玄関へ

★4、千島問題(北方領土問題、ロシア問題の象徴として)

ページの末尾へ
森の中の航海者 寸考 

北方4島強奪図解 親欧米派の見解 千島列島の軍事基地化計画 巨大空間と感覚麻痺 偏った自信 占守島(シュムシュトウ)自衛戦 ロシアの本音 まるで社会全体が秘密情報機関 葛根廟虐殺事件 ブッゾル海峡 北方領土に関する4つの見解 高速増殖炉 BN800(ロシア版「もんじゅ」) に固執 、内乱による国家崩壊の予想 最近の歴史感覚麻痺例 過去の歴史感覚麻痺例   最近の暗殺例  過去の暗殺例 北海道を半分欲した 北方領土の条約史 日本共産党の見解(1875年に全千島が日本領と確定されている)
先ずは北方4島から次に北方領土問題へ
ロシア通史検索文言表はここです
ロシアの主体民族であるスラブ人の分布
★、850ノルマン人はなぜ故郷を捨てたのか」   から  「★、1904日ロ戦争 をクリックすれば」    までの検索表はここにあります
この表で・・・[江東六十四屯] 措置の推移と追記 1回目2回目3回目4回目5回目

2012年9月〜本日現在


お願い : リンク機能が1回では機能しない場合があります、その場合には完全に機能するまでリンク元文字列をクリックしなおし て下さい

【冒頭画像とその説明】
この画像群は、下記サイトの記事に触発された発想を私なりに可視化したものです。
livedoor ニュース先見創意の会 2015年11月10日 09:36 http://blogos.com/article/143725/
genjou
オホーツク海は、水中発射型核ミサイル搭載原潜が ひそむ  ことが出来る唯一の聖域。ロシアはこの海域に誰も触れさせたくない。ソ連崩壊後の国力の弱体化は回復不可能なまでにひどいと言われています。通常兵器では絶対的に NATO には勝てないので、軍事的要衝であるクリミア半島を奪い、次にはバルト3国を奪おうとしています、通常兵器での戦力を少しでも向上させようと必死なのだと思います。プーチン氏は

「ロシアは大国なのだ、必要を認めれば核兵器を使う」
と公言しましたが、

本心は、弱体化してゆくロシアの現状をみて焦っているのです。「軍事力」と「混乱便乗窃盗力(WW2直後の日本国とバルト3国等)」で「大国」を維持した時代はもう2度と返らないので「核兵器を使用するぞ」と脅していると理解しています。
オホーツク海は、 水中発射型核ミサイル搭載原潜 にとっては願ってもない場所です、地政学上こんなに適した海域はここだけと言っても言い過ぎではありません。この海域での発射演習をしているようですし、他の海域では、シリア内戦という機会を利用して、いかに優れた「水中発射力」を保持しているかを誇示しました(201512,10 地中海のロシア潜水艦からシリアに向けて正確に巡航ミサイルを発射)
したがって、日本が北方4島返還の正当性をいくら主張しても聞く耳は持たないのです。今はその時期ではないのです。

dai3jiWW


この先、WW3 が起きて、核全面戦争になった場合、強いアメリカと対等に交渉するには 水中発射型核ミサイル搭載原潜 で「ワシントンを狙うぞ!!」と脅して休戦交渉に持ち込むことが出来ます。その理由は、その次の図で見る通りです。

muryokuka




「ワシントンを狙うぞ!!」との脅しに対処するために、アメリカは迎撃ミサイルを開発していますが100%命中させる事は無理で、左図で見る通りワシントンへ向けて打ち出された核弾頭ミサイルの内いくつかは手傷を追いながらもワシントンに着弾するかもしれません、だから、ロシアの脅しは効果的なのです。

▲▲先頭へ▲▲▲
無力化秘術


しかし、アメリカは、ワシントンへ向かって発射された弾道ミサイルの、主要部品の無力化によって100%防ぐ方法を研究中であり、軍事技術開発・輸出が禁止されている日本でもこの研究ならば堂々と科学技術力を提供して、アメリカに大いに協力すべきです。相手を痛めつけて滅ぼす技術ではありませんので堂々とこの「軍事技術開発」に参加することが出来るのです。 弾道ミサイル主要部品の無力化技術とは レーザー光関連技術のようです。

従来、「科学」を先導してきたのは「『核』関連科学」すなわち「大量破壊」の方向でまっしぐらに突き進んできました。北方4島がなぜ返還されないかを深く考えた場合、「『核』関連科学」に行き着きます。なぜなら、「大量破壊力を持つ核弾頭ミサイルの潜水艦発射威力」を保持しさえすればいざ戦争となった場合に悪くして「共倒れ」うまくいった場合は、この破壊力を「休戦カード」として使えるからです。

heiwajoutai科学技術の主流が 核科学 ⇒ 光線科学 へと移行し、弾道ミサイル主要部品の無力化技術 が劇的に進化するならば、大量破壊兵器としての核兵器は「残骸」となり果てます。そう、もはや核兵器は使おうとしても使えなくなります。もちろん、水中発射型核ミサイル搭載原潜 の存在意味そのものが消滅し、オホーツク海からは原潜は居なくなり、平和な海に戻ります。この時期にロシアと平和条約を結び、過去の条約に照らして千島列島全部を日本が得る事も可能となります。

▲▲ページ先頭へ▲▲▲

北方4島、検索主要文言はここにまとめました 
北方4島強奪図解はここ 4つの見解(1)、(2)、(3)、(4)、及び4島の歴史はここ ロシアの本音
、ゴルバチョフ、エリツイン等ロシアの有識者の北方4島見解はここ  、巨大空間が作る人間性(歴史感覚麻痺、偏った自信
英国立公文書館で古海図が見つかった、北方4島は日本領「世界標準」だった
、千島列島に新軍事基地設立か
、ウクライナ侵攻(2014)は民兵ではなくロシア正規軍
、最近の感覚麻痺
 
、最近の暗殺
、まるで社会全体が秘密情報機関
 
、葛根廟虐殺事件  、占守島自衛激戦  
、ソ連の北海道分割計画
、「シベリア抑留」の場所

、「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」 
、北海道庁の見解
、北方4島の歴史
、日本共産党の見解
 
・私の見解
、ブッゾル海峡
、シュワルナゼ元ソ連外相の個人見解 
、カツ君の千島問題解決案 

千島列島
▲▲先頭へ▲▲▲
【書き出し】
最近(2014〜)のクリミア併合の強引で巧みな(民兵使用)方法を見ていると、北方4島を「占拠実績」を理由に取られる可能性がますます高まりました。

中共国との「日中共同声明 1972」「平和友好条約 1978」の効力を見ると、極端な友好ムード(高倉健氏の映画などの大流行など)が20年後のある日突然嫌日ムードへと変わりました、条約の効力はたったの20年強しか続きませんでした、中共国民の文化水準低劣自覚が中共国政府批判へと向かうことの恐れがそうさせたのであって日本に原因があったのではありませんでした。

ロシアとは「日ソ共同宣言 1956」で早ばやと「外交関係」は結ばれているのですから、ロシアのような「理解困難な(見方によっては中共国よりも困難)国」とは「友好」よりも「普通」を望むべきであり、あえて「平和友好条約」を結ぶ必要はありません。
理由を問われた場合、中共国との例を挙げて説明すればよいと思います。「日ソ共同宣言 1956」による「外交関係樹立」での最初の成果は「シベリア抑留者の帰還」で、これは大きな成果でした。
今後は「外交」による「大成果」は望まず、例えば経済相互協力関係の促進などごく「普通」の成果を求めるのが良いと思います。
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
「平和友好条約」については「未締結」の理由を「石碑」等で残し、「平和友好条約」締結は子孫たちに任せるのが良いと思います。

その見通しを【冒頭画像とその説明】で示します。

島名の詳しい解説はここ

北方4島とは
 「国後 、クナシリ」 「択捉、エトロフ」 「歯舞群島 、ハボマイグントウ」 「色丹、シコタン」
 


日ロ史を踏まえた北海道庁の日ロ国境線見解はここ

1945年(昭和20年)4月5日、ソ連のモロトフ外相は、佐藤駐ソ大使に対し、1941年(昭和16年)4月25日に日ソ両国で批准した「日ソ中立条約」の不延長を通告してきました。(条約は一方の締結国の破棄通告後1年間は有効と規定されている、この事をソ連は一方的に無視して日本に侵攻を開始した。)
以下の画像は 北方領土対策協会 http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%AF%BE%E7%AD%96%E5%8D%94%E4%BC%9A&ei=UTF-8&fr=jword-ab  より頂きました。同協会ホームページからの抄録はこれです。


1946年(昭和21年)2月2日、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」を発し、北方四島を自国領に編入してしまいました。


<ソ連の北海道分割占領計画を阻止出来た理由 [北海道の半分を欲していた] 北海道分割計画阻止
▲▲先頭へ▲▲▲
画像は SBクリエイティブOneline ソ連に北海道占領をあきらめさせた占守島の自衛戦(占守島の鮭缶詰工場に働きに来ていた400名の女学生を含む2000名の従業員の根室への帰還のための戦い)よりいただきました http://online.sbcr.jp/2015/07/004084_3.html


ソ連軍が北海道占領を諦めざるを得なかったのは、第91師団が占守島で自衛の戦闘(上図) をしたことでタイムラグ(時間差)ができ、この間に米軍が態勢を整えることができた。トルーマン大統領は日本の本土はすべてアメリカの占領下に置くとし、それに応えてマッカーサーがソ連の要求を撥ねつけた。そのため8月22日、ソ連は北海道占領計画を撤回したのである。

その一方でスターリンは、8月28日には部隊を樺太から択捉(えとろふ)に派遣して占領。9月1日には国後(くなしり)と色丹(しこたん)島に上陸。9月2日には歯舞(はぼまい)諸島攻略作戦が発動され、9月5日、無血占領に成功。これにより全千島を占領することとなった。

(終戦時史実)
1945年8月6日,ヒロシマ原爆、1945年8月9日午前0時,ソ連が日本に宣戦布告、1945年8月9日,ナガサキ原爆、1945年8月14日,日本はポツダム宣言を受諾し降伏する旨を連合国側に通告、 1945年8月15日 12:00 日本の天皇が国内外に「終戦の詔勅(玉音放送)」、1945年9月2日,ミズーリ号上で降伏文書調印式。

▲▲ページ先頭へ▲▲▲

[2012年9月22日]、記、日ロ国境線は、ブッゾル海峡(北得撫水道、キタウルップスイドウ(シムシルとチリホイの間))とするのが理想的解決方法

ブッゾル海峡(北得撫水道)
2010年10月10日のNHKテレビ「日本列島 奇跡の大自然」によれば、

中国とロシアの境界を流れてきたアムール川からの水はオホーツク海に流れ込み、その水が凍って出来た流氷は海水中に解込みながら 「鉄分を含む栄養豊かな冷水海流」 を生じ、その海流は海面下400メートルの深さを保って千島列島にぶつかる。

行き場を失った冷水海流は 2000メートル もの深さを持つ ブッゾル海峡(北得撫水道) を通って太平洋へと流れ出る、
この海流が温まると 植物プランクトン → 動物プランクトン → 魚介類 → 大型動物 を次々と育む。

三陸(岩手県)沖漁場や金華山(宮城県)沖漁場などが好漁場である原因はブッゾル海峡(北得撫水道)を通ってアム−ル川由来の鉄分を含む栄養豊かな冷水海流が来る事にあるとの事です。

■、北方領土に関する4つの見解
(1)【北海道庁の 見解】、2015年12月12日現在
日魯通好条約(1855)、樺太千島交換条約(1875)、ポーツマス条約(1905)、サン・フランシスコ平和条約(1951)
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/hrt/hp/histo.htm#torikime
北方領土の歴史(北海道総務部北方領土対策本部)より。

歴史、北方4島交渉の経過と現状 
経過(1945-1991) ソ連時代(1945-1991)日本の多くの漁船員が銃撃で殺され、多くの船が奪われた
■、1946年、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」を発し、北方四島を自国領に編入。
■、1956年、日ソ共同宣言、 10月19日に「日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言」が署名(同年12月12日発効)され、日ソ間に国交が回復しました(ソ連に抑留され強制労働させられていた人々を日本に返した)。  

この共同宣言第9項では、「両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」と規定されています。
 
現状(1991-2015) 未解決のまま、ロシアの論拠は「WW2の結果を日本は受け入れるべきである」。2014にはロシア首相(メドベージェフ)が2回エトロフ島を訪問、国後・エトロフ の港湾、道路、エネルギー、空港、学校等社会生活インフラ及びエトロフ島の軍事施設の拡充工事が進行中 

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲


(2)【日本共産党の見解】
Wikipedia は次のとおり、日本共産党の考え方を紹介しておます、
千島問題解決策
樺太千島交換条約(1875年)は平和裏に締約された領土交渉であり、

千島列島全体の返還

を主張する論が存在しており、とくに日本の国会に議席を持っている政党の中で日本共産党はこの樺太・千島交換条約を根拠にして得撫島以北を含めた全千島の返還をソビエト連邦および現在のロシア連邦に要求している。Wikipedia より。

現実に、2012年9月10日 の「赤旗・号外」では、ここに掲載した記事の通り、

「全千島変換交渉を進めるべきである」

としています。

千島問題(北方領土問題)解決はまだまだ先になりそうです。しかし、ソ連時代のように漁民が銃撃されることは無くなりましたので希望の芽は有ると思います。


(3)【私の見解1】

「ブッゾル海峡」(上図参照) 

を日ロの国境と定めるのが天然の理(ことわり)にかなったことだと思います。

既述のNHK放映を見れば「水の流れは」「ブッゾル海峡」を通過する事が分かります。 

従来人類は 「海峡」 をもって領土の境界としてきました、「海峡」はいろいろな意味で重要なので管理責任は双方が負うという知恵が成立しているのです。この意味で日ロ国境線はブッゾル海峡(北得撫水道)とするのが理想的であり千島列島における日本国の領土にはウルップ島(得撫島)も チリホイ島(知理保以島)も入ることとなります。

領土交渉が進まない場合は「『ブッゾル海峡』 をもって領土の境界」とするという天然自然の理(ことわり)を解決策として提案してはどうでしょうか? 


(3)【私の見解2】
白紙の状態から「戦争終結日」や「日ソ間の領土境界線」を決めるべきだと思います。 WW2終結(1945/8/15)直後に、旧ソ連軍の北海道分割・北部強奪計画があり、それを阻止したのはマッカーサー(GHQ最高司令官)でした。阻止されたと知るや直ちに北方4島を強奪しました。
北海道北部強奪計画
▲▲先頭へ▲▲▲
経緯は次の通りです。

旧ソ連軍は一気に北海道まで進軍し、北海道の北部を領有する目的で千島列島南下計画を実行しました。しかし、列島最北端の占守島(シュムシュトウ)駐留日本軍の自衛戦闘によってはなはだしく時間を浪費し(8/18未明〜8/21)、その間に日本占領体制を立て直したマッカーサーはソ連の北海道上陸拒否をソ連に通告しました(8/22)。

日本固有領土との境界 [得撫島(ウルップトウ)] まで来た(8/31)旧ソ連軍は、サハリン方面軍も参加させ、北方4島を一気に強奪しました。日本軍はソ連軍に対しはっきりと「降伏の意思表示(8/21)」をしているのですから、この行為は明らかに「国際法違反」です。

日本軍敗戦直後の秩序維持のための一時的「占拠」はやむをえないとしても、戦後の外交樹立(日ソ共同宣言 1956)時には直ちに日本へと返すべきでした。

当時のソ連は「降伏文書調印式 9/2 」をもって「日本軍降伏日」であるとしていますが、この日( 9/2 )のソ連軍は歯舞群島の占拠を中断することなく進軍中でした、したがって 天皇の終戦放送日(8/15)は日本軍の降伏日ではなく 9/2 が降伏日であるとする従来の論理は自己矛盾に陥ります。私は対ソ連「戦争終結日」は 占守島 での「降伏の意思表示日(8/21)」がふさわしいと思います。

したがって、8/21 を「戦争終結日」とすることを無視したのですから、その後の「日ソ共同宣言日 1956」の外には 日ソ の「戦争終結日」や「日ソ間の領土境界線」を決める日は無かったのですが、1956年のその日(日ソ共同宣言日)は「シベリア抑留者帰還交渉」が重点事項となってしまったのです、なので、今後は、白紙の状態から「戦争終結日」や「日ソ間の領土境界線」を決め直すべきだと思います。


[2012年10月27日]、記、千島問題(北方領土問題)について、「カツくんの領土問題解決講座」に感動しました、下記に全文複写で紹介します
カツくんの領土問題解決講座
http://up2.cache.kouploader.jp/koups2422.txt    

『領土問題』  北方領土−ロシア現実的解決方法(紹介)
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

北方領土というのは第二次世界大戦の時に、旧ソ連に攻め込まれて奪われてしまった四つの島の総称で、形式的には、ロシアと戦争をやって負けて奪われた領土だと考えておけばいい。

実は、ロシアとの間には、すでに「日ソ共同宣言」という約束ができている。どういう約束かというと、「将来、日本とロシアの間に平和条約を締結したら、北方四島のうちの二島を日本に返還する」という内容なんだ。

一度した約束はきちんと守らなければならない。だから、この平和条約を締結して、まず二島を返してもらう。 冷戦時代の旧ソ連は、日米安保条約を破棄しなければ平和条約の締結はできないと主張していたのだけれど、すでに冷戦は終わりロシアとアメリカは良好な関係になっている。そしてそもそも最初の日ソ共同宣言に日米安保条約の破棄という条件は入っていないのだから、今さら日米安保条約の破棄なんて話が出てくることはないはずなので、これはもう気にしなくていい。

そしてね、ここからがポイント、平和条約の中に「将来、北方領土が不要になった時に、残りの二島を日本に売却する」という一文を入れてもらうんだ。

もちろん現在のロシアは北方領土を日本に売る気なんか全くないし、不要になった時という条件なんだから、もしも不要にならなければ永遠に売る必要もない。だからロシアにとっては、こういう一文を入れることに何の損もないんだ。むしろ、こういう一文を入れておけば、それだけで日本から文句を言われなくなるという得まである。

でも、それじゃあ北方領土は永遠に返ってこないじゃないかと思うかもしれないんだけど、実は、国際情勢というのは変化するもので、ロシアの国内情勢も変化していくものなんだ。だから、いつか、「北方領土を自国の領土にしておくよりも、日本に売ってしまったほうが得だ」という判断が発生するタイミングが、必ず来る。 その時に、きちんと交渉をして、北方領土を買い戻せばいいんだ。

その時が実際にいつ来るのかは誰にもわからない。もしかしたら百年後とか二百年後とかそういう未来の話かもしれない。 でも、平和条約が締結されて、二島が返還されて、その平和条約の中に、将来、残りの二島も返還するということが明記された時点で、もう北方領土は返還されたも同然なんだ。現在という目先の利益ではなく、未来の日本の利益を見すえて判断すれば、これでもう領土問題は解決したと考えていいんだよ。
▲▲先頭へ▲▲▲

一つ、重要なことがあって、日本では「北方領土返還」ってずっと言ってるから、そのまま「返還」っていう日本語を使っていてかまわないと思うんだけど、実際には、返還じゃなくて「譲渡」なんだ

どういうことかというと、北方領土は日本の領土ではなく、一度ロシアの領土だと認めた上で、そのロシアの領土である北方領土が、再び日本の領土に戻る、という考え方なんだ。

現在の状態っていうのはね、
日「北方領土は日本の領土だ。早く返せ」
露「北方領土はロシアの領土だ。誰が返すか、ばかやろう」

と、こんな感じになってるの。これじゃ永遠に返ってこないよね。
ところがね、これが、

日「北方領土をロシアの領土だと認めるから、平和条約を締結して日ロ友好を深めよう」
露「北方領土をロシアの領土だと認めるなら、あとで売ってやってもいいぞ」


と、こういう話になるの。
売ってもらっちゃおうよ、買っちゃおうよ
実際には、最初の二島はタダでくれると言っている。もちろんそれだと日本だけが得をしてロシアが損をすることになってしまう。必ず両方の国が得をするようにしなければいけないわけだから、現実には、ロシアに対する何らかの経済協力というような形で、日本がそれなりのお金を出すことになる。これなら日本は二島がもらえて得をするし、ロシアもお金がもらえて両方とも得をすることになる。
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

いかなる時代のいかなる国家にも固有の領土なんてものは存在しない。北方領土は日本の固有の領土なんかじゃない。 最初は四島とも日本の領土だった北方領土は、一度、四島ともロシアの領土になって、その後、二島は日本の領土で二島はロシアの領土になって、最後にまた四島とも日本の領土になる。国境線っていうのは、時代時代によって、こういうふうにいくらでも変わっていくものなんだよ。

あとは、きちんとロシアとの友好関係を維持しながら、その日が来るのを、のんびりと待っていればいいだけ。日本のほうから、残りの二島はいつ返してもらえるのかとか、よけいな催促する必要は全くない。時が来れば、ロシアのほうから、 「北方領土売ってやるから、さっさと引き取ってくれ」 って、言ってくるから、大丈夫。

今の我々にできるのは、ここまで。 あとは、未来の日本の子孫に受け取ってもらおう!

ねっ? 簡単に解決しちゃったでしょ? 実はこの北方領土問題にはね、領土問題を解決するために必要な三つのポイントがすべて含まれているという、極上のテキストになっているんだ。これについては(三つのポイントについては)、

じゃあ、正解書いちゃうよ。
「両方の国が得をする新しい約束を作る」
「一度した約束はきちんと守る」
「現在ではなく未来を想定した約束を作る」

両方の国が高い知性を持って交渉をすれば、このたった三つのポイントを押さえるだけで、基本的にすべての領土問題は解決できちゃうんだよ。

じゃあ、実際の領土問題に当てはめて、おさらいをしてみるよ。
北方領土の場合、日ソ共同宣言という一度した約束をきちんと守って、平和条約という両方の国が得をする新しい約束を作り、その中に将来の返還という未来を想定した約束を作る。(となります)。


[2014年7月8日]、記、シュワルナゼ元外相(親欧米派)(ソ連崩壊時外相)の正義感、毎日新聞、元モスクワ特派員、杉尾直哉 ]

ソ連崩壊時外相の正義感 (私なりの要約)

1)、同じグルジア人としてスターリンを「正義に欠ける人物」と見なしている、スターリンの犯した罪を償う意識のあった人物である。

2)、「個人的には北方領土は日本の物だと思っている」と述べた。

3)、スターリンが対日参戦した時には日本は事実上敗戦状態にあり、ソ連の参戦は不要だった、との見解を述べた。

4)、ソ連の犯した「不正義」の不名誉を今後は挽回して行かねばならない、と述べた。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「ロシア通史」をここで扱います。理由は、

(1)、ロシア連邦の2014年のクリミア併合事件が衝撃的でしたから。私にとって「この国の巧みな破壊行為(高高度を飛行中の民間機を秘密裡にミサイルで撃ち落とした事)、および
(2)、「いつでも核兵器を使う用意がある、ロシアは大国なのだ」と宣言する大統領が存在する事は最も理解に苦しむからです。この国の通史を概観するならば、この国に関連させて、世界史の謎が様々に明らかになるように思います
860年 ノブゴロドのリューリク朝からこの国の歴史が始まる
註 : 左図出典は ヤフー画像集、右図出典は「バイキングの遠征ルート」です
ロシアの起源
この画像の出典は 「バイキングの遠征ルート」です。

【ロシア人の民族性発生源は「巨大空間」】
★1、巨大空間の中での生活は、歴史感覚を体感出来ない精神状態(歴史感覚麻痺)を生む
★2、巨大且つ閉じられた空間は暗殺政治(社会全体が秘密情報機関)を生む 
★3、巨大空間は欧米と肩を並べる「大国」との妄想「非現実的自信過剰指向性」を生む[例1 : クリミア戦争]  [例2 : 高速増殖炉 BN800]
★4、巨大空間は局地戦では負けても「国」は負けた事がないという偏った自信を生む(ナポレオン戦争で初期には大敗、クリミア戦争で負けペドロパブロフスク・カムチャツキーまで逃げた、日ロ戦争で負けた、WW2でドイツに2000万人も殺された)

★5、巨大空間は統治困難による 内乱 での国家崩壊 を生むという予感(ロシア革命、ソ連邦崩壊)
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
プーチン大統領統治のこれまでとこれから、おそらく2024年ころ(2018年5月の選挙で当選後特別任期の6年が切れるころ)、一気に破滅するでしょう 

1999年8、エリツイン大統領から首相に抜擢されたプーチンは所属していたKGB(ロシア秘密警察)組織を活用して チェチェン人によるテロを空爆などの強力な殲滅作戦で撃破しました
★1999年、チェチェン独立派を空爆
★2002年、モスクワ劇場占拠事件で、犯人グループであるチェチェン独立派を軍事作戦で撃破
★2004年、ベスラン学校占拠事件で、犯行グループのチェチェン独立派を持久作戦で撃破

世界的に 「テロ撲滅活動」が沸き起こる中で実績を積んだプーチンは大統領に就任後、共産主義政治経済混乱の中で雨後のたけのこのように現れた財閥もテロ撲滅に似た強行手段で壊滅させ、無名 ⇒ 有名 な政治家として世界の表舞台に登場しました。
彼は 「いつでも核ミサイルを使う」 との軍事力最優先政治姿勢を世界に公開、国民は彼の強行姿勢を支持しています。

しかし、自分を批判する者を暗殺してまで権力を保持する姿勢は、先ず、国際社会での孤立を生み、次には真実を知った国民からも見捨てられ、ロシアという国はプーチンの後を引き継ぐ強力な指導者は現れていませんし、現れるきざしもありません。したがって彼の任期が切れる2024年を境に、ロシアは一気に混乱状態に陥るでしょう、この時、願うことは、ロシア国内だけの混乱であってほしいことです。広大な面積を統治するには地方分権体制で再出発し、国際社会と強調しつつ再生することを願います。 

