付与)」を提案していました。 しかし、やがて日本が 満州国建国(1932) 2・26事件(1936 国内不統一) 日中戦争(1937) で評判を落とした隙に乗じて素早く「日本への攻撃」を開始したのです。 国際間には当然のこととして「嫉妬」は存在します。今後、日本が戦争に巻き込まれないためには「嫉妬」を跳ね返すだけの心理的実力を高めねばならないという教訓をここから読みとることが必要です(以上は森本の論)。 ▲▲先頭へ▲▲▲ |
なぜ日本の政治指導者達は国民に戦争させようとしたのか? |
私は、その答えは政治指導者の虚無主義(「この世は常ならず、勝っても負けても良い」という西洋概念で言えば「積極的ニヒリズム」)に陥ったからだと思います。
国際性に関する唯一の足掛かりであり、誇りでもあった「国際連盟」から「満州国」を拒否され(1933)、天皇の「東アジアの永久的平和」の理想達成が不可能と悟った政治指導者達は日本国が「徹底的に負ける」という常識では考えられない方向へと国民を導きました。 その哲学は「この世は常ならず、勝っても負けても良い、死ぬことこそが戦争の目的である」です。新渡戸稲造が代弁してきた「日本の武士道」哲学を変質させたものです。 山本五十六連合艦隊司令長官は「3年は戦って見せる」とは言いましたが 「戦争に勝つ」 とは言いませんでした、当時の彼の心境は 「一花(ひとはな)咲かせて死ぬ」 でした、もしも 「勝つ」 つもりがあったのなら、大艦隊を引率して西太平洋(東南アジア)に向かっていたと思います、そうであれば、山下奉文大将(マレー作戦指揮官)と合同して 米・英・蒋介石 連合軍を撃滅してあの戦争に勝っていたことでしょう。 。 ではなぜ、国民に戦争をさせようとしたのか? それは、北一輝や大川周明らの国家主義思想運動、徳富蘇峰の「戦争美化文学」による一般民衆の「硬い団結心」が出来上がっており、戦争へと突き進むほかはなかったからです。政治指導者達は結果に責任を取る情熱は失っており、「硬い団結心」だけは保ったまま負けることを願っていました、そして国民も心の深いところでは「早く戦争は終わってほしい、勝っても負けてもどちらでもよい」と思いつつ戦争をしたのです。 (特別註 : 日本人の無常観と政治指導者達の虚無主義について) 1)、古来、自然災害の頻発に直面しては乗り越えてきた民族に特有で且つ世界のどこにも存在しない種類の「無常観」が当時の政治指導者の心を支配し続けたために極端な危機(原敬の暗殺⇒浜口雄幸の暗殺⇒犬養毅の暗殺⇒大蔵大臣をはじめ政府要人たちの同時暗殺)に遭遇して「勝っても負けても良いから一致団結して戦争しよう」という ▲▲先頭へ▲▲▲虚無主義 が発生したのだと思います。 2)、織田信長の「人生は夢幻の如くなり」や豊臣秀吉の「なにわのこともゆめのまたゆめ」は健全な精神状態の「無常観」ですがこの時期の政治指導者の無常観は病的無常観すなわち「虚無主義」に陥って国民を戦争へと導いたのだと思います。 日本人の中で一人だけ「常識」を保ち、結果に責任を取る情熱を保った人がいました、それは「昭和天皇」です。 今後、日本が戦争に巻き込まれないためには「虚無主義」に陥らないよう「国際性の保持」に関する能力すなわち「外交の実力」を高めねばならないと思います(以上は森本の論)。 |
当時アメリカは宣戦布告のない状態で実質的にドイツに対し戦争状態でした。
アメリカ海軍の駆逐艦はドイツ潜水艦に対し攻撃を行っていました。 それ以前にも中古でしたが50隻もの駆逐艦をイギリスに供給してドイツ潜水艦に対抗する英国を助けていました。 これも厳密には当時の国際法では許されぬ違法行為でした。 英国がバトル・オブ・ブリテンの戦いに生き延びられたのもアメリカの輸送船供給と物資供給があってこそでした。 しかしドイツはアメリカと戦う事の不利益は判っていたので宣戦布告までは躊躇していたのです。 ▲▲先頭へ▲▲▲ ところが日本が対米開戦に踏み出し、緒戦の真珠湾攻撃で大勝利を収めてしまったのがドイツにとっては不幸でした。 ドイツとしては偶然にもアメリカを2正面作戦に引き込めたので戦争遂行に希望が持てたので、三国同盟により宿敵アメリカに宣戦布告して参戦したのです。 三国同盟を破棄する余裕はドイツにはありませんでした。 猫の手も借りたかったのです。 ドイツはアメリカが対日戦に注力するのを期待したのですが、アメリカはヨーロッパ戦線を優先する戦略で全力でドイツに攻撃を集中し勝利を収めたのです。 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1728033.html教えてG00ベストアンサーよりコピー |
映画「ひまわり」での冬のひまわり畑戦場でのイタリア兵大量凍死事件は 1943年1月ごろ 起きたと推定することが出来ます |
映画 「永遠のゼロ」 はこのあたりを時代背景として描かれています |
映画 「海辺の生と死」 はこのあたりを時代背景としています |
映画 「日輪の遺産」 はこのあたりを時代背景として描かれています |
映画 「ハクソーリッジ」 はこのあたりを時代背景として描かれています |
映画 「第三の男」 はこのころのウィーンを舞台にして描かれています |
ドイツは「政府が無い状態」での無条件降伏=絶対的無条件降伏
日本は「政府が在る状態」で軍隊が無条件降伏=軍事上の無条件降伏 |
ソ連が日本に行った非道についてはここにもまとめてあります。2019年1月時点でのソ連のこの非道への説明は次の通りです、 「第二次世界大戦の結果として北方4島はロシア領となった」 どんな非道によっても奪ったものは自分のものであるという傲慢さ(自信過剰)を日本に押し付けて外交しようもありません、1853年10月のクリミア戦争や2014年2月のクリミア併合と同じ傲慢不遜自己中心自信過剰という野蛮が2019年になっても見られます、この外交姿勢は軍事力を背景としていますので、もし国内に紛争が起きればこの国は自滅するでしょう |
映画「遠い約束」はこのころの長春(新京)での事件を物語っています |
ニュルンベルグ
裁判官構成、ニュルンベルグ裁判が 米英露仏 のたった4ヵ国だったのに対し、極東国際軍事裁判では次の11ヵ国が裁判官を出した。
オーストラリア(裁判長)、アメリカ、北アイルランド、ソ連、フランス、中華民国、オランダ、カナダ、ニュージーランド、インド、フィリピン。 インドとオランダは、「人道に対する罪」および「平和に対する罪」 は 「事後法」 にあたるとして全員無罪を主張、フランスは別の考え方で 7人 の死刑に反対、フィリピンは日本の戦争責任追及の急先鋒で、捕虜の扱い(バターン死の行進)を理由に被告全員の死刑を主張した、wikipedia より。 |
<[後日記載] 2020年8月30日 BC級戦犯の戦後史 黒塗りでは忘れられる=梯久美子・ノンフィクション作家 毎日新聞2020年8月30日 東京朝刊 「時代の風」より抄録> (私なりの抄録) 1)、近年ほとんど取り上げられることのないテーマがある。BC級戦犯のことである。 戦犯とは戦争犯罪人のことで、A、B、Cは犯罪の内容による分類(Aは平和に対する罪、Bは通例の戦争犯罪、Cは人道に反する罪)である。 ▲▲先頭へ▲▲▲ 2)、東京裁判で裁かれたA級戦犯(森本註:「平和に対する罪」も「人道に反する罪」も裁判概念として存在しなかったので、実際は「通例の戦争犯罪」として裁かれた) 3)、BC級戦犯裁判は終戦後6年近くにわたって行われた。最後の処刑が行われたのは51年6月、ニューギニアのマヌス島。最後の服役者が釈放されたのは、終戦から実に13年後の58年12月だった 4)、軍人だけでなく軍属(捕虜収容所の監視員)にも死刑となった人々がいることはあまり知られていないが、その中に、朝鮮半島出身の趙文相という人がいる。シンガポールのチャンギで刑死したが、処刑直前まで手記を書き続けた 「人生最大の苦しみだ。この部屋を出るまでだ、それももう八分は済んだ。あと二分だ、俺よ!がんばれ」
5)、BC級戦犯裁判の被告となった朝鮮半島出身者は148人。ほとんどが捕虜監視員だった。死刑になったのは23人である。戦犯裁判では朝鮮半島や台湾の出身者も日本人として裁かれたが、戦後、日本人の元戦犯や遺族に行われた補償については対象外とされた。 6)、メディアが8月に取り上げるテーマは、原爆、沖縄戦、空襲、特攻など、ほぼ定番化しつつある。それらを語り継ぐことが重要なのは言うまでもないが、戦後の日本が直視せずに来た問題についても積極的に取材し、伝えるべきであると思う |
補足事項
A級犯罪・・・・「人道に対する罪」 : 裁判根拠法無し
C級犯罪・・・・「平和に対する罪(侵略)」 : 裁判根拠法無し | |
ではなぜ東條ら7名は死刑に処されたのか?
