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★1-1、世界史概観・上
(々・下 はここ)

2012年10月9日〜本日現在
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ページの末尾へ(世界史概観・上 での本流末尾) 日本、国家総動員法成立〜大東亜戦争開始


★ここに在るものを含む5個の筒形地球儀は自己紹介ページに有ります
これら画像に関する説明は、(第2版)「一生活者」の哲学的短文集 (玄関ページ)の ★特別短文例1⇒ にあります



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お願い : リンク機能が1回では機能しない場合があります、その場合にはリンク先に正確に届くまで何回もリンク元文字列をクリックしなおして て下さい


人類の神話(旧約聖書)の「創世記」には、神(父なる神)が発した最初の言葉は 「光 あれ」 だった、と書かれております。人類は神(父なる神)との交流の中で、直感的に 「光エネルギーからすべてのものが生まれた」 と信じつつ暮らしてきました。そして、この信仰は、1905年になって初めて、物理学公式 (エネルギー = 質量×[光速 の2乗] )の中に取り入れられました。 

すなわち、この公式は 「質量とエネルギーの等価性」とその定量的関係を表している。アルベルト・アインシュタインにより、特殊相対性理論の帰結として、1905年の論文『物体の慣性はその物体の含むエネルギーに依存するであろうか』[1][注 1]内で発表された。

この等価性の帰結として、質量の消失はエネルギーの発生を、エネルギーの消失は質量の発生をそれぞれ意味する。したがってエネルギーを転換すれば無から質量が生まれる。
以上の文の後半は Wikipedia からの要約です。

さらに、一旦誕生した 物質 は悠久の時間経過の中で 「鉄」 へと核種変換して行き、「鉄」は 「隕鉄」 の姿を取って宇宙を漂い、最終的に光エネルギーとなることが予見されています、地球は誕生後に約46億年かけて現在の姿になっていますが、その長い歴史の中で 「鉄化」 が進み、現在の地球の中心部は 「熔けた鉄」 で出来ていると信じられています。
殺人について、旧約聖書は最初の人(アダム&イブ)の上の息子(カイン) が下の息子(アベル)を殺したと記しています、殺人の原因はカインがアベルを「嫉妬(しっと)、[うらやむこと]」した事でした。そう、神(父なる神)がアベルをほめた事にカインが「嫉妬」して殺したのです。戦争(人を殺す事)は人類誕生と同時に発生したと考える事が出来ます。この事を根拠にして逆転の発想をすれば「『嫉妬』さえ制御すれば戦争は消える」となりますが、皆さまはどう思われますか?
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私が旧約聖書を使う理由は「そこに最古の人の息使い」を感じるから。旧約聖書はユダヤ教およびイスラム教の経典ですが旧約聖書からキリスト教の「新約聖書」が発生しているから。私がキリスト教信徒(カトリック)であるからではありません。 
★註1 : 私がキリスト教信徒になった経緯はここの文章(義務教育での道徳教育に望む事(寸考))の中に書き留めています。    また、私の 信仰告白 はここに書き留めました。



   
  挿話案内はここ  過去からの教訓例はここ



下の画像はBC7000年頃の4大文明発生河川(緑色)の位置表示図です、出典はここ( Hello School 社会科 歴史(ハロ歴) No.21 人類の誕生と四大文明、インターネットで歴史の勉強をしよう♪)です

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BC7000年 4大文明発生地の画像は、かつてはここにありましたが、 現在は同じものがこのページのここにありますので重複を避けるために「このページのここ」のをお使いください。
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*検索文言一覧表はここ
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夜景画像は2006年9月の地球夜景で、出典はここです。アメリカ大陸を右側に持ってきました。人口過密画像の出典は 盛衰の世界史地図  http://tncs.world.coocan.jp/WHMP.html ( URL をアドレスバーに貼り付けて実行してください)
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2006年9月 地球夜景図(大)はここにありましたが、現在はここにあります。
   
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2007年 人で満杯の地球はここにありましたが、現在はここにあります。
   
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*検索文言一覧表はここ
註 : 世界人口グラフ画像はかつて Wikipedia に出ていたものです。このグラフの正しさは 2018年現在では国連人口基金東京事務所 世界人口の推移(推計値)でより詳しく確認することが出来ます。

▲▲ページの先頭へ▲▲ 世界の人口推移(言葉の定義)

「政治現象」とは、富の分配現象のことで、「富」の主たるものは「食糧」、富とは人の生存に「必要」なもののことを言います。

「宗教現象」とは、神(存在の第一原因[霊])と人間との間の交流現象のことで、西欧では「ヤハベ」と人間との関係、日本では「アメノミナカヌシの神」と人間との関係を言います。[霊]が人間性を持った状態を言葉で表せば「真」「善」「美」「活」となります。

「科学現象」とは、ものごとを数値化して理解する体験の積み重ね現象のことで、放置すると「限り無い積み重ね」がものごとの存在そのものを「ゼロ」にする現象の事を言います。


「哲学的短文」とは、
「長文哲学」の反対の意味です、このホームページのいたるところに書き込んだ「本質はこうではないか」という短い、つぶやきのような「文」です、しばしば「挿話」「寸考」「私の意見」「私の感想」 などとして登場する「私の思考」です、最長のものでも「冊子」です。この 冊子 も文の引き締めのために画像を多用しています。

以下は 有識者からの最新の文明警告です
ヒトの量と家畜の量を合計した数と野生動物の量の合計数を比較すると「人と家畜」は「野生動物」よりも 5.6万倍 多い、ゴリラ研究家の山極寿一氏提示数を、青野由利 記者が毎日新聞 2020,6,8 の「土記」にて紹介

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(人とその家畜の量)
 ヒト・・・76億人
 ウシ・・・15億頭
 ヒツジ・・・12億頭
 ヤギ・・・10億頭
 ブタ・・・10億頭
 ニワトリ・・・500億羽
合計数 623億
(野生動物の量)



 ゾウ・・・62万頭
 チンパンジー・・・30万頭
 ゴリラ・・・20万頭
合計数 112万
(何倍であるか)
623億÷112万=5.5625≒5.6万倍

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この記事では次の通りの見解が述べられています 
「世界の哺乳類の量は人間と家畜で 9割以上 を占める」
今週、日本学術会議のオンラインシンポジウムでゴリラ研究家の山極寿一さんが示した数字に驚愕した(数値は上表の通りです)、
「土記」筆者はさらに次の通り記しています、
「ヒトが自然を破壊し、牧草地や畑に変え、自分たちに都合のいい生物だけを増やしてきた結果がこれだとは。生きる場所を奪われた野性生物から、未知のウィルスが家畜に飛びうつり、それがヒトに感染するようになるのは、当然の帰結のように思える。  次のパンデミックはコロナとは限らない。国同士が対立している場合ではない」

黄河流域木材過剰伐採による砂漠化(中国地方地勢鳥観図)
アラル海(Wikipedia)農業政策失敗による天然湖消滅
オーストラリア森林火災非常事態宣言
オーストラリア森林火災非常事態宣言その2 ネコ害その他
地球温暖化対策パリ協定

(私の見解)
パンデミックとは感染爆発のことで、新型コロナウイルスが地球規模で劇的に流行している現在(2020年)を指しています。この時期に、この極めてわかりやすい記事が提供されたことについて、 青野由利 記者にお礼を言いたいと思います。人類が積み上げてきた知恵(宗教・政治・科学)の方向性を正す時期が来ていると思います。生物学も物理学も 超えてはならない 一線  を超えてしまったのです。このことに気づいた以上は最先端人工ウィルスの研究はもはや何の力も持ちませんし、最先端の人工元素作成も何の力にもなりません。
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私たちは、人類として 「学問的反省期に入った」 との自覚のもとに 初心に立ち返る必死の努力が求められています、大国である中共国(中華人民共和国)は、産業活動で放出する大量の炭酸ガスを凍結保存して、地球に恩恵を及ぼして下さい、例えば、西暦紀元前200年ころの黄河流域は広大な(日本の国土に相当するほどに広い)森林地帯でした、それを春秋戦国時代終盤に鉄製武器鋳造のための木炭欲しさに戦闘集団は先を争って木材を伐採したのです。こ地方はその時に砂漠地帯(黄土、コウド 地帯)と化し現代に至ります。

豊かになり、製造業では世界一を誇る国となった今こそ取組んで欲しい 覇権 は 「武力」 ではなく 「地球環境復元力」 です。国力を傾けて全力でこの森林地帯を復活させれば国際的な信用を高め、尊敬される大国となるでしょう、
ロシアはアラル海復活が今後の良き国家目標となるでしょう、1960年代まではアラル海の面積は 66,000平方キロメートル で 日本の東北地方全体に匹敵する広さで世界第4位の広さだった。

なお、各個人は自分の哲学を深めましょう。 



[はじめに] (その1、世界観と歴史観)
私は24才の時に読んだ「現象としての人間」みすず書房(ティーヤール・ド・シャルダン神父 フランス人、古生物学者 著)」の「進化の矢印」概念に出会い、闇の中をさまよっていた私は大きな衝撃を受けて前が見えるようになり、カトリック信徒となり、彼に尊敬の念を向け続けている者ですが、一生活者が哲学するには彼のレベルは高すぎて、「進化の矢印概念」を深堀リするのは避けて自分流の哲学を自分に向けて語ることにしました、私は世界史概観・上・下で知ることの出来る人間行動のあらましを中心に据えて考え、次の通りのものの捉え方でこのホームぺーを納得のゆくまで書き続けるつもりです。

古事記に登場する神話の最初の話は BC660 の出来事から記されていると思います、理由は、私の生年は1940年、私が小学校に入学した年(1946)に、「今年は紀元2606年」というお祝いの紅白饅頭を学校の式典でもらったという記憶があるから。すなわち私の生年(1940)は皇紀2600年なのです。私のあこがれていた同級女子の名前が 典子 だったのは 式典 の 典 からとったと思われます。日本国誕生年を西暦で表わすと西暦紀元前 660年 (1940-2600=-660)となります。

古事記最初の内容は、闇の中から 「大神[存在の第1原因](アメノミナカヌシノカミ)」 が現れ、大神は先ず兄妹神(イザナギ イザナミ)を作った、兄妹神はアマテラスおよびヤオヨロズ(八百万)の神々と日本の島々を産んだ、その後、大神は突然姿を消した、イザナギ(兄)とイザナミ(妹)が最も重大な仕事をします、それは、盛んに男女の交わりを繰り返し、日本列島のすべての島々と沢山の神々を産んだ事です。神々は盛んに「人」を行きました。大神は二人の活躍を見届け、満足して姿を消し、再び姿を現さなかった。(YouTube ゆきのん日和 「古事記」 が最も分かりやすい。
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ヨーロッパ世界に伝わる 旧約聖書の書き出し記事のアダム&イブはBC2万年ですから日本の古事記との時間差は約2万年という事になりますので比較検討するのは不可能ですが、西暦紀元前660年は古代ローマ建国神話(BC753)より93年後、東西ともに神話が語られ「神の世界」と現実世界は行き来していたことが分かります、西の場合、ローマ人の祖先は犬(狼)に育てられた双子の兄弟、ロムルス(兄)は強大な支配力を発揮したようです、ローマという国名はロムルスに由来するそうです、「世界史の窓」参照。

日本の神話は人類史という範疇ではとらえることは出来ませんが、世界史の中に位置づけると、古代ローマ社会が神と人との境目を歩み始めた時期に、93年遅れで日本でも神と人との境目の話が語られております。古代における時間の流れ方は極めてゆったりとしていたと思いますので、結論として古代ローマと古代日本は歩み始めにおける大きな時間差は無かった、です。その歴史を物語る最初の本は、古代ローマでは古代ローマ共和国建国(BC501年)のころ、書物の名は分かりません、日本ではAD712年に「古事記」が現れていますのでその時間差はなんと1213年(501+712=1213)なのでこの間の文化発達の差は大きな意味を持ち、古代ローマの民度は日本をはるかにしのいでいたと思います。

世界史では出足が早くかつ、なんと1000年間も存在した地中海沿岸のヨーロッパ世界(古代ローマ帝国)も、甘い蜜に蟻が押し寄せるごとくに諸民族が東西南北から押し寄せ、培われた文物のすべては破壊し尽くされ、古代ローマの1000年間の文化・文物は 「廃墟」 と 「言い伝え」 でしか受け継がれませんでした。「廃墟」 が発掘され、「言い伝え」 を確認して大変驚いた地中海後発民族たちは古代ローマに見習おうとしました、それがいわゆるルネッサンス運動(文芸復興運動、1400年〜1500年)でした。日本の文化・文明は古事記以降途絶えたことはありませんが、それに比し、ヨーロッパの文化・文明は西暦500年ころ(聖徳太子よりも100年前ころ)に一旦途絶えています。
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日本の西暦1400年は足利義満が金閣寺を建立していたころです。 もはやこの頃には洋の東西を問わず人類の文化活動は同一水準に達し、日本もその民度の高さと経済的な豊かさはすでにマルコポーロ(1299年)によってヨーロッパに伝わっていましたので、「日の昇る所にある黄金の国」 との認識がヨーロッパ世界で拡散していました。

ユーラシア大陸とつかず離れずの丁度よい地理状態の中で、世界のあらゆる地域から伝わってくる文化をどん欲に吸収し、蒸気機関の発明に匹敵する 「動力」 の発明はありませんでしたが、明治維新(1868年)のころには「動力」に頼らない諸文化の質の高さはヨーロッパをしのぐ高さを歩んでいました(例えば、庶民の読み書き能力、素足での居住、糞尿の肥料への循環利用、入浴頻度の多さ、浮世絵、着物、刀剣、庶民の国内旅行)。

「動力」に関連する多様な機械技術もあっという間に消化・吸収・応用 してしまいました。織田信長が長篠の合戦で使った鉄砲は種子島銃を改良し、当時の世界第一級品、その数もヨーロッパ全土を合わせた数よりも多かったと推定されています。

ヨーロッパに比し、日本の最も優れた点は、ユーラシア大陸との程よい距離を生かして、隣接諸国との 戦争 を1回だけ(白村江戦、663年の大敗北)で懲りてその後は他国と戦争しなかったことが現在の文化性の高さに貢献しています、それに比しヨーロッパ世界は 「愛」 の宗教を消化吸収しきれずに、隣国同士が戦争に次ぐ戦争に明け暮れて時を過ごしてきました。

技術の高さは戦争に勝つための工夫によるところが大きく日本も明治以降はヨーロッパと互角にまで追いつきましたが戦争に関する感覚は「健康」で、武士道という武術文化のおかげもあって「敵」を滅ぼしつくすまで戦うという「不健康」には陥らないまま今日に至っています、この事は日本国を代表し「最初の神」にずーっと「神主(かんぬし)」として仕える 天皇 が白村江以降最大の国難(第二次世界大戦)に際し、「原子爆弾(核爆弾)使用禁止」の原則を軍人たちに説諭していた事で分かります。 
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この事は今後を生きる人類に大きな希望の光を与えると思います。

      「進化の矢印」思想を私なりに概説すれば次のとおりです 
◆・存在の第1原因としての 「神」 が原因で宇宙が存在を始めた◆・宇宙は「光」と「物質の元」(メンデレーエフ周期律表にある元素)で出来ていた◆・宇宙には「進化の矢印(神の意志)」が作用を始めた、作用とは目立つ現象を連続させながら「進化の芯芽」を作りつつ「複雑性・意識」の方向へと導く作用であり現在も作用し続けている
(メンデレーエフが発見し周期表にまとめた元素達は宇宙存在開始時のものです。人類は「核反応炉(原子炉)」を発明し元素の「核」を壊してエネルギーを得た時点で宇宙誕生時には存在しなかった元素や同位元素が沢山生まれました。人類は新しいエネルギーは得たものの新しく出来た元素や同位元素の処理方法が分からず困惑しています。 神 が予想していなかったものを人類が作った事の意味は重大であり、人類はこの責任を取らねばなりません)
◆・宇宙の最初の姿(現象)は光エネルギーだった、光エネルギーはその後に現れる現象の「全ての芯芽」を刺激した◆・その結果、最初に誕生したのは「無機物質」だった。◆・「無機物質」は「進化の矢印」の作用を受けて「有機物質」を発生させた◆・「有機物質」が「複雑性」という現象を目立たせながら「芯芽」を作った時にその中心に「生命」があった◆・「生命」は立派に育ちその後「現象」として目立ちながら「進化の芯芽」現象を連続させつつ「植物・動物」を発生させた◆・やがて「動物」が現象として地球を覆い尽くした末に「芯芽」が現れた時、その中心に「意識」があった◆・「意識」が誕生した時には意識を宿す「動物」は「人」の姿をしていた◆・「人の姿」と「意識」はさらに「複雑性・意識」の作用を受けて進化を続け、ついに(アダム&イブ)が現れた◆・「複雑性・意識」の方向へと導く作用は今後も人間の「意識」の中で働き続け、幾つかの目立つ「意識現象(政治・宗教・科学)」の連続の中での「進化の芯芽」を経て「完成に向かう意識(超宗教)」が現れ最終的には「超意識(超人、神に似たもの、人が人を殺さない等)」が現れるだろう

◆・【<挿話>「嘘」の発明】
2021,1 のYouTube ゆきのん日和「嘘をつく力」、で「嘘をつく力が旧人(ネアンデルタール人やデニソワ人等々)」を打ち負かした力であるとの仮説が分かりやすかったので書きとどめます。嘘がつけない場合は5感のみを頼る生活なので群れの大きさはせいぜい30名程度が限界、「嘘をつく力」の発明は一旦実用化されると「嘘」の連鎖が起き、群れの大きさは突然大きく、かつ大きな群れがいくつも現れて旧人をあっという間に滅ぼした。

「嘘」とは目に見えない事柄を「信じる」こと。

現代人は「嘘」で充満した世界を生きている、例えば、「お金」(一枚の紙切れ)が一抱えの食料であると信じていない人は世界に一人としていません。ネアンデルタール人が今生きていてもこのことは「嘘」であると主張するでしょう。一枚の紙切を数えることはやがて「数」という「嘘」を生み、「科学」として現代人に定着していますが進むべき方向を見失っていますので 「世直し」 が必要です。

現代人は「国際連合」という「集団がさらに集団化」した場で「富の配分」という政治を行なっていますがネアンデルタール人が今生きていたとしても30名位を視覚や聴覚で認識する程度の力しかありませんのでとても「国際連合」には参加できません。「嘘」は現代では「政治」として定着しています。
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「嘘」は宗教も発生させました、群れの誰かが目に見えない何者かに向かって手を合わせひたすら「死んだ妻に会いたい」と祈ることをはじめました、その人物には見えても他の人物たちには見えませんので「嘘」の行為をした結果、気持ちがすっきりした体験をします、驚いた人々はその人物の真似をして、親しい者の死に接し「祈る」ことを真似しました、そしてこの「嘘」を声にして多くの人たちに伝えます、これが宗教の始まり。

しかし、現代人は「宗教」だけはまだ小集団の群雄割拠状態を克服して居ません、地球上の人々を一つにまとめることが出来ていません。「宗教」も本質は「嘘」であると悟れば良いのにそれが出来ません。人類は「嘘」をも乗り越える「大嘘」をつくという発明をすることが今後必要で、それが出来れば人類の未来が開けるでしょう。
私はキリスト教徒なので「超世界」という現代の大嘘を信じています。
「進化の芯芽」の概念及びそれに付随する「新葉」「芯」「芽」「脇芽」、についてはここを見てください

(私の世界観、ひとことで)
「神」が宇宙を作った。宇宙誕生と同時に「進化の矢印」が活動を始めた。
最初のヒト(人)は「神」との交流能力は持たず、集団で狩りをして得た獲物(富)の分配(政治)を巡る争いが絶えなかった。最初のヒトに作用した「進化の矢印」は「富の分配(政治)」でした。「進化の矢印」は「複雑性・意識」の方向性を加速度的に強めて行く。

やがて、BC数万年に「最初の人間」、(以後アダム&イブ とします)」が現れた。(イブ(女性)の姿とその感性は「ほっとひといき」のページの先頭に書き込んでいます。アダムはイブから想像して下さい)。
「最初の人間」は「神との交流能力」(原始宗教)を持っていたがこの能力はわずかに内面化しただけで定着せず、「富の分配(政治)」の世界に戻り、以後の人類は富の争奪の世界で苦労する。

(私の歴史観、ひとことで)
私には、 政治現象・宗教現象・科学現象 の 三つ が次の通りに見えます、
三つの現象が、あたかも 「縄(なわ)」 がよじれ合いながら伸びてゆく様子縄は時代が進むと共に太くなりその断面の表層は不安定だが中心部は人間の内面に根付いて安定していると。 

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上記の歴史観のもとに歴史を見ると、私には、三つの現象が激しくよじれ合い且つ反発し合い、主役の座を奪い合いながら一瞬たりとも止まらず前進して行く、と見えます。


紀元前の世界史はどのような権威者であっても「推定」で発言しています。理由は「見ていた人は居ない」です。
「推定」のよりどころは主に 「出土品・出土地層」 ですが、私は 「神話」 をよりどころとしています。「神話」で代表的なものは 「イーリアスとオデュッセイア(ギリシャ神話)」 ですが、それよりも古い神話は 「旧約聖書」 です。私はギリシャ以前の歴史を 「旧約聖書」 から 「推定」 しています。
 

やがて「強力な政治権力」の下に富の争奪戦争は収まる (ローマ帝国[BC509年〜AD476年]) が人口の世界的急増(BC200年頃〜AD400頃頃)に対応しきれず「富の分配(政治)」の能力はかなり深く内面化され且つ少し前進したが、 「神との交流(宗教)」能力が再登場(ローマ教会・教皇 AD402年) する。しかし、 (ペスト病 への宗教の無力)を露呈(1348年) する。このために宗教能力もかなり深くまで内面化され且つ少し前進したが 以後は現象としては目立たなくなる。 次には 「数を操る能力(科学、ニューコメン、蒸気機関、1712年)」 が登場するが、この能力も「核分裂エネルギー」への人間の自信過剰 のために内面化作用は部分的(特に核物理の世界)に弾き返され、2013年現在根付くことが出来ずに宇宙をさまよっている。

.........さまよう核兵器関連事実と物質は次の通り。................................................................................
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世界の核実験回数 2000回
http://www.eonet.ne.jp/~morikama/jouhougen.htm#kakujikkenkaisuu
世界の核弾頭数 8000発
http://www.eonet.ne.jp/~morikama/genpaturonkou.htm#kakudantou
世界のプルトニウム貯蓄量 235トン
http://www.eonet.ne.jp/~morikama/genpaturonkou.htm#tamarupurut
世界の使用済核燃料(含、高レベル核廃棄物)の量 25万トン
fjouhougen.htm#kakunogomi
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2014年現在は、再び「富の分配(政治)」能力の必要性の復活という「富の分配(政治)」の第2段階が登場しています。

21世紀は「富の分配(政治)」第2段階の芽生え(同時多発テロ 2001年9月)から始まりました、今後の進化の矢印は人類の「政治(外交)」の能力の内面化・深化の作用を加速して行くと思います。
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(ローマ帝国[BC509年〜AD476年])が当時の文明最先進地域を政治的に「武力平定(パックスロマーナと呼ばれる)」した時代と比較して、今後は政治的に「平等・やすらぎ 平定」する方向を目指さねばなりません。もしも、パックスロマーナ 方式での「平定(武力平定)」が芽生えたならば、その芽は「情報・友好外交」に取り囲まれて自滅せざるをえない「外交」が必要となります。

「神」は今は姿を現さなくなったがいずれ姿を現す時が来る。「進化の矢印」は現在は人間の「内面」でのみ活動し続け、特に「科学」の内面化の作用が強い(コンピューターの発達)、しかし、「科学」の内面化にも行き詰まり(人工核分裂生成物処理の不可能の自覚)、既に『政治』の内面化・深化のという第2段階の「進化」が始まっている。
註 : 下の画像は女子パウロ会オンラインショップ のサイトよりいただきました。 http://shop-pauline.jp/?pid=49583885
マリヤと神の子キリスト
神(父なる神)は 「悪魔に取り込まれた人」 を数回にわたって滅ぼして来た。ネアンデルタール人を最後(BC4万年)とする数種類の「人類」が神(父なる神)によって滅ぼされた、

「神(父なる神)」が人間と会話したのはこれまでに4回しかない。

1回目、は BC2万年、地球最後の氷河期の終わりころにエデンの園アダム&イブが「神(父なる神)」と会話。
2回目、はBC3000年、 ノアという人物と会話、ノアの時代の大洪水によって「悪魔に取り込まれた人」は全て滅んだ、クロマニヨン人の数家族だけが残った、神(父なる神)は「今後は滅ぼさない」と人間に約束した。
(最古の人の実態把握について)
最古の人の実態把握は 旧約聖書 という 「書き残された神話(原始宗教)」によって人々の息使いを感じること以外に方法はありません。(注:2021年にYouTubeむすび大学チャンネルで新しい方法が紹介されました)旧約聖書によれば、人類最古の時代は圧倒的に 神(父なる神)との交流(宗教現象) が目立ったと認識せざるを得ません。
ノアの時代以後は徐々に 「政治現象」 が現れるようになり、政治現象 は古代ギリシャ・ローマ で最盛期を迎えたのです。

では 「科学現象」 はどうだったのでしょう? 山野の火事現場を観察し、「火の原理」 を理解し、重い石を上下左右に移動させる必要に迫られて木材をあてがい、テコの原理を直感的に理解するなどの生活密着行動の中で 「科学の芯芽」 は息づいていたのです。
 

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3回目、は BC2000年、アブラハム(ユダヤ人の祖先)と会話。神は「進化の矢印」の力をアブラハムに注ぐ。
4回目 BC1年 、神(父なる神)はアブラハムの子孫の女(マリヤ)に子(キリスト)を産ませ、その子に人間生活をさせた。

4回目以後、神(父なる神)が直接人間と会話する事は無くなった。アブラハムの子孫は「宗教」の深化に失敗し民族ぐるみ世界を放浪(ディアスポラ)し現代に至って「絶滅」の危機に瀕した(ユダヤ人絶滅政策 1941-45年,於ナチス・ドイツ)、2014年現在のアブラハムの子孫は「宗教」の「進化の矢印」の力を跳ね返しているので「宗教」能力は内面化されず、「宗教」現象が「政治現象」と一体化している。したがって、ユダヤ人は AD70年の(マサダの戦い)の時代を未だに生きている。ユダヤ人の今後の課題は「宗教」能力の 内面化・深化 による政教分離です。

「進化の矢印」が活動をはじめてから今後に至るまでを見通すと次の通りです。

神(ヤハベ)が目覚め意志を持って動き始めた → 神(ヤハベ)は「複雑性・意識」の方向へと「進化の矢印」の力を使ってきた → 物質の元の誕生 → 複雑に絡み合う → 生命の誕生 → 複雑に絡み合う → 意識の誕生(人の誕生)→ 以後神(ヤハベ)は「意識の深化」の方向へと「進化の矢印」の力を使ってきた。 

→ 「先ず★、 『政治』(富の分配現象) の内面化・深化」
→ 「次に★、『宗教』(神(ヤハベ、アメノミナヌシノミコト)との交流現象) の内面化・深化」 
→ 「その次に★、『科学』(数値化現象) の内面化・深化」 詳しくはここ★、私の見解 3(今後の世界)を見て下さい。

→ 2021年現在の「神(ヤハベ)」は 『政治』(富の分配現象) の内面化・深化 の第2段階へと「進化の矢印」の力を使っています 
→「進化の矢印」の力は超意識の誕生(超人、神(父なる神)に似たものの誕生)で終わり、神(父なる神)は再び姿を現します。

「進化の矢印」の力は2015年現在、地球上の「誰々(だれだれ)、複数」に作用しているのでしょうか? 言葉を言いかえれば、「進化の芯芽」は「誰々(だれだれ)、複数」の内面で芽生えているでしょうか? 未来への「希望」は「誰々(だれだれ)、複数」が担っているのでしょうか? 

人類進化の芯芽を育んでいるのは、もしかしたら、この短文集を読んでいる あなた自身 かもしれません。そうあって欲しいと思います
言葉のイメージは未来を切り開く力を秘めています
「現象」をイメージするには、今から1.5億年前の地球表面で目立つ「現象」は大きな 恐竜 でした。その時代には、人類は未だ進化の「芯芽」としても現れておらずネズミのような小さな「現象」の中に埋もれ、見えませんでした。
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「内面化して定着」をイメージするには、日本に於いては 「庶民は武器を持たない」と言う「政治」が豊臣秀吉の時代から徐々に社会に浸透し、現在では当たり前になっている、日本に於いては「肉食しても救われる」と言う「宗教」が親鸞上人の時代から徐々に社会に浸透し、現在では当たり前になっている、また、「人を殺したくない」という宗教心は地球規模で内面化・深化されており、イラク戦争等の現代戦で多数の人を殺し、表彰された人が精神を病む例が多く見られる、日本に於いては宗教的な「食事作法」が江戸時代以降定着し手を合わせてから食事し、食事が終わるとまた手を合わせて感謝(他者全てへの感謝)するなどが参考になります。そして、今後宗教がさらに内面化・深化・定着した場合人間はどう変わるかについて考えるのは楽しい事です。

日本では「電気も物質のように数で表す事が出来る」という「科学」が平賀源内の時代から徐々に社会に浸透し、現在では当たり前になっている、また、病気の原因が細菌やウイルスである事が多いという知見も地球規模で定着しています。人体に関する科学は急激に内面化・深化・定着しつつあり、次世代はどうなるか楽しみです

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「深化」をイメージするには、「弾道を計算するための電子計算機だった物が加速度的に「共に考える機械」へと深まり(パーソナルコンピューター)さらに深まったら何が現れるだろう?」が参考になり、今後が楽しみではあっても軍事用ウイルスの発生頻度がそのまま民間用ウイルス発生頻度と連動して流布する現在に恐怖も感じています。 「政治」「宗教」「科学」を地球規模の脈動する生きた現象ととらえ、過去・現在・未来 を考えると元気が湧いてきます。

言葉のイメージをふくらませて世界史の未来を切り開く力を得ましょう。

世界の人口推移地球の夜景
地球の夜景写真

「こうやってみると、日本は国土全体の輪郭がはっきりわかるほど明るいですね、相変わらず。アフリカとか真っ暗な部分が多いのですが、将来的にはここも明るくなるのか、それとも相変わらず暗いままなのか…。」

と有りますが、私は人口カーブが緩やかだったころ(西暦1000年頃、平安時代中期、紫式部の時代)に戻って、全ての地域がまんべんなく現在のニュージーランドのようになって欲しいと思います、人類は西暦1000〜2000年の間に異常に増殖し、エネルギーを投入しさえすれば欲しいものは何でも手に入るとして2014年現在でも「科学の力」で経済発展を続けようとしています。地球全体が日本と同じ明るさになる事は「地球の滅亡」を意味します。地球をさんざんに荒らしたらどこか適当な宇宙に移住すればよいという哲学はもう死んだと考えるべきです、文明は2つのレベル7核力発電所(原発)事故を経て曲がり角を曲がったのす。今後の「科学」は「低成長・平等」に貢献すべきでしょう、皆さまはどう思われますか?。

註1 : 人口グラフ画像はかつて Wikipedia に出ていたものです。このグラフの正しさは 2018年現在では国連人口基金東京事務所 世界人口の推移(推計値)で確認することが出来ます。
註2 : 地球の夜景写真は 2018年現在でも衛星軌道上から見た地球の夜景写真 2006年09月06日 13時04分00秒で公開されています。
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1868年(日本、明治維新)時の日本の人口は 3400万人

2010年の Wikipedia推計人口は、世界 70億人中華人民共和国 13.5億人インド 12.2億人アメリカ合衆国 3.1億人インドネシア 2.4億人ブラジル 1.9億人パキスタン 1.7億人ナイジェリア 1.6億人バングラデシュ 1.5億人ロシア 1.4億人日本 1.2億人メキシコ 1.1億人フィリピン 0.9億人
その他の国々の人口についてはここ世界地図はここ 2012年1月現在世界地図(総務省統計局作製)はこれです

挿話・挿画案内 BC1250 は 「西暦紀元前1200年頃」 の意味です、 610 は 「西暦紀元後610年ころ」々  挿話23 は私が 23番目に書き込んだという意味です

年代順に列記しました

★1,BC1250挿話16-1,ユダヤ人(イスラエル人)についての覚え書きと所見
       
★2, 610 挿話29,何故イスラム教が最後に発生したのか?、十字軍との関連を含めた私の 寸考
 
★3, 1171 挿話21,イギリスと北アイルランド(隣国同士)の長期間の不和とあっけない和解
   
★4, 1350 挿話27,西欧中世のペスト病、宗教現象の衰退と科学現象の芽生え
 
★5, 1549 挿話9,フランシスコ・ザビエル
 
★6, 1582 挿話33,豊臣秀吉の太閤検地の革新性
 
★7, 1633 挿話10,ガリレオ・ガリレイ
 
★8, 1700-1800 挿話28,何故ヨーロッパで産業革命が起きたのか?、私の仮説
 
★9, 1800 挿話6,近代国民国家の歩み
   
★10, 1818 挿話13,白系ロシア人、シベリア出兵

★11, 1836 挿話31,『万国公法』についての覚え書き
 
★12, 1854 挿話12,ペリーの砲艦外交
 
★13, 1873 挿話11,キリシタン信仰の解禁
 
★14, 1875-2014挿話37,ロシアという国とのお付き合いの仕方について

★15, 1895-1905挿話36,北京議定書に見る「乱」の状態は外見上発展途上にあるかに見える現政権にも潜在するこの国の本質だと思います、隣国として気を使わねばなりません

★16, 1900 挿画3,1900年頃の韓国首都情景

★17, 1911-1924 挿話23,孫文と蒋介石と毛沢東
 
★18, 1912-2016 挿話17,金日成以下三代独裁物語

★19, 1914挿話35,WW1の原因,寸考集
 
★20, 1914 挿話34,WW1,イギリスの3枚舌外交の罪深さ

★21, 1916 挿話1,第1次世界大戦,WW1、「西部戦線異状なし」「我が青春のマリアンヌ」

★22, 1918-36 挿話14,日本、過激軍人の台頭は防げたか??
 