★6、巨大空間は「国際的に身勝手・無教養な態度」を生む、具体的説明はここの寸考
例1、バルト3国を主権無視(ドイツとの秘密協定)で勝手に併合、
例2、日本の北方4島を主権無視(ソ連邦最高会議幹部会令)で勝手に編入、
例3、チェルノブイリ事故での石棺更新での国際協力への感謝の気持ちを表明しない。
例4、ソ連邦崩壊で軍隊が解散したために生じた「放置原潜(潜水艦)原子炉解体国際協力」への感謝の気持ちを表明しない、
例5、2回に及ぶ「『核』での失敗」(チェルノブイリ事故、ソ連邦崩壊時の原潜放棄)に何の反省も無いがゆえに、危険極まりない BN800 というフランスのスーパーフェニックスに相当する「高速増殖炉」を作っています。スーパーフェニックスは600℃の液体ナトリウム循環ポンプからの異常現象(ウオーターハンマー現象)に恐れをなして高速増殖炉事業を廃棄しました。ロシアは多分、失敗しても国際社会がしりぬぐいをしてくれると思っているのでしょう。
例6、シリア内戦での混乱状態を利用して「ロシアの潜水艦発射ミサイルの優秀性を宣伝した」事は国連安全保障常任理国の立場をわきまえない真に身勝手な宣伝行為と思います。
 

▲▲先頭へ▲▲▲
「最近の歴史感覚麻痺例」
で日本が「合意文書を乱暴に歪曲」している???「抑留」ではなく「捕虜」と主張
ユネスコ世界国遺産から「シベリア抑留記録の取り消し」をロシアが日本に要求 
「過去の歴史感覚麻痺例」
1812年、ナポレオン皇帝の侵略戦争に 「勝った」 と思った
1853年、当然勝てるとの自信の下にクリミア戦争を仕掛けた
1917年という、第1次世界大戦の最中にロシア共産主義革命を起こし、諸国に負担をかけつつ、諸国の社会経済矛盾を救うと宣言したにも拘わらず ロシアの共産主義体制は 70年間 で終わった(1991,12)、以後は 「思想」 を捨てもっぱら 「暴力(軍事力)」 で世界と対抗しようとしている
  

▲▲ページ先頭へ▲▲▲
「最近の暗殺例」
(1)2006年の連続暗殺事件2例(アンナ・ポリトコフスカヤの射殺、 リトビネンコ毒殺、2例ともにプーチン政権下)
(2)2015,2 のネムツオフ射殺事件(プーチン政権下)
(3)2015,2 暗殺事件続報 
(4)2018,3,4 スクリバリ元大佐とその娘と現場検証警官の3名が暗殺未遂で重体
(5)2018,5,31 ロシア人記者(アルカディア・バブチェンコ)自宅で背後から複数回の銃撃、死亡
「過去の暗殺例」
1940,8 トロツキー暗殺の様子
1978,9 ブルガリア人作家マルコフはロンドンで、通りすがりの暗殺者に雨傘で太ももを突かれて死亡、雨傘の先端からリシンという毒が注入されたため。
 

1、ロシア人よあなたはなぜ軍港に「ウラジオストック(東方征服)」という名をつけたまま「極東開発」と叫ぶのですか? 註 : ウラジオストックの語源は ウラジー(征服する、支配する)と ヴォストーク(東方)
2、ロシア人よあなたはなぜ「極東」という言葉を好んで使うのですか、アジア人である私は「北東アジア地域」と呼んで欲しい
3、ロシア人よあなたはなぜ中国東北地域の日本海への出口を完全封鎖したままなのですか? あなたがバルト海への出口としてカリーニングラード(飛び地)を確保している事(ソ連邦崩壊前 も 崩壊後も 同じ場所)のように中国東北地域にも中共国(旧 清朝)のための日本海への出入り口が必要です。
4、ロシア人よあなたはなぜ「江東六十四屯」で殺した 2万5千人 の慰霊を行わないのですか

▲▲先頭へ▲▲▲
ロシアという国の特徴強い者には勝ち芽が無くても挑みかかり負ける、弱い者は情け容赦なく叩きのめす
1)、2015年f現在、世界で最も広い陸地を持つ国、1480年のモスクワ大公国建国からたったの370年間でそこまで広い国となった。
2)、森の中の航海者とコサック兵は両方ともに「ならずもの(無宿人)」だが政治権力者はこれら無宿人たちを「帝国の侵略先兵」として上手に使い、後発国(国の歴史は 860-)ながらやがて帝国主義国の仲間入りを目指す(ピョートル大帝の時代[1689-1725])
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
3)、日ロ戦争(1904-05)という「帝国主義国」戦争の時代に「帝国」と呼ばれた国は日ロのほかに、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア、アメリカ合衆国)合計8列強(清国義和団の乱事件[1900年6月20日 - 1901年9月7日]の際の連合国)、ロシアはこの時点までに中国大陸地域に於いて諸列強と清国との「仲介」をするまでに成長していた。この時がロシア帝国の「華の時期」で、以後は不安定な運命をたどり今日(2015)でも危なっかしい「戦闘態勢」を取っていますのでこの国を「好戦闘国」と呼ぶ事が出来ます。常に武装して身構えている国と誰が仲良くなろうとするでしょう?
4)、ロシア帝国はフィンランド湾奥にペテルブルグ市(サンクトペテルスブルグ市やレニングラード市 と呼ばれた時期もありました)を確保(1713)してからは国策として3つの「南下政策」(a)、(b)、(c)、を取りました。

(a)、東欧南下(黒海制覇⇒ボスボラス・ダーダネルス海峡制覇⇒地中海制覇)政策は、クリミア戦完敗(1856)によって消滅、ロシアはクリミア戦争の計画と準備と実戦に全精力を傾けていた間はすっかり忘れていた東方南下 [(キャフタ条約 1727 で清国との間の外交・通商にけじめを付けていた)] を思い出した、実に約 130年間 忘れていた(1856-1727=129)のです、清国がイギリスの阿片中毒化政策に引っ掛かり国力を衰弱させていると聞いて急に再度東方南下政策を思いついたのだと思われます。

直ちに(b)、に移ります、(1858 アイグン条約 1860 北京条約)。
(b)、北東アジア南下政策、清国が統治能力を衰弱させ急速に国力を低下させ始めたと知るや全勢力を投入して一気に8列強の内でも最も広い地域を清国から奪う(1901、北京議定書)、この東方南下政策は成功

▲▲先頭へ▲▲▲
成功は清国の巨大な内乱(太平天国の乱)と清国にとどめをさす内乱(義和団の乱)があったおかげで、ロシアが自力で勝ち取ったものではありません。

太平天国の乱(1851〜1864[13年間])の間には、第2アヘン戦争(アロー号事件(戦争)  1856)、アイグン条約締結(1858)、北京条約締結(1860)があり、いずれの条約も衰弱した清国の弱みにつけ込む方法で領土を奪いました。

義和団の乱(1900〜1901[1年間])では8列強に宣戦布告して外国勢を中国地域から追い出そうとした清国に8列強は連合体制を組んで対応、ロシアも堂々とその中の1強国として清国から広大な領土を奪いました。  

しかし、日本に「日本海海戦・日ロ戦争(1904-05)」で負けて一気に暗黒の「内乱状態(ロシア革命)」に転落。
(c)、中央アジア南下政策、この政策は北東アジア南下政策政策がウラジオストック港入手でホットひといき付いたので、新しく、中央アジア南下政策すなわち、イランを迂回してアフガニスタンへそしてアラビア海へと出て世界制覇をするという計画でしたが、インド(含パキスタン)を植民地として領有するイギリスが立ちはだかったためイギリスとにらみ合ったまま2021年の現在に至っている。

ロシア共産革命という暗黒の「内乱状態」中もトルクメニスタンを手放さず、1991年のソ連邦崩壊後もロシア連邦に加えているが、ロシア連邦が中央アジアを完全に南下してアラビア海に抜けたわけではない。
なお、ウズベキスタンの利用価値はアメリカ向け綿花(アラル海)だったがアラル海の水資源枯渇のためほぼ消滅し2021年現在での利用価値は鉱業(金、ウラン、モリブテン、タングステン、銅、鉛、亜鉛、銀、セレンを豊富に産する、Wikipedia)。
トルクメニスタンの利用価値はカスピ海に面しているので天然ガス(中国向け)。この地方の地図を載せます

革命後のロシアは約70年間「国際共産主義国・ソ連邦内最強共和国(ロシア共和国)」として世界史の舞台で存在感を示しますが、チェルノブイリ原発事故(1986)と 原油価格暴落・軍事費暴騰 で国家破産しソ連邦は崩壊、「国際共産主義国・ソ連邦内最強共和国」としての存在感を一気に喪失、
その後のこの国の経緯は国際的視野の「世界史概観・下」ページ冒頭(ノモンハン事件図)、を手掛かりに 暗黒の「内乱状態(ロシア革命)」以後今日(2015年)までをたどってください。
 

▲▲ページ先頭へ▲▲▲ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1991年 ソ連邦崩壊前後の国情、および世界情勢の目だったことがら、チェチェン(黒海周辺地域)、バルト3国、ドイツ民主共和国建国等〜〜オレンジ革命〜〜ソチ冬季五輪(ロシア初)

つい最近以降(2014年〜)の出来事(古いものが下、新しいものほど上に配置)
寸考(3)、「プーチン氏に終身大統領を望む人達」から湧く考え、 寸考(3)続1 政教不分離  

★、2015,5 紛争は長期化するとプーチンロシア大統領は言う
★、2014,12,18 「ロシアの正義」を声高く叫び、ウクライナ紛争を正当化する一部指導者達の中にはロシア正教高位者も居る 寸考(3)
★、2014,7,22クリミア併合事件後逐次続報   続報\\\  続報13(2019,1,7 対立は宗教分野に及んでいる)   
続報12(2018,12,24)  続報10  続報7  続報4   続報1(2014,7,22)
★、2014,7,20 地対空ミサイルでマレーシア航空機を撃墜、高度1万メートル298人死亡

★、2014,3クリミア併合

<クリミア半島とその周辺(黒海周辺)の歴史 簡略表示> 

★、2015,12,10 シリアへ潜水艦(地中海)からの巡行ミサイル攻撃
★、2015,11 シリア空爆、1か月
 
★、2015,10,30 IS の復讐、ロシア旅客機機内爆破墜落以後適時 続報します

★、2019,9,14 「ウラジオストックのわびしい現状」 論評★、2017,3,16 論評、「ロシアの衰え」ロシアは中国の弟分で満足するほど衰えつつある

★、2015,12,16 高速増殖炉 実証炉 BN800 が完成

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
ノルマン人の定着(860年)からつい最近(2014年〜2015年〜)の出来事(古いものほど上、新しいものは下に配置)  

★、850ノルマン人はなぜ故郷を捨てたのか
 (★、1066-1154 ノルマン人はイングランドを88年間もの間支配するほどに強かった)


========
★、860ノブゴロドにリューリク朝興る  

★、880年頃キエフ公国、スラブ人とは
★、990年頃キエフ大司教座、スラブ人の文化度向上
★1240年頃、アレクサンドル・ネフスキーが西方からのドイツ騎士団を追い返した
★、1240年頃このころからモンゴル人(ジョチ国⇒キプチャク汗国)の支配を受けるようになる
★、1241年ワールシュタット戦で西欧精鋭連合軍は簡単に負けた、この時代、モンゴル軍に西欧軍が勝ったことは一度も無かった 
 

★、1240年頃キエフ公国はキプチャク汗国に滅ぼされたタタールのくびき 開始
▲▲先頭へ▲▲▲
★、1240年-1480(240年間)キプチャク汗国、240年間という長期間ロシア地方を支配する
★、1480年モスクワ大公国タタールのくびき 終わる
その後のモンゴル民族 
★、1547年 、ロシア帝国成立
 

★、1580年頃 、バルト海地方の覇権を争い、ポーランド・スエーデンに大敗した
★、1589年 「モスクワ総主教」誕生 ロシア正教が「独立正教会」へと格上げされた、かつてキエフに在った総主教座を吸収した
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
★、1610年頃ロマノフ朝誕生
★、1670年ステンカラージンの乱
★、1685年頃 、ピョートル大帝
 

★、1689年 ネルチンスク条約
★、1699年 、ユリウス暦を採用
★、1700-1721年北方戦争ピョートル、スエーデン戦、最初は負け最後は勝つ
★、1705年 、日本語学習所を設立 
★、1706年 、カムチャツカ領有
★、1706年、カムチャツカ半島に、ペトロバブロフスク・カムチャッキー港を開設
★、1712年 、バルト海沿岸を占拠
★、1713年、ペテルブルクへ遷都
★、1721年 、ニスタット条約、バルト海南岸地方を領有
 
★、1728年6月25日、清国とキャフタ条約、国境の画定と市場開設交渉成立
★、1755年、モスクワ大学創立
★、1762-1796年、 、女帝エカテリナ2世
▲▲先頭へ▲▲▲
★、1771年、クリミア半島占領
 
★、1772年、トルコ(オスマン帝国)から黒海北岸を奪う
★、1773年、 プガチョフの乱
★、1799年、 アラスカ領有
★、1804-13年、イランの半植民地化中央アジア南下政策の初期は成功
★、1808-09年、 スウェーデン戦、フィンランドを奪う
 
★、■、【森の中の航海者】 
★、1812年6月、 ナポレオン軍侵入(9月)
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
★、1815年、ロシア皇帝がポーランド王を兼務
★、1825年、デカブリストの乱
 
★、1830年ころ、 ゴーゴリ(社会派文学『検察官』・『死せる魂』 ] : ロシア文化における西欧派とスラヴ派(民族主義派)の分裂・相克)、プーシキン(口語の詩文、『大尉の娘』)
★、1853-56年クリミア戦争
★、■、外洋世界の様子
★、1853,54年、サスケハナ号1853とディアナ号1853
 
★、1855年、 日露和親条約(日魯通好条約)
★、1858年、「アイグン条約」
★、1860年、「北京(ペキン)条約」
★■、寸考、なぜ沿海州がロシアへ?
 
★■、寸考、「ウラジオストック」という言葉
★、1862-62年 、ポーランドに徴兵制施行
▲▲先頭へ▲▲▲
★、1866年 、ドストエフスキー、「罪と罰」
★、1867年 、アメリカにアラスカを売却
 
★、1869年、メンデレエフ、元素の周期律を発見
★、1872年 、バクーニン、無政府党
★、1874年、義務兵役制
★、1875年 、日本との間で、千島・カラフト交換条約(樺太千島交換条約)
 
★、1881年 、皇帝が暗殺され社会の不安定感増す
★、1881年、イリ条約
★■、、 寸考、【コサックの強さについて】
★、1882年、 ロシア軍、メルヴ占領、  
★、 1886年、黒海東岸のバツームに海軍基地建設。ロシアに資本主義発展
★、1888年、 コーカシア横断鉄道開通、フランスから借款
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
★、1892年、ロシア・フランス軍事協定
★、1894年、西シベリア鉄道の開通
★、1895年、労働者階級解放闘争同盟結成
★、1895年 、シェンキェビッチ(ポーランド人)、「クオ・バディス・ドミネ(主よいずこへ行きたもうや?)」
★、1895年 、日清戦争の結果に三国干渉、ロシアが先導、次がドイツ
★、1896年 、清国と「東清鉄道密約」、ウスリー鉄道起工
 
★、1898年 、旅順と大連を租借
★、1898年 、レーニン、社会主義労働党を結成するも弾圧によって崩壊
★、1899年 、トルストイ、「復活」
★、1900年江東六十四屯の大虐殺 リンク到達地に、清国の衰弱につれての江東六十四屯政治環境変化を知る 表 があり、3つの画像を表示させて、邪魔者として扱われた民衆の現実を知ってください、国家が衰弱すれば民衆は悲惨な最期をとげます 
★、1901年7月 、北京議定書
▲▲先頭へ▲▲▲
★、1901年 、モスクワ、ペテルブルグ等で軍隊の反乱
★、1902年 、シベリア鉄道全通。日英同盟に対し、露仏宣言
★、1903年ロシア軍、
5月、朝鮮の岩竜浦を占領、11月、奉天占領。
 
★、1903年 、社会民主労働党、ボルシェビキとメンシェビキに分裂
★、1904年2月5日日本がロシアに宣戦布告、日露戦争が始まる
 ★、1858-2014 挿話37 、ロシアとのお付き合いの方法について
  
★、1904日ロ戦争 をクリックすれば 世界史概観・上 の 日ロ戦争記事 が現れます、以後のロシア史は歴史本流(世界史概観・上・下)の中でも見られます   
、1991 ソ連邦崩壊から 「現在」 に至るまで、諸現象総ざらい  ■、プーチン氏登場の背景、ドイツ、バルト3国等(再度書き)  ■、クリミア半島の概略史   ■、ウクライナの核放棄    ■、オレンジ革命

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
ロシア(ルーシ)の歴史は比較的新しく、バイキング(ノルマン人の大移動 860年頃)から始まります



[ 2014年8月23日、記、葛根廟事件、関東軍に取り残された開拓民の悲劇 ]

旧ソ連軍の日本民間人大虐殺

最後の避難列車に乗り遅れた1200人は葛根廟に避難しようと、隊列を組んで草原を移動していった。


その時だった、ソ連軍の14台の戦車隊が横一列になって丘陵を越えて進撃してきて、避難民に一斉射撃を開始したのだ草原はみるみる血に染まった。

葛根廟事件、民間人大虐殺
葛根廟事件(かっこんびょうじけん)は、1945年8月14日、満州国興安総省の葛根廟(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ヒンガン(興安)盟ホルチン右翼前旗葛根廟鎮)において日本人避難民約千数百人(9割以上が婦女子)がソ連軍および中国人によって攻撃され、1,000名以上が虐殺された事件。

戦車の後方からは、ひき殺された人々がキャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し、何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。

2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害された。
▲▲先頭へ▲▲▲

生存者に対する襲撃も執拗を極めた。生存者は、中国人暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいた[3]。ある女性はソビエト兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされている[4]。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった[3]。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていった[3]。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった

女性たちは駅から少し離れたところにある畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソビエト兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは屋外に積まれてあった枯れ草を家の中に投げ入れては火を付け、女性たちを焼き殺した。

この事件は戦後、第二次世界大戦におけるソ連の戦争犯罪として取り上げられており、暴民ではなく一国の軍隊の攻撃によって無差別的に大量虐殺されたジェノサイドであり、その点では終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した悲劇のなかでも最大のものである。Wikipediaより。


[ 2015年2月24日、記、ロシア人の人間性(民族性・精神性)巨大空間に住む人間の歴史不感症、毎日新聞 亀山郁夫 ロシア文学者 論 より部分引用 ]

キリスト教と土着宗教との混淆によるロシア正教の成立から1000年の間、ルネサンス西欧の(キリスト教国同士宗教戦争[森本])や産業革命を経験しなかったロシアでは、個人の自立も無く、宗教的権威と根本的に対立しない無限の屈従的なメンタリティー(精神性)が形成されました」
▲▲先頭へ▲▲▲

「ロシア人は、歴史を体感的に理解しません。巨大な自然空間の中では(その1) (その2)、人間が作り上げた都市は砂粒に過ぎず、西欧諸都市のような歴史の蓄積を認識出来ないのです
スターリンは革命と内戦で疲弊した1920年代末、「第1次5カ年計画」による性急な工業化を開始しました。まるで「時間は伸縮自在」といわんばかりの感覚は、ロシアに特有の現実離れした『自己幻想』かもしれません」


[ 2015年3月5日、記、まるで社会全体が秘密情報機関であるようなロシア社会、毎日新聞 余禄 ネムツオフ射殺事件 ]

情報機関化した社会・ロシア

(私なりの要約)
1)、プーチン大統領が、2008年、重要会議に病欠した巨額脱税容疑者を批難して言った言葉は「回復しないなら医者を送って始末せざるを得ない」「始末」とは「暗殺」の隠語である。
2)、ロシア国内ではプーチン批判で有名な女性記者がエレベーター内で射殺されている(2006年10月)、それを調べていた元保安庁員(スパイ)がイギリスで怪死(ポロニウム毒殺、2006年11月)している
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
3)、ネムツォフ元第一副首相が2015年2月に射殺されました。この犯行は複数からなるプロの殺しの専門集団、ネムツォフがレストランを出て、ガール・フレンドと一緒に橋の上を歩いているときに、車が後ろから来て車の中から射撃して4発で射殺している。その際、位置取りは車道、女性、ネムツォフのようであるが、女性は無傷である。動く車の中からであるから、極めて能力の高い狙撃手である。ここで運転手と狙撃手の二人が必要となる。この場所は監視カメラの死角になっていたという。この場所は意図的に設定されている。車をこのタイミングで持ってくるには、レストランなどでの尾行者、スケジュールの調整役など含めると最低5〜6人は必要。孫崎享氏ブログより
4)、ネムツォフはロシア政府がウクライナ併合に直接かかわったと言う証拠を入手していたとも言われている(口封じのために政権側によって殺されたとする説がある)。
5)、冷戦終結後のロシア共和国はまるで社会全体が秘密情報機関になったような不透明さと暗さに満ちている。

(私の意見)
1940年8月、メキシコでトロツキー暗殺。ソ連で、政策を巡ってトロツキーはスターリンと対立し、トロツキーはメキシコに亡命したが刺客によって、登山用のピッケルで頭を砕かれて死んだ事件を思い出しました。ロシアと言う不毛の地の多い広大な地域を統括するには「秘密警察」と「暗殺組織」が必要なのでしょうか?


[ 2015年5月13日、記、ネムツオフ射殺事件続報、「ロシアが介入した」「証言の収集録あり」、毎日新聞 ]

ネムツオフ事件続報

(私なりの要約)

1)、昨年から今年にかけてウクライナ東部での戦闘で200人以上のロシア兵が戦死した。

2)、少なくとも 17人はパラシュート部隊員で決して民間人では無かった。

3)、プーチン政権はこれらの証言集は無視又は否定するだろう(民兵集団が自発的に侵入したとの主張を繰り返すだろう)


(私の意見)

1)、余りにも広い(世界で1番)土地に少人数(日本よりやや多い、1億4千万人 {日本は1億2千万人} )で住む場合の人々の人権感覚は日本人には想像もつかない大雑把なものであるらしい。

2)、新聞記者であれ、スパイであれ、政治家であれ、政治指導者に逆らう者は直ちに「殺す」。選挙制度が採用され、大統領が選挙で選ばれるようになり、宗教が復活した現在・未来であってもこの民族性は変わらないと思われる。

▲▲先頭へ▲▲▲
類似暗殺事件簡易表
(4)、2018,3,4 英国の二重スパイだったロシア軍情報機関のスクリバリ元大佐と娘さんが意識不明になった暗殺未遂事件が起きた。現場警察官も重体となり、市民の日常が科学兵器で脅かさた。メイ イギリス首相はロシアの関与があったとして制裁措置を発表した(駐英ロシア外交官二十三人の一週間以内の国外退去を命じた)。むろんロシア側は全面否定で、制裁に対し、対抗措置を取る構えを見せている 2018, 3,17 毎日新聞 余禄 
(5)、・・・。
 



[ 2015年5月21日、記、ロシアの本音は 「北方4島を日本に返還する気持ちは全く無い」、毎日新聞 ]

北方4島、交渉の余地無し
(私なりの要約)
1)、ロシアのラブロフ外相は国連憲章の「敵国条項」に関し、「あの条項の法的意味は『何一つ触るな』という事である」と述べた。
2)、ロシアの外交立場は、「北方4島はWW2の結果戦勝国であるロシアの領土となった」である
3)、戦勝国のした事は「崇高」である。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑↑

(私の意見)
1)、「敵国条項」については、「1995年の国連総会で圧倒的多数で削除が決定済み」が国際社会の常識です。ただ単に「国連参加各国が自国で『批准』手続きをしていないだけが問題、しかし、どの国もこの様な形式的手続きをするほどにひまが無いほど忙しい」のです。
2)、「敵国条項」が未だ国連憲章の中に存在する事を外交カードとする国はロシアのほかには中華人民共和国ですが、両国ともに「領土固執国」という異常性を国情とする特殊な国です。民衆の不平不満による攻撃性を外部へとそらすために「敵国条例」を元に「敵」を作っているのです。ちなみに国連憲章での「敵国」は国名は明記されていません。
また、旧ソ連は「日ソ共同宣言」で「ソ連は日本の国際連合加盟を支持する」と表明していますのでソ連は日本を「敵国」と見なす外交カードを持つことは出来ません。
3)、WW2の結果ソ連は「戦勝国」側に入っていることは確かですが日本には「勝った」のではなく「裏切り」「不正義」によって「領土を奪う事」をしたのですから「泥棒行為で利益を得た」のです。