東條ら7名は戦争指導者であり、当然 「捕虜殺害」 の罪も犯している 「B級戦犯」 なので 「捕虜虐待に対する罪に対する最高刑としての死刑を執行できる」との解釈のもとに判決が下された | |
註 : 裁判はその後も数回は続けられる予定で、絞首刑判決者は増える見込みだったが第1次中東戦争(1948年5月)や朝鮮戦争 (1950年6月) 勃発などで全世界一致団結状態での裁判開催は不可能となり1回だけで終わった。 以上の大意は 2015,7,25 池上彰の そうだったのか番組、ABCテレビより頂きました。 |
科学は核爆弾よりも先に 電子計算機 ⇒ スマートフォン の道を取っていたら機械と協力して世界平和の方法を考えたかもしれないとの思いを込めて暗記すべき年号は
西暦1946年ですが和歴では昭和21年です。 和歴 ⇔ 西暦 簡易換算方法についてはここに記しています、すなわち 25 を足したり引いたりして正解の見当を付けられます、 昭和21年 は 西暦 1946 年 (21+1925=1946) 西暦 1946年は昭和21年 (1946-1925=21) |
寸考 「スーパーコンピュータは2番じゃだめなんですか?」について |
2009年11月、日本の内閣府予算委員会で スーパーコンピューターは「2番でもよい、余る予算を他へ向けるべきである(仕訳委員・民主党・蓮舫議員)」 ▲▲先頭へ▲▲▲ との発言を真正面から受け止めて将来が語り合われる事はありませんでした、誰一人として「 最新の軍事ウィルス作成には最新最速のスーパーコンピューターが必要、これが無いと国の軍事上の安全が守れない」と現状危機の本質を突く発言をした人はいませんでした。野依氏はじめ日本のノーベル賞受賞者達はこぞって感情的に興奮し、蓮舫議員の発言を批判し(脅し[おどし])ました、次の通りに 「歴史の法廷に立つ覚悟があるのか」と、感情的発言をする科学者は人格異常ですし、科学者が科学論議に歴史をもち出すのも異常で、物理学者の思い上がりです。 すなわち「軍事技術進歩のために1番であることが必要」という趣旨であるにもかかわらず「歴史」を持ち出してきて科学者が政治家にすごんだのです。私は科学者(この場面では「物理学者」)の「政治家への優越感 自信過剰・傲慢・質の低下」を感じました。ひと昔前は両者の順位は 逆 だったのです。現在の日本の科学者はひと昔前を生きている、すなわち時代の加速度的進歩に取り残されているのです。 私はコンピューターウィルスの本質と危険性を意識している人が誰もいないと感じ将来への恐怖を感じました。スーパーコンピュターの性能が世界で1位である必要性は「軍事」のためにあるのです。 2009年の現在では「軍事技術」が先に存在し「科学技術」はその ”おこぼれ”として存在していることを正確に謙虚に認識しましょう。連邦議員が言いたかったことを代弁するならば次の通りです。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 世界中のスーパーコンピューターは互いに同列(2番)にすべきであって、競い合うのは 「福祉(国民のしあわせ)の分野での順位である」 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 |
2018,3,8 毎日新聞 世界文学ナビ でナビゲーターの 岡真理 は次の通り、パレスチナ人の苦難現状に触れている
「今年は 『ナクバ』 すなわち、1948年のイスラエル建国に伴う民族浄化で70万人以上のパレスチナ人が難民となって70年にあたる。これだけの歳月が経ってもなお、パレスチナ人の故郷帰還は見果てぬ夢であり、異邦で、占領下で、彼らは依然、祖国を持たぬがゆえの悲惨を強いられて続けている」 |
1949年発足当時12ヵ国 1.アイスランド 2.アメリカ 3.イギリス 4.イタリア 5.オランダ 6.カナダ 7.デンマーク 8.ノルウェー 9.フランス 10.ベルギー 11.ポリトガル 12.ルクセンブルグ |
1952年 13.ギリシャ 14.トルコ |
1955年 15.西ドイツ(のちの統一ドイツ) |
1982年 16.スペイン |
1999年 17.チェコ 18.ハンガリー 19.ポーランド |
2004年 20.エストニア 21.スロバキア 22.スロベニア 23.ブルガリア 24.ラトビア 25.リトアニア 26.ルーマニア |
2009年 27.アルバニア 28.クロアチア |
2017年 29.モンテネグロ |
2019年 30.北マケドニア |
その後の両国関係
★、1971年10月、台湾(中華民国)が国連を脱退(アルバニアの多数派工作により国連から追放された)、国連の議席も安全保障常任理事国も 中華人民共和国 のものとなる。 ★、1991年4月、台湾(中華民国)が、中華人民共和国との内戦終結を一方的に宣言、中華人民共和国は拒否しなかったので両国は「休戦」状態となった。2016年現在も休戦状態。 |
映画 「慕情」 はこのころの 香港 を舞台にして描かれています |
国連の対応 北朝鮮を侵略者として非難する案件「国際連合安全保障理事会決議82」を賛成9:反対0:棄権1(ソ連、欠席中)の全会一致で採択した。もし、ソ連が出席し拒否権を行使していたら国連軍は出来ず、北朝鮮が戦争に勝ったでしょう。
▲▲先頭へ▲▲▲ これに基づき国連軍が結成された。Wikipedia 参照 森本の感想 : ソ連の代表者スターリンは北朝鮮(金日成)からの 「南へと侵略して朝鮮半島を武力で統一したい」 の相談にあいまいな返事をしたと言われている、なので、国連という表舞台では北朝鮮を見殺しにしています、ドイツの戦後処理、ワルシャワ条約機構設立準備に多忙だったため東の小さな半島のことは北朝鮮との口約束で済ませたかったのです。なお、金日成はソ連軍将校としてWW2中にヨーロッパ戦線で活躍し ソ連の勲章 まで受けているのにソ連の表立った救援は無く、こっそりと北朝鮮兵に成りすました空中戦で救援した程度だった。この事のより詳しい経緯はここにあります。 |
この戦争によって朝鮮民族は同朋が米ソ両陣営に分断され、同朋同士で殺し合いをさせられました。この戦争で帰るところを失った戦争難民は旧宗主国である 日本 に受け入れられ、日本政府はこの人たちに永住権を与えて保護しています(2018年現在も)、映画 パッチギ!は難民の苦渋を若者の異民族間恋愛と難民青年の夢と挫折で表現しています、「映画 パッチギ!」 を歴史本流に位置付けるとすればここしかありません |
吉田首相は自由主義国とのみ講和する事(単独講和)を望んだが、社会党や政治学者の南原繁(東大学長)ら知識人が、ソ連など社会主義国も参加する講話(全面講和)を唱えた。吉田首相が南原を「学問を曲げて世俗におもねる」と酷評、南原が「満州事変以来の権力的強圧」と反発して世間は沸いたが、直後に朝鮮戦争が勃発(1950,6,25)。社会主義国の脅威を目の当たりにして単独講和路線が固まった。2015,6,22 毎日新聞、風知草より |
1952,4,28 発効で日本国籍を失った在日韓国人に、日本での永住資格が認められた。その後対象が朝鮮籍の人や3世以降にも広がった |
寸考:アメリカという国の無知・傲慢 さをさらけ出した演説です。この演説の真意は「地球上に太陽を作り出して利用しよう」です。なんという傲慢さ、無知さであることか、2020年現在の「闇」と言われる世界情勢はこの演説から出発したのです、人類が「闇」から抜け出すにはこの演説の間違いを認め「アイゼンハワー演説の取り消し」を国連総会で決議すべきです。 |
「ON THE BEACH 渚(なぎさ)にて」 という映画、は キューバ危機 ⇒ 米ソ全面核戦争 ⇒ 第3次世界大戦 ⇒ 人類全滅 という恐怖を予感した当時の世代の精神風土を知る上で参考になります |
ベトナム反戦市民運動について
アメリカでは、ボブ・ディラン(男)、ジョーン・バエズ(女)達の反戦フォークソング運動。 日本では、ベ平連(ベトナムに平和を!市民運動)、作家の小田実(まこと)、開高健、哲学者の鶴見俊輔。 |
日韓基本条約締結時の 朴正煕 韓国大統領の談話,毎日新聞より |
「日本は『許す事のできない敵』だが、必要とあればきのうの敵とも手を握るのが賢明なありかたではないか」 |
NPT議論の端緒はキューバ危機(1962年10月)、人類が核兵器の地球規模同時使用によって全滅する可能性の自覚にある。条約発効後に数か国(イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮)の違反があったが、中距離戦術核器全廃条約(INF 1987 米ソ)や戦略核兵器削減条約(START 1991 米ソ) という成果もあった。しかし、2017にアメリカにトランプ政権という1国至上主義大統領が登場してからは米ロ対立激化の様相が始まった、その概要は、核力(原子力)発電の歴史的背景 背景8 で述べています。 |
【寸考 アルバニアのその後】 | |
中華人民共和国のための「国選総会多数派工作」の情熱はやがて、冷え、1991年にソ連邦が崩壊すると同時に「共産主義」を捨てて「国家ねずみ講」経済へと突入し、「国家ねずみ講」が破綻すると、1997年1月、数十万名を数える破産者の集団は総額12億ドルに上る投資金の返還を求めて暴動を起こした。中華人民共和国はアルバニアを立ち直らせる意思を示さず、アルバニア政府も中華人民共和国に何の援助も求めず2国は互いに政治的に無関係となって2016年の現在に至っている。
▲▲先頭へ▲▲▲ 1971年のアルバニアの国連多数派工作はいかに空疎な政治工作であったかを示している。 空疎な政治工作によって国連安全保障常任理事国となった中華人民共和国は「国際的実力」の無い「空疎な多人口国家」となって漂流を続け、2016年の現在に至っても「国際社会の孤児」の状況下にあり、「南沙諸島は古来中国の領土と主張しつつ国際法を無視して日本の関西国際空港と同じくらい(11平方キロ)の広さの暗礁を埋め立て」続け、「アジアインフラ投資銀行、AIIB 構想」「陸と海のシルクロード構想」などの政治宣伝工作を展開するなど、この国の体質はアルバニア決議案の時代と何ら変わらない。 1771年にアルバニアが中華人民共和国の自信にあふれた政治宣伝工作にまんまと乗って国家破産に至ったように、2016年現在も中華人民共和国が力づくで推し進めている「大言壮語的で実力に見合わない自信過剰な」政治宣伝工作に載って、国家破綻を起こす国が出る恐れが十分にあると思います。 |
ネズミ講(ねずみこう)とは、日本では「無限連鎖講」という犯罪行為。無限に会員を増やし、集めた富を運用せず自転車操業的に配当に回して(分配)してしまう。分配の方法は、最高権力者に近いほど有利。しかし、会員がそれ以上増えない限界点に達すると同時にネズミ講組織は分解(破綻、はたん)し、ねずみ講参加者同士で際限のない争いが起こる。 |
孫文の晩年 1924年10月(57才)、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。1925年3月12日(58歳病没、ガン) Wikipedia |
私は 文化大革命 が進行当時(1970年)30歳でしたが次のことが記憶に残っています |
1)、服装は男女ともに 人民服(筒袖のいわゆる「ナッパ服」) 2)、全国人民大表大会(全人代)出席者の服装も全員が「生地の良い人民服」 3)、「口紅を付ける女性は 売春婦」と世間で言われており女性のおしゃれは厳禁だった |
わが国のプロレタリア文化大革命は毛沢東同志みずからの指導のもとに偉大な勝利をおさめた。
こんにちほどすばらしい情勢をこれまでに迎えたことはない。ソ連のフルシチョフをかしらとするブルジョア階扱の指令部はすでに崩壊した。これは毛沢東同志に代表されるプロレタリア革命路線の勝利であり、毛沢東思想の新しい、偉大な勝利である。
▲▲先頭へ▲▲▲ 当国際情勢は各国のマルクス・レーニン主義者と革命的人民にとってきわめて有利である。 わが国のプロレタリア文化大革命はマルクス・レーニン主義がまったく新しい段階(第2段階)に発展したことを示すもっとも重要な目じるしである。 (「北京週報」1967年40-41号) |
日本の学生運動を正確に 「実録」 と銘打って作成された映画 「実録 連合赤軍 浅間山荘への道程」 はこの時代を知るための貴重な映画です |
ニクソン訪中についての寸考
国連でのアルバニア決議案通過が彼を慌てさせたのだと思われる。文化大革命暴動の最中で、政治実権が毛沢東から誰に渡るのかわからない混乱状態 (林彪謀殺事件、四人組事件) の中共国を訪問するより先にティトー (第3勢力首脳会議 [1961] を開催していた) ユーゴスラビア大統領を訪問すべきだったのではないかと思われます。 中共国も突然のアメリカ大統領訪問で、「大国らしさ」 をアメリカに示さねばならず、すかさず1972年9月29日に 日中共同声明 を日本と取り決めたのですが、中共国の実力はアメリカおよび日本と対等のお付き合いをするほどに文化レベルは高くはなく国情は不安定のままでした。 1989年にケ小平(人民解放軍最高司令官)が天安門事件で人民を虐殺して権力を掌握してから国情は安定しましたが 人権無視、1党独裁、資本主義化、反日 と言う弊害が始まりました。 私は次の通りに思います、すなわち、外国へ出たことが無い田舎者の毛沢東を訪問するより先に、多民族をまとめてソ連と対等に渡り合う国際的影響力の強いティトーを訪問し、中共国処遇について意見交換していれば世界史はもっとゆとりを持って的確に歩みを進めたと思います。 |
