人類の神話(旧約聖書)の「創世記」には、神(父なる神)が発した最初の言葉は 「光 あれ」 だった、と書かれております。人類は神(父なる神)との交流の中で、直感的に 「光エネルギーからすべてのものが生まれた」 と信じつつ暮らしてきました。そして、この信仰は、1905年になって初めて、物理学公式 (エネルギー = 質量×[光速 の2乗] )の中に取り入れられました。
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私が旧約聖書を使う理由は「そこに最古の人の息使い」を感じるから。旧約聖書はユダヤ教およびイスラム教の経典ですが旧約聖書からキリスト教の「新約聖書」が発生しているから。私がキリスト教信徒(カトリック)であるからではありません。 |
ヒトの量と家畜の量を合計した数と野生動物の量の合計数を比較すると「人と家畜」は「野生動物」よりも 5.6万倍 多い、ゴリラ研究家の山極寿一氏提示数を、青野由利 記者が毎日新聞 2020,6,8 の「土記」にて紹介 |
(人とその家畜の量)
ヒト・・・76億人 ウシ・・・15億頭 ヒツジ・・・12億頭 ヤギ・・・10億頭 ブタ・・・10億頭 ニワトリ・・・500億羽 合計数 623億 |
(野生動物の量)
ゾウ・・・62万頭 チンパンジー・・・30万頭 ゴリラ・・・20万頭 合計数 112万 |
(何倍であるか)
623億÷112万=5.5625≒5.6万倍 |
この記事では次の通りの見解が述べられています 「世界の哺乳類の量は人間と家畜で 9割以上 を占める」 今週、日本学術会議のオンラインシンポジウムでゴリラ研究家の山極寿一さんが示した数字に驚愕した(数値は上表の通りです)、 「土記」筆者はさらに次の通り記しています、 「ヒトが自然を破壊し、牧草地や畑に変え、自分たちに都合のいい生物だけを増やしてきた結果がこれだとは。生きる場所を奪われた野性生物から、未知のウィルスが家畜に飛びうつり、それがヒトに感染するようになるのは、当然の帰結のように思える。 次のパンデミックはコロナとは限らない。国同士が対立している場合ではない」 |
「進化の矢印」思想を私なりに概説すれば次のとおりです |
◆・存在の第1原因としての 「神」 が原因で宇宙が存在を始めた◆・宇宙は「光」と「物質の元」(メンデレーエフ周期律表にある元素)で出来ていた◆・宇宙には「進化の矢印(神の意志)」が作用を始めた、作用とは目立つ現象を連続させながら「進化の芯芽」を作りつつ「複雑性・意識」の方向へと導く作用であり現在も作用し続けている |
(メンデレーエフが発見し周期表にまとめた元素達は宇宙存在開始時のものです。人類は「核反応炉(原子炉)」を発明し元素の「核」を壊してエネルギーを得た時点で宇宙誕生時には存在しなかった元素や同位元素が沢山生まれました。人類は新しいエネルギーは得たものの新しく出来た元素や同位元素の処理方法が分からず困惑しています。 神 が予想していなかったものを人類が作った事の意味は重大であり、人類はこの責任を取らねばなりません) |
◆・宇宙の最初の姿(現象)は光エネルギーだった、光エネルギーはその後に現れる現象の「全ての芯芽」を刺激した◆・その結果、最初に誕生したのは「無機物質」だった。◆・「無機物質」は「進化の矢印」の作用を受けて「有機物質」を発生させた◆・「有機物質」が「複雑性」という現象を目立たせながら「芯芽」を作った時にその中心に「生命」があった◆・「生命」は立派に育ちその後「現象」として目立ちながら「進化の芯芽」現象を連続させつつ「植物・動物」を発生させた◆・やがて「動物」が現象として地球を覆い尽くした末に「芯芽」が現れた時、その中心に「意識」があった◆・「意識」が誕生した時には意識を宿す「動物」は「人」の姿をしていた◆・「人の姿」と「意識」はさらに「複雑性・意識」の作用を受けて進化を続け、ついに(アダム&イブ)が現れた◆・「複雑性・意識」の方向へと導く作用は今後も人間の「意識」の中で働き続け、幾つかの目立つ「意識現象(政治・宗教・科学)」の連続の中での「進化の芯芽」を経て「完成に向かう意識(超宗教)」が現れ最終的には「超意識(超人、神に似たもの、人が人を殺さない等)」が現れるだろう
◆・【<挿話>「嘘」の発明】 2021,1 のYouTube ゆきのん日和「嘘をつく力」、で「嘘をつく力が旧人(ネアンデルタール人やデニソワ人等々)」を打ち負かした力であるとの仮説が分かりやすかったので書きとどめます。嘘がつけない場合は5感のみを頼る生活なので群れの大きさはせいぜい30名程度が限界、「嘘をつく力」の発明は一旦実用化されると「嘘」の連鎖が起き、群れの大きさは突然大きく、かつ大きな群れがいくつも現れて旧人をあっという間に滅ぼした。 「嘘」とは目に見えない事柄を「信じる」こと。 現代人は「嘘」で充満した世界を生きている、例えば、「お金」(一枚の紙切れ)が一抱えの食料であると信じていない人は世界に一人としていません。ネアンデルタール人が今生きていてもこのことは「嘘」であると主張するでしょう。一枚の紙切を数えることはやがて「数」という「嘘」を生み、「科学」として現代人に定着していますが進むべき方向を見失っていますので 「世直し」 が必要です。 現代人は「国際連合」という「集団がさらに集団化」した場で「富の配分」という政治を行なっていますがネアンデルタール人が今生きていたとしても30名位を視覚や聴覚で認識する程度の力しかありませんのでとても「国際連合」には参加できません。「嘘」は現代では「政治」として定着しています。 ▲▲ページの先頭へ▲▲ 「嘘」は宗教も発生させました、群れの誰かが目に見えない何者かに向かって手を合わせひたすら「死んだ妻に会いたい」と祈ることをはじめました、その人物には見えても他の人物たちには見えませんので「嘘」の行為をした結果、気持ちがすっきりした体験をします、驚いた人々はその人物の真似をして、親しい者の死に接し「祈る」ことを真似しました、そしてこの「嘘」を声にして多くの人たちに伝えます、これが宗教の始まり。 しかし、現代人は「宗教」だけはまだ小集団の群雄割拠状態を克服して居ません、地球上の人々を一つにまとめることが出来ていません。「宗教」も本質は「嘘」であると悟れば良いのにそれが出来ません。人類は「嘘」をも乗り越える「大嘘」をつくという発明をすることが今後必要で、それが出来れば人類の未来が開けるでしょう。 私はキリスト教徒なので「超世界」という現代の大嘘を信じています。 |
「進化の芯芽」の概念及びそれに付随する「新葉」、「芯」、「芽」、「脇芽」、についてはここを見てください |
三つの現象が、あたかも 「縄(なわ)」 がよじれ合いながら伸びてゆく様子、縄は時代が進むと共に太くなりその断面の表層は不安定だが中心部は人間の内面に根付いて安定していると。 |
紀元前の世界史はどのような権威者であっても「推定」で発言しています。理由は「見ていた人は居ない」です。 「推定」のよりどころは主に 「出土品・出土地層」 ですが、私は 「神話」 をよりどころとしています。「神話」で代表的なものは 「イーリアスとオデュッセイア(ギリシャ神話)」 ですが、それよりも古い神話は 「旧約聖書」 です。私はギリシャ以前の歴史を 「旧約聖書」 から 「推定」 しています。 |
(最古の人の実態把握について)
最古の人の実態把握は 旧約聖書 という 「書き残された神話(原始宗教)」によって人々の息使いを感じること以外に方法はありません。(注:2021年にYouTubeむすび大学チャンネルで新しい方法が紹介されました)旧約聖書によれば、人類最古の時代は圧倒的に 神(父なる神)との交流(宗教現象) が目立ったと認識せざるを得ません。 ノアの時代以後は徐々に 「政治現象」 が現れるようになり、政治現象 は古代ギリシャ・ローマ で最盛期を迎えたのです。 では 「科学現象」 はどうだったのでしょう? 山野の火事現場を観察し、「火の原理」 を理解し、重い石を上下左右に移動させる必要に迫られて木材をあてがい、テコの原理を直感的に理解するなどの生活密着行動の中で 「科学の芯芽」 は息づいていたのです。 |
言葉のイメージは未来を切り開く力を秘めています
「現象」をイメージするには、今から1.5億年前の地球表面で目立つ「現象」は大きな 恐竜 でした。その時代には、人類は未だ進化の「芯芽」としても現れておらずネズミのような小さな「現象」の中に埋もれ、見えませんでした。 ▲▲ページの先頭へ▲▲ 「内面化して定着」をイメージするには、日本に於いては 「庶民は武器を持たない」と言う「政治」が豊臣秀吉の時代から徐々に社会に浸透し、現在では当たり前になっている、日本に於いては「肉食しても救われる」と言う「宗教」が親鸞上人の時代から徐々に社会に浸透し、現在では当たり前になっている、また、「人を殺したくない」という宗教心は地球規模で内面化・深化されており、イラク戦争等の現代戦で多数の人を殺し、表彰された人が精神を病む例が多く見られる、日本に於いては宗教的な「食事作法」が江戸時代以降定着し手を合わせてから食事し、食事が終わるとまた手を合わせて感謝(他者全てへの感謝)するなどが参考になります。そして、今後宗教がさらに内面化・深化・定着した場合人間はどう変わるかについて考えるのは楽しい事です。 日本では「電気も物質のように数で表す事が出来る」という「科学」が平賀源内の時代から徐々に社会に浸透し、現在では当たり前になっている、また、病気の原因が細菌やウイルスである事が多いという知見も地球規模で定着しています。人体に関する科学は急激に内面化・深化・定着しつつあり、次世代はどうなるか楽しみです ▲▲ページの先頭へ▲▲ 「深化」をイメージするには、「弾道を計算するための電子計算機だった物が加速度的に「共に考える機械」へと深まり(パーソナルコンピューター)さらに深まったら何が現れるだろう?」が参考になり、今後が楽しみではあっても軍事用ウイルスの発生頻度がそのまま民間用ウイルス発生頻度と連動して流布する現在に恐怖も感じています。 「政治」「宗教」「科学」を地球規模の脈動する生きた現象ととらえ、過去・現在・未来 を考えると元気が湧いてきます。 言葉のイメージをふくらませて世界史の未来を切り開く力を得ましょう。 |
「ロシア通史」をここで扱います。理由は、 (1)、ロシア連邦の2014年のクリミア併合事件が衝撃的でしたから。私にとって「この国の巧みな破壊行為(高高度を飛行中の民間機を秘密裡にミサイルで撃ち落とした事)、および (2)、「いつでも核兵器を使う用意がある、ロシアは大国なのだ」と宣言する大統領が存在する事は最も理解に苦しむからです。この国の通史を概観するならば、この国に関連させて、世界史の謎が様々に明らかになるように思います |
註 : このページのデータ出所は
(1)、世界歴史年表・地図 吉川弘文館、亀井高孝、林健太郎、三上次男、堀米傭三、[編] (2)、「反日・自虐史観を排した歴史年表」(作者同定不可なるも、非凡・正確 と判断する情報を多く含んでいます) (3)、Wikipedia (4)、「世界史の窓」および、Hello School 社会科 歴史(ハロ歴)を代表とした少なくとも2つのホームページを参照し私が正しいと判断した情報 (5)、盛衰の世界史地図 http://tncs.world.coocan.jp/WHMP.html ( URL をアドレスバーに貼り付けて実行してください) (6)、人生途上に於いて私が見聞し「真実」と確信したもの (7)、高品質の YouTube |
歴史のねつ造・ねつ造意図の例
(その一)、「韓国と米軍が北へと侵略」と日本の 革新系政党の公式文書に記載されたが本当は北朝鮮が南へと侵略 (その二)、拉致事件は無いとの主張が日本の公的政党(革新系)によって行なわれた (その三)、朝鮮半島には北朝鮮だけが存在するとの偏った政治思想が日本の公的政党(革新系)にはあった (その四)、 北朝鮮は正しい国なのでこの国の工作船の引き揚げる事は良くないと日本の革新政党は主張した (その五)、共産圏の核実験は正しいとの主張が日本に於いて日本共産党が宣伝し原水禁運動を分裂させた (その六)、あの戦争は日本だけが悪かったという自虐史観があるが植民地支配(朝鮮半島国の併合)を謝ったのは日本だけ、西欧の戦勝諸国は全て「知らぬ顔」を押し通している (その七)、皇国史観では、歴代天皇の政治は全て良かったとされているが、ほとんどの天皇は政治的に何もしなかった (その八)、日中戦争で黄河の堤防を破壊したのは日本軍とされた、しかし、実際は中国軍(国民党軍)が破壊した (その九)、日本軍は残虐だったとされているが残虐だったのは中国軍だった。本当は日本軍が中国人民の困窮を救った (その十)、朝日新聞は慰安婦について「ねつ造記事」を書き30年間も隠し通した。そのために日本国の国益は著しく損なわれた ▲▲ページの先頭へ▲▲ (その 十一)、朝日新聞は福島第1原発(核力発電所)事故対応に関し、所長及び所員たちの取った行動についての誤報記事を書いた。所長及び所員たちの名誉は著しく損なわれた |
真実の歴史は隠される事が多い、 「真実は何か?」を念頭に置いて学ばなければなりません 【その1】1945年8月15 日に日本の降伏宣言が国内外に向けラシオ放送され、降伏文書署名の準備中にも、ミズーリ艦上で降伏文書の調印式(9月2日)が行われていた最中にも、ソ連軍は作戦行動(降伏した日本兵に対する戦闘行為)を継続した、武器を置いた日本軍とどうしても戦いたかったのです、「戦って勝ち取った」事を国民に示したかったのですこの行為は人類が積み重ねてきた「戦争倫理」の基本に違反する「罪」です、ソ連という国が存続する限り背負わなくてなならない「罪」です。2015年現在では ソ連 ⇒ ロシア と名前は変わりましたがロシアは国連の安全保障常任理事国をソ連から引き継いでいますので引き続きこの「罪」は背負い続けなければなりません。 【その2】欧米諸国が朝鮮戦争に注意を奪われていたスキに乗じて、隣国のチベットを侵略し、自国領とした中共国 【その3】昭和天皇は国民に謝罪をしたかったのです(その証拠として、占領軍総司令官のマッカーサーの「皇室の財産と引き換えに、飢えて帰ってきた者達に食糧を分けてほしい」と申し出ました) 【その4】拉致問題解決を先延ばしにしては戦後賠償を求める北朝鮮に対しては、北朝鮮が求める「過去の償い」を、今後一切しないというタイムリミット設定が必要 【その5】東京裁判で提起された人道に反する犯罪(ただし、捕虜に対する処遇違反を除く)は当時国際法上裁くべき根拠法が無かった 【その6】悪逆非道の日本軍を 毛沢東の紅軍が打ち破ったとする思想教育をしているが実際に戦ったのは国民党軍で毛沢東軍は日本軍の背後から手榴弾を投げる程度でした、ミズーリ艦上で降伏文書の調印式で「中国代表」として参加したのは「国民党軍の要人」であって「毛沢東軍の要人」ではありません 【その7】日本人は海の男、戦争中でも工藤、いかづち丸(駆逐艦)船長は「ただいま救援中」の旗を掲げ、自船乗務員200名よりも多いイギリス兵を助けた。沈没船から脱出したイギリス兵を助け、病院船に引き渡した。同じ立場の日本兵はオーストラリア兵に機銃掃射で殺された 【その8】自分に戦争の意思が無くても、相手に侵略する意図があれば戦争は起きる。ポーランドの例では、ドイツとロシアに挟まれた地勢事情で3回、国が滅びやっとWW2戦後衛星国を経て独立した 【その9】核爆弾投下はソ連への威嚇と人体実験(ハーグ陸戦条約違反)であり、有色人種軽蔑の現れです 【その10】韓国の強気に押されて「従軍慰安婦」の言葉を低年齢の義務教育の教科書に書かされ、韓国の教科書には元寇の際の 高麗侵略軍の事は書かないと言う身勝手さを許すお人よしの日本また、韓国の教科書には「アメリカの2発の核爆弾投下」を教えない、これは頼りにしているアメリカに遠慮しているから 【その11】イギリスの教科書では「アヘン戦争(50年間にわたり中華人の脳を破壊し続けた)を教えない 【その12】中国残留孤児が大切に育てられたのは日本軍が中国の民衆を助けたから ------------------------------------------ <四ヶ国同盟> <韓国教科書に[核爆弾投下]は無い> ------------------------------------------ |
[はじめに]
(その2、あなたと私)、 ごく普通の人である あなたとわたし が出来る重大な事について 猿を出現させた「進化の矢印」は「人」を出現させるために力を発揮します。そして「人」が現れます。「人」は「意識の芯芽」を体内で育んでいました。そしてついに地球の最重要現象である「意識」の「進化の芯芽」が現れ、成長を開始しました。 「芯芽」の「芯」をいつまでも外れなかった人達は「政治」「宗教」「科学」の諸現象を発芽させ、歴史を刻んでゆきます。「脇芽」にそれてしまった人達は途中で姿を消しました。そしてついに「今の私達」が残ったのです。 「進化の矢印」は私達に話しかけてきます、「どうぞ私の矢にお乗りなさい」と。 わたしはその誘いを直感しています。 わたし は懸命にキーボードを叩いてその誘いに応じているつもりです。 さて、 あなた は「進化の矢印」の気配を身近に感じますか? もし感じたなら感覚を研ぎ澄ませて矢印に飛び乗って見てください、ご自分のすべきことが直感的にわかる事でしょう。 そう、人類進化の矢印はあなたの意識に働きかけているのです。 註 : 「進化の矢印」「進化の芯芽」、と言う言葉は私の造語です、その概念については当サイトの当ページのここを見て下さい。 ごく普通の、私のような者でも歴史を良い方へと変える事が出来そうです、あなたも、もちろんそうです。 |
映画 「シャニダールの花」 はこのころを時代背景として描かれた映画です |
汝(7)れ(0)初めは農耕・牧畜 |
民族の 「自称」 と 「他称」
古代イスラエル人の 「自称」と「他称」 、 古代ギリシャ人の 「自称」と「他称」、古代アラビア人の 「自称」と「他称」 |
★、古代イスラエル人の 「自称」 は 「イスラエル(神[ヤハベ]に選ばれた者達という意味)」、 「他称」 は 「ヘブライ と ユダヤ(イスラエル人から神[ヤハベ]を抜いた者達という意味)」
★、古代ギリシャ人の 「自称」は 「ヘレネス(異邦人[バルバロイ]ではない者達という意味)」、 他称は 「ミケーネ ⇒ アカイア(ペロポネソス半島一帯に定住した者達という意味) ★、古代アラビア人の 「自称」は 「ムスリム(神ヤハベ)に帰依する者という意味」 他称は イスラム(マホメット教を信じる者) コトバンク参照 wikipedia参照 |
モノクロ・サイレント 映画 「ノアの箱舟」 という映画はこの時代を理解する上で参考になります |
「ノアという人物」の存在と「大洪水」事件は下記の文字痕跡によって 推定 することが出来ます。 |
1)、『シュメルの洪水神話』(粘土板)における記述、メソポタミアの楔
形文字表記、BC2800年頃に大洪水があったと記されている。
2)、『ギルガメシュ叙事詩』における記述、古代メソポタミアの文学作品、シュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王に関する文学作品、粘土板に楔形文字表記、BC2600年に大洪水があったと記されている。 3)、旧約聖書『創世記』における記述、(BC3000年頃に、大洪水がおこり、船に乗って難を逃れた一団がいた) |
以上、Wikipedia で確認。 |
罪人の避難(17)場所だよ、賑(2)わ(O)い多しハンムラビ法典 |
寸考
、2018年時事、イスラエルとパレスチナの首都について
★、イスラエルは自国の首都ををエルサレム全域としているが、国際的には首都はテルアビブ。国際社会は大使館はテルアビブに置き、領事館は西エルサレムに置く、という対応でやってきた。 ★、ただし、2017年アメリカでトランプ氏が大統領になってからエルサレムを首都とする動きが現れた、すなわち、 2017年12月16日にはトランプ氏は「イスラエルの首都はエルサレムとする準備をせよ」と自国の政府に命じた。 ★、2018年12月17日にはオーストラリア政府は 西エルサレムをイスラエルの首都と認定した。 ★、パレスチナは 「国」 として国際社会の認定を受けていないが、中東戦争後ずーっと自国の首都はエルサレムと主張し続けている。 ★★、私の考えは、次の通りです、すなわち、イスラエルは西パレスチナを首都とし、パレスチナは新国家を樹立した上で東パレスチナを首都と定めるよう国際社会は動くのが良い。 |
モーゼ十戒を数えれば最初は 123 |
1)、わたしをおいてほかに神(父なる神)があってはならない
2)、(わたしの)像を造ってそれに向かってひれ伏したり仕えたりしてはならない 3)、(わたしの)名をみだりに唱えてはならない 4)、六日間は働いて七日目には休みなさい、神もしたように安息日としなさい 5)、父母を敬え、そうすれば主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る 6)、殺してはならない 7)、姦淫してはならない 8)、盗んではならない 9)、隣人に関して偽証してはならない 10)、あなたの隣人の妻を欲してはならない、隣人のものを一切欲しがってはならない |
日本聖書協会 発行 聖書 新共同訳 1999 を要約 |
「ヘブライズム」 と 「ヘレニズム」 |
アダム&イブバ→ノア→アブラハム→モーゼ→ソロモン王→イエス・キリスト(ユダヤ教徒、イスラム教徒)→ローマ教皇→大航海時代でのキリスト教布教(フランシスコ・ザビエル)→メイフラワー号のアメリカ到着→ガリレオ・ガリレイの宗教裁判(異端裁判)→ 帝国主義経済体制下のユダヤ人
大虐殺(同朋殺し)→現在 と続く「宗教・政治現象」は「ヘブライズム」の流れと見ることができます、ヘブライズムの内部には「宗教現象の芯芽(ジャンヌ・ダルク、ナイチンゲール等)」が存在しました、現在では宗教現象は私たちに内面化され「深化」されつつあります。 「ヘブライズム」の最大の特性は「性的な禁欲」、 2番目の特性は「一神教」です。 註 : パクス・モンゴリカ の100年間(1270〜1370)は東方からのユーラシア大陸横断的文明刺激(宗教から脱却し科学へと向かう刺激)をヘブライズムに与え続けた(森本説) |