そして、武器を置いた兵士を「帰国させる」と騙して「シベリア」へ「抑留」したのです。日本人の正義感に照らせば「卑怯」です。

すなわち、「負けを認めた国を攻めてはいけない」と言う基本的国際条約である「万国公法」を守らずに、日本が「負けを認め武器を置いた後」も攻め続けて千島の島々を奪い取りました
4)、日本が「負けを認め武器を置いた時にロシアが為すべきだった事は、「攻撃中止」「中止日時・場所の国際法上の特定とその記録の保存」だったのに、日本軍人を「捕虜」とし、しかも「捕虜」を自国に連れ帰り「強制労働」をさせるという「戦争状態の継続行為」をしたのです。この様な異常な国とのお付き合いはほどほどにしておく方が良いと思います。
5)、ロシアとの領土問題は、かの地にかつて住んでいた日本人には申し訳のないことですが、「放置」するのが良いと思います。ロシアが国として「正義」を感じ取る事が出来るまえで成長するのを待つのが良いと思います。
6)、現在、 ロシアは隣国(ウクライナ)から「領土」を奪いつつあり、ロシアに「正義」の育つ「芯芽」は無く、先行きは暗いので「放置」するのが良いと思います。
7)、北方領土問題は、「WW2の未解決世界遺産」としてほぼ永遠に「未解決・現状維持」で行くのが良いと思います。
8)、「戦勝国のした事は『崇高』である」と言う発言は無意味です。人類史を見れば「戦争は勝った国も負けた国も悲惨」です。「『崇高』である」との表現は「軍事優先・国家主義」で地球上の先進国が互いに戦ったWW2の再来を疑い、恐ろしい気持ちが湧きます、ロシアはWW2で一体何を学んだのでしょうか? 
9)、プーチン氏は「いざとなれば核兵器も使う、我が国は大国なのだ」とウクライナ侵略に関し開き直っています。また、本日の新聞によると、ジョージア(かつてのグルジア)から「南オセチア」を奪い取ろうとしています

▲▲先頭へ▲▲▲


[ 2015年10月20日、記、ユネスコ世界国遺産から「シベリア抑留記録の取り消し」をロシアが日本に要求、、毎日新聞、モスクワ共同  ]

ユネスコ・シベリア抑留

(私なりの要約)
1)、「シベリア抑留記録」が現在「ユネスコ世界記憶遺産」として登録されている。
2)、ロシアは最近この登録を取り下げてほしいと日本に要求してきた。
3)、理由は、「日本政治がユネスコを利用してロシアに政治圧力をかけている」(最近、中共国が日本の同意なしに「南京大虐殺」を「ユネスコ世界記憶遺産」に登録させた、このことはユネスコの政治化と批判されている最中の出来事)
4)、16日、ロシアで駐ロシア日本大使幹部を呼び出して「シベリア抑留記録」の取り下げを要求した。
5)、この抑留記録は、日本側とロシア側が同意してからの申請をユネスコが取り上げて登録している。ロシア大阪領事館にも相談していた。
6)、日本側はロシア側の「取り消し要求」を拒否した。

(私の意見)
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
1)、ロシアは中共国の強引なユネスコ政治利用が通ったので自国でも登録済みの登録を「無し」にして外交上の優位を得ようとしている。
2)、ロシアがシベリア抑留を認めていることは次の事実により明白なので今後ともこの件は無視したほうがよいと思います。
(事実)
1993年10月、ロシア、エリツィンロシア連邦大統領の謝罪、シベリア抑留問題を全体主義の悪しき遺産と位置付けると共に武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言、レーニンに背くものであったとして訪日した際、国会で「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明し、頭を下げた。
エリツィンロシア連邦大統領はポツダム宣言の
第9条 : 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。 
に違反して最高で11年間もの間日本兵を家庭に返さず自国の森林伐採業務や道路や橋や市役所建造業務などの労働をさせたことを謝ったのです。旧ソ連はあまりにも多くの成人男子を戦争で死なせたため労働力が極端に不足していました、日本人のみならずドイツ人も「国際条約(俘虜待遇条約)」に違反して働かせたのです。


[ 2015年10月21日、記、、「シベリア抑留」は間違った表現で、実際は衛星国(バルト3国)を含めた旧ソ連全域および蒙古、中央アジア、中華人民共和国、北朝鮮に及びます抑留者数も死者数も従来言われているよりも抑留者数は2倍、死者数は約6倍らしい、森本のネット検索調査 ]

働かされた国と場所
従来約50万人が働かされ、死者数は約6万人とされてきたが近年、ソ連崩壊後の資料公開から、約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証−シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、

約34万人の日本人が死亡したという。最も多くの死者が出たのはカラフトに近いシベリア地方でした。

一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在でいうモンゴル(蒙古)や中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ロシア、ウクライナ、白ロシア などソ連の勢力圏全域や中華人民共和国に送り込まれていた。出典は Wikipedia 。
▲▲先頭へ▲▲▲

註 : 画像はヤフー画像集から頂きました



[ 2015年10月21日、記、「シベリア抑留」で再びロシアが日本を批判、「合意文書を乱暴に歪曲」しているのだそうです。 ]

露、シベリア抑留で日本を批判

(私なりの要約)
1)、ロシアの言い分の第1は、「捕虜」であって「抑留者」ではない。
2)、日本は終戦の日付を8月15日としているがロシアは米戦艦ミズーリ甲板での降伏文書署名の日(9月2日)を終戦の日としている。したがって8月15日〜9月2日は戦争状態にあり、その間に降伏した日本人は「捕虜」である。ソ連に移送した将兵は「戦闘中に捕虜となった者」である???。
8月15日〜9月2日の間(18日間)、日本と戦争していた国はどこにもないのですよ。
3)、1991年にゴルバチョフ・ソ連大統領が来日して調印した協定書にも「捕虜収容所に収容されていた者」と記載されており、「抑留」という言葉はどこにも使用されていない。
▲▲先頭へ▲▲▲

(私の意見)
1)、「抑留者」という表現はここ70年間国際的に使い続けられてきた用語です。これを今になって「捕虜」と言い換えて日本を「批判」することの目的は何なのでしょうか?
2)、私の「抑留者」概念は 「将来展望に関する素人論考」のページのここで述べましたように、天皇がポツダム宣言を受け入れて「負けました」と国際放送(8月15日)した直後から捕えられてソ連各地に移送された将兵のことを言います。

9月2日というのは「降伏文書署名」の日であって「儀式」が執り行われた日なのです、その証拠に、世界史の記録にも「ソ連対日宣戦布告」「日本、ポツダム宣言を受諾」「日本、終戦の詔(天皇の敗戦放送)」「無条件降伏」という文言は大きく太い字で書かれていますが「降伏文書署名」は「占領軍最高司令官マッカーサー着任」と同じ扱いで小さく細い字で書かれています。

重大なのは「ソ連が国際条約を一方的に破ったこと」「ポツダム宣言を受諾した事」「天皇が、負けましたと内外に向けてラジオ放送した」事なのです。
3)、「捕虜収容所」に収容されていたのだから「捕虜」であるとの論理で突き放そうとしていますが「抑留者」を収容する場所として「捕虜収容所」のほかに用意してくれていた場所はあるのでしょうか???

私はこの記事を読んで衝撃を受けました。そして思いました、「自分はロシアという国の指導層の本性を全く知らない!! 今後は熱心にこのことを研究しよう、これまで中共国を研究してきたように」

です。先ず、ロシアという国の成り立ちから!! 乞うご期待!!



▲▲ページ先頭へ▲▲▲

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
はじめに 
ロシアという国の特色は、地政学上、バルト海(上図参照)や黒海辺縁地域(バルカン半島等)やクリミア半島でヨーロッパ勢力や小アジア・オスマン(トルコ)勢力と衝突する運命にあることがこの図によって納得することが出来ます。

これまでの激突を例示すれば、スウェーデン(ノルマン人の故郷)との10回くらいにわたる激戦、12回も繰り返されたオスマン帝国(トルコ)との激戦、11回目が有名なクリミア戦争(1853、セバストポリも放棄、完敗)、WW1(1914、クリミアの恨みを晴らそうとするも日ロ戦争敗戦の影響下で国内勢力は分裂、緒戦ではクリミア半島を取られ、ドイツ・オーストリア勢に負ける)、ロシア革命(1917、国名が「ソヴィエト連邦」と変わり、クリミアを含めたウクライナは連邦を構成する一共和国となり、クリミアはロシアの直轄領ではなくなる)、WW2(1939、緒戦ではクリミアを含めたウクライナはドイツ同盟軍に取られる)、ソ連邦崩壊(1991、ロシアは一共和国となり、セバストポリの軍港はウクライナから借り受ける)、

1992年、ソ連邦崩はウクライナに 5000発の核弾頭所有権をウクライナに渡しました。ウクライナは、当時は世界第3位の核兵器所有国となりました。しかし、
1994年、ウクライナは核兵器を全て放棄しロシア連邦が受け取りました。セバストポリ市のバラクラヴァの原子力潜水艦地下秘密基地も廃港にされました。

ロシア連邦と西欧・アメリカは、将来永劫にわたってクリミアを含めたウクライナの領土をはじめ、国家の安全が保障するという国際約束(核放棄に関するブダペスト覚え書き)が交わされました。
▲▲先頭へ▲▲▲

ところが、2014年、ロシア連邦の突然のクリミア侵略が起こりました。ウクライナの政変( EUの民主連合制度に加入するかロシアのエネルギーに依存するかで国論が分裂 )に乗じてロシア連邦はセバストポリ軍港を奪還、管理していた核兵器もここ(セバストポリ市南部地域)へ戻しました、そして、「いつでも核兵器を使う用意がある、ロシアは大国なのだ」とプーチンロシア大統領は公言したのです、ウクライナの東半分の奪還をめぐっても2015,11 現在、係争中) 
寸考(1) : ロシアが初めて見せた1853年の「クリミア戦争(ナイチンゲールで知られた戦争)」での「汎スラブ主義」の自信過剰とその完敗結果から生じた「オーストリアを含めた西欧社会への恨み」は根強くしつこい事が今回のクリミア紛争で思い知らされました、この「恨み」は162年経っても濃厚に存在しています。2015年現在の状況から察すれば現代版クリミア戦争はかなり長引くと思われます。

ロシア連邦は世界一広い土地を領有する国で「大国」と言われていますが人口はたったの 1.4億 (9位)と中華人民共和国(1位)の約 1/10 しかないのです、人口密度の小さいこの国は破壊力が最も大きい武器を好みます、石油や天然ガスで得た富はすかざず核兵器に変えて保有したいという本能が見て取れる一連の行動でした。

「核兵器」を使うとの公言は単なる脅しとは思えません。
ロシア連邦に核兵器を使わせないよう知恵を絞る必要が差し迫っています。  
寸考(2) :  2015年12月に、ロシアは高速増殖炉 BN800 を完成させ、ウラン濃縮カス(劣化ウラン)のプルトニウムへの転換の実証運転に成功し、次は NB1200 の完成へと向かいます。ウランを従来n核力発電(原発)のようにウランのほとんど全てを劣化ウランとして捨てることは無く、転換プルトニウムを燃やしてもプルトニウムが徐々に増えてゆ来ますので、ロシアは今後長い先までエネルギーにはこもらない、エネルギー輸出国としてやっていけます。

私は、この事がプーチン大統領の異様な自信・強気発言の発生原因だと思います。
詳しくはここを見てください

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
寸考(3) : 汎スラブ主義勢力(民族主義者)の歴史観は「プーチン氏の終身大統領が望ましい」である、
2014,12,18 の毎日新聞、「忘れ去られた改革、旧ソ連・ペレストロイカ(立て直し)から30年」、モスクワ杉尾直哉記者、の記事からの切り抜きは次の通りです。
プーチン氏に終身君主を

(私なりの要約)
1)、プーチン氏が築こうとしている「大国」は歴史上 5番目 の大国。プーチン帝国とでも表現すべき今の時代が、プーチン氏の命ある限り続いてほしい、未だ後継者が居ないので。
2)、1番目は、キエフ公国。
3)、2番目は、モスクワ大公国
4)、3番目は、ロマノフ王朝(ロシア帝国)
5)、4番目は、スターリン帝国(旧ソ連)


(寸考 の結果)
1)、汎スラブ主義勢力(民族主義者)の歴史観は、プーチン氏の「終身大統領」を望んでいます。
プーチン氏が大統領として登場したてのころ、予期せぬ石油・天然ガスの新規発見がありました。彼は石油・天然ガスを武器に、EUとの対決姿勢を取り始めることが出来、今回も、予期せぬ「高速増殖炉・実証炉の成功」があり、彼の統治者としての自信はより深まり、今後とも彼流の(KGB流の)統治方式は続くでしょう。

2)、自由を求めて旧ソ連圏から脱出する国が多く出、中でも歴史的にロシアの中核地方であるウクライナの離脱は、小心な彼に「EUによってロシアは乗っ取られる」との心配が高じていました。彼にとって汎スラブ主義勢力民兵のクリミア侵略は大朗報でした。
3)、しかし、「大国」を自認し公言するにはまだ未成熟統率者です。時代の動きは「自由・平等・友情」を求める方向へと動いていることは認めねばなりません、最低限 10年 は民主化達成への混乱が続くと見た上での行動が必要であるにも関わらず、「国際条約違反(クリミア半島侵略)」 、「侵略行為」を引き起こすような未成熟統率者は地球にとって迷惑です。再び世界大戦の引き金を引く人物となる可能性がありますから。民族主義は1920年代に流行した概念ですし、ロシアは多民族国家のはずなのになぜ「スラブ人」だけを重んじるのか、理由が分かりません。
▲▲先頭へ▲▲▲

4)、今後、ロシアにしてほしいことは、国際連合の改革、成長への貢献です、エネルギーに困らない大国にしか出来ない事、例えば、「国際連合警察部隊」の創設です。警察力によって「テロリストを逮捕」する道を切り開いてほしい。「テロリスト」は「殺すべき相手」ではなく「逮捕して更生させるべき相手」なのですよ!!。現在のように地球上の全ての国がよってたかって「殺す」事を考えていますがこれは根本的な間違いであることを理解させることのできる国こそ「大国」なのです。
5)、親ロシア派指導者の言う「断絶は死の期間だった、復活しては強くなる」という言葉の意味することは、「プーチン体制もいつかは死ぬ」ということです、私は、その時期は、「高速増殖商業炉稼働開始時期(2020年)」ではないかと予測しています。

巨大規模の高速増殖炉は「巨大」さゆえに「想定外」の事故が発生するでしょう、こうなった場合、ロシアは「復活」しないでしょう、なお、これは「神のみぞ知る」事で私の守備範囲ではありませんので注意喚起の意味です。

寸考(3)続1 2014,12,20 毎日新聞、モスクワ、杉尾直哉記者 : 
ロシア正教宗教家の政治家化

(私なりの要約)
1)、ロシア正教という巨大(9000万人)宗教が「政治現象」化しています。
2)、ロシア正教が主張する政治方針は次の (A),(B) を統合して、強い中央集権政治を行うこと。

(A)、強い君主制

(B)、社会主義

3)、写真のチャプリン神父は「プーチン氏が望むと望まざるとにかかわらず、「いずれ君主制復活は実現する」との強い政治見解を持っているそうです。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
4)、ロシアのシリア空爆は多くの国の政治家は「良くない」と言っているにも関わらず、チャプリン神父の上司であるキリル総主教はシリア空爆を支持しているそうです。
5)、今のロシアは政治指導者の決定を、信仰をつかさどる宗教指導者が祝福し、それを国営テレビが報じる。政権、教会、メディアの三位一体現象が進行している.

(私の意見)
1)、ロシアに信仰の自由をもたらしたのはゴルバチョフのペレストロイカ(立て直し)政治だったにも関わらず、現在のロシア正教はその恩恵に感謝する気持ちは無く、「政治化」している、「宗教現象」が「政治現象」に飲み込まれている様子はまるで十字軍の再来のようで不吉です。これはロシアという若い国が「宗教現象」の内面化・定着 に失敗していることを表しています。
2)、ロシア正教はキリスト教の1派であるにもかかわらず「 「宗教戦争(キリスト教内部抗争)」 」を経験せずに今日に至っていますので、簡単に 「政治現象」 に飲み込まれる危険性をはらんでいます。
チャプリン神父は 政治行動をする前に先ず  「十字軍」  について、次に  「宗教改革」  について、次に  「政教分離」  について学ばねばなりません。 
3)、現代の宗教家が9000万人の信徒に向かってシリア空爆支持を表明することは極めて危険です。宗教家が IS の暗殺対象となるからです。私が現代の宗教家に望むのは「殺す事」ではなく「対話する事」です。 IS は一応イスラム教徒なので十字軍にまでさかのぼって対話すれば、ロシア政治家と IS とを 「面談」 させることは出来るはずで、宗教家が政治に関わる限界はそこまでです。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
 

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑


註 : タタール人とはモンゴル帝国軍兵士となってヨーロパに侵攻した人々のことを言う 
860年頃、ノブゴロドにリューリク朝ノブゴロド国興る、リューリクがノルマン人(バイキング)を率いてロシアに上陸、土着民(遊牧諸民族)を征服してノブゴロドにノブゴロド国を建国、以後その配下のノルマン人の呼び名が「ルーシ」の語源(リューリク⇒ルーシ)、という有力な伝承がある。ノブゴロドの一派はさらに南下して下記のとおりキエフ公国を作るが1240年にキプチャク汗国に滅ぼされる、一方、リューリク朝ノブゴロド国の1派は北方のバレンツ海沿岸(北大西洋暖流の影響で冬でも海が凍らない)に退避したと思われる、やがてキプチャク汗国が滅びると同時に南下して、1480年ごろに成立直後のモスクワ公国に吸収されたと思われる。 「世界史の窓」を参照。Wikipedia の「ノブゴロド公国」も参照。
880年頃、、キエフ公国(東ローマ帝国より領地拝領と思われる)誕生、バルト海〜ノブゴロド(バルト海から東へ入った交通の要衝)〜キエフ〜黒海 の交易ルートの中心都市としてのキエフ市がロシア地方の 中心地となる。
ロシア人種発生の地は現在のベラルーシ[ウクライナの北隣り]、現在のロシア人のほとんどは1240年頃〜1480年(240年間)にかけてこの地を支配したモンゴル人(タタール人)(キプチャク汗国)との間の混血種(スラブ人、スラブ民族)との説が有力、ベラルーシのヨーロッパ地域での位置は、下図(スラブ民族分布図)の約20行下に在る 「ヨーロッパ白地図」 で分かります。

スラブ人(スラブ民族)居住分布は、下図の通りです、言語は スラブ語、話し言葉は古来から同じ、書き言葉はウラジーミル大公治世( 990年 )の時からキリル文字(ギリシャ文字に良く似ている)が標準語となる。(2017年現在でのヨーロッパ地域諸国図は約20行下に 「ヨーロッパ白地図」 として記しました)。
▲▲先頭へ▲▲▲

・東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)
・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)
・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)
註 : 画像は Wikipedia より頂きました
スラブ諸族同士の意思伝達について
スラヴ民族の特徴としては、言語の均質性が高いということがあります。実際、スラヴ人同士であれば通訳なしでもかなり意志疎通ができるようです。スラヴ諸国での国際会議などがあると、一応通訳もつくのですが、みんな無視して直接議論を始めるという話すらあるくらいです。これはスラヴ人が比較的後代まで分裂せず、また地理的にもそれほど広範囲に拡散しなかったからだと言われています。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/hosetu1.html
(ロシアの歴史)補説1 スラヴ人のこと okoshko28@hotmail.com さん より部分コピーさせてもらいました
 

▲▲ページ先頭へ▲▲▲


註 : 赤線 は バルカン半島国の北端と南端を意味します。この半島地域には 南スラブ人が多く、各国に散在しています。

990年頃、キエフ大司教座、キエフ公のウラジーミル大公東ローマ帝国からキリスト教を受容してロシア地方は国をあげて正教会となる、(ロシア正教 [ギリシャ正教等の正教と起源は同じ(ユダヤ教)教義も同じ、ただし、この時点ではコンスタンティノーポリ総主教管轄下] )の信徒となり、スラヴ語を書きあらわすための文字としてキリル文字(ギリシャ文字から作られたロシア(スラブ)文字)がもたらされるなど、正教世界の進んだ文化がロシアへと入り、スラブ人の文化度は急速にが高まった。
1240年頃、ノブゴロド国のアレクサンドル・ネフスキーが西方からのドイツ騎士団(ローマ・カトリック教団・カトリックへと改宗を強制する十字軍)を追い返した(ネヴァ川 [ 現在のぺテルブルグ市(サンクトペテルブルグ市又はレニングラード市)にある河口水域 ] の戦い)と伝承されている。

このころからモンゴル人(ジョチ国⇒キプチャク汗国)の支配を受けるようになる

1240年頃キエフ公国はキプチャク汗国に滅ぼされた。以後の240年間を 「タタール(モンゴル)のくびき期間」 とロシア人(スラブ民族) は呼んでいる 。

ノブゴロド国は北のバレンツ海沿岸地方(北大西洋暖流の影響で冬でも海が凍らない)へと逃げ延びたと思われる。
モンゴル帝国
モンゴル帝国
ジョチ国⇒キプチャク国


1240年-1480(240年間)キプチャク汗国、240年間という長期間ロシア地方を支配する。これを「タタールのくびき」の期間とロシア人は呼ぶ。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
「タタール=モンゴル」の軛(くびき) 
モンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシ)支配 240年間を、ロシア側から表現した用語である。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人(ベラルーシ系スラブ人)のモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である、Wikipediaより。
この場合のタタールは現在ヴォルガ川中流で生活するタタール人では無く(タルタル=地獄から来れる者ども)の意味でである、世界史の窓より。
 
註 : 以下に現れる色鮮やかな画像は、盛衰の世界史地図よりいただきました、刻々と変化する地球表面の政治現象を動画で表現する試みを初めて知り、その素晴らしさに感動しています、これを観て世界史を好きになる人が増えると思います。
キプチャク国

キプチャク汗国軍は先ずキエフを襲い市街地は廃墟となり、文物で残るものなし。

モンゴル人(タタール人)の支配 (首都はサライ、カスピ海に注ぐボルガ川下流、ドン川が湾曲して近づく地点) は

モスクワ地方に及んだが、緩やかな支配、決まった税金を払い、戦時に従軍すれば良いと言う支配だったため長らく続いた(240年間、[タタールのくびき]、下記) 。
キプチャク汗国が任命した モスクワ大公がモスクワ市をキエフ市に代わるロシア人の宗教的・政治的中心地と定めた、
モスクワ大公














リトアニア大公国

ポーランド王国

註 : 「大公」や「公国」とは、支配されつつ「領地を拝受」した「者」や「国」のことを 言う。この場合キプチャク国から領地を拝受した。


1480年、 、イヴァン3世がタタール軍を打ち破る、モスクワ大公国(下図)成立、やっと「ルーシ人(ベラルーシ系スラブ人)の国」の新芽が現れた。北方へと逃げていたノブゴロド国の1派も合流したと思われる。
タタール人(蒙古人)支配より自立
▲▲先頭へ▲▲▲

240年間にわたる「タタールのくびき」[ (1480-1240=240) ]からの解放、キプチャク国がモスクワ大公イヴァン3世に敗れてルーシへの支配力を失ったためである。
「くびき」 とは牛の首にはめて人間が牛を自由に使役することのできる器具)、番犬に例えれば 「首輪」 の事。
(その後の、モンゴル民族)
1634 実質的な滅亡(後金[後の 清国 ]に、国を象徴する旗を奪われた)
1911 独立宣言、辛亥革命で清国が滅びると同時にモンゴル全域(内・外 モンゴル)の独立を宣言
1912 露蒙協定、外蒙古地方だけを「モンゴル国」と称する事をロシアが認める
1913 露中宣言、内モンゴルは中国(中華民国)領とし、「内モンゴル自治区」と称する、したがって、内外蒙古は統一させないと決定、日本の侵略に対抗するため。
1915 キャフタ条約、モンゴル民族は露中宣言をに認めさせられ、モンゴル民族は 内・外 に分裂させられた
1921 ソ連軍が「モンゴル国」に駐留し、モンゴル国を「衛星国」とした
1991 「モンゴル国」として独立、ソ連崩壊と同時にソ連の「衛星国」ではなくなり、中国(中華人民共和国)の影響を受けるようになった、しかし、2017 現在も民族統一は果たされていない
 

▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1547年ロシア帝国成立
イヴァン4世(雷帝)、モスクワをギリシャ正教(コンスタンティノーポリ管轄)の根拠地とし自らをツアーリ(皇帝)と称した。
1580年頃、バルト海地方の覇権を争い、ポーランド・スエーデンに大敗した。北ヨーロッパから東へと追い返された
領土拡大
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1589年「モスクワ総主教」誕生、ロシア正教が「独立正教会」へと格上げされた。
従来はコンスタンティノーポリ総主教管轄のギリシャ正教の1つとみなされていたが世界中の正教総主教承認の下で「モスクワ総主教」が新設された。
これ以後ロシア正教はモスクワ総主教を頂点に戴く「独立正教会」となった。かつてキエフに在った総主教座を吸収した。だが、2019年1月キエフを中心地とするウクライナ正教会は正式にロシア正教(モスクワ総主教座)から独立した。ウウライナは政治的にクリミア侵略によって領土を奪われたことの報復を宗教分野で果たそうとしている。東方正教会の政教不分離は2019年現在も続いている。
 
1610年頃ロマノフ朝誕生(北方ロシア・ノブゴロド国建国者リューリクの血を引く自前の皇帝を擁立、ミハイル・ロマノフ)、この点はナポレオンの皇帝即位に、「強引さ」において先がけている。
(ロマノフ朝は、1917 ロシア革命で滅亡、307年間(1917-1610=307)、ロシア正教徒は革命政府の無宗教政策のため自国に住めず、世界中に離散。ただし革命政府に従順な少数の教会は残った。
1670年ステンカラージンの乱
1670年、ロシアのドン=コサックが起こした農民反乱。17世紀の危機の一つの現れであった。
ステンカラージン

 1670年、ロシアのロマノフ朝(ツァーリはミハエルの次のアレクセイの時)に起こった農民反乱を指導したドン=コサックの首領。正しくはステパン=ラージン。あるいはスチュンカ=ラージンとも表記する。セテンカというのはステパンの愛称という。

 コサックはロシアのモスクワ大公国時代、農奴制が強化されて、農奴への収奪が激しくなったとき、自由を求めて南ロシアの草原地帯に逃れ、半農耕・半遊牧の生活を送るようになった人々をいう。
コサックの中には没落貴族の流れ者、無宿者(日本の江戸時代、清水の次郎長一家のような)、ならずもの、犯罪者、などが多数混入していた 