日中共同声明時の周恩来首相の言葉、毎日新聞より |
「戦争責任は日本の一握りの軍国主義者にあり、一般の市民は中国人民同様、犠牲者である」 |
した≠する 従って日華平和条約と日中共同声明の内容は重複しない |
オイル・ショックとは 1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発したのを受けて、10月16日に石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国が原油公示価格を大幅に引き上げ、10月17日にアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油生産の段階的削減を決定し、さらにイスラエルが占領地から撤退するまで、イスラエル支持国への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定したことにより生じた、石油の供給不足と価格急騰、およびそれに伴う深刻な経済混乱のことを指します。(1960年代のバレル当たり2ドル、直前価格の3ドルから12ドルへ急騰)(iFinance) オイル・ショック(和製英語:oil + shock)とは、1973年(第1次)と1979年(第2次)に始まった(ピークは1980年)、原油の供給逼迫および原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱である。石油危機(せきゆきき、英語: oil crisis)または石油ショックとも称される。 トイレットペーパー騒動(トイレットペーパーそうどう)とは、1973年(昭和48年)に、オイルショックをきっかけとする物資不足が噂されたことにより、日本各地で起きたトイレットペーパーの買い占め騒動である。(Wikipedia) |
医療の挑戦者たち 35より転記、
、 「北里は確かに香港でペスト菌を研究し、論文の大部分は的確に特徴を記載しており、彼にもその発見の栄誉を与えるに十分である」 というものだった。この総括的論文は、1976年(昭和51年)、アメリカ微生物学会の機関誌に発表され、北里の発見の事実をめぐる論争に終止符が打たれた。なんと香港での発見から82年後であった。 |
[一人っ子政策廃止]
2015年10月、中国が人口抑制のために1979年に導入した「一人っ子政策」を廃止し、全ての夫婦に2人までの子供の出産を容認する方針を決めた。 中国では50年代から60年代にかけて「産めよ増やせよ」の出産奨励策が実施され、人口が急増した。中華人民共和国が成立した49年に5億人余だった人口は、82年には10億を超えた。「人口爆発」による飢餓など途上国が抱える問題点を克服するため、改革・解放政策と共に導入されたのが「一人っ子政策」だった。 違反者には厳罰・不妊手術・妊娠中絶の強要・・・多産の女性への迫害・・などの人権侵害が頻発、「強制的な産児制限制度である」として欧米から批判を受けてきた。 |
人口 | 宗派 | 政治 | 女性 | |
イラン | 7.3千万人 | シーア派、個人の内面の信仰心を重んじ、戒律や慣習は緩やか、飲酒も断食も過酷な強制は弱いようである。「平等」はインドネシアに次ぐと思われる | 民主主義によってイラン革命を成し遂げたほどに民衆の「国民」や「平等」の意識は強い | 女性の教育水準が高く、女性の社会進出度も高い、しかし、性行動や服装については戒律範囲を超える事は出来ない |
サウジアラビア | 2.7千万人 | スンニ派の中でも最も保守的なワッハーブ派、コーランに書かれている通りの信仰方法にこだわり、戒律や慣習を重んじる(原理主義的)、「平等」は「厳格さに於いて誰でもが平等」という方向に変質していると思われる | 国名の通り、「サウド一族が政治を取り仕切る、民衆の「国民」や「平等」の意識は弱い | 戒律や慣習の締め付けが強いため女性の人権意識は低い |
ペレストロイカの語源は Pere stroyka 「直す」 「建物」であり、共産主義統制経済という建物 を 直して 自由主義市場経済 に替える という意味 |
グラスノスチと呼ばれる情報公開、自由主義市場経済、政治の民主化、ロシア正教の復活、スターリン批判の再開 など、 |
ただし、引き算で 0 が出た場合は前年号の純粋最終年とする
例 平成 0 年(1988-1988=0)は昭和63年(1988-1925=63) |
寸考 日本とドイツ、核兵器配備の違いについて |
日本は沖縄返還(1971)以後核兵器は全く無くなったのに反し、ドイツの場合は、西ドイツにはジェット推進の小型巡行核ミサイルがたくさん配備され、東ドイツにはSS20(短距離ロケット推進小型強力核兵器)がたくさん配備され、国土は小型核兵器で充満していました、ドイツ人の核への恐怖は世界一強く、この事がチェルノブイリ事故直後の放射性物質降下との相乗恐怖を発生させ、核危機感が異常に高まっていました。 2013年の福島第1核力発電所事故直後に「原発(核力発電所)廃止宣言」が出されたのにはこの通りの素地があったからです |
寸考、3国の独立日が1990年8月20日 とされているのはエストニアでの反ソ連市民運動が最も強力だったためであると思います |
フェラーリという高級車仮名文字でこれらの国の配置を覚えるとよい、北から フィンランド エストニア ラトヴィア リトアニア |
カリーニングラード ネマン川の位置についていはここ 佐渡ヶ島とカリーニングラードはほぼ同じ人口密度(約70人/1ku)であるにもかかわらず広さについてはカリーニングラードは佐渡ヶ島の約18倍{ (15100/855)=17.6 ≒ 18 }、すなわちカリーニングラードは佐渡ヶ島の住居状況(人数と地面)をそのまま18倍した地域、すなわち 「広大な過疎地域」、佐渡ヶ島の 18倍 の土地に たったの1260人(18×70=1260)。
【中世のバルト地方】、 バルト三国は、中世にはドイツ騎士団の植民活動以来、ドイツ人の進出が続き、ハンザ同盟都市もこの地方に築かれ、北方やロシアの物資の集積地として栄えた。カリーニングラードは当時ケーニヒスブルグと呼ばれ、繁栄した 【リトアニアの大国化】、 リトアニアは13世紀頃から、ドイツ騎士団との抗争の中で武力を強め、次第に東南方面のスラブ人地域に進出し、キエフ公国(キエフ=ルーシ)がモンゴルのバトゥのキプチャク汗国によって滅ぼされた(1240)後の広大な地域に勢力を伸ばし、リトアニア大公国と言われるようになった。
▲▲先頭へ▲▲▲ 14世紀中頃、リトアニアはポーランドと連合王国(リトアニア=ポーランド王国)を形成し、北のスウェーデン、南西のオーストリア、東のロシアなどの強国との抗争を繰り返した。 【ポーランド分割でロシア領に】、 しかし、リトアニアは次第にポーランドに同化し、1569年には単独のポーランド王国となった。ポーランド王国はシュラフタという貴族が力を持ち続け、選挙王制が続いたため、主権国家の形成が遅れ、17世紀にはロシアの圧力を受け始め、18世紀からはピョートル1世の下で絶対王政を確立したロシアの支配を受けるようになった。18世紀の末、ポーランド分割によって消滅し、リトアニアの大部分はロシア領に編入された。 【ロシア革命で独立】、 その間、ロシア文化が強制され、ロシア化が進んだが、1917年にロシア革命が勃発し、民族自決を掲げるレーニンの革命政権が民族自決権を保証したこともあって、急速に独立の気運が高まった。1918年3月にソヴィエト政権がドイツの間で締結した講和条約であるブレスト=リトフスク条約でも、ソヴィエト側はこの地域の領土を放棄した。 これをうけて、1918年中にリトアニアとラトヴィア独立、20年にはエストニアがそれぞれ民族自決権を掲げて独立した。 |
【ソ連、バルト3国を主権無視で勝手に併合】、
第二次世界大戦が勃発すると、ソ連は1940年に独立国であったバルト三国に侵攻し、強制的にソ連邦に編入。
1939年8月、ドイツのヒトラーとソ連のスターリンは、独ソ不可侵条約に調印した。それに付帯する秘密議定書には、ドイツとソ連によるポーランド分割とともに、バルト三国のソ連併合を認める条項があった。
同年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連はポーランドを東部から侵攻、さらに1940年6月、秘密議定書にもとづいてバルト三国に侵攻し、占領を完了、8月3日に併合を強行した。
バルト三国を併合したソ連は、三国それぞれに共産党を作り、ソ連邦を構成する共和国として、ソ連政府の直接的な支配に組み込んだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ▲▲先頭へ▲▲▲ {「日本版シンドラーのリスト」、ヒグチ(樋口李一郎少将)ルート創設の話}と 杉原千畝(ちうね)領事のユダヤ人への暖かい配慮の話、 ・・・より詳しくはここ(人類進化の「芯芽」を育てましょうのページ、現代史に輝く4つの人道行為事件)を観てください。 |
【バルト三国の独立】、
ソ連のペレストロイカ(建て直し)政策の中で独立の志向が強まり、1990〜91年に分離独立を宣言、ソ連解体の導因となった。
バルト三国といわれるエストニア、ラトヴィア、リトアニアは、1917年にロシア帝国が滅亡して以来、独立国となっていたが、第二次世界大戦が始まると1940年にソ連に併合された。独ソ戦が開始されると、一時ドイツに占領されたが、ソ連軍が解放し、1944年から再びソ連邦を構成する共和国として存続することとなった。その後ロシア人が多数移住し、ロシア語が強制されるなど、民族意識は押さえつけられていた。
1985年、ソ連にゴルバチョフ政権が成立、ペレストロイカの時代となり、新思考外交によって東欧諸国のソ連離れが始まると、バルト三国でも急速に自立の気運が起こってきた。
▲▲先頭へ▲▲ 【独ソ秘密協定の暴露】、 そのきっかけとなったのはペレストロイカ(建て直し)政策の中でゴルバチョフがグラスノスチを呼びかけ、「歴史の見直し」が行われた結果、ソ連は公式には認められていなかった1939年の独ソ不可侵条約に付属するモロトフ=リッベントロップ両外相間で締結された秘密議定書の存在が明らかにされたからであった。 この秘密協定によるソ連のバルト三国併合を違法なものであったとの認識が強まり、1989年8月には条約締結50年目の日に条約締結に対する抗議運動が起こった。その運動の組織として三国に人民戦線(リトアニアではサユーディス)が作られた。12月にはソ連の人民代議員大会はバルト三国の併合は非合法であったと認めたが、ゴルバチョフはあくまで自発的な加盟であったという立場に固執していた。 【独立宣言から独立の達成】、 1990年3月11日、まずリトアニアが独立を宣言したのに対し、親ソ派がソ連軍の介入を要請、91年1月ヴィリニュスの放送局を占拠した。しかし2月〜3月にエストニア、ラトビア、リトアニアでそれぞれ独立の是非を問う国民投票が行われ、いずれも70〜90%の賛成があった。1991年8月のソ連の保守派クーデターに呼応した保守派がソ連軍と結び政府機関を占拠するなどして流血の事態となったが、クーデター反対に立ち上がった市民によって退去させられ、8月20日にエストニアが、21日にラトヴィアがそれぞれ正式に独立を宣言した。 【バルトの「人間の絆」】、 1989年8月23日、独ソ不可侵条約の締結から50年目にあたるこの日、この条約の締結に抗議して、およそ100万から200万の人々が三国の首都タリン、リーガ、ヴィリニュスを「人間の絆」で結んだ。当時の三国の総人口が800万弱であったから、少なくとも共和国民の8人に1人がこれに参加したことになる。いや、ロシア語系の住民を除いて考えると、5〜6人に1人が参加した大規模な民衆の参加であった。この大デモンストレーションは映像や写真が世界中に流され、世界の目を引くことに成功した。そして12月にソ連人民代議員大会はバルト三国のソ連への「編入」は非合法であったと認定した。<志摩園子『物語バルト三国の歴史』2004 中公新書 p.213> 【NATO、EUへの加盟】、 その後バルト三国では、1994年までに旧ソ連軍(ロシア軍)が撤退、NATO、EUとの加盟交渉が始まり、2004年3月にNATOに加盟、5月にEUに加盟した。 註 : 文章の骨子は「世界史の窓」よりいただきました。 http://www.y-history.net/appendix/wh1501-090_3.html |
緒方貞子(おがた さだこ)の活躍
国連難民高等弁務官:1990(平成2)年-2000(平成12)年他を務める。2001年(平成13年)からアフガニスタン支援政府特別代表、2003年(平成15年)から国際協力機構(JICA)理事長。 東日本大震災(2011,含核事故)の際に、160を越える国から、40を越える国際機関から、温かい支援を受けた事の原因は...世界のために最前線に立って汗を流した日本人(=緒方貞子)がいたからである...と評されている、Wikipedia参照 |