★23, 1928 挿話18,日本国憲法第9条のさきがけと言われるパリ不戦条約の実体は大国英米の「利己主義が大義を潰した」
  
★24, 1941 挿話26,生かされなかった旅順戦
 
★25, 1940-45 挿話2,第2次世界大戦,WW2、「禁じられた遊び」「火垂る(ホタル)の墓」
 
★26, 1945 挿話22,第2次世界大戦終結記念日は国によって異なる

★27, 1945挿話25,アジア諸国独立の年譜

★28, 1946 挿話5、「妻と近江学園」,第2次世界大戦,WW2の戦災孤児施設「近江学園」
 
★29, 1965 挿話24,日本のおわびとハンガン(漢江)の奇跡

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★30, 1972挿話7,近代オリンピックの不透明性,続いて 挿話7-2 オリンピック鳥観

★31, 1975 挿話8,昭和天皇のアメリカ訪問、食糧援助へのお礼
 
★32, 1989 挿話30,ベルリンの壁崩壊のきっかけについて
 
★33, 1995 挿話32,コンピュータについての論考

★34, 2000 挿話4,単独ノーベル平和賞 韓国大統領
 
★35, 2014 挿話19,ロシアは撃墜した民間機の遺体に敬意を払わない

★36, 2014 挿話15,石原信雄氏の国会証言、慰安婦について
 
★37, 2014 挿話20,現代の中国人が過去の中国人の犯した罪(自然破壊)を償う事の素晴らしさについて、私の提案
 
★38, 2015 挿話16-2,現代ユダヤ人(イスラエル人)問題の起源ついての記事切り抜き







検索文言一覧表

「ロシア通史」をここで扱います。理由は、

(1)、ロシア連邦の2014年のクリミア併合事件が衝撃的でしたから。私にとって「この国の巧みな破壊行為(高高度を飛行中の民間機を秘密裡にミサイルで撃ち落とした事)、および
(2)、「いつでも核兵器を使う用意がある、ロシアは大国なのだ」と宣言する大統領が存在する事は最も理解に苦しむからです。この国の通史を概観するならば、この国に関連させて、世界史の謎が様々に明らかになるように思います

註1 : 私が特に重要と認める記事には3人種に限り 色 を付けました、下記の通りに
註2 :  一般的に、「色付け」 は 「強調」 を意味します
【n日本人関連の記事        【c中国人・朝鮮人関連の記事    【iサラセン(イスラム)人関連の記事



★、BC数十万原始人
★、BC6万8千〜BC8千最終氷河期
★、BC4万ネアンデルタール人
★、BC3万クロマニヨン人
★、BC2万5千東アジア文明母胎期 「古事記」の神々と人々
★、BC2万エデンの園 アダム&イブ(その1)
★、BC2万エデンの園 アダム&イブ(その2)
★、BC7000新石器、農耕牧畜、文明の発生
【原始宗教の芽生え】
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★、BC3500ユダヤ教(一神教[ヤハベ]の起源)
民族の「自称」と「他称」 
★、BC3500日本、縄文土器期
★、BC3000ノアという人物
★、BC1720▲↑ハンムラビ法典編纂
★、BC1400旧約聖書編纂
★、BC1400〜BC221古代中国諸国が 姿を現わし、鋳造鉄製 武器で死闘を繰り返す(1171年間)
★、BC1400〜BC1230古代イスラエル王国(他称ヘブライ王国、ユダヤ人の古代王国)飢饉の為全員がエジプトに避難、奴隷生活を送る(170年間)
★、BC1250 BC1250年頃のカナンを中心とした旧約聖書世界

☆、BC1230モーゼ(ユダヤ人)イスラエル人を率いて元の居住地(カナン)へ向かう
★、BC1100
トロイ戦争その1(古代ギリシャ地方)  その2
「ヘブライズム」と「ヘレニズム」 
★、BC990ダビデ王・ソロモン王(ユダヤ人)
 ★、挿話16、ユダヤ人についての覚え書き
★、BC776オリンピア
★、BC753ローマ「建国神話」、狼に育てられた兄弟が国を興した  
★、BC722〜BC221中国春秋戦国時代、秦の始皇帝
★、BC660日本、「国産み神話」の誕生、大神(アメノミナカヌシノミコト)は先ず兄妹神(イザナギ イザナミ)を作り、兄妹神はアマテラスおよびヤオヨロズの神々と日本の島々を作った[「西洋神 と 日本神」(比較寸考)]
★、BC685▲↑中国、宦官制度発足
★、BC552儒教興り変遷する、儒家思想・法家思想 教典は諸子百家の言行録

★、BC500〜BC479ペルシャ戦争(ペルシャ×古代ギリシャ)
★、BC431〜BC404ペロポネソス戦争
★、BC509〜AD476古代ローマ
【政治現象の地球支配】が始まる★、BC470仏教興る(経典は、仏陀の言行録)
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★、BC334アレクサンダー大王
★、BC221「秦」中国大陸統一★、シーザー暗殺 BC44
★、【古代地中海政治現象の衰退】、ゲルマン人の南下
日本の宗教事情 神道、仏教 日本における「権威」と「権力」
★、BC97司馬遷 「史記」を著す
★、BC1 キリスト教発生(教典は 新約聖書)
【宗教の地球支配現象】が始まる

★、54暴君皇帝 ネロ
★、70マサダの戦い、ユダヤ人のディアスポラ
★、100新約聖書編纂
★、57〜247@金印 と 倭の国 と 卑弥呼
★、57〜247A金印 と 倭の国 と 卑弥呼
★、313〜395仁徳天皇
★、476▲↑西ローマ帝国滅亡
★、490中国、▲↑ 「纏足(てんそく)」文化発生
★、589「隋」中国大陸、冊封体制を敷き始める冊封体制の始まり
★、604日本、聖徳太子「和をもって尊しとなせ」
※日本がかかわった戦争(古代〜現代)

★、610イスラム(自称ムスリム)教興る(教典は クルアーン[コーラン] )
★、622サラセン帝国
 ★挿話29,何故イスラム教が最後に発生したのか?
 ★十字軍との関連も含めた私の仮説

★、650クルアーン(コーラン)編纂

★、712日本、「古事記」、編纂
★、628ゼロの概念 
★、628科学発達の芯芽
★、850-1096▲↑ノルマン人大移動
★、860 ロシアの歴史始まる ⇒ ロシア通史へ

★、962▲↑神聖ローマ帝国 がローマ教皇と共に844年に及ぶ歩みを始める(西欧中世)
★、1010(平安時代中期 )「源氏物語」、紫式部  
★、1020世界4大発明(「北宋」時代に)
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★、1054キリスト教、東西に分裂(互いを破門)
★、1066ノルマン・コンクエスト
★、1096-1270十字軍
★、1170ころ朱子
★、1154ノルマンコンクエスト後の英仏のあいまいな統治、プランタジネット朝
★、1192 日本、武家が朝廷から政権を奪い 鎌倉→室町(含 南北朝・戦国)→安土・桃山→江戸 、その後、明治で朝廷が政権復帰、WW2敗戦で朝廷は再び政権を離れ「象徴天皇」となり今日(2019) に至っている
★、1206-1368▲↑モンゴル帝国
★、1215マグナカルタ
1274元寇 等、ユーラシア東端地方の政変画像、333年間、ロシア、アメリカにも言及
パクス・モンゴリカ ペスト病伝染概念図 
★、1299マルコポーロ
★、1300ころ朱子学日本へ伝来
★、1347ヨーロッパにペスト病大流行(第1期3回)
 ★挿話27,ペスト、
【宗教現象の衰退】
 ★、1348 教皇クレメンス6世ペストから逃避

【科学現象の芽生え】
 ★、1360 頃荷船の係留実検

★、1381▲↑小銃の発明
★、1389コソボ戦 以後の世界大戦の芯芽(遠因)
★、1400初-1500年代ルネッサンス
★、1405鄭和
★、1429ジャンヌ・ダルク 仏の自主権確立に貢献
★、英仏100年戦争(欧州中世最後の大戦争)終わる(1338-1463)
★、1453東ローマ帝国滅亡
★、1455グーテンベルク、活版印刷
★、1467日本、応仁の乱
アジア史簡略表記  

▲▲ページの先頭へ▲▲ ★、1492アルハンブラ宮殿無血開城(陥落)・レコンキスタ完了
 ★、挿話29(再掲) イスラム教についての 寸考 
★、1492コロンブス
★、1498バスコダガマとインド航路
★、1498▲↑戊午士禍(ボゴシカ)
★、1509ディーウ沖海戦
★、1517マルチン・ルター(キリスト教宗教改革)
★、1522マゼランの航海日誌
  ★、挿話9、フランシスコ・ザビエル
★、1543日本に鉄砲伝来
★、1543コペルニクス(地動説 ポーランド人)
★、1558エリザベス一世
★、1568▲↑織田信長入京その[1]、応仁の乱終わらせる その[2]、1573 室町幕府を滅ぼし 安土時代 を起こす 
★、1580フランシス・ドレーク
★、1582天正遣欧少年使節
★、1588アルマダ海戦でスペイン無敵艦隊が負ける 
海戦図はここ
★、1588豊臣秀吉(太閤、兵農分離)
  ★、挿話33、太閤検地の革新性
★、1592「ロミオとジュリエット」シェークスピア
 

豊臣秀吉の人物像 
★、1603徳川家康
★、1610「金瓶梅」
★、1615慶長遣欧使節団、支倉常長
★、1630山田長政 
★1568-1648(80年間、途中12年間中断)オランダ独立戦争最終版は宗教戦争と重複して終了 ウェストファリア条約、この条約によって、ナポレオン戦争(1803 - 1815)までのヨーロッパ国際秩序が形成された
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★1580-1640(60年間) ポル・イスパ同君連合
★1618-1648(30年間) 宗教戦争(30年戦争)
★、1618-48▲↑宗教戦争、ウェストファリア条約、条約体制の始まり
スウェーデン女王クリスティナ、グロティウス、デカルト 
★、1620ころルネ・デカルト
★、1620メイフラワー号のコッド岬上陸 
★、1633ガリレオガリレイ
 ★、挿話10、ガリレオ・ガリレイ
★、1637島原の乱
★、1644「清国」中国の実質的支配を始める
★、1665ニュートン
★、1665ペストとニュートン   
★、1712▲↑蒸気機関の発明(ニューコメン)、
【科学の地球支配現象】が始まる。

★、1746人類初の蓄電(ライデン瓶)
★、1748モンテスキュー「法の精神」三権分立論
 
★、1752凧を雷に、雷=電気 の証明
★、1775奴隷貿易 
★、BC1000〜1965奴隷制
 挿話21,世界初の奴隷は「白人(アイルランド人)、長期の不和とあっけない和解 
★、1775▲↑産業革命⇒資本主義
 ★、挿話28,何故ヨーロッパで産業革命が起きたのか(私の仮説)
 

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★、1775,7アメリカ独立
★、1782-1788北半球を火山の噴煙が襲う、日本、天明飢饉
★、1789▲↑フランス革命政教分離
 ★、挿話6、近代国民国家の歩み
★、1795ポーランド3分割され消滅
★、1812ロシア ナポレオン皇帝の侵略を跳ね返す、ロシアの自信過剰癖 発生
★、1815ワーテルロー戦、ナポレオンの負け 
★、1815スイス誕生(永世中立国)於ウィーン会議
★、1823モンロー主義
★、1836万国公法
★、1837大塩平八郎の乱、二宮尊徳

 
★、1840アヘン戦争、香港島、その後
覚書とその後の概略史(含、雨傘運動最新情報)
★、1845-48ジャガイモ病飢饉、ヨーロッパ各地
★、1849ゴールドラッシュ アメリカ カリフォルニア州
★、1851〜1864太平天国の乱、清国内部崩壊の始まり世界大都市の民度比較、江戸、漢城(ソウル)、北京
★、1853▲↑クリミア戦争
★、1853ナイチンゲール
 

★、1853ペリー初来航
   詳細はここ。 
★、1853▲↑プチャーチン(ロシア)初来航の詳細はここ
★、1854ペリー2度目来航
 ★、挿話12、ペリーの砲艦外交
★、1854不平等条約
★、1857インド植民地化
★、1861-65アメリカ南北戦争
★、1863リンカーン演説
★、1864漢訳 万国公法
★、1861新渡戸稲造、(国際連盟・事務次長、調停力 ★、1929水野廣徳(軍人)  ★、1936石橋湛山(政治家)  ★、1936石橋湛山、賛否両論への私の見解   
★、1867アラスカ購入(アメリカがロシアから)
★、1867ダイナマイトの発明

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日本の 和歴・西暦 換算方法 
★、1868,9▲↑日本、明治維新
★、1869元素の周期表が発表される
★、1870普仏戦争
★、1871,10牡丹社事件
★、1871-1873岩倉使節団、107名(含留学生)横浜→米→欧(英・独)→地中海→紅海→東南アジア・香港・上海→横浜
★、1894日清戦争 経緯等詳説:東学党(甲午戦)の動きなど
★、1894 日清戦争 概説:時代背景等
 ★、中国大陸地域戦争地図
 ★、挿話36、中華地域政治体制体質の不変性
 ★、挿話11、キリシタン信仰の解禁 
★、1895下関条約(馬関条約)日台併合
★、1896近代オリンピック発足
 ★、挿話7、(11名死亡の不祥事あり、中国が台湾問題でしつこくオリンピック不参加を繰り返す)
★、1898米西戦争(アメリカ×スペイン)  ★、挿話・挿画3、▲↑韓国・北朝鮮事情
★、1901北京議定書(義和団事件最終議定書、しんちゅう条約、この体制は辛亥革命まで続く)、 
列強が中国分割支配

★、1902日英同盟成立
★、1904日ロ戦争
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●、1907改定陸戦条約(ハーグ改定条約捕虜の取扱)
★、1908T型フォード大量生産開始
★、1909伊藤博文暗殺
★、1910日韓併合
★、1911辛亥革命(中華地方最後の王朝 [清] 滅亡)
※、遼東半島(含、旅順港・大連市)争奪史
 ★、挿話26 生かされなかった旅順戦
★、1914▲↑第1次世界大戦,WW1の開始
★、「世界大戦 ( WW1,WW2 ) の世紀」鳥観的考察あり 
 ★、日本の国際的孤立の 芯芽誕生(ドイツへ宣戦布告)1914
 ★、挿話1, 西部戦線異状なし、 わが青春のマリアンヌ
★、1915対中華民国21ヵ条要求五四運動誘発
 ★、挿話34 イギリスの3枚舌外交 (ヒジャーズ王国 1916)
★、1917▲↑ロシア革命
 ★、挿話13、白系ロシア人とは、シベリア出兵の理由
★、1918-2006 ユーゴスラビア地域国家連合史、第一〜第三
★、1918ポーランド復活独立シベリア孤児
★、1918ドイツ革命
★、1918第1次世界大戦,WW1終わる

★、1919ヴェルサイユ条約
★、1920ダーダネルス=ボスボラス、セーブル条約(国際海峡委員会)
★、1920国際連盟
 ★、挿話18,パリ不戦条約(1928)の崩壊
 ★、挿話14、日本、過激軍人の台頭は防げたか?
★、1921原敬の暗殺
★、1921▲↑日英同盟解消とアメリカの西進侵略主義
★、1921-1936日本で政治家の民間人による暗殺(原敬、濱口雄幸)の後、軍部暴走による暗殺が続く、犬養毅、高橋是清大蔵大臣ほか
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★、1922ムソリーニ、イタリアにファシズム政権
★、1922ソ連邦成立
★、1923ジークムント・フロイト
★、1923荻野久作
★、1923関東大震災、そして、WW2へと一直線
★、1928,6 張作霖爆殺事件
●、1929俘虜(捕虜)待遇条約(ジュネーブ条約)
★、1929世界大恐慌、6年間
★、1931中国大洪水、南京市壊滅 20世紀最大水害
★、1931満州事変(柳条湖事件) 
★、1931,10,8 錦州空爆(規模は小さいが世界初)
★、1932特攻1(爆弾3勇士)
★、1932日本、満州国 建国宣言
★、1933熱河省(ねっかしょう)へ侵略
★、1933ドイツ・ナチ党・ヒトラーがドイツ首相に
★、1933日本、国際連盟脱退
★、1933,7 アメリカ ニューディール政策開始
★、1935,10,5日本、国体明徴声明
★、1937▲↑ゲルニカ空爆(人類初空爆)
★、1937日中戦争(盧溝橋事件がきっかけ)、南京城攻略(1937,12)、以後現在までの日中関係略表
※表1928,6-1937,7北満州から中国中原へ、【北満州から中国中原(中心部)へと、日本の侵略を知るための挿入文】
★、1938〜1943年四川省重慶市空爆
★、1938年4月1日
日本、国家総動員令法成立
★、1941年12月8日日・米・英 大東亜戦争開始
 

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註 : このページのデータ出所
(1)、世界歴史年表・地図 吉川弘文館、亀井高孝、林健太郎、三上次男、堀米傭三、[編]
(2)、「反日・自虐史観を排した歴史年表」(作者同定不可なるも、非凡・正確 と判断する情報を多く含んでいます)
(3)、Wikipedia
(4)、「世界史の窓」および、Hello School 社会科 歴史(ハロ歴)を代表とした少なくとも2つのホームページを参照し私が正しいと判断した情報
(5)、盛衰の世界史地図  http://tncs.world.coocan.jp/WHMP.html  ( URL をアドレスバーに貼り付けて実行してください)
(6)、人生途上に於いて私が見聞し「真実」と確信したもの
(7)、高品質の YouTube

歴史のねつ造・ねつ造意図の例 
(その一)、「韓国と米軍が北へと侵略」と日本の 革新系政党の公式文書に記載されたが本当は北朝鮮が南へと侵略
(その二)、拉致事件は無いとの主張が日本の公的政党(革新系)によって行なわれた
(その三)、朝鮮半島には北朝鮮だけが存在するとの偏った政治思想が日本の公的政党(革新系)にはあった 
(その四)、 北朝鮮は正しい国なのでこの国の工作船の引き揚げる事は良くないと日本の革新政党は主張した
(その五)、共産圏の核実験は正しいとの主張が日本に於いて日本共産党が宣伝し原水禁運動を分裂させた 
(その六)、あの戦争は日本だけが悪かったという自虐史観があるが植民地支配(朝鮮半島国の併合)を謝ったのは日本だけ、西欧の戦勝諸国は全て「知らぬ顔」を押し通している
(その七)、皇国史観では、歴代天皇の政治は全て良かったとされているが、ほとんどの天皇は政治的に何もしなかった
(その八)、日中戦争で黄河の堤防を破壊したのは日本軍とされた、しかし、実際は中国軍(国民党軍)が破壊した 
(その九)、日本軍は残虐だったとされているが残虐だったのは中国軍だった。本当は日本軍が中国人民の困窮を救った
(その十)、朝日新聞は慰安婦について「ねつ造記事」を書き30年間も隠し通した。そのために日本国の国益は著しく損なわれた
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(その 十一)、朝日新聞は福島第1原発(核力発電所)事故対応に関し、所長及び所員たちの取った行動についての誤報記事を書いた。所長及び所員たちの名誉は著しく損なわれた 
真実の歴史は隠される事が多い、 「真実は何か?」を念頭に置いて学ばなければなりません
【その1】1945年8月15 日に日本の降伏宣言が国内外に向けラシオ放送され、降伏文書署名の準備中にも、ミズーリ艦上で降伏文書の調印式(9月2日)が行われていた最中にも、ソ連軍は作戦行動(降伏した日本兵に対する戦闘行為)を継続した、武器を置いた日本軍とどうしても戦いたかったのです、「戦って勝ち取った」事を国民に示したかったのですこの行為は人類が積み重ねてきた「戦争倫理」の基本に違反する「罪」です、ソ連という国が存続する限り背負わなくてなならない「罪」です。2015年現在では ソ連 ⇒ ロシア と名前は変わりましたがロシアは国連の安全保障常任理事国をソ連から引き継いでいますので引き続きこの「罪」は背負い続けなければなりません。
【その2】欧米諸国が朝鮮戦争に注意を奪われていたスキに乗じて、隣国のチベットを侵略し、自国領とした中共国
【その3】昭和天皇は国民に謝罪をしたかったのです(その証拠として、占領軍総司令官のマッカーサーの「皇室の財産と引き換えに、飢えて帰ってきた者達に食糧を分けてほしい」と申し出ました)
【その4】拉致問題解決を先延ばしにしては戦後賠償を求める北朝鮮に対しては、北朝鮮が求める「過去の償い」を、今後一切しないというタイムリミット設定が必要
【その5】東京裁判で提起された人道に反する犯罪(ただし、捕虜に対する処遇違反を除く)は当時国際法上裁くべき根拠法が無かった
【その6】悪逆非道の日本軍を 毛沢東の紅軍が打ち破ったとする思想教育をしているが実際に戦ったのは国民党軍で毛沢東軍は日本軍の背後から手榴弾を投げる程度でした、ミズーリ艦上で降伏文書の調印式で「中国代表」として参加したのは「国民党軍の要人」であって「毛沢東軍の要人」ではありません
【その7】日本人は海の男、戦争中でも工藤、いかづち丸(駆逐艦)船長は「ただいま救援中」の旗を掲げ、自船乗務員200名よりも多いイギリス兵を助けた。沈没船から脱出したイギリス兵を助け、病院船に引き渡した。同じ立場の日本兵はオーストラリア兵に機銃掃射で殺された
【その8】自分に戦争の意思が無くても、相手に侵略する意図があれば戦争は起きる。ポーランドの例では、ドイツとロシアに挟まれた地勢事情で3回、国が滅びやっとWW2戦後衛星国を経て独立した
【その9】核爆弾投下はソ連への威嚇と人体実験(ハーグ陸戦条約違反)であり、有色人種軽蔑の現れです
【その10】韓国の強気に押されて「従軍慰安婦」の言葉を低年齢の義務教育の教科書に書かされ、韓国の教科書には元寇の際の 高麗侵略軍の事は書かないと言う身勝手さを許すお人よしの日本また、韓国の教科書には「アメリカの2発の核爆弾投下」を教えない、これは頼りにしているアメリカに遠慮しているから
【その11】イギリスの教科書では「アヘン戦争(50年間にわたり中華人の脳を破壊し続けた)を教えない
【その12】中国残留孤児が大切に育てられたのは日本軍が中国の民衆を助けたから
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<四ヶ国同盟>      
<韓国教科書に[核爆弾投下]は無い>
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      進化の芯芽概念図

進化の芯芽図

[はじめに] (その2、あなたと私)
ごく普通の人である あなたとわたし が出来る重大な事について
猿を出現させた「進化の矢印」「人」を出現させるために力を発揮します。そして「人」が現れます。「人」は「意識の芯芽」を体内で育んでいました。そしてついに地球の最重要現象である「意識」「進化の芯芽」が現れ、成長を開始しました。
「芯芽」の「芯」をいつまでも外れなかった人達は「政治」「宗教」「科学」の諸現象を発芽させ、歴史を刻んでゆきます。「脇芽」にそれてしまった人達は途中で姿を消しました。そしてついに「今の私達」が残ったのです。

「進化の矢印」は私達に話しかけてきます、「どうぞ私の矢にお乗りなさい」と。 わたしはその誘いを直感しています。 わたし は懸命にキーボードを叩いてその誘いに応じているつもりです。
さて、 あなた は「進化の矢印」の気配を身近に感じますか? もし感じたなら感覚を研ぎ澄ませて矢印に飛び乗って見てください、ご自分のすべきことが直感的にわかる事でしょう。
そう、人類進化の矢印はあなたの意識に働きかけているのです。
註 : 「進化の矢印」「進化の芯芽」、と言う言葉は私の造語です、その概念については当サイトの当ページのここを見て下さい。
ごく普通の、私のような者でも歴史を良い方へと変える事が出来そうです、あなたも、もちろんそうです。 

註:画像はヤフー画像集から頂きました

BC数十万年、「意識」を持った「人」が数種類現れては消えてゆきました。
BC 6万8千〜2万7千(ピーク)〜8千、地球の最終氷河期、ピークは BC 2万6千5百年、Wikipedia の「最終氷期極大期」から引用。
地球の気候史の最終氷期の中でも氷床が最も大きくなった最後(最近)の時期である。 氷床は北米、北欧、アジアの大部分を覆う巨大な氷床が見られた。これらの氷床は地球の気候に大きな影響を与え、干魃、砂漠化、海面の大幅な低下などを引き起こした。地球規模で、海面が、2012年よりも、約125メートル低かった
BC 4万年ネアンデルタール人、このころに地球から姿を消す。彼らは長らく現在のイラク国北部、チグリス川上流左岸地方に住み、シャニダール洞窟におびただしい量の「花粉」を残していた。死者に 花 を手向けて葬ったと考えられている、従って彼らの精神生活は原始的な段階を超え、現生人類に近かった。
映画 「シャニダールの花」 はこのころを時代背景として描かれた映画です

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BC 3万年、クロマニオン人、現代人の直接の祖先として地球全土に拡散 、
BC 2万5千 〜 BC 5千 東アジア文明母胎期、渤海・黄海、東シナ海、南シナ海 は氷河期で干上がり、日本とユーラシア大陸は陸続きだった、そこに東アジア諸文明の母胎となる文明を育んだ人々がいた、中心人物はアザナギ・イザナミ。ただしこの時期は氷河が溶けるとともに水没したので遺跡や遺物は無い、ただし、グーグルマップ改訂版で透視すると様々な遺構が目視出来る。(下記に詳述)。
BC 2万年、アダム&イブ その1 旧約聖書でのアダム&イブ、イチジクやリンゴを食べている二人に「父なる神」が「リンゴは食べてはいけない」と話しかけた、言う事を聞かなかった二人は「父なる神」から罰を受けた。
BC 2万年、アダム&イブ その2 西洋(実際は中東の干上がっていたチグリス・ユーフラテス河口沖ペルシャ湾口、エデンの園)で アダム&イブが生活、そして平安と追放、下記 東アジア文明母胎期解説 の後半ペルシャ湾のアダム&イブ および九州(日本)のイザナギ・イザナミに詳述。
BC 2万年、旧石器時代
BC 7000年、新石器時代、農耕・牧畜の開始、 4大文明が起こる。
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汝(7)れ(0)初めは農耕・牧畜 

(1)、メソポタミア文明---チグリス・ユーフラテス河畔(人類文明の最大の芯芽)、エデンの園 はここに存在したとの考え方が一般的です。
(2)、エジプト文明---ナイル河畔
(3)、インダス文明---インダス河畔
(4)、黄河文明--------黄河河畔
で、農耕・牧畜の開始、人口は増大し、文明の基礎が築かれ始めた。先ず原始宗教(神話)がそれぞれに発生、次に土地と食糧等の「富の分配」の必要性が高まり「原始政治現象」が芽生える。
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BC7000年 4大文明発生画像はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
BC7000年当時の文明発生地域(緑の文字で河の名を記した地域)
当時の人口は推定で500万人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BA%BA%E5%8F%A3(Wikipedia)
暗い図は2015年現在、人口70億人の地球の夜景


明暗2つの図を比較して、私にわかることは次の通りです。
1)、北アメリカ、ヨーロッパ、日本 は文明発生とは無関係の地域だったにも関わらず、異常に明るい。
2)、黄河河畔とインダス河畔は文明発生時点でも今日現在でも人間の動きが活発。
3)、ナイル河畔だけが今の文明に取り残されている。
4)、しかし、夜景の明るさと全人口推移グラフとを対比して直感を働かせた場合、私は「人口は増えすぎた、夜景は明るすぎる」「この明るさと人口増加グラフの異常上昇曲線は不気味」と感じます。
5)、文明発生時期には南北アメリカ大陸はユーラシア大陸に匹敵する広さの「無人地帯」が広がっていた。
6)、この無人地帯に、産業革命(1775年頃全盛)をきっかけとしてヨーロッパの人口が一気に流入した。
7)、人口表示曲線が1775年頃からほぼ直線状に上へと延びている原因はこの点にあります。
8)、2015年現在、南北アメリカ大陸も人口があふれそうになっています。私たちが今とりあえずせねばならないことは「これ以上人口を増やさない」だと思います。
9)、では、人口の目標数はどの程度にすべきだしょうか? それは産業革命が一段落した1800年ごろ、人間が機械によって 「重労働という非人間性からの解放」 を得、まだ「資本主義・商品至上主義」の流行直前の時の人口(およそ10億人、このグラフからの推定値)、そう、人口の目標数は 10億人 とすべきではないでしょうか?

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BC5000年、四大文明発生地帯のそれぞれに 原始宗教現象(含、ユダヤ人のヤハベ[霊] 信仰) 発生、エジプト人(ナイル河下流域)のミイラ信仰が現象的に最大規模。
寸考: ユダヤ人と日本人の信仰には 「活」 があるので同質ですがエジプト人の信仰には 「止」 があるので異質です。

〜〜〜〜〜〜〜ここから、東アジア文明母胎期解説〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【東アジア文明母胎期(BC2万5千〜BC5千)について】 最新で且つ有力な学説(小名木学説):筆者(森本)はこの説は正しいと信じますので私なりの紹介をさせていただきます
東アジア文明母胎期が存在した、縄文土器期以前の日本近辺には2万年間もの長期間、平和な 山岳・平原かつ海洋での 生活が存在した

小名木善行氏(古代日本史学・文学者)の2020/12/04 の YouTube「むすび大学チャンネル」、2万5千年くらい前の太平洋西岸域の生活実態を、上空からのグーグルマップ海底画像によって解説する方法には強力な説得力を感じます
先ず、2万5千年前は 氷河期のおわり頃 だった。ユーラシア大陸等の、赤道よりも南北に離れた陸地は 氷 で厚く覆わた所が多く、海面 は現在よりも 125メートル低かった、中国大陸地方の北半分も氷結し、人間は住めないほどに寒かったので黄河文明はその気配すらなかった
その時期の 渤海・黄海・東シナ海・南シナ海 の海底を海底用グーグルマップで上空からレントゲン画像を見るがごとくに目視出来る、かつて幅広い直線道路が通っていた(長さは熊本と鹿児島を直線で結んだくらい)、かつて人々が整然とした集落生活営んだ(京都市街地のように見える2カ所)、かつて川が流れていた(数十カ所)、などの輪郭線を広範囲にわたって確認できる

現在の 渤海・黄海・東シナ海・南シナ海 の大部分は広大な平原でした、日本列島は台湾と繋がる断続的に並んだ一つの長大な山脈であり、人々は平原や山岳では野生の 米 やイチジク等の炭水化物系食材を採取し、浅海では貝や魚を採って食料とした、「工夫する」という気質を持った人々は、野生の米(おかぼという種類、熱帯原産)を水田で収穫するという工夫に取り組み、1万年がかりで水田栽培用に改良した、温暖化とともに地面が現れた中国大陸地方に移動するときに 水田栽培米文化 を携えていった
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人々は豊かで安定した政治に浴した(物証は海底であるため無い)、話し言葉は発達していた、氷河が溶けるにしたがって水面は上がり現在の地形へと変化していった、そして縄文土器期へとつながっていった、温暖化に伴って 米栽培 は氷が解けた中国大陸に向かった人々が黄河地方等に伝えた。後日、良質な水田米が日本へ帰ってきたと考えれば黄河文明の一つとしての 栽培米 が日本へ伝わったとみることも出来る。

東アジア文明母胎期には「道儀に厳しい『父なる神』」は現れず、「古事記」に見るごとく、男女は生来的な倫理観に忠実に従いつつ自由に暮らした、日本人の平和主義気質はこの東アジア文明母胎期の間に培われたものであり、現在の 「8つ の文明圏 の一つ」(下記としての日本文明圏形成を基礎付けた
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寸考 : BC650 頃に語られ始めた「古事記」の イザナギとイザナミ はこの時期の日本に実在したと思われる、「古事記」の記載内容は「旧約聖書」のように鮮明では無い分だけ同じ氷河期の出来事ではあっても「古事記」の世界の方が古いと考えるのが妥当と思われる。イザナギとイザナミ は西洋古代神話の アダム&イブ に相当し、アダム&イブよりも一段古い時代を生きたと思われる、「古事記」の述べる世界は BC2万5千年頃、旧約聖書でのエデン世界は BC2万年 頃。

また、両者の生きた空間を比較すれば、イザナギとイザナミ はアダム&イブ の生きた 干上がったチグリス・ユーフラテス河口沖(エデンの園があったと言われているペルシャ湾口) よりも5倍ほど広い地面で生きていた事が、語られる内容の具体性欠如理由として納得できます、その比較には

   2021年現在、世界の 8つ の文明圏(日本は1国1文明圏) の 画像 が有効です

なお、氷河最大拡大期のころ、ペルシャ湾のアダム&イブ および九州(日本)のイザナギ・イザナミは共に125メートル水位が下がってはいるが安定した地面で生きていました。アダム&イブは 「父なる神」 によって楽園から追放されて辛い目に逢いつつ子孫を残して行きましたが
自分自身が「男女神」であるイザナギ・イザナミは日本の九州山地を根拠地として沢山の神々や人々や島々を作って九州近辺のみならず 陸続きだった ユーラシア大陸へも「心のふるさと(米食文化)」を浸透させました。

〜〜〜〜〜〜ここまで、東アジア文明母胎期解説〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【n BC3500〜BC300 日本、縄文土器期BC3500年頃からBC300年頃にかけて 上記 東アジア文明母胎期 の発展形態として、かつ中国大陸へと移動した人々の築いた黄河文明の影響を受けて、九州 ⇒ 関東 ⇒ 東北 へと小さな集落が広がっていった、このころを 縄文時代(縄文土器期) と呼んでいます。
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註1 : 映画「ライアの祈り」では 「1万年もの長期間にわたって続いた平和な 縄文時代」 と語られますがこれは間違っています。 卑弥呼 より前には、政治的に統一された日本独自の時代は無く、小さな(最多人口100人程度)集落が日本列島の主として南の地方に点在したのみで、平和ではあったと思いますが政治的に統一された大規模な集団は無かったと思います。用語の 「縄文時代」⇒「縄文土器期」 変更は検討されてもよいのではないかと思います◆祈る女性土偶と、火炎土器と、立ち姿女性土偶はここ
註2 : 四大文明発生当時
(BC7000年)の世界人口が500万人であったと推定されています、この事ことから日本の倭国の人口をおおざっぱに推定すると各集落の最多人口は100人程度と思います。日本の学会は縄文土器の時期や弥生時期の「国の規模」を過大評価する傾向がありますので要注意だと思います。縄文期の土器類(火炎土器など)には確かに 活力 がありますが。
(n AD57〜AD247 卑弥呼の時代へ、時代は縄文土器期を大いに過ぎ、AD50年をやや過ぎた頃から   (古代ローマの 暴君ネロ の時代をやや過ぎたころ AD57〜AD247) 倭人(わじん)の国が現れて 金印 が中国大陸の国(後漢国)から授与され(AD57)。BC300ごろ から弥生文化時代と呼ばれる時代の流れの中で、有名な 卑弥呼 が 「王」 として戦乱を収束させ国を治めた(AD175-AD245)。註:卑弥呼についての証拠は 金印 が福岡博物館にあるだけで、記録はどこにもなく、陵墓も無い。

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BC3500年、ユダヤ教発生、ユダヤ(イスラエル、ヘブライ)民族(当時推定5000人、ユーフラテス河〜ナイル河)の中に、神[霊](ヤハベまたはヤーベと表音)の存在を強く意識する者が多く現れました。ヤハベについては数十行上に既述
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BC5000年 ユダヤ教起源図はここにありましたが、現在はここにあります

ユダヤ教を母体として発生したイスラム教、キリスト教についても図示しています
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*検索文言一覧表はここ 人類が 「偶像崇拝宗教」 を卒業するきざしが現れました。 

「私たちは神(ヤハベ)によって特別に選ばれた民族という『選民』意識」が強く現れました。

いわゆる「一神教」の始まりです。ユダヤ教の聖典(旧約聖書)を根拠とする「一神教信仰」はキリスト教、イスラム教を生み、それぞれさらにこの図にあるとおり様々な分派が生まれ現在の地球を覆っています。しかし、当時の 「一神教」 は 「神を独占する」 傾向が強く、他民族を差別していました、すなわち、「隣人」 とは ユダヤ民族内部でのみ通用する概念で、他民族の 「隣人」 は居ませんでした、ユダヤ民族の中にも十数の支族があったからです。  
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民族の 「自称」 と 「他称」
古代イスラエル人の 「自称」と「他称」 、 古代ギリシャ人の 「自称」と「他称」、古代アラビア人の 「自称」と「他称」
★、古代イスラエル人の 「自称」 は 「イスラエル(神[ヤハベ]に選ばれた者達という意味)」、  「他称」 は ヘブライ と ユダヤ(イスラエル人から神[ヤハベ]を抜いた者達という意味)」
★、古代ギリシャ人の 「自称」は 「ヘレネス(異邦人[バルバロイ]ではない者達という意味)」、  他称は 「ミケーネ ⇒ アカイア(ペロポネソス半島一帯に定住した者達という意味)
★、古代アラビア人の 「自称」は 「ムスリム(神ヤハベ)に帰依する者という意味」 他称は  イスラム(マホメット教を信じる者)
    コトバンク参照    wikipedia参照
 

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BC3000年、地中海東沿岸地帯に、ノアという人物がが活躍。活躍の内容は 「旧約聖書の『創世期』」 に 「神話」 として記されている。まず、大洪水があったとされています

[私見:]先ず、アフリカ大陸とユーラシア大陸はジブラルタルで陸続きだった。氷河期終期に陸氷の重圧バランス変動に関連した地殻の変動によって狭いジブラルタル地域が南北に分断された、この分断による割れ目は大西洋の水位が120メートルほど上がるに伴って大きくなり、ノアのころに急激な「割れ目の拡大と深化」をもたらした、海水は、ジブラルタル海峡から一気に、ナイアガラの滝のごとくに、低地だった地中海地域へと流入して低地帯を水びたしにした、聖書の「雨」は滝からの膨大な量の水煙であると考えられる、その変化は急激だったので、ノア一族だけが生き残った、

[以下は旧約聖書:]ノアは大きな箱舟を作って全ての動物の 「つがい」 を箱舟に収容した、大洪水が終わった時、神(ヤハベ)は空に虹を架け、ノアに語りかける 「人間を選別することは二度としないことを約束する、その証拠として 『虹』 をかけるのでしっかりと見届けなさい」 と そして、人間の歴史が次の段階へと進んでいった。
モノクロ・サイレント 映画 「ノアの箱舟」 という映画はこの時代を理解する上で参考になります 
註 : 、この話は ユダヤ教に伝わる 「神話」 ですが、真実であるか否かを証明することは出来ません。しかし、古代史実を 「土器や人骨を含む 地層」 で 推定 しているように 「神話」 が 「話の地層」 の中に埋もれていることは事実なのです。
古代史は本質的に 推定 で成り立つものなので ノア の働きも  「話の地層」 の中から掘り出して 推定しても 世界史概観・上の 違反 ではないと思っています。 ノア、ハムラピ
この時代を物語る神話として、「ソドムとゴモラの話」も 「旧約聖書」 に残されていいます。人間の根源的な罪(悪魔が人間に伝染させる罪)に犯された二つの都市(ソドムとゴモラ)の話です。

父娘性交その他の性道徳の破綻を理由に神(父なる神)がソドムとゴモラを滅ぼしたようです。

Wikipediaソドムとゴモラ(旧約聖書、「創世記」) を参照。
「ノアという人物」の存在と「大洪水」事件は下記の文字痕跡によって 推定 することが出来ます。 
1)、『シュメルの洪水神話』(粘土板)における記述、メソポタミアの楔 形文字表記、BC2800年頃に大洪水があったと記されている。

2)、『ギルガメシュ叙事詩』における記述、古代メソポタミアの文学作品、シュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王に関する文学作品、粘土板に楔形文字表記、BC2600年に大洪水があったと記されている。

3)、旧約聖書『創世記』における記述、(BC3000年頃に、大洪水がおこり、船に乗って難を逃れた一団がいた)
以上、Wikipedia で確認。

BC2500年、焼き物時代、古代インド、中国
BC2100年、ウル・ナンム法典、世界最古の法典メソポタミア文明(ウル国)、ウル・ナンム王が発布した。
BC2000年アブラハム(ユダヤ人の祖先として旧約聖書に記されている人物)
BC2000年青銅器時代、中東、チグリス・ユーフラテス地帯
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BC1720年ハンムラビ法典
罪人の避難(17)場所だよ、賑(2)わ(O)い多しハンムラビ法典 
メソポタミア文明(バビロニア国)、完全なかたちで残る世界で2番目に古い法典、(ハンムラビ)王が発布した法典。
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【「目には目で、歯には歯(タリオの法)、無限な報復を禁じて同害報復までに限度を設定することであるのでしばしば「目には目を、歯には歯を」と訳されるのは間違いである、この条文の目的は同害報復を要請するものではなく、無限な報復を禁じて同害報復までに限度を設定することである。

(私の解釈)
「目には目で」=「目でにらまれたら目でにらみ返せ」 「左目をつぶされたら相手の左目だけをつぶせ」
「歯には歯で」=「歯でかじられたら歯でかじり返せ」 「前歯を1本折られたら相手の同じ位置の前歯を1本折れ」
「同数の暴力事件で一人が殺されたなら相手の一人だけを殺せ」

ハンムラビ法典の趣旨は犯罪に対して厳罰を加えることを主目的にしてはいない。
古代バビロニアは多民族国家であり、当時の世界で最も進んだ文明国家だった。
多様な人種が混在する社会を維持するにあたって司法制度は必要不可欠のものであり、基本的に、「何が犯罪行為であるかを明らかにして、その行為に対して刑罰を加える」のは現代の司法制度と同様で、刑罰の軽重を理由として一概に悪法と決めつけることはできない。Wikipediaより抄録。
..............................................................................................