▲▲ページ先頭へ▲▲▲
それぞれの首長に率いられて、次第に地域的な武装集団となっていった。

ドン=コサックとは南ロシアのドン川流域で活動していた自治的な戦士集団であり、たびたび黒海沿岸やカスピ海沿岸に遠征し、略奪行為を繰り返していた。ラージンの率いるドン=コサックは、ヴォルガ川中下流でロシアからの独立をめざして反乱を起こし、アストラハンを拠点としてロシア帝国に抵抗した。

ロシアはそれまで、コサックに自治権を与え、トルコなどからの国境防備などに利用していたが、ラージンの反乱に対しては弾圧に転じた。ステンカ=ラージンは捕らえられ、翌年モスクワの赤の広場で、四つ裂きの刑で殺され、反乱後すべてのコサックはツァーリへの忠誠を誓わされ、その自治権は大幅に奪われた。ステンカ=ラージンの記憶は民衆の中に長く記憶され、約百年後の農民反乱のプガチョフの反乱につながっている。 
註 : 「世界史の窓」より文章を戴きました。 http://www.y-history.net/appendix/wh0904-124.html
 

1685年頃ピョートル大帝、国家の近代化を強力に推し進める。
ピョートル大帝
ピョートル大帝、近代国家化に着手、成功を重ねる(クリミア半島東側のアゾフ海を偵察、厳寒期には凍結するフィンランド湾最奥にペテルスブルク市を建設し軍港・造船所を作り、海軍を創設)

▲▲先頭へ▲▲▲
1689年1回目、ネルチンスク条約 (2回目 1728年キャフタ条約)
ねるちん
きゃふた ネルチンスク条約は、ロシア帝国が初めて交わした国際条約。清国にとっても初めて。清国に滞在中のキリスト教宣教師がラテン語で条約文を書きました。当時は清国もロシア帝国も近代国家として1年生、ロシアにはピョートル大帝というまれに見る優秀で庶民的な初代皇帝がおりました。
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
(ピョートルは造船技術への関心が高く、一人で西欧の造船所で技術を学んでいました、しかし、2メートルを超す長身のため「皇帝」であることがばれたそうです、彼が「森の中の航海者」達と親しく交わった理由がこれで分かります、彼も航海者と同様「海は広いな大きいな行ってみたいなよその国」という冒険心にあふれていました)、

清国には康熙帝(こうきてい)という「康煕辞典」を作らせるほどに知的な才能にあふれた清国初代皇帝が居ました、この時点では清国の方が文化的に進んでいました。

画像で見る通り、沿海州やウラジオストックはロシア領であることから遠く離れていました。そしてこの条約で、黒竜江進出の足掛かりとして建築中のアルバジン城も康熙帝の軍隊によって取り壊されました。しかし、ピョートルの狙いはしっかりとウラジストックに据えられていたのです。

ピョートルは「森の中の航海者」達からの情報で、清国の父祖の地は清人(満州人)のほかは立ち入り禁止政策が取られており、ウラジオストックを含む黒竜江・ウスリー江以北の地はほぼ無人地帯であり、必ず入手できるとの確信を持っていました。

それで、今回は、ロ・清 両国が国境の概略を知ることと国の軍事力を互いに知ることが目的でした。ピョートルは康熙帝の強さに驚き、キャフタ条約(1728)で国境画定の細部と通商の規則を取り決めた後東方南下はとりあえずあきらめ、最も欲しい「黒海⇒地中海」南下政策を目的に、ボスボラス・ダーダネルス海峡周辺国との戦争(クリミア戦争 1853)に勝つべく帰国したのです。

キャフタ条約はその後、ロシア人移住者がもっと西の地域(バイカル湖南岸)に集まったためキャフタ周辺のより詳しい国境決定及び商取引規則(主として毛皮市場管理)が必要となったため 1728年に 締結されました [清国が1727年に草案作成、ロシアを呼んで修正、1728年に発効]。

その後のロシア帝国は黒竜江沿岸地域への移民計画は断念し、西欧地域での南下政策(黒海⇒地中海、クリミア戦争)に重点を移しました。約130年間(1856-1727=129≒130)は無関心だったのです。

再度強烈な関心を黒竜江沿岸地域に向けるのは、 クリミア戦争で大敗(1856)した時点からでした。この時点(1856)でロシアは海への出口(厳寒期でも凍らない港、不凍港)は相変わらずムルマンスク港(北極海海域のバレンツ海にある)だけでした(ペテルブルグ[サンクトペテルブルグ])港は厳寒期には砕氷船が必要、ペトロパブロフスク・カムチャツキー港は不凍港ですが僻地なので実戦の役には立たない)(もう一つの地図でもこれらの場所は分かります)
およそ130年間かけた「西欧地域での南下政策」は失敗したのです。
中央アジアでの南下政策はインドを植民地とするイギリスを強く恐れていたのでまだ未計画でした。
▲▲先頭へ▲▲▲

ロシア帝国は必死の思いで「ウラジオストック地域」の入手、太平洋への出口欲しさの実現に全力を挙げるのでした、その手法は「相手(清国)の弱みにつけ込んだ」強引且つ素早いものでした。
アイグン(1858)条約での手法はここ
北京(ペキン)条約(1860)での手法はここ

ピョートル大帝
1699年ユリウス暦を採用
註 : カトリック教会はグレゴリオ暦を採用、暦の合理性はグレゴリオ暦の方が優れているがカトリックとの差異を強調するためにあえてユリウス暦(古代ローマからの暦)を採用したものと思われる。ロシア共産革命ののちはグレゴリオ暦となっている。ただし国政のカレンダーだけがグレゴリオ暦でロシア正教会のカレンダーはユリウス暦である。
1700-1721年、北方戦争(バルト帝国[スエーデン])とバルト進出を賭けて戦う、初期は完敗、ピョートルは徴兵制を敷くなどして次第に力を付けスウェーデンとの戦争に勝利するが後日また戦争をする。
1705年、日本語学習所を設立
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1706年カムチャツカ領有、
1706年、カムチャツカ半島に、ペトロバブロフスク・カムチャッキー港を開設、不凍港だがあまりにも遠方のため軍港としての実用価値は少ない。
1712年、バルト海沿岸を占拠
1713年ペテルブルグへ遷都、ペテルブルグ港は厳寒期には凍結するが厳寒期には砕氷船で氷を砕いて港の機能を保つ、ここをロシア海軍の主力であるバルチック艦隊の本拠地とした、日ロ戦争(1904-05)ではここから艦隊が出港、スエズ運河は仇敵イギリス(日英同盟)が支配していたし大型戦艦は水深が浅くて通れなかったためアフリカ大陸南端の喜望峰を通った。
1721年、ニスタット条約、ロシア、バルト海南岸地方を領有。
1728年6月25日(1727締結1728発効)2回目、キャフタ条約、ロシア・清、それまで未確定だった外モンゴルにおける支配領域を確定した[1]。その後の清国とロシア帝国の関係を規定した重要な条約であると同時に中央ユーラシアの歴史においても大きな画期をなす重要な二国間条約である、[1]Wikipedia。市場(毛皮、魚、銃 等の交易所)が開設された。
1743年、オーボ条約、フィンランド南東部をロシアへ割譲 、ロシア、スウェーデン和解。
1744年、帝室陶磁器工業開始
1755年、モスクワ大学創立
1762-1796年、女帝エカテリーナ2世。
ロシア最大版図
奪った土地
1771年、ロシアが クリミア半島占領
1772年、ロシア、プロシャ、オーストリア、第1次ポーランド分割
1772年、ロシア、トルコから黒海北岸を奪う
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1773年プガチョフの乱
1773年、18世紀後半、ロシアのエカテリーナ2世の時に起こった大規模な農民反乱(1670のステンカラージンの乱をしのぐ勢いがあった)。
プガチョフ 1773年、エカテリーナ2世 [ドイツ王室から嫁いできた] 統治下のロシアで起こった大農民反乱。農奴制の強化、重税などのロマノフ朝絶対王政に対する農民反乱であった。その指導者プガチョフは、「生きているピョートル3世」自称し(ピョートル3世は嫁のエカテリーナ2世によって廃され、直後に死亡したとされている)、エカテリーナ2世を帝位簒奪者として非難した。

彼はドン・コサックであったので、呼びかけに応じて各地コサックが蜂起、さらに帝国内のロシア人以外の民族や工場労働者まで支持を広げ、大反乱となった。1774年、オレンブルクで政府軍はプガチョフ軍に打撃を与え、プガチョフは捕らえられ、75年処刑された。反乱を鎮圧したエカテリーナ2世はロシアの農奴制をさらに強化し、貴族との妥協を図った。

なお、このプガチョフの反乱を題材とした小説が、プーシキンの『大尉の娘』(1836)である。
註 : 「世界史の窓」より文章を戴きました。 http://www.y-history.net/appendix/wh0904-124.html 

1787-1792年、第2次ロシア・トルコ戦争、
1788年-1790年、第一次ロシア・スウェーデン戦争、バルト海覇権を賭けた戦争、最終的にロシアの負け。この戦争でスウェーデンの国際的地位が上昇した
▲▲先頭へ▲▲▲
1788年、ロシア、プロシャ、オーストリア、第2次ポーランド分割、ポーランド王国の滅亡
1799年、ロシア、アラスカを領有、アラスカは68年間もの間ロシアが経営していたのだとは! ロシア帝国の国策会社・勅許会社である「露米会社」が北東アジアと北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を行っていたが、アザラシなど海洋動物の毛皮を採集・販売は運送費がかさむこと、乱獲による海洋動物の激減により毛皮事業がなりたたなくなっていた。
(1867年3月30日にアラスカはロシア帝国からアメリカ合衆国が買収した)。  
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1804年、ハルコフ大学創立
1804-13年、ロシア、イランと戦争、ロシアの勝利、イランはカスピ海に軍艦を持つことが禁止され、新国境が画定された。さらにイランは賠償金支払い、関税自主権の喪失と国内のロシア人の治外法権を承認した。イランは半植民地化されていく本格的第一歩とされている。中央アジア南下政策の初期は成功。
1806-12年、ロシア、トルコ(オスマン帝国)と戦争、8回目、ロシアの勝利。ブカレスト条約(英語版)で講和。
1808-09年、ロシア、スウェーデンと戦い、フィンランドを奪う
【森の中の航海者 寸考】 
彼らの中には日本の江戸時代に見られた「無宿者」が多かったようです。
黒竜江とウスリー江の合流点に「ハバロフスク市」がありますね、自由な冒険家ハバロフにちなんでつけられました、しかし、彼は「役人としての出世」よりも「自由」を重んじ、気に入らない命令は拒否したので投獄されたこともあり、歴史に名を残すことはありませんでした。
彼のような「離農者」「没落した貴族」で皇帝にのみは忠誠を誓うという「優秀な無宿者」が急速な領土拡大に貢献したのです。


なぜ短期間(370年間[1853(クリミア戦争)-1480(モスクワ大公国)=373≒370])にこれほど広大な面積を領有できたのか??、

それは、下図の通りの「森の中の水路」を活用したから。彼らはノルマン人の伝統を受け継ぎ、造船技術、操船技術、航路開発技術に長けていました。ロシアの川(水路)は高低差の少ない緩やかで広大な流幅を持ち、互いに異なる名前の川同士が隣接しています、水路が無い場合は「船を担いで移動」「船を曳いて移動」し、次々と航路を開拓して行きました。 ロシアの水路

この時代の地球は「海洋覇権争奪時代」でしたがロシア人達は【森の中の航海者】(「ロシア人のシベリア征服」出羽弘、雑誌[みずのわ 1987]に連載)として、森の中で出会う原住民から「年に毛皮1枚」の税を支払わせることでロシア帝国臣民を作りつつユーラシア大陸北部を一直線に東進しついにベーリング海をも渡りアラスカに至った 1799 のです。アラスカに至った時点では、ロシア人の外洋航海能力は西欧列強にほぼ追いつき、木造船ながら、日本へもアメカのペリーとほぼ同時期(1854)に外交交渉に来航しています。
▲▲先頭へ▲▲▲

1689年の清国との初めての国境線画定交渉(ネルチンスク条約、  対康熙帝)では、「被朝貢国」扱いをうけ、外交上「子供扱い」された、清国はロシア関連の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う「利藩院」で行なっていた Wikipedia。

しかし、清国最終期に幼帝(3歳)となった光緒帝の母である西太后が政治の実権を握り国力が極端に衰弱しつつあった時期にロシアは沿海州を奪い、光緒帝が母から政治の実権を奪った時には国は列強の領土奪取競争の最中でした

ロシアも1860年の北京(ペキン)条約で 162年(1860-1698=162) の忍耐の末の沿海州を入手だけでは満足せず、その後、義和団事件が起きるとアムール川以南に突如大軍で侵攻 図にある通り全満州を奪取、この時のロシア軍の行動は横暴を究め、虐殺を行なっています。

江東64屯というアムール川流域に住んでいた清国人全員、2万5千人 を殺し、死体を川に投げ込み、死体は筏のように流れてゆきました。この事件は、日本人にロシアへの恐怖を植え付けました、旧制第1高等学校では、「アムール川の流血や」 という題名の寮歌が歌われました Wikipedia、ロシアは止めどなく南下し、朝鮮半島にまで南下したときについに日本はロシアに宣戦布告し、日ロ戦争が起きます。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

日本に負けたロシアは満州を清国に返しますが、江東64屯を清国に返すことはしませんでした、その理由は「江東64屯にはすでにロシア人が住む土地となっているので返せない」でした。 2015年現在の日本の北方4島を日本に返さない理由と全く同じ理由なのでロシア人の「不正義」をここでも見る事が出来ます。

それにしても、ロシア人は 殺した2万5千人もの人が住んでいた家によくぞ住むことが出来るものだという違和感を持ちます。死者の無念さを感じる能力に欠ける人たちであると思います。

なお、ウラジオストック(東方征服)という名がつく前の中国名について調べたところ、この港の名称は海参ワイ(ヤマカンムリに威)、清国の無人化政策のため裏さびれた入り江だった stillboy1989さん 2012/1/922:45:10 ヤフー知恵袋 と知りました。

今や「東方征服港」と呼び習わされていますがロシア人は東洋人と付き合う上で、「東方征服港」ということばを会話の中にいれて意思疎通が出来ると思っているのでしょうか? わたしならその会話には違和感を感じますので参加したくはありません、皆さんはいかがでしょうか?

なお、アムール川(黒竜江)を中心に 露・清 で交わされた「条約」については下記の箇所に図説しています。
1)、ネルチンスク条約(1689)はここ
2)、アイグン条約(1858)はここ
3)、北京(ペキン)条約(1860)はここ
★註 : アムール川(黒竜江)下流域のロシアのすさまじい清国侵略の模様は  この表で・・江東六十四屯を取り巻く・・推移・・・1回目〜5回目・・・露 清 の勢いの推移にてまとめています
 

▲▲先頭へ▲▲▲
1812年6月ナポレオン軍がロシアに侵攻、モスクワにまで到達(9月)、市民は市街地を焼き払って退却、 ナポレオン軍は食べるものが無く、退却。
1815年、 、ロシア皇帝がポーランド王を兼務、バルト海へ自由出入り可。
1816年、 、ロシア、バルト地方に自由関税法、農奴解放。
1818年、「ロシア帝国史」、カラムジン編纂
1819年、ペテルブルグ大学創立
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1825年、 、デカブリストの反乱、貴族の将校たちがロシア史上初のツァーリズム(立憲君主制)と農奴解放を要求した闘争、貴族の将校たちはナポレオンを追ってパリまで進軍した。ナポレオン戦争に従軍した貴族出身の青年将校たちは、滞在中、議会の討論会や自由主義的な雰囲気を持つ大学の講義を聴講したり、政治的意見を掲載する新聞を読むなどして、ヨーロッパ諸国の政治・社会制度に触れ、祖国ロシアのそれと比較して格段の進歩を遂げていることに衝撃を受けた。

また、戦争に従軍している農民出身の多くの兵士に直接接し、自分たちの境遇の劣悪さを肌で感じ、国家社会の改革を強く意識するようになった。自由主義的政治思想・人権思想・代議制・立憲制の影響を受けて帰国した彼らは、祖国の専制政治・官僚政治に一層幻滅を感じて改革の必要性を痛感した。

武装蜂起したが、葡萄弾(散弾の一種)で武装した政府軍によって1826年1月3日鎮圧された。

首謀者とされた5人は絞首刑。その他のデカブリストは、シベリア、北東アジア、カザフなどに流刑を宣告された。 これら流刑となった夫の後を追い、11人の妻が貴族身分を放棄してシベリアへ向かったことは、ロシアでは夫への献身の象徴と見なされている。この事件は のちのロシア革命に影響を及ぼしている。
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1826年、 、ロシア法大全・ロシア帝国法典の編纂がなされる。
1830年ころゴーゴリ(社会派文学「検察官」・「死せる魂」 ] : ロシア文化における西欧派とスラヴ派(民族主義派)の分裂・相克)、プーシキン(口語の詩文、『大尉の娘』) 活躍。
1841年土地付き農奴の売買禁止令。
1847年ツルゲーネフ「猟人日記」・
1847-49年ハンガリーの独立運動を鎮圧。
1849年ペトロパブロフスク・カムチャッキーに軍港建設。
1853-56年クリミア戦争 (対オスマン11 回目、ナイチンゲール活躍)、オスマン(トルコ)を支援する英仏サルディニア連合軍との激戦、ロシアは負け、セバストポール軍港を放棄してはるばるとペトロパブロフスク・カムチャッキーまで逃げ延びる。

以後1877年に「徴兵制度」等の国政大改革でロシアの軍事力は復活し再度オスマン(トルコ)と戦い、勝つがロシアの勢力拡大に対して欧州各国の警戒感が広がった。新生ドイツ帝国(オーストリア系統)が介入してロシアの取り分を縮小し、ロシア国内に不満が充満した、

オスマンから独立の約束がなされていた国の中には半分独立(ルーマニア)や独立の失敗(ギリシャ)やコーカサス地方のムスリムのロシア離れと難民化が進み、ロシアにとって得る事は少なく、

反面オスマンはスルタンの専制君主体制が強化されクリミア一帯は政治的に不安定となった。この戦争でもオスマンからの独立を目指すロシア系諸民族(セルビア等)の西欧(ドイツ・オーストリア等)への恨みは深まった。ロシアが抱いたオーストリア帝国(ドイツ連邦)への深い恨みについてはここで解説しています。
■外洋世界の様子
▲▲先頭へ▲▲▲
以下の8つの図で西欧社会(ヨーロッパ社会)における「海洋覇権」」の移り変わりをお見せします、第8図 の段階でイングランド(大英帝国)が海洋覇権を握り、船の構造が 帆船 ⇒ 蒸気機関鉄船 でますます イングランドは1極的な「海洋覇権」国家となりました。
ロシアは内陸では存在感が極めて強く「領土覇権」を握りましたが海上での利権については非常に存在感が薄いことが分かります。これらの図からロシアが抱く「西欧社会への劣等感や妬み心」を直感的に察することが出来ます。

日本はロシアに「征服される恐怖心」を抱き、イングランドはロシアが海洋でもいつかは急発展することを恐れました。

日本とイングランド両国は共に「海洋国家」であり、共に「ロシアを警戒」する点で一致し、「日英同盟(1902)」を結び、WW2 直前まで「持ちつもたれつ」の関係を保ち、ロシアが海洋大国となることを妨げました(日ロ戦争 1904-05)。
海洋覇権1
海洋覇権2
寸考ロシアの自信過剰について 
クリミア戦争(1853-56)のきっかけはロシア皇帝の自信過剰にあるとされています、その理由は、キリスト教聖地管理権(エルサレムのソロモン王宮殿跡地の管理権をロシア正教側に渡してほしい)をカトリック側に申し出た事

この願いはキリスト教分派の一つに過ぎないロシア正教の望みとしては現実離れしています。この自信はどこから生まれるのかはこれまでの図解を一目見れば分かります、それは、

「極めて短期間(372年間 [1852-1480=372] )に世界で最も広い領土を戦い取った」

事から現れるものだと思います、ほしいと思ったことはいくら失敗しても何回でも粘り強く、且つ工夫を重ねて奪い取る、この方法で失敗したことは無いのです。私はロシアのこの行為の根底にある感情は「ルネッサンスも宗教戦争も産業革命も経験していない」「これを経験して近代化した西欧社会への劣等感や妬み」だと思います。

文化の面から見てもいくつもの大学を作り、ゴーゴリやプーシキン等の西欧レベルの文学も現れています。ここで一気に「聖俗ともに世界制覇」という現実離れした夢を実現させようとしたのだと思います。

ロシア民族のこの「性急性」「極端性」「夢と現実の無分別性」「しつこさ」「無慈悲さ」「無理を押し通す直情性」はその後はこの民族の失敗の原因として現れ悲劇を生んでいきます。、例えば、
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

1)、クリミア戦争(1853-56)で「聖俗ともに世界制覇」を実力で実現させようとした。その結果は西欧世界からの追放でした。ロシアが初めて味わった「負け」でした。
2)、日ロ戦争(1904-05),世界の覇者だったイギリスを公然と敵に回し超弱小国日本を植民地化しようとしてまた負け。
3)、WW1(1914-18)、ではイギリス側に付いて宿敵である新生ドイツ、オーストリア、オスマンを倒そうとしたが国内不統一のためタンネンベルグ戦で想定外の大敗を喫した、また負けたのです。
4)、タンネンベルグ戦(1914)の直後にロシア革命(1917)が発生、汎スラブ主義派に失望した西欧派が共産主義理論という「非現実的反宗教主義」路線を掲げていちかばちかの勝負に出て、今度は勝利してしまう(ただし、国内戦)。
5)、ソ連邦という共産主義国家が成立(1922)、国際共産主義という夢を世界に発信、上記で見てきたように「無理を押し通す直情性」でいちずに邁進します。
6)、「ロシア正教も宗教だからダメ」という国家方針は 1589年から 328年間(1917-1589=328)もの間、国民の精神的よりどころとして続いてきたにもかかわらず信徒はダメと言い渡され「ロシア正教徒の世界離散(ディアスポラ)」を生んだ。
7)、WW2(1939-1945)では一応「イギリス側の連合国の一員」として戦うが、ドイツによって「民族消滅」の瀬戸際(レニングラード[ペテルブルグ]戦)にまで追い詰められ「大祖国戦争」と命名して必死に全滅を防ぐも 2150万人(1450+700=2150)という死者を出し、兵士の不平不満はまたしても超弱小国日本へと向けられました、日本と交わした中立条約を一方的に破り、ポツダム宣言も守らず、数々の違法行為を繰り返し、世界中に「理解不可能な国」として認識され、不法行為は裁判にもかけられず黙殺されました。
↑↑ロシ通検索へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
8)、ソ連邦崩壊(1991)、「共産主義政党1党支配」の政治は限界に達し、[(チェルノブイリ原発事故事実隠蔽疑惑での信用失墜と、アメリカのレーガン大統領の「悪の帝国レッテル」貼りに直情的に反応しての軍事費急膨張が原因)]、国家は破産、ソ連邦は消滅し、革命前の「普通の国(ただし「帝国」ではない)」に戻り、ディアスポラ状態だったロシア正教徒達も世界中からお金を持って帰ってきました。国名もロシア共和国⇒ロシア連邦、大統領が選挙で選ばれ、議会が立法し司法も独立。
9)、現代版クリミア戦争(2014年〜)、このまま順調に行くかと期待されたにもかかわらず、またもやクリミア半島を舞台として「侵略事件」を起こし、2015年現在も未解決で先の見通しも立ちません。この事件も「西欧社会に対する劣等感」を基礎感情とした「性急性」「極端性」「非現実的自信過剰」が表面化したものです。プーチン大統領の掲げた侵略目的は「ロシア人保護」でしたので、「スラブ民族主義復活」現象と解釈できます。

せっかくクリミア自治区やウクライナもロシア連邦と 歩調を合わせて民主化路線を歩み始めたのだからジーと静観することを10年間くらいはする必要があったにも関わらず性急な「汎スラブ民族主義」に大統領が率先して走ってしまったのです。ウクライナが核兵器を放棄(1944)した時の約束は、「ロシアも西欧世界と協力してウクライナの領土保全・安全保障を約束する」だったにも拘わらず、見事なまでの「約束破り」で、これはWW2終了時点の日本との「中立条約破り」と同じく「理解不可能」な直情的行為です。

また、民兵と自称する武装集団がブクと呼ばれる地対空ミサイルで高高度を飛ぶ民間旅客機を撃墜していることもこの戦争の無気味な要素です。
今後のこの国の未来について
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
現ロシア大統領は、ワルシャワ条約機構が無くなったのでロシアの安全保障に危機感を募らせています、しかし、ロシアもCIS(独立国家共同体)もろともにNATO(北太平洋条約)に加入くらいのおおらかな外交交渉をする時代が来ているのではないでしょうか?

少し観点をずらして考えるならば、ロシアのように冬の期間が長く、冬の寒さは想像を絶するようです、そして国土が東西に長すぎます、日常の時間管理が極めて不便であるようです(西のモスクワ市が6月9日04時37分 の時東のカムチャッカ市は6月9日13時37分 と東西で約10時間の差がある)。
たとえ石油と天然ガスが出るとしても有限です。しかも北に行くほど地下は凍土、地球が温暖化すれば国土の北方の建築物はすべて倒壊するでしょう
このようなロシアを侵略してまで欲する国があるでしょうか?