日本は先進国の中で最も多額(130億ドル)ただし、お金だけ出した、、ドイツもお金だけ出したが「お金ではなく軍人を派遣して欲しい」との要求が多く聞かれた(特にアメリカは安全保障上の同盟国なので日本に対して「安保条約は宙に浮いた」と批判した)。 クウェートは戦後に「イラク侵略撃退感謝の碑」に 日本 の名を載せなかった(130億ドルは一部だけがクッウェートに渡ったため)。それほどに日本の国際的評価は低く、日本は国際的孤立状態に陥った。この反省が後日の「イラク特措法(国連平和維持活動(PKO)に参加するための臨時立法)」を産んだ。 |
独立国家共同体 (CIS)について ソビエト社会主義共和国連邦を構成していた15か国のうちバルト三国を除く12か国(発足当初は10か国)によって結成されたゆるやかな国家連合体(コモンウェルス)。当時の欧州共同体 (EC) 型の組織をモデルにしたが、独自の憲法や議会は持っていない。本部はベラルーシの首都ミンスクに置かれている。Wikipedia より |
テロ事件多発
★1992年、アルゼンチンで、イスラム過激派 ★1994年、パレスチナで、ユダヤ教過激派 ★1995年、フランスで、イスラム過激派 ★1996年、ペルーで、共産主義者が日本大使館占拠 ★1997年、エジプトで、イスラム過激派 ★1999年、ロシアで、チェチェン独立派 ★2001年、アメリカで同時多発テロ(貿易センタービルに旅客機衝突、国防相に旅客機衝突)イスラム アルカイダ派 死者は貿易センタービルだけで3000人 ★2002年、ロシアで、モスクワ劇場占拠事件、チェチェン独立派 ★2004年、ロシア ベスラン学校選挙事件、チェチェン独立派 ★2010年、ロシア モスクワ地下鉄爆破 チェチェン独立派 ★2015年、フランスデ、パリ同時多発テロ イスラム過激派 ★その他 多数 |
寸考ソ連邦崩壊の原因 |
一言で言えば「うぬぼれ(力によって世界を平定できると思う確信)」だと思います、うぬぼれの発生源は欧米に対する妬み(ねたみ、劣等感)だと思います |
経過を追えば下記の通りです |
1)、1978、ソ連、西欧諸国を標的に中距離核ミサイルSS20(前代未聞の強力核兵器)を衛星国(東欧諸国)に大量に配置、自国産原油の OPEC 連動高という経済力に物を言わせ、軍事的 に 欧米を抜き去る作戦を立てた。
2)、1979、欧米はソ連の核脅威に対し破壊力に劣る巡行核ミサイル(ジェットエンジン、水平飛行型、時代遅れ型)で対抗しようとした、ベトナム敗戦(1975)での民衆の厭戦気分や戦費支出後の財力不足のためアメリカは消極的だった。東西軍事バランスは崩れ、「核戦争の危機」がささやかれていた。 3)、1979、ソ連がアフガニスタン侵攻、アフガニスタンに傀儡政権を作る。ソ連の自信過剰が見え透いた事件、まるで、ソ連は欧米を軍事力で抜き去ったかのような自信にあふれていた。 4)、1980、モスクワオリンピックを欧米各国がボイコット。ソ連軍 によるアフガニスタン侵攻への抗議の意思表示だった。欧米はソ連の自信過剰への嫌悪を態度で示し、ソ連は「国威発揚」の機会を逃がした。オリンピックの文化力は完全に政治力・軍事力に負けた。 5)、1983、アメリカのレーガン大統領はソ連を名指しして「悪の帝国」と呼び、ソ連のものよりも性能の良い中距離核ミサイルを量産し対抗配置する必要性を主張した。 6)、1983、東西軍事バランスの均衡を保つべく、欧米もアメリカ製の強力な中距離核ミサイルを対抗配備した。これに対しソ連も多額の軍事費を計上しさらなる軍備拡張で応じ、軍事的優位を保とうとした。 7)、1985、レーガンは国内では減税で軍産複合体経済の活発化(レーガノミックス)を図り、国外では主要経済大国と合意の上でドル安政策を取り、宇宙から核ミサイルを撃ち落とす計画も公表(スターウオーズ計画)してソ連の軍拡に対抗した。 8)、1985、サウジアラビアが、OPEC 以外の国が次々と新原油井を開発、代替エネルギーを開発したことで原油の高値を維持できず、突然原油安へと舵を切った、原油価格は突然暴落した。ソ連の原油価格も暴落、兵器生産どころか兵士に給料も払えない経済の破産状態に落ち込んだ。 ▲▲先頭へ▲▲▲ 9)、1985、ソ連、最後の書記長ゴルバチョフは共産主義体制を保ったままでの経済改革(ペレストロイカ[建て直し]、グラスノスチ[情報公開])を掲げ、国家を「連邦」から「独立国家共同体」に改造して新しい共産主義体制を作ろうとした。これに対しエリツインは「共産主義の役割は終わった、これからは民主主義だ」と対立した。 10)、1986、ソ連、チェルノブイリ原発(核力発電所)事故、ソ連は欧米を抜き去るどころか欧米に助けを求めざるを得ない社会状況(無政府状態)に陥った。 11)、1989、ポーランドで「民主化有りの経済改革」の掛け声のもとに「自由選挙」が実施された、この波は「共産主義」から「民主主義」へと政治理念変換の波を東欧諸国(ソ連の衛星国)に波及させた。 12)、1990、バルト3国ソ連邦からの独立を宣言。 13)1991、12、25、ソ連邦崩壊、 |
私の得た教訓 : 「中距離核ミサイルSS20」で多くの他国を脅しながら世界を平定しようとしても、また運よくそれがかなったとしても必ず最後には失敗する。このような国には常に「対等の力」で力のバランスをとること(外交)を怠ってはならない、少しでも怠れば世界は破滅に向かいます。 また、人は誰でも急に「金持ち」になったとき、そのお金を何に使うでしょうか? 悩みますね。 ソ連邦は原油価格高騰で急に「金持ち」になったとき「領土を増やす事(アフガニスタン侵攻)」「最先端の中距離核兵器(SS20)」を大量に持つことに使いました。 さて、私がもし3億円の宝くじに当たったらどうしましょう、多分、原発(核力発電所)廃止という大義を掲げて、公共施設の屋根に出来る限り沢山の太陽光パネルを設置するために使うでしょう。 |
ここの画像は 「 世界史概観・上」 のクリミア戦争画像と部分的かつ相互的につながります |
旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(1993年5月25日〜2017年12月21日 オランダ・ハーグ)は
1)、ミロシェビッチ旧ユーゴスラビア大統領が2006年3月に逮捕され、「コソボ紛争(1998〜1999)でのアルバニア人住民に対するジェノサイド(集団殺害犯罪)の責任者として 「人道に対する罪」で起訴され収監、未判決のまま 2006年3月 獄中死した。この時の裁判の根拠は国際連合の安全保障理事会決議827(1993年5月) 2)、カラジッチ 元スルプスカ共和国大統領が2008年8月に逮捕され、セルビアで大量虐殺(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992〜1995)でのスレブレニツァの虐殺(1995年7月)は 「人道に対する罪」 であるとして、禁錮40年。この時の裁判の根拠も国際連合の安全保障理事会決議827(1993年5月) ★註 : 2019,3,22 上訴審により 終身刑 に決定(毎日新聞報道) 3)、ムラディッチ 元スルプスカ共和国軍参謀総長が2011年5月に逮捕され 、2017年11月に終身刑を言い渡された : ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992〜1995)で「首都サラエボを包囲し1万人以上虐殺、スレブレニツアでのイスラム教徒7000人以上を虐殺、これらが 「人道に対する罪」 とされた。 この時の裁判の根拠も国際連合の安全保障理事会決議827(1993年5月) 1)、2)、3)は wikipedia からの私の要約 ★寸考 民族紛争の本質は、狭い地域での民族間の 「非人道的陣取り合戦」で、本質は 「民族浄化(集団レイプ・強制混血)」 |
上図の宗教名については、ユダヤ起源の一神教図をもとに簡略に表記していますが正しくは次の通りです、
カトリック=西方教会・ローマ・カトリック、 正キョウ=東方教会・正教会、 イスラム=スンニ派またはシーア派イスラム教 これとても「その国での存在率の高い宗教」という意味です |
上図の民族名については、スラブ民族だけがはっきりしています、簡略に表記していますが正しくは次の通りです、
ミナミスラブ人=南スラブ人 これとても「その国での存在率の高い人種」という意味です、ハンガリーのマジャール人については、東方から来た人と地元民との混血人種のようです。人種がはっきりしない国については国名を人種名としました。 |
面積 | 人口 | 密度 人/平方キロメートル | |
日本 | 377,000 | 126,860,000 | 336 |
バルカン全体 | 767,000 | 71,559,000 | 93 |
ボスニア・ヘルツェゴビナ | 26,000 | 3,760,000 | 144 |
ここの文章は 世界史概観・上 のクリミア戦争関連解説部分と相互に且つ部分的につながります |
映画 ユーゴスラビア・ボスニア 紛争については 映画 「サラエヴォの銃声」が参考になります。この紛争はつぎの通りの根の深い問題です。 セルビア人がユーラシア大陸から南下して定着(大セルビア王国建国 1331)⇒ コソボの戦いでトルコに大敗(1389) ⇒ クリミア戦争(1850)でセルビア人の親元である ロシア帝国 が大敗 ⇒ サラエヴォ事件(1914,6) が WW1の引き金 ⇒、WW1(1918) と WW2(1945) でドイツに大敗、さらにその後 1984年 冬季オリンピックでオーストリア選手への競技妨害事件、などがあった後でのユーゴスラビア内戦なので問題性の根が深く映画 「サラエヴォの銃声」は問題理解の手助けをしてくれます。2017年現在の新たな問題はセルビア人の 聖地(コソボ)に多くのアルバニア人が住むようになりアルバニア人の国 コソボ として形式上は独立が宣言され国連が認めたことです。この独立を民族主義感情の強いセルビアが寛大な気持ちを持って承認してほしいと人々は願っています。 |
明石 康(あかし やすし)の国連での活躍
1979年、国連事務次長(広報担当、軍縮担当、人道問題担当)に就任。1992年には国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表に就任、カンボジア和平につとめた。Wikipedia |
朝鮮半島の平和化のために暗記すべき年号は
西暦2000年ですが和歴では平成12年です。 和歴 ⇔ 西暦 簡易換算方法についてはここに記しています、すなわち 88 を足したり引いたりして正解の見当を付けられます、 平成12年 は 西暦 2000年 (12+1988=2000) 西暦 2000年は平成12年 (2000-1988=12) ★註 : この握手と下記ノーベル賞は何の意味もなさなかった、キムジョンイルとその息子のキムジョンウン(金正恩)は先軍主義を加熱させ2019年現在ではアメリカまで届く弾道ミサイルを開発、核弾頭も10発くらい保有している言われている、朝鮮戦争(1950)の侵略国でありながら、国際社会に謝罪もせずにアメリカとの単独平和条約交渉を計画中 |
テロとの戦争という新概念発生年を記憶するために暗記すべき年号は2001年ですが和歴では平成13年で 上記で記した通り 88 を足したり引いたりすればよいのでやって見ましょう、 西暦 2001年は平成13年 (2001-1988=13) |
北大西洋条約機構 (NATO)はテロ攻撃に対して「集団的自衛権」を発動した。アメリカ政府によって、これまで数度に渡ってアメリカに対するテロを行ったウサーマ・ビン=ラーディンとアルカーイダに首謀者の嫌疑がかけられた。(テロリストの実行する戦力が集団的自衛権発動の対象であるか否かについては結論が出るまで議論されていない、NATOに入っていない国{ ロシア、中共国など }は参加していない)
アフガニスタンの9割を実効支配していたタリバン政権は、数度に渡る国連安保理決議によってビン=ラーディンとアルカーイダの引渡しを要求されていたが、拒否し続けており、今回も拒否した。(Wikipedia) より詳しくはここを見てください |
≪日本の果たした役割≫ ブッシュ(子)大統領がアメリカ1国でも実行すると感情的だったのを同盟国の日本が説得して国連に協力を求めさせた。結果は国連の協力は得られなかったが「有志連合」がイラク攻撃を行なうという方向付けが行なわれた、これは「アメリカの1国行動主義」をガマンさせた点で日本の国際的貢献である。 また、日本は憲法を柔軟に解釈して国連平和維持活動(PKO)をするために「イラク特措法」を臨時立法し、「非戦闘地域」で破壊された道路、通信、水、電気、ガス、学校などのインフラ関連施設の修復活動を実施、国際的に高く評価された。 |