BC1600年、鉄器(原始的、隕鉄を原料とした簡単な農具)現れる、地中海東沿岸地帯、鉄器が武器として使われるようになったのはトロイア戦争(BC1100)の後から。

BC1400年、旧約聖書編纂、ユダヤ教経典(キリスト教典、クルアーンの原典)
【cBC1400〜BC221((1179年間))古代中国、「殷」「周」「燕」「楚」等の国が出現と消滅を繰り返す 、最終時期(BC 722〜BC 221 [501年間])が「春秋戦国時代」 
BC1400年古代イスラエル王国 [下図、「カナン」 に存在] (他称、ヘブライ王国、ユダヤ人、アブラハムの子孫)、飢饉の為全員がエジプトに避難、奴隷生活を送る。
ソロモン王の時(BC950)に全盛期を迎え、以後は内部崩壊して行く
BC1355年、古代エジプト、ツタンカーメン少年王、20歳くらいで死ぬ。王の棺の中や周りには「矢車菊(青い花、矢車草に似る)やオリーブの枝などの生花(なまばな)」がたむけられていた。古代人も現代人のように死者に生花をたむける習慣があったと知ることが出来る。王妃アンケセナーメンが王を深く愛していた証拠であるともいわれている。
註1 : 、古代エジプト王国は BC3000〜BC30 という長期間、地中海沿岸世界を代表する文明国家として栄えたがBC30年に古代ローマに滅ぼされた、この時の女王が有名はクレオパトラ、彼女はローマの皇帝カエサル(シーザー)の愛人となり古代エジプトの延命を図ったが、シーザーの子を産んだにもかかわらず古代エジプトは内部紛争のため自滅した。クレオパトラもエジプト人とギリシャ人の混血と言われている

註2 : 、 ナイル河中下流域で農業のために 測量術、幾何学、天文学が発達し、宗教は 偶像崇拝 だった。
古代エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり都市国家が覇権を争い支配民族が目まぐるしく替わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない、Wikipediを一部参照。
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話16 ユダヤ人関連事項です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ユダヤ人関連事項の覚え書き
BC1250年頃の旧約聖書世界トロイ戦争が起きる前の直近の地中海東端状況は世界最初の 恋愛・戦争 事件が起きた原因を推定するのに有益です。トロイ戦争の世界史本流での記述と 寸考 のいくつかはここにあります
映画 「トロイのヘレン」 はこの状況の 150年後に起きた史上初の地域大戦を物語っています

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BC1250年頃の旧約聖書世界画像はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
(画像は「日本聖書協会」が 1999年に発行した 新共同約 旧約聖書続編つき 「聖書」より頂きました。)

現代のカナン地域
(画像は、国際協力局 ODA http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/09_hakusho/zuhyo/zuhyo2_13.html より頂きました。)
現在のイスラエル国 現在のパレスチナ自治政府管轄のヨルダン川西岸地区 イスラエル国がパレスチナ国を侵食、境目の高さ8mの壁
(画像はWikipediaより頂きまし)

パレスチナ自治政府管轄地域=ヨルダン川西岸地区+ガザ地区

ヨルダン川西岸区域のパレスチナ人領有地にユダヤ人(イスラエル人)がどんどん侵入し境目に高さ8mの隔壁を画像の通りに増設中です。

これら3枚の画像は2006年のものですが、状況は悪化し続け、2014年現在もユダヤ人の我がままが通り、パレスチナ自治政府側の内部分裂も進んでいます。

註 : イスラエルは国連決議(壁の建設中止を求める決議)を無視し続けている、2016年現在も建設中。

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現代ユダヤ人問題の起源、2015,1,30 記、毎日新聞、文化、野村真理氏、>


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現代ユダヤ人問題の起源、新聞切り抜き記事
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ

(私なりの要約)
1)、事後的に見れば、東欧各国にとってのユダヤ人問題を一挙に解決したのは、悲劇的にもナチス・ドイツのホロコーストでした。
2)、近代東欧諸国は、フランス革命後に「時代精神」として走り始めた「民族自決」の空気が張り詰めて行き、「国」のある民族は次々と「国民国家」確立に向けて走りつつあった。
3)、「国」が無いユダヤ人は当初は神聖ローマ帝国内やロシア帝国内で「目立たずに平穏に」暮らしたがフランス革命からの「国民国家」とアメリカ独立からの「民族自決」の風潮により「邪魔な民族として目立つ」ようになった。
4)、「邪魔な民族」であるユダヤ人は東欧諸地方に散在し、500〜600万人と目立ったが、中でもポーランドでは300万人もいた。
5)、しかし、当時のドイツでは人口の1%のユダヤ人しか居なかったが、WW1〜WW2の経過の中で周辺地域をドイツ領として取り込む中で「邪魔な民族」を600万人も抱え込むこととなった。
6)、結局、WW2に於いてドイツは「邪魔な民族」であるユダヤ人の絶滅政策を取った。この事実は、単にドイツの失政として捕えるべきではなく、当時の「時代精神」の極として捕えるべきである。ユダヤ人を「邪魔者」として扱ったのは実はロシアを含めた東欧諸国でした。「邪魔な民族」と言うユダヤ人問題を一挙に解決したのが悲劇的にもナチス・ドイツのホロコーストでした。

(私の意見)
ホロコーストはドイツ人の異常性によるとの見方をする人は多いのですが、それは間違いです。実はその背景には「民族自決(アメリカ大統領ウィルソン提唱)」と「国民国家建設(フランス革命)」があるのです。歴史に「もしも」は禁句ですが、敢えて「もしも」と言うならば、もしもあの当時ユダヤ人に「国」があったならホロコーストは無かったでしょう。
この記事から学ぶべきは、次の通りだと思います、すなわち、「現在、私達はどのような時代精神にとらわれようとして、誰が先導しているか?」だと思います。
私は、「科学万能」と「政治不信」だと思います。
皆さまはどう思われますか?

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(ユダヤ人[イスラエル人])の近況

近況ー1、周辺諸国との関係、2015,1,13 記、毎日新聞、発信箱、大治 朋子氏「ユダヤ人『最後の砦』」>



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新聞切り抜き、「ユダヤ人『最後の砦』」その1
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
(私なりの要約)
1)、WW2以前のユダヤ人にとって「逃げ帰る故郷」が無かったので600万人もの死者を出したが今や世界中でいくら迫害されても現在の彼等は「逃げ帰る故郷」がある。
2)、イスラエルとパレスチナの紛争は宗教紛争と言うよりは「土地を巡る紛争」であると感じる事が多い。
3)、イスラエルはユダヤ人 にとって存続を支える「最後の砦」である。
4)、最近、長引くシリア内戦の要素に「イスラム国(中東の大規模暴力団(IS))」の要素が加わり、ヨーロッパには政治の「右傾化」が見られるようになり、シリア帰りの非ヨーロッパ人種への拒否反応が見られる。
5)、イスラム過激派とともに過激なイスラエル政府もヨーロッパからは厄介者扱いされ始めた。
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6)、イスラエル国の過激な攻撃(パレスチナ暫定自治政府への攻撃)をヨーロッパに「反ユダヤ」の風潮を生んでおり、ユダヤ教礼拝所襲撃屋反イスラエル大規模デモが起き、身の危険を感じたユダヤ人は昨年には7000人がイスラエルに移住した。
7)、最近、フランスでは数回、シリア帰り暴徒(イスラム国(IS)信奉者)による殺人事件が発生、「教祖ムハンマド冒涜」の理由で有名新聞社の編集室が襲われ、12名もの現役で有能なジャーナリストが執務中に暗殺された。
8)、この暗殺事件にフランス始まって以来初めての大規模(370万人)反テロリズム行進が行なわれ、50ヵ国以上の首脳が団結をアピールした(2015,1,13 毎日地新聞記事)
(ユダヤ人[イスラエル人])の近況

近況ー2、パレスチナとの関係、2016,10,18 記、毎日新聞、発信箱、大治 朋子氏「ユダヤ人『最後の砦』」>



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新聞切り抜き、「ユダヤ人『最後の砦』」その2
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
(私なりの要約)
1)、イスラエル・パレスチナ問題の解決に日本も協力している、その方法は独特で「座敷の提供」という方法。
2)、これまでもアメリカが「トップダウン型・テーブル方式」を取ってきたがうまくゆかず、2014年に決裂したまま今日を迎えている。
3)、日本のやり方は、「政治ショー(劇場スタイル)」は取らない、したがって目立たない。
4)、その方法とは、「農産加工団地 」方式、パレスチナ経済の安定化を図り、和平を側面から支援する。すなわち、和平への道を周辺整備してゆくという発想のもとに 23015,11 発足。
5)、政治を意識させないで「互いの会話」を積み重ねてゆくうちにいずれは政治的な会話も自然になされることを期待する。

(私の意見)
(a)、イスラエルの強制建国(国連で決議)直後の1948年5月以来 70年 にわたるパレスチナ地区住民の不満はこんがらがった毛糸の様に複雑。
(b)、その毛糸の絡まりをほぐすには「中立非暴力」の国の関与が妥当、すなわち、日本が妥当。
(c)、アメリカは、国の経済をユダヤ人が動かし、イスラエル核武装をアメリカが支持している、そのようなイスラエル寄りのアメリカがこんがらかった毛糸のような政治難題をほぐすような仕事をできるはずがない、これまで行われてきた「アメリカ主導の和平プロセス」はアメリカ国内政党政治の海外舞台ショーであった。
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(覚え書き)
1)、ユダヤ人の祖先(アブラハム)は「神(父なる神)」に愛された。
2)、旧約聖書には、神(父なる神)はアブラハムの子孫であるイスラエル民族(ユダヤ人)をエジプトでの奴隷状態から解放し、シナイ山で契約を結び、カナンの土地を与えたと書かれている。旧約聖書には「乳と蜜の流れる地」と何回も書かれています、「乳」は放牧の「ヤギの乳」、「蜜」はハチミツというよりは「ナツメヤシの甘い果実」と考える方が現実的です。
3)、第2次世界大戦(WW2)直後に国際連合は 「神(父なる神)はカナンの土地を与えた」 という既述を根拠にして、この地域に 「イスラエル国」 を建国する事を認めた。ヴェルサイユ条約での「民族自決(1民族1国家)」の国際政治原則が実行されたのだが、3000年に亘って住んできた民族(パレスチナ人)にとっては突然居住地を奪われることとなり、国連決議といえども受け入れられないとの理由で4回に亘り戦争で奪い返そうとしたが圧倒的な近代戦力を持つイスラエルに負け今日に至っている。
4)、ユダヤ人は、国際連合で決められた境界線をも犯し、パレスチナ人の土地を奪いつづけ、独自に決めた境界線には高さ8メートルの隔壁を設け、その長さは年々延長されている。イスラエルは国際社会の批判には全く耳を貸さず 「神から与えられた権利は『カナン全地域である』」との論拠を持って隔壁の延長理由としている。

(森本の所見) ユダヤ人に降りかかった下記の2回の不合理に対し、国際社会の無意識的な 「同情心」 がこの暴挙を漠然と傍観させていると思います。

(1回目について)
キリストが磔(はりつけ)で殺された時ユダヤ民族は 「子子孫孫までこの責任は負うから殺してほしい」 とローマ総督(ピラト)に主張したと新約聖書(キリスト誕生後の物語)に書かれているため、マサダの戦い以後世界中に離散したユダヤ人は行く先々でキリスト教徒に差別され続けた事への同情心。

(2回目について)
ナチス・ドイツは 1941年〜1945年 ユダヤ人絶滅政策を実施、600万人を強制収容し、毒ガス等で殺した、この事は単にドイツが悪かったとは言い切れず「人類の持つ根源的悪(自然法上の悪、自然道徳律上の罪)」の犠牲になったと言う同情心。

(所見)
今から数万年〜4000年前の事をBC2100年、ウル・ナンム法典(メソポタミア文明(ウル国))、のころから書き留められて来たと言われる旧約聖書や、AD30年ころに書き留められたと言われる新約聖書の記述を基にAD2000年のユダヤ人(イスラエル人)が政治決定権を主張する事には反対します、理由は、「あまりにも自己本位である」「神(父なる神)はイスラエル人(ユダヤ人)だけと交流していない」「人間に姿を現したと記録される神(父なる神)はあくまで「一宗教(ユダヤ教)」上の神であり、「神(存在の第一原因)」のほんの1面であるにすぎない」

現代の政治紛争には現代の国際法で対応し解決すべきであると思います。

寸考 、2018年時事、イスラエルとパレスチナの首都について
★、イスラエルは自国の首都ををエルサレム全域としているが、国際的には首都はテルアビブ。国際社会は大使館はテルアビブに置き、領事館は西エルサレムに置く、という対応でやってきた。
★、ただし、2017年アメリカでトランプ氏が大統領になってからエルサレムを首都とする動きが現れた、すなわち、
2017年12月16日にはトランプ氏は「イスラエルの首都はエルサレムとする準備をせよ」と自国の政府に命じた。
★、2018年12月17日にはオーストラリア政府は 西エルサレムをイスラエルの首都と認定した。
★、パレスチナは 「国」 として国際社会の認定を受けていないが、中東戦争後ずーっと自国の首都はエルサレムと主張し続けている。
★★、私の考えは、次の通りです、すなわち、イスラエルは西パレスチナを首都とし、パレスチナは新国家を樹立した上で東パレスチナを首都と定めるよう国際社会は動くのが良い。

〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話16 ユダヤ人関連事項でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
BC1230年、古代イスラエル王国、モーゼ、ユダヤ人をエジプトの奴隷状態から脱出させる。
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モーゼ十戒を数えれば最初は 123 

モーゼの十戒の内容は神(父なる神)の意思が記されたものであり次の通りです。
1)、わたしをおいてほかに神(父なる神)があってはならない
2)、(わたしの)像を造ってそれに向かってひれ伏したり仕えたりしてはならない
3)、(わたしの)名をみだりに唱えてはならない
4)、六日間は働いて七日目には休みなさい、神もしたように安息日としなさい
5)、父母を敬え、そうすれば主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る
6)、殺してはならない
7)、姦淫してはならない
8)、盗んではならない
9)、隣人に関して偽証してはならない
10)、あなたの隣人の妻を欲してはならない、隣人のものを一切欲しがってはならない 
    日本聖書協会 発行 聖書 新共同訳 1999 を要約


モーゼはBC1230年頃(エジプト王:ラムセス2世の頃)にユダヤ民族全員約2万人を率いて、 この 十戒 を固く信じ且つ信じさせつつはるばると「カナンの地」(下図参照)を目指します。
紅海(海のまん中ではなくシナイ半島の沿岸と思われる)を渡り、シナイ山を迂回し、何と40年もかけてやっと目的地カナン(現在のパレスチナ地方)にたどり着いたと聖書には書かれています。
http://www.konkyo.org/Nihongo/SolvingTheMysteriesOfTheExodusを参照させていただきました。
(私の解釈)
1)、先ず、「殺してはならない」は「隣人」を殺してはならない という意味です
2)、「隣人」とは「当時のユダヤ民族内部の人」のことを意味します、彼等は行く先々で他民族を侵略していますから。
3)、「隣人」として最も破る事の多かった戒めは「性欲」に関するものであったようです、「姦淫」「隣人の妻を欲する」と2回出て来ますから。
4)、現代人は「隣人」を「人」に置き換えて現代風に「解釈」すれば「十戒」を身に付ける事が出来ます。
BC1100年 トロイ戦争、世界史上初めての地域戦争、古代エーゲ海世界の10年間に及ぶ大規模戦争。
エーゲ海におけるミケーネ文明隆盛期の古代ギリシャ人勢力(軍船1000隻、軍勢10万)の活性化を想像させる。戦争の原因は、陸の大国と海の新興都市国家群との間の 「絶世の美女(ヘレン)の奪い合い」 、武器は青銅製の剣・槍・弓矢、投石機、馬に引かせた戦車、軍船、後日 (BC800) に古代ギリシャのホメロスが 「イーリアス(トロイ地方という意味、現在のトルコ半島西端, ダーダネルス海峡入り口)」  と  「オデュッセイア [英語読みではユリシーズ]トロイを最終的に滅ぼした知将)」  という本 (叙事詩) を書いている。オデュッセイア(英語読みではユリシーズ)の知恵から生まれた巨大木馬の策略が功を奏し、海の新興都市国家群が勝利する。戦争の場合、両軍の 「兵力」 が同じで且つ 「武器の質(青銅製)」 が同じである場合 「勝利」 をもたらすのは 「知恵」 であると後世に教えている。


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「ヘブライズム」 と 「ヘレニズム」 
アダム&イブバノアアブラハムモーゼソロモン王イエス・キリスト(ユダヤ教徒、イスラム教徒)ローマ教皇大航海時代でのキリスト教布教(フランシスコ・ザビエル)メイフラワー号のアメリカ到着ガリレオ・ガリレイの宗教裁判(異端裁判) 帝国主義経済体制下のユダヤ人 大虐殺(同朋殺し)現在 
と続く「宗教・政治現象」は「ヘブライズム」の流れと見ることができます、ヘブライズムの内部には「宗教現象の芯芽(ジャンヌ・ダルク、ナイチンゲール等)」が存在しました、現在では宗教現象は私たちに内面化され「深化」されつつあります。
「ヘブライズム」の最大の特性は「性的な禁欲」、
2番目の特性は「一神教」です。
註 : パクス・モンゴリカ の100年間(1270〜1370)は東方からのユーラシア大陸横断的文明刺激(宗教から脱却し科学へと向かう刺激)をヘブライズムに与え続けた(森本説)  
古代ギリシャ古代ローマアレクサンダー大王ルネッサンス産業革命フランス革命帝国主義経済体制(資本主義市場経済体制)現在 
と続く「宗教・政治現象」は「ヘレニズム」の流れと見ることができます。この語源は、古代ギリシャ人の自称 「ヘレネス」 に求めることが出来ますが、私は、トロイ戦争の原因となった「絶世の美女、ヘレン」とする方が実感が湧きます。ヘレニズムの内部には「科学現象の芯芽(アルキメデス、エウクレイドス、アリストテレス等)」が存在し、「政治現象」とは別系統の現象として異常発達し、現在では地球滅亡の危険を内在させています。
「ヘレニズム」の最大の特性は「性」の商品化、すなわち「女性の美しさ」を「富」ととらえる特性があります。トロイ戦争はこの特性を象徴しています。
2番目の特性は「多神教」です。 
寸考)  
私たち現代人は「ヘブライズム」と「ヘレニズム」の両方を内在させつつ生きていると理解することができます。現在は「ヘレニズム」現象(欲望充足現象)が優位に立ちすぎています。
核エネルギーにしろ電脳(サイバー空間、コンピューター)現象にしろ人類の制御が効かないところにまで来ています。
禁欲を重んじ、相手を信頼するという宗教現象を内在させている「ヘブライズム」の中の「新(芯)芽」を感じ取り育てる気持ちが必要で、それが無いと地球は滅びると思います。

核が人類を滅ぼすといわれて久しいですが、私は「相手を疑い、限りなくウイルスを発生させている「電脳世界現象」が人類を滅ぼすのではないかと思っています。
最速の電脳機械(スーパーコンピューター)で軍事用ウイルスを早く作った国が安全保障上優位に立つという世界の真っ只中に私たちはいるのです。私のパソコンにまで「ウイルス駆除ソフト」を入れなければならないのは政治現象として「異常」です、私たちは「ウイルス駆除ソフト」を購入したと同時に軍用ウイルス生産競争に取り込まれているのです。
軍用ウイルス世界が破たんしても民間用コンピューターは健全に保たれる工夫をせねばなしません。皆さんはどう思われますか?(以上は森本の説)

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(トロイ戦争寸考1)
時代が現代に近づくにつれて、政治の機能不全で戦争が起きた時、「勝利」をもたらすのは「知恵」ではなく「武器の質」であると考えられるようになり、国々は「武器の質」の向上を目指して互いに競争しました、そして1945年には「核」を壊してエネルギーを得る事に成功し直ちに「質の高い武器(前代未聞の新型兵器)」が作られて使用されました(核爆弾)。もし、ホメロスが生きていたらこの戦い(大東亜戦争)を見て「物語」を書いたでしょうか?
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(トロイ戦争寸考2)
アカイア人のミケーネ文明はBC1600年頃から続いて来ましたがトロイ戦争後急に、原因不明で滅亡します、しかし、古代ローマ人が同じ地域でBC900年頃から急速に活動を始めます。
いわゆる古代ギリシャ文明は、政治現象(強大なペルシャ帝国との戦争)、宗教現象(ギリシャ悲劇、歴史物語、スポーツ{ オリンピック }、哲学{ ソクラテス、プラトン、アリスオテレス }、芸術)、科学現象(数学・幾何学・物理学・天文学{アルキメデスの、円周率、体積計測、図形の面積}{ユークリッドの、最大公約数}、幾何学、地理学)
私はここで、地中海世界で展開されたこれらの現象はローマ時代へと受け継がれました、表と画像によって記します。
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BC1000年、古代ギリシャ都市国家群活性化、古代ローマへと引き継がれ
【政治現象の地球支配時代】
到来する、地中海(エーゲ海及びその沿岸地域に拡大)、古代ギリシャ以後は古代ローマが1000年間(BC509〜AD476、にわたって政治現象の中心国 : パクス・ロマーナ、(ローマの平定)と呼ばれる。古代ギリシャ〜ローマと合わせれば延べ約1500年に及んだ。しかし、最後は国力が衰退し、北方からのゲルマン民族大移動を防ぎきれず、ササン朝ペルシャからの外圧も防ぎきれず、またローマ帝国も東西に分裂し次第に中世封建国家乱立時代へと移行する。
アジア史簡略表記はここ、他世界と比較のために 

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古代地中海中心の 政治・宗教・科学 現象【古代ギリシア・BC1000〜300】【古代ローマ・BC509〜AD476】 通算約1500年間 パクスロマーナ
「政治現象」および「宗教現象」に貢献した人々
о、ホメロス(BC800、ギリシア)が「イーリアス」「オデュッセイア」を書く。
о、古代ギリシャオリンピック選手達(マラソンなど)、抒情詩人達、悲劇作家達、喜劇作家達、彫刻・絵画・建築家達、悲劇・喜劇の演出家や俳優達
о、ピタゴラス(BC540、ギリシア)は自分の教団(「万物の原理は数、2は対立、3は調和、5は結婚を意味する」2015,10,9 毎日新聞、余禄)を持つ宗教家でしたが同時に科学者でもありました
о、古代ローマの得意とした分野は、大規模土木工事(道路や水道や公衆浴場)でした。
о、古代ローマの文化的独創としては、「ローマ字(正しくはラテン文字)」と「パンテオン」です。
о、ローマ字は多民族統治のために発明されました。
帝国の民族数は1000年間の間に増え続け、結果的に 約15民族の 言葉 に通じる「共通語」が必要でした、そこで発明されたのが ローマ字でした。
ある民族の言葉の意味がどうしても理解出来ないときにはとりあえず表音文字であるローマ字で書き取り後日ローマ字発音でその民族と意思を通じ合いました。
ローマ字で「万民法」を帝国内に浸透させました。
寸考、
日本の仮名文字との比較
「勝利」・・・・・・この漢字をひらがな で表記すると 「しようり」、ローマ字で表記すると、「SHOURI」。
「VICTORY」・・・この英語(古代ローマ帝国の辺境域語)をローマ字で表記すると、「BIKUTSURII」、ローマ字は「漢字」など全ての言語に対応可能ですが日本のカタカナ(かたかな)も全ての言語に対応可能です。

о、「パンテオン」はギリシャの「パルテノン(アテナイ神だけに対応)」とは全く異なり、全ての民族・全ての信仰に対応する神殿でした。
★註、しかし、1000年間の古代ローマ時代の間に宗教は徐々に変化します、次の通りに、パンテオンによる全宗教平等(政教分離) ⇒ 皇帝は全ての神を上回る神(政教不分離) ⇒ キリスト教のみを弾圧(100〜300、宗教差別) ⇒ キリスト教も他教と平等 ⇒ キリスト教を「国教 392」とし「政治利用(政教不分離)」
「宗教現象」及び「科学現象」に貢献した人々
о、ピタゴラス(BC540、ギリシア)・哲学(宗教性強く、自分の教団を持つ)、幾何学(直角3角形の3辺に関する定理の証明)
о、ソクラテス(BC460、ギリシア)・哲学(宗教的・倫理的、「アテネに住み続けたいのならアテネの法を守らねばならない」)
о、ヘロドトス(BC450、ギリシャ)・歴史学
о、プラトン(BC400、ギリシア)・哲学(ソクラテスの弟子、「実在はアイデア(イデア)の影にすぎない」、「プラトニックラブ」の語源となった人物)
о、デモクリトス(BC400、ギリシア)・自然科学、「原子論、古代ギリシアにおける唯物論を完成させ、後世の核物理に大きな影響を及ぼしたが、プラトン学派は彼を無視した。
о、アリストテレス(BC360、ギリシア)・哲学、(プラトンの弟子、強力な論理能力を十分に使って当時のあらゆる学問を究めようとしたた、アレクサンダー大王の家庭教師)
о、ユークリッド(エウクリデス)(BC300、エジプトのアレクサンドリア市)・数学、幾何学(プラトンの孫弟子、「最大公約数・最小公倍数」の求め方等当時の数学・幾何学知識を取りまとめた)
о、アルキメデス(BC240、エジプトのアレクサンドリア市)・数学・物理学、数学については、ゼロの概念・小数点の概念・平方根概念 の無い時代「円周率」を「分数」で計算した。物理学については、「自分の体積は浴槽からあふれ出した湯の体積に等しい」、「テコの原理、私に立つ場所を与えてくれれば、地球を動かして見せる」
「政治現象」の様相
о、古代ギリシャ・ローマの政治は「市民10万人を養うために15万人の奴隷が居た」といわれるほどに不平等は社会だったようです。古代ギリシャの優秀な哲学者が「人権」を思索して政治に反映させるという現象は無く、「法の下の平等」が通用するのは「市民」の間だけでした。
о、古代ローマは共和制初期に、カルタゴに戦勝したことによって地中海制覇を達成できました。豊かさという点ではローマよりはるかに上回っており、初戦では英雄ハンイバルに負けたのですが結果は勝ち、以後はカルタゴを軍事的に「骨抜き」とし、カルタゴ市民も「不戦」の誓いを立てたのですが、隣国ヌミディアのしつこい挑発についに我慢しきれずヌミディアと戦いました。ローマはこの戦いが「約束違反」であることを指摘したうえでカルタゴを焼き尽くして滅ぼしたのです。
о、古代ローマにおいても階級闘争はあったようですがそれも「市民」における身分の争いであったようです。奴隷が「平等」を求めて市民との争いに勝っても(スパルタカスの乱のように)政治現象とはなりませんでした。
о、古代ローマにおける2つの政治現象は「パンとサーカス」「世界の果てまで通じる軍用道路」です。前者は庶民を食べさせ見世物(ライオンに人を食べさせる、剣士同士を剣で戦わせる)に熱狂させることによって不平不満を解消させ、政治権力者は地位を守ったようです。
о、宴会での食事は美味しいものを「食い漁り」胃から嘔吐してはまた食べる極端な食道楽。
о、公衆浴場は男女の社交の場でしたが「性道徳」は無かったようです。
о、軍用道路は武力で反乱軍を平定するために「速く」目的地に軍勢を送り込むために必要でした。 
寸考、パクス・ロマーナから現代の私たちが学ぶことのできるものは何でしょうか?
現在の日本人にたとえてカルタゴを考えることができます、日本は憲法9条で国際的に「不戦」を宣言していますが、カルタゴの場合、たとえ「自己防衛戦」であっても滅ぼされた点から学ぶことができます。
ある強大な国が日常的に「日本の領土を奪いたい」との強い気持ちをもっていれば「自衛戦」を「先制攻撃」と無理にでも解釈し「自衛戦」を「不戦の約束違反」と指摘して日本に攻め入る国があり得るのです。下記の(その3、ローマ帝国の滅亡と覇権のあとづけ)で指摘しましたように、私たちは自国の国防(安全保障)に無関心なままでの経済的繁栄はあり得ない事をもっと自覚しなければならないと思います、皆様はどう思われますか?。
「政治現象」の典型としての「戦争」3つ選んで画像で示します。
(その1、ギリシャ×ペルシャ 戦) 
(その2、アレクサンダー大王東征戦)
(その3、ローマ帝国の滅亡と覇権のあとづけ)

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BC 990年古代イスラエル王国(他称、ヘブライ王国、ユダヤ人の王国)ダビデ王、その子ソロモン王とともに地中海東海岸に「政治現象」(ヘブライズム)を活性化させました。ダビデ王は若い時、たった一人で巨人(ゴリアテ)に立ち向かい石投器で巨人の顔に石を命中させ退治した伝説で有名、武勇には優れていたが女性関係が清らかではなかったため神(父なる神)から神殿を建設させてもらえなかった。

BC950年、古代イスラエル王国(他称、ヘブライ王国、ユダヤ人の王国)、ソロモン王、優れた人物として周辺国に広く知られていた。神(父なる神)は彼を愛し、自分の神殿を建てさせる。武力よりも 「詩を愛し、民を豊かにする工夫」 を好み、人を殺さずに苦難を乗り切って行く才能に恵まれていた。古代イスラエル王国を豊かにし、エジプト王国をしのぐほどに発展させた。
BC 950年、シバ国(アラビア半島南端、現在のイエメン)、「シバの女王」で知られた国、シバ国は乳香などの香料産出国として栄えた。彼女が国を治める知恵を教えてもらうために1500キロを旅してソロモンに会いに来た話は現在まで語り継がれている、
映画「ソロモンとシバの女王」でこの時代のおおよそを知ることが出来ます。 
しかし、後にイスラム世界では「香炉」が贅沢品として廃止された(マホメット[ムハンマド]610年〜)ためシバ国は消滅しました。
BC 922年、ソロモン王の死後古代イスラエル王国は南北に分裂、
急(9)に(2)二(2)分のイスラエル王国 
北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は新バビロニアに滅ぼされ、ユダヤ民族はこれらの国に連れ去られ奴隷とされました。

「ヘブライズム」の源流という政治現象の「芯芽」は育ちませんでしたが、この「芯芽」は「旧約聖書」の中に「宗教現象」の「芽」として残り、後日芽吹き、中世ヨーロッパに「キリスト教」という宗教現象として発達しました。