結論として、過去に持った「自信」を性急に使うのではなく「熟慮して」「機が熟するのを待つ」という使い方に変えてほしいと思います。諸能力が基本的に高い国なのですから「自信」の使い方さえ正しければ正しい結果が出ると思います。

かつての「自信」を「国際社会とどうつき合うか」に使ってほしいと思います。

私がこの自称「大国」に期待することは「国際連合警察部隊」を作って「テロリストを殺害するのではなく逮捕」するという「非現実的ではありますが、人口 1.4億 と小さいながら世界一広い自称[大国]で、世界第2の高性能兵器を豊富に持つロシアに似合った」大事業を始めてほしいと思っています。

■[1854年、ディアナ号、ロシア帝国の帆走戦艦、来訪、目的は北方領土交渉、交渉団々長はプチャーチン。交渉場所は静岡県下田市、クリミア戦争進行中で、ロシアが敵国(イギリス、フランス)と日本で遭遇しないよう江戸ではなく下田で行われた。日本政府の配慮があった。(長崎には鉄船 [黒船] 3隻が、ディアナ号護衛船として来ていたが目だだない様にとの配慮で長崎に止め置かれた)

■、下図は、ディアナ号とサスケハナ号。

ディアナ号(ロシア帝国外洋航海帆船戦船)とほぼ同時期にアメリカのサスケハナ号(機帆船、[外輪推進1機を持つ帆船])が日本に現れた。ロシア帝国のプチャーチンは不運にも安政の大地震津波でディアナ号は沈没させますが、日ロ和親条約(日魯通好条約)は大筋で締結(1854,12,21)して帰国しました。
★註 : この当時の古海図が 2019,4,19 に英公文書館から見つかりました。
▲▲先頭へ▲▲▲
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
来航年:国籍:船名:トン数、全長、船長名 1854 : ロシア帝国 :ディアナ号 :2000トン:52メートル:プチャーチン 1853 アメリカ合衆国: サスケハナ号: 2450 :78.3メートル :ペルー 
来航目的 : 国情 北方領土交渉 : クリミア戦争(1853- ナイチンゲールの)で劣勢に向かいつつあり、地中海への南下政策をあきらめ、北東アジアでの南下政策を模索中 捕鯨船の水、食料等補給港確保: 英国からの独立戦争後急激な工業化中、南北戦争の気配あり 
船の材質、艦数、人員、武器・ 木造、1艘、500名、大砲52門、 鉄船、3隻を従える、約600? 3種類の大砲 
推進機関 帆のみ 帆と片側外輪推進式蒸気機関 

▲▲先頭へ▲▲▲
註 : 左の画像は、ディアナ号、セカンドシテージ 産業遺産の旅 幕末造船秘話より、右の画像は、サスケハナ号、 Wikipedia よりいただきました
寸考
画像だけを見て比較するとロシア帝国が外洋艦船において劣勢のように見えますが、当時の米ロは外洋艦船においてはほぼ同格でした。ロシア帝国のプチャーチンは1853年に北方領土締結準備に3隻の黒船(鉄船)を率いて長崎に来訪しています、ロシアは大いなる自信をもってクリミア戦争(1853- ナイチンゲールの活躍した戦争)開戦時には勝つつもりでいました
 

↑↑↑↑ページの先頭へ↑↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
ペリー初来航についてはここ
サスケハナ号(ペリー)とディアナ号(プチャーチン)の比較については上記を参照の事。

[ 2016,12,6 記、ぺリーの陰に(プチャーチン)、毎日新聞、火論、玉木研二氏 ]


(私なりの要約)
1)、ゴンチャーロフが日露のなれそめを記している。日本人を非常な好感を持って観ている。
2)、ぺりーの態度(大砲で脅し、開国を迫った)とは異なり、幕府の外交窓口の長崎に入り次に下田に来た。ディアナ号は津波で転覆、曳航中に結局は沈没、代替船(ヘダ号、戸田(ヘダ と読む))を作って帰国した。日本人に西洋式帆船建造技術を教えた。
3)、プチャーチンは終生の親日家となり、日本人留学生らを支援した。
4)、プチャーチンの娘は戸田村の人々を訪ね交流している。
プチャーチンは、日本が明治時代になって、日本の勲一等旭日大綬章を受けた。ペリーはじめ他国使節には例がない。
従軍司祭(ロシア正教司祭)は日本人による難破船員救助の様を次の通りに記している 「善良な博愛精神に満ちた民衆よ! 500人ものロシア人を救ったのはまさにあなたたちの功績だ」、毎日新聞 2016,12,15 「余禄」 より引用
 

〜〜〜〜〜以上、日露のなれそめ でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1855年日ロ和親条約(日魯通好条約、国境線を、択捉島(エトロフトウ)と得撫島(ウルップトウ)の間とした。樺太(カラフト)については国境を定める事が出来ず、日ロ混住の地とされた。しかし、混在は紛争の種となることが多かったので日ロ両国は紛争回避のための方策を練ることとなった。
★註 : この当時の古海図が 2019,4,19 に英公文書館から見つかりました。
1858年3回目、「アイグン条約」成立。(3回目の露・清条約、1回目は(1689)ネルチンスク条約、1回目と3回目のあいだの約170年間、ロシアは東方 [太平洋への出口] はあきらめ、ユーラシア大陸内部の商取引で満足していた、(キャフタ条約 1728)。アイグン条約によって、それまでは非公開だったニコラエフスキー見張り所が [太平洋への出口] として意味を持つようになりました。「ニコラエフスキー哨所」と呼ばれるよになり軍港の要素を持つようになった、しかし、冬は凍る軍港なので、後日北京条約(1860)に裏付けられたウラジオストック(不凍港 1878 完成)に軍事機能が吸収された 。
清国は、太平天国の乱(1851-1864)の最中、且つ、アロー号事件係争中(1856-1860)という弱みを抱え国威は衰え滅亡の危機に瀕していた(イギリスのアヘン中毒作戦にまんまと引っかかっていた)。

3回目、アイグン条約図 黒竜江(アムール川)沿岸への植民を再開、170年ぶり。
アイグン
あいぐん ロシアはクリミア戦争(1853-1856)で完敗したため、北東アジアで南下政策 [太平洋への出口入手政策] を新たに行うことを決定、約170年間放置していた黒竜江(アムール川)沿岸への植民を再開したのです。

新条約が必要であるとするロシア側の清国への主張の根拠は「ウダ川とスタノボイ山脈との間が約170年間未確定のままである」「先ずそれを確定せねばならない」であるとして新しい国境線を決める話し合いに誘い込んだ、清はまんまとその作戦にひっかかった、ロシアの本当の目的、すなわち「清の国土奪取」「太平洋への出口入手」を読み取ることが出来ないままロシアに引きずられた外交交渉だった。

イギリス船籍のアロー号がアヘンの密貿易をして不当な利益を上げようとする現場を公正に臨検した清国政府を力ずくで押し切る(実際に有ったことを無かったとする)イギリスの行動(1856)を見たロシアは、清と国境線を決める話し合いには力ずくで押し通せば事はなるとの態度で臨み、精神的に疲れ切っている清国を押し切った(アロー号事件のように)国境線は大幅に清国側に食い込んだ、ネルチンスク(1689)の場合と要比較

1)、画像の茶色い部分がロシア領となったのです。
2)、画像の青い色(沿海州)は両国の共同管理地とする。
3)、画像の黒竜江左岸[上流から下流を眺めた場合に川の左側にある地域](「江東六十四屯」を含む地域)の集落は満州族が従来居住を続けてきたので清国が管理する。
4)、黒竜、松花、ウスリーの三江の航行権はロシアと清国のみに認める、三江の住民は互いに貿易 しても良い。

後日、清国はこの約束撤回を申し出るがロシアは拒否。

ネルチンスク条約と比較して相違点を知ることが必要です。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

1860年4回目、「北京(ペキン)条約」成立。[手書き地図はここ] 清国は、太平天国の乱(1851-1864)の最中、且つ、アロー号事件係争(イギリスと清国とのもめ事)をこの条約で終わらせる [解決を仲介(1856-1860)]
アイグン条約で「共同管理地」とされた地域が「ロシア帝国領」とされたほかはアイグン条約の効力は続くことが確認されました。
アルバジン城戦(ロシアが建設中のこの城を清国が攻撃、ネルチンスク条約でロシアはこの城を清国に明け渡した)で、「清国は予想したよりも 強い 」と判断したロシア帝国は、あっさりと清国侵略をあきらめ、当時「瀕死の病人」と呼ばれたオスマン帝国を倒して 黒海⇒2つの海峡⇒地中海  を目指しましたが西欧列強がオスマン帝国に味方したため「完敗」し、アルバジン城戦から約130年後に、急に衰弱し始めた「清国」に再び狙いを定め、「完勝」したのです。

アロー号事件(1856-)はアヘンの密貿易がばれたイギリスが居直って「名誉棄損」を理由に清国から謝罪と賠償を求めた事件でしたが、当時、フランスも宣教師を殺されていたのでイギリスと共に清国に謝罪と賠償を求め両国が協力して清国の豪邸を襲撃して貴重品を奪い清国に圧力をかけ成功しました(天津条約 1858 ロシアとアメリカが仲介、アメリカも清国の衰弱につけ込んで「最も遅れて参加した国」として清国から「富」を奪おうとしました)。しかし、英仏の強引な手法に清国人民が怒り、天津訪問中の使節艦隊を攻撃しました、それで、再び英仏は怒りを清国政府に向けたのです。
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

ロシアは「北京(ペキン)条約交渉」の場を設定しました、不満を抱いていた英仏と清とを終戦交渉させ、清を大幅に譲歩させ、交渉は 成功したのです(1860)。
ロシアはこの時、抜け目なく、自国の利益(沿海州の獲得)も確保したのです。そして、北京条約成立前からウラジオストックの開発工事を始めていたのです。1878年にウラジオストック軍港(不凍港)完成、ニコラエフスク(凍港)から軍事重要要素を移動。

4回目、北京条約図 ウラジオストック港(不凍港 1878 完成)
北京条約
ペキン
寸考1 :政治的に重要な地域である沿海州をなぜロシアに渡したのか?
それは、「清国」が弱体化しきっていたから。
アロー号戦争(第2アヘン戦争)終結を仲介したのだからその代償として沿海州を渡してほしいとの要求に清国は返す言葉もなく沿海州をロシア帝国に渡した。
ロシア帝国は大いに活気付き。この地にサハリン島(現在のサハリン州)を加えた行政区として沿海州(プリモルスキー州)を置いた。沿海州の南部である現在の沿海地方には軍港ウラジオストクが建設され、ロシアの太平洋への出口となった。またシベリア鉄道の終点でもあり、ロシアにとってアジアへの進出拠点というその存在意義は大きいものとなっていった。逆にその後の中国にとって日本海への出口を失ったことになる。ロシアはここからさらに満州全体、朝鮮へと勢力を伸ばし、全満州を勢力圏に置いたが、日本と衝突して日ロ戦争となった。 Wikipedia の記事を私なりに装飾。
 

ロシア帝国と清国のウラジオストック地域の境界線は朝鮮国と清国の境界線だった部分もあるのでその判断には注意を要します。 ここに画像を挿入して判断の手がかりとします。「判断」とは「清国は日本海への出入り口を完全に封鎖されたのかどうか」についての 判断 です。
▲▲先頭へ▲▲▲

実は下記画像に見る通り 「完全封鎖」です。

この事実は、ロシア共和国が、ソ連邦崩壊時(1991)に、バルト3国独立によってバルト海への出入り口を喪失する対策として「飛び地(カリーニングラード)現ロシア連邦地図1はここに・・・赤字で手書き、」を確保した点と極めて異なる態度を 清国 に対して取ったということです。(ソ連邦崩壊前のカリーニングラードはこの地図で知ることが出来ます、同じ場所です)

ロシアという国が文化的先進国を目指すのならば、現中華人民共和国(旧清朝)にも日本海への出入り口を用意してあげる事が必要です。

もし私が有力な国際的外交官であるならば、次の画像の通りの(赤線表示)の国境設定を提案する事でしょう。
現実の 露中朝国境設定
ロ中朝境界線
 
私が提案する 露中朝国境設定
ロ中朝境界線
 

▲▲ページ先頭へ▲▲▲
寸考2 :「ウラジオストック」という言葉について 
「ウラジオストック」の意味は「東方征服」
東方に住む者は思わずその名の恐ろしさにたじろぐのです。
地中海への南下政策が失敗して次は東方で南下政策を進めようとの国内向けの名称ですが、国外の者への配慮は一切されていないと思います。地中海への南下政策失敗(1853 クリミア戦争敗北)はロシア人にとっては大変な屈辱であったことについては理解できるのですが、同時に東洋人への敬意はどこにあるのかという疑問が湧きます。
いずれ将来は名称の変更が必要になる時が来ると思います。このままでは、この恐ろしい東洋人蔑視国とは仲良くなることは困難なのです。

また、私は「極東地域」ではなく「北東アジア地域」という言葉を使ってほしい。
プーチン現ロシア連邦大統領は「北東アジア開発」の重要性を強調した政策を打ち出していますが「ウラジオストック(東洋征服)」が北東アジア人交流会で使われる限りはこの政策は成功しないと思います。
 

1861年、農奴解放宣言、
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
1862-62年、ポーランドに徴兵制施行。ポーランド人の革命的暴動(〜64)■、このころより、無政府主義・虚無主義の運動盛んとなる。
1866年ドストエフスキー、「罪と罰」
1867年、アメリカにアラスカを売却。金鉱が存在することは知らず破格の安値で売った。
アラスカ売る
1867年、モスクワにおいてスラブ族代表者会議開く。
1869年トルストイ、「戦争と平和」
1869年ワルシャワ大学創立、
1869年メンデレエフ、元素の周期律を発見。
1870年10月黒海中立破棄宣言、(翌年列強承認)
黒海中立とは、「黒海での軍艦の航行禁止と沿岸での軍港建設禁止および2つの海峡の軍艦通行禁止」 を意味します。ロシアが「破棄宣言」をしても2つの海峡を軍艦が通ることは許されませんでした 

1872年、バクーニン、無政府党(国家に権力が無くなることを望む党、無政府主義者、アナキズムの党)を組織
1874年、義務兵役制、ナロードニキ(人民の中へ)運動起こる。
1875年、日本との間で、千島・カラフト交換条約(樺太千島交換条約)成立。
▲▲先頭へ▲▲▲
1)、カラフト全島はロシアに帰属する。宗谷海峡を日ロ両国の国境とする。
2)、占守島から得撫島までの千島列島18島は日本に帰属する。占守海峡(カムチャツカ半島と占守島の間の海峡)を両国の国境とする。
1877年4月-78年、露土戦争
1879年、ナロードニキの分裂、「人民の意思派」結成、虚無主義者の処刑始まる
1881年、皇帝が暗殺され、その犯人がユダヤ人であるとされた。ユダヤ人が迫害された。民族対立が起こり社会は混乱する。ロシア革命(共産主義革命)の準備期。
1881年5回目、イリ条約、清国との間に、中央アジアのバルハシ湖東南部、国境のあいまいさを解決、清がロシアに譲歩した。
イリ条約
イリ条約
イリは画像で見る事が出来る通り、バルハシ湖の東南、現在の中共国新疆ウィグル自地区西端にあります。この地方は、サラセン(イスラム)教の強力な地方豪族が時の権力者に従わないという伝統のあるところです。かの強力なモンゴル帝国(1240-1368)でも完全制圧は無理でした。
清国統治下の新疆地区でイスラム教徒が反乱をおこすと、ロシアはこの戦乱を利用してイリを占領。清国の撤退要求を無視し対立した(1871-1981, イリ事件)。イギリスの仲介で 1881年 イリ条約が結ばれ、ロシアに新疆での通商権を認めるかわりに、イリ地方は清国に返還された。

イリの西側は 1850年 頃からロシア帝国が中央アジア地域での南下政策を続けてきました。地中海への南下に次ぐ熱心さで、強国イランまで南下、足踏みしました。アフガニスタンへ入りパキスタンを通過してアラビア海へと出る作戦を取ってきた実情はこの画像の通りです。そして、1881年頃までには画像にある通り、イギリス領インド(含パキスタン)にも侵入する勢いでした。
しかし、この方法での南下はイギリスがインド(含パキスタン)を領有している限り、イギリスと正面衝突の戦争で勝つことがあるのみでした。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

そこで、ロシアは南進をあきらめ、弱った清国から出来る限り広大な面積の土地を奪うこと、そしてその国境線を画定することの方が合理的でした。
イギリスもロシアとの戦争は望んでおらず、ロシアを暴発させないために清国へ「譲歩」を勧告します。「譲歩地域」があまりにも広いので清国はロシアと戦争することも考えましたが、当時国家崩壊の最終段階にまで衰えていた清国には戦争すれば国が消えてなくなるので仕方なく「譲歩」したのです。
イギリスは清国の譲歩を歓迎し、イリ条約後はもっぱらアフガニスタンをロシアとの勢力緩衝地帯とすることに精を出します。
ロシアも過激な行動を起こさず、「交渉」で政治を進めました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
註:アフガニスタンの「富」は ロシアの南下政策通過候補地点 である事のみで、鋼物資源はあるようですが、原油は出ませんし 穀物・果実もラクダを使った農法のため豊富には産出せず、19世紀以降は人口の急上昇による貧困地帯でもある。
短期(10年間)でしたがソ連が共産圏に取り込むべく 侵略しソ連傀儡政権を作った ことがあります(1979〜 1989)、自由主義諸国はこれに抗議して1980のモスクワオリンピックに不参加(ボイコット)で反対意思を表明した。
また、2001年9月に起きたアメリカ同時多発テロ事件の首謀者、ウサマ・ビンラディンを潜伏させたことからアメリカからの軍事援助がアフガニスタン北部タリバン同盟になされた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 

寸考   【コサックの強さについて】

コサック兵は平原戦でなぜ短期間に中央アジアを南下し1881年にはイギリス領までロシアを南下させたのか??? それは、皇帝により特別に手厚い扱いを受け、彼らが最も好む「自由」と「報酬(自治権)」を保障し、コサックもまた皇帝に対し格別の忠誠心を持っていたから。

コサック兵は、日本の江戸時代に例えれば「無宿人」「ならず者」です、勝手気ままなために農業や加工業には使えませんが、好きな騎馬と射撃についてはやる気さえ起こさせればどんなに危険な戦闘でも勝つまで戦うのです。

ロシア皇帝はコサック兵にやる気を持たせ上手に使いました。
 

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

1882年、ロシア軍、メルヴ(アフガニスタン北部、上図で探してください)占領、工業化をすすめますが、アフガニスタンを占領しようとするイギリスとの間に緊張が高まる。
1886年、黒海東岸のバツームに海軍基地建設。ロシアに資本主義発展。
1888年、コーカシア(コーカサス)横断鉄道開通、フランスから5億フラン借款。黒海とカスピ海の間に東西に延びるコーカサス山脈沿いの地帯を走る、諸民族混在地。
1891年、大凶作、ヴォルガ地方で暴動起こる。
1891年、ロシア・フランス、同盟を結ぶ準備、1894年最終決定。
1891年、ウラジオストックでシベリア鉄道起工式。
1892年、ロシア・フランス軍事協定、翌年(1893)ロシア艦隊はツーロン港を訪問。
ジブラルタル海峡を通っての訪問、ボスボラス=ダーダネルス海峡を通過した黒海艦隊ではない、海峡封鎖中の時期なので。
1894年、西シベリア鉄道の開通、ドイツと通商条約。
1895年、労働者階級解放闘争同盟結成。
1895年シェンキェビッチ(ポーランド人)、「クオ・バディス・ドミネ(主よいずこへ行きたもうや?)」を著わす、人々の宗教心を刺激し社会的混乱を鎮めようとしたと思われる。
1894年、日清戦争
▲▲先頭へ▲▲▲
1895年、日清戦争の結果に三国干渉、下関条約で日本領となった遼東半島を清国に返すべきであるとの干渉、ロシアが最も強く干渉、次がドイツ。イギリスとアメリカは局外中立の立場を取、日本を救う気持ちは全くなかったので日本はこの干渉を受け入れ、賠償金を清国から受け取って、遼東半島を清国に返した。ロシアは清国に恩を売りその後の清国との外交交渉を有利に運んだ。、
1896年、清国と「東清鉄道密約」、ウスリー鉄道起工。
鉄道と64屯


江東六十四屯 については、

ネルチンスク条約の画像、
アイグン条約の画像、
北京条約の画像で
そのおおよその位置を 江東六十四屯 という文字列で示してきました、その意図は、古来、満州人が固まって住んで来た所の概略を知るためでした。

この画像では、10種類くらいの情報源からほぼ正確な場所を示すことが出来たと思います。

なお、その広さについては 3600平方キロメートルですが、日本の四国の約 1/5 です。四国の面積は 18791平方キロです。 (18791÷3600=5.22≒5)私の画像では地図上の四国のほぼ 1/5 で図示しました。
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

1897年、工場就労時間法、11時間半。
1898年、旅順と大連を租借
1898年、レーニン、社会主義労働党を結成するも弾圧によって崩壊する。
1899年トルストイ、「復活」を著す。
1900年8月江東六十四屯の大虐殺. ロシア帝国が清国人 2万5千人 を虐殺。上図を見てください
背景には「義和団の乱(1899-1900)」での外国人一斉排斥運動があり、義和団を支持した清国列強8ヵ国に対して宣戦布告していた状況があった。清国人達はロシアの鉄道工事を妨害したのでロシアは「東清鉄道保護」を大義名分に掲げて狂ったように清国人を殺しまくったのです。
先ず、大軍(18万)で突然、ゼヤ川が黒竜江へと流れ込む付近を襲い、ブラゴヴェシチェンスクの住民3000人を虐殺、次に対岸の黒河鎮とアイグン城を襲い、最後に「江東六十四屯、64か所の村という意味」を襲った、虐殺された人数は 2万5千人。死体は黒竜江(アムール川)に捨てられた。死者の群れは筏(いかだ)のように黒竜江を流れ下って行ったと語り継がれています。
▲▲先頭へ▲▲▲
この表で、江東六十四屯を取り巻く 露・清 の勢いの推移をまとめました
 1回目、 1689年、 ネルチンスク条約、清の康煕帝は国境画定の「条約」を大まかにかつ有利に決めて 露 を追い返した、当時の 清 は文武双方で強かった
 2回目、 1728年6月25日、清国とキャフタ条約、国境の画定と市場開設交渉成立、ネルチンスク条約に政治的商業的具体性を加筆、ロシアは東方南進にけじめを付けて西方南進(黒海⇒エーゲ海⇒地中海)へと南下政策方針を転換(クリミア戦争(1853))に全力を注ぐ、国家消滅寸前の敗北を喫します、
 3回目、 1858年、「アイグン条約」130年間(1858-1728=130)忘れていた東方南進を思い出したのです。そして、国力が衰えた清国と アイグン条約 を結びます。画像で見る通り清国は大幅に領土を取られています。
 4回目、 「北京(ペキン)条約」ではさらに領土を取られました
1860年、「北京(ペキン)条約」 康煕帝以後の清は弱体化し続け、沿海州までをも取られ、江東六十四屯住民はすべて殺され、死体は黒竜江(アムール川)に捨てられました、1878年にはウラジオストック港(不凍港)を開港させ、太平洋への常設出入り港を確保して満足したロシアは中央アジア南下を目指します(5回目イリ条約)、
 5回目、この枠を飛び出しての説明をいたします、以下の通り  5回目、としての説明が 3回  出てきますが結果は、ペルシャ湾へは出られず、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)を清国領と認める代わりに清国領内毛皮通商権を得ることで妥協し、南進政策は終わりました、ロシア南進政策総合結果はウラジオストック港を獲得しただけでした、しかも「南進成果」というよりは「東進成果」と表現した方が適切だと思います、この見方をするならば、強引な東方南下は最も欲しかった「旅順」を得られなかったのでこの結果は 「失敗」 だった(旅順は三国干渉の結果短期間は確保したが日ロ戦で日本に取られた)。

なお、江東六十四屯 の広さは、日本の四国の約 1/5 ,位置は黒竜江の北側ではあるが古来清国人(満州人)が住んで来た事を理由に清国が管轄するという約束がアイグン条約で交わされていました。
〜〜〜〜〜〜〜〜以下で追記を始めます〜〜〜〜〜〜〜〜
ユーラシア大陸における 清国いじめ の
 5回目 、 イリ条約 (1881)はウラジオストック(不凍港)を開設(1878)して満足したロシアは中央アジアからペルシャ湾へと出る港が欲しくなりました。このルートを取る南下はアフガニスタンへは入れますがその先のパキスタンは通れない(イギリス領であるため)。仕方なく南下をあきらめイギリスの仲介で清国と結んだのが イリ条約 (1881)でした。イリ条約の時での 「強引に居座る」 侵略方法はその後のロシアの常套方法となります。清国の領土(現在の新疆ウイグル地区、東トルキスタン)を奪った時、清国の抗議を無視して居座っていましたが、すでにインド方面から新疆ウイグル地域に進出していたイギリスの仲介で、ロシアは毛皮等商品の流通についての権利を確保するという条件で「居座ること」をあきらめ、引き上げました。
 5回目 以降も「無断で占領したまま居座る」事を続けます、次の通りに。1903年、満州を占領したまま居座る、同じ年に朝鮮の岩竜浦を占領したまま居座る、同じ年に奉天市を占領したまま居座る。

その前の1895には「日清戦争の勝者である日本に三国干渉(露仏独)を仕掛け日本に遼東半島を放棄させた、結局ロシアが一番良い場所(旅順港)を日本からむしり取って居座る。

ロシアをこのまま放置したらさらに南下して日本までがロシアに取られるとの危機感を持った日本は遂に、1904年、ロシアに対して宣戦布告をしました。歴史の流れは、この時点からはロシアの 不利・敗北 の連続となります。日ロ戦敗北 ⇒ 第一次世界大戦後半に「レーニンによる暴力革命(共産主義革命)での国内騒乱」 ⇒ 革命牽引者の交代(スターリンへ) ⇒ 共産主義経済圏構築・重工業新興政策の成功 ⇒ 世界史概観・下 の書き出し部分(ノモンハン事件)のロシア史鳥観短文へ と続きます