古代ギリシャ→古代ローマ→アレクサンダー大王→ルネッサンス→産業革命→フランス革命→帝国主義経済体制(資本主義市場経済体制)→現在 と続く「宗教・政治現象」は「ヘレニズム」の流れと見ることができます。この語源は、古代ギリシャ人の自称 「ヘレネス」 に求めることが出来ますが、私は、トロイ戦争の原因となった「絶世の美女、ヘレン」とする方が実感が湧きます。ヘレニズムの内部には「科学現象の芯芽(アルキメデス、エウクレイドス、アリストテレス等)」が存在し、「政治現象」とは別系統の現象として異常発達し、現在では地球滅亡の危険を内在させています。 「ヘレニズム」の最大の特性は「性」の商品化、すなわち「女性の美しさ」を「富」ととらえる特性があります。トロイ戦争はこの特性を象徴しています。 2番目の特性は「多神教」です。 |
(寸考) |
私たち現代人は「ヘブライズム」と「ヘレニズム」の両方を内在させつつ生きていると理解することができます。現在は「ヘレニズム」現象(欲望充足現象)が優位に立ちすぎています。 核エネルギーにしろ電脳(サイバー空間、コンピューター)現象にしろ人類の制御が効かないところにまで来ています。 禁欲を重んじ、相手を信頼するという宗教現象を内在させている「ヘブライズム」の中の「新(芯)芽」を感じ取り育てる気持ちが必要で、それが無いと地球は滅びると思います。 核が人類を滅ぼすといわれて久しいですが、私は「相手を疑い、限りなくウイルスを発生させている「電脳世界現象」が人類を滅ぼすのではないかと思っています。 最速の電脳機械(スーパーコンピューター)で軍事用ウイルスを早く作った国が安全保障上優位に立つという世界の真っ只中に私たちはいるのです。私のパソコンにまで「ウイルス駆除ソフト」を入れなければならないのは政治現象として「異常」です、私たちは「ウイルス駆除ソフト」を購入したと同時に軍用ウイルス生産競争に取り込まれているのです。 軍用ウイルス世界が破たんしても民間用コンピューターは健全に保たれる工夫をせねばなしません。皆さんはどう思われますか?(以上は森本の説) |
アジア史簡略表記はここ、他世界と比較のために |
古代地中海中心の 政治・宗教・科学 現象【古代ギリシア・BC1000〜300】【古代ローマ・BC509〜AD476】
通算約1500年間 パクスロマーナ「政治現象」および「宗教現象」に貢献した人々
| о、ホメロス(BC800、ギリシア)が「イーリアス」「オデュッセイア」を書く。 о、古代ギリシャオリンピック選手達(マラソンなど)、抒情詩人達、悲劇作家達、喜劇作家達、彫刻・絵画・建築家達、悲劇・喜劇の演出家や俳優達 о、ピタゴラス(BC540、ギリシア)は自分の教団(「万物の原理は数、2は対立、3は調和、5は結婚を意味する」2015,10,9 毎日新聞、余禄)を持つ宗教家でしたが同時に科学者でもありました о、古代ローマの得意とした分野は、大規模土木工事(道路や水道や公衆浴場)でした。 о、古代ローマの文化的独創としては、「ローマ字(正しくはラテン文字)」と「パンテオン」です。 о、ローマ字は多民族統治のために発明されました。 帝国の民族数は1000年間の間に増え続け、結果的に 約15民族の 言葉 に通じる「共通語」が必要でした、そこで発明されたのが ローマ字でした。 ある民族の言葉の意味がどうしても理解出来ないときにはとりあえず表音文字であるローマ字で書き取り後日ローマ字発音でその民族と意思を通じ合いました。 ローマ字で「万民法」を帝国内に浸透させました。
о、「パンテオン」はギリシャの「パルテノン(アテナイ神だけに対応)」とは全く異なり、全ての民族・全ての信仰に対応する神殿でした。 ★註、しかし、1000年間の古代ローマ時代の間に宗教は徐々に変化します、次の通りに、パンテオンによる全宗教平等(政教分離) ⇒ 皇帝は全ての神を上回る神(政教不分離) ⇒ キリスト教のみを弾圧(100〜300、宗教差別) ⇒ キリスト教も他教と平等 ⇒ キリスト教を「国教 392」とし「政治利用(政教不分離)」 「宗教現象」及び「科学現象」に貢献した人々
| о、ピタゴラス(BC540、ギリシア)・哲学(宗教性強く、自分の教団を持つ)、幾何学(直角3角形の3辺に関する定理の証明) о、ソクラテス(BC460、ギリシア)・哲学(宗教的・倫理的、「アテネに住み続けたいのならアテネの法を守らねばならない」) о、ヘロドトス(BC450、ギリシャ)・歴史学 о、プラトン(BC400、ギリシア)・哲学(ソクラテスの弟子、「実在はアイデア(イデア)の影にすぎない」、「プラトニックラブ」の語源となった人物) о、デモクリトス(BC400、ギリシア)・自然科学、「原子論、古代ギリシアにおける唯物論を完成させ、後世の核物理に大きな影響を及ぼしたが、プラトン学派は彼を無視した。 о、アリストテレス(BC360、ギリシア)・哲学、(プラトンの弟子、強力な論理能力を十分に使って当時のあらゆる学問を究めようとしたた、アレクサンダー大王の家庭教師) о、ユークリッド(エウクリデス)(BC300、エジプトのアレクサンドリア市)・数学、幾何学(プラトンの孫弟子、「最大公約数・最小公倍数」の求め方等当時の数学・幾何学知識を取りまとめた) о、アルキメデス(BC240、エジプトのアレクサンドリア市)・数学・物理学、数学については、ゼロの概念・小数点の概念・平方根概念 の無い時代に「円周率」を「分数」で計算した。物理学については、「自分の体積は浴槽からあふれ出した湯の体積に等しい」、「テコの原理、私に立つ場所を与えてくれれば、地球を動かして見せる」 「政治現象」の様相
| о、古代ギリシャ・ローマの政治は「市民10万人を養うために15万人の奴隷が居た」といわれるほどに不平等は社会だったようです。古代ギリシャの優秀な哲学者が「人権」を思索して政治に反映させるという現象は無く、「法の下の平等」が通用するのは「市民」の間だけでした。 о、古代ローマは共和制初期に、カルタゴに戦勝したことによって地中海制覇を達成できました。豊かさという点ではローマよりはるかに上回っており、初戦では英雄ハンイバルに負けたのですが結果は勝ち、以後はカルタゴを軍事的に「骨抜き」とし、カルタゴ市民も「不戦」の誓いを立てたのですが、隣国ヌミディアのしつこい挑発についに我慢しきれずヌミディアと戦いました。ローマはこの戦いが「約束違反」であることを指摘したうえでカルタゴを焼き尽くして滅ぼしたのです。 о、古代ローマにおいても階級闘争はあったようですがそれも「市民」における身分の争いであったようです。奴隷が「平等」を求めて市民との争いに勝っても(スパルタカスの乱のように)政治現象とはなりませんでした。 о、古代ローマにおける2つの政治現象は「パンとサーカス」「世界の果てまで通じる軍用道路」です。前者は庶民を食べさせ見世物(ライオンに人を食べさせる、剣士同士を剣で戦わせる)に熱狂させることによって不平不満を解消させ、政治権力者は地位を守ったようです。 о、宴会での食事は美味しいものを「食い漁り」胃から嘔吐してはまた食べる極端な食道楽。 о、公衆浴場は男女の社交の場でしたが「性道徳」は無かったようです。 о、軍用道路は武力で反乱軍を平定するために「速く」目的地に軍勢を送り込むために必要でした。 寸考、パクス・ロマーナから現代の私たちが学ぶことのできるものは何でしょうか? | 現在の日本人にたとえてカルタゴを考えることができます、日本は憲法9条で国際的に「不戦」を宣言していますが、カルタゴの場合、たとえ「自己防衛戦」であっても滅ぼされた点から学ぶことができます。
| ある強大な国が日常的に「日本の領土を奪いたい」との強い気持ちをもっていれば「自衛戦」を「先制攻撃」と無理にでも解釈し「自衛戦」を「不戦の約束違反」と指摘して日本に攻め入る国があり得るのです。下記の(その3、ローマ帝国の滅亡と覇権のあとづけ)で指摘しましたように、私たちは自国の国防(安全保障)に無関心なままでの経済的繁栄はあり得ない事をもっと自覚しなければならないと思います、皆様はどう思われますか?。 「政治現象」の典型としての「戦争」3つ選んで画像で示します。
| (その1、ギリシャ×ペルシャ 戦) (その2、アレクサンダー大王東征戦) (その3、ローマ帝国の滅亡と覇権のあとづけ) |
映画「ソロモンとシバの女王」でこの時代のおおよそを知ることが出来ます。 |
急(9)に(2)二(2)分のイスラエル王国 |
// | 西洋(旧約聖書) | 日本(古事記) |
大神(存在の第一原因)の名称 | ヤハベ(霊) | アメノミナカヌシノカミ(霊) |
創造主(あらゆる もの の作り主)の名称 | 父なる神 | イザナギ(男)とイザナミ(女) |
人 を作る時の方法 | 物理的、外科手術的、先ず粘土で人の形を作り生命を吹き込んで
男性(アダム)を作りアダムの肋骨を取り出して、骨から女(イブ)を作った |
生理的、男女の交わり行為によってイザナミの母胎(子宮)から自然出産 先ず 天照大神(アマテラス オオミカミ[女性])を産み次に 八百万(やおよろず)の神々と全ての島を産んだ、八百万の神々は人々を産んだ、現在の日本人はすべて何らかの 神 の子孫である、天皇は父系をたどるとアマテラスに行き着く |
創造主はいつまで人と共にいたか | 人の中で最も気に入った女性(マリア)に子(キリスト)を産ませてこの世を去った、キリストはユダヤ教徒に裏切られてむごたらしい殺され方で死んだ、父なる神は世の終りにはすべての人を天国へと迎えるために 二人(父と子[父子は一体])で再び来ると約束した | イザナミが先に死ぬ、死の世界に会いに行ったイザナギは死体となってウジに食われているイザナミを見つける。しかし、イザナミは激しく怒り、あの世とこの世の出入り口までウジを振り落としながら、腐った身体で追いかけてくる。恐ろしさのあまり、イザナミが出てこないようイザナギは出入り口を大岩でふさぐ。結論としては「産みっぱなし」、現世の人々との再来の約束などは全く念頭になくやがてイザナギも死んであの世(ヨミノクニ[天国])へと行き、二人は天国で幸せに霊的生活を送り、来る人々を迎え入れている。 |
存在の第一原因 の居場所 | 地球上の人間一人一人のそばにいる、ただし見えない | 地球上の人間一人一人のそばにいる、ただし見えない |
(寸考1)
古代ローマでも「力仕事で女主人に奉仕」する「男奴隷」は「貞操帯」を着用させられた(2015 9,20 「古代ローマの生活」樋脇博敏著、毎日新聞書評)ようですし、インターネット情報では、去勢された男奴隷も居たようです。 古代ローマとの比較 : 1)、中国の宦官制度は存続期間が〔2596年間〕と長い、古代ローマの場合は〔985年間〕と短い。 2)、中国の場合は千人前後の皇帝専用妾(めかけ)が他男子によって妊娠させられない事を目的としているのに反し、古代ローマの場合は「一人の女主人」が妊娠させられないようにするための処置 3)、古代ローマの場合は「貞操帯」が主流で「去勢」は例外的処置 4)、付記、日本の場合古来「奴隷」という身分は無い、江戸時代の諸公は「側室」と呼ばれる妾(めかけ)を持ったが多くて10名ほど、男子が生まれた藩には「側室」が居ない場合も多かった。奥向き(中国でいえば宮廷)への男子入場は藩主一人に限定、雑務は「女中」が業務を分担した。 5)、奴隷制度廃止の歴史についての確認 : イギリスの場合、1833年、アメリカの場合でも1863年(リンカーンの演説) (寸考2、男性器[睾丸] 切除という不気味さ) 中国の場合、イギリスやアメリカと違う点は同朋(黒人等異人種ではない)しかも高位高官でも「殺すという処刑」ではなく「去勢という処刑」をして人格権を奪って奴隷にしている点で特殊であり、不気味です。 司馬遷(しばせん)の場合、この制度を逆手利用しています。彼は官吏として最高位にありながら皇帝の怒りにふれ「去勢」されたのです。彼は自殺せずに「史記(歴史書)」を書く決心をしました(私の想像では、中国歴代政権の異常性を暴露したかったのだと思います)。「人権」意識よりも「仕事」意識を優先しています、 「宦官」は単なる「使役される奴隷」ではない複雑性(皇帝への憎悪を自分の生きる活力として利用する心情)に無気味感を持つのです。 この無気味さは現代の中共国(中華人民共和国)での人事・外交の底流をなしていると感じます |
朱子 と デカルト について 上廣栄治著 「朝の誓(あさのちかい)」 p82〜p104 に次のとおりの興味深い記述があります、すなわち、私なりに解釈すれば、両者ともに心身二元論ではあるがデカルトの 「心」 は宇宙に漂う「1点」の如くに孤独、それに比し、朱子の二元論はデカルトほどには 孤独 では無く、より柔軟に心身は互いに作用する と。日本の古代では 心身一如 が人間存在の根本原理とされていたが、江戸時代中期に朱子学はこの 心身一如 の方向へと変化した。心身一如を社会生活に反映させれば、君臣一如 となり支配者が被支配者を酷使することをなくす方向へと変化した。 * : デカルトは 「我思う。故に我あり」 * : 日本化された朱子学は 「我実践す。故に我あり」 、註 : 日本化された朱子学の代表は 中江藤樹の「陽明学」だと思います。 |
スパルタはテルモピレー戦で、たったの300名の重装歩兵で 3日間 持ちこたえたが結局負けた、しかし、この戦いで戦力を消耗したペルシャはその後の2か所(サラミス、プラタイア)の戦闘ではすべて負けて引き返した |
ユーラシア大陸(ヨーロッパ大陸とアジア大陸)の人々がエーゲ海地方へと吸い寄せられ、現代に至った痕跡
1), BC1250頃(旧約聖書伝) 2), BC500から21年間、ペルシャ(古代イラン)対ギリシャ都市国家連合軍 3),近世のバルカン半島地図 4),近世の 黒海 → エーゲ海 地図 |
私の記憶によれば 1940年=皇紀2600年なので 西暦で皇紀年号を表せば BC 660年(1940-2600=-660) 、仏陀が現れる 190年前(660-470=190)に日本国は建国されたことになります、すなわち天照大御神が暗黒世界の泥を棒でかき回して1滴の泥を地球上に滴り落して日本国を作った年は 紀元前660年 |
皇室神道(コウシツシントウ)と神社神道(ジンジャシントウ)
天皇は皇室神道の神主(カンヌシ)であり、伊勢神宮宮司(グウジ)は神社神道の神主(カンヌシ)である 皇室神道(コウシツシントウ)とは、神道の源流であり、中心人物は 天皇 。日本には八百万(ヤオヨロズ)というほどに多数の神が居り、天皇は天照大御神(アマテラスオオミカミ、[最初に現れた神々の代表])の子孫とされ、皇室神道の 神官(神主[カンヌシ])であり、その使命は人民の平安を祈る事で「人民」は日本人に限らない。 神社神道(ジンジャシントウ)とは、神道の最大支流で、天照大御神を除くほとんどすべての 神 のよりどころである 「神社 群」 で成り立ち、「神社」の中心人物は 「宮司(グウジ)」 、その使命は氏子(うじこ、神社に籍を置く国民)の平安を祈る事。日本各地には最低限1県1神社の割合で存在するほどに極めて多数の 「神社」 がある。極めて多数の 「神社」 を統括する立場にある 神社 が 「伊勢神宮(三重県伊勢市に在る)」、そして、伊勢神宮関連事務処理は 神社本庁(民間の宗教法人) が担い、東京都渋谷区代々木に本部がある(Wikipediaを参照し要約)。 なお、最大支流からの分流にも属さないものも 「じんじゃ」 と自称している場合もあるようですが、それらは神社本庁の管理下にはないと思われます。 |
さあさあ(33)し(4)っかりアレクさん |
「心の底から神を信じる」 の具体例は次の通りです。
「『キリストという神』 の 母」 は 人間の女性で名は マリア。 マリア は男を知らない娘(処女)のままでキリストを妊娠し、キリストを出産した。「『キリストという神』 の 父」 は 『父なる神』 という 神 である。すなわち、 『父なる神』 が人間の女性を愛し妊娠させた。 『キリストという 神』 は約30年間人間の姿をして地上で成長し、30歳の頃、民族を同じくする仲間に裏切られて殺されたが3日目に再び人間の姿で現れ約1ヶ月間地上に存在したあと姿を消した。次に現れるのは 世の終わり の時、死者を生き返らせて永遠の命を授けてくれる。 この事を信じる人は洗礼を受けたと同じとみなされる。 |
野心家カエサル(シーザー)について
彼は内乱を終息させた(BC49)が強引だったため暗殺された(BC44)、彼は知的好奇心も旺盛で戦記文学を残し、多くの愛人を持った、その中にあの有名なエジプトプトレマイオス朝のクレオパトラ7世もいた。 註 : 約100年後に狂信的(自分は神であると信じていた)で独裁者の 暴君ネロ が現れるがネロはその残忍さと無教養さとで対照的だったので二人の存在は記憶しやすい |
キリスト誕生年を紀元 プラス・マイナス 0年 とする暦は天文歴で、一般の世界史では使われません、私も天文歴は採用せず西暦を採用します。下図の通り、両者に差異が生じるのはキリスト誕生以前の表記数値です。キリスト誕生年を過ぎれば AD数値は天文歴数値と全く同じです。
理由については紀元前 Wikipedia と 西暦 Wikipedia とで確認する事が出来ます。 |
(寸考) |
BC は Before Crist(ビフォーキリスト=紀元前) で分かりやすいのですが、AD は Anno Domini(アンノドミニ≠紀元後) なのです。正しいのは AD=(アンノドミニ = 御主人の年)なのだそうで、なかなか分かりにくいですね。
「Anno Domini」はラテン語(古代イタリア語)で、その意味は 「神の子キリスト (御主人)の年」 つまり「キリストの年齢」のようです。 したがって「AD 5」と簡略表記した場合、その意味は 「主イエスキリストが5歳の時」 という意味になるようです。現在は AD 2017 なので「主イエスキリストが2017歳の時」 ということになります。 BC または AD で表記していまが AD は省略することが多いです。 |
また、イエスキリスト誕生年が現在周知されている通りでは無いらしい、「キリスト教百科事典」エンデルレ書店、昭和58(1983)年6月20日 9版、によれば、「紀元前4〜6頃生まれた」と書かれています。 |
アジア史簡略表記はここ、他世界と比較のために |
ネロについて、約100年前に現れたシーザーに匹敵する独裁者だが、無教養・残忍(自分を神であると信じ、キリスト教徒をコロシアムでライオンに食わせるイベントで民衆の人気を得ようとしたなど)だった、その点では教養のあったシーザーとは対照的なので記憶しやすい |
なお、 「暴君ネロ」 という映画をここに載せました、古代ローマのこの時代の雰囲気を知ることが出来ます |
古代ローマ(含、東ローマ)という政治現象が 1453年 に完全消滅するまでの痕跡と内面化された宗教現象の生きざまは以下の検索表の通りです |
330年、 キリスト教信仰の容認 | 392年、キリスト教を国教に昇格 | 395年、ローマの東西分裂 | 395年、 西ローマはミラノが首都、東ローマ(ビザンツ帝国)はコンスタンティノープルが首都 | 476年、西ローマ帝国の滅亡、 宗教はカトリック教として存続しその後のヨーロッパの精神的拠り所となった |
1071年、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となった、第1回十字軍派遣要請 | 1096年、東ローマ帝国皇帝はローマ教会に助けを求め、これが第1回十字軍を発生させた | 1270年頃には終わっていた十字軍の派遣はがその後も臨時に( 1389 コソボ・ニコポリス戦など)召集派遣された | 1453年、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)滅亡、オスマン帝国領内で孤立、十字軍派遣もなく滅びた | 1453年まで続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のキリスト教は、ギリシャ正教として存続し、ロシアへと伝わった。 |
(寸考、人権と近代化について、中国に根付く人権無視の文化) |
1)、「宦官」と言い「纏足」と言い、中国という大陸地方の国は古代から近代に至るまでずーっと「人権無視」の文化(宦官、纏足)が根付いてきました(1911辛亥革命まで)。
2)、この国(中国大陸地方に次々と現れた国)は自らの力で「人権無視」に気づかないままで国際的近代化(万国公法漢訳の機会)に出会ったのです、しかし、中国の知識人はせっかくの機会を近代化へと生かしませんでした、「中華の国は世界で最も優れた国」との意識が強く、万国公法 を無視しました。 3)、古代ローマにも「ライオンの人食い」や「剣士同士の殺し合い」「貞操帯を男奴隷に施す」「女奴隷を素裸にして牛馬の競り市にかけるように競売する」などの人権無視の歴史を経ていますが「神」概念を持つことによってこのような人権無視行為を終わりにしました。 4)、 日本の場合も、古来、社会の最低辺階級は「奴婢(ぬひ)」と呼ばれて差別はされていましたが「奴婢(ぬひ)の男性」が「宦官」のように去勢されたり、「身分の高い女性」が「纏足」にされる事は無い状態で、庶民は国際的近代化(ペリーの黒船来航)に出会って時代の変化を敏感に感じ、びっくり仰天しています、それ以前に「万国公法」は日本の知識人達に衝撃的な印象を与えました。 5)、中国が近代化に遅れた一つの大きな原因は、「宦官」と「纏足」だと思います、多分ほかにも沢山の原因がありそうで、この「原因」を全て解明すれば2015年現在のこの国の「不可解さ」を解明出来るし、この国の今後の在り方を発見することにつながると思います。 |
対戦国
戦争名 | 勝敗 | 侵略か否か | 説明 | |
663年 | 唐 白村江 | 敗 | 否(援軍) | 百済(くだら)国(朝鮮半島地域)への援軍、唐国(中国大陸地域)に攻め入る、百済は唐により滅ぼされ、多くの人が日本に逃げて来て援軍を求めた、唐の巨大船に木の葉のように小さな船で立ち向かい完敗、以後日本国は唐国から諸事万端を学ぶ(遣唐使) |
1274年 1281年 | 元寇(1回目)
元寇(2回目) | 勝 | 否 | 突然元国(中国大陸地域)の大軍に襲われる、1回目は約1ヶ月間博多湾に滞在して内陸まで侵入し、日本に大勝していたにも関わらず突然引き上げる、2回目は暴風雨のため元軍全滅、元国には高麗国(朝鮮半島地域)が属国として服従していたので元寇にも高麗国軍が「先鋒」として参加していた |