キリスト教は世界3大宗教の一つとして現在でも私たちに内面化・定着している宗教現象ですが、この現象の流れは「ヘブライズム」と名付けられています。

古代地中海世界を発生源とするもう一つの政治現象の流れで現代人に内面化・定着している流れとしては「ヘレニズム」と名付けられ、こちらは古代ギリシャ・ローマの政治現象の流れです。「ヘレニズム」を広めた最初の人はアレクサンダー大王です。
BC 776年、古代ギリシャ、第1回オリンピック競技大会オリンピア
BC 753年、古代ローマで「建国神話」が話され始める、ローマ人の祖先は犬(狼)に育てられた双子の兄弟、ロムルス(兄)は強大な支配力を発揮したようです、ローマという国名はロムルスに由来するそうです、「世界史の窓」参照。
【cBC722〜BC221年(501年間)春秋戦国時代、最終的には 「秦(しん)」 が統一した(BC221年)、秦の王は「中華初の皇帝」の意味を人民に理解させるために自称を 「始皇帝」 としたが統治年間はたったの19年だった。しかし、長期間の戦(いくさ)は荒れ果てた人心と荒れ果てた広大な黄河流域の大地を後世に残した。大地を覆い尽くしていた木材は、青銅器の鋳造(春秋時代)⇒ 鉄器の鍛造・鋳造(戦国時代)のため砂漠地帯となった(ほぼ日本列島と同じ広さの砂漠地帯)。 しかし、 「始皇帝」 以後現れる 「皇帝」 が人民を支配するという統治方法が発明された。 「秦(しん)」 が採用した統治思想は 韓非子 の「性悪説・厳罰主義」だった。春秋戦国時代には諸子百家が並び立ち持論を展開し論争が絶えなかったが最終的には 韓非子 の「性悪説・厳罰主義」 が採用されたにも関わらず、本人は暗殺された。なお、諸子百家 の 「子」 は個人の尊称、 「家」 はその個人が属するグループのことを言う、それほどまでに多くの個人と百ほどものグループがあった。 「始皇帝」 は 「焚書坑儒(韓非子の本だけを残し他の全ての書物を焚き尽くし、韓非子のグループだけを残し他のグループに属する個人は全て生き埋めにして殺した)」 を実行して中国統治方法の手本を示して寿命には勝てずに死んでいった。
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【nBC660年日本、国産み神話が話され始める、存在の第一原因たる神(アメノミナカヌシノミコト)が、先ず兄妹神(イザナギとイザナミ)を作り、兄妹神が天照大御神(アマテラスオオミカミ[女性])ほか八百万(ヤオヨロズ)の神々と、日本の島々とを産んだ、八百万(ヤオヨロズ)の神々は人間たちを産んだ真っ暗な世界に大神(アメノミナカヌシノカミ[存在の第一原因])が出現し、以上の計画の成功を見届けて姿を消した。兄妹神の仕事ぶりは次の通りであった、すなわち、盛んに男女の交わりを繰り返した、その度に、神々(その数は8百万)が生まれ日本列島のすべての島々が産まれた。神々は盛んに「人」を産んで行きました。大神(アメノミナカヌシノミコト)は二人の活躍を見届け、満足して姿を消し、再び姿を現さなかった。八百万の神々の中には、粗暴な性質の神が女を切り殺す話もある、それは自分がはらませたにも拘わらず「他の男の子である」と主張、女が否定すると切り殺したのである。八つの首を持つ大蛇退治に成功した話、吉野地方を奪い取りに行った人たちは戦争になり苦戦するが太陽を背にして戦って勝機を見出して勝った話など、神と人の混同、時間と空間の混同、話の内容に繋がりの乏しくかつ非常に人間臭い話が多い、ただ、生と死の区別はきびしかったと語られている、YouTube ゆきのん日和「古事記」を参照。
[西洋神 と 日本神 (比較寸考)]  
// 西洋(旧約聖書) 日本(古事記)
大神(存在の第一原因)の名称 ヤハベ(霊) アメノミナカヌシノカミ(霊)
創造主(あらゆる もの の作り主)の名称 父なる神 イザナギ(男)とイザナミ(女)
人 を作る時の方法 物理的、外科手術的、先ず粘土で人の形を作り生命を吹き込んで
男性(アダム)を作りアダムの肋骨を取り出して、骨から女(イブ)を作った
生理的、男女の交わり行為によってイザナミの母胎(子宮)から自然出産
先ず 天照大神(アマテラス オオミカミ[女性])を産み次に 八百万(やおよろず)の神々と全ての島を産んだ、八百万の神々は人々を産んだ、現在の日本人はすべて何らかの 神 の子孫である、天皇は父系をたどるとアマテラスに行き着く
創造主はいつまで人と共にいたか 人の中で最も気に入った女性(マリア)に子(キリスト)を産ませてこの世を去った、キリストはユダヤ教徒に裏切られてむごたらしい殺され方で死んだ、父なる神は世の終りにはすべての人を天国へと迎えるために 二人(父と子[父子は一体])で再び来ると約束した イザナミが先に死ぬ、死の世界に会いに行ったイザナギは死体となってウジに食われているイザナミを見つける。しかし、イザナミは激しく怒り、あの世とこの世の出入り口までウジを振り落としながら、腐った身体で追いかけてくる。恐ろしさのあまり、イザナミが出てこないようイザナギは出入り口を大岩でふさぐ。結論としては「産みっぱなし」、現世の人々との再来の約束などは全く念頭になくやがてイザナギも死んであの世(ヨミノクニ[天国])へと行き、二人は天国で幸せに霊的生活を送り、来る人々を迎え入れている。
存在の第一原因 の居場所 地球上の人間一人一人のそばにいる、ただし見えない 地球上の人間一人一人のそばにいる、ただし見えない

【cBC 685年中国で、宦官制度発生、宦官(去勢[睾丸切除]された男子)、が宮廷で使役され始める、古代中国(春秋戦国時代)
宦官の股間

宦官は宮廷部署のどこででも、無警戒で重要職務(記録係)や雑用を任されたため宮廷内スパイの役割も期待された。

以後「清」が辛亥革命で滅びるまで、1911年まで〔2596年間〕この制度は続く。


完全去勢された股間を晒している中国の宦官。19世紀末にフランス人医師J.-J. Matignonにより撮影され、1898年に発表された。


註 : 画像と説明文は Wikipedia よりいただきました
(寸考1)
古代ローマでも「力仕事で女主人に奉仕」する「男奴隷」は「貞操帯」を着用させられた(2015 9,20 「古代ローマの生活」樋脇博敏著、毎日新聞書評)ようですし、インターネット情報では、去勢された男奴隷も居たようです。

古代ローマとの比較 : 
1)、中国の宦官制度は存続期間が〔2596年間〕と長い、古代ローマの場合は〔985年間〕と短い。  
2)、中国の場合は千人前後の皇帝専用妾(めかけ)が他男子によって妊娠させられない事を目的としているのに反し、古代ローマの場合は「一人の女主人」が妊娠させられないようにするための処置
3)、古代ローマの場合は「貞操帯」が主流で「去勢」は例外的処置
4)、付記、日本の場合古来「奴隷」という身分は無い、江戸時代の諸公は「側室」と呼ばれる妾(めかけ)を持ったが多くて10名ほど、男子が生まれた藩には「側室」が居ない場合も多かった。奥向き(中国でいえば宮廷)への男子入場は藩主一人に限定、雑務は「女中」が業務を分担した。
5)、奴隷制度廃止の歴史についての確認 : イギリスの場合、1833年、アメリカの場合でも1863年(リンカーンの演説)

(寸考2、男性器[睾丸] 切除という不気味さ)
中国の場合、イギリスやアメリカと違う点は同朋(黒人等異人種ではない)しかも高位高官でも「殺すという処刑」ではなく「去勢という処刑」をして人格権を奪って奴隷にしている点で特殊であり、不気味です。
司馬遷(しばせん)の場合、この制度を逆手利用しています。彼は官吏として最高位にありながら皇帝の怒りにふれ「去勢」されたのです。彼は自殺せずに「史記(歴史書)」を書く決心をしました(私の想像では、中国歴代政権の異常性を暴露したかったのだと思います)。「人権」意識よりも「仕事」意識を優先しています、
「宦官」は単なる「使役される奴隷」ではない複雑性(皇帝への憎悪を自分の生きる活力として利用する心情)に無気味感を持つのです。
この無気味さは現代の中共国(中華人民共和国)での人事・外交の底流をなしていると感じます


【cBC 552年儒教興る、孔子が儒家思想、申不害(韓非の師)が法家思想を興す。古代中国(春秋戦国時代の半ばころ、最終的に、始皇帝は法家思想を採用して乱世を終わらせた[BC221])
註 : 儒教の呼称、他の宗教に比し、呼称が後世に 「教」 ⇒ 「学」 に変わった。「学問」 への変遷ではない、「仏僧が教養として 学んだ 事がその原因と思われる、朱子学 や 陽明学 は 「儒教」 という宗教の呼称であって 「学問」 ではい。

〜〜〜〜〜〜儒家思想・法家思想および 儒教 の変遷について寸考(ちょっと考えること)します〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
中華文化は歴史が古いにもかかわらず理解する事が難しい。聖地も特定できない。キリスト教のような「存在の第1原因としての神」の意識や「原罪」意識は歴史的にみてどの時代にも現れていないし、仏教のように「自我」を大自然と調和させる修行によって死後 「仏(大日如来)」 と 「浄土(清らかな国)」 で会い、人間として再び地球上に現れる「自我の自己管理」や「輪廻転生」の概念もない。また、イスラム教に見られるように「神の下の平等」意識も無い。
中華文化とは、「人民統治思想体系・処世術体系」であると思われる。「誰が皇帝(天子)となって無数に存在する人民を治めるか、その方法とは何か?」を常に意識している文化であると思います。 「儒家思想」・「法家思想」は純粋な「宗教現象」ではなく「政治現象」の色合いの強い「宗教現象」と理解すべきでしょう。
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この現象は中華の各時代を貫いて存在しますが、「その方法」は時代とともに変化しているようですが 「儒家の『徳』による方法」 と 「法家の『法』による方法」 とがあるようです。

【★】『徳』による方法=儒家の性善説、(人の本性は 善 、放置しても 徳 に到達するが教育によって徳は無限に高め続け得る)
いわゆる「人治」の方法で、徳の高い天子が智恵や知識のある「高級官僚」に支えられつつ人民を治める。徳による王道で天下を治めるべきであり、その時代の(支配者の)武力による覇道を批判する。

『徳』とは「修身、斉家、治国、平天下」であり、その意味は、「天下を治めるには、まず自分の行いを正しくし、次に家庭をととのえ、次に国家を治め、そして天下を平和にする」能力をいうようである。この考え方は中華文化の中核をなしたが儒教誕生の頃にはまだ体系だったものではなく、両家の有力な 「子」  が折々に述べた教えや行為が個々バラバラに存在するだけで全部を体系立ってまとめられてはいなかった。

南宋(なんそう)の時代に朱子(1130〜1200)によって 「朱子学」 と名を変えて 儒教は体系立った「教え」として完成し、特徴としては理屈を重んじ実践を軽んじるために支配階級には有利な思想でしたが融通性を併せ持つ二元論でした。


朱子 と デカルト について

上廣栄治著 「朝の誓(あさのちかい)」 p82〜p104 に次のとおりの興味深い記述があります、すなわち、私なりに解釈すれば、両者ともに心身二元論ではあるがデカルトの 「心」 は宇宙に漂う「1点」の如くに孤独、それに比し、朱子の二元論はデカルトほどには 孤独 では無く、より柔軟に心身は互いに作用する と。日本の古代では 心身一如 が人間存在の根本原理とされていたが、江戸時代中期に朱子学はこの 心身一如 の方向へと変化した。心身一如を社会生活に反映させれば、君臣一如 となり支配者が被支配者を酷使することをなくす方向へと変化した。

  * : デカルトは 「我思う。故に我あり」
  * : 日本化された朱子学は 「我実践す。故に我あり」 、註 : 日本化された朱子学の代表は 中江藤樹の「陽明学」だと思います。


朝鮮や日本にも「朱子学」として伝り、朝鮮では未だに強く根付いているが日本では江戸時代中期(1700年頃)実践を重視する思想が台頭(中江藤樹の陽明学、すでに1634年に藤樹書院を滋賀県高島に開設し平等思想を発信していた)、権力者の特権を許さず庶民の生活保全(治山治水、豊作)重視が図られるように変化した。朝鮮に伝わった朱子学は李氏朝鮮が500年間にわたって代々の中国皇帝に依存し続けたため権力者の特権を最重視する思想へと変質し、日本は朝鮮通信使との意思疎通が次第に困難になって行った。日本で変性した朱子学(陽明学)は日本を世界の近代契約社会に適応させたが中国と朝鮮の朱子学は世界の近代化から国を脱落させる方向に導いた。中国は大規模な庶民暴動の連続によって自滅し、中国に寄生していた朝鮮は日本に寄生先を鞍替えしたが(1910)日本がWW2で負けため否応もなく自立しなければならなくなり、新しい哲学を生み出せないままで現在(2019)に至っています。いまだに国民が採用する思想は古い朱子学であると見受けられ、朝鮮半島国は現在、世界でもまれに見る内部分裂国家です。

日本はWW2敗戦後いち早く「陽明学」を「道徳」という名に変えて先進国としての道を歩み続けています。

日本の 道徳の中には仁、義、礼、智、信や修身、斉家、治国、平天下、(人格を高め一家の平和を保つ者は国を治める資格が生じ、結果的に個人の人格向上が国に平安をもたらす)という 儒教⇒朱子学⇒陽明学 の考え方が取り込まれています。

中国では文化大革命(1966〜1977)時にあたかも 焚書坑儒 のごとき文化破壊があったためほぼすべての伝統的文物が破壊され、現在残っている書籍は 「毛沢東思想」 のみであると言われています。今、過去の儒教文化再興に取り掛かっているそうですが古い概念は現代の概念と整合せず、困っているそうです。

【★】『法』による方法=法家の性悪説 、(人の本性は 悪 、放置すれば 破滅 に到達するが厳しく罰して行く教育によって破滅を防ぎ得る)
いわゆる 「厳罰主義教育」 の下で、後天的努力(すなわち学問を修めること)により公共善を知り、(人間の本性は根本的に変えられないとしても)礼儀作法を身に着け、その水準を無限に高めてゆくことが出来る。皇帝は 厳罰主義権威者である 「高級官僚」 に支えられつつ人民を治める。武力は必要であるがその行使は奨励されないとする。

この 「法」概念は現在の国際常識下の「法」概念とは本質が異なるのです。従来の中華社会での「法」は上述の通り「悪に落ちやすい弱い人間が悪を犯さないように守るべき基準」であり、現在の国際常識下での「道徳」に近い概念のようです。 現在の国際常識下の「法」は道徳的に対等な人間同士が結びあう「約束(条約)」の体系すなわち「人定法」の体系なので、中華に伝統的な「法」概念とは違うのです。

このために現代中共国政府・人民は 「法概念」 の勘違いによる国内混乱・国際混乱に巻き込まれている様に見受けられます。

また、ここで言う「悪」とは「悪=罪(犯罪あるいは悪事)」という意味では無く「法」で支えなければならない 「弱さ」 を意味しています。「弱い存在」である人間が、犯罪や悪事に手を染めずに一生を終える事が出来るように 「法」  が支えると言う意味である。キリスト教における原罪 (最初の人間が「神」に逆らったという根源的な罪、「洗礼」によってのみこの原罪は消える) とは根本的に異なる概念である。

なお、現代中国(中華人民共和国)は文化大革命の「文化破壊」によって共産主義思想を除くあらゆる思想や文化が破壊された後「国学」と言う「中華統合思想学」が起こり、儒家思想・法家思想はその中核思想として復活していますが、「法概念の混乱」 を主たる原因として停滞しているようです。

註 : 「国学」は情緒的に過去の繁栄を懐かしむものであり、多元的重層的に激動する現代の多様性にはふさわしくないと言う批判もある。また、儒教本来の「天朝思想」つまり、「徳の高い天子を智恵ある者が支えて天下を治める」 と言う思想も多元的重層的に激動する現代の多様性に対応出来ない懐古主義であり危険な風潮であると批判する識者も存在しその発言力は強いので今後の中華民族を導く思想は定まっていない。「『天朝』観念 台頭に警告」を参照して下さい。
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〜〜〜〜〜〜以上は儒家思想・法家思想および 儒教 の変遷についての寸考でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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BC500-BC479年 ペルシア戦争(ペルシャ軍×ギリシャ都市国家連合軍)世界史上初めての大陸間戦争、ユーラシア大陸の古代イラン(ペルシャ)がヨーロッパ大陸東端の古代ギリシャ都市国家群を侵略、ギリシャの海運での富を奪い取りに、あわよくばギリシャの領土をも奪おうとしました。この時のギリシャ都市国家間の団結力を象徴する逸話が語り伝えられています、それは次のとおりの話です、

フィリッピデスという伝令が、マラトン(マラソン)の戦いの直前に、アテネから2日間で走ってスパルタに援軍を要請したという話。

古代ギリシャではBC700年代に、4年に一回の割合で仕事を休んで皆で「美にして善なる勝負」を神に捧げるという習慣が始まり、フィリッピデスは「美しく善なる長距離走」を神に捧げようとしたのだと思います。
古代イラン軍はこの団結精神には勝てず、またエーゲ海の海風をとらえて、船で移動しきることが出来ず、全軍が一斉に大陸へと引き上げて行きました、然し、ギリシャ都市国家連合軍が簡単に勝ったのではなく、戦闘は実に21年間に及びました。

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BC500〜BC479年(21年間)ペルシア対ギリシア戦争
はここにありましたが、現在はここにあります、なおこの画像には古代エーゲ海地域の三つの主な戦争(トロイ、ペルシャ、ペロポネソス)の年代略記が書き込んであります

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*検索文言一覧表はここ
スパルタはテルモピレー戦で、たったの300名の重装歩兵で 3日間 持ちこたえたが結局負けた、しかし、この戦いで戦力を消耗したペルシャはその後の2か所(サラミス、プラタイア)の戦闘ではすべて負けて引き返した 

大国ペルシャ帝国は国の「富」を増やすために活発な商業活動で豊かとなっていた弱小国ギリシャから「領土」を奪おうとします。
「ポリス」と呼ばれる「都市国家群」で成立していたギリシャは最初の戦いではかろうじて勝ちます(マラトン)が2回目(テルモピレー)は負けます3回目(サラミス)からは「海」を生かした戦法で勝ち続けます。
ペルシャ帝国は、ギリシャをあきらめて軍勢を引き上げます。

アテネを中心としたギリシャ都市国家群の勝利の原因は「海をよく知ったポリス間の団結力」です。ギリシャのポリスの中には黒海のクリミア半島(ボスボロス王国)まで足を延ばして海運通商していました、「海の暴風雨」を経験していないペルシャは「知恵」の足りなさゆえに負けたといえるでしょう。

現代の私たちがこの戦争から学ぶことができるのは「弱小で資源もない海洋国家」でも一致団結すれば巨大軍国主義国家に勝利することができる」です。
BC431-BC404年(27年間) ペロポネソス戦争(エーゲ海沿岸都市国家群内部紛争)、アテネ勢力(デロス同盟)× スパルタ勢力(ペロポネソス同盟)との激しい対立、スパルタ勢力が勝ったが、死力を尽くして、協力して戦ったペルシャ戦の48年後に引き続いて起きた27年間にも及ぶ内戦は双方の国力や忍耐力を衰弱させた、スパルタはペルシャと内通、アテネは疫病が蔓延、路上の死体を埋葬する力もなく路上に死体が転がるほど、疫病は天然痘ともペストとも言われている、これをきっかけに都市国家(ポリス)は衰退へと向かった。やがてこの地方は新興のローマ帝国によって平定された。
ユーラシア大陸(ヨーロッパ大陸とアジア大陸)の人々がエーゲ海地方へと吸い寄せられ、現代に至った痕跡
1), BC1250頃(旧約聖書伝)
2), BC500から21年間、ペルシャ(古代イラン)対ギリシャ都市国家連合軍
3),
近世のバルカン半島地図
4),近世の 黒海 → エーゲ海 地図 
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BC 470年、古代インド、仏教発生開祖はゴータマ・シッダールタ(仏陀)、聖地はブッダガヤ。

〜〜〜〜〜〜仏教について寸考(ちょっと考えること、日本の 神道 にも及びます)します〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なぜ人類最初の地球規模宗教([地球規模で見た場合、仏教、キリスト教、イスラム教 の順で現れました])である仏教がインドに誕生したのか・・・・・?⇒
私の記憶によれば 1940年=皇紀2600年なので 西暦で皇紀年号を表せば BC 660年(1940-2600=-660) 、仏陀が現れる 190年前(660-470=190)に日本国は建国されたことになります、すなわち天照大御神が暗黒世界の泥を棒でかき回して1滴の泥を地球上に滴り落して日本国を作った年は 紀元前660年
⇒・・・・・それは、無限大の世界の中で人類が智恵ある者(ホモサピエンス)として生き、繁殖するにはどうすればよいかを悟る必要があったからです。人は必ず死にますがどうすれば死後「浄土(清らかな国)で『仏(大日如来)』に会い」再び人間として地球上に生まれてくる(輪廻転生する)ことが出来るかを知る必要があったからです。

世界最高峰のヒマラヤ山脈から流れ出る水がインド洋に注ぎ、インド洋から蒸発した水が風に乗ってヒマラヤ山脈にぶつかって水(雨)に返る壮大な自然現象の中で「生」を受ければゴータマ・シッダールタの輪廻転生の悟りと同じように悟ろうとした人は沢山居り、その中の代表者がゴータマ・シッダールタだったのだと思います。

彼は「自我の自己管理」が必要である事を人類で初めて悟り、その方法を弟子たちに語りました。残念ながら当時の彼が何を話したのかは記録に残ってはおらず、数百年後に「推測」によって書かれたものが「経典(仏典)」として現在に伝わっています。

「自我の自己管理」とは「自己の存在について深く知り、大自然と調和する修行をし、輪廻転生を、自力によって成し遂げる事」です。この事は現在では当たり前のことですが当時の人はその方法を「悟った人」から聞く必要があったのです。

「経典(仏典)」は直接的にゴータマ・シッダールタとはつながらず、後世の人々でゴータマ・シッダールタと同程度に優れた宗教素質を持つ人が次々と新しく書き起こし且つ書き加えて行きましたのでその文書量は膨大で、どの「経典(仏典)」を選ぶかによって多種多様な「仏教」が発生しました。「肉を食べてはいけない」「異性との性関係を持ってはいけない」と言う厳格な教えから「善人は救われて当たり前、悪人が救われてこそ仏教の価値がある」と言う柔軟な教えまであります。

中国には先ず 鳩摩羅什(クマラジュウ) の漢訳仏典が伝わり  [「後秦」時代の405年 ] 、玄奘三蔵(三蔵法師)が「唐」時代にインドを実地検分(629〜645年)して経典(仏典)をさらに持ち帰りました(750年ころ)。これらの仏典が日本に伝わったのです。
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日本では、「遣唐使」として「唐」に行った比叡山延暦寺の 最澄 や高野山金剛峯寺の 空海 が仏典を持ち帰りました(806年)。日本では以後比叡山延暦寺:天台宗(最澄)から多種多様な宗派が現れました、高野山金剛峯寺:真言宗(空海)からは真言宗のみで分派は無く、その代わり、四国遍路という今日(2015年)に至るまで続く1大宗教イベントが発生しています。


[日本の宗教事情] 日本の神道(シントウ)や仏教は、キリスト教やイスラム教と比較した場合、「宗教・宗派間の戦争」例えば西欧〜西アジアの十字軍(1096から 170年間)   や  西欧の宗教戦争(1816から30年間)は現れず「互いを尊重し共存」する平和な宗教です。私たち日本人はみな平等に 「神(イザナギとイザナミ)の子孫」 。また、仏教内の多種多様な宗派間共存のみならず「神」に関する事柄 [神事(シンジ) ] とも共存しています。日本では「政治」の争いに「宗教」を巻き込む事は織田信長の時代(室町〜安土桃山時代)にはありましたが「教義」を巡る争いではなく、「比叡山仏教僧が武装して政治力を持ち織田信長の政策に反抗した」事が原因で、この事については2012年ころに比叡山延暦寺が宗教者として織田信長の霊に向かって謝罪しています。キリスト教やイスラム教のように「宗教教義をめぐる論争」を政治抗争(戦争)に利用した例はありません。

「平和な宗教」を象徴するのは「天皇」で、天皇は「神道(シントウ)」を代表する「神官」なのです。日本では「仏教諸派」の共存のみではなく、「神」と「仏」も共存しています。仏教には「仏典」がありますが「神道(シントウ)」には「教典」が無く「神話(古事記)」を元にした祝詞(ノリト)があるだけです。天皇は「神道(シントウ)諸派」の中の最も古い神話の「大神アメノミナカヌシノカミ の子 天照大御神アマテラスオオミカミ[女性]」の子孫神主(カンヌシ)として、皇居の「聖なる場所で、人類の幸せを祈る事」をしておられます。天皇になることのできる人間は皇室血族 [皇統コウトウ] の男子(直系でも傍系でもよい)である、この男子が突然死や不産出で存在しなかった場合は妃が臨時の天皇となるかまたは直系の女子が天皇となるがその場合は子孫を残してはならず、生涯を独身で通さねばならない(皇室典範[天皇に関する法律]に書かれているとされています)。
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2021年の日本の皇室はかつてのGHQ占領政策(日本の無力化政策)の悪影響が具現し、いつの間にか皇室が弱体化し、「皇統断絶の危機」に直面しています、私の考えた「打開策(図解案)」はここにありましたが、現在はここにあります
寸考 : 日本における 「権威」 と 「権力」 の柔軟な関係について 

参照文献 : 「誰があなたを護るのか」青山繁晴 著 扶桑社。 
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皇室神道(コウシツシントウ)と神社神道(ジンジャシントウ)
天皇は皇室神道の神主(カンヌシ)であり、伊勢神宮宮司(グウジ)は神社神道の神主(カンヌシ)である

皇室神道(コウシツシントウ)とは、神道の源流であり、中心人物は 天皇 。日本には八百万(ヤオヨロズ)というほどに多数の神が居り、天皇は天照大御神(アマテラスオオミカミ、[最初に現れた神々の代表])の子孫とされ、皇室神道の 神官(神主[カンヌシ])であり、その使命は人民の平安を祈る事で「人民」は日本人に限らない。

神社神道(ジンジャシントウ)とは、神道の最大支流で、天照大御神を除くほとんどすべての 神 のよりどころである 「神社 群」 で成り立ち、「神社」の中心人物は 「宮司(グウジ)」 、その使命は氏子(うじこ、神社に籍を置く国民)の平安を祈る事。日本各地には最低限1県1神社の割合で存在するほどに極めて多数の 「神社」 がある。極めて多数の 「神社」 を統括する立場にある 神社 が 「伊勢神宮(三重県伊勢市に在る)」、そして、伊勢神宮関連事務処理は 神社本庁(民間の宗教法人) が担い、東京都渋谷区代々木に本部がある(Wikipediaを参照し要約)。

なお、最大支流からの分流にも属さないものも 「じんじゃ」 と自称している場合もあるようですが、それらは神社本庁の管理下にはないと思われます。

日本で最終的に「内面化・定着」していると私が思う仏教は「親鸞上人」の「浄土真宗」だと思います、先ほど述べた「善人は救われて当たり前、悪人が救われてこそ仏教の価値がある」と教えた人です。それほどまでに日本の仏教思想は柔軟なのです。
〜〜〜〜〜〜以上は仏教についての寸考、(日本の 神道 にも及びます) でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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BC 334年アレクサンダー大王、{ マケドニア(ギリシャの北隣国)国王 } が、突然近隣諸国を制圧開始、東へ向かってインドまで。
さあさあ(33)し(4)っかりアレクさん 

アレクサンダー最大版図
約16年間にわたって部下とともに東のほうへとインドまで進軍し続ける。 東地中海地方イラク地方イラン地方アフガニスタン・パキスタン、 後日軍事拠点が都市化して「アレクサンドリア・どこどこ」と命名された。例えば、エジプトのアレクサンドリアが最も有名ですが、遠征東端の地方にもアレクサンダー・パクトラ等があります。

北インドのガンダーラ地方にはギリシャ風の顔をした仏像もあります。ヘレニズム(ギリシャ風文化)の影響は日本の飛鳥時代に奈良地方にも伝わっていると聞きます。
大王の死後も多くの部下は祖国に帰らず現地に生活拠点を置き、各地にギリシャ風文化を伝えたようです。

さて、何がアレクサンダーを戦争に次ぐ戦争に駆り立てたのでしょうか? それは、家庭教師アリストテレス(哲学者プラトンの弟子)の教えを実践したかったからです。青年アレクサンダーはアリストテレスに問いかけました、「悲惨な戦争が起きないようにするにはどうすればよいのですか?」。アリストテレスは答えました、
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「国がたくさんあるから戦争になる、沢山の国々をまとめて一つにすれば戦争は起きない」と(註:この会話は森本の想念です、どこの文献にもありません)。

アレクサンダーは「領土を増やすため」ではなく「平和な社会を拡大する」という純粋な気持ちで兵士と寝起きを共にするだけではなく、学者・芸術家・地図製作家も連れていきました、理想の国を作ろうとする想念は力強く純粋だったようです。

しかし、「戦いに勝つ」だけでは「平和な社会を拡大する」事はできません。アレクサンダーの場合は彼の死後20年で獲得領土はまとまりを失います。

2500年後に現れた「モンゴル帝国(13世紀前半〜14世紀後半の約100年間)」はアレクサンダーをはるかにしのぐ「平和な社会を拡大する」戦争をしますが「戦勝後の統治」の方法が優れていたために約100年間もの長い間「拡大した平和な社会」を維持しました。

モンゴル帝国は中国地域では「元国」と名乗っていました、「元国」は日本にまでも「臣下の礼を摂り朝貢国となれ」と使者をよこしましたが日本の鎌倉幕府はその使者を切り殺したために 1216年と1281 の2回、日本に攻めてきました、また、同じ時期にインドネシアのジャワ島にまで遠征しています。攻めてきたモンゴル帝国軍を2回も破った国は世界中で日本国だけです。鎌倉武士の海岸防塁構築と武勇が優れていたのでしょう、日本にとっては運の良いことに「台風」が元国の船を破壊しました(元寇)し、ジャワ島侵攻の場合も「風待ち」で命からがら中国大陸へと引き返していきました。

家庭教師アリストテレス(哲学者プラトンの弟子)のアレクサンダーへの教育はあまりにも理想主義的・非現実的だったと言えるでしょう。しかし、夢を抱き、理想を語り、情熱を燃やしたことの影響は後世に限りない希望を与えたと言えるでしょう。

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【cBC221年〜BC202(19年間)「秦(しん)」
中国大陸の黄河流域地方、「秦(しん)」による統一、春秋戦国時代が終わる。
註 : 画像は2015年のものですが、地勢はほぼ同じなのでここで使いました
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中国地方地勢鳥観図はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
722〜221約500年間の戦国時代が終わる。
「秦」の国王は自らを「始皇帝(最初の皇帝)」と名乗り、以後の中華地方支配体制の基礎を作った、次の通りに。

1)、人民統治理念を「性悪説(法家思想、韓非子)」とし、焚書 坑儒(儒教書を焼却処分し儒家を穴埋めにして殺す)を実行する(註 : ただし、この理念は変遷します、次の「漢」は性善説 [儒家思想] を採用するなど)
2)、度量衡(度は長さ,量は体積,衡は質量)計測方法の統一
3)、貨幣(通貨)の統一
4)、文字の統一
5)、軍法を制定

戦国時代以前の「春秋時代」と合わせると約500年間戦乱が続いた。後半の戦国時代に入ると武器の主力は青銅器から鉄器へと移行、大量の「鉄製武器」を消費した、「鋳造」による鉄器の大量生産(甲冑、槍、鉾、刀)は大量の木材燃料(木炭)を必要とし、黄河流域の木材のほとんど全てを伐採し尽くしたと言われています。

この伐採の影響は現代にまで及びこの地方は「黄土(コウド)地帯」と呼ばれる「植物の無い半砂漠地帯(広さは日本列島と同じくらい)となり、毎年春の偏西風がコウドを撒き上げ、西風に乗ったコウドの微粒子(コウサ、黄砂)は日本はもちろんアメリカ大陸まで届きます、

また、2014年現在では中華人民共和国の工業生産力増大に伴う PM2.5 などの大気汚染物質が黄砂とともに西→東に飛びます。


【cBC202〜AD220年(422年間)「漢(前漢・後漢)
中国大陸、前漢・後漢」による再統一、儒家思想の復活。
【cBC97年司馬遷、「史記」を著す
「史記」は古代から前漢の武帝(BC87)までのおよそ二千数百年に及ぶ皇帝政治の総合的編年史。
彼は「宦官(カンガン、去勢された男子)」だった、

。彼は官吏として最高位にありながら皇帝の怒りにふれる事件に連座したために「去勢(睾丸切除の罰)」を受けた。彼は自殺せずに「史記(歴史書)」を書く決心をしました(私の想像では、中国歴代政権の異常性を暴露したかったのだと思います)。「人権」意識よりも「仕事」意識を優先しています、
「宦官」は単なる「使役される奴隷」ではない精神的複雑性(皇帝への憎悪を自分の生きる活力として利用する心情)に無気味感を持つのです。
この無気味さは現代の中共国(中華人民共和国)での人事・外交の底流をなしていると感じます。
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BC1年、イエス・キリスト誕生キリスト教発生(ユダヤ教とイスラム教では、イエスの事を単なる1予言者であるとしている)【宗教の地球支配現象】が始まる、古代ローマという政治現象の衰退と入れ替わるようにキリスト教という宗教現象が活性化する。ローマはヨーロッパにおいて、政治の場合と同様に宗教でも中心地でありつづけ、封建社会に秩序をもたらした。

〜〜〜〜〜〜キリスト教について私なりの解説をします〜〜〜もっと詳しくはここ     私の信仰告白はここです 〜〜〜〜〜〜〜

1)、なぜキリスト教がローマ帝国終末期に現れ次第にヨーロッパ全域に広がったのか?