▲▲先頭へ▲▲▲ 5回目の条約でも、上表の通りロシアは清国からの領土奪取に満足することはありませんでした、再び極東で身勝手な収奪を行ない、日本が日清戦争[1894]で手に入れた遼東半島を、三国干渉(露仏独)を主導してかすめ取りする、この弱いものいじめに腹を立てた日本は1902年にイギリスと同盟を結んだあと 日本が ロシアに宣戦布告 して遼東半島を取り返した[1905]のでした。ロシアは日本に大負けし(日ロ戦争 1905)ロシア国民の怒りは頂点に達し、ついに国家体質の根本的革命運動が全土を覆いつくす。
土着民が主体ではなく、ドイツ系インテリ層 [レーニンの暴力革命思想、先ずロマノフ王家全員暗殺の大暴動が東へと拡大] が主導するロシア共産主義革命はやがて国際性を持つ、その影響は先ず中国地方へ、かつ世界中へと及びます。

ロシアという人間集団は破壊の方向への牽引力のなんという強い集団であることかと驚かされます。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

日ロ戦争の後、清国領土だったところは清国に返されましたが江東六十四屯については「現在はロシア人が住み着いている」という理由で返しませんでした。なお、2000年頃(ロシアはエリツイン大統領、中共国は江沢民国家主席)に中共国は江東六十四屯の主権を放棄する事を認めたそうです。しかし、台湾政府(中華民国)が認める地図の中にはこの場所は2015年の現在でも「中国領」として表示されているそうです。

それにしてもロシア人が死者への敬意を全く持たないことは恐ろしい事です。64もの村があり、そこの住民全員を殺して黒竜江に投げ捨てた後よくぞ、かつては清国人が住んでいた家々に平気で住めるものだと思います、ロシア人の精神の劣等性を疑います。

一般的な人間ならば、「やむを得ず殺してしまって申し訳ない」との祈りを込めて鎮魂の儀礼を行ったうえで慰霊碑を建立して住む事でしょう。

慰霊の行為が全くないとするならば、今後ロシア人と隣人関係を持つことは大変難しいと思います。今後、ロシア人とは「江東六十四屯死者の尊厳」について語り合う必要があります。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲ 
〜〜〜〜〜〜〜〜以上で追記は終わります〜〜〜〜〜〜〜〜
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
1901年7月、義和団事件最終議定書(北京議定書)成る。
1900年10月から始まった和議交渉から、その内容ごとに逐次列強国と清国間で協定を締結し、一部は既に施行されていた。本議定書はその条件履行の最終確認として、双方全権出席の下、調印されたものである。
分割区分

列国協議のもとで清朝に拒否を一切認めない形で認められ、首都北京を占領された清朝(西太后・李鴻章)はこれを呑まざるを得なかった。

海岸から北京までの諸拠点に列国の駐兵権を認めた。

清朝領域内でその国権が否定され、列国が統治(画像の通り)

この状況は第二次世界大戦の終了まで事実上維持された。日中戦争の端緒となった盧溝橋事件において「なぜ日本が中国の領域深くまで当然のように兵を置いていたのか」という疑問を聞くことがある。日本からすれば北京議定書に基づく権利の行使に基づき日本軍駐留中だった。Wikipediaより抜き書き。
▲▲先頭へ▲▲▲

想定外に多額な賠償金は辛亥革命によって誕生した中華民国が引き継ぎ中華民国の財政を圧迫した。

<ロシアの居座りと日英同盟>
ロシアは義和団事件に乗じて満州を占領したが、1901年になっても撤兵しなかった。イギリス、日本などの非難が起こると、ロシアは独自に李鴻章と交渉して露清密約で既得権益の確保を図ったが、1901年11月7日に李鴻章が病没したため実現しなかった。

しかしロシアはなおも満州から撤兵せず、それを受けて1902年1月、イギリスと日本は日英同盟(第一次)でイギリスは日本の朝鮮での特殊権益を認め、同盟関係を結んだ(日英同盟 1902)。
ロシアは同年4月、清との間で満州還付条約を締結して1年半で段階的に撤兵することを約束したが、清に対しても条件を付けたため実施はされず、日ロ間の緊張が高まり、1904年の日ロ戦争へと向かっていった。 http://www.y-history.net/appendix/wh1403-034.htm 「世界史の窓」 より部分複写。

1901年、モスクワ、ペテルブルグ等で軍隊の反乱。社会革命党・立憲民主党結成。
1902年、シベリア鉄道全通。日英同盟に対し、露仏宣言。
1903年、満州を占領したまま居座る。5月、朝鮮の岩竜浦を占領、11月、奉天占領。
1903年、社会民主労働党、ボルシェビキとメンシェビキに分裂。
1904年2月5日、日本がロシアに宣戦布告、日ロ戦争が始まる。

〜〜〜〜〜〜〜〜挿話37 ロシアとのお付き合いの方法について〜〜〜〜〜〜〜〜
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
寸考
「ロシア通史」をひと月かけて完成させました。

世界の中でロシアが置かれている状態をより深く知ることが出来ました。

あえて一言でロシアを表現するならば、「巨大な戦闘集団」で、いまだに「バイキング(ノルマン人の大移動)を生きている」です。

「世界史概観・上・下」でロシア史の概観をつかみつつ、「通史」 でさらに詳しく見たのですが、世界で最も広い土地を持ったがために「偏った自信」にとらわれ、大ばくちを打っては負け、負けるたびに立ち上がり、また大ばくちを打ち、また負けるということをこれからも繰り返す恐れのある国との印象を持ちました。

また、「この国の強さ」の本質は「衰弱した国に対して強い」のであって「明らかに強い国に正義・大義 を掲げて挑み勝つ」という強さではありません。あくまでも「自国の領土拡張のために手段は選ばず弱者から領土を奪う」という勝ち方です。

「小さくて弱い」と思い込んでいた「日本」から宣戦布告を受けた時、ロシア帝国はさぞかし驚いたことでしょう、そのために、旅順艦隊(旅順港が母港)と空前絶後の大艦隊(バルチック艦隊[サンクトペテルブルグが母港])とを用意してまで勝とうとしたのでしょう。ところがこの世界を舞台にした弱者虐殺ショーではそれまでにみたような成功は得られず、ロシア史初の「大完敗」でした。クリミア戦争でも「完敗」でしたが日ロ戦争ほどの派手さはありませんでした。

ロシアという国は友達のいない孤独な国という印象を持ちました。
▲▲先頭へ▲▲▲

ロシアを孤独から救うには、先ず、「正義」のための「武装部隊」、例えば「国連警察部隊」を創設させ、「テロリストを殺すのではなく逮捕」する実績を重ねさせ、「武装部隊」に誇りを持たせることを計画するよう助言してはどうでしょうか? 

この国の「武装部隊」は「戦闘集団としての能力」は高いのですがこのままでは世界を「報復の連鎖」の渦に巻き込むでしょう。「勝利をむさぼり食う」という印象しか与えない武装集団の中での兵士の心は貧しく冷たいと思います。ロシア兵の心には「誇り」が必要です。

日常的な付き合いとしては、決して「混住」はせず、互いに国境線を超えないという空間的な距離を保ち、あまりおつきあいの成果を期待せず、普通に本音を言い合って付き合っていくのが良いと思います。「混住」すれは、 日ロ和親条約(日魯通好条約 1855)裏切り結果としての樺太千島交換条約(1875)や、 アイグン条約(1858)裏切り結果としての北京条約(1860)や、クリミアに関するブダペスト覚え書き(1994)裏切り結果としての(2014,クリミア併合)のように巧妙に領土を奪われますから、

以上の結論に達しました。皆さんはどう思われますか?
 
〜〜〜〜〜〜〜〜以上は 挿話37 ロシアとのお付き合いの方法について でした〜〜〜〜〜〜〜〜

▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
★、1991 旧ソ連邦崩壊直前直後の全般的政治諸現象および、プーチン氏の指導者としての定着の様子ソ連邦崩壊の年、チェチェン紛争、近隣諸国(チェチェン等 黒海沿岸諸国、バルト3国、ドイツ、)を含めた全般的状況と推移
ロシア連邦とドイツ共和国とバルト3国
★、1990年、ソビエト社会主義連邦が消滅する時期に、ベルリンの壁崩壊の約1年後、
★、1990年10月3日、ドイツ連邦共和国成立、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)を構成していた15県および東ベルリンが6州としてドイツ連邦共和国(西ドイツ)に編入された。「ドイツ」の正式名称は「ドイツ連邦共和国
★、1991年12月31日、にソビエト社会主義連邦は消滅し、
★、1922年、の成立以来69年間に及ぶ歴史に幕が下りた。
★、1985年、に就任したゴルバチョフ書記長は、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(立て直し)を打ち出し、
★、1990年、には一党独裁を放棄して大統領制を導入するなど制度改革に舵を切った。ゴルバチョフ氏はソビエト社会主義連邦の初代大統領に就任したが、こうした改革が民族運動の高まりを招き、ソ連は
★、1991年1月、独立志向を強めるバルト3国のリトアニアに武力介入、大統領の求心力は低下した。あくまで中央集権の維持を目指す党や軍部の保守派は
★、1991年8月、クリミアで静養中の大統領を軟禁してクーデターを起こすが民衆の反感を買い失敗。これを機にゴルバチョフ大統領はエリツイン・ロシア大統領に主導権を渡し、エリツィンは旧来の社会主義体制も改良型社会主義体制も「社会主義の役割は終わった」とし、ゴルバチョフに「社会主義よさようなら、これから訪れる民主主義によって幸せになってほしい」と演説させた。
★、1991年9月バルト3国は独立を達成。
★、1991年12月には ロシア、ウクライナ、ベラルーシ のスラブ系3共和国がベラルーシ・ベロべージエで独立国家共同 体(CIS)創設協定に調印、ソ連崩壊を決定づけた
▲▲先頭へ▲▲▲

、ソ連崩壊の原因について、ゴルバチョフは「最大の原因はチェルノブイリ原発事故 、次に軍事費の増大、これらによる財政破綻」、当時のアメリ大統領レーガンはソ連を名指しで「悪の帝国」と呼び軍備を増強していた、それに対抗するために軍事費が高騰した(NHKインタビュー)と語った。
ソ連軍は解散し、兵士は持ち場を離れ、行方不明のプルトニウムを捜索する事も無く、原子力潜水艦は各地の港に放置された。原子力潜水艦の原子炉は日本など原子炉技術所有国が分担して摘出、解体基地に集め処分した。

★1991年12月25日、ロシア連邦成立。

ロシア連邦は、ソ連構成国の連合体である独立国家共同体(CIS)加盟国のひとつとなった。ロシア連邦は、ソビエト連邦が有していた国際的な権利(国連の常任理事国など)や国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持している。
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
★、1994年〜2014年チェチェン紛争
チェチェン紛争の原因
第一次チェチェン戦争(1994〜1996年)は、エリツィン大統領再選のために、国民に政治力を見せつける必要があった。第二次(1999 〜2014)は、プーチンが世論調査で順位を上げるために国民に政治力を見せつける必要があった。
カスピ海の油田地帯(バクー)からのパイプラインがチェチェン領内を通っているためロシア連邦国はこの地域の主権を保持しておく必要があった。
 
ソ連崩壊直前に独立を宣言した、現在(2014年)は事実上の独立状態にある、エリツイン〜プーチンと2代に亘るもロシア連邦からの独立は未完成である、ロシア側に政治利用(政治的人気取りの犠牲)されている面もあるが、チェチェン人の持つ過激性、イスラム系ゲリラ性により近隣諸国からも嫌われ、現在、国自体が孤立の状態にある。
ロシア側が加えた攻撃は残虐を極め、チェチェン住民の20万人が殺された。原因の一つに、石油が産出する事、石油パイプラインが国土の上を通っている事が挙げられる。
ロシア側は次々とチェチェン側指導者を暗殺、力で独立を阻止する方法を取り続けている。
註 : 画像の骨子は Wikipediaより

【チェチェンの歴史経過】 :
★、1)、イヴァン雷帝当時からロシアのイスラム圧政政策に抵抗。
★、2)、スターリンはWW2末期にチェチェン人を中央アジアに強制移住、理由はドイツへの味方、後日帰郷させた。
★、3)、「テロとの戦い、2001年〜」がアメリカによって政治概念化されるとロシアはチェチェン独立運動を 「テロとの戦い」と位置付け、軍隊が弾道ミサイルなどを使用して独立運動を潰そうとしたが「チェチェン戦争に軍事的解決はありえない」との認識で今日に至っている。

▲▲先頭へ▲▲▲

★、(1991-2000)、ボリス・エリツイン ロシア連邦(CIS ロシア、ベラルーシ、ウクライナ)初代大統領は経済を資本主義化し、宗教をみとめた。
白系ロシア人(革命時に白い旗を掲げた皇帝派で世界に離散していた)も次々と帰国を果たし、混乱した経済も地下資源(シベリアの石油・天然ガス発見)新規開発によるエネルギー輸出国として活気を取り戻し、次の大統領を
★、(2000 - 2008)、ウラジミール・プーチンにまかせて引退。その後、プーチンはメドベージェフを指名しまたプーチンに戻った。
★、2004-5 年ウクライナ オレンジ革命(民主主義革命) 大統領不正選挙への抗議(2004年11月22日-2005年1月23日) ウクライナ国民は EU加入か、それともエネルギーで依存しているロシアとの関係を重要視するのかのどちらを選択するかで揺れている。
★、2014年プーチンが 「クリミア全域ロシアへ併合」 を宣言して以来、反オレンジ革命(親ロ派勢力)が東部地域で勢いを保ち、2018年現在も政情は安定していない。

【チェチェン人が国外で起こした事件】 :
★、1)、2002年10月、、モスクワ劇場人質・占拠事件、独立派武装勢力(42名)がロシア軍のチェチェン共和国からの撤退を要求、観客922名を人質、最終的に人質129名が窒息死、42名は全員射殺 ロシア特殊部隊は非致死性兵器ガスを使用。鎮圧指揮者はプーチン大統領。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
★、2)、2004年9月、、ベスラン学校占拠事件は、2004年9月1日から9月3日にかけて北オセチア共和国(チェチェンの西2つ目に位置する国)ベスラン第一中等学校で、チェチェン共和国独立派を中心とする多国籍の武装集団(約30名)によって起こされた占拠事件。少年少女とその保護者、1181人が人質となった。 9月3日に犯人グループと治安部隊との間で銃撃戦が行われ、治安部隊が建物を制圧し事件は終了したものの、386人以上が死亡(うち186人が子供)、負傷者700人以上という犠牲を出す大惨事となった。首謀者はチェチェン人のシャミル・バサエフ。鎮圧指揮者はプーチン大統領。
★、3)、その他、2004年5月、チェチェン共和国の親露派政権大統領を爆殺。同年8月、警察署襲撃事件。同年8月、旅客機2機を撃墜。同年8月、モスクワで自爆攻撃。 註 : 犯人の構成はチェチェン人のほかに、国際テロ組織(アルカイダなど)共鳴者が含まれていた。
★、(2008 - 2012)、ドミートリー・メドベージェフに大統領を任せ
★、(2008 - 2012)、プーチンは首相となった
★、(2012-2012,10 現在)、プーチンは再び大統領となり
★、(2012-2012,10 現在)、メドベージェフは再び首相となった.

★、(2012年〜2012,10)現在のロシア連邦は、プーチン・メドベージェフのタンデム政治(二人乗りオートバイ式政治)が進行中である。

★、ボリス・エリツイン以降の政治家は民主主義にのっとった「選挙」によって選ばれている。
★、2014年3月19日プーチン大統領はクリミア半島全域をロシア連邦に編入すると宣言。

★、2014年5月20日、「アジア信頼醸成措置会議、CICA」誕生、中華人民共和国とロシア連邦が WW2 後の多極構造の一つを具体化、プーチン大統領と習 近平国家主席(中華人民共和国)とが堅い握手を交わした。「アジア信頼醸成措置会議、CICA」を結成、参加国は次の通り、中華人民共和国、ロシア連邦、カザフスタン、アフガニスタン、インド、イラン、イスラエル、パレスチナです、そして、アメリカや日本はオブザーバー。
 



▲▲ページ先頭へ▲▲▲
【旧ソ連邦崩壊直前直後の重要人物の意識例】
★、クラサフチェンコ氏の回想
★、シュワルナゼ元外相の正義感
ロシア有識者の「北方4島」についての見解 
☆、ゴルバチョフ氏、4島はロシアのもの、理由は、「1946年 ソ連邦最高会議幹部会令」で決まったことだから(彼は「ソ連人」とクラサフチェンコ氏は言う
☆、エリツイン氏 1933年来日の国会でシベリア抑留を謝罪した、このことは「1946年 ソ連邦最高会議幹部会令」の歴史認識が間違ったことを謝罪したと解釈することが出来る
☆、シュワルナゼ氏(当時外相)・・・
「個人的には4島は日本の領土だと思う」と毎日新聞の杉尾直哉記者に語った。
☆、クラサフチェンコ氏(当時の第1副長官)、「北方4島は日本に返すべきだ」と強くゴルバチョフ氏に迫った
☆、プーチン現大統領・・・「ソ連人」としての誇りがあるのでゴルバチョフ氏と同じく「4島は旧ソ連のもの」、彼はエリツインの弟子なのに心変わりしている。
☆、アナトりー・コーシキン、ロシア東洋大教授・・・ 「北方領土」交渉の余地なし、ロシアはソ連邦崩壊時期には弱気だったが今は自信に満ちているので「返還」などあり得ない、歯舞・色丹 でさえ安全保障上返せない。

2014年3月23日ロシア連邦がクリミア半島全域を自国へ併合(自治共和国として自国の監理下に移したわけではなく、明らかな 侵略です)。この侵略方式はプーチンの発明とでもいうべき新しさを持ちますので、筆者は「プーチン方式の侵略」と呼ぶのがふさわしいと思っています。
プーチン方式の侵略とは
正規軍が後方に控えて姿は見せず、特殊部隊や民兵が 「スラブ人保護」 の名目で動き、使う武器は正規軍の最新鋭武器 という方式で、後日住民投票で 「侵略ではない」 事を証明する方法。この戦争方式はプーチンが開発したものなので プーチン方式 と呼んでいます。
 
▲▲先頭へ▲▲▲
国際社会の対応としては、EUとアメリカはロシア連邦に経済制裁を実施した。
続報はここ

この行動の異常性について、異常性の出発点は160年前、クリミア戦争でのオーストリア帝国(ドイツ連邦) への恨み
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
.......................................................................................................
「遠く離れた、よく知らない国(チェコスロバキア)」。
1938年のヒトラーのチェコスロバキア併合(ミュンヘン会談の失敗・WW2の引き金)に際してイギリスが何もしない理由を当時のイギリス首相はこう説明した。
領土の回復をもくろむナチス政権が、ドイツ系住民を守るためと称して行ったこの併合は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領によるクリミア併合に恐ろしいほど似ている。プーチン氏は、モスクワの旧帝国を復活させる際の言い訳にロシア系住民を利用しているのだ。
By Martin Wolf「プーチンの手からウクライナを取り戻せ」(2014年3月19日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)より
........................................................................................................

2014年3月19日、ロシア連邦のプーチン大統領は、クリミア自治共和国とセバストポリ特別市とを自国の領土として編入すると宣言(自治共和国としてロシア監理下に置いたわけではなく明らかな侵略)、ロシアの本性である「南下主義侵略」のもとにかつては欧州連合(オスマン・イギリス・フランス・サルディニア王国(イタリアの西隣))と「クリミア戦争(1853〜56年(3年間)」があり、ロシアは徹底的に負けた、この時の敗残兵は

北東アジアのペテロパブロフスク・カムチャツキー砦にたてこもった軍勢も砦を放棄し、冬の雪を利用してロシア大陸へと逃げ帰った。この時の オーストリア帝国への恨みがWW1(サラエボ事件が火を点けた)の第1原因であるし、オーストリアを含めた西欧民主主義国への恨み(旧ソ連圏の国がロシアから離反してゆく恨み)が今回のクリミア併合、の第1原因です、問題の根は深く、ロシアという国の持つ「民族主義(汎スラブ主義)復讐心の実行」というしつこさは160年もの時間が経過しても再実行されています。
2008年のジョージアからの南オセチア地方とアブハジア地方奪い取り事件の時に経済制裁をしなかったことが今回のクリミア自治共和国とセバストポリ特別市奪い取り事件を、プーチンに躊躇なく実施させた原因である との毎日新聞 大前仁 記者 の記事は参考になります 

▲▲先頭へ▲▲▲
ウクライナ共和国・クリミア自治共和国、セバストポリ特別市
上図に於て、トルコとイランは アジア地域に属する、それ以北はヨーロッパ地域に属する。
アブハジアと南オセチアのジョージアからの独立紛争 2008,8
アブハジア自治共和国 はジョージア共和国の北西端に在って独立を欲していた、南オセチア自治共和国 (北オセチア共和国の南隣) も同様であった、2008年 両国はロシア連邦国の支援を受けてジョージア共和国と戦った、アメリカも黒海へと抜ける石油パイプライン確保のためジョージアを助けてロシアと対立、結局、独立に失敗した、2018年現在もはっきりとした和平協定は無いままである、アゼルバイジャン共和国のカスピ海沿岸には油田地帯がある 

▲▲ページ先頭へ▲▲▲

マルマラ海と2つの海峡
    註 : 画像はヤフー画像集から頂きました
註 : ソチ は、2014,2 ロシアでの冬季オリンピック開催地、ロシア帝国・ソビエト連邦時代・現ロシア連邦(CIS)も含めて史上初。ロシアの持つ「雪と氷」のイメージからは「初」の理解は困難ではありますが、現ロシア連邦は必死の思いでテロ防御に努め、成功させました。プーチン大統領はこの「成功」をエネルギー源として「クリミア半島全域を自国へと編入」の暴挙をも成しとげたのです。


・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

ロシア革命後、「ソ連邦」という巨大な共産主義連邦国家を作る事によりクリミア半島先端に海軍軍事基地(セバストポリ)を獲得、しかし、クリミア半島そのものはウクライナ共産主義国(衛星国)の領土であり、ロシアは半島の先端にごく小さな海軍基地を持つにすぎなかった。

ソ連邦が崩壊して、ウクライナは独立国となったがロシア海軍基地は「ロシアが借りる」形で現在(2014,3)まで来た(セバストポリ特別市)
ロシアからの天然ガス供給を巡ってウクライナが親欧米の西側半分と親ロシアの東側半分が数年来対立、この対立が深まり約1ヶ月前にウクライナ共和国が分裂状態になったスキを突いてロシアのプーチン大統領がクリミア半島全体をロシアの領土とする事を世界に向けて本日(2014,3,19)宣言した。
この事件の原因は時間的には隔たっていますがクリミア戦争戦後処理時の恨みにさかのぼる事が出来ます、この恨みはWW1で既に爆発(オーストリア皇太子夫妻暗殺)していますがそれで収まることなく今回も爆発(突然のクリミア併合宣言)しています、親ロシア派(汎スラブ主義勢力)の実力行使の原因はクリミア戦争終結時に発生したオーストリア帝国(ドイツ連邦)への恨みにまでさかのぼる事が出来ます。

ロシアはクリミア半島に「ソ連邦」時代からロシア人をあらかじめ多数移住させ、先住民族(タタール系イスラム教徒)を中央アジアに移住させると言う手段を着々と取り続けついに住民投票で96%の賛同を得てロシア領である根拠とした。
ロシアの南下主義侵略は非常に執念深く、念入りであると言われている。

ロシアのプーチン大統領の行為は現在の世界秩序を崩す行為であり、世界史はこれを切っ掛けとして動くと思いますのでとりあえず書き留めておきます。

(私の意見)
▲▲先頭へ▲▲▲
1)、
プーチンは国際約束(ブダペスト覚え書き、1994年)を破った。ウクライナは核兵器を放棄することと引き換えに主権の不可侵と国境の尊重を取り決めた覚え書きをロシア・アメリカ・イギリスと交わしている(1994年)。今回のロシアの行為はこの覚え書きを無視する国際約束破りである。これを国際社会が認めたら今後は世界的無政府状態が起きる可能性がある。

2)、
自国の民族が多く住んでいるからといって、他国の領土を武力を背景にして自国に編入すると言う方法は中華人民共和国の現在の海洋進出政策に似ている。

3)、
北方4島の日本への返還は絶対と言ってよいくらいに無いであろう。北方4島の扱いについてはこの国と「協議」などはしないで「領土問題の永久的棚上げ」とし子子孫孫にまで伝えて行くのが良い、具体的方法としては、今回の事例を添付しつつ「北方4島窃盗未解決事件ノート」を残すのが良い、領土問題が政治的に解決しなくても島民(ロシア人)との経済・友好交流には何の差しさわりもないのだから。「領土」は政治家の求心力維持にとっては強力な「道具」ですから政治家のペースに巻き込まれていい加減な妥協はしない方が良いと思います。

4)、
尖閣問題への影響については「領土・領海」は国益のために「専守防衛」を強力に政治宣伝すべきだと思います。中国が軍事力で領土を広げようとする行為は100年遅れてやってきた民族主義・覇権主義なので「現代の方法」すなわち「友好・連帯」で対応するのが良いと思います。
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

5)、
プーチン氏は、自分は武力を使っていない、「自警団」でクリミアの混乱を防ぎ、ロシア系住民を守っている。欧米の場合は「コソボ」事件で武力(1995年、北大西洋条約機構(NAT0)軍はユーゴスラビア連邦に対し、空爆)を使ってセルビア(ロシア系)からコソボを独立させたではないかとの理論を展開していますが、コソボの場合は次の通りのセルビア系住民(ロシア人種)による「大量虐殺(民族浄化)」という「人道上の犯罪」があったことへの武力行使なのでプーチン氏の論理は見当はずれです。