1592〜98年 | 朝鮮 朝鮮出兵 | 未決 | 侵略 | イスパニアからの侵略防止、イスパニアが明国(中国大陸地域)を征服する前に日本が明国を征服しようとして先ず李氏朝鮮国を取ろうとした、日本軍の強さは圧倒的で朝鮮半島北辺(中国地域北東部)でヌルハチ(明朝を倒し清朝を興した人物)とも交戦している。16世紀世界最大の国際戦争 |
1894〜95年 | 清 日清 | 勝 | 否 | 李氏朝鮮国内乱に際し李氏朝鮮国を支配する清国(中国大陸地域)からの攻撃を受け応戦した |
1904〜05年 | ロシア 日ロ | 勝 | 否 | ロシア南下侵略への大規模自衛戦、旅順要塞を陥落させ、バルチック艦隊(サンクトペテルブルグが母港)を壊滅させたが日本国は国力が衰弱した |
1914年 | ドイツ 日独 | 勝 | 否 | 第1次世界大戦(WW1)に日本も参戦しドイツとだけ戦った。日本国は近代化に際しさんざん御世話になった国であるドイツに宣戦布告、地理的に日本に近いドイツ占領地を奪った |
1918年 | ソ連 日ソ | 未決 | 否 | シベリア出兵、ロシア革命中、チェコ人捕虜救出が目的だったが、共産主義革命伝染防止へと目的が変質 |
1931年 | 中華民国 日中 (満州事変、柳条湖事件) | 勝 | 否 自己防衛 | 南満州鉄道(満鉄)を日本軍が破壊しておきながら中華民国軍のせいにした。目的は、地方軍閥が支配する「無法地帯」である満州地方を安定化させる事にあった。当初は 「南満州及び東部内蒙古 に居住する日本人の安全を守る」と言う自己保存の要素が強かったがこの地域の治安の悪さは軍事侵略を必要とし、日本は「満州国(植民地)」を作った、この地域は安定し中国地方各地からやすらぎを求めての移住により繁栄した。しかし「満州国」の経営は赤字だった。やがて日本は「満州国」を見捨て石油等資源豊富な南アジアへと転進、欧米宗主国各国と「植民地争奪戦」を開始、これが太平洋戦争(日本国内呼称は「大東亜戦争」)の開始となった |
1937〜1940年 | 中華民国 日中 (盧溝橋事件) 満州国建国 | 勝
戦闘には勝っていたが、国際連盟で満州国不承認 | 否 大東亜共栄圏作戦中 | 日本軍の熱河侵攻(A図) 々(B図)以降のにらみ合いが顕在化、中華民国・中国共産党政府・日本国の三つ巴戦。 中国共産党政府軍が夜間に日本軍・中華民国軍双方に発砲、日本軍は中華民国軍との侵略戦争に引きずり込まれ広大な中国地方を転戦、熱河侵攻という挑発的侵略が本格的侵略となり、戦力を浪費した |
1941〜1945年 | 連合国 大東亜戦争(第2次世界大戦、(WW2)の後半) | 負、専守防衛戦に負ける | 否
大東亜共栄圏構想の不成功(特亜三国の非協力による) | アメリカとの2国間協議失敗、石油不足打開政治の破たん(ABD包囲網)が直接原因、アメリカの建国以来続く西進侵略主義と人種差別主義(日本人を黒人同様に軽蔑)が遠因、日本国はイタリア・ドイツと3国同盟を結んでアメリカ等連合国と戦ったが、3国のうち最後まで「政府」が残存し降伏文書調印式によって戦争にけじめをつけたのは日本国だけだった、 日本は「無条件降伏」したと理解する人が多いがそれは間違いです、日本国政府は「天皇と国体の存続」と言う条件と引き換えに日本国軍が降伏したのです。 日本は 戦(いくさ)には米英に負けたが、南アジア西欧植民地諸国は日本のおかげで、独立 を「戦い取った(9カ国)除特亜三国」 特亜三国 とは @中国地域(国民・共産 内戦中)、A韓国、B北朝鮮 |
確認 : 数学 と 幾何学、
★、数学でのアラビア数字は ゼロの概念 が基本、0.13534 の概念形成が可能、現代のコンピューター数学の基礎となっている。 ★、幾何学での「円の分割」は「面積」にとらわれる概念で、円の角度は、60度 が基本。 エジプトでナイル川の毎年の洪水のあと、農地を分割するには便利だったがギリシャ幾何学(数学)からは未来志向の「芯芽⇒新葉」は生じなかった。 ★、日本や中国では「お金の計算」「政治の時代区分」という実利が重視されたため抽象数学はごく少数の「学者の趣味」の域を脱しなかった。しかし、ソロバン(算盤)の発達は庶民に計算技術を普及させ、抽象数学(暗算)の能力を発達させていた。日本や中国の数学は「ゼロ」を基準とせず「1」を基準とし、年号表記には「1」を基準とする方が実利的だった。
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寸考ノルマン人はなぜ海へ出たのか? (故郷を捨てたのか?) |
居住地が北方で土地は広くても一定の人口だけしか生きて行けない、全員が飢えて死ぬよりはあらん限りの知恵を振り絞って軽くて頑丈な船を作り「若くて強い者」が外へ出たのだと思います、本能的な自信があったのだと思います、 日本でも中国沿岸を略奪して回った「倭寇」が室町時代末期の戦国時代乱世(1500年ころ)に出ました、この場合は「戦乱の敗残者の食糧略奪」だったのに比しノルマン人の一斉移動の場合は「若い強者」が沿岸庶民から食料を奪うだけではなく、征服したり家来になったりの点で日本の倭寇とは違います。 生きるか死ぬかという瀬戸際を生きるのは「お互いさま」というおおらかさが侵略される側にもする側にもあって心が通じたので各地に根付き子孫の繁栄を見たのだと思いますがいかがでしょうか? |
【「神聖ローマ帝国」(西欧中世)962〜1806
844年間にも及ぶローマ教皇 (カトリック教会代表者) を精神的首長と仰ぐ緩やかなヨーロッパ諸王国連合体(上図の通り) 徐々に西へと拡大し、イベリア半島(スペイン、ポルトガル)をも覆う】、 962年にオットー(東フランク王国)がローマ教皇からの戴冠を受け入れたことが 「神聖ローマ帝国」 の始まりであり、ローマ教皇の 「格付け(戴冠)」 行為の始まりです、無意識的に、諸国の王は古代ローマ帝国の精神的権威はローマ教皇に引き継がれていると思っていたようです。 日本に於ても、足利義満(1368-1394) が 天皇 を自分の格下と認識したらしい(金閣寺の各階様式の差)と同じようにヨーロッパでもローマ教皇を格下と認識してローマ教皇を世俗世界に引きずり下ろす事件もあった(アビニオン捕囚 1308〜1377 Wikipedia クレメンス6世もアビニョンにいた。 1300年代のベロナ政界は (ベロナの概略位置は上図 [1066年ころ、中世封建秩序のもとに並び立った国々 ] でもわかります) は教皇派[ローマ教会派、キャブレット家]と皇帝派[神聖ローマ帝国派、モンタギュー家]とに分れて権力闘争に明け暮れていました、
しかし、イギリスを除く西ヨーロッパの広範囲の諸王がローマ教皇を 「格上」 と認識し、「戴冠」 はローマ教皇から受けていたようです。しかし、ドイツ地域の諸王の世俗的実力の高まりと共にローマ教皇の権威を無視する傾向が生じ、権威は北方で弱く南方で現状維持でした。しかし、ハプスブルク家(スイス起源のドイツ系、1315年 (マルコ・ポーロの頃) に拠点をオーストリアに移し栄える、「世界史の窓」より) が登場してローマ教皇の権威の衰えを食い止め、且つ、 「神聖ローマ帝国」 の支配地域を広めました(イスパニア地方も支配)。ハプスブルク家のマリア・テレジア (出生 1717ニューコメンの頃, 在位 1740-1780 )は16人もの子を産み、「子たちを政略結婚させ姻戚関係で周辺諸国を支配しました。その末娘が有名なマリー・アントワネット。 しかし、フランス革命(1789)が起こり、ナポレオンが第一共和制を敷き、周辺国を侵略しオーストリアも戦争に負け(1806年)、844年間(1806-962=844)に及んだ、神聖ローマ帝国は消滅し、オーストリア、ハンガリー、イタリア、スペイン(イスパニア)等へと分裂し、ローマ教皇の権威も低下した。参照画像1 参照画像2(2000年現在、ヨーロッパ白図2 資料) しかし、ローマ教皇の権威は、ナポレオンの 「政教分離(ナポレオンの妻の戴冠図、ナポレオンが教皇から王冠を受け取り、王冠は自分の手で妻の頭にかぶせた)思想」 の西欧全域への波及や、南北アメリカ大陸へのヨーロッパ人移動 (北はプロテスタント 南はカトリック) による地球規模拡散によって、教皇の持つ 「精神的権威」 は分裂消滅したのではなく、今日(2017年)に至るまで続いている。 |
国王・・・・その地方の政治的ピラミッドの「頂点」 | |
諸侯・・・・その地方の政治的「領主(荘園という名の領地の主)」 | |
騎士・・・・荘園は持っていても政治的実力は無いので「領主」と呼ばれず「騎士」と呼ばれた、「領主」と同じ誇りを持っていたようです。 | |
農奴・・・・「領主」から「保護」を受ける代わりに「年貢」を納め「税(結婚税、葬式税など)」を納め「労働奉仕」をさせられ、移動の自由も職業選択の自由もありませんでした(結婚税を金で支払えない男子は新妻に対して持つ「初夜権」で支払ったとも言われています) | |
【1066年頃】、「中世封建秩序の下に並び立った国々」は次の通りです。
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「ビザンツ」 という名称は帝国の首都コンスタンティノープルが古代ギリシャの時代にビザンチオンと呼ばれていたことに由来しています。
「ビザンツ帝国」 https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD より。 |
一条天皇(980-1011) と 蜻蛉日記(977)
一条天皇は平安王朝文化を支えた中心人物、この人物の産みの母は「藤原道綱の母の娘」 「藤原道綱の母」が著した「蜻蛉日記(977)」は日本初の女流日記文学である。この日記は「土佐日記(935)紀貫之著」に見習って書かれた。以後女流日記文学は「枕草子(1001)清少納言著」「和泉式部日記(1008)」「源氏物語(1010)紫式部著」と続き、一条天皇の死後は「更級日記(1059)菅原孝標女(藤原道綱母の縁者)著」をもって終わった。 |
(寸考) 男女の恋愛を主題とした物語は先ずBC800年の古代ギリシャの「イーリアスとオデュッセイア」(ただし、この物語のテーマは 「美女の奪い合い」 ですから 「平和時の自由恋愛」 ではありません)そのために 人類史初めての 恋愛小説 は日本の1010年「源氏物語」、その次にイングランドの1592年「ロミオとジュリエット」です、 日本は地球上に遅れて現れますが、最も早く現れたギリシャが2015年現在では不活発、イギリスも輝きを失っているのに比べて日本は文化的に早く現れ且つ未だに活発と言えるのではないでしょうか?。 |
(寸考)「世界4大発明」と「恋愛小説」について 【4大発明】、「磁器(白磁)」については「生活の質向上」をイメージさせますが、「敵」との和平交渉の引き出物としての必要性が先んじたと思います、 「羅針盤(方位磁針器)」は広大な平原で道に迷わずに戦闘するための必要に駆られて発明されたものだと思います。 「火薬」についてはお祭りを盛り上げるために発明されたものが爆薬に転用されたのだと思います、黒色火薬の量を増やして事故が起き、その威力を知った軍人が敵の城壁爆破に利用したのだと思います。 「木版印刷」については「軍事命令の文書化」と「税金管理事務」の必要から発明されたもので、それが「仏典」印刷に転用されたものだと思います、 中華地方の歴史を概観して驚くのは「戦争」の多さです、北宋の建国直後にも次のとおり頻繁に隣国との戦闘や内乱がありました。 註 : 私は、人類のした最も重要で最古の発明は「車輪」だと思っています、したがって私は「世界4大発明」⇒「世界5大発明」という表現を好みます |
【戦闘や内乱】、(971,南漢と )、(975,江南と)、(978,呉越と)、(979,北漢と)、(980,遼と)、(986,遼と)、(988,遼と)、(996,遼と)、(1002,タングート族と)、(1005,契丹と)、(1010安南人と,)、(1028,ウイグル人と)、(1030,ウイグル人と)、(1039,西夏と)、(1049,内乱)、(1081,西夏と)、(1082,西夏と)、(1087,内乱・党争)、(1096,西夏と)、10年に1回の割合で戦闘がありました。 |
【活版印刷】、生き延びるためには次々と押し寄せる「戦闘場面」で勝つか逃げ切るか、が人々の最大関心事だったと思います、その「必要」が様々な発明を生んだのだと思います。 なお、1050年頃に 活版印刷 が発明されたにもかかわらず実用化はされませんでした、戦闘で明け暮れる社会では優れた技術が定着・発展することが出来なかったと推察されます、そして、活版印刷はその後モンゴル帝国(1271〜1368)によってペスト菌と共にヨーロッパに伝わり、社会に根付き、ルネッサンス文化を活性化させました。 |
【恋愛小説】、日本の「源氏物語」に相当するような「恋愛小説」が現れるのは1610年、「明」の時代の「金瓶梅」で、「源氏物語」よりも600年も遅れておりしかもその内容は凄まじい男女の情念の世界が描かれているようで、「源氏物語」の「やわらかさ」とは異質の世界のようです(Wikipdia記載のあらすじより)。
中共国地方の政治理念を一言で言うならば「乱」、これに対し、日本は「和」、(聖徳太子(600年頃)は「和をもって尊しとなせ」との政治理念を後世に伝えています)。 「明」の時代は日本の平安時代に相当する「和」の世界が一時的に訪れていたのでしょう。それにしても、「金瓶梅」に登場する女性達は「纏足」の足に美しい靴を履かされていたと想像するとその物語りの凄まじさを想像出来ますね。皆さんはどう思われますか? |
エルサレムが当時平和だったと私が述べる論拠 |
論拠1、638年、アラブ軍による征服でエルサレムはイスラーム勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、7世紀末に岩のドームが建設された。970年より、シーア派を掲げるファーティマ朝の支配下に入った。しかし、11世紀後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地をスンナ派のセルジューク朝が占領した。この征服を率いた軍人アトスズは、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。Wikipedia |
論拠2、イスラムはユダヤ教、キリスト教に寛大であったため、エルサレムは国際都市として発展。 @ 『エルサレム』p.62 立山良司 新潮選書 1993年11月15日刊 「イスラエルおよびエルサレムの歴史」より。 http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/israelhistory.htm |
1071年、マンジケルトの戦い、ビザンツ帝国ロマノス4世は大軍を率いて出兵したが、マンジケルト(マラーズギルド)の戦いでマムルーク兵(アフリカ人の傭兵)を主力とするセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となって奴隷の印の耳輪を付けられてスルタンの前に連れて行かれたという。このことが、ビザンツ帝国のローマ教会への十字軍派遣要請の要因となる。 http://www.y-history.net/appendix/wh0602-027_1.html (世界史の窓より) |
ドーバー海峡横断のお話しとしては、1902年ころに一人の女性がこれに成功し懸賞金100ポンドを受け取った「緑園の天使("National Velvet")」という1945年製作のアメリカ映画があります |
寸考ノルマン・コンクエスト(1066-1154)でノルマン人に征服されたのになぜイングランドは海洋強国へと成長したのか? |
【要点】イギリス(主としてイングランド)とアイルランド、長期間の不和とあっけない和解 |
1)、約8世紀の間(1100〜1801)、奴隷状態に置かれて不和
2)、次の120年間(1801〜1922)、イギリス連合王国(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国)の中に取り込まれるが不自立の不満で不和 3)、次の50年間(1922〜1972)、自立を求めてカトリック教徒の過激派がテロ行為を繰り返す、以後も散発的に続く 4)、2007年に北アイルランド自治政府(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国内部改革)が成立、和解へと向かう、 |
いい国(1192)作ろう鎌倉幕府 |
[しずやしず、しずのおだまき繰り返し、昔を今に、なすよしもがな] 源頼朝(よりとも)が弟義経(よしつね)のてがらを妬んで弟の婚約者 しず を捕らえて、鎌倉で、新幕府出発の祝宴を張り しず を公衆の面前で恥をかかせた後は切り殺そうとしました。ところが、頼朝の予想に反し、堂々と、あでやかに舞いながら しず(静御前)がうたった歌がこれです。意味は「あなたは30年前には囚人としてこの近くで捕らえられていましたね、私は出来ればあなたを昔のようにしたいものです」、静御前は京都育ちの教養人、かつ、長刀(なぎなた)武術の達人でした、夫の義経を守るべく吉野山にまで逃避行に同行し義経を逃がした後に捕えられたのでした。高い誇り、高い教養、は武骨で東国(いなか)の鎌倉の人々を驚嘆させ、一気に時代の人気者となり現在まで語り継がれています、「みやまおだまき草」は彼女を連想させる野草だと言われています |
(寸考) この政治現象は、イギリスよりも早い、イギリスで王権に制限を与える「マグナカルタ」ができたのは1215年です。日本は政治の中心地を遠方に移し、イギリスでは「契約文書」を作った点に表面上の違いはありますが実質は「王権の制限」です。武士階級集団が国家の最高権力者から政治の実権を奪った点では日本の方がイギリスよりも実質的・徹底的だったということが出来ます |
鎌倉幕府(1192)以降今日(2019)に至るまでの「朝廷(天皇)」の地位の大局的概略は以下の通りです
天皇家(朝廷)は、国家の代表者として外交契約の追認、国内人事の追認、国の文化(非軍事)の担い手の中心となり政治全般(内政・外交)は武家階級に任されるようになった。以後、政治の実権(内政・外交)は 鎌倉幕府→室町幕府(含南北朝・戦国)→安土桃山幕府→江戸幕府(1603〜) と推移、明治(1868)に至って政治の全ての実権(内政・外交)も「朝廷」に返還され、以後は第二次世界大戦敗北(1945)までの間は政治の実権(内政・外交)を「朝廷(天皇)」が握り、敗戦(1945)の責任を果たしてからの天皇は 再び国家の代表者として外交契約の追認、国内人事の追認、国の文化(非軍事)の担い手となり、今後とも 「象徴天皇」 の道を追求してゆくとされている、 この状態で今年現在(2019)、令和(レイワ)天皇59歳が平成(ヘイセイ)天皇から 「象徴天皇」 の座を譲位された |
チンギス・ハーンを戦争に駆り立てたものは何か? |
(平和な社会を拡大したい)という痛烈な想念 |
(想念)の発生原因
1)、部族長の長男として生まれたにもかかわらず、人の世のあらゆる苦しみを味わった、例えば次の通りに。 2)、16歳で いいなずけ(許婚者)が 決まる、直後に父は死ぬ、父の部下は全て去る、許婚者の家で過ごすが無理やり実母のもとに返される、チンギスの将来を絶つための陰謀だった。 3)、20歳を過ぎたころ、一緒に生活していた許婚者がある有力部族長によって連れ去られ、許婚者は強姦された後返される。二人の仲を裂きチンギスを孤立させる陰謀だった。許婚者は強姦によって長男を妊娠していた、チンギスの友人たちは離婚を勧めた。 4)、チンギスは言った「悪いのは女をさらい犯した方にある、女にも生まれてくる子にも何の落ち度もない、守れなかった自分が悪い」と言って、出産させ、名を ジョチ とつけて愛し育てる。やがて許婚者はチンギスを深く愛し、次々とチンギスの子を産む。 5)、それを見ていた友人たちもチンギスの人物の大きさ、弱いものを大切にする心に感動しチンギスは戦わずして多くの味方を持つようになる。 6)、チンギスは大物・英雄の素質ありとのうわさはたちまちのうちにモンゴル部族内部に広がる。 (註:以上の文言は1説にもとづく森本の想念です、どの文献にもこれと同じ文言はありません)。 |
(親しい友人と、勝つための戦法を練り、絶対に負けないという確信を抱いてから戦いを始める) 1000人単位の 生活且つ戦闘部隊 を増やしてゆく、 騎兵は5頭の空馬を伴って1日に70キロ走る、 羊は「生きた缶詰、生きた衣類」として1000人部隊の後方から移動し「移動兵站基地」とする、 他民族が服従した場合はその民族の文化を重んじ、行政事務、会計事務を任す。 |
人に(12)イチゴ(15)の味を知らしめた大憲章 |
映画 「日蓮と蒙古大襲来」 はこのころを時代背景としています |
その後のモンゴル民族の国際的地位の推移、中国とロシアの間で |
一座ざわめく(1338)足利将軍 |
将軍(8代目)の意思むなし(1467)応仁の乱 |
[1571年9月、比叡山(延暦寺、仏教本部)焼き討ち] 滋賀県 大津市の延暦寺で僧兵軍団を織田信長が滅ぼした。この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとくはねたと言われている。 1991年、延暦寺は 鎮魂塚を建立し、宗教が政治に謝罪。毎年 9月12日になると追善法要がひっそりと営まれている(★筆者註、宗教が政治に謝罪した例はほかにもある(1992 ローマ教皇が ガ゙リレオ・ガリレイ の破門判決(1633)を撤回)が鎮魂塚建立・毎年法要 は類例がないと思います)。 |
一座ざわめく(1338)100年戦争 |
特記この時期は、中国でも明朝末期の乱世、日本でも応仁の乱以後100年間の乱世、西欧でもイギリス×フランス 100年戦争、ほぼ同じ時期にユーラシア大陸の東西で乱世あり、日本では 1338年の 室町幕府開設は南北朝戦乱中の出来事で戦乱は56年間(1336〜1392)続いた、その後 応仁の乱(1467からの10年間 をきっかけに)室町幕府後半の戦乱期間は101年間(1467〜1568)続き、織田信長は入京(1568)によって日本の安定の先駆けを民衆に見せつけ、かつ強引な手段(寺院の武装解除)を取って「武士だけが武装出来る」ことを見せつけた。以後、日本は政治的安定期間(明治維新 1867までの300年間)に入って行く |
寸考 なぜ、科学の芽生え(1360ころ)もまだ無かったのにイングランド朝が強かったのか?