それは、神を起源とする「能動愛」(愛されるのを待つのでは無くまず自らが先に相手を愛すると言う愛)が蛮族(ばんぞく、やばんじん)と呼ばれていたゲルマン系等侵入者達を感動させたから。

イエス・キリストの言行録(新約聖書)は当時最高の知的言語であった古代ギリシャ語で書かれており、ギリシャ語文化は蛮族の憧れでした。プラトンやアリストテレスが使ったギリシャ語は論理性に優れており、理路整然と「能動愛」を説く「神父」は蛮族に受け入れられていきました。キリストが出身民族のユダヤ人の裏切りによってローマの役人に殺されてから約30年くらいでキリストや弟子たちの言葉や行動が文章化されて1冊の本としてまとまったのが新約聖書です。

新約聖書は古代イタリア語(ラテン語)に翻訳された事を切っ掛けとして様々な言語に翻訳され、古代ローマ政治が多民族統治のために発明した表音文字(文字化された発音)である「ローマ字」のおかげもあって、世界中に伝わり、1549年にはフランシスコ・ザビエルによって日本語のものも使われました。

強力な軍隊で裏打ちされたローマ帝国の政治は約1000年に及ぶマンネリ(惰性)化によって力を失い、多種類の蛮族の多方面からの侵入を防ぎきれず、自慢の軍用道路の敷石ははがされて家屋の建材などに使われたため寸断され各地で多様な民族が住み着き 1極統一国家は解体されて多極多様国家群となりました。

ヨーロッパ社会は中世紀に入って行くのですが、その社会は野蛮な多種多様社会でした。これら国家群の中では政治的争いが絶えず、野蛮な人々の心は荒れていました。 もはや強力な政治で人々をまとめる現象は見られなくなりました。

そのような混乱の中で「神父」が話す理路整然とした 神の不思議さの話 や 能動愛 の話は人々の心に深くしみとおり社会は次第に安定していったのです(ヨーロッパ封建社会の成立 1066頃〜)

2)、なぜキリスト教が現代においても人々の心をとらえるのか? それは、「原罪」が「洗礼」によって消滅するとされるから。
最初の人間(アダム&イブ)が「神」に逆らったという根源的な罪である「原罪」は「洗礼」によってのみ消えるとされています。
ただし「洗礼」の概念は広く、例えば生まれたばかりの人間にでも「洗礼」を受けさせる(幼児洗礼)事が出来ますし、キリスト教会を全く知らない人でも 「心の底から神を信じる」 ならばその 「信じる行為」 は 「洗礼」 と同じとされ、その人の「原罪」は消えるとされています。
「心の底から神を信じる」 の具体例は次の通りです。
「『キリストという神』 の 母」 は 人間の女性で名は マリア。 マリア は男を知らない娘(処女)のままでキリストを妊娠し、キリストを出産した。「『キリストという神』 の 父」 は 『父なる神』 という 神 である。すなわち、 『父なる神』 が人間の女性を愛し妊娠させた。 『キリストという 神』 は約30年間人間の姿をして地上で成長し、30歳の頃、民族を同じくする仲間に裏切られて殺されたが3日目に再び人間の姿で現れ約1ヶ月間地上に存在したあと姿を消した。次に現れるのは 世の終わり の時、死者を生き返らせて永遠の命を授けてくれる。
この事を信じる人は洗礼を受けたと同じとみなされる。
「原罪」を自覚したにもかかわらず「洗礼」を受けない人間は「神」と接点を持つことが出来ず、場合によっては「原罪」→「道徳上の罪」→「法律上の罪(犯罪)」とますます「罪深い方向(悪の方向)」へと向かう可能性があると信じられています。
しかし、神 は自分が 人間のたましい を作ったことに責任を感じていますのでたとえ罪人のまま たましい となった者でも責任を持って救済します。すなわち 罪深いままで死に 世の終わりまでずーっとさ迷い続けた たましい は神の持つ 「たましい浄化力」 に近づけば近づくほど、いやが上でも罪は薄れて行きついには 神 の懐に受け入れられます。すなわちかつては罪深かった人でも 世の終り にはその たましい は神によって清らかにしてもらい、神と共に、信徒たちと共に永遠の復活の世界(超世界)に向かいます、世の終わり には 神 は罪人の最後の一人まで見捨てずに連れて行くのです。 
〜〜〜〜〜〜以上はキリスト教についての私なりの解説でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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【n57年〜247年 [190年間]倭人(ワジン)の国、(弥生[ヤヨイ]時代初期)、漢委奴国(かんのわのなのくに)、金印 と 卑弥呼 
註 : 
以下に現れる色鮮やかな画像は、盛衰の世界史地図よりいただきました、刻々と変化する地球表面の政治現象を動画で表現する試みを初めて知り、その素晴らしさに感動しています、これを観て世界史を好きになる人が増えると思います。
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57年〜247年 金印・卑弥呼・弥生時代の世界図はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ

「金印」が、後漢国皇帝 ⇒ 漢委奴国王 へと授けられる(57年ころ、倭人の国はすでに在った、その後倭人の国には戦乱が起きた、その戦乱を収束させたのが卑弥呼)、
女帝 卑弥呼(ヒミコ)が倭人の国を治め、都は「邪馬台国(ヤマタイコク)」にあった(57年〜247年)。

推定 : 邪馬台国について、
邪馬台国についはその所在をヤマト(近畿地方)とする説があるが、私は金印の「漢委(かんのな)」から漢の近くの一地方を連想するので、九州北部の現在で言う「博多市」であったと思います。当時の地図からも分かる通りヤマトは倭の僻地ですから。


(最も妥当と思われる諸情報の要約)

1)、金印については
中共国の 後漢書 に「AD57年、倭奴国、貢(みつぎもの)を奉じて朝貢す、光武帝賜うに印授を以ってす」と書かれている。実際の 金印 は大人の親指第1関節ほどの大きさで、刻字についても「倭」ではなく「委」が使われている、すなわち「漢委奴国王」。


2)、女帝 卑弥呼(ヒミコ)については
一般的な教科書では、「魏誌倭人伝」に書かれているとされているが、実際は、三国誌 の中の 魏書 東夷伝 に、おおよそ次の通り記されている 「倭人の邪馬台国の都に女王卑弥呼が居る、卑弥呼は倭人の戦乱を治め、一つの国(175年〜245年)とした」と書かれている。
筆者が想像するに、彼女は175年、25才で戦乱を治め、その後20年間(175〜195)邪馬台国を統治した。その後統治者は5回替わり、247年まで邪馬台国は続き、倭国は弥生文化時代から古墳文化時代へと進んだ。その後の日本簡略史はここに在ります(国の代表者[天皇]は2021年現在に至るまで一貫して 皇統コウトウ という世襲制)


[ 謎: ]卑弥呼の「墓所」は存在しない。国産み神話のイザナミに関する冥界出入り口は「アメノイワト」として存在する(滋賀県米原市弥高 - 平野神社、他多数)にも関わらずより新しい時代の卑弥呼の「墓所」は日本には存在しない、故に、邪馬台国や卑弥呼の存在は三国誌筆者の気まぐれ(創作)で記されたのではないか? 
理由は、かの国には「誇張(嘘)の文化」がある、例えば「白髪三千丈の老人の物語」や「一騎千里を行く豪傑」「三国誌の英雄たちのあまりにも非現実的な能力」など。


70年〜73年、ローマ帝国、マサダの戦いマサダ城(マサダは砦という意味) (画像は Wikipdia より頂きました)。
[(ローマ軍×ユダヤ教徒(キリスト教徒にならなかったユダヤ人)]、約1000人のユダヤ教徒は籠城戦の末負けた、奴隷となるよりは「死」を選び、ここで戦ったほとんどのユダヤ教徒が自害して死んだ 967人のうち、女子供7人が生き残っただけといわれている。ユダヤ教徒はこれ以後ローマ帝国によって迫害され続け世界に離散(ディアスポラ)した。
マサダはイスラエル国内でエルサレムに次ぐ人気の観光地となっており、観光用のロープウェイが整備されている。その歴史的経緯から現在でもなお多くのユダヤ人にとって特別な思い入れのある場所であり、ユダヤ人全滅の悲劇を再び繰り返してはならないという決意から、イスラエル国防軍の入隊式がマサダ頂上で行われ、国家への忠誠を誓う、Wikipdia より引用。

★註 : 森本の注釈30年ごろユダヤ人の住居地を管理するローマ地方官(ピラト)のもとで新興宗教家イエスキリストの処遇を巡って裁判が開かれ、ピラトはイエスキリストがローマに忠実な無罪の人と思っていたので判決を出すのをためらっていたところ、裁判を傍聴していたユダヤ教徒はイエスキリストの教えがあまりにも従来のユダヤ教と異なるので「異端者への死刑判決」を一斉に主張、ピラトは政治家であり宗教家ではないので「お前たちに任せる」との判決を出した。

イエスキリストの死後キリスト教は奇跡的な発展を見せ、70年ころにはユダヤ教徒の数をはるかに上回っていた。ユダヤ教徒はキリスト教を重んじるローマに対して持ち続けていた不満を抑えきれず絶対的な軍事力に勝つためにヤーベ神の名において滅ぼし、再びユダヤ人の国を建てるべく奇跡を信じつつ強力なローマ軍を打ち負かそうとしたがヤーベ神はユダヤ人に奇跡を与えなかった。

キリスト教はマサダ以前にはローマ皇帝によってコロッセオでライオンの餌にされるというような極端な迫害を乗り越えていた。マサダ以後も勢力が強まりついにはローマの国教にまで発展した。自信過剰となったキリスト教徒はピラトの裁判場面を 劇 としてユダヤ人への差別心を代々にわたって伝え続けるのです。すなわちキリスト教徒にとってのユダヤ人は教義的に全くの異端教徒であり続け、ユダヤ人を友達として受け入れる国は西欧世界では皆無となり、居住地の借地に建てたユダヤ教会をよりどころとして世界を流れわたって生きてきました。最終的な迫害は1939年からドイツで始まったユダヤ人絶滅計画でもその異常さに気づく西欧人はいませんでした。ただ、政治に無関心かつ宗教心も薄い人々の中にはうすうす気づいていた人もいました(アンネの日記のオットー・フランクや軍需工場にのオスカー・シンドラー)。残念ながら、神の代理人と言われてきた当時のローマ教皇もドイツの実行しているユダヤ人絶滅計画については耳にすることはありませんでした、彼も潜在意識の底にイエスキリストを死刑へと導いたユダヤ人への悪感情があったのでしょう。

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【c220〜265年(45年間)「魏」「蜀」「呉」
中国大陸、「魏」「蜀」「呉」に分裂。


375年、政治現象の衰退、ゲルマン系諸民族に土地を乗っ取られ始めた。フン族に侵略されたゲルマン人の一派であるゴート族が侵略への恐怖心から南下し、これに連動してゲルマン系諸民族が住みやすい地中海へと民族ぐるみ移動、次々にローマ帝国の領土を奪った。476年西ローマ帝国を乗っ取って滅ぼした。これによってヨーロッパの古代は終わり中世が始まった。

この土地乗っ取りの原因は「民族の大移動」であり、フン族への恐怖、人口爆発、気候変動、疫病の蔓延、高齢化などがゲルマン系諸民族を気候温暖で豊かな地中海へと民族ぐるみ移動させたのである。

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ローマの拡大 古代ローマの勢力拡大と消滅の経過
ローマ共和国誕生、BC509年
対カルタゴ戦争(ポエニ戦争)
(BC264年〜BC146年)
 シチリア島内紛に両国介入が戦争の発端

英雄ハンニバルはカンネーでは勝ったが本拠地カルタゴのザマで待ち伏せられて ローマ軍に負けた
カルタゴは、豊かさという点ではローマよりはる かに上回っていたのですが(重商主義海運強国)でしたが「国防」には無関心で、戦争は「富」で雇った兵隊(傭兵)に任せ、傭兵団を統率していたのが英雄ハンニバルでした。

ハンニバル敗戦後国民はますます厭戦(えんせん、戦争嫌い)的になり、かつ、ローマも「隣国とは戦争しない」事を条件にカルタゴの「主権」を認めていましたが、隣国(ヌミディア)からの執拗な侵略に耐え切れずついに戦いました。この機会を狙っていたかのようにローマはカルタゴを一気に滅ぼします。

ローマの滅ぼし方は徹底したもので、町は、2週間ほどで手際よく焼き払われ、生き残った者はすべて奴隷として売り払われました。町の壁や建物、港は完全に破壊され、一説によると周辺の土地は作物が育たぬようにと塩が撒かれたとも言われます。

現代人の私たちがポエニ戦争から学ぶことができる点は2つあると思います。
1)、内紛に介入する場合は介入国同士で意思を統一する必要がある。
2)、自国の国防(安全保障)に無関心なままでの経済的繁栄はあり得ない。

対マケドニア戦争
(BC216年〜BC146年)
カルタゴの同盟国マケドニアがローマと戦った。
カルタゴ滅亡と同時にマケドニアはローマの属州となる。

=====以下【その後のローマ、時代区分】=====
改革の時代BC133年〜BC121年
内乱の1世紀BC121年〜BC27年
野心家カエサル(シーザー)について
彼は内乱を終息させた(BC49)が強引だったため暗殺された(BC44)、彼は知的好奇心も旺盛で戦記文学を残し、多くの愛人を持った、その中にあの有名なエジプトプトレマイオス朝のクレオパトラ7世もいた。
註 : 約100年後に狂信的(自分は神であると信じていた)で独裁者の 暴君ネロ が現れるがネロはその残忍さと無教養さとで対照的だったので二人の存在は記憶しやすい 

共和制から帝政へ移行BC27年〜

イエス・キリストの刑死(十字架にはりつけ) 31年、ユダヤ国(ローマの属国)の ガリラヤ湖畔 で生まれ育ち エルサレム で刑死。
キリスト誕生年を紀元 プラス・マイナス 0年 とする暦は天文歴で、一般の世界史では使われません、私も天文歴は採用せず西暦を採用します。下図の通り、両者に差異が生じるのはキリスト誕生以前の表記数値です。キリスト誕生年を過ぎれば AD数値は天文歴数値と全く同じです。

  理由については紀元前 Wikipedia   と   西暦 Wikipedia とで確認する事が出来ます。
(寸考) 
BC は  Before Crist(ビフォーキリスト=紀元前) で分かりやすいのですが、AD は Anno Domini(アンノドミニ≠紀元後) なのです。正しいのは AD=(アンノドミニ = 御主人の年)なのだそうで、なかなか分かりにくいですね。

「Anno Domini」はラテン語(古代イタリア語)で、その意味は 「神の子キリスト (御主人)の年」 つまり「キリストの年齢」のようです。
したがって「AD 5」と簡略表記した場合、その意味は 「主イエスキリストが5歳の時」 という意味になるようです。現在は AD 2017 なので「主イエスキリストが2017歳の時」 ということになります。 

BC または AD で表記していまが  AD は省略することが多いです。
また、イエスキリスト誕生年が現在周知されている通りでは無いらしい、「キリスト教百科事典」エンデルレ書店、昭和58(1983)年6月20日 9版、によれば、「紀元前4〜6頃生まれた」と書かれています。

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アジア史簡略表記はここ、他世界と比較のために 

【暴君ネロ】54年〜68年
ネロについて、約100年前に現れたシーザーに匹敵する独裁者だが、無教養・残忍(自分を神であると信じ、キリスト教徒をコロシアムでライオンに食わせるイベントで民衆の人気を得ようとしたなど)だった、その点では教養のあったシーザーとは対照的なので記憶しやすい 
[ 日本列島は このころ(AD57年〜AD247年) 「倭(わ)」の国と呼ばれており、中国大陸の『後漢書』にその記述がある、倭国が貢物(みつぎもの)を持って挨拶に来たので、後漢国王が倭国に 「金印」 を授与したと。押印すると「漢委奴国王」の文字が現れる ] 、筆者は、40才のころに福岡市博物館で金印を見ました、教科書で初めて見た時の印象と大きく違っていました、「極めて小さい」 と感じました。

政教不分離(皇帝=神)、偶像崇拝、の パクス・ロマーナ(ローマによる平定)時代での不幸を最大限にもたらした皇帝、この皇帝を境にパクス・ロマーナは崩壊に向かう。
「神」である自分を否定するキリスト教徒を除外するために

「キリスト教徒がローマに大火災をもたらしている」

としてキリスト教徒を集団で逮捕し、大競技場で火あぶりにする ライオンに食わせる などで殺した、ローマ市街に火災を起こしたのは実はネロだったと言われている。
なお、 「暴君ネロ」 という映画をここに載せました、古代ローマのこの時代の雰囲気を知ることが出来ます 

【新約聖書編纂】100年くらいまでには新約のすべての冊子が編纂された。「神」であるキリストが死後も各所に現れ指導者であるキリストを失って途方に暮れる弟子たちの絶望を、希望に変えた物語、絶望の場面で鮮やかに表れ、自身の体の傷跡を見せて 「声」 で指導したという具体性のある話が多い。
★註(私の感想) : 新約聖書の各「話」には作者名が明記されており、傷口に手を触れさせてもらったという表現には説得力がありますがその場面が実在したかどうかは第三者(例えばユダヤ教徒の具体的な一人)の証言は無いので、「キリスト教徒の信仰を強めるための『作話』である可能性」もあると思います。

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98年〜117年 トラヤヌス帝の時ローマの領土は最大となる
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ 五賢帝時代96年のドミティアヌスの死から、紀元180年
トラヤヌス帝(五賢帝の2番手)の戦い
101年には現在のルーマニアであるダキアを征服
114年にはアルメニアがパルティアに攻められたことにより、
東方のパルティアと争うこととなる。(パルティア戦争)
勝利したローマはメソポタミア地方まで支配することになる。ローマの領土は最大となる。
三世紀の危機政治は側近に任せ、遊びたい放題の皇帝が現れた
キリスト教大弾圧250年〜304年、帝国を4分割、地方分権性で危機を乗り切ろうとした、キリスト教にも、ササン朝ペルシャにも強気だった。が一時的な効果があっただけ。

====以上【その後のローマ、時代区分】でした=====
古代ローマ(含、東ローマ)という政治現象が 1453年 に完全消滅するまでの痕跡と内面化された宗教現象の生きざまは以下の検索表の通りです 
330年、 キリスト教信仰の容認 392年、キリスト教を国教に昇格 395年、ローマの東西分裂 395年、 西ローマはミラノが首都、東ローマ(ビザンツ帝国)はコンスタンティノープルが首都 476年、西ローマ帝国の滅亡

宗教はカトリック教として存続しその後のヨーロッパの精神的拠り所となった
1071年、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となった、第1回十字軍派遣要請 1096年、東ローマ帝国皇帝はローマ教会に助けを求め、これが第1回十字軍を発生させた 1270年頃には終わっていた十字軍の派遣はがその後も臨時に( 1389 コソボ・ニコポリス戦など)召集派遣された 1453年、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)滅亡、オスマン帝国領内で孤立、十字軍派遣もなく滅びた 1453年まで続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のキリスト教は、ギリシャ正教として存続し、ロシアへと伝わった。

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【c265〜420年((55年間))西晋・東晋・前秦
中国、「西晋・東晋・前秦」等の分裂国家の時代。
【c405年、仏教経典の中国語への翻訳、仏教盛んとなる鳩摩羅什(クマラジュウ)、仏教経典の中国語への翻訳、仏教盛んとなる
キリスト教信仰の容認と遷都、再統一330年、帝国を再統一、都をコンスタンチノ−プルに移す。このころからゲルマン民族が帝国の国境付近に移動・定住しはじめ、やがて帝国内部に侵入し始める。ゲルマン民族の侵入激しくなる
キリスト教を国教に昇格392年、
ローマの東西分裂395年、西ローマはミラノを首都、都市の有力者は税金が高いから地方に移り、広大な土地や人民を私有していくようになりローマの支配から逃れる傾向が強まる。 東ローマの首都はコンスタンチノープル
【c420〜589(169年間)宋・北魏・北周
中国、「宋・北魏・北周」等による小国家乱立
【c445年頃「道教」「北魏」において「道教」、漢民族の土着的・伝統的な信仰と儒家思想、法家思想、仏教、が混合したもの、修行によって「不老不死」の「仙人」になる事を究極の目的とする。
【c485年「北魏」において「均田法(土地公有制)」、「北魏」において「均田法(土地公有制)」実施。
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【n仁徳天皇(313〜395): 徹底的に、民衆に寄り添う「仁政」ゆえに、民衆によって「神」のごとくに尊敬され、あがめられた、「皇室の 権威 の発生元」となった人である [彼の死後 仁徳天皇陵 という巨大な古墳が広大な田園地帯に造られた] 、

仁徳天皇は 「民衆のかまどの煙」 を判断基準として6年間の 無税政策」を取り、民衆とともに凶作を乗り切り、大阪湾東岸の広大な平原(現在の大阪府堺市堺区大仙町)を水田化し大量の 米 を生産、朝鮮半島の人々にまで尊敬された。
これを契機に「天皇家」の「やさしさの権威」は強力に民衆を引き付けるようになります。
その後も「天皇家」の仁政は続き、政治権力者達をも慕い寄らせたため、大化の改新事件(645)では「勝者」となり、「政治権力者」としても日本国代表者となりました。以後の「天皇家」は「天照大神アマテラスオオミカミ」の子孫として、「やさしさの権威」として日本人の心のよりどころとなり続け、2021年現在に至るも日本国代表者です。

日本人は「万系一世(永久に一つの系統が続くこと)」の治世と呼んでいます、この統治方法を取る国は世界で日本だけです。
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370年ころ 古墳時代(日本)の世界図、東の端には 日本(倭)が現れていますの画像はここにありましたが、現在はここにあります

※※※※※※※※※ *検索文言一覧表はここ


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402年、「宗教」の権威者である「ローマ教会・教皇、(2015年現在のカトリック教会)」が現れる、以後ヨーロッパ中世世界の宗教現象を活発化させる。(註:1054年、東方教会(ギリシャ正教会)を派生、 1534年、イギリス国教会を派生[国王の離婚が認められなかったため]、16世紀 宗教戦争  ルター、カルヴァンらのプロテスタント教会諸派を派生)さらに、1589年、ロシア正教モスクワ総主教座を派生、「・・・正教」の・・・は政治的な国家名、ローマ教皇に相当する最高権威者は居ない、各正教は互いに対等。
476年西ローマ帝国滅亡(ゲルマン人の傭兵隊長がイタリア王を名乗る)、東ローマ帝国は長く続く(1453年まで)が地中海における覇権は失ったままだった、東ローマ帝国が保った宗教現象はギリシャ正教として存続し、ロシアへと伝わった、ギリシャ正教に「宗教改革」はなかったまま2018 至っている。
西ローマ帝国の 滅亡476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより亡ぼされた。東ローマはビザンツ帝国として1453年まで続いた。オドアケルはその後 「イタリア王」 と自称した。
註 : 画像等の出典は 「わかりやすい 古代ローマの歴史」 http://wWW12.plala.or.jp/rekisi/makedonia.html。

ゲルマン系民族大移動
註: 画像はヤフー画像集から頂きました。

ゲルマン人はインド=ヨーロッパ系のゲルマン語を話す、諸々の部族の総称でもともとバルト海(スウェーデンやポーランドに面する海)を原住としていた。紀元ゼロ年頃にはローマ帝国と、帝国の北部で平和裏に接触していた。

ゴート人などの東ゲルマン人は、ローマ人などに同化されたが、後発の西ゲルマン人は、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。ヨーロッパ中世の略奪者として有名なヴァイキングもゲルマン系である。

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【c490年頃「纏足文化」発生中国で、「纏足文化(女性の足を変形させる文化)」発生、「南斉」(479〜502年)から女性の足に「纏足」という足の整形(変形)が施されるようになった。
註 : 下の画像は Wikipedia、画像集よりいただきました、書き込み文は 主として Wikipedia を参照させていただきました。

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490年ころ 「纏足文化」 於中国 発生
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
幼児期より足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布を巻き強く縛ることで足の整形(変形)を行うのである。以後1918年頃(WW1終戦のころ)まで〔約1400年間〕行われた。
「清」の時代(1644〜1911年)には不健康かつ不衛生でもあることから皇帝が度々禁止令を発したが、既に浸透した文化であったために効果は無かった。辛亥革命(1911年) 以降急速に行われなくなった。

纏足は男性の性欲を駆り立てるためのものであり、女性は夫や恋人以外の男性には纏足を決して見せることはなかった

小さい足で弱々しく歩く姿が男性に好まれ、美しい靴を纏足の女性に履かせ、その美しさや歩き方などの仕草を楽しんだようである、また、つま先立つ姿勢は太ももの筋肉につながる女性器の筋肉も鍛えるので「性的に優れた能力」が生まれるとされた。

纏足をしている女性は家から自力で遠くに行くことができないため、主人の支配下に置きやすかった
「あの時代は纏足をしていないと『大足女』と言われて結婚できなかった」との昔話が残されている。
(寸考、人権と近代化について、中国に根付く人権無視の文化) 
1)、「宦官」と言い「纏足」と言い、中国という大陸地方の国は古代から近代に至るまでずーっと「人権無視」の文化(宦官、纏足)が根付いてきました(1911辛亥革命まで)。
2)、この国(中国大陸地方に次々と現れた国)は自らの力で「人権無視」に気づかないままで国際的近代化(万国公法漢訳の機会)に出会ったのです、しかし、中国の知識人はせっかくの機会を近代化へと生かしませんでした、「中華の国は世界で最も優れた国」との意識が強く、万国公法 を無視しました。
3)、古代ローマにも「ライオンの人食い」や「剣士同士の殺し合い」「貞操帯を男奴隷に施す」「女奴隷を素裸にして牛馬の競り市にかけるように競売する」などの人権無視の歴史を経ていますが「神」概念を持つことによってこのような人権無視行為を終わりにしました。
4)、 日本の場合も、古来、社会の最低辺階級は「奴婢(ぬひ)」と呼ばれて差別はされていましたが「奴婢(ぬひ)の男性」が「宦官」のように去勢されたり、「身分の高い女性」が「纏足」にされる事は無い状態で、庶民は国際的近代化(ペリーの黒船来航)に出会って時代の変化を敏感に感じ、びっくり仰天しています、それ以前に「万国公法」は日本の知識人達に衝撃的な印象を与えました。
5)、中国が近代化に遅れた一つの大きな原因は、「宦官」と「纏足」だと思います、多分ほかにも沢山の原因がありそうで、この「原因」を全て解明すれば2015年現在のこの国の「不可解さ」を解明出来るし、この国の今後の在り方を発見することにつながると思います。
 

【n438年〜538年 [100年間]、倭人(ワジン)の国(古墳時代後期)、仏教が百済から 倭 へ伝来、 
倭 の文化度は高まり、徐々に自国を 日本(ひのいずる国、ひのもと)と呼称するようになる。

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438〜538年 倭人(ワジン)の国(古墳時代後期)、仏教が百済から 倭 へ伝来の画像はここにありましたが、現在はここにあります

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【c589〜618年(29年間)「冊封体制(朝貢体制)」の開始
中国大陸地方、「隋」の文帝が「冊封体制」を敷き周辺諸国に臣下の礼を取らせる方法で支配し始める、この体制は1911年に「清国」が滅びるまで続く。
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【n593年〜710年 [117年間]日本国飛鳥時代(あすかじだい)、首都は、現在の奈良県高市郡明日香(アスカ)村
【n604年聖徳太子、(厩戸皇子、ウマヤドノオウジ)(中継ぎ女性天皇の [推古天皇] の実務を執行した) 大化の改新(645)の下準備を整えた後に死去
内政 : 「和をもって尊しとなせ」で始まり、「重要課題は 議論 せよ」で終わる17条憲法発布外交 : 遣隋使「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」の国書は隋の皇帝を怒らせたが以後隋から多くを学ぶ。日本簡略史はここ(国の代表者[天皇]は2021年現在に至るまで一貫して 皇統コウトウ という世襲制)

※、日本国がかかわった戦争
 対戦国
戦争名 
勝敗 侵略か否か 説明 
663年 
白村江 
敗 否(援軍) 百済(くだら)国(朝鮮半島地域)への援軍、唐国(中国大陸地域)に攻め入る、百済は唐により滅ぼされ、多くの人が日本に逃げて来て援軍を求めた、唐の巨大船に木の葉のように小さな船で立ち向かい完敗、以後日本国は唐国から諸事万端を学ぶ(遣唐使) 
1274年
1281年 
元寇(1回目)
元寇(2回目) 
勝 否 突然元国(中国大陸地域)の大軍に襲われる、1回目は約1ヶ月間博多湾に滞在して内陸まで侵入し、日本に大勝していたにも関わらず突然引き上げる、2回目は暴風雨のため元軍全滅、元国には高麗国(朝鮮半島地域)が属国として服従していたので元寇にも高麗国軍が「先鋒」として参加していた 
1592〜98年 朝鮮
朝鮮出兵
 
未決 侵略 イスパニアからの侵略防止、イスパニアが明国(中国大陸地域)を征服する前に日本が明国を征服しようとして先ず李氏朝鮮国を取ろうとした、日本軍の強さは圧倒的で朝鮮半島北辺(中国地域北東部)でヌルハチ(明朝を倒し清朝を興した人物)とも交戦している。16世紀世界最大の国際戦争 
1894〜95年 
日清
 
勝 否 李氏朝鮮国内乱に際し李氏朝鮮国を支配する清国(中国大陸地域)からの攻撃を受け応戦した 
1904〜05年 ロシア
日ロ
 
勝 否 ロシア南下侵略への大規模自衛戦、旅順要塞を陥落させ、バルチック艦隊(サンクトペテルブルグが母港)を壊滅させたが日本国は国力が衰弱した 
1914年 ドイツ
日独
 
勝 否 第1次世界大戦(WW1)に日本も参戦しドイツとだけ戦った。日本国は近代化に際しさんざん御世話になった国であるドイツに宣戦布告、地理的に日本に近いドイツ占領地を奪った 
1918年 ソ連
日ソ
 
未決 否 シベリア出兵、ロシア革命中、チェコ人捕虜救出が目的だったが、共産主義革命伝染防止へと目的が変質 
1931年 中華民国
日中
(満州事変、柳条湖事件) 
勝 否 
自己防衛 
南満州鉄道(満鉄)を日本軍が破壊しておきながら中華民国軍のせいにした。目的は、地方軍閥が支配する「無法地帯」である満州地方を安定化させる事にあった。当初は 「南満州及び東部内蒙古 に居住する日本人の安全を守る」と言う自己保存の要素が強かったがこの地域の治安の悪さは軍事侵略を必要とし、日本は「満州国(植民地)」を作った、この地域は安定し中国地方各地からやすらぎを求めての移住により繁栄した。しかし「満州国」の経営は赤字だった。やがて日本は「満州国」を見捨て石油等資源豊富な南アジアへと転進、欧米宗主国各国と「植民地争奪戦」を開始、これが太平洋戦争(日本国内呼称は「大東亜戦争」)の開始となった
1937〜1940年 中華民国
日中
(盧溝橋事件)

満州国建国 

戦闘には勝っていたが、国際連盟で満州国不承認 
否 
大東亜共栄圏作戦中
日本軍の熱河侵攻(A図) 々(B図)以降のにらみ合いが顕在化、中華民国・中国共産党政府・日本国の三つ巴戦。
中国共産党政府軍が夜間に日本軍・中華民国軍双方に発砲、日本軍は中華民国軍との侵略戦争に引きずり込まれ広大な中国地方を転戦、熱河侵攻という挑発的侵略が本格的侵略となり、戦力を浪費した 
1941〜1945年 連合国
大東亜戦争(第2次世界大戦、(WW2)の後半) 
負、専守防衛戦に負ける 
大東亜共栄圏構想の不成功(特亜三国の非協力による) 
アメリカとの2国間協議失敗、石油不足打開政治の破たん(ABD包囲網)が直接原因アメリカの建国以来続く西進侵略主義人種差別主義(日本人を黒人同様に軽蔑)が遠因、日本国はイタリア・ドイツと3国同盟を結んでアメリカ等連合国と戦ったが、3国のうち最後まで「政府」が残存し降伏文書調印式によって戦争にけじめをつけたのは日本国だけだった、
日本は「無条件降伏」したと理解する人が多いがそれは間違いです、日本国政府は「天皇と国体の存続」と言う条件と引き換えに日本国軍が降伏したのです。
日本は 戦(いくさ)には米英に負けたが、南アジア西欧植民地諸国は日本のおかげで、独立 を「戦い取った(9カ国)除特亜三国」

特亜三国 とは @中国地域(国民・共産 内戦中)、A韓国、B北朝鮮 
<註 : 「侵略の定義」> 
侵略 とは「他国の意思に反して軍隊を送り込み、人民を殺害し、大幅に主権を制限する事」2015,4,11 毎日新聞 北岡伸一(談話)
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【i610年、アラビア半島、マホメット(ムハンマド)イスラム(サラセン)教の誕生。聖地はメッカ。

〜〜〜〜〜〜〜以下は 挿話29 です、イスラム教についての 寸考 しました〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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610年 アラビア半島、マホメット(ムハンマド)、イスラム(サラセン)教の誕生の画像 はここにありましたが、現在はここにあります

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★何故イスラム教が最後に発生したのか? (世界3大宗教、仏教、キリスト教、イスラム教の中でイスラム教が最も遅く発生)、★十字軍との関連も含めて考察しました。

1)、宗教の「最後の使命、すなわち(平等)
それは、仏教、キリスト教をもってしても「経済的な繁栄による堕落」から人を救う事が出来なかったためであると思います。イスラム教は「繁栄による堕落」からの救い、宗教の「最後の使命すなわち(平等)」を高く掲げて登場しました(イスラーム又はイスラムという言葉は万国共通用語で「宗教」という意味です、ですから イスラム教 と言った時その意味は「宗教教」となります、これでは意味不明となりますので「イスラム教」と言っているのです )。
2)、宗教の「最初の使命、すなわち自我の自己管理
宗教の「最初の使命」は仏教が掲げ、それは「自我の自己管理」でした。
3)、宗教の「2番目の使命、すなわち、能動愛
「2番目の使命」はキリスト教が掲げ、それは「能動愛」でした。

そして、「最後の使命」すなわち「繁栄による堕落」からの救いすなわち(平等)をイスラム教が掲げたのです。私達現代人にもこの「最後の使命すなわち(平等)」はどんな宗教の人にも又無宗教を公言しているにも深化の程度に差はあるとしても内面化されているのです。

現代の主として「先進国の人」は「繁栄による堕落」に陥っています。このままでは私達に未来は無いでしょう。

宗教的な救いは人格の深いところで作用します。宗教的に我々を救うのはイスラム教が掲げた「最後の使命すなわち(平等)」かもしれません。「最後の使命すなわち(平等)」をより深く内面化する方向に人類進化の矢印は向いているのではないかと思っています。


(補足)
イスラム教の教祖ムハンマド(マホメット)はアラビア半島の裕福な商人の家で育ちました、当時のアラビア商人たちが信じていた宗教は「ユダヤ教」でした。「ユダヤ教」では商人たちの人格の深い悩みを救う事は出来ませんでした。「ユダヤ教」を土台として出来た「キリスト教」は北方からの野蛮人(ゲルマン人)に「能動愛」を教えるには有効でしたが豊かなアラビア商人の人挌を深く癒す力はありませんでした。当時のアラビア半島商業地は諸々の商品流通で世界中でどこよりも豊かでした(東南アジアからの商品、地中海沿岸地方からの商品、アフリカ大陸東海岸からの商品及びユーラシア大陸を南下してきた商品の中継地)。

例えば、シバ国(アラビア半島南端、現在のイエメン、「ソロモン(ユダヤの王)とシバの女王」の話で有名)、は約1600年間に亘って乳香などの香料産出国として栄えました、

BC950年くらいの時、シバの女王は1500キロを旅してユダヤ教徒のソロモン王に会いに来て「民を幸せにする知恵」を得るための方法を尋ねましたが「自分自身を幸せにする事と民をしあわせにする事」との両立の困難を悟りつつ帰って行ったようです。しかし、シバの女王がソロモン王によって「偶像崇拝(自分で 神を作り拝む)」段階の宗教からの卒業は出来たようです。ユダヤ教徒が古代ローマによって追放されたあとユダヤ教を基礎にしてキリスト教が起こりましたが豊かなアラビア商人の深い悩みをキリスト教で癒す事は出来ませんでした。

マホメット(ムハンマド)はユダヤ教を拠り所とし、自分を旧約聖書で権威付けつつ新しい宗教を起こし(610年)、「豊かでありながら心が満たされない」商人たちに「平等」を説きました。先ず手始めに「儀式での乳香(仏教での線香)」の使用禁止を打ち出し、富裕層からの激しい抵抗を受けながらも「乳香の使用禁止」を実現させるとともに富の不平等を無くし、商人たちの心を癒したのです。

「乳香の使用禁止」はアラジンのランプ(香炉)をも不要としました。商人たちは取り扱う商品の簡素化や財産の寄付と引き換えに心の平安(平等)を得たのです。シバ国のように「滅亡」した国もありました。
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(追記1)
【iサラセンとは、 「7世紀に形成されたサラセン(サラセンと言う呼び名は「中世紀のイスラム教徒」を意味する、なお、ムスリムはイスラムのアラビア語表音です)帝国は、イスラム教徒であれば国王・首長の一族でも一般国民でも平等に支配される国家体制をめざした」と 2014,10,4 毎日新聞 経済観測 大武健一郎 に書かれています。同氏は 2014,11,15 の同じコラムでもマレーシア国のイスラムとサウジアラビア国のイスラムを比較し、マレーシア国では貧しい人を手厚く保護しているのに反し、サウジアラビア国では王族に権力が集中していると指摘し、現代におけるイスラムの変質はイスラム発祥の地に於いて見られる事を指摘しています。

(追記2、サラセン・イスラム帝国)
註 : 私は発展期を「サラセン帝国」と呼び、成熟期を「イスラム帝国」と呼んでいます。
【iサラセン帝国とは、622〜750年(128年間)、下図に従えば、中心地が [メディナ] のサラセン朝(622〜661,39年間)、 [ダマスカス] のウマイヤ朝(661〜750,89年間)、合計128年間の時代を意味します。
【iイスラム帝国とは、中心地が [バグダード] の750〜1258年(508年間)、を意味します、下記(註 :)によれば、この時期(508年間)はペルシャ文化が発達、数学(ゼロ概念の深化普遍化、0.13534 やマイナス数の概念形成が可能、エジプト系図形数学であるギリシャ数学[幾何学]からの卒業)、天文学、化学 等(青いペルシャガラスなど)が発達、古代ギリシャ文化を継承発展させて後世に伝えた、下記(追記3)を参照してください。

註 : 出典は 世界史年表・地図 吉川弘文館


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註 : 「イスラム教について」によれば、サラセン帝国を拡大解釈し、次の通りに述べておられます。
 七世紀中頃から一三世紀中頃にかけて、アジア、アフリカ、南ヨーロッパの広大な地域を支配したイスラム教徒の帝国。元首はマホメットの後継者、カリフ。東方ではメディナに都した正統カリフの(サラセン朝)時代(六三二〜六六一〔29年間〕)を経て、ダマスカスに都し、ビザンツ(東ローマ)文化の影響の濃いウマイヤ朝(六六一〜七五〇〔89年間〕)、バグダードに都し、ペルシア文化色豊かな アッバース朝(東カリフ、七五〇〜一二五八〔508年間〕)と続いた。一〇世紀以降地方分権的傾向が強まり、一六世紀にはオスマン朝、サファビー朝、ムガル帝国の三帝国となった。
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(追記3)
【iサラセン文化とは、 ギリシア・ローマ文化やイラン(サラセン)・インド文化を吸収し中世のサラセン帝国で発展した国際的なイスラム文化。数学、天文学、化学、医学、地理学、歴史学、建築などに独自性を発揮(ゼロの概念をアラビア数字によって実用化)西欧ルネッサンスに大きな影響を与えた