≪戦争に反対した国、その理由≫ フランス、ドイツ、ロシア、理由は「核兵器製造存在確認調査が不十分」一説には「アメリカの中東石油利権独占にフランス、ロシアが対抗、両国はフセイン政権の石油利権とつながっていた」 |
1)、コソボ紛争での戦争犯罪を裁く 特別法廷 が開かれている
2)、英雄的に戦ったと思っていたアルバニア人の中から多くの戦争犯罪事例が上がっている 3)、この事を不満として、アルバニア議員43名は同法廷を廃止する法案を国会に提出した。これは欧米諸国を驚かせている 4)、コソボ解放軍がセルビア系の捕虜を虐殺し、臓器を取り出して密輸組織に売っていたという疑惑がもちあがっており (アルバニア系元大統領や元首相も疑われている)、おおむね裏付けられたとされている 5)、セルビア人の戦争犯罪の方が残酷で且つ多いはずなのにアルバニア人の名ばかりが上がるのは不公平であるとの不満がアルバニア国民に広がっている |
スマホとガラケーの違い
2008年までの携帯電話・ガラケー(フィーチャーフォン)はあくまで 電話 を母体として、写真等少々の機能を取り込んで発展しましたがパソコン機能は取り込めません、これに比し、スマホはコンピュ−ターが超小型化されたものでガラケーの機能を全てのみ込んでさらに発展しつつあります。 |
チュニジアで一人の若者が焼身自殺した。手押し車で雑貨を路上販売していたところを、警察官に「販売免許証を持っていない」事を理由に手押し車が奪われた、青年は役場に不当性を訴えたが相手にしてもらえず、絶望した若者はガソリンをかぶって火をつけて焼け死んだ、インターネットで知った民衆の怒りは政治革命に発展、後にアラブ世界に「アラブの春」という民主化運動が伝搬 |
露シリア空爆の記事と関連します。 註 : 、2017,10 首都ラッカ陥落、IS 戦闘員はイスラム教系統の社会に潜入すべく世界規模で拡散、クルド民族独立運動勢力がラッカを奪う、この地は平定されたわけではなくトルコがさらに影響力を強めてクルド独立を阻止する石油利権闘争が始まった。シリアも無秩序状態、 イスラム教世界分布図はここ |
WW2終結1945 内戦で蒋介石は負け台湾へ1949 | 「中華民国台湾政府」の首都は台北市に置かれる | 日本と台湾、日華平和条約1952 | 国連でアルバニア決議案が通り、台湾は国連から追放される、替って中華人民共和国が国連加盟、常任理事国も台湾と交代1971 | 日中共同声明(日華平和条約の破棄、日本は台湾と国交を断絶)1972 |
アメリカ・中華人民共和国、国交樹立、同時に(アメリカは台湾と国交を断絶)1979 | 中華人民共和国は台湾が自国の主権下に来ない事に抗議してしつこく1956年のメルボルン五輪以降連続5回もオリンピックに参加しない事をつづける | 「内戦終結」を台湾が宣言1991 | 中華人民共和国が「核心的利益」の領土問題点としているのは以下の5点です。
(1)、台湾問題 (2)、チベット独立運動問題 (3)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)独立運動問題 (4)、南シナ海問題(南海諸島) (5)、尖閣諸島問題 台湾問題を筆頭に挙げるほどに台湾に執着しています、2020年現在。 |
[後日註 2015,10,30 私の見解] : ロシアのメトロジェット社旅客機がエジプトからペテルビルグへと向かう途中(シナイ半島上空)で墜落し、乗客・乗員 224人(ほぼ全てロシア人)全員が死亡。 その後の調査で IS テロリストが機内で爆弾を爆発させたと判明、プーチンロシア大統領はエジプトを経由する旅客機へは乗らないよう国民に指示した(2015,11,08)。 ロシアの空爆への IS の復讐、シリア内戦はますます混迷を深めます。 プーチンの中途半端なシリア政府支援策としての遅まきながらの「空爆」は失敗でした。プーチンの方法は「力で反政府勢力を制圧する」ですがこれでは永遠に「報復の連鎖」が続きます、最終的には「核兵器」が使われるでしょうが「内戦の終息」には至りません。 この内戦の原因は WW1 でイギリス、フランス、ロシアが勝手にシリア地方に「国境線」を引いたこと、すなわち欧米先進諸国が中東地域を巻き込んでの戦争をした事にあります。解決には原因までさかのぼって話し合うことが必要でです、こういう事のために「国際連合」があるのですからそろそろ「国際連合事務局長」の内戦解決陣頭指揮が必要な時期が来ていると思います。 |
用語の確認、IPCC COP CCS |
【IPCC】とは、気候変動に関する政府間パネル(インターガバメンタル パネル オン クライメイト チェンジ)
【狭義のCOP】とは、気候変動枠組条約締約国会議(カンファレンス オブザ パーティーズ)、COP21 の様に番号を付けて使われる、COP1 は 1997年12月 に京都市で催され 「京都議定書」 が採択された。 【広義のCOP】とは、条約締約国会議(カンファレンス オブザ パーティーズ あらゆる種類それぞれの条約締約国会議) 【CCS】とは、CO2 を捕まえ(キャプチャー)、蓄える(ストレージ) の頭文字を連ねたもの。 Wikipedia コトバンク を参照 |
追跡記事,
2016,12 の現状 過激派組織「イスラム国(IS)」の力は衰退。ロシアの 「武力によるねじ伏せ」 が効果的だった。 ロシアはシリア内戦に全面的にかかわることで国際社会の関心をシリアに向けさせてきた、結果としてクリミア半島編入という侵略行為を2次的問題とした。 また、過激派組織「イスラム国(IS)」を含む反体制派を武力で駆逐し、 「テロに対しては、人権や民主主義以前に力の行使こそ有効」 であることを見せつけている。経済的には苦しいロシアだが政治・外交方面では存在感を大きくしている。2016,12,23 毎日新聞、金言、西川恵氏 を参照 |
約10年前から 下表 の通り「核兵器不使用論」 が論議されて来ました。
1)、2009年9月25日、記 非核兵器地帯増が平和招来論 2)、2009年10月27日、記 核兵器の無い世界を作る方法論 3)、2009年10月28日 核兵器廃絶の道筋論 4)、2009年12月13日、記 非核兵器地帯増加論 5)、2009年12月16日、記 国際賢人会議 |
寸考
▲▲先頭へ▲▲▲ 1)、 「北朝鮮の体制保障」 は収穫だった。もしこれが出来なかったら、国連による経済制裁強化のため、北朝鮮の政治経済は破綻し、貧民がロシアや中共国や日本に流入したことでしょう。 2)、しかし、北朝鮮が犯した過去の国際的侵略行為に対する 「反省と謝罪」 が無いことは 国際儀礼 に反する。 アメリカは1950年当時の国連軍統率者として北朝鮮を謝罪させて 現在の 「休戦状態を」 を終結させる必要があります。 3)、NHKで、ある大学の権威者が 金正恩 を 「アジアの若き指導者」 と評価していましたが、知識人も、政治家 も もはや 「朝鮮戦争での侵略国」 の国際責任は問わないようです。 4)、このままでは、北朝鮮の若き指導者は 「朝鮮戦争での侵略国であることの責任を取らないでもよい」 と受け取るでしょう、従って 「非核化」 は言うだけで実行はしないでしょう。 |
ただし、引き算で 0 が出た場合は前年号の純粋最終年とする
例 令和 0 年(2018-2018=0)は平成30年(2018-1988=30) |
引揚者(ひきあげしゃ)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争・大東亜戦争)の敗戦によって、台湾・朝鮮半島・南洋諸島などの外地や、日本から多数の入植者を送っていた満州(法律上は外国)、また内地ながらソ連侵攻によって実効支配権を失った南樺太などに移住(居住)していた日本人で、日本軍の敗北(降伏)に伴って日本本土に引き揚げすなわち帰国した海外在住日本人を指す[1]。「引揚者」の呼称は非戦闘員に対して用いられ、外地・外国に出征し、その後帰還した日本軍の軍人は「復員兵」「復員者」と呼ばれた。
敗戦時には軍人・民間人計660万人以上が海外に在住し、引揚げした(軍人・民間人)日本人は1946年末までに500万人にのぼったが、残留日本人の数や実態については現在も不明である[2]。 Wikipedia より。 なお、海外から引き揚げた軍人・軍属は310万人、民間人は318万人であるとする統計もある(東京新聞)http://WW2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html 。 |
渡辺えり(劇作家・女優)が毎日新聞人生相談2020,1,14で次の通り語っています 「私の母が父に言われたことで一生忘れられない言葉が三つくらいあり、何かある度に母に聞かされました。母が私を身ごもった時、単身赴任中の父に電話をかけました。喜んでくれると思った父の開口一番が 『おろしてくれ』 でした。母は傷つき泣きました。その時のことを何度も聞きました。30歳を過ぎて父に真意を聞いたのです。 『戦時中殺されていく人をしょっちゅう見て、焼け野原に立って感じた。人は何のために生まれてくるのか? 生きていても苦しいだけではないか。悩みは尽きない。生まれてくる命をきちんと育てる力は自分にはない』 父はそう思ったのだという。」 |
【日本主要災害一覧表、年代順】
関東大震災、1923,9、M7.9、死者 10.5万人 福井地震、1948,6、M7.1、死者 3769人 阪神淡路大震災、1995,1、M7.3、死者 6434人 東日本大震災、2011,3、M9.0、死者 2万人 福一原発事故、2011,3、レベル7 死者 4300人超 (児玉龍彦 東大教授の推定死者数) |
1980年代後半開始、1990年代初頭崩壊した、バブル経済崩壊の最大の原因は、原発(核力発電所)安全神話を土台としたエネルギーの自給自足神話(電力千年王国神話、電気エネルギーはいくら使っても良いから豊かになろうという神話)です、すなわち、 日本の科学技術力があれば プルトニウム増殖型発電原型炉”もんじゅ”を成功させ、将来日本はエネルギー自給国となると言う神話 です。
1957年の「森瀧・ラッセル 対談」の「悪い心」への注意喚起は生かされませんでした。 次の原因は、「狭い日本での 土地 の価値は永遠に不変である」と言う土地の価値不変神話です。この二つの神話の下に、1970年、関西電力美浜原発(核力発電所)1号炉から日本万博への試送電(1万kw)が成功しました。 |
これ以後毎年1基の核力発電所が日本全国の海岸沿い無人地帯に出力が平均で100万kwのものが建設され続け(それまでは黒部ダムの水力34万kwが最大出力でした)、高度経済成長を支えたのです。「経済発展」のみを重視したため、「使い捨てという不道徳による日本列島ゴミ捨て場化」とともに「みなまた病、いたいいたい病」を筆頭に公害病が各地で発生、都市周辺の空気は汚れ「四日市ぜんそく」「川崎病」も起きた。経済は活況を呈したが「バブル経済」であり真の豊かさを反映した活況では無く「資産への投機」を背景とした活況(好景気)だった。Wikipedia より引用
。 「日本は狭いので 土地 の 絶対価値(本来の価値) は永遠に一定であると言う信仰が存在した。土地を担保としての売り買いでいくら儲けても経済は破綻しないと言う信仰があった。個人は土地を買っては転売して儲け(「土地転がし成り金」と言われた)、製造業者は実業をほったらかして(韓国・中国の急激な台頭で儲からなくなっていた)金融に走った、空疎な 神話 を元にした投機合戦は経済的な活気を産みいつまでも続くと人々は信じていたが気が付いた時(1995年ごろ)には各地の銀行には決済の出来ない 不良債権の山 が出来ていた、先ず 兵庫銀行が倒産し、以後銀行倒産の連鎖反応が起き、1998年頃には銀行倒産は終了したが
2005年からは 保険会社 の保険金不払い事件や保険料過徴収問題も表面化した、2015年に至るも「経済の活気」は来ず、人々は ▲▲先頭へ▲▲ 「本当の豊かさ」とは何かを「哲学」するようになった、この現象は日本だけのものでは無く、全世界を覆っている(森本の覚え書き)。 |
ブル経済崩壊の最大の原因>【陶芸作家作品のバブル例】
ある時、陶芸作家 A さんは、その作品に高い値段が付くようになった。ある客(Bさん)が将来の作品高騰を予測して予約者の3倍の値段(200万円)で無理やりその作品を購入した、銀行から150万円を「芸術品購入」の名目で借りていた(銀行は担保を軽んじていくらでも貸した、経済のバブル現象)。景気が冷え込んだ頃、Bさんはその作品を売って中古車を買おうとした、しかし、その作品は5万円でしか売れず、中古車は買えず、商売が出来なくなり、銀行から借りた150万円も返せなくなって(バブル崩壊現象)路上生活者となった。貸した銀行もその150万円を「不良債権」として抱える事となった、1980年代後〜1990年代初頭に、土地、株、金、宝石、絵画、焼き物、等あらゆる もの が「ものの絶対価値(本来の価値)」を遥かに上回った 価格 で取引された、人々は「カネは儲かるが、これはどこかおかしい」と感じながらも「やめられず」不良債権を抱えて銀行が倒産の連鎖反応を起こしてやっと人々は 正気 に戻った(森本の覚え書き)。 |
日米軍事協定略史