それは、ノルマンコンクエストの政治的潜在力を足掛かりにして、イングランド朝はペスト惨劇(1349 ロンドンで5万人死亡)後の人口減対策として農奴(農民)の地位向上(穀物栽培→羊の放牧、賃金の支払い)が図られ、庶民の生活意欲がノルマン朝庶民に比し高かったから、両国分離(1154)後もイングランド朝はフランス本土各地に私有地を持ちフランス農民を相変わらず奴隷のように酷使していたのでノルマン朝庶民の生活意欲は低いままだったから。 |
ジャンヌ・ダルクの本心について、Wikipedia より引用
「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒した時の軍事行動はどんな軍隊よりも強い」 |
寸考、(私たち現代人はパクス・モンゴリカから何を学べるでしょうか?) |
政治的な広域平定の点ではパクス・ロマーナと同じ、やがて衰え消えてゆきましたので学べるものは特に無いといえるでしょう。 |
宗教現象としては「血縁信仰」が認められ、これも最古の人類の本能的宗教現象なので学ぶものは特にない。 |
科学現象としても多分「黒色火薬」と「方位磁針」「紙」「陶器による活字印刷」をヨーロッパに伝えたことくらいでしょう。 |
パクス・モンゴリカから学ぶことができるのは「ペスト」だと思います。ペスト菌を故郷のヒマラヤ山麓から掘り起し交易経路に乗せてヨーロッパに運んだことに何らかの示唆を感じます。
▲▲ページの先頭へ▲▲ 「平定」された状態にあるとき、人は「満足」し「足元のあやうさ」を疑わなくなる。当時、ヨーロッパの人々は「満足」した生活をし、人がペスト病で、全身が真っ黒に変色して、繰り返し大量に死んで行くとは思いもしなかった。ましてや、原因が遠く離れたヒマラヤ山麓に存在したとは。 私は次のことを直感しました、すなわち、現在を生きる私たちは「科学」によって「平定」されて「満足」し「足元のあやうさ」を疑わなくなっているのではないか? 「突然の大量死・原因不明・後になってやっとわかる」という状態下を今生きているのかもしれないと。 この直感は科学的ではないので科学的に追及しても「足元のあやうさ」は発見できない。皆様はどう思われますか? |
パクス・モンゴリカから学ぶことのできるもう一つのことは、その後の東西格差です。
共に「中世」を生きたユーラシアの「西端地域」と「東端地域」はペスト事件を境にして文明度に大きな格差が生じて行きます。 ペスト事件直後までは、「軍事」でも「東端地域」が圧倒的に強かったし「文化」でもマルコポーロが書き残しているように、「東端地域(含日本)」の方が「西端地域」のルネッサンスよりも優れていたのです。 ペスト事件を乗り越えた「西端地域」は「科学」をよりどころに、たちまちのうちに「産業革命」、「植民地搾取経済」、「帝国主義」を発達させ、「東端地域」は「西端地域」によって「侵略」され続け、かろうじて「侵略」を跳ね返したのは「日本」だけでした(しかし、最終的(WW2)には「侵略」されてしまいましたが)。 この「文明格差」の東西逆転の「芯(新)芽」は、ペスト事件直後にあるはずです。私はこの「芯(新)芽」にこそ人類の今後を予見する手がかりがあると思います。いったい何があったのでしょう? おそらく、「発明」に関する多数の原因の相互作用が幾重にも作用したのだと思います。 これを解明する事の出来る手がかりの一つとして、下記の加 藤 茂 孝 氏のPDFからの次の通りの引用文が重要だと思います |
引用文 「(ペストが与えた)社会への大きな影響」
イギリスでは労働者の不足に対処するため、エド ワード3世がペスト流行以前の賃金を固定すること などを勅令で定めた(1349年、この年ロンドンだけ でペストで5 万人が死亡)ほか、リチャード2 世 (在位1377〜1399年)の頃までに、労働集約的な 穀物の栽培から人手の要らないヒツジの放牧への転 換が促進された。こうしてペストは主として農村に おける人口減という過程を経て、ヨーロッパの農業 形態まで変え、農奴から小作農への切り替えがすす み、農民の地位が向上することに繋がった。多くの 農地が無料にもなり、小作農と労働者という新しい 社会階層を誕生させることになった。 また、当時の教育は少数の学者に依存していたが、 ペストでの被害者もこれらの学問の長老に多かっ た。ペストによる学問の衰退を逃れるために、イギ リスのケンブリッジ大学の3つのカレッジ(単科大 学)とオックスフォード大学の2つのカレッジが設 立されている。また、イギリスでは1066年のノル マン人による征服以降、フランス語が教育用語に なっていたが、・フランス語を教える多数の教師たち もペストで死亡し、イギリスでは次第に自国語であ る英語の教育が盛んになってくる。 |
私は、この戦いが、後日、世界大戦の世紀と言われる 20世紀 の世界大戦の 芯芽(根源的原因、遠因)であると思っています、その思いの短文はここ 鳥観的考察 にあります なお、2018,2 現在の (わたしの意見)はここにありますこの短文(わたしの意見)位置 の 上部・下部 も見ていただけたら嬉しいです |
アジア史簡略表記はここ、他世界と比較のために |
小さな朝鮮半島国で 李氏 の支配が 518年間 も続いたことは人類史上ここだけ。なぜか? それは、中国大陸に発生しては消える代々中華政権に隷属したから、隷属思想は儒教(朱子学)、この思想は強い者に隷従する知恵に満ち、独創を排除し変化を嫌い、身分を2つに固定する、すなわち、支配階級と被支配階級(奴隷)。支配階級は 「党争(国内政治闘争)」を延々と繰り返し、決して地球規模の発想はしなかった、1910年に日本に併合されて初めて国際社会秩序に組み込まれた |
鄭和と永楽帝
▲▲ページの先頭へ▲▲ 鄭和はもとは雲南出身で馬和を名乗るイスラーム教徒であった。明が雲南を征服したとき捕虜となって、宦官(かんがん)にされたらしい。詳しい経緯は判っていない。後に永楽帝に仕え、靖難の変で功績を挙げ、信任されるようになり、鄭の姓を与えられた。永楽帝は宦官(かんがん)を明の統治の域外に派遣して朝貢を促し、中華帝国を再現しようとしたが、その一環として鄭和を南海に派遣した。鄭和は大艦隊を編成して東南アジアからインド洋、アラビア海に大航海を行い、明の国威発揚と、朝貢貿易の拡大に努めた。 世界史の窓より。 なお、日本国は室町時代、 足利義満 が日本国を明と朝貢国(勘合貿易国)契約を結んだ(1404)。しかし、永楽帝の死(1424)でこの契約は終わる。 |
映画 「ジャンヌ ・ダルクの概要解説」 はここにあります |
寸考 : ジャンヌ・ダルクと魔女
1431年1月宗教裁判(異端尋問)で「死刑」判決、 1431年5月死刑執行(火あぶり)19歳、 1456年7月復権裁判で「無罪」、 1909年4月「聖人」に加えられた、 ★筆者註、ジャンヌ・ダルク裁判は「異端」裁判であり、「魔女」裁判ではない、「魔女」裁判も 1400年代には多く行なわれたようです。「魔女」が復権して「聖人」となった例は無い。当時 魔女 と言われた人は精神病者で、病者の異様な行動が人々を恐れさせた結果、社会が病者を排除したのだと思います。 |
アルハンブラ宮殿(城)無血開城の聞き書きをここに書き込んでいます |
イベリア半島地方概略史
古代ローマ時代(BC500〜AD500)は「イスパニア」と呼ばれた(ニッポニカ大百科)辺境の地だった。AD500〜AD1066民族大移動時代。」この時代にイベリア半島はアルハンブラ宮殿を拠点にイスラム教徒が支配した、中世封建秩序図参照、1492年のアルハンブラ宮殿陥落以前はイベリア半島の北部に追いやられ「カスティラ・アラゴン地方」と呼ばれていたカトリック教君主が大きな手柄を立てたためイタリアのローマ教皇から頼りにされるようになり、ヨーロッパ封建諸国からも尊敬された。以後「カスティラ・アラゴン地方」は「スペイン国・ポルトガル国」とよばれ、大きな自信をもって地球のあらゆる方面に帆船で出かけた、二国は地球の受け持ち地域を次の通りに分担した、「東方はポルトガル、西方はスペイン」。やがて2国は「同君連合(1580-1640,60年間)」と称して合体しスペインが代表国となる。日本に鉄砲を伝えた(1543)難破船は同君連合前のポルトガル船、ザビエル(1549)が乗ってきた船もポルトガル船、だが、山田長政がアユタヤ(タイ国[シャム国])で日本人部隊を指揮して追い払った(1630)時の外国船は同君連合中のスぺイン艦隊。 |
アジア史簡略表記 アジアの諸状況、{( [ 中華地方(中国大陸地方) ]、{ 日本 }、<その他、・・・> )} | |
===政治現象=== | |
[ 中華地方 (中国大陸地方)]国の代表者[皇帝]は2011年までに10回程度替わっておりそのたびに文化文物は破棄されてきました、ただし人権無視の習慣(宦官・纏足)だけは皇帝が変わっても受け継がれてきました | |
【BC1400〜BC221(1179年間)】「殷」「周」「燕」「楚」等の国々が現れては消滅の乱世
出現と消滅、最終時期(BC722〜BC221)が「春秋戦国時代」 【BC 685年】宦官制度発生、(1911年「清」滅亡と同時に廃止)
【BC221〜BC202(19年間)】「秦」による初統一、後期に 劉邦×項羽、劉邦勝つ
【BC202〜AD220(422年間)】「前漢・後漢」 【166年】ローマ皇帝マルクスアウレリウスの使者来訪
【220〜265(45年間)】>「魏」「蜀」「呉」の分裂国家
【265〜420(55年間)】「西晋・東晋・前秦」等の分裂国家
【420〜589(169年間)】「宋・北魏・北周」等による小国家乱立 【490】「纏足(てんそく)」文化発生 1911年(「清」滅亡)後もしばらくは続く
【589〜618(29年間)】「隋」の文帝初「冊封体制」を実施。
【618〜907(289年間)】「唐」 【624年】新律令を公布し、均田法、租庸調法を定む
【907〜960(53年間)】十国・五代大分裂国家時代
【960〜1271(311年間)】「北宋・南宋・金」等
の分裂国家、北宋の経済繁栄はマルコポーロの東方見聞録(1299)に記され、人々は 「ヨーロッパのルネッサンス(1400初〜1500年代)に先行していたと驚いた
【1271〜1368(97年間)】「元」または「大元」(モンゴル帝国の中心国)」
【1368〜1644年(276年間)】「明」
【1644年〜1911年(267年間)】「清」
【1840年】アヘン戦争 【1851〜1864年】太平天国の乱 、【1895年】日清戦争敗北 【(1899ー1901)】義和団事件 【1911年】辛亥革命
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 (寸考、西欧との比較) 「城壁」「方位磁針」と「女性美」「スポーツ」 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 地勢図上、広大な内陸が果てしなく広がる 中華地方 では集落の安全保障上「城壁」が最大の価値だった。また、広大な平原を白昼に高速で移動しつつ戦う時に「目印星座」は不要で「方位磁針」が必要だった、「方位磁針」は「日常生活の質向上」の必要よりも先に「殺人用具」としての必要を満たすために発明されたのです。 西欧ではすでにBC800年頃に「女性美は『富』という文学(イーリアスとオデッセイ)」や「スポーツの祭典(オリンピック)」が現れているのに比し、 中華地方 ではBC550年ころに、やっと、戦争に明け暮れる中での「処世術(儒家思想)」が現れていることは 中華地方 が「処世術は『富』」と切実に考えていた事をうかがい知ることができます。 中華地方 は民族性として生来的に、実用性の分野での発明(黒色火薬〔城壁に穴をあける〕、「方位磁針、紙〔軍事命令用紙〕」、活字〔陶器製活字〕)では優れていたが「真」「善」「美」という超現実の宗教性の分野では劣っていたと理解することが出来、2015年現在の「富国強兵政策」の本源はここにあると思います。この国の今後の課題は「超現実」という精神性開拓だと思います。 | |
{ 日本 }国の代表者[天皇]は2021年現在に至るまで一貫して 皇統コウトウ という世襲制、ほぼ2000年にわたって国の代表者が変わらない 国 は日本国だけです、古代ローマは約1000年で滅んでいます | |
BC3500〜BC300【縄文土器の時代】、AD57〜〜(倭人・金印、この時期、古代ローマでは 皇帝ネロがキリスト教徒をライオンに食わせた、AD50)〜〜247年【弥生土器の時代】 邪馬台国女王 卑弥呼?(在位 175〜195?中国の文献にはあるが日本の文献にはないし 陵[墓]も無い)、 【300〜593 古墳時代 仁徳天皇陵 このころから、国の代表者 [天皇] は2021年現在に至るまで一貫して 皇統コウトウ という世襲制】 【593〜710(117)年間】飛鳥時代、聖徳太子(推古天皇[女性]の実務者、大化の改新の準備者)、663年(聖徳太子の死後)「唐」と白村江の戦いは敗戦
【710〜794(84)年間】奈良時代、東大寺大仏完成 752年
【794〜1192(398)年間】平安時代、源氏物語(紫式部作、1010年)
▲▲ページの先頭へ▲▲ 【1192年〜1338(146)年間】鎌倉時代、武士の源頼朝が朝廷から政治の実権(内政)を奪う、 【1274年】「元」に突然襲われる第1回元寇 【1281年】 第2回元寇 【1338年〜1573((235年間))年間室町時代、足利尊氏 註 : 足利義満は「明」の永楽帝と1404年に冊封契約を結んでいる 【前期と後期の戦乱期有り】武士が倭寇となりが朝鮮地域〜中華地域沿岸で海賊行為や密貿易を行った、 [室町時代の前期 南北朝時代の混乱、1338〜1392,54年間] 、義満が調停して治まる、明と交易、金閣、銀閣 [室町時代の後期 戦国時代 1467〜1568,101年間] この間に 応仁・文明の大乱,1467〜1477 (10年間) が あった。101年間 日本全土が無政府状態、飢えに困った将兵が倭寇となり、中国大陸東端南北沿岸を襲い主として食糧の略奪を行った。 日本国内は安定せず、「室町幕府」 とは名ばかりの政府で、諸大名が各地で争った、織田信長軍が京都に入って乱を鎮めた(1568)。 【1428年】室町幕府が初めての「朝鮮通信使」を招く 、 【1549年】キリスト教(カトリック)の伝来、フランシスコ・ザビエル 【1573〜1582年(9年間)】安土時代、織田信長、日本統一を目前にして部下に不意を突かれて焼死。 【1582〜1600年(18年間)】桃山時代、豊臣秀吉は織田信長急死後即座に京都で日本統一体制を作り、当時としては世界最大規模の国際戦を計画し中国大陸進出(朝鮮出兵)を果たしたが高齢のため死去、日本統一は豊臣氏の子孫ではなく実力者の 徳川家康 が果たした(1603〜1867)、 【1582年】豊臣秀吉、計量単位の統一し太閤検地実施、 【1587年】豊臣秀吉伴天連(バテレン)追放令、 キリシタン大名が高性能火薬をキリスト教宣教師随伴商人から買い、その代償を「人」で支払ている(火薬1樽=人間50人[女性が多かった])を知ったため 【1588年】豊臣秀吉、刀狩令(兵農分離令)布告、平民から「武力」を分離。 【1590年】豊臣秀吉、朝鮮通信使を2回招く 【1592年】第1回朝鮮(李氏朝鮮国)出兵 【1597年】第2回朝鮮(李氏朝鮮国)出兵、この戦争で李氏朝鮮国への援助で疲弊した「明」はヌルハチに敗れ(1636)、中華地方は満州族支配の「清」となった。 【1603〜1867(264)年間】江戸時代、鎖国、ただし長崎の平戸(のち出島)だけは開港、世界のあらゆる情報を得るため(1641年からは長崎の出島へと変更 [平戸よりやや南、より交通の便良し] だけ開港に変更)、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 【1868年〜】明治時代〜 【1895年】日清戦争(台湾領有、韓半島を清から切り離し日本の保護国とする) 【1902〜1921】日英同盟 【1905年】日ロ戦争勝 【1910年】日韓併合 | |
<その他、朝鮮半島・・・> | |
【590年〜675年(85年間)高句麗国、新羅国、百済国 並立、 】、663年,百済国の脱落(唐が百済・日本 連合軍を打破、白村江の戦い)、668年,高句麗国の脱落、その後しばらく 唐 が半島を統治したがやがて半島を放棄 【676年〜935年(260年間)新羅国 】、 【918年〜1392年(474年間)高麗国 】、918年,建国 、1259年,元による征服 、 第1回元寇(1274),第2回元寇(1281) 元の直接統治 1287年、 1356年,元より独立 、1392年,解体 。 【1392年〜1910年(518年間)李氏朝鮮国(清の属国)】、1897年清の属国状態から日本の保護国へ、だが、名称は「大韓帝国」 1910年日韓併合(名称は「大韓帝国」だが実態は日本の植民地)。 | |
===宗教現象=== | |
[ 中華地方 ] | |
【BC552年】(春秋戦国時代)、孔子が儒家思想(性善説)、申不害(韓非の師)が法家思想(性悪説)興こる 【BC97年】司馬遷、「史記」を著す 【350年頃】王羲之、書道を興す 【366年】敦煌石窟掘り始める 【390年頃】陶淵明、詩人、活躍 【405年頃】鳩摩羅什、仏教経典の翻訳に熱中 【505年】五経博士を置き学校を建てる 【629〜・・・・・45年】玄奘三蔵インド旅行、「大唐西域記」 【635年】ネストリウス派キリスト教(景教)伝わる 【651年】イスラム教(回教)伝わる | |
{ 日本 } | |
【805年】最澄、「唐」より帰国、天台宗(仏教)を広める 【806年】空海、「唐」より帰国、真言宗(仏教)を広める 【905年】古今和歌集 【1001年】紫式部、源氏物語 【1225年】親鸞上人、『教行信証』、浄土真宗、「『なむあみだぶつと唱えれば』、肉食しても妻帯しても悪人でも救われる」 【1253年】日蓮上人、『法華経・辻説法』、日蓮宗、「立正安国論」「『なむみょうほうれんげきょう』と唱えれば人は救われる」「末法の世を救うことの出来るのは 日蓮宗だけ」と政治に関わる、鎌倉幕府から処罰、しかし、「蒙古襲来(元寇)」の予言は的中した。2名は仏教の大衆化に貢献 【1418年】世阿弥能 【1549】フランシスコ・ザビエル、キリスト教(ローマ・カトリック、日本呼称はキリシタン)伝道来日 | |
<その他、・・・> | |
・・・・・・ | |
===科学現象=== | |
[ 中華地方 ] | |
【350年頃】江南に陶器技術発達 | |
{ 日本 } | |
【1543年】種子島に鉄砲伝来 | |
<その他、・・・> | |
・・・・・・ |
以下は 現代(2016)の IS 国 問題の解決方法についての 寸考 です 2017,8,27 記 |
以上は 現代の IS 国 問題の解決方法についての 寸考 でした |
グーテンベルク、活版印刷(1455〜)による聖書の普及は庶民にまで及び宗教情報の庶民化現象が宗教改革を助長しました、これは現在(2017)の情報多様化現象の先がけです。
勤勉、質素倹約、貯蓄 の奨励は資本主義を芽生えさせた。 自分に厳しい姿勢はキリスト教系統のユダヤ教改宗にまで及び、改宗しないと分かるとキリストを殺した人種としてユダヤ人を差別した、これはWW2時(1939-1945)のナチスドイツのユダヤ人大虐殺につながった。 諸教会一致推進運動について 1054年、ローマ・カトリック教会とギリシャ正教は互いを破門することを宣言して分裂し、1618年からの30年間は 宗教戦争 があり、ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会・正教諸教会は互いを無視することをつい最近(2000ころまで)続けてきました。 しかし、「宗教」 が、WW1・WW2 (1914〜1945) を防ぐことが出来なかった反省からキリスト教各派内部に 「神無き地球・絶望の世界」 という危機感が募りました。そこで、諸教会一致推進運動が起きました。 1965には、ローマ・カトリック教会とギリシャ正教は互いを破門した行為を取り消しました。2017年には日本の長崎で、ローマ・カトリック教会とマルチン・ルター派教会(ルーテル教会)は「世界平和」 を共に祈りました。ルンド教会(世界ルーテル連盟発祥の地)でルンド声明という平和に向けた相互協調推進声明 を出しました。 キリスト教は自分自身を 「改革」 しようとしています。1517年にマルチン・ルターがしたことを一言で言うならば 人類の「福音(神からの愛の言葉)を感じる力の回復」でした。以後500年を経た2017年現在、再び 人類の「福音(神からの愛の言葉)を感じる力の回復」のために諸教会一致推進運動を実行中です。それほどまでに、現代人は 神を意識しない 状況に陥っているとも言えるでしょう。 ( 以上は [ ローマ・カトリックと宗教改革 500年 ] カトリック中央協議会 発行パンフレット ) より、私なりの要約です |
寸考 宗教改革はこれから人類規模で始まると思います。 |
ローマカトリック教会の内部で起きた「革命」はごく狭い範囲の出来事です、従来の歴史家は西欧史を重んじるためにまるで世界規模で宗教の改革が起きたように言いますが、ギリシャ正教、ユダヤ教では改革は行われておらず、イスラム教では改革ではなく分裂(図説その1) (図説その2)が見られます。キリスト教世界で「改革」が行われたことは、宗教の内面化・定着には大きく貢献しました。人々は、宗教はローマ教皇にすがりつくことには無く、自分の内面と神との関係のなかにあるという当たり前のことに気づくようになったからです。
今後、イスラム教内部での改革、キリスト教とイスラム教の和解という宗教革命が起きる事こそ人類史における「宗教改革」なのだと思います、そういう理由で、私はここでは「狭い範囲の出来事」に触れることについてはこれで終わることにします。 |
比較検討 : コロンブス・マゼラン と 鄭和(ていわ) |
小さい模型はコロンブスが乗った「サンタマリア号」、 正確なデータは一切残っておらず、ネットでのいくつかの ページからは、小さく見積もれば全長18メートル、 大きく見積もれば全長 32.21 メートルでした。 (ドバイにあるイヴン・バテュータ・モール で展示されています 2014,8〜) 大きい模型は江蘇省で公開(2005)の「鄭和宝船」、 正確なデータ は一切残っておらず、ネットのいくつかの サイトは、 小さく見積もれば、全長 61.2m、大きく見積もれば 全長 120メートルを超える、でした。 私は次の手順でこの書きこみの寸法を決めました。 江蘇省の模型が最大推定値 125メートルを採用しています のでサンタマリア号も最大推定値 32.21メートルを採用 して倍数を計算し、 約4倍 (125/32.21)=3.8≒4 としました。 ※※※※※※※※※ 江蘇省で公開(2005)の鄭和船団宝船の模型 はここにありましたが、現在はここにあります 1405年ごろの実船には鄭和が乗っていました。 ※※※※※※※※※ *検索文言一覧表はここ |
寸考1、後世への影響力について
コロンブス・マゼランの行動は個々人の「進化の矢印衝動」に突き動かされたものであったのに比し、鄭和の行動は「主君(永楽帝)」を喜ばせるためでした。マゼランたちの船は鄭和宝船の大きさの 1/4 しかありませんが、小さい船の方に「進化の新芽」は芽吹いていました。鄭和宝船は人々を驚かせ、永楽帝の偉大さを広く世間に知らしめましたが人類の歴史を一歩前進させる力は無く、永楽帝の死と共に消え去りました。 寸考2、船の構造からの推定 探検船の舳先(へさき、船首)は細長く尖ってその延長線上に帆があることが必要です。狭く曲がりくねった水路を無事に通過するには複雑な向きや強さの風を的確にその帆で捕えます。 この通りの理由で、探検船は舳先が尖っていることが必要であるにもかかわらず鄭和宝船の舳先は遣唐使船の舳先よりも扁平で、先に突き出るべき角状(つのじょう)の帆柱もありません、これでは通過不可能と思われる陸の割れ目に試験的に入りこむことは出来ません。 ということは鄭和宝船は艦隊の母船であって「艦隊と共に狭く危険な海域を行く船」ではないということが出来ます。 したがって、鄭和の艦隊は初めから「朝貢」用に作られており、目的は「既存の世界秩序の中での力の誇示」であり、「未知の世界の謎を解明する事」は期待されていなかったといえると思います。 後日註 : 【海のシルクロードについて、】 この構想は2015年4月に現中国(中華人民共和国)が打ち出した(AIIB国家構想と一対の構想)です。過去の一時期(明時代[1400から20年間]の永楽帝の一代限り)に行なわれた「朝貢(みつぎもの)外交」にちなんで名付けられた文言です。 ▲▲ページの先頭へ▲▲ ニクソン訪中(1971,7)のおかげで急激に経済大国となった中共国は大国として何らかの貢献をしたいらしく次々と斬新な世界規模経済構想を発表しています。その中に「海のシルクロード」という文言がありますが、この文言は1400年ごろに、永楽帝(明朝3代目皇帝)が鄭和という忠臣を使って約20年間サウジアラビアまでの航路を利用して、寄港地の国々に「明国にあいさつに来てください、よろしく」と言って土産物を配りました。寄港地からは何の宝も積み帰らなかったので交易とは言えず、明国の財政は急激に悪化しました。いわゆる「朝貢(みつぎもの)外交」というもので、永楽帝の名を諸外国に宣伝するための航海でした。 世界史上の「海のシルクロード」とはソロモンとシバの女王の時代(紀元前950年頃)からディーウ海戦 (1509,2)頃までの地中海と東南アジア地方との交易の事を言います。ディーウ海戦以後はアフリカ南端の喜望峰を回るルートで大型帆船による海上東西貿易がなされるようになりました。 「海のシルクロード」があたかも中国を重要起点としていたかのように聞こえる宣伝は要注意です。タクラマカン砂漠経由の陸のシルクロードと同等に海のシルクロードも中国が重要起点だったという歴史事実はありません。 |