(追記4)
【iサラセンと十字軍、戦闘の模様や歴史的推移、一神教同士の戦いの特殊性等の外見的概要はリンク先で述べますがここではサラセン人社会の充実した社会福祉制度を述べます、
サラセン軍兵士が 「戦士」 として極めて優秀であったのは戦死しても 「妻子」 の面倒はサラセン社会が見てくれたからです。戦死者の妻子は生きて帰った戦士に引き取られたのです、戦士でなくても男子は4人まで妻を持つことが出来ましたから。

一方、十字軍は一夫一婦制でしたから 「傷を負わないように」 重武装して生きて帰る必要があり、「死を恐れぬ戦闘」 は出来ませんでした。サラセン人は戦闘で死んだり負傷した弱者に優しい「平等」な精神風土を持っていたので死を恐れずに戦うことが出来ましたし、長年月(770年間)安定社会を維持しました、上記(追記3)、一方、十字軍は「戦闘で負けない」事に没頭するあまり、やっと生き残って帰国しても孤児の多い社会は不安定で、古代ギリシャから受け継いだ 「知を愛する」 精神性を高める事は出来ませんでした。

しかし、強かったサラセン人も 「コーラン(マホメットの教本)か剣か」 の政教一致にのめり込んだ後は宗教現象優位の社会が生まれ、戦闘情熱が衰え、政治現象が宗教現象に飲み込まれていき、キリスト教徒国の「領土奪還戦」に負けるようになってゆきます。

十字軍(キリスト教徒 [カトリック派] 軍)の政治的劣勢逆転の歴史的分岐点はグラナダ地方にあるアルハンブラ宮殿奪還(1492)でした、西洋史ではレコンキスタ(征服されていた状態を逆転する事)と言われています、地理的にはキリスト教徒の領土だったイベリア半島の奪還の事を言います、イベリア半島をイスラム教徒から奪い返したイスパニア王国は教皇からも褒められてキリスト教徒としての自信に満ちあふれた勢いを背に、先ずイベリア半島統一に(ポルトガルとの同君連合へ)次に二国そろって 「海へ」 と向けたのです。これが成功し、人類を「大航海時代」へと導きました。西欧諸国はイスパニア・ポルトガルを見習って次々と地球を探検、そてにプロテスタントのオランダ、イギリスも加わり、やがて植民地獲得戦争時代に突入、アルマダ(艦船)同士が海上で大砲を打ち合う戦法が現代へと続いています。

あれほど戦(いくさ)に勢いのあったイスラム教諸国の影は急速に薄くなり、「イスラム教信仰」の内面化を強めてゆき、政治現象の世界からは「引退」し、今日に至っています(2000年現在ではあまりにも強度な政治的劣勢に不満を募らせ自暴自棄に走ったイスラム過激派が世界各地で暴動を起こしています)。

2014年の現在でもイスラム教本来の宗教的「平等」が人類の未来を切り開くには至っていません。しかし、政治的に「平等」を目指したソ連が歴史から消え去り(1991)、その後に現れた混沌とした政治情勢の収束後に、宗教的に「平等」を目指すイスラム教が人類の心を揺さぶる時が来る可能性は有ります。
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〜〜〜〜〜〜〜〜以上が 挿話29 で、イスラム教についての 寸考 でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【c618年隋国の煬帝暗殺、隋国、29年間だけ存在
中国大陸地方、隋国の煬帝殺され、隋国は滅ぶ

【c618〜907年〔289年間〕、唐国 興る
中国大陸地方、唐国 興る、新律令を公布し、均田法(土地の国有化法)、租庸調法(「租」は穀物納税、「庸」は労力納税、「調」は繊維製品納税)を定める。
622〜750年〔128年間〕サラセン帝国

、628年ゼロの概念発生、於インド、インド中央部、インダス河左岸高原地方、ブラーマグプタの著書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』がほぼ現代と同じ定義を行なう、その後アラビア数学に伝わり(バグダッド(イラク)845年、アル=クワーリズミー)次に中世イタリア(ラテン語)→イタリアのルネッサンス(1400〜1500)と受け継がれヨーロッパで諸科学を発達させる原因となった。ゼロの概念から発達した ★「科学」はヨーロッパにおいて、宗教現象の衰退と入れ替わるようにして活性化し新しい世界へと導き、地球全体へと拡散した
確認 : 数学 と 幾何学
★、数学でのアラビア数字は ゼロの概念 が基本、0.13534 の概念形成が可能、現代のコンピューター数学の基礎となっている。
★、幾何学での「円の分割」は「面積」にとらわれる概念で、円の角度は、60度 が基本。
エジプトでナイル川の毎年の洪水のあと、農地を分割するには便利だったがギリシャ幾何学(数学)からは未来志向の「芯芽⇒新葉」は生じなかった。
★、日本や中国では「お金の計算」「政治の時代区分」という実利が重視されたため抽象数学はごく少数の「学者の趣味」の域を脱しなかった。しかし、ソロバン(算盤)の発達は庶民に計算技術を普及させ、抽象数学(暗算)の能力を発達させていた。日本や中国の数学は「ゼロ」を基準とせず「1」を基準とし、年号表記には「1」を基準とする方が実利的だった。
ツルカメ算は方眼紙をイメージするという暗算
「ツルとカメが合わせて9いて、足の合計本数が28本です。ツルは何羽いますか?   答え ツルは4羽」、しかし、「合わせて10いて」と問われた場合は解が得られない、これを無理やり解こうとするにはゼロを起点とする数列概念(小数点の世界)が必要となる、これが発展してマイナス数という架空の暗算の世界が現れたのでしょう 


〜〜〜〜〜以下はヤフー知恵袋より頂きました〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ゼロの概念を簡単に説明してください。
質問者 pompei_ad79さん 2009/5/2712:00:59

ベストアンサーに選ばれた回答 pure_white_liarさん 編集あり2009/5/2714:02:08

ローマ数字に見られるように、T、U、Vがあるのに0の表記がないように インドに発見されるまで「ゼロの概念」はありませんでした。 もっとも、ゼロという「記号」は紀元前のバビロニア(60進法で有名ですね)で 満月の表などから「あった」ともいえます。 インド文明はもとより、その他の文明でも、それは確認されています。

しかしながら「数」という計算形式に着目したのは実にグプタ朝(?バルダーナ朝)のインド(628年)であって 「ゼロの概念」は「位置取り記数法」との重要性とセットで考えなければなりません。 「足し算的な記数法」(記録数字)ではなく 「ゼロという表記」によって「計算数字」が可能となるからです。 これなくしては特に加法や減法でなく乗法・除法は困難を極めます。
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ここは歴史カテゴリなので、当時のインドの数学者ブラーマグプタの書物に

《いかなる数にゼロを乗じても結果は常にゼロであること》 《いかなる数にゼロを加減しても、その値に変化が起こらないこと》 つまり、 a×0=0、a+0=a、a−0=a という表現可能な「ゼロの根本的性質」が明示されています。 このような性質が現代における「筆算」などで顕著におわかりになるのではないでしょうか?

結局のところ「ゼロの概念」とは「何もない序数(ものの順序を表す数)としての基数」 [2進数では2(0と1)、10進数では10(0〜9)]が、究極の本質です。

その後、アラビアに伝わったことによって9世紀には フワーリズミー(世界史的重要人物)によって「代数学」が劇的な進歩を遂げました。

当時のイスラム圏が学術的に中世ヨーロッパより上だったというのも、 この意味においては間違いありません。
註 : ()や[]は森本が入れました
〜〜〜〜〜以上はヤフー知恵袋より頂きました〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【n650年大化の改新
蘇我氏滅ぶ。


【i650年クルアーン(コーラン)編纂、 ムハンマド(マホメット)の「自分は旧約聖書に於いて予言されていた通りの預言者である」の主張が文章化された。ムハンマドの宗教改革の主目的「平等」はアラビア半島全域に広まっていた、裕福なものは貧しいもに施しをせねばならない、乳香(にゅうこう)を香炉でいぶす儀式は贅沢なので廃止するなどの改革は当初社会を混乱させ、戦争まで起きたがほぼこの年くらいに社会は安定した。

【n663年白村江の戦い
朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭(日本)国・百済遺臣(百済国が唐に戦争で負けて、その生き残りが倭国に逃げて来ていた)の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦、倭国側大敗、以後「唐」の偉大さを知る。以後倭国は唐から多くを学び(国防体制・政治体制)「日本」へと脱皮。遣唐使の開始。

【n672年壬申の乱
日本古代最大の内乱(天皇家のお家騒動)、白村江の戦いで苦役を強いられた日本国の民衆は不満を持っていた。正統帝の 大海人帝 に反旗を翻した地方豪族を味方につけた弟帝(大友皇子)が勝ち、大化の改新で出来た都をもとに戻した (近江紫香楽宮 ⇒ 飛鳥宮[奈良県明日香村]) 。

【n710年〜794年 [84年間]奈良時代、天平文化、首都は現在の奈良市明日香村
(甲賀市信楽町(紫香楽宮)もこの時期、短期間日本の首都だった)
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710年〜794年 [84年間]、奈良時代(天平文化)の地球位置画像
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
【n712年、古事記 の編纂成る、日本、太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。上・中・下の3巻。内容は天地開闢 (日本神話、BC654ころ)から推古天皇の記事を記述する。
750〜1258年〔508年間〕イスラム帝国、サラセン帝国からの連続性についてはここにあります

【n794〜1191年〔397年間〕平安時代約400年間の安定した時代、朝廷文化起きる、ひらがな、カタカナの発明、源氏物語、枕草子、鳥獣人物戯画、唐文化の吸収・消化。唐の衰退と同時に文化の独自性発揮(国風文化)


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ノルマン人(バイキング) の大移動、ユーラシア大陸北西端から東西南方向へ、
850年頃に始まり〜1100年頃終わる(250年間)
860年頃】ロシア史開始ロシア通史へ、ノブゴロド国が最初の国として伝承されている
小舟での命がけの移動 ノルマン人の大移動、海も河川も利用した移動の時代、

バキング(ノルマン人)が頑丈な小船で、死に物狂いで大移動、彼らは強く、ヨーロッパ各地で食糧・財産・土地を奪いつつ移動しましたが、多くはキリスト教に改宗し「強い臣下」としてその地の国王に仕え、定着して行きした。

中にはイングランドのようにフランス国内に王から与えられた領地(公国)を足掛かりにして「国家」そのものを「征服」し、そこの「王」となった例(イングランド)もあります。

註 : この画像はヤフー画像集から頂きました。
寸考ノルマン人はなぜ海へ出たのか? (故郷を捨てたのか?) 
居住地が北方で土地は広くても一定の人口だけしか生きて行けない、全員が飢えて死ぬよりはあらん限りの知恵を振り絞って軽くて頑丈な船を作り「若くて強い者」が外へ出たのだと思います、本能的な自信があったのだと思います、

日本でも中国沿岸を略奪して回った「倭寇」が室町時代末期の戦国時代乱世(1500年ころ)に出ました、この場合は「戦乱の敗残者の食糧略奪」だったのに比しノルマン人の一斉移動の場合は「若い強者」が沿岸庶民から食料を奪うだけではなく、征服したり家来になったりの点で日本の倭寇とは違います。
生きるか死ぬかという瀬戸際を生きるのは「お互いさま」というおおらかさが侵略される側にもする側にもあって心が通じたので各地に根付き子孫の繁栄を見たのだと思いますがいかがでしょうか? 

註 : 下の画像の出典は 「バイキングの遠征ルート」です。
バイキング(ノルマン人)は3種類に分類出来、デンマーク系ノルマン人が最もヨーロッパへの影響力が強かったことが分かります、デンマーク系ノルマン人はドーバー海峡やジブラルタル海峡を自由に行き来し地中海東北端のアンティオキアに至っています、アンティオキアへの侵攻は十字軍の始まりでもありました。
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9世紀〜12世紀 ノルマン人の大移動図 はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ

下図は中世ヨーロッパ開始時期の政治現象図であると同時に、カスティリア王国とアラゴン王国が互いに協力してイスラム勢力から領土を取り返す活動(レコンキスタ)実行中の時期を表しています。

すなわち、ヨーロッパの最西端がイスラム勢力に侵略(711〜)・征服された後、722年に、初めての反撃に反撃成功、以後1492年のアルハンブラ宮殿陥落(無血開城)までの「レコンキスタ活動期間」はなんと770年間もの長期間(1492-722=770)だったのです。
アルハンブラ宮殿陥落のあと、カスティリア王国とアラゴン王国は全キリスト教諸国からの尊敬を受けました。そして、そこから生まれた「自信」が「大航海時代」を生み「イスパニア無敵艦隊」を生みました。
註 : 下図は「世界歴史年表・地図」吉川弘文館 の地図を参考にして描きました
(ノルマン・コンクエスト の記事はここ)

註 : 下図は「世界歴史年表・地図」吉川弘文館 の地図を参考にして描きました


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1066年ころ、中世封建秩序のもとに並び立った国々
はここにありましたが、現在はここにあります、
「ノルマンディー公イングランド王」という特殊な主従関係の図示を含みます、また、「アルハンブラ宮殿」の位置とその所属国も明示しています。
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*検索文言一覧表はここ
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「神聖ローマ帝国」(西欧中世)962〜1806  844年間にも及ぶローマ教皇 (カトリック教会代表者) を精神的首長と仰ぐ緩やかなヨーロッパ諸王国連合体(上図の通り) 徐々に西へと拡大し、イベリア半島(スペイン、ポルトガル)をも覆う
962年オットー(東フランク王国)がローマ教皇からの戴冠を受け入れたことが 「神聖ローマ帝国」 の始まりであり、ローマ教皇の 「格付け(戴冠)」 行為の始まりです、無意識的に、諸国の王は古代ローマ帝国の精神的権威はローマ教皇に引き継がれていると思っていたようです。

日本に於ても、足利義満(1368-1394) が 天皇 を自分の格下と認識したらしい(金閣寺の各階様式の差)と同じようにヨーロッパでもローマ教皇を格下と認識してローマ教皇を世俗世界に引きずり下ろす事件もあった(アビニオン捕囚 1308〜1377 Wikipedia クレメンス6世もアビニョンにいた。
1300年代のベロナ政界は   (ベロナの概略位置は上図 [1066年ころ、中世封建秩序のもとに並び立った国々 ] でもわかります) は教皇派[ローマ教会派、キャブレット家]と皇帝派[神聖ローマ帝国派、モンタギュー家]とに分れて権力闘争に明け暮れていました、
映画ロミオとジュリエットはこの時代の実話をもとに、シェークスピアが1592年(悲恋事件の約200年後) 
に書いた小説に基づいています、この小説に出てくる政治権勢機構はこの時代の現実を反映してはいますが、単に仲の悪い両家が純愛犠牲者出現によって仲直りしたという単純な話ではありません、Wikipedia 参照)
、ローマ教皇のイタリア帰国妨害(1313)、3人の教皇の並び立ち問題を「諸王の会議」が解決(1418 ジャヌ・ダルクのころ) などの複雑な対立もありました。

しかし、イギリスを除く西ヨーロッパの広範囲の諸王がローマ教皇を 「格上」 と認識し、「戴冠」 はローマ教皇から受けていたようです。しかし、ドイツ地域の諸王の世俗的実力の高まりと共にローマ教皇の権威を無視する傾向が生じ、権威は北方で弱く南方で現状維持でした。しかし、ハプスブルク家(スイス起源のドイツ系、1315年 (マルコ・ポーロの頃) に拠点をオーストリアに移し栄える、「世界史の窓」より) が登場してローマ教皇の権威の衰えを食い止め、且つ、 「神聖ローマ帝国」 の支配地域を広めました(イスパニア地方も支配)。ハプスブルク家のマリア・テレジア (出生 1717ニューコメンの頃, 在位 1740-1780 )は16人もの子を産み、「子たちを政略結婚させ姻戚関係で周辺諸国を支配しました。その末娘が有名なマリー・アントワネット

しかし、フランス革命(1789)が起こり、ナポレオンが第一共和制を敷き、周辺国を侵略しオーストリアも戦争に負け(1806年)、844年間(1806-962=844)に及んだ、神聖ローマ帝国は消滅し、オーストリア、ハンガリー、イタリア、スペイン(イスパニア)等へと分裂し、ローマ教皇の権威も低下した。参照画像1   参照画像2(2000年現在、ヨーロッパ白図2 資料)

しかし、ローマ教皇の権威は、ナポレオンの 「政教分離(ナポレオンの妻の戴冠図、ナポレオンが教皇から王冠を受け取り、王冠は自分の手で妻の頭にかぶせた)思想」 の西欧全域への波及や、南北アメリカ大陸へのヨーロッパ人移動 (北はプロテスタント 南はカトリック) による地球規模拡散によって、教皇の持つ 「精神的権威」 は分裂消滅したのではなく、今日(2017年)に至るまで続いている。
 

ノルマンディー公がイングランド王(1066〜1154年(88年間〕)となったのです。ただし、ノルマンディー公はその名の通り、フランス王からノルマンディー地方を与えられた下臣でした。すなわち、フランス王の下臣が海を隔てたイングランド王を兼務するというややこしい国際関係が起こります。

これ以後文化的に対等の伝統のあるイングランド文化はフランス文化に比べて下位に位置させられ、イングランドの学問はフランス語で行われるようになります。

ノルマンディー公イングランド王の時代(88年間)は歴史学上「ノルマン・コンクエストの時代」と言われ、土着のイングランド人が屈辱感を味わったことはのちに「自国語で学問をする情熱」 を生みました。ノルマン・コンクエストがあったおかげでニュートンの学問やニューコメンの技術が生まれたのだと思います。(この情熱は、のちに「地球は一つの玉」「地球表面自由移動」実行の原動力となった「レコンキスタ」の情熱と同じ性質を持ちます)

ノルマン人の船を使った侵略は「海」のみではなく「河川」も利用し、イギリスの河川をさかのぼったり、ヨーロッパ地域内部の河川をめぐって黒海へ、さらに東のカスピ海に達しさらに東へと進みました。

画像で見ることができる通りにノルマン人は中世ヨーロッパ各地を征服したり定着・吸収されたりして中世封建諸侯(並び立つ国々)に刺激を与えて混乱させた一方で、鍛え、「中世封建秩序」をもたらしました。
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「中世封建秩序」とは次の通りです。
国王・・・・その地方の政治的ピラミッドの「頂点」 
諸侯・・・・その地方の政治的「領主(荘園という名の領地の主)」 
騎士・・・・荘園は持っていても政治的実力は無いので「領主」と呼ばれず「騎士」と呼ばれた、「領主」と同じ誇りを持っていたようです。  
農奴・・・・「領主」から「保護」を受ける代わりに「年貢」を納め「税(結婚税、葬式税など)」を納め「労働奉仕」をさせられ、移動の自由も職業選択の自由もありませんでした(結婚税を金で支払えない男子は新妻に対して持つ「初夜権」で支払ったとも言われています) 
1066年頃「中世封建秩序の下に並び立った国々」は次の通りです。
ノルマンディー公イングランド王国、北欧3国(デンマーク王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国)、アルモラヴィド帝国(イベリア半島先端、ただし、この国はイスラム(サラセン)教徒の国)、フランス王国、神聖ローマ帝国、ローマ教会領(教皇領) 、ノルマン シチリア公領、ポーランド王国、ハンガリー王国、キエフ公国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国) 、

「ビザンツ」 という名称は帝国の首都コンスタンティノープルが古代ギリシャの時代にビザンチオンと呼ばれていたことに由来しています。
「ビザンツ帝国」 
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD より。 

【c907〜960年〔53年間〕十国・五代の分裂時代中国大陸地方、十国・五代の分裂時代に突入、唐は内乱のため滅んだ
918年〜1392年(474年間)高麗国 、建国 918年、元による征服 1259年、元の直接統治 1287年、 元より独立 1356年、解体 1392年 、Wikipedia。
【c960〜1126年〔166年間〕宋(北宋・南宋) 興る 金 西夏  中国大陸地方、北宋 が主導、実力で敵対国(後周)を破った。同時期に 金 西夏 も周辺に存在。しかし、この時期の後半に、北宋 は経済繁栄の勢いに酔い、自信過剰に陥り、軍事強国も目指して軍備も増強した。そして強力な軍事練度を持つ北方の遊牧民集団(モンゴル人集団)を侵略しようとし、徹底的に負けた。そして滅んだ。支配していた地域は 南宋 に併合され、引き続きモンゴル人の 元 に全域を奪われた。
【n1010年(平安時代中期) 】、日本、紫式部(女性)、「源氏物語」映画による解説はここです
一条天皇(980-1011) と 蜻蛉日記(977)
一条天皇は平安王朝文化を支えた中心人物、この人物の産みの母は「藤原道綱の母の娘」
「藤原道綱の母」が著した「蜻蛉日記(977)」は日本初の女流日記文学である。この日記は「土佐日記(935)紀貫之著」に見習って書かれた。以後女流日記文学は「枕草子(1001)清少納言著」「和泉式部日記(1008)」「源氏物語(1010)紫式部著」と続き、一条天皇の死後は「更級日記(1059)菅原孝標女(藤原道綱母の縁者)著」をもって終わった。
(寸考)
男女の恋愛を主題とした物語は先ずBC800年の古代ギリシャの「イーリアスとオデュッセイア」(ただし、この物語のテーマは 「美女の奪い合い」 ですから 「平和時の自由恋愛」 ではありません)そのために 人類史初めての 恋愛小説 は日本の1010年「源氏物語」、その次にイングランドの1592年「ロミオとジュリエット」です、
日本は地球上に遅れて現れますが、最も早く現れたギリシャが2015年現在では不活発、イギリスも輝きを失っているのに比べて日本は文化的に早く現れ且つ未だに活発と言えるのではないでしょうか?。 

【c1020年頃「北宋」諸発明、技術革新で栄える
「北宋」で、技術の発達による諸発明がなされ、経済的に世界1番の繁栄を誇った。マルコポーロは主に北宋時代の経済的繁栄の様子をヨーロッパに伝えた(1299)。
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「磁器(白磁)」、「羅針盤(方位磁針器)」、「火薬」、「木版印刷」、これらの発明は「世界4大発明」と言われている。
(寸考)「世界4大発明」と「恋愛小説」について
【4大発明】「磁器(白磁)」については「生活の質向上」をイメージさせますが、「敵」との和平交渉の引き出物としての必要性が先んじたと思います、
「羅針盤(方位磁針器)」は広大な平原で道に迷わずに戦闘するための必要に駆られて発明されたものだと思います。
「火薬」についてはお祭りを盛り上げるために発明されたものが爆薬に転用されたのだと思います、黒色火薬の量を増やして事故が起き、その威力を知った軍人が敵の城壁爆破に利用したのだと思います。
「木版印刷」については「軍事命令の文書化」と「税金管理事務」の必要から発明されたもので、それが「仏典」印刷に転用されたものだと思います、

中華地方の歴史を概観して驚くのは「戦争」の多さです、北宋の建国直後にも次のとおり頻繁に隣国との戦闘や内乱がありました。
註 : 私は、人類のした最も重要で最古の発明は「車輪」だと思っています、したがって私は「世界4大発明」⇒「世界5大発明」という表現を好みます
【戦闘や内乱】(971,南漢と )、(975,江南と)、(978,呉越と)、(979,北漢と)、(980,遼と)、(986,遼と)、(988,遼と)、(996,遼と)、(1002,タングート族と)、(1005,契丹と)、(1010安南人と,)、(1028,ウイグル人と)、(1030,ウイグル人と)、(1039,西夏と)、(1049,内乱)、(1081,西夏と)、(1082,西夏と)、(1087,内乱・党争)、(1096,西夏と)、10年に1回の割合で戦闘がありました。
【活版印刷】生き延びるためには次々と押し寄せる「戦闘場面」で勝つか逃げ切るか、が人々の最大関心事だったと思います、その「必要」が様々な発明を生んだのだと思います。
なお、1050年頃に 活版印刷 が発明されたにもかかわらず実用化はされませんでした、戦闘で明け暮れる社会では優れた技術が定着・発展することが出来なかったと推察されます、そして、活版印刷はその後モンゴル帝国(1271〜1368)によってペスト菌と共にヨーロッパに伝わり、社会に根付き、ルネッサンス文化を活性化させました。
【恋愛小説】日本の「源氏物語」に相当するような「恋愛小説」が現れるのは1610年、「明」の時代の「金瓶梅」で、「源氏物語」よりも600年も遅れておりしかもその内容は凄まじい男女の情念の世界が描かれているようで、「源氏物語」の「やわらかさ」とは異質の世界のようです(Wikipdia記載のあらすじより)。
中共国地方の政治理念を一言で言うならば「乱」、これに対し、日本は「和」、(聖徳太子(600年頃)は「和をもって尊しとなせ」との政治理念を後世に伝えています)。
「明」の時代は日本の平安時代に相当する「和」の世界が一時的に訪れていたのでしょう。それにしても、「金瓶梅」に登場する女性達は「纏足」の足に美しい靴を履かされていたと想像するとその物語りの凄まじさを想像出来ますね。皆さんはどう思われますか?  

1054年東西キリスト教会教会相互破門事件発生
[分裂の理由]
1054年の相互破門事件の前に、
下の通りに相互の違いが拡大していた

1)、西ローマ帝国の政治的滅亡(476)、東ローマ帝国の政治的存続
2)、西ローマに地理的に依存していたカトリック教会は政治と離れる方向を追求するようになり、キリストの代理者として教皇の存続重要の方向性、かつ司祭の妻帯を認めない方向性を保ち続ける
3)、東ローマ帝国の政治支配の下の東方教会(ギリシャ正教系統の教会)には教皇相当の権威者は無く、司祭の妻帯も認める、各地方教会は相互に平等、という方向を目指した。
1066年〜1154年(88年間 ノルマンディー公イングランド王の時代)ノルマン・コンクエスト、ノルマンディー公はその名の通り、ノルマン朝フランス王からノルマンディー地方を与えられた下臣でした。すなわち、フランス王の下臣が海を隔てたイングランド王を兼務するというややこしい国際関係が起こります。

しかし、征服者は「ノルマン朝」を興し、フランス語を公用語とし、諸侯乱立状態のイングランドを中央集権制政治機構によって統治し、のちの「海洋大国」「産業革命発生国」の国家基盤を作ります。
ノルマン・コンクエスト終了記事はここ
1096年〜1270年(174年間)十字軍、第1次十字軍〜第7次十字軍
1096年ノルマン人大移動の終息ノルマンシチリア公領のターラント公ボエモンが第1次十字軍としてアンティオキアを襲撃し市民を虐殺・略奪後にアンティオキア公国を建設、この時をもってノルマン人の大移動は終息とみなすことにします。
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十字軍(ヨーロッパ騎士団)サラセン軍

註 : 画像は二つともヤフー画像集から頂きました。
画像から想像出来るとおり、十字軍は農耕馬(足が太く遅い)に乗り「重い」鎧をまとい武器も重いので戦闘ぶりは「鈍重(どんじゅう)」、サラセン軍はアラビア馬(細くしなやかな足で早い)に乗り鎧は軽く武器も軽く鋭く戦闘ぶりは「軽快」です。「重武装」の十字軍の大軍が突然侵略して来ました。エルサレムではイスラム教徒もキリスト教徒もつつましく平和共存し、キリスト教徒のエルサレム巡礼も平和的に行なわれていました
エルサレムが当時平和だったと私が述べる論拠 
論拠1638年、アラブ軍による征服でエルサレムはイスラーム勢力の統治下におかれた。イスラームはエルサレムを第三の聖地としており、7世紀末に岩のドームが建設された。970年より、シーア派を掲げるファーティマ朝の支配下に入った。しかし、11世紀後半に大飢饉などによりファーティマ朝が弱体化すると、この地をスンナ派のセルジューク朝が占領した。この征服を率いた軍人アトスズは、占領時に略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止しており、エルサレムの平安は維持されていた。Wikipedia  
論拠2、イスラムはユダヤ教、キリスト教に寛大であったため、エルサレムは国際都市として発展。 @ 『エルサレム』p.62 立山良司 新潮選書 1993年11月15日刊 「イスラエルおよびエルサレムの歴史」より。 http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/israelhistory.htm 
「キリスト教の聖地奪還」のために大軍の重武装集団が押し寄せてくるなどと言う事は夢にも思っていませんでした。

エルサレムは第一次十字軍が計画されるずーっと前(630年頃)にすでにサラセン帝国圏域に取り込まれ、キリスト教徒は「イスラム教への改宗」を勧められてはいたでしょうが「虐殺」は無かったとするのが正しいと思います。
630年頃にはサラセン帝国によって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のボスボラス海峡から東側の領土は侵食されていましたが、
1071年にはセルジューク・トルコ帝国との戦いで、下の表のとおりの惨敗を喫しました。
1071年、マンジケルトの戦い、ビザンツ帝国ロマノス4世は大軍を率いて出兵したが、マンジケルト(マラーズギルド)の戦いでマムルーク兵(アフリカ人の傭兵)を主力とするセルジューク軍に惨敗し、皇帝は捕虜となって奴隷の印の耳輪を付けられてスルタンの前に連れて行かれたという。このことが、ビザンツ帝国のローマ教会への十字軍派遣要請の要因となる。 http://www.y-history.net/appendix/wh0602-027_1.html (世界史の窓より) 


1096年第一回十字軍はトルコ系・サラセン人(「イスラム」の中世式用語)によって、ボスボラス海境やダーダネルス海境を占領され、慌てふためいた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がローマ教会に援軍を求めた事によります。「領土を奪い返す」ための戦いであって「聖なるものを守る」戦いの要素は全くありませんでした。

ところが、トルコがたまたまイスラム教国であったことを利用した政治家が「聖なる戦い」にすり替えたのです。キリスト教国の政治家達は「聖なるエルサレム奪還」という大義名分(旗印)をかかげることによって自国の民衆の士気を高めることが出来たのです。したがってこの戦争(十字軍戦争)は一般に言われるような「宗教戦争」ではありません。

当時のローマ教皇(法王)ウルバヌス2世がクレルモン公会議という聖職者会議に傍聴のため参加していた「騎士」達に、「聖地奪還」を扇動する演説をしたことが十字軍派遣のきっかけです。

このことは地球現象に照らした場合、「宗教現象衰退の始まり」と見ることが出来ます。宗教現象がその純粋性を失い、政治現象に飲み込まれたからです。

ローマ教皇は十字軍に参加したものには「免罪符」を渡しました、「これを持ってイスラム教徒との戦争で死んだ場合は天国へ行くことが出来る」と言って兵士に渡したのです。これは「宗教の堕落」です。

「免罪符」はその後「十字軍」を募集することのほかに、「教会堂の新築・改築」「宗教上の地位の販売」のためにも使われるようになります。

教会は「免罪符」はじめ世俗化した部分を改めるべきであるとして起きた 1517年 のルターの宗教改革を生む芽はすでに十字軍の時(421年も前(1517-1096=421)に芽生えていたのです。

キリスト教徒がイスラム教徒を悪魔のように恐れたのはイスラム教徒のサラセン人が勇敢で、カトリック教徒国(神聖ローマ帝国等)の重武装軍団をいとも簡単に打ち負かしたからです。このように強力な戦闘集団は当時何処にも居なかったからです。悪魔のような行為(略奪・強姦・皆殺し)を最初に行なったのは十字軍(カトリック教徒)でした。

平和に暮らしていたサラセン人達はこの殺人集団に対する心構えもなく、急には一致団結することも出来ず、当初は十字軍の襲撃を聞くだけで震え上がって敗走するか戦わずして十字軍を通したようです。しかし、十字軍の優勢は「相手の不意を突いた」初期十字軍だけでした。その後、本気で武装し訓練したサラセン軍は十字軍よりもはるかに強く、十字軍を全滅に次ぐ全滅の目に合わせ、十字軍にされた極悪非道行為に復讐をしました、その戦いぶりは素早く粘り強いものでした。
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結局十字軍がエルサレムを確保した期間は1099年から1187年(88年間)、および1229年から1244年(15年間)、合計 103年間 だけでした。

サラセン軍は十字軍からの侵略以前に領有していたグラナダ地方(現在のスペイン南端)を守り通し、有名なアルハンブラ宮殿=赤い城(サラセン人の築いた城)が陥落しキリスト教徒の手に渡ったのは 1492年 でした。キリスト教諸国の政治的実力がイスラム教諸国をやっと上回り始めたのは1492年ころからだということができるでしょう。

十字軍がイスラム教徒に行なった極悪非道行為に対する復讐心は時代を越えて受け継がれ現在のイスラム過激派のテロ行為の原因になっています。

十字軍はこれと反対に、高度に発達したサラセンの文物を略奪して持ち返りサラセン文化に受け継がれていた古代ギリシャの学問や技術も持ち帰りました。ヨーロッパの田舎者がサラセン文明に接したおかげでルネッサンスのきっかけを得たのです。その結果、ヨーロッパ文明は 科学の発達→蒸気機関の発明→産業革命 と近代化を遂げました。イスラム世界は近代化に後れを取り、WW1〜WW2とヨーロッパの侵略を受け続け、その恨みは深いと思います。

キリスト教もイスラム教もユダヤ教と根は同じの「一神教」で、同じ事の書かれた旧約聖書を信仰のよりどころとしています。日本人は「多神教」で旧約聖書のような「教典」すら有りません、日本人は自然豊かな水蒸気に満ち溢れた国ですが中東地域は緑少なく水分は乏しく岩石の目立つ土地に住んでいます。従って日本人が中東の一神教の人々の心を理解する事はかなり難しく、不可能かもしれません。
【c1126〜1271年〔145年間〕中国大陸地方、南宋(南方) 金(北方)の分裂国家
中国大陸地方、南宋(南方) 金(北方)の分裂国家が並立、「北宋」は滅ぼされた
【c1170年頃、中国南宋朱子、 「理気二元論」(理は形而上のもの、気は形而下のものであってまったく別の二物であるが、たがいに単独で存在することができず、両者は「不離不雑」の関係であるが理が先行する)を発表、それまでバラバラに存在した儒教関連文献を体系づけて独立した 新儒教 「朱子学」 を樹立した。
1154年(ノルマン・コンクエスト終了、その後のイングランド、プランタジネット朝〜)、ノルマンディー公イングランド王のイングランド統治の88年間が終わる、その後は次の通りの経過をたどります。関連1(1066頃ノルマン人大移動直後西欧図、中世封建秩序のもとに並び立った国々)関連2(ノルマンディー公イングランド王についての説明)
註1 : 画像は Wikipedia から頂き加工しました
註2 : イングランドとフランスの間(ドーバー海峡)は狭く、人が一人で泳いで渡ることが出来ます、最狭部の距離は 34Km、水深は 50m、潮流は往復流、所要時間は 15 時間、成功率 55%、「ドーバーの泳ぎ方」より、 http://trudgeon.moe-nifty.com/blog/2019/11/post-46f255.html
ドーバー海峡横断のお話しとしては、1902年ころに一人の女性がこれに成功し懸賞金100ポンドを受け取った「緑園の天使("National Velvet")」という1945年製作のアメリカ映画があります
ヘンリ2、とエリザ1領土 下記に述べる通り、イギリスで、 「ノルマン朝」⇒「イングランド朝」の移行時期に小規模な内戦(20年間の無政府状態)はありましたが1154年にノルマン朝の血とフランス伯爵家(アンジュー伯)の血との混血のヘンリー2世がイングランド王位に就き、新しいイングランド朝(プランタジネット朝)が誕生します。

しかし、ヘンリー2世はフランスに広大な所領を持ち、フランスにおける王侯諸家との姻戚関係も強く、以後のイングランド王の中にはフランス領統治に主力を注ぎイングランド統治には熱意に欠ける者も居ました。このことはイングランドとフランスとの間の「庶民置き去りで惰性的」な100年戦争(1338-1453)の原因となった。

(オルレアンの少女、ジャンヌ・ダルク [1338 参照1] [1429 参照2]が現れ、両国の為政者に強烈な カツ を入れてから事態が動き、本来あるべき方向に向かった)

100年戦争終結(1453 イングランドの負け)後に、「イングランド朝」が「最後のフランス所領カレー」を失って(1558 フランス・ギーズ公に負ける)からイングランドは島国としてのアイデンティティーを確立、エリザベス1世(1558-1603)が登場し、その後の世界の政治現象を主導しました。 歴史に名を残すべき人物は、エリザベス1世と、フランシス・ドレーク(サーの称号[ナイトという勲位]を受けた初めての「海賊」)の2名だと思います。
寸考ノルマン・コンクエスト(1066-1154)でノルマン人に征服されたのになぜイングランドは海洋強国へと成長したのか?  
はここにあります


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1171年、イギリス(主としてイングランド)とアイルランド、イギリスが侵略開始。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下は 挿話21 イギリスと北アイルランド 長期間の不和とあっけない和解 です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【要点】イギリス(主としてイングランド)とアイルランド、長期間の不和とあっけない和解
1)、約8世紀の間(1100〜1801)、奴隷状態に置かれて不和
2)、次の120年間(1801〜1922)、イギリス連合王国(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国)の中に取り込まれるが不自立の不満で不和
3)、次の50年間(1922〜1972)、自立を求めてカトリック教徒の過激派がテロ行為を繰り返す、以後も散発的に続く
4)、2007年に北アイルランド自治政府(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国内部改革)が成立、和解へと向かう

英愛の長期不和1英愛の長期不和2西インド諸島
註1 : 画像はヤフー画像集及び
http://high-land.org/aboutuk.html
から頂きました。
註2 : 英愛画像 (グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国とアイルランドの混在画像) は 1801〜2014 現在の状況、ただし、「共和国」の呼称は 1919-1922 の間だけ、2014年現在では「アイルランド」と呼称される、ただし、国旗の図柄はは同じ。アイルランドは独立国家(英愛画像の濃緑部分)です。 
他の2つの画像は 1650年頃〜2014 現在の状況


2014年8月29日、毎日新聞、金言(西川恵氏の「英愛関係に学ぶ」に裏付けを書き足して挿話としました)
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1)、約8世紀の間「白人奴隷」として扱われた(1100〜1801)、英国(イギリス国教会信徒)は12世紀(オックスフォード大学が出来た頃、1100年)から約8世紀の間(1801-1100=701)、隣国アイルランド(カトリック信徒)を植民地として過酷な収奪を行なった。 (過酷な収奪には、大虐殺、略奪、重い課税、土地所有権を奪う、信仰の形式への干渉など様々なものがありましたが代表例は「白人奴隷」として世界中の英国領に売り込み強制労働させた事です)。

...................................................
北アイルランドの紛争の歴史 http://www5.ocn.ne.jp/~kanebon/bstkitaireland.htm
帝国主義時代の世界初の奴隷はアイルランド人だった。
http://matome.naver.jp/odai/2136697564067400001

カトリック教徒のアイルランド人を奴隷とした奴隷貿易は、1649年に独裁的護民官オリバー・クロムウェル(後日失権し墓を暴かれ遺体はタイバーン刑場で絞首刑ののち斬首され、首はウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられて四半世紀晒された、Wikipedia。)が反抗する地主達を西インド諸島に奴隷として売りさばいた事をきっかけとして、ジェームズ2世(1690年頃、イギリス国教)が30,000人の牢獄者をアメリカに奴隷として売ったことが始まりです。
★註 : イギリスはカリブ海の島々を「インドの西側の島々」と誤解していました(実際は北アメリカ大陸の東側、地球を西回りでインドへと向かったため、それ以上西には進めなくなり、そこをインドであると認識したのです、当時の西欧人は「地球の果てはインド」との誤解のもとで航海していました。
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このようにして、アイルランドの囚人達は、帝国主義時代の世界初の「奴隷」として海外在住のイギリス人入植者へ売られるようになり、1600年の中ごろには、アンティグア(カリブ海東部の小アンティル諸島に位置するアンティグア島)、やモントセラト(カリブ海の小アンティル諸島に位置する火山島で)の「奴隷」のほとんどはアイルランド人となっていました。当時、モントセラトの人口の70%がアイルランド人だったのです。

このように、アイルランド地方は、またたく間にイギリスの奴隷商人達にとって、最も大きな人間収容所 (白人奴隷一時保留収容所) となっていました。奴隷売買当初、アメリカへの奴隷の半分以上が実は 白人 でした。黒人奴隷貿易よりも先に白人奴隷(アイルランド人奴隷)が居たのです。
...................................................