1945年(昭20年)敗戦 (アメリカが占領) 日本各地に核兵器がある状態 1951 (26) (旧安保)サンフランシスコ平和条約 日本の主権回復 アメリカ軍は 「日本占領」⇒「日本駐留」 へ、 1960 (35) (60年改定安保)日米新安保条約 「日本駐留」 ⇒ 「共同防衛」へ、核兵器は沖縄基地にだけある状態 60年に改定された 1970 (45) (10年自動延長安保、2017年現在に至る)、 1971 (46) (沖縄返還) 核兵器は沖縄からも出て行った (日本列島地上配備核兵器は無くなった)。 |
日本の学生運動を正確に 「実録」 と銘打って作成された映画 「実録 連合赤軍 浅間山荘への道程」 はこの時代を知るための貴重な映画です |
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E6%99%AF%E6%B0%97 バブル景気 Wikipedia 1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月[1]までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象 |
バブル経済開始と崩壊、1980年代後半開始、1990年代初頭崩壊、バブル経済とその崩壊の解説、Kotobanku より引用 |
バブル‐けいざい【バブル経済】 資産価格が、投機によって実体経済から大幅にかけ離れて上昇する経済状況(住む為に土地を買うのでは無く「儲けるために」土地を買い、儲かるとさらに高価な土地を買う、土地の価格は実体経済から大幅にかけ離れて上昇する)。多くの場合、信用膨張を伴う。価格の高騰が投機の誘因となる間、バブル経済は持続するが、ファンダメンタルズから想定される適正水準を大幅に上回るため、金融引き締めなどをきっかけに市場価格が下落しはじめると、投機熱は急速に冷め、需給のバランスが崩れ、資産価格は急落する(バブルの崩壊)。名称は、泡(バブル)のように膨張し、あるきっかけで破裂するところから。 [補説]日本では特に、1980年代後半から始まり1990年代初頭に崩壊した、資産価額の高騰による好況期を指す。 |
日本は戦費のみを負担(130億ドル)する形でこの戦争に参加したが「お金ではなく軍人を派遣して欲しい」との要求が多く聞かれた(特にアメリカは安全保障上の同盟国なので日本に対して「安保条約は宙に浮いた」と批判した)。 クウェートは戦後に「イラク侵略撃退感謝の碑」に 日本 の名を載せなかった。それほどに日本の国際的評価は低く、国際的孤立状態に陥った。この反省が後日の「イラク特措法(国連PKO平和維持法に根拠を置くその時だけ有効な法律)」を産んだ。 |
カンボジア内戦(1970-1993)では、1974年頃から4年間にわたってポルポト派(クメール・ルージュ)というグループが毛沢東の文化大革命を真似て国内を掌握し、共産主義の名の下に大虐殺が行われた。知識階級を処刑した上で、反対派とみなされるとすぐに処刑された。総人口800万人の内ほぼ全ての知識階級及び反対派が250万人殺された。
内戦終結後、死者の数を回復するかのように沢山の出産があり、国中に子供があふれるほどにいる状態が危険な環境のまま放置されていました。日本初(1992年)の陸上自衛隊PKO活動はこの国の立て直しに活躍しました。当時のカンボジアはポル・ポト派がうようよいて国中はめちゃくちゃ、国軍を維持するどころか政権維持すら危うい状態でした。この状況下で、地雷・不発弾等の除去作業で道路を作り、選挙を実施させ、教育制度の構築 学校施設復旧等を行ないました。 当時の事を振り返って、600人を率いた施設大隊長補佐の高山良二さんは、2015,7,14 毎日新聞の「安保法制を考える」蘭で 「攻撃を受けた場合、同じ持ち場にいたフランス国連平和維持軍に助けてもらわねばならなかった。一方、フランス側が攻撃を受けても、こちらから助けに行く事は出来ない。民間NGOを警護する事も出来ない。そのような片務的な関係は現実を直視しておらず、世界の常識からもかけ離れていると感じた」 と述べています |
「我が国が中国国民に対し多大な苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」
中華人民共和国人民にも日本国民にも同情の気持ちを深く表明されている。 |
「あれだけ大きな惨禍をもたらした日本の責任は十分謙虚に反省する必要がある。その反省を踏まえ、どうすればもっと信頼される国になり得るかかも真剣に考える必要がある」 |
★註 : 寸考 この大災害がほぼ完全に復旧したと見なされたのは2019年10月です、なんと 24年 もの時間をかけて人命への惜別と建造物等の破壊・火災消失からの復旧がほぼ完全(毎日新聞 2019,10)に復旧したのです。もしもこの事故が原子力災害 (「原発事故(核力発電所事故)」や「他国からの核弾頭落下・爆発」災害) と重なっていたとしたらどうなっていただろうか と想像するのが 福一事故 以後の現代日本人の常識ですが日本に住むということは賢くかつ強力な自己防衛力(自分で自分を守る力)を養い育てる必要があると思います |
「日本における らい の歴史」 註 : この病気の国際名は 「ハンセン病」 1907年、らい予防法(旧法)制定。 1953年、らい予防法(新法)制定。 ▲▲先頭へ▲▲ 1995年、4月、らい予防法(新法)の廃止。 2007年の統計では、世界におけるハンセン病の新規患者総数は年間約25万人である。一方、近年の日本国内の新規患者数は年間で 0〜1人 に抑制され、現在では稀な疾病となっている、Wikipedia。 ハンセン病治療薬プロミン開発の世界史本流位置づけはここです。 |
そのまま放置すれば、日本に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等、日本周辺の地域における日本の平和及び安全に重要な影響を与える事態(「周辺事態」)に対応して日本が実施する措置、その実施の手続その他の必要な事項を定め、日米安保条約の効果的な運用に寄与し、日本の平和及び安全の確保に資することを目的としている。(Wikipedia) |
[2000(12)年をまたいで激しさを増し、益々過激化している少年非行(「倫風随想 上廣栄治著」より、)学級崩壊の低年齢化、成人式の無法地帯化、援助交際という名の高校生少女売春、家庭内暴力の凶悪化、「親も教師も、落ち着きのない、集中力の無い、我慢できない子供たちを正す事を放棄してしまった・・・・」「成人式で、・・・会場全体で私語・・・、携帯電話で話す・・・、会場を立ち歩く、会場に出入り自由・・・講演者は激怒した・・・」]、 |
私の憲法論、【武装】と【矛盾】 、9条は「解釈」で前文は「全面改正」で!! |
9条についての基本認識
1)、1947年5月3日に施行、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」、この時の「政府解釈」は「自衛戦争も放棄」 2)、1954年、「自衛隊保有法」成立、この時の「政府解釈」は「自衛隊は戦力に当たらない(自衛戦争は可能)」、背景には、南北朝鮮国際戦争や韓国による日本漁船襲撃死亡続出事件(竹島不法占拠)、があった。「政府の解釈」によって憲法9条は180度変わることを国民も許している。 |
私の解釈1、人間のために理想的憲法が考えられたのであり、理想的憲法のために人間があるのではありません、人間が生存する上で生命に危険を感じた時は危険を排除するための生まれれながらの権利(自衛権)があります、危険とは悪意を持つ人間や人間を食料とする野生動物です。
私の解釈2、自衛権 は「具体的な形なわち【武装】と言う形」を伴う。 ▲▲先頭へ▲▲▲ 私の解釈3、自衛隊が行う「諸訓練」は「殺人の技能向上」を目的としたものではありません、個人の水準に例えるならばその訓練は「護身術の技能向上」を目指しています、戦前の軍隊には「空軍」はありませんでした、しかし世界が侵略性を帯びる事態に対応して日本も「空軍」を設置し、今ではスクランブル発進などで最も目立つ訓練をしていますがあくまでも「護身術の技能の優秀さを相手に誇示する事」を目指してスクランブル発進(年間約200回)をするのであり領空侵入機を撃ち落とすための発進ではありません。 |
【武装】の経過は次のとおりです
警察予備隊 ⇒ 自衛隊 。 自衛隊の行動は限りなく「戦場」に近づいています、次の通りに、朝鮮戦争下アメリカ軍への協力としての機雷撤去作業 ⇒ 国連平和維持活動(PKO)、イラク戦争後方支援、アフガン戦争後方給油活動 ⇒ ホルムズ海峡での海賊征圧(石油確保と言う国益保持のため)⇒そして、今回の論議 : 一般的集団的自衛 (要注意点) : 国益のために集団的自衛 を行なえば「集団で国益を守る=特定国の国益を守る⇒特定国と共に侵略戦争をする」となります。集団的自衛も可 と解釈を拡大する場合は国益とは無関係の「自衛」でなければなりません。ホルムズ海峡で2009年に始まり2015年現在も継続中の海賊征圧行為は国益のための「自衛」なので実は既に「政府解釈」の限界を越えているのです、ホルムズ海峡で日本のタンカーを海賊から守りたい場合は「警察部隊」を派遣すべきです、海上保安庁の艦船を戦艦並みに強力化して派遣し直すべきです。 「警察部隊の使命」=敵対者を逮捕して社会秩序を維持する事 「軍隊の使命」=敵対者を殺す事 「世界益」のための「集団的自衛(例えば PKO)」である事が「解釈」拡大の限界線だと思います。 |
【武装】は憲法前文に矛盾します、この【矛盾】は「解釈」では乗り越えられませんので前文は変えねばなりません
【矛盾】とは、 前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分との 矛盾 です。日本は 政府解釈の柔軟性 で見て来たように 武装して各地で行動してきました、行動の動機は「悪意に立ち向かう」事ですが、前文の精神は「悪意は無いと信じています」ですから矛盾が起きるのです。 矛盾 を無くす為には、前文を簡素に「我々は平和のための外交を行ない国際社会に貢献する」 と変えるのが良いと思います、人間はナイチンゲールの博愛・自己犠牲という「限りなく深い善」と、その正反対の、アウシュビッツ大虐殺等で見る通りの「底しれぬ悪」をあわせ持つのです。 詳しくはここに述べました。 |
1997年から1998年にかけ、製造業が金融で儲ける傾向が顕著となり金融危機の様相を呈した、原因は韓国・中国の製造業の実力(低品質でもとにかく低価格)の予想外の早さで向上したため、日本の製造業は金融で儲けようとしたこと。また、世界の金融体制がソ連の崩壊によって「金融自由化」現象が起き、自由な取引による儲けが製造による儲けを上回った為。「お金」が「富」を対価せず「お金」が一人歩きした為ついには「お金」が「印刷された紙切れ」となり、金融決済が不可能となった(バブル経済の崩壊)。バブル経済の崩壊後各銀行は「不良債権」を抱え政府も支えきれなくなった |
1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次いだ。
とりわけ、アジア通貨危機とも重なった1997年から1998年にかけ、北海道拓殖銀行(拓銀)、日本長期信用銀行(長銀)、日本債券信用銀行(日債銀)、山一證券、三洋証券など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産し、事態は金融危機の様相を呈した。 >2005年頃からは保険会社による保険金不払い事件や保険料過徴収問題なども表面化することになった。 2001年3月には再び実質的にゼロ金利政策に戻らざるを得なくなった。同時により金融緩和的な量的金融緩和政策の導入を余儀なくされた。 2015年現在でも、バブル経済崩壊の影響は地球を覆い尽くし、もはや右肩上がりの「経済成長」は望む事が出来ない状況下にある、 一時(2008年頃)中華人民共和国が北京オリンピックを踏み台にして右肩上がりの経済成長を見せたが2015年現在では新しい型のバブル経済化が起きつつありマンションが10年で10倍に値上がりし、 バブルが何時はじけるか分からない不安定な状況下で PM2.5(大気汚染)等の環境汚染問題を克服できず、 EUの経済優等国であるドイツもUE内で頼られ過ぎによる共倒れを警戒している。Wikipedia より引用 |
自衛隊法改正案 | 重要影響事態法案 | 武力攻撃事態法改正案 |
1)、グレーゾーンでの米韓などの防護 2)、平時に警戒監視中の米軍などに燃料や弾薬を提供 3)、在外日本人の救助 | 1)、日本に重要な影響を与えると政府が判断すれば、地理的制約なく戦争中の米軍など他国軍を後方支援 2)、朝鮮半島有事以外でも、中東やインド洋、南シナ海などでも実施可能 | 1)、日本の存立が脅かされる明白な危険があると政府が判断すれば、日本が攻撃されていなくても集団的自衛権を行使 2)、ミサイル警戒中の米艦や邦人輸送中の米艦の防護、ホルムズ海峡での機雷掃海 |
PKO協力法改正案 | 国際平和支援法案 | その他の改正法案 |
1)、国連主導でない国際協力にも派遣 2)、治安維持まで任務を拡大 3)、武器使用基準を緩和 |