先ず、ポルトガル・イスパニアがなぜ「地球は一つの球」の概念を生み出すほどの力を発揮したのか? 力の源泉は何でしょうか? それは「レコンキスタ」を実現させた「自信」、もう一つは「信仰を世界中に広めなさい(新約聖書のキリストの言葉)」の信仰心に基づく「勇気」だと思います。中世最後の宗教心の燃焼があったのだと思います。
「海の果てにある国」として彼らは具体的にどこをイメージしたと思われますか? 私は、ジパング(日本)だったのではないかと思います、なぜなら、彼はマルコポーロの「東方見聞録(1299)」で「・・・・更に東に「黄金にあふれた豊かな国」があり、その文化度の高さはヨーロッパのルネッサンスを上回っていたことがヨーロッパでは語り伝えられていたから。とにかく外洋を日本へと向かったのだと思います。 ヨーロッパ民族にはバイキング(ノルマン人の大移動)に見られるような「1点の可能性さえあればそれに生命をかける」という行動力が備わっていると思います、多くの死者を出しても誰か一人でも生き残って配偶者を見つけ、子孫を残せばいいと。 この冒険主義的行動力は日本民族には無いものです。 |
ポルトガル・・・・アジアから「コショウ」を持ち返り、肉食の調味料として売りさばき「富」を蓄積した。
イスパニア(スペイン)・・・・・新大陸(南アメリカ)から「金、キン」を略奪して持ち返り「富」として蓄積した。 イングランド(イギリス)・・・・・「富」を運ぶ船を襲って「コショウ」や「金」を奪う「海賊行為」によって「富」を蓄積した。 |
ポルトガルとイスパニアは合併(1580-1640 [60年間]同君連合)して2国をイスパニアが代表する事によって イスパニアには世界中の「富」が蓄積された。 ※※※※※※※※※ 1580年〜1640年 ポルトガルとイスパニアの同君連合(イスパニアが代表)世界交易を独占1580〜1640の図 はここにありましたが、現在はここにあります ※※※※※※※※※ *検索文言一覧表はここ |
寸考ノルマン・コンクエスト(1066-1154)でノルマン人に征服されたのになぜイングランドは海洋強国へと成長したのか? |
(一)、でノルマン・コンクエストの好影響を述べ、次に (二)、でエリザベス1世(女性・生涯未婚)が海洋強国となるべくして現れた新芽だった事について述べ、最後に (三)、でフランシス・ドレーク(海賊)が海洋強国となるべくして現れた新芽だった事について述べます。 |
(一)、ノルマン・コンクエストの好影響について
1)、当時(1066)のイングラドは、数種類の民族が多数の城を持ち互いに領地争いをしておりノルマン人が攻めてきても迎え撃ったのは一つの城主だけだったのであっけなく負けたと言い伝えられています。 古代からのケルト系原住民族が先ず紀元前に、ローマ帝国の支配を受け(BC43)中世に入り、アングロ人やサクソン人等がデンマークやその付近の内陸から来て次々に住み着き(400)、以後、ノルマ人が征服(1066-1154)するまで諸侯にまとまりは無く、「常時戦争」状態でした。そこへ、ノルマン人がやってきてフランス流の中央集権政治を、フランス語を用いて行い、88年間統治しました。 2)、この統治は、イングランドの文化度を高めた(オックスフォード大学1167、マグナカルタ 1215)と同時に、城主たちに団結することの大切さを教え、「言葉」の大切さを教えました。 3)、そして最後に、「国を持つことの誇り(アイデンティティー)」を教えました。 ノルマン朝からイギリス王朝への移行は一時的混乱はありましたが比較的順調にイギリス王朝が立ち上がりました。 アイデンティティー(自分は何者か?と問うた時の答え)確立のため、ノルマン朝出身地・フランスとの100年戦争、内戦(バラの紋章の城主同士の戦い)や跡目相続争い、を経て、ようやくエリザベス1世というイングランド進化の新芽が現れます。 エリザベス1世戴冠時の領土についてはここ。 エリザベス1世という新芽が育つには資質のほかに試練の連鎖がありました、以下の通りに。 (誕生[1533]前には) ▲▲ページの先頭へ▲▲▲▲ (A)、フランスとの100年戦争でイングランドが負け(1453)、フランス本土の領土はカレーだけ、カレーも戴冠式の時には失っていた。 (B)、イングランド内戦[バラ戦争](1485終わる)、 (C)、エリザベスは庶子(愛人の子)として誕生(1533) (誕生後には) (a)、実父(ヘンリー8世)がローマ教皇と対立、「正妻と離婚し、エリザベスの母親と再婚すること」 を認めないローマ教皇に絶縁状をたたきつけ、自ら「国教会」を樹立(1537)、彼の「浮気」は「世継ぎの男子」がほしいためであって自らの信心にやましいところは無いという自負があったようです。ルターの宗教改革(1517年)は彼の決断のよりどころとなったと想像することが出来ます。 (b)、実父が実母を殺す(1536)、 (c)、国王の座を狙っているとの疑いをかけられ殺されそうになる(1554)。 (d)、もう一人の女性王位継承候補者が現れる、その人物はフランス(ギーズ公)と戦い、負け(1558)、イングランド王家がノルマン朝から引き継いだフランスの最後の土地(カレー)を失う。その人物は落胆して病死する。 4)、このようにしてエリザベス1世は王位を継承しました、在位は、1558年〜1603年。 |
(二)、エリザベス1世(女性・生涯未婚)がなぜ海洋強国となるべき新芽だったといえるのか
1)、実父がローマ教皇と対立した後を引きついだ彼女は、ローマ教皇から十字軍の対象国とならないよう気を付けながら政治の舵を取りました。まず、極端なプロテスタント派(ピューリタン[清教徒]1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した「馬鹿正直者たち」と言われた改革過激派)とは距離を置き、イギリス国教会の儀式・典礼や服装はカトリックに似せた状態に保ち自らの信仰心はカトリックのままでしたが公開はしませんでした。 2)、その一方で、教皇がお気に入りの国、イスパニアの言うなりにはならず、侵略の気配があればすかさず反撃しました、アルマダの海戦〔下記にあります〕で見る通りに。アルマダの海戦では自ら戦場に出向いて兵士たちを激励する演説をしています。 3)、イングランドが大航海時代に登場する事についてはポルトガルに 58年 も出遅れ、イスパニアの地球規模商業活動(金の略奪事業)にかなわないと見るや、すかさず「海賊行為の合法化」すなわち、イングランドが国として国民に「海賊免許状」を発行し、航海術にたけた人物に活動の場を与えました(エリザベス一世の気持ちは「イスパニア船中の『金』はインカ帝国からの略奪品、それをイングランドが奪い取ることにためらいは不要」だったと推察することが出来ます)。フランシス・ドレークのように優秀な海賊をサーに叙勲し、国民に海賊活動を奨励しました。 4)、彼女の教養の豊かさとやさしさと決断力の強さは国民を団結させる力を持っていました、国民は彼女が王位に就くときに拍手喝采で歓迎しました、それまでの王の中には「血まみれ女王」と呼ばれるほどに残酷な血なまぐさい人物も居ましたから。 |
(三)、フランシス・ドレーク(海賊)がなぜ海洋強国となるべき新芽だったといえるのか
1)、1577-1580、マゼランに次いで2人目の世界1周者です。マゼランは帰途フィリピンで原住民に殺されましたが、彼は、生きて帰りました。彼は既知のマゼラン海峡を通らず、独自の通過点を探して、南アメリカ大陸東岸を、マゼランよりももっと南下し、ホーン岬とドレーク海峡(南アメリカ大陸と南極大陸の間の海峡)を発見しました。人類に、地球の南端には大きな陸地があるらしい事を知らせました。 2)、ドレーク海峡は一年中方向の定まらない強風が吹きます。ドレークも一旦南太平洋に出てから東向きの強風に吹き流されてホーン岬付近まで押し戻されたそうです。気象を読むための細かく鋭い観察は数値化されて記録され、それを元にさらなる検討がなされたことでしょう、この行為は「科学」する行為です。 3)、彼の心の中に作用した「進化の矢印」は「科学の芯芽」を成長させるにふさわしい力強いものでした。ドレークは「科学の芯芽」を大木へと成長させる際に現れる沢山の「新芽」の一つでした。 4)、ドレークは「国家免許」を持った「海賊」として、「富」を「科学の芯芽」に注ぐという役割も果たしました。彼は航海中の海賊行為によりイングランドの国庫歳入よりも多い富(金銀財宝)をエリザベス女王に献上しています。女王は彼にサーの称号を与えました。 |
(以上の記事と図形は、Wikipedia の「エリザベス1世」等を参照) |
寸考イスパニア(スペイン)とイングランド(イギリス)のその後について |
イングランドはイスパニアから海賊行為で奪った「金(きん)」で、先ず「軽量・少量火薬・命中精度高」の大砲を開発、「重砲」のまま命中確率の低い砲弾を撃ってくるイスパイア艦を破壊する事例が多くなった。
戦場を離れても、イングランドは「金」を「技術開発」に生かし、「産業を興す」ために使ったので国はますます力を付けていった。 それに比し、イスパニアは「金」を 不動産 として蓄えようとした、例えば「豪華絢爛な教会堂を建てる」「広い土地を持つ」など、自国に「毛織物産業」を持っていたにも関わらず「機械・設備の改良」に投資することは無かったので膨大に蓄えられた「金」もあっという間に消え去った、現代人の私たちが学ぶべき一つの事例だと思います。 |
イングランド(イギリス)はイスパニア(スペイン)から奪った「金(きん)」を資本として産業革命を成功させ(1775)、1800年代に入ると蒸気機関を動力とした鉄船の艦隊で「海洋覇権」を握りました。20世紀に入り、イングランド(イギリス)の帝国主義(植民地主義)は地球を覆い、世界の隅々にまで「植民地」を持ったため「日の沈まない国」と言われました。
一方、イスパニア(スペイン)は急速に国力を高めた新興国アメリカに、キューバ、プエルトリコ、などのカリブ海の島々を奪われ、太平洋のグアム、フィリピンも奪われ、世界史から姿を消していきました、WW1にもWW2にも国家としては参加しませんでした。 |
ムッヤッ(68)と気合を入れて信長入京 |
映画 「七人の侍」 はこのころの日本を想定して作られています。 |
寸考何故 豊臣秀吉 はこのように残酷なキリシタン弾圧を行なったのか?
1)、宣教師についてきた奴隷商人が日本人を捕まえて国外へと売った、この行為を宣教師が止めなかったから。具体的に言うと次のとおりだった、すなわち、キリシタン大名が高性能火薬をキリスト教宣教師随伴商人から買い、その代償を「人」で支払ている(火薬1樽=人間50人[女性が多かった])ことを知って激怒したため。 2)、宣教師の多くは仏教寺院の破壊・焼却を奨励し、それを実施したから。 3)、宣教師の多くは「いずれ日本はイスパニア(スペイン)に征服される、インカ帝国のように」(リンク先のわずか上に現れます) と考えていたから。 4)、 豊臣秀吉 は 自分の老化を自覚していたので、日本を救う行動を急いだため。 豊臣秀吉 は 自分に寿命があるうちに、イスパニア(スペイン) の東洋植民地化防止のため後日、朝鮮出兵を実施した、イスパニア(スペイン)が 中国・朝鮮 を植民地とするよりも先に日本が 中国・朝鮮 を植民地とする計画が実施されたのです。それほどまでに 豊臣秀吉 のスペイン嫌いは甚だしかった。宣教師 はイスパニア(スペイン)の政治的スパイであると考えていたから。 |
当時の国際情勢概要と私の感想
1588年、アルマダの海戦1588でイスパニアはイギリス・オランダ連合軍に負け、海洋における覇権を失った 1590年頃、日本はイスパニアのフィリピン、マニラ総督府に宣戦布告状を突き付ける、イスパニアはフィリピンから逃げるように立ち去った。 1592〜1593年、第1回朝鮮出兵、目的は 明国 の支配する地域を植民地化、結果は 日本からの「明国の降伏と皇帝の娘を天皇に嫁すること、朝鮮の南半分を割譲すること」の要求(「世界史の窓」より)を 明国 が拒否して 休戦 1597〜1598年、第2回朝鮮出兵、1598年に豊臣秀吉の死亡(61才6カ月)と同時に日本軍は全軍が帰国。朝鮮国は 明国 への通り道として踏み荒らされ、「やきもの戦争」の言葉に代表されるごとく、「陶芸文化等の優れたものを人ぐるみ持ち去られる」という被害を被った。 ★私の感想 : もし、この侵略が成功したとしてもあの広い中国地域を統治することは不可能に近いことがその後の世界史を見れば明らかです、統治に成功した時期には、宦官や纏足といった対人不信感の徹底が必要でした。人民の人権を無視する統治は2020年の現在でも行なわれていますが、日本に固有の文化とは絶対的になじみません。私はあの時点で中国の植民地化に失敗してよかったと思います。 |
豊臣秀吉は国際人 であって 天下人(てんかびと) でも 誇大妄想老人 でもありません |
豊臣秀吉の日本国統治手法と実績 彼はたったの18年間(
1582〜1600)に日本国統治の基礎を作り上げました、経過は次のとおりで、日本を国際政治に参加させました。
1582年 太閤検地 成功 1587年 キリスト教布教禁止令 成功 1588年 刀狩令 成功 1592〜97年 朝鮮出兵、イスパニアよりも早く中国を奪う(唐入 カライリ) 計画、この時イスパニアの東洋総督府(フィリピンのマニラ)と外交交渉をしています 失敗 1600年 関ケ原戦、豊臣秀吉亡後の天下分け目の国内戦で豊臣方完敗、以後は徳川家康が日本国を統治した。 その後は明治維新までの約270年間、国内的にも国際的にも1回も戦争せず、「出島」という覗き窓から国際社会の動きを監視しつつ、且つ 「出島」 に出入りするヨーロッパ人(主としてオランダ人)から国際政治に関する情報を入手しつつ、文化的水準が世界一流の国を維持した。 徳川家康が実施できたこれらの政治は豊臣秀吉の政治感覚と行動のおかげであると思います、豊臣秀吉の側近として日本国統治および、イスパニア、中国、朝鮮との外交実務を行った 石田三成 の功績も高く評価されるべきだと思います。 |
徳川家康の内政、人口増に利根川治水で対応 徳川家康は暴れ川・利根川を太平洋へと付け替え(方向転換)江戸を洪水から守りつつ、その利水で、舟運整備と関東平野の新田開発を敢行。 その結果100年でGDP(米の生産高)は倍増し、人口も 1.5倍 に。もはや戦争つまり土地争いをする必要のない平和な社会が実現した。 このことは単なる 「遷都(国の中心部を移すこと)」 ではなく、 弥生時代から続く西日本中心の国家体制の根本的転換を意味した ★、2018,5,16 毎日新聞、 発言 「江戸に映すTOKYOの未来」 竹村眞一、文化人類学者 より、一部を引用 寸考1 : 何故厳しく キリシタン を弾圧したのか。 徳川家康は独自の調査(宣教師軟禁、出島からの情報)により、当時のキリスト教が極めて政治的であると知ったため。やがての天草 (現在の熊本県天草市) でキリシタン一揆(島原の乱 1637)が起きた時、キリシタンの人々は 「やがてスペイン(イスパニア )から援軍が来る」 と信じて戦っていたことが判明し、徳川幕府はキリシタンをますます強く排斥する政策をとった。 寸考2 : 何故お付き合いする国を スペイン(イスパニア)⇒ オランダ と変更したのか。 カトリック教の国であるスペイン(イスパニア、南蛮人)よりも プロテスタント教の国であるオランダ(紅毛人)の方を信用したため(プロテスタント教宣教師は日本には来なかった) 。徳川家康はヨーロッパの 宗教戦争(1618-48)の背景(オランダの反カトリック戦争 [イスパニアからの独立が目的,1568] ) を知っていた。 |
アメリカとカナダの国民性の違いにについて、毎日新聞、2014,10,31 金言より |
「カナダは欧州との結びつきを強めることに、アメリカは欧州と断絶する事に国造りの理念を求めた。方向は正反対だ」 |
【ペストとニュートン】、以下は、「世界史の窓、黒死病/ペストの流行」からのコピーです |
1665年のイギリスでのペストの大流行が、科学の歴史上きわめて重要な副産物を残したとされている。というのは、ニュートンはこのときケンブリッジ(ロンドン)のトリニティ=カレッジを卒業したが、大学がペスト流行の凄まじさのために休校を繰り返していたので、しかたなく故郷の田舎に帰り、ぼんやりと日を過ごすうちに、光の分光的性質と、重力の逆二乗法則(球の表面積、[4πr×r] 、の拡大をイメージ、引力源からの距離の2乗に反比例して力が弱まってい行く、天体同士のバランス、万有引力)を、そしてさらに微積分計算の基本的アイデアを発見したと言われているからである。この「已むを得ざる」休暇とか、「創造的休暇」と呼ばれるエピソードはペストのもたらした最も大きな成果と伝え継がれてきた。この話はニュートン自身が後年ライプニッツと微積分法の発明の先取権を争ったときに自ら証言したことであるが、どうやらよくある英雄譚(英雄の活躍を描いた物語)の一つであるようだ。 |
寸考、資本主義の発生とその現況(2017)
資本主義市場経済とは 生産手段を持つ資本家が、生産手段を持たない賃金労働者を使用して利潤を追求する社会システム である。 資本家による「富の生産」は「利益のための生産」であり、「使用のための生産」では無い。 従来、機械の発明は 「生まれた富を使用するため、人間の労役軽減のため」になされてきたが、この時期からは 「より多くの利益をあげるため、お金を増やすため」へと変わった。資本家同士で競争し、負ければ賃金労働者になるので必死にお金を増やすことに専念し、賃金労働者の 「福祉」 を考えることは無かった。 「市場」 は生き物のように気ままに動くので 「読み」 が当たれば大儲けし 「お金を増やす」 事が出来ます。 「福祉」 よりも 「市場の読み」 が大切になるのです、後日、市場は植民地人民の「福祉」を無視した帝国主義市場経済へと変質 [ インドをイギリスが植民地化(1857) ]、帝国同士が圏域を争う時代 ( ww1 [1914〜1920 ] ) を経て ロシア共産主義革命が 「福祉」 を組み込んだ 新しい市場である「社会(共産)主義経済圏市場 1922〜1991」を興したが貧富の格差を嫌うあまり、相互監視社会の弊害が現れ、結局 「賃金労働者の貧困」 は解決されませんでした。「ロシアだけが巻き込まれなかった世界経済大恐慌」 を経て WW2(1939〜1945) という世界帝国主義大戦が起き、ロシア共産主義革命も結局は失敗に終わり(1991)ロシアの「社会(共産)主義経済圏」は消滅した。 現在(2017)、「社会主義市場経済」という名称を使って世界市場に参加しているのは、中華人民共和国、ベトナム、北朝鮮 ですが、「市場」 としては 「世界規模相互調整経済市場」 とでも呼ぶべき 市場状況である。 1国の経済異常は瞬時に世界に及ぶのでこの市場を正常に機能させることが人類の今後の課題であると思います。 |
1788年「アメリカ合衆国憲法」発効
1804年フランス民法典(ナポレオン法典)発効、 |
アメリカとカナダの国民性の違いにについて、毎日新聞、2014,10,31 金言より |
「カナダは欧州との結びつきを強めることに、アメリカは欧州と断絶する事に国造りの理念を求めた。方向は正反対だ」 |
北半球一体で飢饉の発生が見られた。主たる原因はグリーンランドの火山の大噴火(1783-1785)、噴煙は成層圏にまで達した、フランス革命の遠因にもなった、ユーラシア大陸の東端の日本では時期を同じうして東北地方に大飢饉発生(1782-1788 天明の飢饉)、日本の場合はこの時期に岩木山と浅間山がほぼ同時に噴火し、グリーンランドからの傘の下に日本発の傘が大地を覆った、下北半島の飢饉が最悪で、人肉まで食べたと言われている、人々は故郷を捨て、江戸に向かって逃げた、江戸は避難民であふれ、米騒動・打ちこわしが発生 |
フランス革命の大義名分
暴動の目的は 王政廃止・民主主義政治開始、政治理念は 自由・平等・友愛、国家理念は 政教分離 、 法治・国民主権・共和制 |
ミュージカル 映画 「レ・ミゼラブル」 (監督:トム・フーパー 、 原作:ヴィクトル・ユゴー 、製作国:アメリカ 、公開: 2012年12月) は 1815年、王政再復古時代の学生暴動を描いており、第3身分者の悲惨は英雄ナポレオン1世出現後も続いており、革命を目指した学生運動が鎮圧される様子を描いている、フランス革命は バスティーユ襲撃暴動(1789)後26年経ってもまだ学生が暴動を起こし殺されていたのです。
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(寸考) ナポレオン法典の掲げた「自由」「平等」「友愛」の理念の内、「友愛」理念は「ヨーロッパ世界内部限定」であると私は感じます。 その理由は、その後のフランスは「植民地」を持ち、現地人の人権を無視して酷使したから。 また、イスラム教など他宗教にも不寛容と感じます、2015年の現代においてもイスラム風刺漫画を「表現の自由」を根拠にしつこく出版させていますから。 |
ワーテルロー戦(1815)以後普仏戦争までの55年の間、ヨーロッパを舞台とする大きな戦争は無かった。ただし、東方ではクリミア戦争(1853-56)という大規模かつ長期間(3年)の戦争があり、イギリスやフランスは出かけて行った。ドイツ連邦(プロシア[プロイセン]王国+オーストリア帝国)は参加していない、ただし、オーストリア帝国は最後の段階でロシア寄りの中立を破りイギリス側に入って終戦の調停をした、ロシアはヨーロッパを深く恨み、その恨みは調停をしたオーストリア帝国へと向けられ、サラエボ事件(WW1のキッカケ)を生んだ。 |
ナポレオン皇帝ロシア遠征、完敗 の映画解説はここに在ります |
ナポレオン皇帝への服従国は次の通りだった
オーストリア ポーラント ドイツ イタリア スイス スペイン クロアチア ポルトガル オランダ ベルギー | ロシア帝国ただ1国 がこれに対応しました |
寸考、当時の諸国首都の人口、文化度比較、特に人糞尿の扱いについて
日本の首都である江戸では(1853ペリー来航ころ)武家地65万人、寺社地5万人、町人地60万人、総計130万人(Wikipedia)が識字率90%、清潔な体と居住環境、人糞尿は農作物肥料としてリサイクル、農家が町人や武家屋敷に大八車(木製リヤカー)で人糞尿を回収しに行っていた、争いの無い庶民文化が花開いていた。 江戸の人口は世界でも3番だった。1番はロンドンの 230万人だったが産業革命勃興期で空気や水は汚れ、生活環境の清潔さや、識字率に於いては日本よりも低かったと思われる、 2番はパリの 130万人、江戸の人口とほぼ同じだが居住環境は土足にベッド、人糞尿は石作りの道路の排水溝に流し、リサイクルは無かったようです、2階から人糞尿が降ってくるという話も聞いたことがあります(Wikipediaを参照)、いずれにせよ、清国末期のような「文明の衰退現象」は見られず、英・仏・日 ともに文明の上昇期にあった。アメリカ(首都ニューヨーク推定人口100万人)も「いとしのクレメンタイン」 の歌にあるようにメキシコ戦に勝ち(1846〜1848)金鉱へと人々が押し寄せた1849年の人々(フォーティナイナー)のもたらした「金(キン)」で活気にあふれていた(上述の通り)。 1890年ころの旅行家イザベラバードは「首都の人糞尿腐敗による悪臭の最もひどいのは朝鮮国の首都漢城(ソウル、推定人口20万人)と中国の首都北京(推定人口40万人)」と書いているとのことである(YouTube マストゥラ・チャンネルを参照)、したがって、滅亡寸前の中国首都北京の人糞尿腐敗臭は異常なほどに不快だったと想像されます |
一発誤算 1853 |
ロシア帝国1国 | 対 | フランス、イギリス、サルディーニア連合国(イタリア西隣)、オスマン・トルコ帝国 |
★註 : 2000年現在のドナウ川の流程図は 下巻のここ にあります、そことこことは部分的に互いにつながり合います |
この部分の解説文は「世界史概観・下」の「私の寸考」の箇条書き部分と通い合います |
ロシアの黒海艦隊がペトロパブロフスク・カムチャツキーへ向けて脱出したのではなく、1853年に日本の長崎まで来ていた3隻の黒船が、同じく日本に来ていた英・仏の黒船に追われてペトロパブロフスク・カムチャツキーへ向けて逃げ延びたと思われる(森本) |
クリミア戦争の原因 自信過剰、及びWW1への伏線的影響(オーストリア帝国(ドイツ連邦)への深い恨み) |