2)、次の120年間(1922-1801=121≒120)はイギリスに併合された(1801年、グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国成立)。その後、独立運動(1919〜1922年、アイルランド自由国化運動)に際しては、アイルランドの北部地域(北アイルランド)が住民投票で英国残留を決め、これに不満を持つ北アイルランド内のカトリック系と英国残留を支持するプロテスタント系(イギリス国教会系)が対立し、

3)、次の50年間(1972-1922=50)激しいテロ抗争(カトリック系のIRAが仕掛けプロテスタント系が応戦)が繰り返され、その後もテロは散発的に続いた。

1970年代にはテロが激化。さらにアイルランド国民はカトリック系(IRA)を、英国の右派はプロテスタント系(イギリス国教会系)を支持し、英国・アイルランドは亀裂を深めた

4)、しかし、2007年、国際社会の調停と英国・アイルランドの歩み寄りで、プロテスタント(イギリス国教会系)とカトリック系の強硬派幹部を首班とする北アイルランド自治政府が成立

これによって和解の環境が整い、エリザベス女王が2011年5月、アイルランドを初訪問。2014年4月アイルランドのヒギンズ大統領の訪英で和解を達成した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話21 イギリズと北アイルランド 長期間の不和とあっけない和解 でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

注 : ここから日本史に戻ります。
いい国(1192)作ろう鎌倉幕府 

[しずやしず、しずのおだまき繰り返し、昔を今に、なすよしもがな] 源頼朝(よりとも)が弟義経(よしつね)のてがらを妬んで弟の婚約者 しず を捕らえて、鎌倉で、新幕府出発の祝宴を張り しず を公衆の面前で恥をかかせた後は切り殺そうとしました。ところが、頼朝の予想に反し、堂々と、あでやかに舞いながら しず(静御前)がうたった歌がこれです。意味は「あなたは30年前には囚人としてこの近くで捕らえられていましたね、私は出来ればあなたを昔のようにしたいものです」、静御前は京都育ちの教養人、かつ、長刀(なぎなた)武術の達人でした、夫の義経を守るべく吉野山にまで逃避行に同行し義経を逃がした後に捕えられたのでした。高い誇り、高い教養、は武骨で東国(いなか)の鎌倉の人々を驚嘆させ、一気に時代の人気者となり現在まで語り継がれています、「みやまおだまき草」は彼女を連想させる野草だと言われています
【n1192年〜1333年(141年間)鎌倉時代、武士の一族である 源氏(代表者は源頼朝)が朝廷から政治の実権(内政)を奪い、関東の鎌倉(現 神奈川県鎌倉市)に幕府を起こし、征夷大将軍となる、  
(武士の一族の 平家 が天皇家を乗っ取ろうとしていたが源氏が平家を全滅させた 源平合戦・壇ノ浦の戦い 1185)政治の実権(内政)は武士が完全に掌握、
★註 : 幕府が関東に移ったのは鎌倉時代が最初で江戸時代が最後でした、そのほかは全て関西です(関東とは神奈川県・東京都を中心とした地方、関西とは京都・大阪を中心とした地方)
以後は一時的に朝廷が軍事力を発揮して政権を奪い返そうとしたが失敗(承久[ジョウキュウ]の変 1221)朝廷側は結果的に南北に分裂(1336〜1392)、足利尊氏の室町幕府(在京都)初代将軍(1338〜1573)に分裂を抱えたまま吸収された、次の将軍 足利義光(第3代)が南北を和解させた
(寸考)
この政治現象は、イギリスよりも早い、イギリスで王権に制限を与える「マグナカルタ」ができたのは1215年です。日本は政治の中心地を遠方に移し、イギリスでは「契約文書」を作った点に表面上の違いはありますが実質は「王権の制限」です。武士階級集団が国家の最高権力者から政治の実権を奪った点では日本の方がイギリスよりも実質的・徹底的だったということが出来ます 

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鎌倉幕府(1192)以降今日(2019)に至るまでの「朝廷(天皇)」の地位の大局的概略は以下の通りです 
天皇家(朝廷)は、国家の代表者として外交契約の追認、国内人事の追認、国の文化(非軍事)の担い手の中心となり政治全般(内政・外交)は武家階級に任されるようになった。以後、政治の実権(内政・外交)は 鎌倉幕府→室町幕府(含南北朝・戦国)→安土桃山幕府→江戸幕府(1603〜) と推移、明治(1868)に至って政治の全ての実権(内政・外交)も「朝廷」に返還され、以後は第二次世界大戦敗北(1945)までの間は政治の実権(内政・外交)を「朝廷(天皇)」が握り、敗戦(1945)の責任を果たしてからの天皇は 再び国家の代表者として外交契約の追認、国内人事の追認、国の文化(非軍事)の担い手となり、今後とも 「象徴天皇」 の道を追求してゆくとされている、
この状態で今年現在(2019)、令和(レイワ)天皇59歳が平成(ヘイセイ)天皇から 「象徴天皇」 の座を譲位された

外交の具体的実権も室町幕府第3代征夷大将軍・足利義満の時(1368年〜)に武家に移る、足利義満は中国(明)の政変に乗じ日本方式の儀礼で「臣下の礼儀式」を済ませた。明の永楽帝の臣下となることを条件に明の冊封体制に参入し(1404年)朝貢貿易(勘合貿易ともいう)により多大の利益を得て 金閣寺 を造った、内政でも足利義満は南北に分かれていた朝廷を一つにまとめ(1392年)、この時期の実質的な日本国代表者は 足利義満 だった。後に 徳川家康(1603〜)は明の臣下である事を拒否し(明国は衰弱し清国が台頭しようとしていた)鎖国外交を行なった。
1206〜1634年〔(428年間、含前半の興隆期後半の滅亡期)〕、ユーラシア大陸、モンゴル帝国興る、首都はカラコルム。当時の世界人口の半数以上を約100年間統治するに到る人類史上最大規模・長時間の中世世界帝国(前半興隆期初代はチンギス・ハン、在位 1206年-1227年(21年間)、1227,8,25(65歳)死亡。帝国は彼の死後も続いた)、1271年〜1368年(97年間)は「大元」(画像あり)を中核とした連邦国体制を保ち、最後半は「北元」と称して民族の故郷(ウランバートル地方)で「モンゴル帝国」の帝位を保ったが1634年には帝位も失った。
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モンゴル帝国発生

モンゴル帝国発生時点(1206年頃の版図)、チンギス・ハンの統治方法は次の通りでした。

1)、チンギス・ハンには強い「戦争哲学」があった、彼は戦争の無い世界を作るためには自らを頂点とする「統一国家」を作ればよいという哲学です。かつて、マケドニアの若き英雄アレクサンダーの哲学と同じですが、チンギスの方が各段に「戦後統治法」において優れています。

2)、降伏しない者は滅ぼす、「包囲殲滅」。彼の軍は常に「羊の群れ」を引き連れていたので衣食住には困らないので籠城して刃向う者を「兵糧攻め」で皆殺しにできた。

3)、降伏したものには、課税義務と兵役義務のみを課し、国内行政は「自治」とした。

4)、戦法は馬に乗り「側対歩」で素早く走る、「側対歩」は「斜体歩(前右足を出すときは後左足を出す)」に比し馬体の揺れが少ないので馬上からの弓矢攻撃力に優れていた。

5)、騎兵は5頭の空馬を伴って1日に70キロ走る、

註 : 以下8個のモンゴル帝国版図画像は Wikipedia からいただきました。1219年頃1223年頃1227年頃1237年頃1259年頃1279年頃1294年頃
チンギス・ハーンを戦争に駆り立てたものは何か? 
(平和な社会を拡大したい)という痛烈な想念 
(想念)の発生原因
1)、部族長の長男として生まれたにもかかわらず、人の世のあらゆる苦しみを味わった、例えば次の通りに。
2)、16歳で いいなずけ(許婚者)が 決まる、直後に父は死ぬ、父の部下は全て去る、許婚者の家で過ごすが無理やり実母のもとに返される、チンギスの将来を絶つための陰謀だった。
3)、20歳を過ぎたころ、一緒に生活していた許婚者がある有力部族長によって連れ去られ、許婚者は強姦された後返される。二人の仲を裂きチンギスを孤立させる陰謀だった。許婚者は強姦によって長男を妊娠していた、チンギスの友人たちは離婚を勧めた。
4)、チンギスは言った「悪いのは女をさらい犯した方にある、女にも生まれてくる子にも何の落ち度もない、守れなかった自分が悪い」と言って、出産させ、名を ジョチ とつけて愛し育てる。やがて許婚者はチンギスを深く愛し、次々とチンギスの子を産む。
5)、それを見ていた友人たちもチンギスの人物の大きさ、弱いものを大切にする心に感動しチンギスは戦わずして多くの味方を持つようになる。
6)、チンギスは大物・英雄の素質ありとのうわさはたちまちのうちにモンゴル部族内部に広がる。
(註:以上の文言は1説にもとづく森本の想念です、どの文献にもこれと同じ文言はありません)。 
(親しい友人と、勝つための戦法を練り、絶対に負けないという確信を抱いてから戦いを始める)
1000人単位の 生活且つ戦闘部隊 を増やしてゆく、
騎兵は5頭の空馬を伴って1日に70キロ走る、
羊は「生きた缶詰、生きた衣類」として1000人部隊の後方から移動し「移動兵站基地」とする、
他民族が服従した場合はその民族の文化を重んじ、行政事務、会計事務を任す。

人に(12)イチゴ(15)の味を知らしめた大憲章 
1215年、イギリス、マグナカルタ(大憲章)、独断でフランスと戦争し、連戦連敗の身勝手なジョン王に、諸侯が 「殺すぞ!!」 と迫り、王権の制限と諸侯の権利を確認させた文書。のちに国王の専制から国民の権利・自由を守るための典拠として取り上げられ、権利請願・権利章典とともにイギリス立憲制の支柱とされる。
註 :政治の実権を絶対君主(天皇)から奪った 日本の鎌倉幕府(源頼朝 1192) の方が早い。詳細はここ。
1219年、1223年ころ、ユーラシア大陸、モンゴル帝国版図
モンゴル帝国版図 1219
 頃
モンゴル帝国版図 1223
 頃

【n1225年日本、親鸞上人、『教行信証』、浄土真宗、「『なむあみだぶつ』と心底から唱えれば悪人でも救われる」、「肉食しても妻帯しても救われる」仏教界の無血宗教改革、
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1227年、1237年ころ、ユーラシア大陸、モンゴル帝国版図
モンゴル帝国版図 1227頃
モンゴル帝国版図 1237 頃
映画 「日蓮と蒙古大襲来」 はこのころを時代背景としています

【n1253年日本、日蓮上人、法華経を拠り所とした日蓮宗開祖、「『なむみょうほうれんげきょう』と心底から唱えれば人は救われる」
数ある仏教の中で『辻説法』で「末法の世を救うことの出来るのは 日蓮宗だけ」との自信過剰は見られたものの、「立正安国論」で政治権力者(鎌倉幕府)に積極的にかかわり、伊豆の伊東へ流罪、佐渡島への流罪、とされた。しかし、彼の予言「蒙古襲来(元寇) 第1回    第2回 」は的中し、人々を驚かせました。親鸞の生み出した流れすなわち「仏教の民衆化(多角化・内面化)」に貢献。
寸考
「立正安国論」 とは、正しい仏教を立ち上げ、政治を正しく方向付ける という理論ですが、日蓮宗だけが正しいという論法は独善的で、浄土真宗と激しく対立、また、時の最高権力者の信仰は 禅宗 でした。したがって、日蓮宗の新たな立ち上がりは仏教世界をより複雑にしたとも考えられます。日蓮宗を信仰している人の中には、日蓮の愛国心が第2回蒙古船団を撃退したと信じている人が多いようですが、私は、時の執権 北条時宗が 建造させた長さ20キロに及ぶ 防塁(高さ幅共に2メートル) が功を奏し、上陸出来ないまま3ヵ月間船で寝起きしていたところを 偶然九州北部を襲った台風が第2回襲来(1281年)の蒙古船団を壊滅させたと考えています。

1259年ころ、ユーラシア大陸、モンゴル帝国版図、
モンゴル帝国版図 1259 頃 1239年、ルーシ(ロシア)の母といわれたキエフを攻略、略奪と破壊の限りを尽くした。恐怖に駆られた住民は西方のハンガリーやポーランドに逃げ込み、それをモンゴル軍が追った。モンゴル軍は2手に分かれ、1軍はポーランドへ、1軍はハンガリーへと侵攻。怒濤のモンゴル軍は、ロシアを突き抜け、東ヨーロッパまで迫っていた。

1241年4月9日、両軍はワールシュタットの平原で激突した。歴史上名高いワールシュタットの戦いである。ヨーロッパ軍は重い鎧(よろい)に身を包み、騎士道精神にのっとり、正々堂々戦いを挑んだが、モンゴル騎馬兵の敵ではなかった。

機動力に勝るモンゴル騎馬兵は、戦場を疾駆、ヨーロッパ軍は大混乱におちいった。ヨーロッパの騎士たちはいいように打ち倒され、

軍は壊滅し、多くの兵士がなぶり殺しにされた。ヨーロッパ連合軍(ポーランド王国、ハンガリー王国、神聖ローマ帝国、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団、テンプル騎士団、外国人義勇兵)は完敗したのである。ワールシュタットの戦いで、ヨーロッパ連合軍を撃破したペタ軍は、ハンガリーまで兵を進め、主力のバトゥ軍と合流した。こうして強大化したバトゥ軍は、そのままカルパチア山脈をこえて、ハンガリー平原中央に突入した。ハンガリー王ベーラ4世は果敢に立ち向かったが、モヒー草原で全滅した。
註 :第2代モンゴル皇帝オゴタイ・ハーンは1242年に急死するが、葬儀や領国再分配のために帰国したのはジョチ、バトゥ、ペタ、などの王族のみで、実戦部隊は前線を保持し続けた(森本)。

(註:)、 以上の文言は、週刊スモールトーク (第69話) モンゴル帝国V〜バトゥの西征と騎馬軍団 http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-69.htm より抜き書きさせていただきました。

1270年十字軍、このころに終わる。しかし、十字軍の派遣はその後も臨時に( 1389 コソボ・ニコポリス戦など)召集派遣された。また、ドイツ騎士団が北欧・ケーニヒスブルグ(2018年現在のカリーニングラード)に移住したように、修道会の形で 十字軍 を名乗る場合もあった、その目的はプロテスタントキリスト教徒や正教キリスト教徒のカトリック教への 改宗でした。
1270年大元国誕生〜1603年日本 江戸時代開始というユーラシア東地方激動期333年間の画像把握、ロシア、アメリカにも言及
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西欧社会が神聖ローマ帝国を軸にして、イスラム社会に実力で勝りつつあり(アルハンブラ宮殿の奪取1492年)  (1509年ディーウ沖の戦いで勝利)地球規模の海洋進出のきざしを見せ、どうにか安定(除英仏100年戦争(1335-1453)等)していた時期にユーラシア大陸の東方面では社会が激しく変化していました。日本では室町時代の全国規模且つ100年間もの戦乱を織田信長が終息させ(1568年、入京 [1])、 入京 [2]  次に豊臣秀吉が朝鮮半島を縦断(朝鮮出兵 1592, 1597)し、後金国を刺激して 明国 を滅ぼさせ 清国 を誕生させる、その(1)  その(2) (1636、日本の島原の乱 1367 の頃)という国際舞台に姿を現しています、以後の日本は常にスペインやロシアを意識した政治を行い、1603年には 江戸時代という 265年間(1603〜1868明治) の安定社会を得ます。以下の画像でおおざっぱな当時の 「地球社会」 の様子を知ることが出来ます、ロシアの急成長(この画像 1650年 ころ)に比し、アメリカの姿はまだどこにもありません。アメリカは 2018年 の現在でこそ 「地球社会」 の覇者ですがその姿が地上に現れるのは 1776年(アメリカ独立宣言)頃(第6図)、すなわち 「地球社会の中世」 の終わりころにやっと姿を現した 史上最後発文明国 であり、 アメリカの発展が余りにも急速・急激すぎて地球人口急増の原因国となり、その後の人類の変質 (ゆとりを失わせ、性急さを善とする方向付けによる人心の変質[悪化]) への責務がこの国にはあります。この国はこの責務を今後長きにわたって果たしていかねばなりません。 

この画像も参照してください(海洋覇権の移り変わり一覧図)
【c1274年11月第1回元寇、日本、元国に突然襲われ、大敗する(当時の高麗国地政図有)、3万人,900隻、元・高麗の威嚇(いかく、日本を恐怖させる)作戦、突然引き返す、台風のせいでは無い。てつはう(爆裂弾)、強力な弓を使用。以後日本国中の武士に総動員令が出され、博多湾岸20キロにわたって 防塁 が構築された。2回来た蒙古からの降伏・属国勧奨使節は斬首されたが、その復讐のために第2回来襲があったというよりは斬首があってもなくても蒙古には日本を征服する国際的規模の計画があった。この大敗を真剣に受け止めた鎌倉幕府は博多湾岸20キロに及ぶ 防塁 を築いて 次の襲来に備えた。この 防塁 は極めて有効だった。映画 「日蓮と蒙古大襲来」 を参照してください。
【c1271年〜1368年(97年間)中国大陸地方、「元」(「大元」)興る
中国大陸地方、「元」(「大元」)興り、モンゴル帝国の中心国として中国大陸地方(中原)を支配する(「大元」はそれまで中元を支配していた「南宋」「金」を滅ぼした)。
1279年ころ、ユーラシア大陸、モンゴル帝国版図、
モンゴル帝国版図 1279 頃

モンゴル帝国版図最大版図
版図が縮小へと向かったきっかけは、東ヨーロッパではじめての敗戦を喫したアインジャルートの戦いでした。1将軍の極地戦であり王族の指揮する軍が負けたのではなかったのですが、ヨーロッパ軍(特にここで勝ったイスラム軍)の喜びは大きく、モンゴル帝国軍の精神的打撃は大きかったと思われます。

モンゴル帝国内部では、初代ハーンの「平和な社会を拡大したいという痛烈な想念」は純粋性を失い、王族たちは互いに緩やかな交流を保ちつつも次第に、手柄争い、名誉争い、に関心が向かうようになります。

1301年、王族の一人、ハイドウ が帝国の首都カラコルムを乗っ取ることに失敗(ハイドウの乱)して敗走中に戦死、大帝国は内部崩壊しました、しかし、すぐに、帝国を構成していた王族たちは相談し、帝国は4つの緩やかな連邦国家に生まれ変わります、

すなわち、「大元ウルス(元朝、大ハーン)のいる国」、「チャガタイ・ハン国」、「キプチャク・ハン国」、「イル・ハン国」として存在在し続けました。

1271年〜1368(元朝大ハーンの時代、首都は大都、現在のペキン)の100年間はパクス・モンゴリカ と呼ばれる政治的に「平定」された安定社会が続き、陸路と海路には様々な人々が自由に活発に行き交った。モンゴルは関税を撤廃して商業を振興したので国際交易が活発となり、モンゴル帝国に征服されなかった日本や東南アジア、インド、エジプトまでもが海路を通じて交易のネットワークに取り込まれた。

しかし、4か国の連邦関係はやがて悪化し、さらにペスト病の流行や天災のため1388年には4か国は分裂していった、しかし、モンゴル系統の国家はユーラシアに点在し、パクス・モンゴリカ現象はその後も続いた。

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【c1281年6〜8月、日本、第2回元寇、14万人、4400隻、元・高麗・江南 の日本征服作戦、強い南風で全船沈没、元・高麗・江南軍全滅。以後の日本は防塁をより強固にして専守防衛に徹する。
モンゴルの国は大帝国の時期を過ぎ元国を中心とする4ヵ国連邦制の時代、4ヵ国でユーラシア大陸の大半を支配、生きている軍需品([兵站]主として食料)として草を食べるヒツジを連れて戦った、日本をも飲み込もうとした。鎌倉武士、果敢に戦う。

(パクス・モンゴリカ ペスト病伝染概念図 1272〜1368)
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1272〜1368パクス・モンゴリカ ペスト病伝染概念図 1272〜1368 はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ


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*検索文言一覧表はここ
1290〜1650(360年間)の激動の世界図(含日本国1500〜1650、織田信長・豊臣秀吉の戦乱終結事情を含みます) はここにありましたが、現在はここにあります

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ここの画像とも繋がります(ディーウ海戦)
1294年ころ、ユーラシア大陸、モンゴル帝国版図、ジョチ国(次代は キプチャク国、黄色)、チャガタイ国(濃緑)、イルハン国(緑)、大元国(紫)、これらの国々は血縁をよりどころとした緩やかな連邦体制を保った。
モンゴル帝国版図 1294 頃


大元国は1271年〜1368年まで続いたが明(ミン)に北へと追われ、北元(首都はカラコルム) と称していたが1634年に後金(のちの清国)に滅ぼされた(ヌルハチ) 。

しかし、皇帝の血脈は保たれた。

日本史で言えば江戸時代、島原の乱(1637)の直前まで皇帝の血脈は続き、満洲のホンタイジ(ヌルハチの息子)率いる後金軍が フフホト (黄河が北上しまさに西へと曲がらんとする地域)を占領し、翌年(1635年)にリンダンハーン(モンゴル帝国の第40代(北元としては第26代)皇帝)の遺児エジェイが後金に降り、

428年間続いたモンゴル皇帝の血脈は絶えた。ホンタイジは 満州人の長、モンゴル人のハン、漢人の皇帝、という三つの権威を背負い、気難しい朝鮮族をも力ずくで服従させた。
その後のモンゴル民族の国際的地位の推移、中国とロシアの間で 


1299年マルコポーロ(1271-1295 中国地方に滞在)、イタリア人、帰国後「東方見聞録」(1299に口述筆記)を書く。中国大陸地方の帝国(唐帝国・宋帝国)の文明の高さは地中海文明と同等、特に宋帝国の 寧波市や杭州市(1901年北京議定書画像中央部に在る)の繁栄ぶりはイタリア・ルネッサンス (14世紀初〜1500年代)に先行していたと後日の人々に感動をもたらした。更に東にジパング(ジャパン・日本)があり「黄金にあふれた豊かな国」と書いている。この事がノルマン(バイキング)の血を引くヨーロッパ人の遠洋航海欲を刺激したとも言われています。

彼は次の物を持ち帰ったと書かれています、「陶磁器」「方位磁針」 Wikipedia。私は、他のいくつかの情報源から、紙漉き技術、初期の活版印刷技術、黒色火薬製造技術、などの見聞も持ち帰ったと思います。

これらの中で「方位磁針」は「航海用羅針盤」を生み出して地球一周を可能にさせ、紙漉き技術、活版印刷技術は書物の大量生産でルネッサンスを一気に発展させたと思います。陶磁器については東洋の技術水準が高過ぎて真似ができなかったようです。

黒色火薬については、火縄銃→大砲 と発明が続き、これらの武器は帆走戦艦に「火砲」として装備され、200年後には海上での戦争が活発に行われ、海上覇権は イスパニア・ポルトガル→オランダ→イギリス と変遷、イギリスは「金」「銀」「コショウ」を積んだ船を襲うという海賊行為で財を成し、その財は産業革命の資金となりました。

中国大陸国はなぜ「初歩的発明」後にそれを「近代化」せず、ヨーロッパはその後飢えたように「近代化」に向かって突っ走ったのか? この点は私の探求心を刺激します。
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【n1300年ころ、朱子学日本へ伝来、日本の鎌倉時代末期に伝来、元の仏教僧侶が基礎教養としていた。室町時代の内乱で長期間(3 00年くらい)停滞の後、江戸幕府に重んじられ 「幕府の正学」 とされた。幕末の世情不安(黒船等)の世情に対応して 「主君最優先」 ⇒ 「近代化最優先」 へと変質(理が先行⇒気が先行)。朱子学を踏まえて出来た 陽明学 に傾倒する武士が増えた(尊皇派の主要人物である西郷隆盛や吉田松陰等)、なお、陽明学の特徴は 近代化優先、実践優先、朋友関係重視 、ではあったが「現政権打倒」という狭くて過激なものではなかった。
江戸期を代表する 陽明学者 は 中江藤樹 と弟子の 熊沢蕃山 である。 Wikipedia参考。
【n1338〜1573年((235年間)室町時代、足利尊氏が征夷大将軍に[前期] [後期] に分けて理解するのが妥当、後期は特に国が乱れ中国大陸沿岸部にまで「飢えた武士」が食料強奪のため襲う(倭寇)
一座ざわめく(1338)足利将軍 

倭寇が、前期・後期の戦乱期時期に隣国沿岸を襲う、

[前期] 南北朝時代: 朝廷は南北に分かれて抗争していた。1338年の 室町幕府開設は南北朝戦乱中の出来事で戦乱は56年間(1336〜1392)続いた、(1336 湊川・楠正成、後醍醐天皇は吉野山)(「南北朝時代」)が、第3代将軍 足利義満の時(1368年〜)に、義満は南北朝廷の調停に成功、外交実権も所持し、一時的に「明・永楽帝」との朝貢(勘合・冊封)貿易(明の臣下としての貿易 1404年〜)で国富を向上(金閣寺・銀閣寺)。足利義満は 1408 に死亡。

足利義満は 明国皇帝を世界1の実力者、自分を含めた武士階級は2番目、天皇家は3番目 と考えていたフシがある、その根拠は金閣寺の構造に現れているとの説がある、すなわち金箔の3階は中国様式、金箔の2階は武家様式、無金の1階は皇居を意味する と。

その後は 中国貿易・武士集団・朝廷 を統合する実力者は現れず、日本国は無政府状態へと向かう。

註 :  明 も永楽帝の死 ( 1424 西方遊牧民平定作戦中に死亡 )、を切っ掛けとして滅亡へと向かう。したがって 日本と 明 との勘合貿易(朝貢貿易)も 1424年 で終わる。
将軍(8代目)の意思むなし(1467)応仁の乱 

【応仁の乱 をきっかけに100年間の無政府状態】 [後期]戦国時代: 応仁の乱(1467からの10年間 をきっかけに)室町幕府後半の戦乱期間は101年間(1467〜1568)続き、織田信長入京(1568)から日本は政治的安定期間(明治維新 1867までの300年間)に入って行く。 
原因は 政治家の無能(足利将軍家が二つに分裂、全国から武士が京都に結集し2派にわかれて抗争)」。1568 織田信長入京で収まる、この乱世を「戦国時代」 (日本全国が無政府状態) という。

武装した兵士が全国各地から「食料は現地調達」で京都に集結したため、武士は町民から食料を奪った、食糧難での戦乱が長引いたため餓死者が街にあふれ、戦闘で死ぬ人間よりも「飢えて死ぬ」人間の方が多かった、特に、荘園という食料供給源を奪われた公家の女性たちは屋敷に正座したまま死んでいった、ある画家は、美しい女官が正座したまま死に、ネズミに食われ、骸骨となって崩れ落ちる瞬間までの経過を絵に描いて残している。
[1571年9月、比叡山(延暦寺、仏教本部)焼き討ち]
滋賀県 大津市の延暦寺で僧兵軍団を織田信長が滅ぼした。この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとくはねたと言われている。
1991年、延暦寺は 鎮魂塚を建立し、宗教が政治に謝罪。毎年 9月12日になると追善法要がひっそりと営まれている(★筆者註、宗教が政治に謝罪した例はほかにもある(1992 ローマ教皇が ガ゙リレオ・ガリレイ の破門判決(1633)を撤回)が鎮魂塚建立・毎年法要 は類例がないと思います)。
 
この時代(1644年前後、永楽帝の死直後)は東洋世界も戦乱(清国が誕生しつつあり明国が滅びつつあった、朝鮮半島では 李氏朝鮮が明国に付くべきか清国に付くべきかに悩んだ。「清国」興り(1636) 結局清国に隷属した
 
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[前期倭寇] では鍛造された優秀な刀( 日本刀 )を主武器に隣国沿岸を襲う。
[後期倭寇]戦国時代)では鉄砲を主武器に隣国沿岸を襲う日本の武士が現地の悪人を雇い指揮した。
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織田信長は 1573 室町幕府を滅ぼし 「安土時代」 を興す。
13381453年(115年間)イギリスとフランス、100年戦争
一座ざわめく(1338)100年戦争 
特記この時期は、中国でも明朝末期の乱世、日本でも応仁の乱以後100年間の乱世、西欧でもイギリス×フランス 100年戦争、ほぼ同じ時期にユーラシア大陸の東西で乱世あり、日本では 1338年の 室町幕府開設は南北朝戦乱中の出来事で戦乱は56年間(1336〜1392)続いた、その後 応仁の乱(1467からの10年間 をきっかけに)室町幕府後半の戦乱期間は101年間(1467〜1568)続き、織田信長は入京(1568)によって日本の安定の先駆けを民衆に見せつけ、かつ強引な手段(寺院の武装解除)を取って「武士だけが武装出来る」ことを見せつけた。以後、日本は政治的安定期間(明治維新 1867までの300年間)に入って行く  

オルレアン[惰性的原因]  :  ノルマンコンクエスト後のイギリス(イングランド朝)フランス(ノルマン朝)のあいまいな政治経済統治 
★、関連1(1066頃ノルマン人大移動直後西欧図)
★、関連2(ノルマンディー公イングランド王についての説明)
 寸考 なぜ、科学の芽生え(1360ころ)もまだ無かったのにイングランド朝が強かったのか?
それは、ノルマンコンクエストの政治的潜在力を足掛かりにして、イングランド朝はペスト惨劇(1349 ロンドンで5万人死亡)後の人口減対策として農奴(農民)の地位向上(穀物栽培→羊の放牧、賃金の支払い)が図られ、庶民の生活意欲がノルマン朝庶民に比し高かったから、両国分離(1154)後もイングランド朝はフランス本土各地に私有地を持ちフランス農民を相変わらず奴隷のように酷使していたのでノルマン朝庶民の生活意欲は低いままだったから。

[直接的原因]  : 1420 トロワ条約によりフランスは国王の死後イギリス領となった。だが、イギリス王も死去し生後間もないヘンリー6世が即位、フランス王太子シャルル7世は王位を復活させるとの意思表示を行なう、しかし、イギリスはブルゴーニュ公国と組みフランスに侵攻した。シャルル7世が 王 となるには、ランスで戴冠式を挙げねばならない。しかし、ランスはイギリスの制圧下に在り、フランスの要衝オルレアンも包囲されている、なので、 「フランスが救われるためにはのは 奇跡 が起きる事が必要」 と言われ始めていた。

[結果]  : 戦いは終始フランス領土内部で断続的に行われフランスは負け続けた。1429年フランス最後の防御線と考えられたオルレアンも陥落寸前、フランス民衆が戦争に嫌悪感を抱いたときに、ジャンヌ・ダルク開戦後91年目に現れ、「民衆の怒り」という神通力を開発して兵士たちを軍事的に励まし劣勢を挽回し、オルレアンの戦いに勝利する。以後はしイギリス軍の戦意は衰弱し、軍は徐々にイギリスへと帰って行き、1453年7月17日、フランス軍はカスティヨンの戦いに大勝しタルボット(イギリス軍司令官)は戦死、10月19日に再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終息する。
註 : 画像は 世界の歴史まっぷ より頂きました。
★ : 、「イングランド朝」が島国としてのアイデンティティーを確立したのは 1558 年、「最後のフランス所領カレー」を失って(1558 フランス・ギーズ公に負ける)エリザベス1世(1558-1603)が登場した時からです。
ジャンヌ・ダルクの本心について、Wikipedia より引用
「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒した時の軍事行動はどんな軍隊よりも強い」

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参考アジア史簡略表 : 日本では 室町幕府前期 : 3代目将軍 足利義満 治世を含む時代(1368〜1392)に相当する。中国では「明朝初期」、 鄭和 と 永楽帝 の時代(西欧との海洋交易に一時期手を染めるが永楽帝の死1424年 で消滅)に相当する。イングランドとフランスは100年戦争後それぞれに地球規模で人民が活躍するが日本は「鎖国」という「国内安定・民衆文化開花」から「開国」への道を歩み、中国は 「清朝」という終末帝国から崩壊(革命)へと向かいます。