1)、国際社会の平和と安全を確保するため、戦争中の他国軍を後方支援 2)、弾薬の提供や空中給油機での戦闘機への給油も可能 |
船舶検査活動法、国家安全保障会議(NSC)設置法、米軍行動関連措置法、特定公共施設利用法、海上輸送規制法、捕虜取扱い法 |
ドイツ:59回、フランス:27回、カナダ:19回、イタリア:16回、アメリカ:6回、 日本:0回 |
(1年後報道、毎日新聞 余禄 等)
1)、2日後に余震としては想定外のM7.3が起きた、この後、地震発生のエリアが熊本阿蘇地方から大分方面へ拡大、余震が絶え間なくしつこく続いた。 2)、熊本城も崩れた、500年間強の間崩れた事のない熊本城の石垣や屋根が崩れた 3)、「車中泊」という避難形態が新規に現れた、 4)、「車中泊」は連絡が取りにくい上にエコノミー症候群(ジャンボ旅客機で狭い座席で長時間飛ぶ時に足に血栓ができ脳血管が詰まる病気)にかかる人が多く出た。 5)、「阿蘇山大爆発」は無かった。 6)、避難 なお 4万8千人。 |
具体的被害(毎日新聞報道より)
【15号被害】・・・送配電設備など 東電 特損 118億円 【19号被害】・・・1)、北陸新幹線損失118億円 浸水で全96両廃車の場合、 2)、農林水産被害1223億円 38都府県集計 さらに拡大へ、 3)、浸水5000棟の長野市 仮置き場遠く 災害ゴミ 畑に公園に 処理には2年超かかる見込み 4)、福島・ 茨木・栃木の9浄水場が浸水想定区域内であったにもかかわらず冠水し、地域は断水状態となった、防水扉が未設置だったため。防水扉が未だ設置されていない浄水場は全国で578ヵ所もある 【20号・21号被害】・・・上記2つの被災地を再び襲った |
年,月 | 名称 | 死者・行方不明 | 浸水面積 | 被害家屋(棟)数 |
1958,9 | 狩野川台風 | 1269人 | 8.5万ヘクタール | 53万棟 |
1959,9 | 伊勢湾台風 | 5098人 | 3.0万ヘクタール | 51万棟 |
2018,7 | 西日本豪雨 | 238人 | 1.8万ヘクタール | 5万棟 |
2019,10 | 19号・21号台風 | 108人 | 2.5万ヘクタール | 10万棟 |
現地・現状報告集(2013〜)、地図上の位置はここで確かめて下さい | |||||
<ASEAN一般文化> 「新聞記事の内容は政府見解に近い」事になじんでいるのでは日本の「報道の自由」は理解してもらいにくい ------------------ <ASEAN+3>中華人民共和国の海洋覇権欲の無礼の推移 ------------------ ★シナ海概略図、中国本土概略図 ★ジョンソン南礁(満潮時水没の岩を元に人口島を建設中) ★スカボロー礁で2カ月間ニラミ合う ★ミスチーフ環礁を建造物で占拠 ★アメリカ、軍事基地をフィリピンに返還 ------------------ ★南沙に新しい軍用滑走路と軍用港湾施設、満潮時水没岩礁に建設中が発覚、衛星写真、ファイアリ-・クロス礁(永暑礁) ★ベトナムと中共国が係争中の ウッディー(永興島)島に軍用機も発着可能な滑走路が完成した事件 ★ベトナムのEEZ内での海底油田掘削事件 | ★、<ASEAN>対中華人民共和国措置(推移) 2018,10 中共国とASEANは初の海上合同演習(海難救助)、アメリカをけん制 1)、2014 中共国の基本的態度 2)、中共国の交渉姿勢 3)、中共国の問題解決努力 4)、中共国へのASEANメンバー国の団結 | 【ベトナム】、日本の木材をベトナムに輸出の可能性 【ベトナム】、隣国でも違う中国の見方、AIIBの真の狙いは「中国人の輸出」「中華街」を世界各地に作り世界を操縦する戦略と見ている 【ベトナム】、ベトナム社会と賄賂、賄賂が社会発展の障害となっている 【ベトナム】、ベトナムには「平和のインフラ」が先ず必要 【ベトナム】、靖国参拝はアジアでは理解されても欧米では反発を招く 【ベトナム】、ベトナム人の中国観を参考にして日本も中華人民共和国を研究すべし 【ベトナム】、ベトナムの人々は向上心に燃えている、平和国家日本から学ぶ姿勢が強い 【マレーシア】、一人当たり国民総所得はASEAN 10ヶ国中で第3位、ブミプトラ政策、しかし曲がり角に来ている 【カンボジア・ベトナム】、日本のひらがな、の文字としての優秀性 | 【カンボジア】、「ODAで復活した 「日本カンボジア友好橋」ポルポト内戦で破壊された橋の無償再建で喜ばれる日本 【ミャンマー】、「ミャンマー人の気質は日本人のそれと似ている 【ミャンマー】、「ミャンマーの政治顧問スーチー氏の来日を歓迎する」ミャンマー国の親日度が WW2 戦前以上に高まっている 【カンボジア】【ベトナム】、富裕層が確実に増えている、労働人口が増えているのが要因、減っている日本とは共存共栄を図ることが必要 【カンボジア】【ベトナム】、将来を見据えられない若者たち 【カンボジア】、カンボジアの人材育成熱、日本との関係が深まり、教育熱高まる 【ミャンマー】、「食べ物に毛虫!!」とのネット書き込みで、書き込んだ人が批難される社会 【ミャンマー】、日本の好感度はこうして上がった | 【フィリピン】、フィリピン新大統領ドゥルテ氏は「仲裁裁定完勝」を軽視し、「対中対決姿勢」⇒「対中対話姿勢」を打ち出した、麻薬犯罪撲滅のために、かなり過激な政策を取り市民の支持を勝ち取った彼の「過激政治」が東南アジア秩序を壊す恐れがあります
【フィリピン】、過去の日本人の貢献のおかげで将来東南アジアの人々と連携して栄える事が可能 |
中東地域の今(2014〜)、 「政治」が無力となり、敵対する国は相手が死に絶えるまで 殺し合う様相を呈している | ||||
イスラエルとガザ(パレスチナの飛び地)、イスラエルがガザの地下通路破壊を目指した空爆を、ガザはイスラエル市街地へのミサイイル攻撃を、果てしなく続けている | シリア内戦、 世界中の無法者(アルカイダ系等)が吸い寄せられるように終結し 互いを殺し合う事が激化しつつある |
スエズ動乱は フランス核武装を生み、EU を生み出した(米ソへの対抗) ★、米ソの圧倒的な力の前に英仏が自分たちの無力を悟り、ヨーロッパ連合に向けて歩みだすきっかけとなった。 ★、エジプトがスエズ運河を国有化、利権を持つ英仏が激怒、イスラエルと一緒にスエズを奪回しようとした。 ★、しかし、米ソはこれに反対、ソ連は「ロンドンに核ミサイルを打ち込む」と脅す。 ★、英仏はスエズを放棄、イスラエルも英仏に従う。 ★、英はアメリカに接近し冷戦時代を乗り切る。 ★、仏は「核兵器開発に走る(ド・ゴール大統領、1960 核実験成功、米に頼った英を憎む)、以後核大国を目指し、原発大国となり冷戦時代を乗り切る。 ★、西独のアデナウアー首相はフランスを説得、「ヨーロッパは結束してこそ米ソに対抗できる、独仏が 中核 になろう」と。 ★、 EU が出来始める。(1973年、イギリスは 仏のド・ゴール 引退後 EC の段階で加盟) |
まとめ : スエズ運河国有化宣言の世界史的意味 : イギリス衰退現象
1)、概要 イギリスがインドなどアジア支配の拠点としていたがエジプトの実力向上のため、徐々に衰退して行った。 ▲▲先頭へ▲▲ スエズ運河は 1869年(明治2年)に完成した地中海と紅海を結ぶ運河(地球改造事業)。フランス人レセップスがエジプト王から開削権を認められ開通させた。しかし運河会社は経営難に陥り、1875年にイギリスに売却され、それ以降はイギリスがインドなどアジア支配に利用した。第二次世界大戦後、エジプトの民族主義が強まり、ナセル大統領が1956年に国有化を宣言、スエズ戦争が起こる。その結果エジプトの国有化が認められ、イギリスは運河以東の植民地への支配力を衰退させ、現在(2019年)に至る。 2)、ナセル大統領の国有化宣言 第二次世界大戦後、1952年にナセルによって指導されたエジプト革命が勃発、エジプト王国とワフド党政権は倒れ、1953年にはようやくイギリス軍はスエズ運河地帯から撤兵した。しかし依然としてイギリス資本によるスエズ運河会社の運営は続いていた。1956年、ナセル大統領はアスワン=ハイダムの建設を開始したが、アメリカの建設資金融資拒否を受け止め、ダム建設資金をスエズ通行料金から得ることを理由としてスエズ運河国有化宣言を行った。 3)、アスワン・ハイダム建設目的 ひとことで言うと、農業の近代化(ナイル川の氾濫防止、灌漑用水の監理、砂漠の緑化、電力確保) (ロウ・ダム[下流に存在]だけでは電力等が不足)。 4)、アスワン=ハイダム工事財源 ソ連の援助でスタートしたが、後日アメリカも援助を申し出た。ナーセルは自国の重大事業を大国の援助に頼らず自力で行なう決心を固め、財源を運河通行料から生み出すべく、スエズ運河国有化を宣言した(1956年)、 5)、イギリスの衰退 1968年にイギリスは 「スエズ以東からの撤兵」 を声明、これは アデン、マレーシア、シンガポールの旧イギリス領からの撤兵(アジア支配の終わり)を意味している。 ★註 : イギリスの衰退は続き、1984年には 香港(中国) からも追い出されている(文化大革命後の混乱を暴力で乗り越えた ケ小平 は「鉄の女と言われた」サッチャー英首相を 「武力行使も、給水停止も実施する」) と脅してイギリスを香港から追い出した。 |
★、名称の変動は ECSC(1952,ヨーロッパ石炭鉄鉱共同体) ⇒ EURATOM(1958,ヨーロッパ原子力共同体) ⇒ EEC(1958,ヨーロッパ経済共同体) ⇒ EC(1967,ヨーロッパ共同体) ⇒ EU(1993,マーストリヒト条約発効、欧州連合または、ヨーロッパ連合) ⇒ 単一通過・ユーロ 誕生(1999、ただし、イギリスは不参加)。 ★、 初心は「我々は普仏戦争(1870)以降戦争ばかりしてきた」との、フランスとドイツ(西) の反省 ★、ECの第一次拡大(1973)でイギリスが加盟 ★、経済だけの統合では不十分との反省から EU(ヨーロッパ連合が誕生、1992年) ★、イギリス(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国)が EU 離脱の意思表明(2016年) ★森本註1 : イギリスは 2016年 に離脱意思を表明したが、2019年4月になっても離脱は実現していない、理由は、国内意思不統一とEU側の消極性、しかし、2019年12月にはイギリス議会もEU離脱を承認した。ただし、北アイルランド自治政府はアイルランドとの国境線にが未確定の部分があるため離脱を保留している、イギリス(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国)の本音は、世界中に領地が散在し、EUに加わらなくても経済的にはやっていける、チュニジアのジャスミン革命に発する北アフリカ民主化革命の混乱(シリアにまで伝搬しシリアでロシアが加わったため泥沼化)による難民流入への対処が煩わしいのです。 ★森本註2 : アイルランドはEU離脱を表明していない。 |
2016年の EU 現状 加盟国数 ; 28ヵ国、 人口 : 5億人 加盟候補国 : アイスランド、セルビア、トルコ、マケドニア、モンテネグロ ノルウェーが加入しない理由 : 豊富な漁業資源(北大西洋暖流)、豊富な石油資源(北海 油田) スイスが加盟しない理由 : 長年にわたる金融システム(スイス銀行)観光資源、精密機械技術、化学薬品、等の産業保護の必要。国民の賃金水準は高く、貯蓄額も日本並、なので EU に入れば他国支援のため生活水準を低める。 |
EUの実質的 首都 はベルギーのブリュッセル、ベルギーはゲルマン系民族とラテン系民族が混在し、相互に良い刺激を与えあって発展してきたので「知恵者が多い」と言われている NATOの本部もブリュッセルにある。 |
東学党の乱の原因 |
1)「支配階級(両班)」の堕落を批判する新しい知識人(宗教家・東学党)が生活困窮中の農民の不満を道都全州規模で取りまとめた。 2)、日本との日朝修好条規(江華島条約1876年)が最も警戒された。日本の明治維新政府(1868〜)は西郷の征韓論は退けたが富国強兵政策を進めていたためいつ侵略されるか分からないと言う漠然とした不安におびえていた。 3)、他の先進国民国家達も何の資源も無い朝鮮半島を「中国大陸市場への軍事上の要衝」としての価値に目を付ける国が多かったので外国からの侵略への警戒心が半島規模で高まっていた。、 4)、李氏朝鮮王朝は反乱軍を鎮圧出来ないほどに弱体化していた。 |
日ロ戦争開戦直前の朝鮮半島国状は、進歩会 と 李氏朝鮮支配層 が対立していました。
進歩会は旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと日韓併合でロシアの南進を阻もうと、日本の鉄道敷設に5万人を派遣してまで日本に協力した。 李氏朝鮮支配層である国王(高宗)や両班(リャンパン)は旧体制を維持しようとロシアに密使を送り、その密使は日本軍に捕まり国王(高宗)や両班(リャンパン)は大韓帝国としての日本との条約(第一次日韓協約)違反を犯したのです。 (日本はこれ以降朝鮮半島国を信用しなくなっていきました、森本の覚え書き)。 |