クリミア戦争は、ロシアの南下政策現象だが核心的原因は汎スラブ民族主義で力を付けてきたロシア皇帝ニコライ1世の自信過剰へのイギリス・フランス・イタリア・オスマントルコ民衆のロシアへの憎悪感情の衝突。 ニコライ1世はキリスト教の聖地、エルサレムの管理権限を自分の宗派であるギリシャ正教系キリスト教に移そうとしローマ・カトリック系キリスト教徒と感情的に対立 セバストポリを攻め落とされても降伏しなかったロシアもオーストリアから最後通牒を突きつけられ調停に同意(オーストリアはロシアの敗戦が確実になってからイギリス側に入る、 「調停」という役割は果たしたがイギリス側からは軽い国と思われ、ロシアは深く憎んだ)。かくてクリミア戦争は終わったが、ロシアはオーストリアに強い恨みを抱き、また、ロシア国内ではフランス革命のような近代化を目指す西欧派に対抗して汎スラブ民族主義勢力が台頭、オスマン・トルコ帝国領内の親ロシア派(セルビア公国)と結びついて、ここに第1次世界大戦の伏線が引かれる事になる(民族主義政治理念は日本にも及びつづけWW2後70年経った2015年でも当時の非人道侵略を認めず、千島列島領有を当然のこととして主張し続ける姿勢はつい最近(2014)での下記のクリミア併合の理念と全く変わらない、また、つい最近での下記のクリミア併合事件までにも、ユーゴスラビア・ボスニア紛争(1992)では、旧ユーゴスラビアでボスニア紛争を引き起こした親ロシアセルビア人勢力はボスニアのイスラム勢力を「民族浄化(強姦等)」「虐殺 7000人」している、森本) 註 : 「ユーゴスラビア」は 「南スラブ」 を意味する、南スラブの中でセルビア人がバルカン半島進出が最も古く、且つ諸能力、人口で抜群、旧ユーゴスラビア連邦共和国建国の中心となった民族。 (汎スラブ主義勢力は第1次世界大戦中に起きたロシア革命で反革命派(白軍)となって負け、革命派はソ連邦を形成し汎スラブ主義勢力は体制に埋没していたがソ連邦崩壊後再び姿を現し2014年3月には「親ロシア派」勢力としての実力を発揮、ロシア正規軍では無いにもかかわらずクリミア地方とウクライナ東端地方をロシア連邦に併合し、現在(2015年)も紛争当事者である) |
2015,7,12 毎日新聞、「クリミア戦争」、オーランド・ファイジス著、染谷徹訳、鹿島茂評、を参照。 |
クリミア戦争後のロシア帝国
ロシア帝国は日露戦争(1904-05)に黒海艦隊を参加させることが出来なかった。 「世界史の窓、[黒海の中立化]」より。経緯は次の通りです : 戦後処理のパリ条約で(1856年)、黒海中立化すなわち、黒海での軍艦の航行禁止と沿岸での軍港建設禁止および2つの海峡の軍艦通行禁止が再確認された、その後、ロシアは黒海中立化を一方的に破棄すると宣言し、列国も承認する(1871)が2つの海峡のロシア軍艦通過は認められなかった。なお、日露戦争の最中、ロシアの黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで反乱が起こっている。 |
戦争の原因、大義名分は 「平等な政治の実現」
北部はアメリカを一つにまとまった国民国家としてヨーロッパ列強と対等な国力を持ちたかった、奴隷制度には反対。 南部は、ヨーロッパ列強を意識することは無く各州バラバラのままでもよいと考えていた、しかし、農業生産は奴隷に頼っていたので、奴隷制度に賛成。 民主主義の原則に従って投票で決を採った所、州の数が多い北部が勝った。南部は多数決の結果に従わなかったのでリンカーン大統領は南部を武力で制圧する決断を下した。 1863年11月19日、ゲティスバーグで、有名な「奴隷解放演説」がリンカーン大統領によって行われた。 |
ゲティスバーグの戦い (1863,7,1-7,3ペンシルバニア州アダムス)は、南北戦争において事実上の決戦となった戦い。アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国軍が双方総力を結集、南北戦争史上最大の激戦となった。この戦いが転換点となり、アメリカ合衆国軍が優勢になったと見るのが伝統的見解である、Wikipedia |
この時期を時代背景にした 「赤い河」 という映画は史実に基づいているので世界史の理解に有効です |
この時期を時代背景にした 「風と共に去りぬ」 という映画はほぼ史実に基づいているので世界史の理解に有効です |
南北戦争後のインディアンの「最後の結集力」 については 「黄色いリボン」 という映画が参考になります |
この時以後は黒人に 選挙権 が与えられたが、その行使は 白人暗殺集団 (KKK,クークラックスクラン) の実力行使により 選挙権行使阻止 が行われた。 100年後(1964年)にキング牧師の公民権運動が成功し、黒人の公共の場での平等を保障し、「平等」 が現実化した。キング牧師は白人により暗殺された。 |
註 : 1896年カナダのユーコン準州で金鉱が発見された、その後アラスカ州でも次々と金鉱が発見され、アメリカにアラスカへの ゴールドラッシュ をもたらした。アメリカはアラスカ州を「安く買った」のです。 |
寸考 ダイナマイト と 戦争抑止力
ノーベルにとってダイナマイトが戦争目的で使われる事は想定内であった。むしろノーベルは、ダイナマイトのような破壊力の大きな兵器が使われる事で、それが戦争抑止力として働く事を期待した[2],Wikipedia。 現在でも使われている概念、すなわち、 「大爆発には戦争抑止力がある」 という概念はすでに ノーベル が発明しています。2016年現在でも、大国と呼ばれる国々の一般民衆は 「核爆弾」 の破壊力を 「ダイナマイトの何倍の破壊力があるか」 で評価します。 「ダイナマイト爆発は 化学反応 の力」 であり、 「核爆発 は 核破壊反応 の力」 である事を知らないようです。両者は本質的に異なります、後者は 放射線 を発し、宇宙創造の時には無かった新物質(高レベル核廃棄物等)を生み出しますから。 |
(慶4=明1)¶ 明治 ⇔ 西暦 : ± 1867 ¶ (明45=大1) ¶大正 ⇔ 西暦 : ± 1911 ¶ (大15=昭1) ¶昭和 ⇔ 西暦 : ± 1925 ¶ (昭64=平1) ¶平成 ⇔ 西暦 : ± 1988 ¶ (平成31=令和1) ¶令和 ⇔ 西暦 : ± 2018 ¶ ( ) ¶ |
ただし、引き算で 0 が出た場合は前年号の純粋最終年とする
例 明治 0 年(1867-1867=0)は慶応3年(1867-1864=3) |
ムッヤッ(68)と志士の気合で明治維新 |
【寸考、私立大学の重み、福沢諭吉が興こした私塾(のちの慶応大学)が日本の近代化を方向づけた】 |
慶応大学創始者の 福沢諭吉は「脱亜(だつあ)」とは、言ったが「入欧(にゅうおう)」とは言っていないことを Wikipedia で知りました。
「脱亜(だつあ)入欧(にゅうおう)」がひとまとまりの 文言 となって福沢諭吉と関連付けて論じられるようになったのは WW2 終結後である事も Wikipedia で知りました。 しかし、「脱亜(だつあ)」という概念が明治以降の日本を方向づけたことは疑いようのない事実であり、この概念を初めて生んだのは「東京大学等の公立大学」ではなく「慶応大学の前身、慶応義塾という私立学校」であったことについて、慶応義塾の存在は日本史を論じる上で「重い」ものだと思います。 「脱亜論」は書籍ではなく自身が主宰する新聞『時事新報』の社説として掲載されたものです。 朝鮮半島から福沢を訪ねてきた開化派の金玉均(きんぎょくきん)ら数名は福沢に自分の若い時の情熱を思い出させ、この人たちを全身全霊で応援しようと思いました、しかし、半島独特の「党争文化」の壁は厚く、甲申(こうしん)政変で完敗、首謀者の三名は三親等まですべてがむごたらしい処刑(全身の皮膚をそぎ落とすことによって苦しみの極限を味わわせて死なせ、遺体はバラバラに分断されて山野に撒き散らされた)。 福沢は改革派の自分と彼らが芯芽となって東アジアに文明の共栄圏を作ろうとしていた理想が無残な終わり方をしたことに衝撃を受け、中国大陸の盲腸のような所には何ら期待出来ない、ましてや国を西洋列強にいいように分断占拠(1901,北京議定書)されている中国にも期待できないことを痛感しました。福沢の「東アジアに文明の共栄圏を」の概念は崩壊し、この概念を立てなおす気力を奪いました。したがってこの二国には「友情」や「同士」という道義的なおつきあいはあきらめ、関係を持つとしても「国際法」という「人工連帯」のレベルで付き合うのが将来にわたる正しい付き合い方であると深く悟ったのです。この考え方を世に広めるために「脱亜論社説」を書き続けました。 (私の感慨)、中華大陸地方の政治情勢は、130年前(北京議定書[1901]直前ころ)も現在もほとんどその本質は変わっていない、日本はこの地方の 「党争文化」 に巻き込まれないよう、十分に注意して「友情」や「同士」といった繋がりを持たずに「人工連帯」のレベルすなわち「国際法」という「人工連帯」での付き合いに徹してゆかねばなりません。しかし、最近のお隣りさんは「国際法」すら守りませんので時には「無視」で緒要請を押し切る必要性を感じています。今後の予想としては、この二国の文化性は2700年前の中国戦国時代(宦官文化発生のころ)までいったんは後退するのではないかと思います。 |
寸考ヨーロッパを内戦(WW1)へと引きずり込んだ侵略性の 「芯芽」は ドイツ騎士団 に既に存在していた。 |
ドイツ騎士団→プロシア王国→ドイツ帝国 と イギリス王国 と ロシア帝国
2016年現在のカリーニングラード(旧呼称はケーニヒスブルグ)を本拠地として1230年代に、教皇の十字軍政策の一環としてドイツ騎士団が根付いた、騎士団は南方面へと勢力を伸ばし、プロシャ王国となり 普仏戦争 でフランス帝国(ナポレオン3世時代)を破り、強大な軍事優先国家であるドイツ帝国となり、従来のフランス・ナポレオン覇権は衰え、ヨーロッパの軍事バランスは崩れた。このことに先立って、ナポレオン1世皇帝はロシアに侵攻、モスクワまで行って「フランス革命」の 「民主・共和精神」 は輸出したが軍事上は敗北、ヨーロッパは上掲3ヵ国(英独ロ)が覇権を競い合う混乱の時代に突入(WW1)する。 |
映画 「海難1890」 (トルコ帝国帆船軍艦遭難事件於日本和歌山県沖) の時代背景はこのあたりです |
東学党の乱の原因 |
1)「支配階級(両班)」の堕落を批判する新しい知識人(宗教家・東学党)が生活困窮中の農民の不満を道都全州規模で取りまとめた。 2)、日本との日朝修好条規(江華島条約1876年)が最も警戒された。日本の明治維新政府(1868〜)は西郷の征韓論は退けたが富国強兵政策を進めていたためいつ侵略されるか分からないと言う漠然とした不安におびえていた。 3)、他の先進国民国家達も何の資源も無い朝鮮半島を「中国大陸市場への軍事上の要衝」としての価値に目を付ける国が多かったので外国からの侵略への警戒心が半島規模で高まっていた。、 4)、李氏朝鮮王朝は反乱軍を鎮圧出来ないほどに弱体化していた。 |
遼東半島(含、旅順港・大連市)争奪史メモ |
【1894 の日×清 戦争 時】、には遼東半島は 清 に残った。 (三国干渉 1895,4,23)、フランス、ドイツ、ロシアの三国が日本に対して行なった勧告。日本と清の間で結ばれた下関条約(馬関条約 1895,4,17)に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求める内容だった。理由は「まだ 清 に残っている(多分、書類の細かい不備の点をロシアがほじくり出したのでしょう)」でした。 日本は、イギリス、アメリカ、イタリアなど他の列強の協力で勧告を牽制し、撤回させようと目論んだが英米が局外中立を宣言したため勧告を受諾した、遼東半島返還の代わりに清からは3000万両(4500万円)を獲得した。ロシアが最も欲しかった南下拠点を日本から策略を巡らせて奪ったのです、清と戦争して勝ったのは日本なのにも関わらず、フランスとドイツを仲間に抱き込んで最も優れた軍港のある遼東半島をロシアが好きなように自分のものにしました。ロシアの狡さへの怒りとロシアの野蛮性への懲らしめ(江東六十四屯大虐殺[1900,8])がロシアへの日本の宣戦布告を決意させました。 【1903 清→ロシア、】、ロ×清 戦争(ロシアの満州地方への南下侵略戦争でロシアが勝つ、そのまま居座り、次は朝鮮の岩竜浦を占拠、奉天も占領) 【1904 ロ→日本 、】、日×ロ 戦争(ロシア軍の日本方面への南下を止め、反省を促すべく日本がなんとロシアに真っ向から宣戦布告したのです。そして武運に恵まれ、ロシアに勝ったのです) 【1945 日本→中華民国、】、第2次世界大戦,WW2で日本が負けたため 【1949 中華民国→中華人民共和国、】、中国地方内戦で蒋介石が負け毛沢東が勝ったため |
20世紀の帝国主義競争を鳥観すると、アメリカはようやく南北戦争という内乱を乗り越えたばかり。いわば、帝国主義の後発組でした。 先頭を走るイギリスとフランスを、一馬身差でドイツとロシアが追い、さらにその後を日本とアメリカが追いかけているという状況だったのです。20世紀中盤のWW2でイギリスとフランスはドイツには勝ったものの力を使い尽くしたヘトヘトの状態となりました。 20世紀中盤で、白人国で先頭を走ることとなったのは20世紀初頭ではビリだったアメリカとなり、 21世紀の現在(2015年)の今日に至っています(森本の覚え書き)。 |
寸考 |
中国のこの混乱状況(下図、北京議定書図示参照)は、WW2 終了までの 44年間(1945-1901=44) 続き、さらに戦後の国共内戦が4年間(1949-1945=4)続きました。合計48年間という長期間の内戦状態を経てもまだ落ち着かず、さらに「文化大革命 1966-77」の11年間を加えれば 60年間(48+11=59≒60)もの長期間続きました。さらに、混乱の範囲は国際規模に及んでいます、すなわち、「文化大革命」は当初、老境の毛沢東の「権力闘争妄想」実現闘争(劉少奇からの権力奪還闘争)だったのですが権力への野望は青少年を巻き込むまでに国内規模で発展させた後、この闘争を「国際連合」という表舞台にのせ 中華民国 追い落としに利用するという「大バクチ」を仕掛け、成功させたのです(1971,2758号決議)。この大規模政治闘争に利用されたのは中国国内青少年のみならずバルカン半島の小国「アルバニア」まで巻き込まれました。アルバニアは国連総会での「中華民国追い落とし案(アルバニア案)」の多数派工作をさせられたのです。 「文化大革命」の本質は実は 中華民国(台湾政府)追い落としの「大ばくち」であり掲げられた大義名分は 「マルクス・レーニン主義のさらな発展、ソ連を抜き去るもの」 だったのです。 このようにして 中華人民共和国 は国連で中国地方代表国且つ安全保障常任理事国の座を得たのですが2016年の現状を見る限り「荷が重すげて政治が背のびし上滑りしている」と思います。 すなわち、中共国民衆が政治権力闘争に右往左往させられたこの 60年間は中共国民衆は落ち着いて自己の教養を高めることが出来なかった 「教養空白」 の期間だったということが出来ます。 この長い 「教養空白」 の期間を経てやっと ケ小平 が「人治」を掲げ、「共産党一党独裁且つケ小平独裁」による「共産主義市場経済・一国二制度(概念不明)」という経済最重視政策によって極めて性急な経済発展を遂げて2016年の現在に至っています。 しかし、「文化大革命」後の混乱は「民主化」を求めるデモ隊を「人民解放軍」が戦車と機関銃で殺すという「暴力政治(第二次天安門事件 1989)」が締めくくりました。「人民解放軍」が「人民」を殺したのです。そしてこの事実は中華人民共和国共産党史から消され、「暴乱があったので暴徒を排除した」とされているようです、その後、人口13億と言われる人々は「人権」よりも「経済力と軍事力の政治」を大切にする無教養な政治の下に置かれています。 60年間という長期間、国民は政治家の政治闘争に巻き込まれ続け、勉強する機会がありませんでしたので「経済力と軍事力の政治」を改革する知恵を働かす事が出来ずいらだっています、政治家は国民のいらだちを外部へと発散させる幼稚な政治手法を採用しました、すなわち、ある日突然(1992,「海洋法」制定・尖閣は我が国の領土と宣言)、友好関係(1978 日中平和友好条約)にあった日本を攻撃するという幼稚な政治手法「反日政策」を取り、南京城攻略では大虐殺があり日本軍に20万人殺されたという政治主張を「学問的事実」であるとして「国連・世界記憶遺産」に登録させるという無教養なことも行いますし、歴史的けじめの行事として対日本戦勝70周年記念行事に際し「日本軍に打ち勝ったのは中華人民共和国である事は輝かしい歴史事実である」と世界に公言しています。これは明らかな歴史のまちがいで、真実は「日本軍と最後まで戦ったのは 中華民国」 が正しいのにもかかわらず、「経済力と軍事力の政治」を信じる現在の政府は「歴史事実」を「政治力」で自由に書き換える事を行いますのでその無教養さが目立ちます。 中華の国の「人権無視」体質は、北京議定書の時代にも「宦官」と「纏足」が行われていた事からも分かります、この二つの習俗からは「人間をロボットと見る」無教養さを見る事が出来ます、清国が滅びた(1911年)時点で「宦官」は無くなりましたが「纏足」は人民の習俗としてその後もかなりの期間続きました。 この 北京議定書内容図示図 で見る事の出来る「乱」の本質は 2016年 の現在でも全く同じといっても過言では無いと思います。 人々はどんどん外国に出て勉強し、教養を身に付け一日も早く「人権重視」「議会制民主主義」の国を作ってほしいと思います。 現在の政府の実施する諸政策は「100年遅れた政治」「無教養」「派手」で政策が一種の「賭け事」「人気取り」であるように見受けられます。 国民が「日本は政府の言うような悪い国では無い」と知って不平不満を政府に向かってぶつけ始めたとき、再び「太平天国の乱」や「義和団の乱」のような「乱」が起こり得ます。 |
「蒼穹の昴」 という映画の主人公 西太后 についての概説 清朝末期に、近代化に 無関心で、日清戦争中(1894)にも趣味の庭園増築に国費を使ったほどの利己主義者 紫禁城を舞台にして、いかに政治の実権を奪い、且つ継続したかの年代を先ず把握します。 1861年(明治まであと7年の時期)にクーデターで実権を握る(25才)その後、幼少の「名ばかりの皇帝」二人(同治帝 19才で死)(光緒帝 37才で死)の皇帝を操り光緒帝の死直後に、1908年(明治41年)72才で死、この間、47年間もの間清国の支配権力を維持し、清国を「死滅(辛亥革命 1911)」へと導いた。彼女の頭にあったのは「紫禁城内での己の権力の保持」 だけでした。 |
数千年の中国の歴史によって「奇形化」した 諸文化 を いきなり 「近代化」しようとした、それも、毎日のように 「新しい命令」 が皇帝から行政へと発せられ、行政官たちはこの 急ぎすぎ をやがて無視するようになり、皇帝の権威は短期間で地に落ちた。 |
なお、 「蒼穹の昴」 という映画をここに位置づけました、歴史的事実の参考にはなりますが、清朝衰弱問題の本質(人権問題)に迫る映画ではありません |
清朝最終期の二人
の皇帝
1)、光緒帝、在位 1875(4歳)〜1908(37歳) ほぼ全期間 伯母の 西太后に実権を握られた。 2)、宣統帝 、在位 1908(2歳)〜1911(5歳)幼児の皇帝が3年間存在した |
日本における文学者の戦争への態度について
1) : 徳富蘇峰について、Wikipedhia より意訳抽出 徳冨蘇峰 : 『國民新聞』社主として明治・大正・昭和と長期間日本人を「戦争」へと駆り立てた。軍部と提携し大日本言論報国会、 東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年蘇峰は80歳、敗戦時には戦犯指定を高齢(82歳)を理由に免れた。1946年文化勲章を返上した。94歳で死去。 2) : 与謝野晶子 (短歌集「みだれ髪」 1901,明治34 発表) について、は日ロ戦争(1904,2〜1905)中であるにも拘わらず 短歌 「君死に給う事なかれ・・・親は・・・人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや」 を雑誌 『明星』 に発表(1904,10)し、弟の出征を悲しむ気持ちを表明し、「非国民」 と世間の批判を浴び、自宅に石が投げ込まれました。Wikipedia 参照 3) : 平塚らいてう について、彼女は女性の人権(自由)復古を雑誌 『青鞜』 (自ら創刊 1911 明治44 )で、主張以来、社会の現状打破派女性の象徴だったにも関わらずWW2中は 「戦争肯定」 論者だった。2017,12,15 毎日新聞、森まゆみ 参照。 |
孫文についての私の評価
孫文は 1905年(39才)に中国同盟会が創設されたとき三民主義を唱え、その内容は、民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つと主張したが 5000年という長年月の歴史上現れては消えて行った 10回ほどの皇帝政治信仰をしのぐほどの政治的求心力を発揮することは出来なかった。、 また、世界一多い人口(数億人)を養うだけの経済指導力もなく、 広い中国地域に無数に散在する暴力集団(軍閥)を束ねるだけの軍事才能もなく、 臨時大統領に推挙された瞬間的一時期だけは中国に「まとまり」を出現させたが、その後は軍閥の乱立抗争を治めきれず、彼の死去直前(1924,57才)には 蒋介石集団 と 毛沢東集団 の二つの軍閥が残った。 辛亥革命当時の三者の年齢は、孫文が45才、蒋介石が34才、毛沢東は18才でした。 蒋介石は 36才の時(孫文47才)孫文と面談し、孫文から 「ロシアの第一革命(1905 血の日曜日事件、戦艦ポチョムキン事件)とその収束状況」 について 「見ておくとよい勉強になる」 と、本格的ロシア革命前夜の 政治的・軍事的 視察を勧められたと言われている、実際に視察に行っている。 毛沢東は極めて若く、孫文による直接指導を受けたことは無く。社会の激変を目の当たりにした彼は人格を深く異常化させたと思われます。孫文との年齢差は 27年、蒋介石との年齢差は 19年、 18才 という若さで人類初の大革命に遭遇した彼は 「政治」 をあたかも戦争ゲームのごとくにとらえる一種の狂気を内面化させていったと思われます、それが晩年になって結実し、権力欲に凝り固まった怪人(化け物)としての 毛沢東 を出現させたと思われます。 挿話23 孫文と蒋介石と毛沢東 も 見てください |
清朝最終期の二人
の皇帝
1)、光緒帝、在位 1875(4歳)〜1908(37歳) ほぼ全期間 伯母の 西太后に実権を握られた。 2)、宣統帝 、在位 1908(2歳)〜1911(5歳)幼児の皇帝が3年間存在した |
毎日新聞 2018,3,8 木語、坂東賢治 は次の通り記している
「孫文は欧米流の三権分立(立法 行政 司法)だけでは中国の実情に適さない」 「監察院 と 公務員考試院 を加えた五権体制 を提唱した」 |
ただし、引き算で 0 が出た場合は前年号の純粋最終年とする
例 大正 0 年(1911-1911=0)は明治44年(1911-1867=44) |
大正デモクラシー(大正民主主義)について
期間 : ドイツ革命 [1918年(大正7年)] から満州事変 [1931年(昭和6年)まで] 13年間。 内容 : 日本で1910年代から1920年代にかけて(概ね大正年間)に始まり、その後も上記13年間を超えて、長く日本社会に底流し、WW2後に復活した 政治・社会・文化の各方面における 民本主義、自由主義思潮の総称である。具体的には、普通選挙運動、天皇主権否定(議会主権、天皇機関説、日本初の政党内閣 [原敬・平民宰相] ) Wikipedia 参照 |
連合国 | フランス、イギリス、ロシア(ただし、1917に革命(内戦)が起こり、戦争終結後は連合国の負担となった、1922 内戦終了)、セルビア、モンテネグロ、 註: アメリカと日本は後日参加、次の国々も参加 : ベルギー、イタリア、ルーマニア、ポルトガル、ギリシア、中華民国、他多数
註 : ロシア2月革命 ( 1917,3 [西暦] ) 々 10月革命( 1917〜1922 )発生のため、この戦争は複雑となった |
同盟国 | ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン〔トルコ]帝国、ブルガリア |
註1 : モノクロ・サイレント映画 「ノアの箱舟」 はこの時代を理解するのに役立ちます |
特別註2(寸考) :
映画「サラエボの銃声」はスラブ民族が今後の世界を戦争へと引きずり込む主役を演じる可能性を示唆しています。 スラブ民族のユーラシア大陸からの南下がすでに 1389年(コソボの戦い)で政治現象として現れ、クリミア戦争(1853)⇒WW1(1914)⇒WW2(1939)⇒ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争(1992)⇒ロシア連邦のクリミア併合(2014)⇒ロシア連邦のカリーニングラードへの核兵器集結(2017 核兵器を使う訓練をしているといわれる)と続き、スラブ民族が今後の世界の 「台風の目」 として、現在(2017)成長しつつある事を示唆する映画だと思います、この対策には 「核廃絶運動」 が国連主体でなされることだと思います。 |
なぜ暗殺が6月28日にオーストリア・ハンガリー領土内で起き、成功したのか??