6)、
プーチン氏の自信は就任時にたまたまシベリアの天然ガス・石油の大量地下資源が発見された事にあります、この資源が潤沢にある限りは「力による外交」は成功するでしょうが資源枯渇は時間の問題であるし、北の国なので太陽光は無理であるし、風力も雪のために出来ませんし、なので「核力発電(高速増殖炉)」を死に物狂いで開発するでしょう、しかし、政治での乱暴さは「核力発電(高速増殖炉)」という繊細な技術とはマッチしませんので必ず「核力発電所事故」を起こすでしょう、この場合、チェルノブイリの比ではない地球規模の災害となるでしょう。

7)、
ヨーロッパから北東アジアまでユーラシア大陸北部のほとんどを1国で管理する事は「時間管理」すら無理です。「力」で管理しようとすれば「軍事費」で国の経済は破綻するでしょう、かつて、ソ連邦という巨大な国が突然崩壊したのは「軍事費」が最も大きな原因なのです。プーチン氏はソ連邦のかつての衛星国を自国の経済圏として取り込みその領土の広さはソ連邦と同等となりつつあります。
天然ガス・石油で西欧諸国に「脅し(おどし)」をかける事にはそのうち破たんが来るでしょう。西欧諸国はロシアからのエネルギー供給を拒否し、独自にエネルギー源を開発しさえすれば良いのです、太陽光・風力・地熱・海洋・バイオマスその他。

8)、
セバストポリ軍港を我がものとし、ウクライナ軍の全ての軍艦を我がものする重要性をプーチン氏は演説で述べていますがウクライナ軍の中古軍艦を維持管理し、水兵を養う事を出来たとしても、湖(みずうみ)のような「黒海」から大西洋やインド洋へ出るにはボスボラス海境とダーダネルス海境を通らねばなりません。ここは仇敵のトルコが目を光らせています。要するに、莫大な費用で黒海艦隊を維持管理してもその軍事力の及ぶ範囲はせいぜいユーラシア大陸の内陸諸国だけでしょう。人工衛星で宇宙から軍隊の行動は見張られていますので今頃「海軍軍港と軍艦」を持つことは富の無駄使いです。プーチン氏の将来を見通す力は弱く、せいぜい3年先くらいしか見えていません、私は旧ソ連邦が突如軍事費破綻によって崩壊したように4年くらい先にはロシア連邦は崩壊すると思います。
▲▲先頭へ▲▲▲

9)、
ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連邦 [USSR])時代(1922〜1991)の「ソビエト連邦共産党」に相当する統率陣営は無く、イデオロギー(共産主義という政治理念)も無い状態ではとても地球規模でBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)を率いてEUや西欧諸国集団に対抗する事は出来ません。プーチン氏一人では自国を「民族主義」でまとめる事で精一杯でしょう。

10)、
2014,9,25 毎日新聞 「ブリュッセル支局 街角から、 斎藤義彦氏」によれば、ラトビアの暮らしにはロシアの影が付きまとい、人口の3割がロシア系・その3分の1に市民権が無い、この人達はラトビア系住民と決して交わらないがそれなりに安定した生活をしている。ソ連邦から真っ先に独立した(1990年8月20日)バルト3国へのソ連の恨みをプーチンは引きずっている、何とかしてバルト3国を取り戻したいと思っている、その方法は市民権が無いロシア人の不満につけこむ事である。「歴史の負の遺産」を悪用して戦争を起こそうとしているがそれなりに安定した生活をして いる市民の思いを踏みにじるろうとしている。ロシアは頻繁にバルト3国(エストニア、ラトビアリトアニア)へ領空侵犯スレスレ飛行を繰り返している(以上、一部森本の意訳)。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲


<クリミア半島とその周辺(黒海周辺)の歴史、簡略表示>

   
年代 クリミア半島領有者 領有権の変動状態 
1650以前 モンゴル人、ジェノバ人、ベニス植民地人、
タタール人、トルコ人 
移動、定着、移動、破壊、占領 
1650頃 ロシア人、トルコ人、タタール人 戦争 
1660頃 ウクライナ人、ロシア人 戦争 
1680頃 トルコ人 戦争でロシアの負け 
1695頃 ロシア・ピョートル大帝 海軍創設アゾフ海制圧 
1710頃 トルコ人 トルコが勝つ、ピョートル大帝は黒海から
撤退しバルチック海フィンランド湾最奥に海軍基地を移す 
1770頃 ロシア・ピョートル大帝 クリミア急襲、トルコの負け、条約でクリミア・ハン国人が領有 
1773頃 ロシア・ピョートル大帝 条約破り、クリミア・ハン国をロシアに編入 
1783頃 ロシア・エカテリナ2世 黒海艦隊の設立 
1788頃 ロシア・エカテリナ2世 トルコ負け、クリミアゴートゾウの追放 
1800頃 ロシア・エカテリナ2世 ポーランド分割、ウクライナ全土がロシア領 
1853-1856 ロシア・ニコライ1世
×トルコ・イギリス・フランス・サルヂニア王国、
クリミア戦争 
ロシア完敗、欧州全域で負け、太平洋カムチャッカまで追いつめられた、
ロシアは産業革命の出遅れ、国民国家形成でも出遅れ戦争の道具が未熟だった。
ナイチンゲールの人道感覚が普及、それまで負傷兵の看護は下層階級女性の仕事だった、
これ以後看護女性の地位は高まった。
西欧に於ける南下侵略政策は粉砕された 
1864頃 ロシアのコサック(騎馬に巧みな戦士集団)軍 中央アジアを南下侵略、成功 
1877頃 ロシア×トルコ コサック兵(騎馬に巧みな戦士集団, 放浪者、豊かな河川流域に住み、政治権力者に反抗(ドンコサック、ステンカラージンの乱,1670,など)で敗れる度に権力者に取り込まれ便利に使われた人々)と徴兵制度の成功でロシアの勝ち 
1905頃 ロシア・ニコライ2世×日本 バルチック艦隊を北東アジアに派遣するも完敗、北東アジアの南下侵略政策は粉砕された
 
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
             
1917頃 10月革命(ロシア革命)直後、クリミア人民共和国 ウクライナ人民共和国軍に負ける 
1921頃 半島部にはクリミア自治ソビエト社会主義共和国、大陸部にはウクライナ・ソビエト社会主義共和国 ソ連邦行政による措置 
1942頃 ソ連×ドイツ、セバストポリの戦い 第2次大祖国戦争(独ソ戦) 
1943頃 ドイツのユダヤ人大量虐殺、特にクリムチャク人は人口の75%亡 於南ウクライナ、クリミア半島、 
1944頃 ソ連、ヨシフ・スターリンのタタール人追放政策 中央アジアにクリミア・タタール人を強制移住 
1955頃 ソ連、ニキータ・フルシチョフ、ウクライナ融和政策 クリミア州がウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管された 
1991年 ソ連邦崩壊による行政刷新 クリミア住民は独立したウクライナ共和国の一部となった 
1992年 クリミア半島独立宣言はしたが 実際はウクライナ共和国内の自治区となる 
 
1  
1992年 上記の安定が維持された クリミア自治共和国が成立、セバストポリ市はロシア共和国に「貸す」ことになった。ソ連邦時代よりもロシアは使いにくくなった。バラクラヴァはセバストポリ市南部、セバストポリ市には空母も作れる巨大造船所もある。 
1994年 核放棄に関するブダペスト覚え書き
バラクラヴァの原子力潜水艦地下秘密基地が廃港にされた 
ウクライナの核放棄
その代わりに、将来永劫にわたって領土をはじめ、国家の安全が保障されるという約束が国際社会(欧米とロシア)と交わされた。
5000発の核弾頭をソ連邦崩壊直後に受け継ぎ、当時は世界第3位だった。
1996年までには全て自主放棄(ロシアに移管)した。 
2004-5オレンジ革命の失敗 EU寄りの野党が破れ、ロシアにエネルギー依存するヤヌコービッチが勝つ
 
2005頃 ケルチ海境の支配権紛争 トゥーズラの紛争、ロシア×ウクライナ 
2014年2月7日-2月23日 ソチオリンピックをロシアが主催 ウクライナ騒乱(親ロシア・ヤヌコービッチ政権崩壊)発生、
贅沢による政権の自滅、東西ウクライナ分裂状態 
2014年3月16日 クリミアのロシアへの帰属を問う住民投票実施 賛成票96% (ただし、投票を棄権する者も多かった、ロシア系住民の人口比率は58%
2014年3月19日、 ロシア連邦大統領プーチン クリミア自治共和国とセバストポリ特別市のウクライナ共和国からの独立を先ず認めた、次いで両者を自国の「自治共和国」「特別市」として編入すると宣言 
今後 東西分裂中のウクライナにもプーチンは軍事介入し分断を実現するのか ウクライナ政治は現在暫定政府(親欧州系)だがウクライナ東側地域にはロシア系住民が多く、ドネツク市を占拠する動きが出ており暫定政府は長くは持たないだろう 

↑↑ロシ通検索へ へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

後日註1 : (2014,5,29 毎日新聞)、アブハジア(旧ソ連圏内の国、ソチの近く)、ロシア統合を訴えて野党が大統領府を占拠。
後日註2 : (2014,5,29 毎日新聞)、ウクライナ東部「戦争状態」、ウクライナのポロシェンコ次期大統領(つい先日の選挙で選ばれた正式のウクライナ大統領)は「重武装の戦闘員が攻撃してきたら、軍は応戦しなければならない」一方で「事態鎮静化のためにプーチン大統領と対話したい」「我が国は過去に核保有を放棄する形で、ロシアからの安全保障を確保したと思ったが、その保障は無意味だった」と語った。


以下でこの事件を続報します

[ 2014年7月20日、記、ロシアがクリミア半島全域自国編入後の事件、民間航空機を撃墜 ]

7月17日、マレーシア航空の旅客機がウクライナ東部ドネツク州グラボボ村で墜落した。
同旅客機には乗員乗客295人が搭乗していた。「地対空ミサイルSA11(ブク、「ブナの木」という意味)によって撃墜された」。

親ロ派武装勢力の制御は不能」と新聞が大きく報道している。親ロ派武装勢力はロシア正規軍ではないがロシア軍の地対空ミサイルSA11を使って高度1万メートルを飛ぶ民間旅客機をウクライナ軍爆撃機と思い込んで撃ち落とした。 SA11の最大射程高度は2万2千メートルである。親ロ派武装勢力はもはや「民兵」とはいえず、ロシア正規軍と言っても過言ではないにも関わらず、プーチン大統領の指示に従っていない。

続報1 2014,7,22)
http://good-old-days.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-fe7c.html(ブログ・斜陽[事故現場での略奪] )
によれば、
東日本大震災では 5 千個の金庫 が 「 手つかず 」 のまま倒壊現場内に放置、あるいは拾得されたが、外国であれば直ぐに開けられ、中の貴重品が盗まれたに違いない。
今回 ウクライナ東部で起きた マレーシア航空機の撃墜現場は、親 ロシア派が支配しているが、犠牲者の遺体を放り投げたりする動画映像が流れて、 遺留品の略奪が起きたと報じていた。

ウクライナ内務省顧問は略奪者を 「 デス ・ ハンター 」  ( 死の狩人 ) と呼び、乗客の現金や、宝石、クレジット ・ カードを盗んでいると発表している。
さらに、「 現金は ウクライナで使われるか、ロシアに流れることになる 」と指摘し、犠牲者の遺族に対し、クレジット ・ カードを凍結するよう呼びかけた。

註 : ロシア人の遺体の扱いについての非人道性については 挿話19 で、1983 の大韓航空機撃墜事件と比較して論考した 柳田邦雄(事故ノンフィクション作家・評論家) の文章をここに書きとめました。
▲▲先頭へ▲▲▲

続報2 2014,7,23 毎日新聞)
国連安全保障理事会は親ロ派武装勢力に対し、調査団の無制限立ち入りを求める決議案を全会一致で採択した。
保冷装置付きの貨車は21日夕、現場付近のト レス駅を出発し、約12時間かけて北東部ハリコフに到着した、遺体はハリコフ空港に待機するオランダ軍のCI30輸送機でオランダに空輸され、現地で身元確認が行なわれる。
ブラックボックスはマレーシアの調査団に引き渡された。

続報2-1 2019,6 毎日新聞)
オランダは、この民間航空機撃墜事件はロシア正規軍の犯行であるとの調査結果を発表すると同時に、ロシアを、国際刑事裁判所に提訴した、ロシアは裁判には参加しないと意思表示した。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

続報3 2015,1,6 毎日新聞、投稿短文、クリミア強引併合のその後について、「プーチンのロシア」混迷、田中直毅氏)
クリミア強引併合のその後

(私なりの要約)
1)、原油価格下落(アメリカ・サウジの共同作戦)によりロシア経済は打撃を受けた。
2)、この1年間のルーブルの下落率は50%、一挙に非常態勢となった。(旧ソ連崩壊の原因となった原油下落の過去例はここ、モスクワオリンピック時は高値、その後原油価格暴落→西欧諸国について行けない→軍事費維持不可能→旧ソ連崩壊)
3)、ロシアの地対空ミサイル(ブク)によるマレーシア旅客機撃墜事件後は欧米はロシア制裁で団結した。
4)、国有大企業のみならず中小企業も含めて、ロシア企業に対する欧米金融機関の融資は実質上ストップした。
5)、ロシアのウクライナに対する地政学上の期待は「旧ソ連圏ユーラシア関税同盟」への参加だったがウクライナはこれを嫌い(2014,3,19 脱退、2014,3,23 クリミア併合)EUとの関係を深めようとしてきた、これがこじれたとの見方が出来る。
6)、ルーブルの下落は「旧ソ連圏ユーラシア関税同盟」はこれで無効となり、プーチンのロシアは振り出しに戻った。

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

続報4 2015,3,5、記、まるで社会全体が秘密情報機関であるようなロシア社会、毎日新聞 余禄 ネムツオフ射殺事件 情報機関化した社会・ロシア

(私なりの要約)
1)、プーチン大統領が、2008年、重要会議に病欠した巨額脱税容疑者を批難して言った言葉は「回復しないなら医者を送って始末せざるを得ない」「始末」とは「暗殺」の隠語である。
2)、ロシア国内ではプーチン批判で有名な女性記者がエレベーター内で射殺されている(2006年10月)、それを調べていた元保安庁員(スパイ)がイギリスで怪死(ポロニウム毒殺、2006年11月)している
3)、ネムツォフ元第一副首相が2015年2月に射殺されました。この犯行は複数からなるプロの殺しの専門集団、ネムツォフがレストランを出て、ガール・フレンドと一緒に橋の上を歩いているときに、車が後ろから来て車の中から射撃して4発で射殺している。その際、位置取りは車道、女性、ネムツォフのようであるが、女性は無傷である。動く車の中からであるから、極めて能力の高い狙撃手である。ここで運転手と狙撃手の二人が必要となる。この場所は監視カメラの死角になっていたという。この場所は意図的に設定されている。車をこのタイミングで持ってくるには、レストランなどでの尾行者、スケジュールの調整役など含めると最低5〜6人は必要。孫崎享氏ブログより
4)、ネムツォフはロシア政府がウクライナ併合に直接かかわったと言う証拠を入手していたとも言われている(口封じのために政権側によって殺されたとする説がある)。
5)、冷戦終結後のロシア共和国はまるで社会全体が秘密情報機関になったような不透明さと暗さに満ちている。

(私の意見)
1940年8月、メキシコでトロツキー暗殺。ソ連で、政策を巡ってスターリンはトロツキーと対立し、トロツキーはメキシコに亡命したが刺客によって、登山用のピッケルで頭を砕かれて死んだ事件を思い出しました。ロシアと言う不毛の地の多い広大な地域を統括するには「秘密警察」と「暗殺組織」が必要なのでしょうか?
▲▲先頭へ▲▲▲


続報[ 2015,5,13、毎日新聞)記、ネムツオフ射殺事件続報、「ロシアが介入した」「証言の収集録あり」 ] ネムツオフ事件続報

(私なりの要約)

1)、昨年から今年にかけてウクライナ東部での戦闘で200人以上のロシア兵が戦死した。

2)、少なくとも 17人はパラシュート部隊員で決して民間人では無かった。

3)、プーチン政権はこれらの証言集は無視又は否定するだろう(民兵集団が自発的に侵入したとの主張を繰り返すだろう)


(私の意見)

1)、余りにも広い(世界で1番)土地に少人数(日本よりやや多い、1億4千万人 {日本は1億2千万人} )で住む場合の人々の人権感覚は日本人には想像もつかない大雑把なものであるらしい。

2)、新聞記者であれ、スパイであれ、政治家であれ、政治指導者に逆らう者は直ちに「殺す」。選挙制度が採用され、大統領が選挙で選ばれるようになり、宗教が復活した現在・未来であってもこの民族性は変わらないと思われる。


続報6 2015,5,2 毎日新聞)ウクライナ、大統領は「紛争の長期化を示唆 続報7 では 「いつでも核兵器を使う用意がある、ロシアは大国なのだ」 、(クリミア奪還まで紛争は続く)」、杉尾直哉記者、記事見出しのみ画像化
クリミア紛争長期化の予想

(私なりの要約)

1)、ウクライナのポロシェンコ大統領は、親ロシア派武装勢力との戦闘が続くウクライナ東部を「奪還する」まで、世代を越えて、南北朝鮮のように、ウクライナ紛争は続くとの見方示した。
2)、ロシア軍の最近の動きについてアメリカ上院公聴会で、「軍の訓練や武器の配置などの活動は、新たな攻撃を準備する際の行動と一致している」
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
3)、今後のプーチン大統領の行動は予測不可能。
4)、「現在の停戦」はもろい状態にある。
5)、ウクライナ東部では戦闘は散発的に続き、4月に入って、逆に激化、「停戦違反は毎日のように繰り返されている」


続報7 2015,5,21 毎日新聞)ジョージア(かつての呼称は グルジア)から 南オセチア を奪い取る行為が進行中、南オセチアのロシア編入は時間の問題

(私の意見)
ロシアはNATO拡大に神経をとがらせ、「自衛」に熱心のようですが、プーチンはもっと気持ちを大きく持った方が良い、極端に言えば、現ロシア領土の西側が「西欧化」しても良いではないかと思います。

天然資源(ガス・石油)に依存する極端に寒冷な現ロシア領土の西側を奪い取ろうとする国などどこにもないのですから。

かつて、ソ連崩壊時(1991)に政治的経済的混乱に乗じて侵略しようとした国は無かったのです、反対に、軍の崩壊で放置された原子力(核力)潜水艦を回収し、原子炉の抜き出し処理をしてもらったのです。
現ロシア領土の西側を奪いたいなら簡単に奪えたにもかかわらず、その様な国は現れず、当時の国際社会はロシアに暖かい態度で接した思っています。何せ、軍人に給料が払えず、軍隊が崩壊してしまったロシアを誰も奪おうとしないほどに国富の少ない、魅力の無い国なのです。

今回の紛争の真の原因はプーチン大統領の「人物としての度量の小ささ」だと思います。いまどき、核兵器まで持ち出して守ろうとしている(プーチンは「いつでも核兵器を使う用意がある、ロシアは大国なのだ」と批判国を脅しています)のは「ロシア連邦の国富」ではなく「自分の権力」だと思います。



続報7-1 2015,5,25 毎日新聞)露、NGO規制の新法 一方的に活動停止を可能にする法律を制定、真野森作記者
検察がNGOを取り締まる
1)、非政府組織(NGO)の活動を検察当局の裁量で一方的に停止させる事が出来る。
2)、目的は、政治の民主化防止、過去旧ソ連諸国(ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ウクライナ、ジョージア(旧称グルジア))等で起きた政変(共産党1党独裁政治⇒議会制民主主義政治)を防止する事。親欧米ムードを低めて愛国ムードを高める事
3)、罰金や刑事罰もある。
4)、欠点は、ロシア市民の国際社会離れ、孤立。

(私の意見)
1)、プーチンの地金(じがね、元KGB、旧ソ連秘密警察、スパイ)が現れて来た。
2)、プーチンは小心者と言う噂は本当らしい。
3)、ユーラシア大陸を東西に続く世界1広い土地に住む人々を統率するのは大変困難な仕事でしょうが、市民が国際社会とつながる道を防ぐのは将来的にマイナスだと思います。

インターネットの発達した現代で、市民の国際化を防ぐ事は不可能です、
NGO規制によって市民は自国を民主化する事はあきらめるでしょうが、ネットで自由度の高い生活を知った市民たちは自国を愛する事をやめ、自国を捨てて逃げ出すでしょう
気が付けば広大な地面を守る軍隊は消滅し、住む人が居ないということになるでしょう。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑

続報8 2015,6,18 毎日新聞、杉尾直哉記者)かき消されたメエロディー、反政府勢力に対する過剰な警戒心少数でも集会弾圧
モスクワでは、観客10人ほどの街頭演奏会でも「公共の秩序を乱した」との理由で罰金刑に課せられる。
かつて、土曜の昼下がりには演奏家で一杯だった歩行者天国でも今日では、演奏しているのは3人だけ、うち一人はギターケースにロシア国旗を立てて「国に反抗していません」との意思表示をしていた。

続報9 2015,9,1 毎日新聞、田中直毅氏)広がるプーチン政権の動揺
動揺するプーチン

(私なりの要約)
1)、西側からの経済制裁はプーチン政権を動揺させている。
2)、プーチンはやせ我慢をして、この制裁に対抗し、「豚肉、「トマト」、「チーズ、など」を禁輸とする措置を取ったが、ロシア国民は困っている。
3)、ロシア民衆のナショナリズムの高揚は一時的だったようである
4)、プーチン体制の再編があっても、政権の動揺は続くだろう。

▲▲先頭へ▲▲▲

続報10 2018,3,14 毎日新聞、杉尾直哉 記者)「クリミア返さぬ、クリミア橋を建設することでその意思を表明中」
、2018,5 完成、プーチンがトラック部隊の先頭車を運転して橋のわたり初めを行なった。

(私なりの要約)
1)、黒海がアゾフ海へとつながる海峡(ケルチ海峡)に 「クリミア橋」 という名の橋を建設中。クリミア半島とロシア本土とを連結することによって、国際規模の紛争中であるにも関わらず、今後、クリミアはロシアの領土であることの証明とする硬い意思が見られる。

2)、かつて、米ソ冷戦時代にベルリンの壁が築かれたが、このクリミア橋も 露対欧米対立の象徴となる恐れがある。

3)、建設工事中の業者は 「『クリミア橋』という既成事実を作ってしまえばあとは時間が解決する」 と楽観的、地元民に緊張感は見られない。


(私の意見)
1)、スラブ民族は 自信過剰癖 があるのでこの橋の建設も 大いなる自信 の下になされており、ロシア人にとっては 「ごく普通の事」 です。ロシア内部が現在のところプーチンの強権政治で 「見せかけ上の安定」 を見せていますが、「安定」 させている 「強権」 が揺らいだ時には内部紛争の激化が起きるのがこれまでのロシアの持つ政治傾向なので、多分プーチンの退場の頃に 「クリミア橋の爆破」 というテロ行為が起きると思われる。 

2)、クリミア併合事件という強引な領土奪取問題が解決した証しとして 「クリミア橋」 が建設されたという政治手法が望まれます、現在紛争最中という時点での建設は 「敵」 の反感をあおり、一時的に 「敵」 への団結をロシア内部に生み出すかもしれませんが長期的に見れば、強権による安定が弱まったらある日突然橋の破壊が起き、世界により根深い紛争を引き起こす可能性があると感じます。


続報11 2018,11,27〜12,2  毎日新聞、大前仁記者)「公海とウクライナが主張する海域で、ウクライナ軍艦3隻に発砲しこれらを拿捕。国際批判の中でロシアが強引に建設した クリミア橋(下の画像) が早くも国際紛争の火を灯した
、2018,12,2現在。まだ戦火は上がっていないが、ウクライナは本気で怒っていると同時に、この事件をウクライナ弱体政権の次回選挙に利用し政権の人気回復を狙っている。



(私なりの要約)
1)、クリミア橋近海で ロシアが発砲、ウクライナ軍艦3隻を拿捕、ウクライナは 「公海上を航海中に突然発砲された」 ロシアは 「明らかなロシア領海侵犯への対抗措置」
2)、来年3月のウクライナ大統領選を前に、低迷する支持率を打開したいポロシェンコ政権は一歩も引かぬ構えを見せている
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
3)、11月28日、ウクライナは戒厳令を国会で採択した、30日間、10州対象
4)、12,1 米露首脳会談はアメリカ側の申し出で中止、アメリカはロシアの今回の行動に不快感を抱いている
5)、国連安保理 米英がロシアを非難 NATO は「ウクライナ軍艦3隻の乗組員開放を!」 と主張している
6)、12,2 ウクライナは、拿捕への対抗措置として  ロシア人男性の入国禁止令を発令


続報12 2018,12,24  毎日新聞、山衛守剛、大前仁記者)「危機再発の可能性、艦船拿捕1ヵ月 露、ウクライナとも強硬崩さず」。 クリミア橋1  クリミア橋2


(私なりの要約)
1)、ウライナ海軍は、ベルジャンシクに海軍基地を作る計画を発表した。
2)、ベルジャンシク基地を出港した軍艦はクリミア橋の下を通過して黒海へと出る方針を固めている。
3)、ロシアはクリミア橋建設後は、この橋の上下を通過する人や艦船(含 第3国の商船)を臨検中。
4)、ベルジャンシクに海軍基地が出来ればクリミア橋臨検の無視突破がウクライナによって強行される見通しである、このままではウクライナの一部経済活動は 「アゾフ海内部に封じ込められる」 から。

↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

続報13 2019,1,7  毎日新聞、モスクワ共同)「ウクライナ正教会独立、(ロシア正教会から独立)」


(私なりの要約)
1)、従来、政治と宗教の一致が見られるキリスト教東方正教会では政治の成り行き上、ウクライナの教会はロシア正教会管轄下にあったが、70年間のソ連邦時代の宗教権威の失意(ソ連邦時代の宗教否定政治下でのロシア正教徒世界離散(ディアスポラ))および、今回のウクライナ南部(クリミア半島地域)の突如的ロシア併合によって、ウクライナ側の正教一致の伝統が強まっている。
2)、ウクライナ国内ではロシア正教系の教会や修道院をウクライナ正教会が接収(奪い取る事)する動きが出ており信徒らの相互対立が懸念されている。政治による国土分断化は教会の分断に及んでいる。ウクライナはクリミアを侵略された報復を宗教分野で果たそうとしているとみられる。
3)、コンスタンチノープル総主教庁(トルコ・イスタンブールにある)のキリスト教東方正教会の最高権威者とされているバルトロメオ総主教が互いの分離独立を認めた。
4)、ウクライナのポロシェンコ大統領は5日、バルトロメオ総主教にウクライナの最高位の勲章を授与した、政治・宗教の硬い結び付きを宣伝している。
5)、アメリカが影響下に置いているコンスタンチノープル総主教庁がアメリカの意向を受けて政治的に弱体化しつつあるポロシェンコ現大統領を援助している。


[2015年11月1日露シリア空爆1か月] 、(9月28日、IS が首都とするラッカをロシアが突然空爆、目的は現政権支持・援護)さらなる難民増、IS勢力×アサド政権(ロシアが支援)・反体制派(アメリカが支援)・クルド人勢力(アメリカが支援)、ドロ沼状態、毎日新聞、カイロ秋山信一記者 ]



[ 2015,10,30 ロシアのメトロジェット社旅客機爆発墜落、 私の見解] : ロシアのメトロジェット社旅客機がエジプトからペテルビルグへと向かう途中(シナイ半島上空)で墜落し、乗客・乗員 224人(ほぼ全てロシア人)全員が死亡。
その後の調査で IS テロリストが機内で爆弾を爆発させたと判明、プーチンロシア大統領はエジプトを経由する旅客機へは乗らないよう国民に指示した(2015,11,08)。
ロシアの空爆への IS の復讐、シリア内戦はますます混迷を深めます。

プーチンの中途半端なシリア政府支援策としての遅まきながらの「空爆」は失敗でした。プーチンの方法は「力で反政府勢力を制圧する」ですがこれでは永遠に「報復の連鎖」が続きます、最終的には「核兵器」が使われるでしょうが「内戦の終息」には至りません。

この内戦の原因は WW1 でイギリス、フランス、ロシアが勝手にシリア地方に「国境線」を引いたこと、すなわち欧米先進諸国が中東地域を巻き込んでの戦争をした事にあります。解決には原因までさかのぼって話し合うことが必要でです、こういう事のために「国際連合」があるのですからそろそろ「国際連合事務局長」の内戦解決陣頭指揮が必要な時期が来ていると思います。
 

▲▲先頭へ▲▲▲

(私なりの要約)
1)、IS勢力(イスラム超過激勢力)が住民を盾にして隠れている建物にロシアが空爆を初めて1ヵ月、避難民は新たに12万人出ている。
2)、ロシアはアサド政権を支援して空爆中、アサド政権はこのおかげで攻勢に転じているが困っているのは住民。
3)、アメリカは50人という少人数特殊部隊での支援を追加、直接的に戦闘に加わるのではなく、反体制派に「助言と支援」するにとどめている。アメリカは 政権を アサド政府 ⇒ 反体制派 と移す方向で穏健派の反体制派を支援してきたがロシアはISのみでなく反体制派までをも攻撃しているのでアメリカの50名という支援は効果が期待できないとの観測が出ている。
4)、米軍主導の有志国連合軍は空爆を続けているが、クルド人民兵組織(YPG)へも弾薬提供中。YPGは「シリア民主軍」を新たに創設して米軍特殊部隊50人と連携しISのいる本拠地ラッカへの攻撃を計画中
5)、シリア内戦は120万人以上の死傷者、総人口の過半数1200万人の難民・避難者を生み「第2次世界大戦後最悪の人道危機となった(国連談話?)」

(私の意見)
1)、国連の事務総長の無能をさらけ出した内戦であるということが出来る、韓国出身の事務総長は以前から本国の利害にかかわって世界全体を見ていないとの批判はあったがこれでその無能さが証明されたと思います。

[ 2015年12月10日露潜水艦がIS攻撃、シリア領に巡行ミサイル 、毎日新聞、モスクワ・真野森作記者 ]


ロシア潜水艦でシリア攻撃

(私なりの要約)
1)、巡行ミサイルの水中発射はロシア軍「初」
2)、プーチン大統領はロシア軍のこの行為を「兵器の現代化という点で著しい前進」「このミサイルには核兵器も搭載できる」と高く評価しいているそうです。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

(私の意見)
1)、ロシアは IS 攻撃というよりは、NATO に自国の兵器がいかに近代化されているかを見せつけるためのデモンストレーションをしたのだと思います。ロシア大統領の頭の中にはシリア救済は無く、現代の主要国に遅れないよう必死になって攻撃に参加していると見えます。
2)、プーチン大統領が「我が国は大国」というのならば「現代的な大国」に向かってほしいものです、これでは WW2 時代の「大国」で精神的に時代遅れです。
3)、「現代的な大国」となるには、NATO の一員となって NATO と共に「国連警察部隊」を作り、「テロリスト」を取り締まる方向に向かってほしい。本来「テロリスト」への対応は「軍隊」がするものではなく「警察」が行うものなのです。これを間違えたのは、2001年9月、アメリカ同時多発テロでアメリカのブッシュJr大統領が「テロとの戦争」という間違った概念を生み出したことが原因です。

したがってプーチン大統領が「現代の大国」となりたいのなら、「国連警察部隊」を作る先導者となればアメリカ等の先進各国の先を行く国になれるのに、このままでは2流国家のままで行くことでしょう、下手をすればゴルバチョフの2の舞、すなわち、軍事費の膨張と原油安で国家破産を来たすでしょう。

▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
2015年12月16日ロシア版「もんじゅ」送電開始、朝日新聞デジタル 12月16日(水)9時5分配信
ロシア版もんじゅ BN800

(私なりの要約)
1)、ロシアは、ナトリウム冷却高速炉の開発を順調に進めている唯一の国。
2)、BN800 は「実証炉」、「原型炉”もんじゅ”」に相当する BN600 はすでに 1980年に完成させていた。1986年のチェルノブイリ事故や度重なるナトリウム漏れ事故でしばらく 開発が遅れていたが最近は安定的に開発が続いていた。
3)、BN800 の出力は88万キロワットでもんじゅの3倍。

(私の意見)
1)、高速炉は発電が主目的ではなく、高純度・核兵器用プルトニウムを得るのが主目的、”もんじゅ”で計画されているプルトニウム生産計画の3倍がすでに現実に生産され始めた。
2)、ロシアという国の「非現実的自信過剰指向性」がくっきりと見えてきました。そんなに極端に多量のプルトニウムを持ってどうするのでしょうか? エネルギー製造能力に於いて世界1、核兵器所有能力においても世界1。
3)、この過剰な能力を背景に外交を展開するつもりでしょう、プーチン大統領が強気で力づくの外交を展開する根拠が分かりました。
4)、しかしこのような恐ろしい国と笑顔で付き合おうとする国は世界中でどこにもないでしょう。
5)、世界は今、やっと、COP21 でまとまって「脱核力発電」へと向かうことを決めました。ロシアの目指す方向はこれと全く正反対の方向です。この国は平和は欲しくないのでしょうか?? 「科学」はもはや「核力利用」の方向へは向かっていませんので、ロシアの時代感覚は一世代後退したと言えるでしょう。
▲▲先頭へ▲▲▲

参考 : フランスは核反応炉(原子炉)活用の最先端を行く国です、スーパーフェニックスという高速炉の実証炉はすでに1986年に稼働させました。しかし、翌年には停止させ、そのまま廃炉にしました。原因は、ナトリウム漏れ事故が続き、2000トンはあるであろう(原型炉の”もんじゅ”で1700トン)液体金属ナトリウムが異常振動(ウオーターハンマー現象)を起こすことを止め られず無気味と感じたため。しかし、フランスはまだあきらめてはおらず1998年から再び、新規に ASTRID という型の高速炉を設計中、今回はドイツ、イギリス、イタリア、ベルギーと協力しあって開発の予定ですが、ドイツとイギリスは撤退した模様でこの計画も先行きは暗い。Wikipediaより。


より詳しくはここを見てください

2015年12月21日、「忘れられた改革、ペレストロイカから30年」毎日新聞、モスクワ杉尾直哉記者の記事。

クラサフチェンコ氏

(私なりの要約)
1)、クラサフチェンコ氏(1991、連邦崩壊後もエリツイン大統領の民主化路線を支えた第1副長官)との面談記事。
2)、ペレストロイカ(立て直し)発案実践者のゴルバチョフ氏の現在の人気は低い、嫌われているといったほうが良い。しかし、ゴルバチョフのもう一つの改革、グラスノスチ(情報公開、情報のガラス[透明]化)は高く評価すべきである。政府に政策決定の説明責任を負わせた功績は大きい。プーチンはグラスノスチをしていない、プーチンは国民に長期的な展望説明をすべきである。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
3)、北方4島問題については、ゴルバチョフ氏の見解は想定外に「無理解」だった、エリツイン配下の指導者たちは北方4島は日本に返すべきだと強く迫ったが、ゴルバチョフ氏は拒否した。
4)、ゴルバチョフ氏はシベリア抑留についても無関心だった。彼は「ソ連人(スターリンの共産主義体制を取ったまま体制を立て直そうとしていた人物)」だった。そこがエリツインとは違うところである。
5)、プーチンエリツインの弟子であるにもかかわらずゴルバチョフ的な考え方に変わってきた。歴史を直視するのではなく、自分に都合の良い方向へと変えようとしている。国民の目をを過去の栄光へと向けさせ現実の「説明不足」から目をそらさせるためである。
6)、歴史は客観的に解釈し、過去の過ちを認識しなければ国家は前進出来ない、北方4島については、「日本がすでに敗戦を認めているにもかかわらず、その直後にソ連軍が侵攻した占領した島をどうして『ソ連領』と言えるのか」人類の正義に照らして国民に事実を説明できない政権だから北方4島の解決も出来ない。
7)、今年、日本は、シベリア抑留に関する資料をユネスコ世界記憶遺産に登録したが、これも申請撤回要求をしている。歴史に直面して国家の前進を図る姿勢が全くない政権である。

(私の意見)
1)、ロシアが歴史を正確に認識し、その結果を国民に説明する事が出来る国になることこそが「大国」と呼ばれるにふさわしい国である。プーチン政権が何年続こうと現状のまま「過去の栄光」のみを国民に見せつけるだけでは国民に「自信」を持たせることは出来ず、真の発展も無く、戦争ばかりしていなければならない国となるでしょう。
2)、しかし、ロシア人に「栄光ある時期」はかつて一度も無かったのではないか? 暗殺や粛清、戦争での悲惨な負け方、かけ事でも「ロシアンルーレット方式(回転弾倉に1発だけ弾を込め引き金を引く賭け)」が思い出されるほどに血なまぐさい国との印象を私は持ちます。
3)、この国とのおつきあいは長い長い年月が必要だと思います。

▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑
2016年2月7日「北方領土」交渉余地無し(アメリカは北方4島を足掛かりに対ソ防衛基地を持つつもりだった)、  毎日新聞、アナトリー・コーシキン(ロシア東洋大学教授) 日本語で寄稿。

交渉予知無し

(私なりの要約)
1)、「南クリル(北方4島)は第二次大戦の結果、我々側に移った
2)、1956年の日ソ共同宣言で 歯舞・色丹 の「引き渡し」を約束したことはフルシチョフ第1書記にとって最大限の譲歩だった。「これで解決済」の意思の伝達だった。
3)、日本にその後、択捉・国後 の2島をも獲得させようとしたのはアメリカである。(アメリカは北方4島を足掛かりに対ソ防衛基地を持つつもりだった)
4)、ロシア(旧ソ連)がそれに気づき、猛烈に怒ったのは、1960年の 「日米新安保条約締結」 の時である。上記()の中の文言が現実となるから。それで、 歯舞・色丹 の2島変換の約束に条件を付ける事にして、実際は返還を拒否し続けている、条件とは 「日本領内からあらゆる外国軍が撤退すれば 歯舞・色丹 を返す」 であり、その旨の覚え書きを日本に送った。
5)、ソ連崩壊で国が自信を失っていた時、自国にとって屈辱的で妥協的な姿勢を示した時期もあったが今や自信にあふれており千島列島全体がロシア領であるとはっきりということが出来る。
6)、日本がロシアと付き合いたいなら日本は歴史的現実を受け入れなければならない。

(私の意見)
1)、「南クリル(北方4島)は第二次大戦の結果、我々側に移った」 と北方4島があたかも「国際条約で我々側に移って解決済み」であるかのように「解決済み」を強調していますが、実は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令(1946)」というロシア国内だけに通用する「政令」を作って4島をロシア領としたのです。このことを隠したまま論を進める身勝手さを指摘するために、私としてはロシアの歴史を概説しながらロシアという国の身勝手さを指摘せざるを得ませんので歴史細部掘り起こし作業をしますがおつきあいくださいますようお願いします。
▲▲先頭へ▲▲▲
2)、強気の現在のロシアを代表する意見だと思います。また、安全保障上ジリジリと弱体化して行くロシアという国家を「汎スラブ主義」という1時代過去の信念にすがりついて過去の栄光を取り戻そうとする焦りと絶望感も透けて見える極めて硬直した論理が展開されています。ロシアよ、あなたは何におびえているのですか? とコーシキン氏には問いたい思いです。
3)、ロシアは、これまでの歴史を調べると、下の通りに、極端な強気と極端な弱気が周期的に現れる国です。多分、これから先もこれは繰り返されると思います。

ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・
(a)、ステンカラージンの乱(1670)、ドン・コサックの代表者という誇り高い人物をモスクワの広場で処刑し、彼の身体を「四つ裂き(頭と胴と両手と両足)」にバラバラにして放置した、コサック達のこの処刑方法への恨みは100年後のプガチョフの乱の原因の一つとなっている。
(b)、アルバジン城での大敗( 清国、ネルチンスク条約 1689 )して150年もの間、清国への劣等感抱く。
(c)、プガチョフ・農民の乱(1773)、プガチョフも誇り高いドン・コサックの首領で、自らを「実際の皇帝」と名乗って「ドイツから嫁いできて夫を軽視したエカテリナ女帝を退位させる」という大義を掲げて戦ったが兵器に劣るがゆえに負けて処刑された。
(d)、デカブリストの乱(1825)では、ロシアの若き貴族達がフランスのナポレオン軍にあこがれたがゆえの「体制批判」が闘争の旗印でした。体制側はロシア革命への予感におびえたので厳しい処刑を行ったがシベリア等へ流刑処分された貴族の妻たちは貴族の身分を捨てて夫に従い、民衆の支持を得ている、この事件は後に起こるロシア革命の始まりとも言うことが出来る。
(e)、クリミア戦争(1856)での完敗で自信を失う、異常な速さで広い地域に散らばったロシア正教信徒の数に過剰な自信を持った新興宗教(土着の信仰とギリシャ正教の混合)がキリスト生誕の地の管理権を欲してヨーロッパの伝統的キリスト教と感情的に対立した事が争いの発端でした。ロシアはトルコへと南下すべく何回もトルコ(オスマン帝国)と戦争していましたからロシアは西欧諸国(フランス[カトリック]・イギリス[プロテスタント])とトルコ[イスラム教] とを同時に敵に回し、兵器や戦法の未熟なまま宣戦布告したのです、この「偏った自信」はその後の戦争の原因となり続けます、ちなみに、2014年のクリミア(旧トルコ領、現ウクライナ領)併合紛争の原因もプーチン(ロシア大統領)の「偏った自信」です。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲
(f)、日露戦争で日本に大敗(1905)、一度の海戦で2つの艦隊(旅順艦隊とバルチック艦隊)を完全に失った。
(g)、ロシア革命で、5年間もの長期間、政治空白(1917〜1922)という暗黒の社会状況を味わう。内戦に国際社会を巻き込み、ロマノフ王家全員を裁判にもかけずにひそかに殺して埋めた。
(h)、ソ連邦崩壊(1991〜2)で70年もの長期間続けた「共産主義」という理想的政治理念そのものを否定する社会混乱を発生させ、自信を失う。この時は「原潜」までもが放置されていたのです。海への放射性物質流出防止のために「核反応炉(原子炉)」を取り出して解体処分したのは諸外国であってロシアではありませんでした。兵士達は全て職場放棄し 原潜はほったらかしにされたのです。

2016年の今、原潜は安全保障上なくてはならない重要な武器である、オホーツク海は原潜の聖域だから聖域に接する島々は絶対に返さないと脅す姿はまるで子供がだだをこねているように見え、醜悪です。

ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・

等と言った突然の内乱や負け戦に見舞われ続け、国家そのものがこなごなに分裂するおそれの強い国すなわち、何が起きるか見当もつかない不確実な国なので、現在の一学者の論説が「定説」となる可能性は極めて薄いと思います。

4)、コーシキン氏は「日本がロシアと建設的な関係を築きたいのであれば」と、あたかも日本がロシアと親密になりたいと欲しているかのように思っていますが、これには 「思い上がるのもいい加減にしなさい」と反論したいです。

日本人なら誰もロシアのような、「身勝手」で、「不誠実で傲慢な国」と仲良くしたいなどとは思っていませんよ。
日本人がロシア人に対して抱く一般的な感情は「嫌悪」です、そして、なぜ首相がロシアのプーチン氏と会いたいのかと言えば、隣同士なのだから子孫のために少しでも「普通のおつきあい」に近づいておきたいとの願いからです。

WW2 終了間際のどさくさに紛れた、まるで火事場泥棒のような「不正義(敗戦宣言をし、武器を手放した日本人を殺し、抑留し、住んでいた土地を奪った)」行為に対して何のけじめもつけないで「ロシア流歴史的現実政令による4島編入)」を日本に認めさせようとしてもそれは無理です。

ロシアという「領土獲得依存症」「戦闘依存症」に罹った国は今後必ず「手の付けられない混乱状況」におちいり、従来の政治姿勢を大幅に変えざるを得ない時期が来るでしょう。その時こそ、プガチョフのような正義感を取り戻し、WW2終戦直後の歴史事実を認め、普通の国になってほしい、そのあとで互いに「平和条約」を交わし、オホーツク海の「海の幸」を分け合いましょう。

はお、エリツイン氏、シュワルナゼ氏、クラサフチェンコ氏 等ロシア有識者達の北方4島見解はここにあります。

▲▲ページ先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑
寸考 国際的に身勝手・無教養な態度を取る性癖のあるロシア、具体例 
例1、バルト3国を主権無視で勝手に併合
例2、日本の北方4島を主権無視で勝手に併合
例3、 チェルノブイリ核力発電所(原発)事故の際には「石棺」と呼ばれる遮蔽物の維持・更新 を国際的協力のもとで、行なってきたが、そのお礼参りもしていない。
例4、 世界各地の港に放置された170隻の原潜処理(1991-2010)のお礼参りはしていない。日本も北東アジア配備の70隻の処理に関わったがこのことで何の感謝もされていない。
例5、2回に及ぶ「『核』での失敗」に何の反省も無いがゆえに、危険極まりない BN800 というフランスのスーパーフェニックスに相当する「高速増殖炉」を作っています。スーパーフェニックスは600℃の液体ナトリウム循環ポンプからの異常現象(ウオーターハンマー現象)に恐れをなして高速増殖炉事業を廃棄しました。ロシアは多分、失敗しても国際社会がしりぬぐいをしてくれると思っているのでしょう。
例6、シリア内戦での混乱状態を利用して「ロシアの潜水艦発射ミサイルの優秀性を宣伝した」事は国連安全保障常任理国の立場をわきまえない真に身勝手な宣伝行為と思います。
 

▲▲先頭へ▲▲▲

2016年3月26日、ロシアが千島列島に軍事基地設立か、調査隊覇権を表明 毎日新聞 モスクワ杉尾直哉記者
(私なりの要約)
1)、千島列島沿岸警備が目的。
2)、短距離ミサイル「バスチオン、射程300キロ」、無人機。
3)、移動式地対空ミサイル「トルM2U」はすでに昨年配備済

(私の意見)
1)、「このページ冒頭に書き込んだロシアの軍事作戦を裏付ける行為だと思います。
2)、ロシアはよほどアメリカが怖いのでしょう。

2017年3月16日、経済観測、「ロシアの盛衰」、モンゴルの地位 毎日新聞、宮本雄二氏


(私なりの要約)
1)、1980年ごろのソ連は、軍事力が強大で、特に陸軍はアメリカをしのぐほどだった。ただし、全体としては国力は衰退しつつあった。
2)、1991年、ゴルバチョフ がグラスノスチ(情報公開)、ペレストロイカ(立て直し)でテコ入れしたがついにソ連邦は経済的に崩壊、社会主義大国化実験は70年しか続かなかった。
3)、国土の4分の1を失い、人口は半分となった、中国と比較して、人口・経済力共に10分の1、軍事力だけは中国を少し上回っている。中国とは4000キロの国境線で接しているため今の軍事力では争っても中国には勝てないので、自らを「中国のジュニア・パートナー(弟分、おとうとぶん)」と自覚している。
4)、モンゴル地方におけるロシアの態度がそれを物語っている。かつてのロシアは「モンゴル国」に軍隊を常駐させ、支配力に於いて中国としのぎを削っていたが、今ではあきらめたように「モンゴル国」には無関心である。
▲▲先頭へ▲▲▲



[ 2015年5月31日、記、ロシア人記者(アルカディア・バブチェンコ)暗殺(射殺)事件、「プーチン政権批判」「ウクライナとロシアがメディア相互対立」、毎日新聞、モスクワ 大前仁 記者 ]

、偽装暗殺の露記者、作戦の詳細語る  AFPBB News - 2018年6月1日
ウクライナ国家保安庁(SBU)は、作戦(偽装暗殺)はロシアが命じた実際のバブチェンコ氏暗殺を阻止する目的であり、暗殺を計画した容疑者を拘束したと発表した。
▲▲ページ先頭へ▲▲▲

(私なりの要約)
1)、ロシア政治を批判していたロシア人記者がキエフ市内の自宅で背後から銃撃されて死亡。
2)、彼はチェチェンでの2回の紛争で兵士として参加後記者へと転向、脅迫を受けたため国外へ脱出、チェコ ⇒ イスラエル ⇒ キエフ と逃げ回っていた。
3)、キエフの在るウクライナ共和国ではロシア籍ジャーナリストも殺されている。
4)、ウクライナ共和国とロシア連邦は情報戦に突入中。



[ 2019年4月19日 12時19分 産経新聞、デジタル より、英国立公文書館で古海図が見つかった、北方4島は日本領「世界標準」だった、ロンドン 岡部伸 記者 ]

日露和親条約(日魯通好条約)以前から北方4島日本領 である事が 「大英帝国」作成地図で明示されている。

アロースミスの地図は、択捉以南の四島が北海道と同じ青色に塗られ、択捉島とウルップ(得撫)島の間に国境線が引かれたと認識できる。ワイルドの地図では、ウルップ島までが北海道と同じ赤色に塗られている。

両地図は、ウルップ島より北の島々をクリール諸島と記し、四島を千島列島(クリール諸島)に含めていない。

アロースミスは1790年、メルカトル図法による大型世界地図を製作し、国王ジョージ4世付きの水路学者となった。同地図はキャプテン・クックの探検航海の成果で架空の南極大陸「メガラニカ」を消滅させるなど当時最新のものだった。ワイルドも、アヘン戦争における中国の地図に香港を初めて登場させるなど、ビクトリア女王付き地理学者として活躍した。

アロースミスの地図を日本は04(文化元)年に長崎に来航した露通商使節レザノフから入手。当時のロシアも同地図を世界標準と認識していた可能性がある。
▲▲先頭へ▲▲▲ 公文書館ではアロースミスとワイルドの地図を日露間で領有について主張が対立するクリール(千島)関連の外務省公文書(FO925)として保管。当時の英国が少なくとも択捉島以北で日露間の国境を認定していたことをうかがわせる。

2016年来日したプーチン露大統領は、日露和親条約で四島を日本に引き渡したとし、「ロシア人航海者によって開かれたため、それまで(条約以前)は、ロシアに帰属していると考えていた」と主張した。

日本は、ロシアに先んじて四島を発見・調査し、遅くとも19世紀初めに実効支配を確立したとしている。



[ 2019年4月19日 ウラジオストックのわびしい現状 毎日新聞 ベトナム簿記普及推進協議会理事長 大武健一郎 ]




(私なりの要約)
1)、古びた建物が並ぶ、道路の舗装があちこち壊れ、あちこちに穴が開き、歩きづらい。人工は60万人。
2)、日本の富山市から中古の自動車が大量に運ばれて来る。
3)、日本語通訳はベテランだが月給は10万円くらい、ベトナムの日本語通訳より安い。
4)、軍事費に予算を取られ経済発展が」犠牲にされている、中国やベトナムなどと比較してもその停滞は顕著。
5)、いずれの国についてもいえる事だが、軍事力を優先して平和のインフラ作りを怠ると、庶民の生活がいかに苦しくなるかの良い例である。
▲▲先頭へ▲▲▲
↑↑ロシ通検索 へ↑↑↑


ページの先頭に戻る



inserted by FC2 system