金日成は 「米軍は介入してこない」と言う甘い見通しをスターリンに話し、それならやってみよとの会話があったと言われている。そもそも、北朝鮮軍はソ連製の戦車で38度線を突破してきたのですから、ソ連が深く関わった戦争。 しかし、表向きは、一切ソ連軍の姿は見えませんでした。こっそり北朝鮮軍になりすまし、戦争協力しています。その事が明るみに出ると米ソの正面衝突となるから。北朝鮮軍には航空戦力はありませんでした。しかし、米軍の大型爆撃機を迎撃するために、ミグ15ジェット戦闘機が迎撃に来ました。ただし、絶対に捕虜にならないために、北朝鮮軍の陣地上空に限定されていました。 |
1965年6月、日韓基本条約締結時の 朴正煕 韓国大統領の談話、毎日新聞記事より |
「日本は『許す事のできない敵』だが、必要とあればきのうの敵とも手を握るのが賢明なありかたはないか」 |
現地・現状報告集(2013〜) | ||||
◆中国から徹退する日本企業、工業区が「鬼城(ゴーストタウン)化」[尖閣] ◆保守派VS改革派の権力闘争(親子2代に亘る系図) [尖閣] | ◆日本のソフトパワーを見直そう、日本に来た中国人のほとんどは、日本を好きになって帰る[人類進化の『芯芽』] ◆日本の技術力を高めれ高めるほど中国は日本を必要とする[人類進化の『芯芽』] | ◆中華人民共和国の移民が世界各国から嫌われています[情報源] ◆中華人民共和国人民のワイロ、街角報告 [尖閣] |
蛮行(野蛮・無教養)国、中華人民共和国への対応策(2014〜) | ||||
▲▲先頭へ▲▲▲ オフショアコントロール方法 海岸戦・領空境界戦では無く、海岸から遠く離れた海峡、マラッカ海峡(スマトラ島-マラヤ連邦)、スンダ海峡(スマトラ島-ジャワ島)、ロンボク海峡(ロンボク島のジャワ島寄り海境)、オーストラリアの南北のルート(バス海峡、トレス海峡)を閉ざすことによって、中国への海上輸送を遮断するという構想。被害国が会議を持ってこの構想を話し合うだけでも蛮行(野蛮・無教養)国への透明性ある抑止力となる、世界の2大海峡(スエズ、パナマ)での海上輸送遮断は実行しやすい。櫻井よしこ氏より、2014,8,5 フジテレビ20:00-22:00 プライムニュースで聴取、 | この国への私の提案 : 内陸の緑地化、 私の提案のより詳しい内容はここに記しました 中国大陸地方内陸部の緑化事業で世界を指導する方向で「大国化」してほしい。古代中国地方大陸内陸部は緑豊かな地方でした、青銅器・鉄器・陶磁器の大量生産のための燃料として木材を短時間で大量に伐採したために多くの地域が「砂漠化」しました。 現代中国政権が行なうべき事は「内陸部緑化事業」です。この事業を確立し、緑化技術を世界に売り出せば「尊敬される大国」となる事が出来ます。 現在のやり方は「100年前に流行した大鑑巨砲主義的野蛮」であり、「世界からものを奪う」暴力主義なので世界から嫌われます、今や、中国現政権を好む国は朝鮮半島国だけでしょう。 |
劉少奇の失敗の後、中華人民共和国が豊かになるには「香港を見習う」ほかはありませんでした。
「香港島」とその周辺はイギリスの植民地で工業にも商業にも活気があり隣接する田舎町の深センは共産主義体制にありながら活気がありました、 ▲▲先頭へ▲▲▲ 理由は、1949年の共産党政権(中華人民共和国)誕生を嫌って多くの優秀な人材がこの地域に流入し、香港島の事業者(商工業・金融・観光)の下請け労働で潤っていたのです。 深センの活気に目を付けていたのがケ小平でした。彼はこの後に起きる「文化大革命」のウソ(「第2段階の共産革命」というウソ、実態は毛沢東の権力固執闘争)を見抜いて居ました。彼が希望を託していたのは「資本主義の要素」を取り入れた経済改革でした。 1977年に文化大革命が終わるとケ小平は深センを「経済開発特区(経済は 深セン に学べ!!!)」とし「改革開放政策」を国家方針と定め活発に且つ強引にこの政策を進めました。中国人民はやっと貧しさから脱却出来るようにはなりましたが最大の課題である「議会制民主主義」は実現しないままずるずると2015年現在に至っています。 |
紅衛兵とは
1966年5月に文化大革命が発動した直後、幹部子女の中高生を中心に結成された政治運動組織。同年8月、毛沢東が支持を表明し、全国に拡大した |
「造反有理」とは
反逆には道理があるという意味 |
下放とは
1968年、幹部子女に反発する勢力が別組織を作った、両勢力は激しく争い多くの死者が 出た。毛沢東は争いを鎮静化させるため若者達を農村で再教育する運動を起こした、主に幹部子女の勢力を構成する紅衛兵が下放された |
寸考文化大革命は世界に連鎖反応的破壊をもたらした |
72歳に達し、思考の柔軟性を欠いていた毛沢東は「真の共産主義実現」の妄想にかられました。彼の人生最後の権力闘争の破壊力はすさまじく強い力を持ち、「真の共産主義実現」に行き詰まっていた中国の「文化」を破壊し尽くしました、そして「真の共産主義実現」の宣伝力の影響は世界に及びました、例えばアルバニア案による国連決議(1971、中華民国の国連追放、その後、自国はネズミ講国家化)、カンボジア内戦(1970-1993)、です。日本の過激な学生運動(1970,赤軍派、世界初ハイジャック事件)にも及びました。
「文化大革命」は人類史上まれにみる「現代政治の狂気」の一つでした。人類に何の収穫ももたらさず発生地の中国では2016年の現在に至るも「共産党一党独裁」政治体制のままかつての「朝貢国家」の覇権を夢見ています(南沙諸島の国際法違反の岩礁埋め立て)。 |
<2016年5月19日記、文革50年の中国、朝日新聞、北京・河津啓介記者、NO.1-NO.8>※※※※※※※※※2016(28),5,19 文革50年の中国、新聞記事 はここにありましたが、現在はここにあります ※※※※※※※※※ *検索文言一覧表はここ (私なりの要約) 1)、1966年、73歳の毛沢東は過激な行動をとる「紅衛兵」の代表から「紅衛兵腕章」を付けてもらっている。 2)、それほどまでに「紅衛兵」は国家の政治現象の極端さを象徴していた。 3)、その後、都市部の紅衛兵達の暴力行為は歯止めを失っていく。持て余した毛沢東は農村移住運動「下放」へと若者たちを向かわせる。文化大革命中、約1600万人もの都市の知識青年が、農村移住運動「下放」に参加し、青春を奪われた。 「下放」は「紅衛兵運動」と並ぶ文化大革命悲劇の一つだ。 4)、農村での若者たちの苦労は大変なものだった、下放された若い女性の強制結婚は一つの例に過ぎない。 5)、共産党政権は都市へと「紅衛兵」運動が帰還してくることを前もって予防した、すでに50年代から. 農村に戸籍を持つ青年はいくら優秀でも都市に移住できない制度が定着させられた。都市で学び、卒業した農村出身者が一度故郷に帰ると一生を辺境の故郷に縛り付けられ、この制度は社会の不平等性を助長した。 |
[1982年9月12日 - 1987年1月16日]、胡耀邦、初代中国共産党中央委員会総書記、
1989年4月、胡耀邦は死去、これを契機に一気に民主化運動が高まった。
[1987年1月16日 - 1987年11月2日]、趙紫陽、初代を代行、中国共産党中央委員会総書記、解任された後2005年に亡くなるまで軟禁生活を余儀なくされた。 |
江沢民は次の順序で要職に就いた
中国共産党中央委員会総書記1989年6月24日 - 2002年11月15日 中国共産党中央軍事委員会主席1989年11月9日- 2004年9月19日 中華人民共和国中央軍事委員会主席1990年3月19日 - 2005年3月8日 ▲▲先頭へ▲▲▲ 中華人民共和国主席1993年3月27日-(1997年 ケ小平亡 )- 2003年3月15日 (註 : )最重要職である党中央軍事委員会主席(人民解放軍総司令官)の地位譲渡は人物の器を5ヶ月間見極めてから行なわれています、そして、ケ小平の後見は江沢民の退任の5年前まで長きにわたり(8年間)続いています。これは、江沢民の指導者としての実力に問題があった事を意味し、ケ小平は文化大革命後しばらく続いた日中友好ムード後の民衆の不平不満の矛先を外へと向かわせるために「愛国・反日」と言う王道では無い安易な統治方法を教えたものと思います。 ケ小平は愛情を持って手厚く育てた直属の部下よりも経歴に暗さを持つ理科系の新参者を選び背後で操ったのだと思います。 日本は江沢民の「愛国・反日」と言う平凡な政治のために長期間(20年間、{2013-1989=24≒20} )国益を失いました。 |
江沢民の経歴
理科系(電子工業)人材、 実父は日本軍に協力した人物で、「漢奸(カンガン)の息子」としての劣等感を抱き、政治を避けつつ成人したと思われる、 上海市で市長に抜擢された後中央政界で 中間派の立場を保つ、ケ小平が第二次天安門事件を「動乱」と論評する動きに素早く反応し、その変わり身の早さがケ小平によって高く評価され、趙紫陽の後継者に指名された。 |
胡耀邦が進めようとしていた日本との友好関係増進政策(1983年日本訪問)は 5年間(1987-1982=5)続いただけで突然消滅したのです。
ケ小平と江沢民の「愛国・反日」政策は日本のみならず国際社会とも20年間もの間全く協調しておらず(特に台湾政権と)、ただ単に「国内政治安定」のみを図るものでした。20年間に及ぶ「政治の無作為」のほぼ全ての責任はケ小平と江沢民にあり胡錦濤(〜2013)にも少しあります。
この期間に日中両国の被った精神的損害は計り知れません。江沢民は退任後も胡錦濤(〜2013)政治に影の実力者として影響を及ぼし続けました。 2015年現在は「皇帝」の雰囲気を漂わせる習近平(2013〜)に威圧され怯え(おびえ)ているとうわさされています。 |
私は直感的に習近平には現在のところ、苦労人(文化大革命での下放経験)、国際感覚(アメリカでの生活経験)、 自信(ナンバー2の地位にいた周永康を収賄罪で無期懲役・不控訴、2015,6,12 とした)の理由で近年には例を見ない「政治の王道」を行く政治的大人物との期待を寄せていました、しかし、2018からは終身国家主席となったので、暗殺が心配されています。 |
ケ小平の 人治 について、表面上は 「法治」 実体は 「人治」 という政治現象は続くと思われます。
国際社会から 天安門事件がケ小平の人治(個人独裁)の結果である との批判を乗り越えるために、政治組織をより複雑に改造した、その影響は現在にもおよび、今後の「全人代(全国人民代表大会) 」で更なる改造が報告される可能性があります。2017年現在(毎日新聞、木語 10,12 の記事を参照)では次の通りの組織となっている。 1)、中華人民共和国共産党中央委員会総書記・・・・任期は無い 2)、 同 中央軍事委員会主席・・・・任期は無い 3)、中華人民共和国主席 (国家主席)・・・・任期は2期10年と憲法で規定 ■、任期は無いという点に 「人治」 が現れている、 さらに ケ小平 の場合は、1989年に公職(総書記)から退いて表面的には引退したものの、影響力を未だ維持していたケ小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、 深セン や 上海 などを視察し、南巡講話 を発表した。 経済発展の重要性を主張するのみならず、ソビエト連邦の解体などを例にとり 「経済改革は和平演変による共産党支配体制の崩壊につながる」 と主張する党内保守派に対して、これを厳しく批判した。 政界引退(1989,6 総書記の座を江沢民に渡す)後も 1997年2月19日(92歳没)まで 「影の実力者」 として中国政治に影響力を及ぼし続けた。Wikipedia より部分引用。 |
盧溝橋事件77年記念式典での 中華人民共和国の習近平国家主席 の言葉、毎日新聞より |
「侵略の歴史に対する否定や歪曲(わいきょく)を中国人民は決して許さない」註 : 盧溝橋事当時、中国大陸地方を代表していた政府は「中華民国」であり中国共産党(後の中華人民共和国)では有りません、歴史のスジを通すのならば中華民国(現台湾政府)を招待しての式典でなければなりません |
付記、日本国憲法前文における日本語文法上のまちがいについて |
「に」は間違い、「を」が正しい |
1)、「私はあなた『に』信頼して金を貸します」 「平和を愛する諸国民の公正と信義『に』信頼して・・・・」 2)、「私はあなた『を』信頼して金を貸します」 「平和を愛する諸国民の公正と信義『を』信頼して・・・・」 ・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・ー・−・−・−・−・−・−・−・−・− ▲▲先頭へ▲▲▲ 2)、が正しいのです あなたは「に」と「を」の使い方のまちがいに気が付いていますか? (このことは 石原慎太郎氏〔芥川賞作家〕が指摘しています) |
昭和25(1950) | 令和2(2020) | 令和32(2050) | ||
日本 | 84.115×1000人≒8400万人 | 124.000×1000人=12400万人 | 97.06×1000人≒9700万人 | |
世界 | 2.532×100万人≒25億人 | 7.657×100万人≒77億人 | 9.306×100万人≒93億人 |