註 : 銃撃画像の出典は Wikipedia
セルビア国内には暗殺専門の秘密結社があり、ボスニア・ヘルツエゴビナ側のセルビア人と緊密に連絡を取り合っていた、6月28日は民族的敗北記念日( 1389,6,28 にセルビア侯を中心としたスラブ系諸侯がオスマン(トルコ)帝国軍の侵略を阻止しようとして コソボ平原 で大敗北を喫した日 ) でもあったため、皇太子夫妻の訪問(目的は観光)はセルビア人(スラブ民族)の神経を逆撫でしていた。 秘密結社側にはバルカン半島のスラブ化という理想があり必死でこの時の車列に3回の暗殺点を定めていたが皇太子夫妻側には結婚記念日観光旅行というのんきさがあった、決して真剣な 「親善視察旅行」 ではなかった。 殺された皇太子妃は 「妃」 とは名ばかりで実質上の身分は愛人でチェコ人(スラブ民族)、オーストリア王室は 「妃」 とは認めていない存在、この点もセルビア人(スラブ民族)の神経を逆撫でしていた、Wikipedia 参照。 映画「サラエヴォの銃声」 ダニス・タノビッチ監督 からも部分的に引用。 |
この世界大戦の特徴は、一言で言うと、塹壕戦と電信ケーブル切断 を主体に展開されたこと、まだ無線が無かった Wikipedia より |
ユーゴスラビア地域国家連合史はここです |
1984年2月のサラエボオリンピックでのオーストリア人選手への競技妨害は異常でした。また、1992年に起きたユーゴスラビア・ボスニア紛争では、このオリンピック施設のほとんどが破壊されました。その恨みは異常です、ここの書き込みはボックスぐるみ リンクポイント です |
コソボはスラブ民族の南方へのあこがれの象徴の地です。セルビア王国がコソボを大切に守っていましたが、領有者がつぎの通り転々とします、セルビア(1331 大セルビア王国建国から 1389 前年まで 58
年間) ⇒ オススマン・トルコへ(1389〜1915 526年間) ⇒ ブルガリアへ(WW1で、1915〜1931 16年間) ⇒ セルビアへ(1931 ユーゴスラビア建国〜コソボ独立宣言 2008年アルバニア人国家としてのコソボ独立宣言まで 77年間 ) ⇒ 2008年コソボ地域の建前上のアルバニア人国家独立宣言から 2018 現在まで 10年間 サラエボはWW1発火地点として有名ですが、バルカン半島のスラブ民族にとって最も重要な地域は コソボなのですがコソボの今後が心配です。「聖地」が 他国領内に有っても平気であるというおおらかさが必要だと思います。 |
自国の内政の苦難を他国の政策の悪意の結果と捉え、祖国の危機を救えと訴えた時、戦争を選ばない為政者は居なかったのである。100年前のお話で済めば良いのだが。2015,2,1 毎日新聞 書評 加藤陽子評 「第1次世界大戦開戦原因の再検討」小野塚知二編 岩波書店 |
日本がアメリカと戦った戦争(WW2)の 芯芽 はこのあたりで誕生したと思います、以下で経過をたどります |
(日本の心情、イギリスの心情、中華民国の心情、アメリカの心情)
(日本の心情) : 明治維新から学ぼうとしてきた中華民国は日本の「日支友好」路線に理解を示すはずである。日本は遠い欧州で起きた想定外の悲惨な4年間もの戦争の痛手は理解できないので中国地方で戦争を起こすことに抵抗感は無い、日本世論も日露戦での利益に納得しておらす、財界とともに対ドイツ宣戦布告に賛成している。 (イギリス心情) : 日本は WW1 ヨーロッパ戦線へとのイギリスの招きを拒否した、 東洋では強引にドイツに宣戦布告してしまい、 軍事同盟上仕方なく日本の軍事行動を認めた、 しかし「ドイツ軍艦だけの攻撃でとどめるよう」との要請も振り切り、チンタオ権益やドイツの南太平洋権益まで奪ってしまった。 東洋でのロシアつぶしに、渋っていたフランス(露仏同盟 1894)を誘ってバルチック艦隊(サンクトペテルブルグが母港)への妨害工作までして日露戦争に勝たせてやったのに、 日露戦勝国となったとたんに横柄な態度を取るようになった日本を好きになれない。 (中華民国の心情) : 日本がロシアから満州地方を取り返してくれたことおよび今回対独チンタオ戦でチンタオ利権の一部を返してくれた事には感謝するが、「日支友好」を口にしながら、提案している「21ヵ条要求」を見れば「本音」は中国地方を植民地化したいのである。したがって日本は時代の大義「民族自決」に逆行している。日本の出してくる要求(21ヵ条要求)には部分的には賛成するが(南満蒙・東部内モンゴル関連事項は賛成)大部分は反対したい。 (アメリカの心情) : 先進国の中で唯一、アメリカは中国進出に後れを取った(この図にアメリカは居ない)、「民族自決」理念を最初に言い出した国としてはなんとか中国地方で先進国の中間入りを果たしたい。目障りなのは日本である、ドイツの南太平洋権益を奪ったから。今後は中華民国と協力して日本を敵視したい。遠い欧州で起きた想定外の悲惨な4年間もの戦争の痛手は理解できないので中国地方での戦争に関わることに抵抗感は無い。 |
満蒙権益ー図1 満蒙権益ー図2については |
ロシアが得ていた権益を次の通りに借り受け期限付きのまま日本が引き継ぎましたが、日本は期限を延長したかった、イギリスは日本の全満州領有には反対していたが、期限の延長は認めていた。 WW1勃発と想定外の長期化のため、この問題にけじめが付けられないまま日本は後に21ヵ条要求(1915年)を中華民国に突き付けて受け入れさせ、満蒙を中心にした地域を先ず入手し、次に北満州に「満州国」を無理やり(侵略的に)建国しました |
時刻を戻して、ロシアが清国と約束(北京条約)を交わしていた借り受け期限は、 遼東半島・・・・1923年、 南満州鉄道・・・・1939年 |
WW1への参戦についての日本の態度は次の通りでした。 当初、日本は、イギリスから 日英同盟 のよしみで「参加して欲しい」と言われたが日本は「遠方派兵は出来ない」と断った。イギリスも日本への参加要請を撤回した(参加して欲しくない)。 その後、イギリスの意向に逆らってドイツに宣戦布告しました、WW1は人類に何の教訓も残さず、人類は再び世界規模の戦争(WW2)へと突入しました、 |
WW1後、日本を取り巻く外交環境は格段に厳しくなった。日英同盟の結束力は弱り(イギリスの日本への信頼は揺らぎ)、アメリカは日本への警戒心を強めた。大日本帝国海軍の活動と、ドイツ領南洋諸島の獲得は、太平洋における海軍バランスを塗り替えた。その後膨れ上がる多くの問題の種が必要のなかったWW1参戦によって巻かれたのである(ドイツへの宣戦布告をせず、満蒙権益の段階で留めておけばイギリスもアメリカも日本への警戒心や嫉妬心を持たせず、また、ドイツも日本近代化の恩義をあだで返されたと言う日本不信感を持たなかったでしょう。日本のドイツへの 宣戦布告 は日本の国際的孤立の 芯芽 だったのです)。中華民国とアメリカは互いに親密度を増し、日本は孤立してゆく。 |
註 : 21ヵ条の内、少なくとも「南満州及び東部内蒙古」を日本の勢力圏とし、日本の権益を認める事だけは中華民国政府が同意していました、(中国地方の過去・現在 周辺図 のオレンジ色斜線で塗りつぶした部分)。日本はこれに満足せず、 熱河省 を取り込みつつ範囲を徐々に北西へと拡大させました。 |
歴史家 加藤洋子氏の主張する「南満州及び東部内蒙古」の図示はここにあります。斜線部分が 南満州 、2重斜線部分が「東部内蒙古」です。 |
【補記 爆撃機について】
ドイツはこのころ初歩的な爆撃機も開発、1917年6月、3回目の爆撃でロンドン昼間爆撃に成功、イギリスは歴史始まって以来初の空爆被災、死者162名・負傷者432名の被害。死者のうち46名は子供であり、彼らはポプラーの小学校に落下した爆弾によって命を奪われた Wikipedia。
1917年頃には陸戦でも西部戦線で一時的にドイツが優勢となっていたが、アメリカの参戦による兵士の戦意喪失でドイツ革命(1918,11)が起き、あっけなくドイツは負けた |
映画 「武器よさらば」 という映画はこのころのイタリア北部戦線の脱走兵を主人公に描かれています。ロシア2月革命でロシアの弱体化が始まったのでドイツはロシアへの兵力をイタリアへと向けたためイタリアは敗走しました、しかし、1918年ドイツ キール軍港暴動でドイツ革命(共産主義革命、共和制に落ち着く)が起こりドイツは戦力を落とした。そのおかげでイタリア北部戦線の勝負はイタリアが勝った。 |
映画 「夫婦善哉}
ロシア革命始まりの頃 (1917[大正6年]) から 関東大震災(1923[大正12年])にかけて [大正デモクラシーと呼ばれる自由尊重文化の芽が発生] を経て日中戦争始まりの頃(1938[昭和13年])まで、という長い時間経過(21年間)を背景として描かれています。ヨーロッパが戦争(WW1)と革命(ロシア、ドイツ)で荒れ果てて、日本はアメリカと同様に平和だった時期を利用して、日本の男女の 「夫婦(めおと)」 像 の確立を探った作品だと思います。 「夫婦(めおと)」 像 の確立とは、日本人の 「個人のアイデンティティー確立」 です。 |
寸考、「革命」 と 「自信過剰癖」について
「革命」 は スラブ民族の「自信過剰癖エネルギー」 が 「内(うち)に向かって激突した現象」 であると思います。1917年当時、世界の政治情勢は帝国主義経済圏争奪戦で混沌としており、スラブ民族の 「自信過剰癖エネルギー」 が立ち向かうに適した集団 (例えばかつて、ナポレオン皇帝軍) が無かったために、「連合国側の一員」 の立場を取らざるを得なかった。 このことは 「民族意識の一致団結による敵の打倒」 へと向かわず 「民族内部の異質集団打倒」 へと向かったのです。結果は 「異質集団」 の勝利でした。 「異質集団」 とは 「共産主義者集団」 です。 国際社会はこの 「ロシア内戦(ロシア革命)」 でも、かつてのクリミア戦争の時と同じように スラブ民族の「自信過剰癖エネルギー」 に振り回されたのです。 ★、スラブ民族は その後 70年間は この 異質集団 に支配されますが、1991年に 「スラブ民族主義者集団」 が政治の実権を奪い、2015年現在は 「汎スラブ民族主義」 が勢いを増しつつあり、世界はこの勢力に振り回される危険性に直面しています。 |
なぜ 4年4ヵ月 もの長期にわたったのか??
WW1 開戦当初(1914,6)は 「クリスマスまでには終わる」 と誰もが思っていたが4年4ヵ月も続いた、その原因の一つは 「新兵器・食料 開発・試供」 にあった、膠着状態の塹壕戦対策として農業用トラクターがキャタピラー付戦車となって塹壕を簡単に乗り越えた。戦車に対抗するためには地雷が開発され、飛行機が急速に高性能化され、空から機関銃を撃ったり爆弾を落としたり、食料の冷凍技術も発達し、缶詰類と共に長期塹壕戦を可能にした。 |
自主管理社会主義
ユーゴでは企業の国有化と土地改革が進められ大企業や富農は一掃されたが、農業の集団化は行われなかった。1948年のコミンフォルム追放後、ユーゴスラビアではソ連型の人民民主主義からの転換に迫られたが、新たな社会主義の理論として提起されたのが自主管理社会主義であった。自主管理とは、国有化された工場で、労働者が生産から分配にいたるすべての権限をもつことで、その機関として各工場に労働者評議会が設立された |
寸考 ティトーはアルバニア決議案が成立しないよう影響力を発揮すべきでした
ティトーは隣国アルバニアもソ連を嫌っていたので中共国についても自分と同じく中共国はオブザーバー国であるとの認識で一致していると思っていたのです、ところがアルバニアは中共国を共産主義の理想の国と思い込んでいたのです。これはティトーの失敗でした、ティトーはアルバニアの自分への対抗心を読み切れなかったのだと思います。1971年10月25日 アルバニア決議案可決。 世界中の若者は中共国での共産主義は質の高いものであると思ったでしょう、しかし、その実態は理想のない権力闘争という醜いものでした。毛沢東は自分の権力を守るために小中学生・高校生や大学生を総動員して政敵を暴力で失脚させていたのです。 中共国は文化大革命という名前倒れの政治権力闘争中だったにも関わらず、アルバニアのせいで分不相応な自信を持たされてしまい、世界中の若者達も国連での中共国の扱いを見て、中共国は最先端を行く共産主義の国と思ってしまいました。 そのため、アルバニア案の成立は中共国内のみならず東アジア全域に破壊と混乱をもたらし(中台 [中共国と中華民国] の対立抗争 カンボジア内戦、ベトナム内戦、フィリピン内戦、ラオス・ベトナム交戦)、日本では「連合赤軍」 事件を生んだのです。 |
WW1の特徴と人類の損失程度 | 後世への影響、失敗は生かされず20年後には全世界を巻き込むWW2が起きた | |
特徴 : 広大な植民地を持つヨーロッパの大国が国力の全てをつぎ込んだ「総力戦」、帝国主義を掲げ、経済圏の拡大を図ったこの戦争は WW2 へと続いた | 損失程度 : 1000万人弱の戦死者、膨大な数の負傷者、膨大な数の民間人犠牲者、特に英仏両国の支払った代償は WW2よりも大きかった(WW2の英仏合計は 71.5万人)、井上卓弥、毎日新聞(2015,5,14)、より | 後世への影響 : WW1によってコミュニズム(共産主義・社会主義、ソ連圏)とリベラリズム(自由主義・民主主義、アメリカ圏)という二つの「全体主義」が生まれ、1990年代冷戦終結まで(70年間)続いた特異な「戦争の世紀」を形づくった(々左より) |
第1次世界大戦が長引いた理由と植民地独立への影響 |
開戦当初はクリスマスまで(4カ月後)には終わると思われていたにもかかわらず、実際は4年もかかった理由は、イギリスが世界中に持っていた植民地が「手柄を立てて自治権を拡大しよう」の意図があり、世界各地域から志願兵がロンドンに殺到した。イギリス側の国々もドイツ側の国々も手柄を立てて自治権を拡大しよう」の意図は同じであった。この状態でヨーロッパ戦線は世界中から集まった兵士で混戦の状態に陥り、戦局は4年もの長期に亘ったのである。 イギリス側(世界中)にもドイツ側(アフリカ、オスマントルコ帝国属国)にも多数の植民地出身の戦死があった。この事はイギリスやドイツの植民地統治能力を弱め、第一次世界大戦後イギリスは植民地に「委任統治」と言う名の「半独立状態」を認め、他の列強もその概念を採用した。 「委任統治」はWW2後の「独立」の芽生えでした。毎日新聞記事 2014,10,28 の要約 |
損失程度 : 1000万人弱の戦死者、膨大な数の負傷者、膨大な数の民間人犠牲者、特に英仏両国の支払った代償は WW2よりも大きかった(英仏死者合計は [71.5 万人を超える] )、井上卓弥、毎日新聞(2015,5,14)、より |
映画 「チャタレー夫人の恋人」 もこの時期のヨーロッパ社会の裏面を象徴しています、負傷のため半身不随となり、生殖能力を失った夫の世話への失望感は 「不倫」 も生んでいます、この時期、この精神状態の女性は沢山居たと思います。死んでいった兵士はこの世の地獄を早めに終えたので、ある意味では幸せだったともいえるでしょう |
海峡通過権をめぐる争いと協議の経緯 |
ダーダネルス=ボスフォラス海峡(近代)について |
黒海から地中海進出をめざすロシアとそれを警戒する諸国の間で海峡航行をめぐり紛争が続く。特にロシアとオスマン帝国(トルコ)は激しく争った(東方問題の焦点)。 攻撃を仕掛けたのはいつもロシアだった。 しかし、この通行権問題は2国間のみで解決できる性質のものではなく、常にイギリス、フランス等列強が関わった。次の通りに、 註 : データは「世界史の窓」http://www.y-history.net/appendix/wh1202-016.htmlよりいただきました |
1774年 オスマン帝国、キュチュク=カイナルジャ条約でロシアに商船の通過を許可する。
1809年 列強の妥協により、すべての国の軍艦の航行禁止される。 1833年 オスマン帝国とロシアでウンキャル=スケレッシ条約締結。ロシア軍艦の航行を認め、他国の軍艦の航行は禁止。 1841年 ロンドン会議で5国海峡協定締結。ウンキャル=スケレッシ条約を廃棄、各国軍艦の航行禁止、海峡封鎖。 1856年 クリミア戦争後のパリ条約で、黒海中立化、海峡封鎖の原則確認。 1878年 露土戦争後のベルリン会議で締結されたベルリン条約でも海峡封鎖の原則維持。 1914年 第一次世界大戦 オスマン帝国がドイツ側に参戦したので、イギリスはロシア軍との連絡を確保するため、15年4月、ダーダネルス海峡入口にガリポリ上陸作戦を敢行。しかしトルコ軍の抵抗で失敗。 1917年10月、オスマン帝国が降伏。ダーダネルス=ボスボラス海峡の封鎖は解除され、連合国の管理下におかれる。 1920年 第一次世界大戦後のセーヴル条約で、国際管理下に置かれることになる。実際には英、仏、伊、日、ギリシア、ブルガリア、ルーマニアからなる国際海峡委員会が運営する。トルコは各国の船舶、軍艦、航空機の通過の自由を認めた。 1923年 ローザンヌ条約でセーヴル条約の原則を継承。国際海峡委員会のもとで各国に開放されたが、沿岸部のトルコ主権は承認された。 1936年 モントルー会議、ソ連の提唱で開催され、黒海沿岸国以外の軍艦・航空機の通過は制限される。 |
国際連盟、その 設立精神 と欠点 |
設立精神 |
WW1の悲惨の反省の元に作られた人類史上初の国際平和機構、 「武力による植民地獲得」は禁止され、WW1敗戦国が持っていた植民地は連盟による「委任統治」許可の元に「植民地」として分配された(例、ドイツ領だった所を日本に委任統治させる、山東省膠州湾(コウシュウワン)一帯(含、青島(チンタオ)および、ドイツ領南洋諸島)。 軍備については各国の「軍備縮小」が奨励された。 |
欠点 |
1)、「民族自決」の理想は掲げられたが「少数民族保護の方法」や「民族のモザイク状混在への対処法」への方向付けがあいまいだった。
2)、独自の軍を待たないので国際法に違反した国に何の制裁も行なえなかった( 註 : WW2後に出来た「国際連合」では「国際連合軍」を持ち、国際法に違反した国には制裁を加える事が出来るようになった、戦いの後には 平和維持軍{PKO}が 活動し紛争解決後の完全な平和を達成する事が出来るように改善した) 3)、主要国(アメリカ、ソ連)の不参加 4)、全会一致の原則があったため、国際関係上微妙な問題に現実的な裁定を下す事が出来なかった(「国際連合」では 参加国全員一致 → 安全保障常任理事国(5ヶ国)のみの全員 一致 と改善された)。 |
寸考
ワシントン軍縮会議は急激に台頭する日本を巧みに陥れる外交の罠(わな)でした。 アメリカが提唱しておきながらヴェルサイユ体制不参加のまま2年が過ぎ、やっとアメリカに国際協調路線が復活した。その路線を具体化するためにワシントンに主要9ヵ国(英仏伊日中蘭ベルギー ポルトガル)を集めて軍縮会議を主催。 国際連盟が 「ベルサイユ体制」 と呼ばれるのに対し、この軍縮会議は「ワシントン体制」と呼ばれた。実際は、日本、アメリカ、イギリスの3国が世界を指導する体制だった。イギリスは WW1 で大きな損害を受けていたので経済負担の大きい軍艦建造競争をやめさせたかった。 日本はアメリカと共に WW1 で距離を置いた参加だったため戦後経済は好調で、特に日本は軍備拡張に熱心だった。 日本本国では国際協調の 原敬(はらたかし)の暗殺があったにも関わらず、国の路線としての国際協調は国際舞台では機能し(国際連盟では新渡戸稲造が頑張っていたので)アメリカ提案の「主力艦に限って米英日の比率を 5:5:3とする」を了承した。また、日英米仏が強調する証として「4ヵ国条約」が結ばれ20余年続いた「日英同盟」は解消され、これは日本を警戒していたアメリカ・イギリスの外交勝利だった。 中国・朝鮮半島に関しても、「北京議定書(1901)」に乗り遅れたアメリカが提唱していた 「中国に対する門戸開放宣言」 が「9ヵ国条約」として確認され、アメリカが従来「日本の特殊権益」と認めてきた日米2国間協定は破棄された。これもアメリカの日本に対する外交勝利だった。 これでは日本にとってあまりにも不利なので、文書にはしない形で「日本の満州進出計画」を了承し、同時に、日本に「ロシア革命」「中国革命」流出の防波堤となるこよう期待する意向を示した。日本はこの「内諾」に喜び、山東省駐留軍及びシベリア派兵中止を決定した、これも実質的にはアメリカの外交勝利だった。 しかし、ワシントン軍縮会議の次のロンドン軍縮会議(1930)からはアメリカの日本に対する対抗意識が露骨となり、日本の満州経営への非協力、日本人移民の受け入れ拒否もアメリカ州(南北アメリカ)で際立っていった。 この時期の歴史を動かした中心国は先ずイギリスで、急激に台頭するロシアを打ち負かすために日本を利用して成功、次はアメリカでロシアのあと急激に台頭する日本を打ち負かすために主要9ヵ国を味方につけ、日英同盟を解消させた。 イギリス・アメリカが行うべき方向づけは、アジア地域の団結促進だったと思います。日、中、朝 が一つの「経済共栄圏」を構成する方向だったにもかかわらず、日本を「悪者(わるもの)」に仕立て上げ、アメリカが中国を裏で支援し日本と中国の分断を図り、日本を国際的に孤立させたことは罪深い事だったと思います ★註 : 外交での勝利は 「[正義]とは一致しない」。以後、日本はアジア民族の主権確立(独立)を目指した戦いをするが、中国という広い地域を蒋介石・毛沢東という精神よりも物質(お金、土地、権力)を重視する人物たちにいいように利用されて、大東亜共栄圏の理想を掲げながらも負ける。しかしその結果植民地とされて約500年間奴隷のように搾取されて来た南アジア諸国を独立させた。最も献身的に日本国の理想に献身したのはいわゆる「残留日本兵数千名」です、この人たちは敗戦後も日本に帰らず、使っていた兵器とともに現地にとどまり、現地民に、一般教養(主権の意味を知らしめる)・軍事訓練・兵器取り扱い を教え、植民地を取り返しに戻ってきた白人たちと戦った、現地民には「独立は戦って勝ち取るもの」との手本を身をもって示しました。その結果、9カ国が独立しました。この人たちは次の通りに2021年現在言っています、 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 日本というお母さんは、一度は死んだけれど九つの独立国を産み落としてくれた、私たちは日本に感謝しています(YouTube マストゥラチャンネル) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ▲▲ページの先頭へ▲▲ |
映画「黄色いリボン」はこの頃を時代背景として描かれています、若いインディアン達が大同団結して有名なカスター将軍の第7騎兵隊を全滅させた(1876)まではその勇猛さを示しましたがゴールドラッシュ(1849〜)での白人西部集中の勢いには逆らえず歴史の表舞台から消えて行きました、今では居留地(作物栽培に向かない砂漠・ウランの天然存在地)を指定された生活を送らされています |
ファシズム概念とムソリーニ
ファシズム(結束主義)とは、イタリアのムソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱した思想や政治運動、および1922年から1943年までの政権時に行った実践や体制の総称である。広義にはドイツのナチズムや日本の 軍部独裁政治 など他国の類似の思想・運動・体制も含めて「ファシズム」と呼ばれる場合も多い、 ムソリーニは既存の 非共産主義 の様々な思想(ナショナリズム、コーポラティズム(協調組合主義、生活分野に限定すれば「生活協同組合主義」、産業分野では「企業主義」)、国家労働組合主義(サンディカリスム)、帝国主義、反共主義)を理論的に結合し、新しい政治思想としてファシズムを構築した、 Wikipedia参照。 ムソリーニの足跡 1922年10月 ファシスト党によるクーデターを決行、臨時政権。 1940年 - 日独伊三国軍事同盟締結 1945年 - 家族を亡命させていたスペインへ出国を試みる途中にガリバルディ自由旅団に拘束され、銃殺された。 |
日本のファシズムについての有力な見解
保阪正康氏、2016,12,11 毎日新聞、日本のファシズムは独伊とは異質。 ドイツやイタリアの様に指導者が思想をもってファシズ体制を作ったのではない。日本社会では個々人がまじめに自らの持ち場で懸命に働く、そうして出来上がったのが軍事に都合のいいファッシズム体制だった。結果的にそうなったのだ。 |
<寸考> では今後、 「国家レベル」 の PTSD暴走 を未然に防ぐにはどうすればよいのか? それは、「人類レベル(国連レベル)」 で 「国家レベル」 の PTSD の描画化・言語化 を計ればよいのだと思います |
ただし、引き算で 0 が出た場合は前年号の純粋最終年とする
例 昭和 0 年(1925-1925=0)は大正14年(1925-1911=14) |
戦争の世紀研究[15]大恐慌に登場する文言一覧 |
★1、アメリカ景気狂騒の20年代、 ★2、ドイツ賠償金支払いにアメリカが援助 ★、ドイツへの賠償金は天文学的数値、 ★、仏英がドイツから奪いアメリカに返換したお金は天文学的学的なので ★3、ケインズの「ドーズ案」採用、 ★4、大国ドイツは復興し始めた、 ★5、直後にバブルの崩壊株価の大暴落、 ★6、大恐慌発生、恐慌のひどさはドイツが抜きんでてひどかった(アメリカは大恐慌発生後はヨーロッパとのかかわりを絶ち、極端な保護貿易主義を取った、儲けるだけ儲けたあとは自国貿易圏内にとどまり大国としての責任から逃げた)、 ★7、1932年末には世界の失業者は5000万人、 ★8、大国は相次いで金本位制をやめて「通貨ブロック方式(帝国主義経済圏)」、 ★9、「金(キン)」という国際経済流通基盤は失われた、 ★10、人類は大恐慌を終わらせるために「WW2を起こした」、 ★11、大軍備支出が経済の均衡を保ったのである、 ★12、大恐慌の終焉に最も功績があったのはヒトラーである。 森本註1 : ソ連は1922,12 の ソ連邦建国 の時に世界金融市場から脱落したので世界経済恐慌には巻き込まれず、共産主義経済圏の下に重工業に励み、WW2 へ向け実力をつけていた。 森本註2 : 日本はシベリア出兵をソ連邦成立まで(1922)続けて富を失い(アメリカは 1920 で引き上げていた)、関東大震災(1923)でも富を失い、世界大恐慌解決に参加できなかった、金本位制経済で参加しようとしたが外交的に適期を逃し、金は直ちに諸外国に吸い取られた。 森本註3 : 日本は特産品だった 生糸(絹糸、贅沢品) が売れず、ほかに有力な販売物資が無かったので大恐慌に巻き込まれた。貧しい人々は娘を売ったり、満州国建国(1932,3)に協力するため中国東北部に移住する人が多かった。 |
大恐慌前後の、アメリカ庶民の 「大失業時代」 を生き抜く生活を知るうえで、「怒りの葡萄」 という映画が参考になります |
戦争の世紀研究[16]満州事件に登場する文言一覧 |
★1、大恐慌の影響は世界に及んだ、
★2、イギリスは金本位制を停止し、 ★3、アメリカもアメリカ大陸経済圏を構築した、 ★4、フランス、ベルギー、オランダもひとつの経済圏を構築した、 ★5、ドイツは中央「ヨーロッパからバルカン半島方面に一つの経済圏を構築、 ★6、日本は「東亜ブロック群」の構築を目指した、 ★7、ソ連は共産主義の全体・平等主義により第1次5か年計画、や農業の集団化に成功し自信を強めた、 ★8、ソ連はスターリン主義によって「権力の集中と非常事態的体制の常備に成功、 ★9、満州事変勃発、日本は経済圏を広げるためになりふり構わず 「満州国」 を作った、しかし、寒冷地のため土地の農業生産性は悪く、石油も出なかったので経済圏自立度は低かったと推定することが出来ます(森本)。 ★10、アメリカは中国に於いては影響力は無く「我が国にも中国の領土を分けてほしい」、 ★11、日本は、満州地方は民族自決理論に従えば「満州人(モンゴル・蒙古系)」として独立すべきであるとの原則論を掲げていた。清朝の政権担当者は モンゴル・蒙古系 だが支配されている民族は「中原に古来住む『漢民族』」で孫文の革命以降は漢民族の国となっている。したがって満州人(モンゴル・蒙古系)は独立すべきであり、この独立に日本は協力すべきであると主張、 ★12、満州には有力な統率者が居ないので独立国が必要と主張し強引に中国から分離して「満州国」を創出、 ★13、日本のような後発の帝国主義国は生き延びるための経済ブロックが必要で、 ★14、日本、ドイツ、イタリアは世界再分割を行動で示した、 ★15、各国の目が「東アジア」からはなれている間に、日本軍は軍事的侵略を開始した、 ★16、ドイツもヒトラーが権力を選挙によって獲得し全権委任法(授権法)で個人のいかなる種類の野望も通す道を開いた、イタリアのムソリーニもエチオピア侵攻に公然と舵を切った、 ★17、日独伊の現状変更勢力の伸長によりWW1以降試行錯誤を重ねて維持されてきた国際秩序に強烈な遠心力が作用し始めた |
満州国の経済 Wikipedia より抽出
1931年には、日本国内の天然資源の総生産額は2億8300万円だった。不足分は海外(主として満州国となる予定の国 [1932建国 ] と思われる、森本)からの輸入を行っており、それが2億2200万円だったことから、日本の自給率は約60% (28/[28+22]=28/50=0.56≒0.6=60% ) といえる。 従って天然資源の生産分野で満州国が貢献した割合は日本国総生産額の約40%(100−60=40)と思われる、建国直後の満州国(1932〜1937)は日本にとって頼りがいのある国だったと思われる(自給自足していた上に日本に輸出までしていた)。 しかし、1937年に日中戦争が勃発したため、4月から始まった計画は鉱工業生産を中心に投資予定は大幅に増額修正され、約50億円(2.2億⇒50億)となった。満州国の自給自足経済の確立も困難となり、日本への原材料供給基地としての意味合いが強くなった。 |
ナチスの語源について National「国民という意味」 の Nati(ナチ)が語源。政党は個人の集まりなので 複数の Natis (ナチス) とされた。 |
ニューディールの語源は New Deal ( 新しく物を分け与える )、行政が民間産業に介入、経済を社会主義化するという意味 |
テネシー川流域開発公社などによる公共事業
民間資源保存局による大規模雇用 全国産業復興法による労働時間の短縮や賃金の確保 農業調整法による生産量の調整 全国労働関係法による労働者の権利拡大 Wikipedia より抽出 |
国際連盟は、アメリカの最初からの不参加、日本・ドイツの脱退 によって 「集団安全保障の 空白 」が生じた。 この 空白 を埋めたのは ソ連 だった。ソ連は 世界恐慌 に巻き込まれず(共産主義政治体制が成功、恐慌の前年 1828 から 2回 にわたる 重工業5ヵ年計画 を成功させていた) 農業の5ヵ年計画は失敗(獲得形質は遺伝する というルイセンコ学説を信じたため農業集団化政策は失敗、大規模な飢饉が起きた)、 註 : この学説は 「努力した結果は報われる」 という共産主義政治思想に合致するため 中国 や 北朝鮮 でも行われて失敗し 多くの餓死者を出した。 重工業で軍備を充実させた ソ連 は 「唯一の共産主義大国」 として 国際政治を動かす地位を得た。ほんの 5年間 だけではあったが(1934-1839)国際連盟に加盟し、WW2 での 米ソ協力 の基礎を作った。 |
【北満州から中国中原(中心部)へと、日本の侵略を知るための挿入文】 大日本帝国の「満州の権益」とは、具体的にどのような権益だったのですか? Yahoo japan 智恵袋 ayumasa319さん 2011/4/219:29:06 ベストアンサーに選ばれた回答 k1_121さん 2011/4/512:45:02 日清戦争に勝利した日本だったが、三国干渉(ロシア、ドイツ、フランス)により取り上げられた満州の地は、その後ロシアが支配(中国から租借という形で)していた。そのロシアとも戦いこれを辛うじて破り(日露戦争明治37年(1904))、戦争の賠償として、その支配権が日本に移った。更に、中国に以前ドイツが持っていた権益を継承した(大正3→4年(1914→1915)第一次世界大戦でドイツ降伏(1918))このとき(1915)に日本は中国(大統領・袁世凱)に二十一ヶ条にわたる要求を突きつけ(要求は受け入れられ)た。 「満州の権益」とは、具体的に次の事を言います。 1)、山東省にドイツが持っていた権益は全て日本が受け継ぐ。 2)、南満州・東部内蒙古を日本の植民地のように扱うことを認める。 3)、中国沿岸の港や島などを、外国に与えたり貸したりしない。 4)、中国警察に多くの日本人警察を雇うなど、 これらの下で、南満州などには毎年日本人が1千人〜1万人近くが農業や工業で従事するために大陸に渡った。そこで遼東半島や南満州鉄道を守るために日本からは軍隊が派遣され駐留した、これが関東軍。 このように日本が実行支配した経緯があり、日本側としては日清戦争&日露戦争(第一次世界大戦で中国駐留ドイツ軍とも戦ったが)での幾多の尊父たちの尊い血が流された結果の果てに得た満州(南満州)の地はいわば聖地であったのです。 ( 森本の註) 「満州の権益」と聞くと「満州地方全体に及ぶ権益」のように聞こえますが、実は南満州・東部内蒙古だけです。従って「満州国」を作るために「南満州」で旧日本軍が行なった下記の 爆殺・爆破行為等は「侵略」に当たります。 「北満州」は次の通りの経過で「満州国」に編入されました、これをきっかけに日本は中国中原(中心部)地方へと侵攻しました。 1)、1928,6 張作霖爆殺(於奉天、現在の 瀋陽) 2)、1931,9 柳条湖鉄道爆破事件(於奉天、現在の 瀋陽) 3)、1932,3 満州国建国(清国皇帝の先祖は南満州地方の豪族(ヌルハチ)であり、辛亥革命で殺されそうになった、旧清国皇帝一族は身の危険を避けるためにこの地に来ていた、その元皇帝を国王として新しい国が作られたが リットン調査団は「独立国では無い、日本が操縦する国」との報告書を国際連盟に提出した)、リットン調査団は 南満州・東部内蒙古 における日本の権益の行使は認めていた。北満州については「国際連盟が特別な 治安維持 を計画していた」 4)、1933,1 熱河省へ侵攻国際連盟が北満州における匪賊の無法行動解決に努めている最中に日本は「自然の流れ」と言う感覚しか持たずに熱河省に戦争を仕掛けた(錦州空爆 1931,10)、この行為は日本が考えている程度を遥かに超えた重大な「連盟規約違反行為」であり、日本はこれ以後「全ての連盟国の敵」と見なされた。 5)、1937,7 盧溝橋事件">で中国中原(中心部)へと侵略開始(日中戦争) ※中国地方の戦争時間空間鳥観図はここにあります |
経済大恐慌に関する寸考
大恐慌はこのころ(1935)には終息に向かっていました。 ドイツのヒトラーやイタリアのムソリーニが世界規模帝国主義戦争の準備を始めたのです、やがて WW2 が起き、戦争特需景気が経済恐慌を一時的には終わらせたからですが、WW2がもたらした 死者の多さ や 大規模環境破壊、世界規模での人心の荒廃 は大恐慌前よりも甚だしい状況が続き、現在(2017年)では地球規模での 「総合的荒廃」 が起きており、次に世界規模大戦(WW3)があれば 「戦争特需どころか人類滅亡」 が懸念されます。 国々は互いの政治利害を調整すべく 「外交」 に必死の努力を重ねています。もはや「帝国主義」 で領土を増やそうとしても地球上にはフロンティア (未開発地域、新天地) はありませんので人類にとって、経済的な活気 を政治目標とする事が出来ないのです。 では何を? と問うならば、その答えは、日本史で言えば 「江戸時代」 のような 「自給自足・質素倹約・同じ生活水準の暮らし」 を目指すのが良いのだと思います、そこまで考えを進めるまでには以下に書き留める通りの 「帝国主義経済」 という経済信仰が人類を導きました。アメリカ型帝国主義 も ソ連型帝国主義 も行き詰って人々は過剰に備蓄した武器の膨大な量におびえています。 |
ヘミングウエイ等文化人達( 国際旅団 [イギリスやアメリカなど各国の義勇兵] ) はちょうどゲルニカ空爆の頃に実際に内戦に参加していました、その時の体験を小説として著わしたのが 「誰(た)が為に鐘は鳴る」 です、その映画をここに載せています。人類がWW2へとのめり込んでゆく初期の欧州戦乱はスペインで起きていたのです。 |
スペイン独裁者フランシスコ・フランコのその後
WW2戦中は 日・独・伊 寄りの中立、WW2戦後しばらくは、国連に入れてもらえなかった、日和見の態度をアメリカに非難されたため。1953年アメリカの怒りが日時と共に薄まり、米西防衛協定締結、経済力回復、しかし、右派独裁政権は続ける、1969年王政復古を遺言し、83歳で没する、スペインではその後、王政(フランス系・ブルボン朝)が現在(2017)でも続いている、国名は「スペイン王国」。 Wikipedia の要約 |
1937年(昭和12)以降戦後復興開始 (1956 昭 31) に至るまで、石橋湛山(いしばしたんざん)、小国主義、頭脳中心、人間中心の政治理念、戦後日本再建に貢献 |
映画 「墨東異端」 の時代背景の始まりはこのころで、終わりは1952年頃 |
宣伝戦は、2020年現在(江沢民主席)民衆の不満エネルギーを日本へと向けるることによって内乱を防ぐ政治技術として使われている。 |
以後、今日までの日中関係概略表
1945年この戦争は日本の WW2 敗戦によって中国内戦へと変質、内戦は 1949年で中国共産党軍が勝った。しかし国連代表権は中華民国が保持したまま文化大革命(1966〜1977)が起き、国土は再び乱れた。 1971年に国連代表権を中華人民共和国が奪ったが、まだ革命中だった(文化大革命、失脚していた毛沢東の一発逆転の権力闘争)。革命中に日中共同声明(1972年)で一息ついたが、革命が収まったのは 1977年だった。その後も国内は落ち着かなかったが 1978年すかさず、日中平和友好条約。以後数年間は、高倉健、中野良子、芹洋子 など日本の芸能人が大人気を博する。 1983年胡耀邦 来日し日中友好ムードを高めるが、1987年に失脚。 1989年の第2次天安門事件(100万単位の反体制若者を殺したとされる)後 ケ小平 の 法治ではなく「人治」 (人民解放軍総司令官の地位を利用した個人による支配) 政策(クーデター)により落ち着きを見せ始め、 ▲▲ページの先頭へ▲▲ 1992年(平成4年)日本の平成天皇を招待して第2次天安門事件の国際的悪評を薄めようとした。しかし日本との友好ムードが継続していたため、日本の豊かさを知って 国民の貧困不満 は高まっていた。 1993年、ケ小平の弟子の江沢民(コウタクミン)が国家主席となるや否や極端な 反日政策を実施、 国民の貧困不満 のエネルギーを 「日本の過去の侵略を憎ませる」「日本のかつての悪行を懲らしめたのは共産党である」 との一大宣伝事業を行ない、日本との友好ムードは極端な速さで 「日本憎悪」 へと向かった。余りにも極端な対日政策の転換に日中両国民は不本意ながら互いに 「嫌い」 にさせられ、今日(2017年)においても「日本鬼子」映画が朝から晩まで上映され、国の隅々まで日本を憎ませる映画が上映されている。思うに、またもや平成天皇の使い捨てが行われたのです。 1997年2月19日、ケ小平 死去(92歳) 1998年、長江周辺大水害(100年に1度の大きさ)江沢民(コウタクミン)は国家主席として兵士13万人を投入自己の権威を高めるために水害を利用した。 ★、共産党一党独裁政治の頂点に ケ小平 が座るという政治原型(一人物の独裁政治)は、国家主席が誰に替わっても同じで、現在(2020年)も続いている(習近平、2期目、7年間在任中) |
日中戦争とは実は、日本軍と国民党軍との戦いだった、共産党軍は補助的な役割を演じたに過ぎない。 日本軍には戦(いくさ)の大義名分すなわちアジア地域に主権国同士の共栄圏を作ること がありました、しかし、「中華思想のもとに数千年の間極めて高い誇り(プライド)を持ってきた両軍(国民党軍 [蒋介石] ・共産党 [毛沢東] )」は日本が共栄圏の盟主となることを拒否した。「日本軍を中国大陸から追い払う事」だけを目的に戦(いくさ)をしているうちに白人からの莫大な援助(蒋介石は米英から食料・最新兵器、毛沢東はスターリンから共産革命指令)を受けてでも勝つという白人隷属状態に陥り、日本軍が無条件降伏(1945)した後は、両軍は主導権を巡って内戦した(〜1949)、中国本土の大規模破壊・大量虐殺 の罪はすべて日本軍に着せつつ戦(いくさ)をする姿は醜いものでした(註: この部分の文責は 森本 にあります) | イギリスBBCの中国ネット記者が国民党軍元行政院長のカクハクソン氏のインタビュー記事で次の事が判明している、(2015,7,9 毎日新聞、木語 より引用)
「国民党軍の担当した正面戦場が95%、共産党軍の敵後戦場が5%だった」「敵後とは日本軍の背後に回っておこなったゲリラ活動の事を意味する、共産党軍は正面戦をしておらず、わずかのゲリラ部隊が手投げ弾を投げたに過ぎない」 では、何故「国共内戦」では共産党軍が勝ってしまったのか? 私は次の通りに思います、第1理由は、毛沢東は内戦の節目節目に共産主義独裁者スターリンの指図を受けていた事。その第2理由は、第2次国共合作のあったとき、蒋介石は捕えられて毛沢東の前に引き据えられ、日本軍と正面戦を行うのは国民党軍(蒋介石軍)とするとの約束のもとに命を助けられた事。
兵力・軍事技術共に遥かに優れていた国民党軍が内戦に負けた理由の直接原因は「黄河堤防爆破による農民約100万人死亡」によって人民の恨みを買った為であると思います。国民党軍は日本軍に勝つために黄河堤防を爆破(1938,6,9)、人為的な大洪水を引き起こし400万人の避難民を出し100万人もの死者を出したのです、この事によって民意は、恨みのため、国民党軍を離れ共産党軍の方に付き、その雰囲気を敏感に感じ取って ケ小平人民解放軍司令官は連勝を続けることが出来たのだと思います。 |
(特別挿入文まとめ)2021年(令和3年)1月17日 YouTube 「参戦勇士九人が語る『南京事件』の真実」の補強
1)、九人はすべて100歳前後、当時自分で撮影した8ミリ映画、写真、場内貧民の店で作ってもらった印鑑(水牛の角を材料とした高級品)を見せながら「真実」を語った 2)、最も驚いたのは城門近くで、トーチカ内に、鎖で足を固定された兵士の死体があちこちで見られた事 3)、城内は静まりかえっており、広い道路の真ん中に老婆が一人居てひとなつこく近寄り「よく来てくれたという意味の感謝」の気持ちを現した 4)、城内は安全であり、将官と部下の二人で調査に出歩いても銃撃されることはなかった、 5)、「難民区(保護区)」はキリスト教司祭たちによって出入りは厳重に管理されており、身分のはっきりしたものでなければ立ちることはできなかった、日本軍大将の発行した証明書を見せて中に入ると、武器庫(沢山のドイツ製武器が有った)の周りには指揮官から見捨てられた敗残兵が数名おり、名前を控えて逃がしてやった。「難民区」にはかなりの数の敗残兵が紛れ込んでいるのが分かったが、彼ら捕虜の担当兵は 「厨房係りの兵」 であり、敗残兵は逃げ放題だったのでやがて彼らの姿は消えた、結果、10万人くらいの避難民が残った。 6)、4日目になると、続々と人々が帰ってきてさっそく商売を始めた、散髪屋、靴屋、立ち食いソバ屋、ハンコ屋等 |
【『軍』を掌握する者(中国共産党中央軍事委員会主席=人民解放軍総司令官)が中共国を動かす権力構造の覚え書き】 |
『党』を掌握していても『軍』には勝てない、例 : 胡耀邦・初代『党』中央委員会総書記、趙紫陽・第2代『党』中央委員会総書記 |
『国家主席』は欧米感覚では「大統領」に当たる、「国家の顔」であり実力は無いと思われる |
『軍』を掌握しただけで毛沢東(1976亡)後の最高実力を保持し続けたのはケ小平だけである |
最高実力の地位は、先ず『軍』掌握権の受け渡しが行なわれ、『党』と『国家』はその次に受け渡される(江沢民はそのようにして最高実力を受け渡された、ただし、ケ小平の影響下で。ケ小平死亡(1997)までは一人立ち出来なかった) |
『軍』『党』『国家』の3権をほぼ同時にワンセットで受け渡されたのが胡錦濤と習近平である、従って2015現在の最高実力者である習近平は 『軍』事力 を最優先させると思われる、ただし、江沢民と同様に、実力で 『軍』事力 による「戦勝」を得た事は無いのでケ小平ほどの影響力を強力且つ長期に及ぼし続ける事は出来ないと思われる |
中国共産党中央軍事委員会主席≠中華人民共和国中央軍事委員会主席 で、党中央軍 の方が 共和国中央軍 よりも 格 が上のようである。ケ小平は 党中央軍総帥(党中央軍事委員会主席) の地位で最高実力を行使した。 それほどまでに、WW2後の内戦勝利のケ小平の影響力は大きく且つ長く続いたのです。 |
中共国の権力構成は分かりにくい、この様な複雑怪奇な権力構成で、中共国の政治は今後の世界を生き延びていけるのだろうか? との疑問を感じます |
古寧頭 [金門島の西北端] の戦い (1949,10,25-10,27)根本旧中将率る部隊 金門砲戦(1958,8,23-10,5 砲撃停止は 1979,1,1 ) パイダン(白団) [旧日本軍将校団] 率る部隊 (結果) 金門島等に侵入していた共産党軍を完全排除。 2018年現在も台湾政府(中華民国)領土となっている |
日本時間 | コタバル
1941,12,08 午前02,25 真珠湾 1941,12,08 午前03,23 |
現地時間 | コタバル
1941,12,08 午前01,35 真珠湾 1941,12,07 午前07,53 |
フランクリン・ルーズベルト | 昭和天皇 |
極端に積極的(早く日本の国体と日本民族を絶滅させたい)、ドイツが 1945,5,7 に降伏した時、ドイツの原爆開発はまだ初歩的段階だったのを知っても開発計画を急がせた、最初から日本絶滅のための決定的爆弾を早く作りたかったことが分かります、それほどまでに病的に日本を憎んでいた、その極端さを忠告する友人もいたが耳を貸さなかった | 極端に消極的 山下輝雄メモランダム第七十三話によれば、「原爆使用を奏上した時 絶対反対 とのご返事に感動、天皇陛下は原爆を使用してまで戦争に勝つことは人類に不幸をもたらすと考えておらることに感動した」 |