1347年10月〜1390年〔(第1期3回、43年間)ペスト病、ヨーロッパに大流行、イタリアのシチリア島に上陸し全ヨーロッパに拡大。
第2期はイギリス(ロンドン 1592〜1593)、
第3期はオランダ(マーストリヒト)・イギリス(ロンドン 1664〜1665)

人々はユダヤ人の清潔好き、ポーランド人の生活習慣(アルコールを飲まずに消毒に使う、ポーランド人はネズミのいない広い自然環境や生活空間で生活しているのでペストにかからない)を観察してペスト対策を講じてゆく、やがて検疫制度(ペストに感染した船か否かを特定の検疫港で停泊させて観察)を確立してゆき、ローマ法王も宗教者としての立場を超えて「病理解剖」の許可を出して「科学」的にペストと立ち向かった。

ペスト菌の発見とその病理は日本人の北里柴三郎(1894,日清戦争の年に香港で)になってやっと解明された、北里はペスト罹患者の血を吸ったノミを磨り潰してネズミに接種してネズミにペスト病を発症させた。しかし、ペスト菌の学名は北里に数日遅れて発見したアレクサンダー・エルサンにちなんだ名が付けられています、このことについての説明はここでしています
1348年5月 ローマ教皇クレメンス6世はいかなる宗教儀式を用いてもペスト病を治療するという「奇跡」を起こすことが出来ず、信徒を見捨てて総本山(当時はローマではなくアヴィニョンに在った)を脱出。
1350年、ヨーロッパ全域、ペスト大流行、人口の 3割 が死ぬ。

以後、 【宗教現象は衰退】し、「病気」と言う「悪」の観察数値化現象が起こり、
1360 頃、【科学現象が芽生えた】
荷船の係留実験、3ヵ月間係留してもペスト病が船内で発生しなければ荷船を移動させても良いと判明した。以後、仮説 ⇒ 実証 記録、数値化 という科学の基本経験の蓄積が始まった。

〜〜〜〜〜〜〜以下は 挿話27 ペスト病の大流行です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
寸考(私たち現代人はパクス・モンゴリカから何を学べるでしょうか?) 
政治的な広域平定の点ではパクス・ロマーナと同じ、やがて衰え消えてゆきましたので学べるものは特に無いといえるでしょう。 
宗教現象としては「血縁信仰」が認められ、これも最古の人類の本能的宗教現象なので学ぶものは特にない。 
科学現象としても多分「黒色火薬」と「方位磁針」「紙」「陶器による活字印刷」をヨーロッパに伝えたことくらいでしょう。 
パクス・モンゴリカから学ぶことができるのは「ペスト」だと思います。ペスト菌を故郷のヒマラヤ山麓から掘り起し交易経路に乗せてヨーロッパに運んだことに何らかの示唆を感じます。
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「平定」された状態にあるとき、人は「満足」し「足元のあやうさ」を疑わなくなる。当時、ヨーロッパの人々は「満足」した生活をし、人がペスト病で、全身が真っ黒に変色して、繰り返し大量に死んで行くとは思いもしなかった。ましてや、原因が遠く離れたヒマラヤ山麓に存在したとは。
私は次のことを直感しました、すなわち、現在を生きる私たちは「科学」によって「平定」されて「満足」し「足元のあやうさ」を疑わなくなっているのではないか? 「突然の大量死・原因不明・後になってやっとわかる」という状態下を今生きているのかもしれないと。
この直感は科学的ではないので科学的に追及しても「足元のあやうさ」は発見できない。皆様はどう思われますか? 
パクス・モンゴリカから学ぶことのできるもう一つのことは、その後の東西格差です。
共に「中世」を生きたユーラシアの「西端地域」と「東端地域」はペスト事件を境にして文明度に大きな格差が生じて行きます。
ペスト事件直後までは、「軍事」でも「東端地域」が圧倒的に強かったし「文化」でもマルコポーロが書き残しているように、「東端地域(含日本)」の方が「西端地域」のルネッサンスよりも優れていたのです。

ペスト事件を乗り越えた「西端地域」は「科学」をよりどころに、たちまちのうちに「産業革命」、「植民地搾取経済」、「帝国主義」を発達させ、「東端地域」は「西端地域」によって「侵略」され続け、かろうじて「侵略」を跳ね返したのは「日本」だけでした(しかし、最終的(WW2)には「侵略」されてしまいましたが)。

この「文明格差」の東西逆転の「芯(新)芽」は、ペスト事件直後にあるはずです。私はこの「芯(新)芽」にこそ人類の今後を予見する手がかりがあると思います。いったい何があったのでしょう? おそらく、「発明」に関する多数の原因の相互作用が幾重にも作用したのだと思います。
これを解明する事の出来る手がかりの一つとして、下記の加 藤 茂 孝 氏のPDFからの次の通りの引用文が重要だと思います 
引用文 「(ペストが与えた)社会への大きな影響」
イギリスでは労働者の不足に対処するため、エド ワード3世がペスト流行以前の賃金を固定すること などを勅令で定めた(1349年、この年ロンドンだけ でペストで5 万人が死亡)ほか、リチャード2 世 (在位1377〜1399年)の頃までに、労働集約的な 穀物の栽培から人手の要らないヒツジの放牧への転 換が促進された。こうしてペストは主として農村に おける人口減という過程を経て、ヨーロッパの農業 形態まで変え、農奴から小作農への切り替えがすす み、農民の地位が向上することに繋がった。多くの 農地が無料にもなり、小作農と労働者という新しい 社会階層を誕生させることになった。 また、当時の教育は少数の学者に依存していたが、 ペストでの被害者もこれらの学問の長老に多かっ た。ペストによる学問の衰退を逃れるために、イギ リスのケンブリッジ大学の3つのカレッジ(単科大 学)とオックスフォード大学の2つのカレッジが設 立されている。また、イギリスでは1066年のノル マン人による征服以降、フランス語が教育用語に なっていたが、・フランス語を教える多数の教師たち もペストで死亡し、イギリスでは次第に自国語であ る英語の教育が盛んになってくる。 
註 : 画像中の専門用語は独立行政法人 理化学研究所 加 藤 茂 孝 氏のPDF(第4回「ペスト」−中世ヨーロッパを揺るがせた大災禍 )よりいただきました ペスト

ペストは、1320年頃から1330年頃にかけては中国で大流行し、ヨーロッパへ上陸する前後にはマムルーク朝などイスラム世界でも猛威をふるっている。この病気が14世紀のヨーロッパ全体に拡大したのは、

モンゴル帝国によってユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが背景になっている。当時、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツの銀、毛織物、スラヴ人奴隷などを対価とし、アジアの香辛料、絹織物、宝石などの取引で富を獲得していた。こうしたイスラームとヨーロッパの交易の中心となっていたのは、インド洋、紅海、地中海を結ぶエジプトのアレクサンドリアであり、当時はマムルーク朝が支配していた。

1347年10月、ペストは、中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたく間に内陸部へと拡大した。コンスタンティノープルから出港した12隻のガレー船の船団がシチリアの港町メッシーナに到着したのが発端といわれる。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミに寄生し、そのノミによってクマネズミが感染し、船の積み荷などとともに、海路に沿ってペスト菌が広がったのではないかと推定されている。

ペストはまず、当時の交易路に沿ってジェノヴァやピサ、ヴェネツィア、サルディーニャ島、コルス島、マルセイユへと広がった。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。正確な統計はないが全世界で8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3,000万人前後、イギリスやフランスでは過半数が死亡したと推定されている。場所によっては60パーセントの人が亡くなった地域もあった。

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この疫病がヨーロッパに到達した数か月ののち、ローマ教皇クレメンス6世は、当時のカトリック教会の総本山のあったアヴィニョンより脱出した(1348年5月)。
以上の画像・文章は Wikipedia より頂きました

夫は羅病した妻を見捨て、親は羅病した我が子を見捨て、神父は羅病した信徒を見捨てたのです。

〜〜〜〜〜〜〜以上は 挿話27 ペスト病の大流行です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以後、 【宗教現象は衰退】して行き、「病気」と言う「悪」の観察数値化現象が起こり、
【科学が地球を覆います】
この現象は、2011年の日本で、福島第1原発(核力発電所事故)発生までの長期間(661年間 { 2011-1350=661 } )続きます、長期間とは言ってもパクス・ロマーナの延べ1500年間に及ぶ政治現象に比べれば短いですが。



【c1368年「元(大元)」滅ぶ、モンゴル帝国の中心国は無くなり、モンゴル系統諸国はユーラシア大陸に点在する。中国大陸地方、「大元」国は 次に登場する 明国 に北へと追われ(「北元」 と称し国は続く、首都はカラコルム)中原 を捨て蒙古高原に移った(民族の故郷へ帰ったのです)
【c1368〜1644年〔276年間〕明国 興る
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中国大陸地方、明国 興る、「明」は「大元」を北部地方(モンゴル民族の故郷, ウランバートル地方(首都はカラコルム) へと追い払う、モンゴル民族はそこで「北元」と 称して1634年まで存続する、Wikipedia氏はこの年をモンゴル帝国の終わりの年と見ている)。
1381年小銃(原始的火縄銃と思われる)の発明、於神聖ローマ帝国 (出典は「世界歴史年表・地図」吉川弘文館 p42)。
ただし、青銅砲身式原始的火縄銃 はモンゴル帝国で 1288年 に発明されていた(出典は、相沢 洋孝 氏 ホームページマスケット銃の歴史 )。
約100年(1381-1288=93≒100)かけて改良された小銃は実戦で使われたと思われる。
しかし、下記(1389年)書き込みの通り、最後の十字軍(ハンガリー王率いるニコポリス戦)ではオスマントルコに負けているのでこの銃は日本の織田信長の長篠の戦 (1575) ほどの性能にまでは達していなかったと推定する事ができる。
1389年
6月28日(グレゴリオ暦) コソボの戦い。1389年6月28[グレゴリオ暦]、コソボ平原で、セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチ、ボスニア王スチェパン・トヴルトコ1世(英語版)、ワラキア(現在のルーマニア)大公ミルチャ1世などからなるバルカン半島の諸侯軍(東ローマ帝国 {ビザンツ帝国} も反オスマンでした)が、小アジア(トルコ半島)で勢力を伸ばしつつあったムラト1世率いるオスマン・トルコ帝国軍セルジューク・トルコ帝国 ⇒ イル汗国 の後に興ったこの時期のオスマン・トルコはまだ小国だったと会戦した。戦いはオスマン軍の大勝に終わった。オスマン・トルコ帝国はドナウ川以南の支配権を確立、2018現在のバルカン諸国地図はこれ、敗戦地となったコソボはセルビア王国(スラブ民族)聖地となった。この戦争は西欧諸国に イスラムからの侵略危機感 を抱かせ、最後の十字軍が急きょ編成され、ハンガリー王が指揮を執って(ニコポリスの戦い 1396年)オスマントルコと戦ったが完敗  Wikipedia 「コソボの戦い ニコポリスの戦い」 より引用。
私は、この戦いが、後日、世界大戦の世紀と言われる 20世紀 の世界大戦の 芯芽(根源的原因、遠因)であると思っています、その思いの短文はここ  鳥観的考察 にあります   なお、2018,2 現在の (わたしの意見)はここにありますこの短文(わたしの意見)位置 の 上部・下部 も見ていただけたら嬉しいです

アジア史簡略表記はここ、他世界と比較のために 

1390年ペスト、ヨーロッパでの第1期(3回)流行は終息する(ただし、その後ロンドンやハーグなどで極地的に発生)。
1392年〜1910年(518年間)李氏朝鮮
小さな朝鮮半島国で 李氏 の支配が 518年間 も続いたことは人類史上ここだけ。なぜか? それは、中国大陸に発生しては消える代々中華政権に隷属したから、隷属思想は儒教(朱子学)、この思想は強い者に隷従する知恵に満ち、独創を排除し変化を嫌い、身分を2つに固定する、すなわち、支配階級と被支配階級(奴隷)。支配階級は 「党争(国内政治闘争)」を延々と繰り返し、決して地球規模の発想はしなかった、1910年に日本に併合されて初めて国際社会秩序に組み込まれた 

【c1405年〜1433年月日(28年間、7回)鄭和の大航海
鄭和永楽帝
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鄭和はもとは雲南出身で馬和を名乗るイスラーム教徒であった。明が雲南を征服したとき捕虜となって、宦官(かんがん)にされたらしい。詳しい経緯は判っていない。後に永楽帝に仕え、靖難の変で功績を挙げ、信任されるようになり、鄭の姓を与えられた。永楽帝宦官(かんがん)明の統治の域外に派遣して朝貢を促し、中華帝国を再現しようとしたが、その一環として鄭和を南海に派遣した。鄭和は大艦隊を編成して東南アジアからインド洋、アラビア海に大航海を行い、明の国威発揚と、朝貢貿易の拡大に努めた。 世界史の窓より。
なお、日本国は室町時代、 足利義満 が日本国を明と朝貢国(勘合貿易国)契約を結んだ(1404)。しかし、永楽帝の死(1424)でこの契約は終わる。
 

鄭和 南海(南アジア〜インド〜ペルシャ〜アラビア〜アフリカ大陸東海岸北部)遠征。7回目には支隊がメッカに至る。この南海遠征の冒険は永楽帝、明朝初期の皇帝1代限り(永楽帝は西方遊牧民平定作戦中に死亡、1424 )で終わる。
註 : 下の画像は Wikipedia から頂きました ここの画像(日本の戦国時代を取り巻く世界情勢図)ともつながりまます     ディーウ沖海戦(1509,2)はここ
鄭和南海遠征
ソロモンとシバの女王 についてはここ
ディーウ沖海戦はここ

明の官僚達は鄭和の南海遠征に関するすべての資料を焼却処分した。その理由は「財政の破綻への恐れ」。

南海遠征事業の目的は「朝貢国を増やす」だった。

朝貢 は「貿易とは言えず、簡略に表現すれば、永楽帝の虚栄心(世界の傑物との評判を得たい気持ち)」を満足させる事でした。

朝貢国は増え 明 に貢物(みつぎもの)を届けに来る国の数は増えたが、明は受け取った貢物の価値を10倍以上も程度上回る「下賜物」を与えたため 明 の財政力は破綻寸前にまで低下した。
永楽帝の存命中は不満を押し殺していた官僚たちは 永楽帝 の死(1424)を知るやたちまちの内に秘密裡にすべての関連資料を焼き尽くし「異常朝貢事業」を歴史から消した。
1400年初〜1500年代、イタリア中心のヨーロッパ、古代ギリシャ・ローマ時代に栄え、1400年当時は 廃墟となって居た地域で栄えていた古代地中海文明を復興・発展させようとしたルネッサンス(文藝復興、古代ギリシャの哲学(数学、物理学を含む)は中東のイスラム(サラセン)世界が受け継いでいた)の流れ。宗教(キリスト教)に代わって「科学」が人々を新しい世界(産業革命・資本主義経済・帝国主義)へと導いた。日本は、足利義満金閣寺(1397)、世阿弥・能(1418)、足利義政銀閣寺(1489)、ポルトガル人・種子島・鉄砲(1543)、ザビエル(1549)、桶狭間の戦い(1560)、豊臣秀吉・朝鮮出兵(1592〜96)、関ヶ原の戦い(1600)
1429年ジャンヌ・ダルクというオルレアンの乙女が現れ、フランスに奇跡的な平和をもたらす。イングランド と フランス の100年戦争中、彼女は「神の啓示を受けました、私が軍を指揮すれば必ずイギリス軍を追い帰します、神のご意思なのですから」
100年戦争開始記事はここ終了記事はここ
オルレアンと弱き王位継承権者(シャルル7世)を元気づけ、かつ実戦でも占拠されていた地域の解放(オルレアン城奪還戦での勝利)、その後も勝ち続け、シャルル7世をランスで戴冠させ、正式な「王」が定まった。 当時のイギリスとフランスは共に政治的な混乱状態、すなわち、プランタジンネット・イングランド朝の統治能力不足と侵略性 及び、ノルマン朝・フランス政治の自滅状態(精神病)のため、ズルズルと100年間もの間フランスの国土は踏み荒らされた、91年目(1429-1338=91)にジャンヌ・ダルクが決着へと導いた。
映画 「ジャンヌ ・ダルクの概要解説」 はここにあります

私は、Wikipedia の記事の中で紹介されているジャンヌ・ダルクの気持ちは実にわかりやすいので大意を書き留めさせていただきます。
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(紹介されているジャンヌ・ダルクの気持ち)

「雲の上の王族たちが小競り合いを繰り返したとしても市井の人々の暮らしは何も変わらない。ただし、市民が祖国存亡の危機だと激怒した時の軍事行動はどんな軍隊よりも強い」

この軍事概念はこれまでの戦争には無かったものです、ジャンヌが指揮した戦争の「強さの秘密」とは決して神がかり的なものではなく「新しい戦争=主権在民戦争」を起こしたからだと思います。
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彼女は正規の軍隊から妬まれて捕えられ、復讐の目的で開かれた不公正な宗教裁判で「火あぶりの刑」に処せられました。
寸考 : ジャンヌ・ダルクと魔女
1431年1月宗教裁判(異端尋問)で「死刑」判決、   1431年5月死刑執行(火あぶり)19歳、   1456年7月復権裁判で「無罪」、 1909年4月「聖人」に加えられた、  
★筆者註、ジャンヌ・ダルク裁判は「異端」裁判であり、「魔女」裁判ではない、「魔女」裁判も 1400年代には多く行なわれたようです。「魔女」が復権して「聖人」となった例は無い。当時 魔女 と言われた人は精神病者で、病者の異様な行動が人々を恐れさせた結果、社会が病者を排除したのだと思います。
 
1453年東ローマ帝国(ビザンツ帝国)滅亡、原因はイスラムの大国オスマントルコバルカン半島を北上し且つ紅海沿岸地方にも覇権を及ぼしたために首都コンスタンチノープルはオスマントルコ帝国領内の都市国家と化して孤立、国家の象徴であるアヤソフィア大聖堂へ通じる水路の入り口を太い鎖で封鎖して抵抗し、ローマ教皇やヨーロッパ諸侯に援軍派遣を要請したが反応はほとんど無かったと言われている。
太い鎖は有効だった。オスマントルコ軍は 太い鎖 対応に、地面に油を塗り、その上を70隻もの船を引き摺って反対側の広い海域に次々と降ろすという奇策を成功させた。東ローマ帝国皇帝は行方不明となり帝国は滅びた。アヤソフィア大聖堂は巨大で華麗な巨大モスクに改装された。

これで古代ローマが発散してきた 政治現象 は幕を閉じた
しかし、その宗教現象は生き続け、西ローマはローマ教皇のキリスト教(カトリック教)としてヨーロッパ世界の精神的拠り所となり続け、1800年のナポレオンの時代までは粘り強く影響力を持ち続けた。
一方、東ローマは 正教会(ギリシャ正教)としてロシアの精神的拠り所となり続けロシア社会の文化性を高めた(例 : キリル文字)。反面スラブ民族意識を狭く深めた反動としてのロシア共産主義革命国家を70年間実践して失敗し、現在(2018)に至っては再び正教会(ギリシャ正教)が民族主義をあおり宗教現象が政治現象とが一体化してスラブ民族主義(汎スラブ主義)の台頭を来たし、人類に危機感をもたらしている。

ギリシャ正教系キリスト教はカトリック系キリスト教のように宗教改革や宗教戦争での試練を経ていないのでその純粋性は高く評価することが出来るとしても宗教団体としての社会性には欠けているのではないかと危惧しています。

他方、以後のオスマントルコ帝国はイスラム世界を代表する大帝国となり続けて、1853年のクリミア戦争ではヨーロッパ側に加わってロシアと戦った。
そして、以後のヨーロッパ諸国はイタリアを中心にルネッサンス(ギリシャ文明復興 (1400-1600)へと歩んで文化度を高め、1853年のクリミア戦争ではオスマン帝国と同盟してロシアの南下政策に共同で対抗しロシアに完勝した。
1453年、イギリス×フランスの100年戦争終わる。実質115年間もの長期戦でした、開始記事はここ。途中(91年目)にジャンヌ・ダルクという「一見ごく普通の少女」が現れ、ドロ沼状態の戦争の終結(フランスの勝ち)を速めた。イングランドはフランスに持っていたほとんどの領土を失い、次いで、1558 に完全に失った。
この戦争の後世への影響は大きく、両国は自らのアイデンティティー(自分は何者か?の問いへの答え)を確立しはじめ、イングランドは海洋大国・産業革命へ、フランスは国民国家形成へと向かう。
1455年、グーテンベルクが活版印刷を完成、ドイツ、「グーテンベルク聖書」と呼ばれる最初の印刷聖書「四十二行聖書」は1455年に完成した。約180部を印刷し、多くは紙だが、一部は羊皮紙に印刷された。Wikipedia。インターネットが印刷を包み込む(1995)までに 540年 しかかかっていない。
1455〜1485年〔30年間〕、イギリス内戦、バラ戦争、イギリス名家諸侯同士の30年間に及ぶ内戦、フランスとの100年戦争の間に発生したイギリス側の矛盾が噴出した。
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1485年、イギリス内戦終わる。
1492年アルハンブラ宮殿(城、1240年頃建立)陥落、イベリア半島の南端グラナダ地方を代々領有してきたイスラム朝は、カスティーリャ王国とアラゴン王国の連合王国(のちのポルトガルとイスパニア)によって1492年1月2日に滅亡。レコンキスタ活動がついに 770年間もの時間をかけて成功した( [1492-722] = 770 )のです。
アルハンブラ宮殿(城)無血開城の聞き書きをここに書き込んでいます 

レコンキスタはスペイン語で「再征服」を意味します。イベリア半島の大部分は 711 年以来イスラム勢力の支配下にあった、722年に初めてイスラム軍を破った。

ヨーロッパ中世社会が実力をつけて来たのです。
イベリア半島地方概略史
古代ローマ時代(BC500〜AD500)は「イスパニア」と呼ばれた(ニッポニカ大百科)辺境の地だった。AD500〜AD1066民族大移動時代。」この時代にイベリア半島はアルハンブラ宮殿を拠点にイスラム教徒が支配した、中世封建秩序図参照、1492年のアルハンブラ宮殿陥落以前はイベリア半島の北部に追いやられ「カスティラ・アラゴン地方」と呼ばれていたカトリック教君主が大きな手柄を立てたためイタリアのローマ教皇から頼りにされるようになり、ヨーロッパ封建諸国からも尊敬された。以後「カスティラ・アラゴン地方」は「スペイン国・ポルトガル国」とよばれ、大きな自信をもって地球のあらゆる方面に帆船で出かけた、二国は地球の受け持ち地域を次の通りに分担した、「東方はポルトガル、西方はスペイン」。やがて2国は「同君連合(1580-1640,60年間)」と称して合体しスペインが代表国となる。日本に鉄砲を伝えた(1543)難破船は同君連合前のポルトガル船、ザビエル(1549)が乗ってきた船もポルトガル船、だが、山田長政がアユタヤ(タイ国[シャム国])で日本人部隊を指揮して追い払った(1630)時の外国船は同君連合中のスぺイン艦隊。

 
アジア史簡略表記
アジアの諸状況、{( [ 中華地方(中国大陸地方) ]、{ 日本 }、<その他、・・・> )}
===政治現象=== 
[ 中華地方 (中国大陸地方)]国の代表者[皇帝]は2011年までに10回程度替わっておりそのたびに文化文物は破棄されてきました、ただし人権無視の習慣(宦官・纏足)だけは皇帝が変わっても受け継がれてきました
【BC1400〜BC221(1179年間)】「殷」「周」「燕」「楚」等の国々が現れては消滅の乱世 出現と消滅、最終時期(BC722〜BC221)が「春秋戦国時代」  【BC 685年】宦官制度発生、(1911年「清」滅亡と同時に廃止)    【BC221〜BC202(19年間)】「秦」による初統一、後期に 劉邦×項羽、劉邦勝つ   【BC202〜AD220(422年間)】「前漢・後漢」  【166年】ローマ皇帝マルクスアウレリウスの使者来訪   【220〜265(45年間)】>「魏」「蜀」「呉」の分裂国家   【265〜420(55年間)】「西晋・東晋・前秦」等の分裂国家   【420〜589(169年間)】「宋・北魏・北周」等による小国家乱立  【490】「纏足(てんそく)」文化発生 1911年(「清」滅亡)後もしばらくは続く   【589〜618(29年間)】「隋」の文帝初「冊封体制」を実施。   【618〜907(289年間)】「唐」  【624年】新律令を公布し、均田法、租庸調法を定む   【907〜960(53年間)】十国・五代大分裂国家時代   【960〜1271(311年間)】「北宋・南宋・金」等 の分裂国家、北宋の経済繁栄はマルコポーロの東方見聞録(1299)に記され、人々は 「ヨーロッパのルネッサンス(1400初〜1500年代)に先行していたと驚いた   【1271〜1368(97年間)】「元」または「大元」(モンゴル帝国の中心国)」   【1368〜1644年276年間)】「明」   【1644年〜1911年267年間)】「清」 【1840年】アヘン戦争  【1851〜1864年】太平天国の乱 、【1895年】日清戦争敗北 【(1899ー1901)】義和団事件 【1911年】辛亥革命

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(寸考、西欧との比較)
「城壁」「方位磁針」と「女性美」「スポーツ」
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地勢図上、広大な内陸が果てしなく広がる 中華地方 では集落の安全保障上「城壁」が最大の価値だった。また、広大な平原を白昼に高速で移動しつつ戦う時に「目印星座」は不要で「方位磁針」が必要だった、「方位磁針」は「日常生活の質向上」の必要よりも先に「殺人用具」としての必要を満たすために発明されたのです。

西欧ではすでにBC800年頃に「女性美は『富』という文学(イーリアスとオデッセイ)」や「スポーツの祭典(オリンピック)」が現れているのに比し、 中華地方 ではBC550年ころに、やっと、戦争に明け暮れる中での「処世術(儒家思想)」が現れていることは 中華地方 が「処世術は『富』」と切実に考えていた事をうかがい知ることができます。

中華地方 は民族性として生来的に、実用性の分野での発明(黒色火薬〔城壁に穴をあける〕、「方位磁針、紙〔軍事命令用紙〕」、活字〔陶器製活字〕)では優れていたが「真」「善」「美」という超現実の宗教性の分野では劣っていたと理解することが出来、2015年現在の「富国強兵政策」の本源はここにあると思います。この国の今後の課題は「超現実」という精神性開拓だと思います。
{ 日本 }国の代表者[天皇]は2021年現在に至るまで一貫して 皇統コウトウ という世襲制、ほぼ2000年にわたって国の代表者が変わらない 国 は日本国だけです、古代ローマは約1000年で滅んでいます
BC3500〜BC300【縄文土器の時代】、AD57〜〜(倭人・金印、この時期、古代ローマでは 皇帝ネロがキリスト教徒をライオンに食わせた、AD50)〜〜247年【弥生土器の時代】 邪馬台国女王 卑弥呼?(在位 175〜195?中国の文献にはあるが日本の文献にはないし 陵[墓]も無い)、 【300〜593 古墳時代 仁徳天皇陵 このころから、国の代表者 [天皇] は2021年現在に至るまで一貫して 皇統コウトウ という世襲制】  【593〜710(117)年間】飛鳥時代、聖徳太子(推古天皇[女性]の実務者、大化の改新の準備者)、663年(聖徳太子の死後)「唐」と白村江の戦いは敗戦   【710〜794(84)年間】奈良時代、東大寺大仏完成 752年   【794〜1192(398)年間】平安時代、源氏物語(紫式部作、1010年)
▲▲ページの先頭へ▲▲   【1192年〜1338(146)年間】鎌倉時代、武士の源頼朝が朝廷から政治の実権(内政)を奪う、 【1274年】「元」に突然襲われる第1回元寇  【1281年】 第2回元寇   【1338年〜1573((235年間))年間室町時代、足利尊氏
註 : 足利義満は「明」の永楽帝と1404年に冊封契約を結んでいる
【前期と後期の戦乱期有り】武士が倭寇となりが朝鮮地域〜中華地域沿岸で海賊行為や密貿易を行った、
 [室町時代の前期 南北朝時代の混乱、1338〜1392,54年間] 、義満が調停して治まる、明と交易、金閣、銀閣
 [室町時代の後期 戦国時代 1467〜1568,101年間] この間に 応仁・文明の大乱,1467〜1477 (10年間) が あった。101年間 日本全土が無政府状態、飢えに困った将兵が倭寇となり、中国大陸東端南北沿岸を襲い主として食糧の略奪を行った。
日本国内は安定せず、「室町幕府」 とは名ばかりの政府で、諸大名が各地で争った、織田信長軍が京都に入って乱を鎮めた(1568)。  【1428年】室町幕府が初めての「朝鮮通信使」を招く 、  【1549年】キリスト教(カトリック)の伝来、フランシスコ・ザビエル  【1573〜1582年(9年間)】安土時代、織田信長、日本統一を目前にして部下に不意を突かれて焼死。 【1582〜1600年(18年間)】桃山時代、豊臣秀吉は織田信長急死後即座に京都で日本統一体制を作り、当時としては世界最大規模の国際戦を計画し中国大陸進出(朝鮮出兵)を果たしたが高齢のため死去、日本統一は豊臣氏の子孫ではなく実力者の 徳川家康 が果たした(1603〜1867)、  【1582年】豊臣秀吉、計量単位の統一し太閤検地実施、  【1587年】豊臣秀吉伴天連(バテレン)追放令、 キリシタン大名が高性能火薬をキリスト教宣教師随伴商人から買い、その代償を「人」で支払ている(火薬1樽=人間50人[女性が多かった])を知ったため  【1588年】豊臣秀吉、刀狩令(兵農分離令)布告、平民から「武力」を分離。  【1590年】豊臣秀吉、朝鮮通信使を2回招く  【1592年】第1回朝鮮(李氏朝鮮国)出兵  【1597年】第2回朝鮮(李氏朝鮮国)出兵、この戦争で李氏朝鮮国への援助で疲弊した「明」はヌルハチに敗れ(1636)、中華地方は満州族支配の「清」となった。     【1603〜1867(264)年間】江戸時代、鎖国、ただし長崎の平戸(のち出島)だけは開港、世界のあらゆる情報を得るため(1641年からは長崎の出島へと変更 [平戸よりやや南、より交通の便良し] だけ開港に変更)、
清国との交易について
清国の交易意欲は高かったので、幕府は貿易統制を強化しつつ、長崎に唐人屋敷を建て、清国人の居住を限定した。江戸幕府は 清国 にも 「開港」 していたのです  
 【1607年】徳川秀忠、江戸時代の第1回朝鮮通信使を招く、以後合計12回招く。  【1637年〜1638年】島原の乱(キリシタンの一揆)   
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【1868年〜】明治時代〜  【1895年】日清戦争(台湾領有、韓半島を清から切り離し日本の保護国とする)  【1902〜1921】日英同盟  【1905年】日ロ戦争勝  【1910年】日韓併合
<その他、朝鮮半島・・・>

590年〜675年(85年間)高句麗国、新羅国、百済国 並立、663年,百済国の脱落(唐が百済・日本 連合軍を打破、白村江の戦い)、668年,高句麗国の脱落、その後しばらく 唐 が半島を統治したがやがて半島を放棄
676年〜935年(260年間)新羅国
918年〜1392年(474年間)高麗国 、918年,建国 、1259年,元による征服 、
第1回元寇(1274),第2回元寇(1281)
元の直接統治 1287年、 1356年,元より独立 、1392年,解体 。
1392年〜1910年(518年間)李氏朝鮮国(清の属国)、1897年清の属国状態から日本の保護国へ、だが、名称は「大韓帝国」  1910年日韓併合(名称は「大韓帝国」だが実態は日本の植民地)。  
===宗教現象=== 
[ 中華地方 ]
【BC552年】(春秋戦国時代)、孔子が儒家思想(性善説)、申不害(韓非の師)が法家思想(性悪説)興こる 【BC97年】司馬遷、「史記」を著す   【350年頃】王羲之、書道を興す   【366年】敦煌石窟掘り始める   【390年頃】陶淵明、詩人、活躍   【405年頃】鳩摩羅什、仏教経典の翻訳に熱中   【505年】五経博士を置き学校を建てる   【629〜・・・・・45年】玄奘三蔵インド旅行、「大唐西域記」   【635年】ネストリウス派キリスト教(景教伝わる   【651年】イスラム教(回教)伝わる
{ 日本 }
【805年】最澄、「唐」より帰国、天台宗(仏教)を広める  【806年】空海、「唐」より帰国、真言宗(仏教)を広める  【905年】古今和歌集   【1001年】紫式部、源氏物語  【1225年】親鸞上人、『教行信証』、浄土真宗、「『なむあみだぶつと唱えれば』、肉食しても妻帯しても悪人でも救われる」  【1253年】日蓮上人、『法華経・辻説法』、日蓮宗、「立正安国論」「『なむみょうほうれんげきょう』と唱えれば人は救われる」「末法の世を救うことの出来るのは 日蓮宗だけ」と政治に関わる、鎌倉幕府から処罰、しかし、「蒙古襲来(元寇)」の予言は的中した。2名は仏教の大衆化に貢献  【1418年】世阿弥   【1549】フランシスコ・ザビエル、キリスト教(ローマ・カトリック、日本呼称はキリシタン)伝道来日 
<その他、・・・>
・・・・・・ 
===科学現象=== 
[ 中華地方 ]
【350年頃】江南に陶器技術発達
{ 日本 } 
1543年】種子島に鉄砲伝来
<その他、・・・>
・・・・・・ 

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1492年コロンブス(イタリア人、航海費用はスペイン王)、アメリカ発見(バハマ諸島に漂着、西インド諸島、フロリダ半島南、コロンブスは地球を西周りで航海しインドを発見したと思っていた、彼は死ぬまでインドは地球の東の端であり、西回り航海では必ずインドに到着する、彼はこの航路を数回往復したので自分は丸い地球を数回まわったと信じていた)

註 : 鄭和よりも 87年 あとの長距離航海ではあったが、鄭和が既知の航路を取ったことに対比した場合、コロンブスの新航路開拓の方を高く評価することが出来る、また、鄭和の後は中国の南海遠征は途絶え、中国の政治は内閉的・孤立的となり、且つ中国の文化はアヘンに蝕まれたり、民衆自らが「纏足」を希望する(清朝末期まで)などと奇形化していき、世界史の表舞台から転落する、その見方を取れば鄭和の南海遠征事業を企画実行した 明朝 永楽帝 は中国衰退・国家崩壊(辛亥革命)の先駆け者であったということが出来ます。
1498年4月、ヨーロッパ〜インドの航路開発、前年に発見された 喜望峰(キボウホウ) を通って、ポルトガルのバスコダガマがこれに成功、インドのカリカットに到達した(地球を 東回り する航海、ただし、地球1周では無い、に成功)。約20年後、マゼランは 西周り で地球を一周することに成功した。

【c1498年朝鮮政治の情緒的異常性(「復讐」や「恨み」) の原型「戊午士禍、ボゴシカ」事件
李氏朝鮮王国、「戊午士禍、ボゴシカ」事件、政敵の墓を暴き首をはねた。以後現在に至るまで果てしない「党争」が続く、2015年現在、世界で唯一の「同一民族分断国家」。
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1509年2月ディーウ沖の海戦
ディーウ沖海戦では圧倒的な強さでポルトガルが勝ち制海権を握りそのあとをイスパニア・オランダが引き継いだ。

註 : 古来からサラセン帝国系イスラム諸国等海洋交易国は海のシルクロード東方から船でやってくるコショウ等の香辛料や陶磁器、綿布・綿糸等の交易権を独占しその品々は陸路(砂漠)と地中海海路を経て地中海沿岸諸国へと運ばれていました。東方へは宝石(琥珀等)、工芸品、香水、干しブドウ、干しナツメヤシ、重い物(瓶詰めワインや石造彫刻品、金銀銅、毛皮・なめし皮等もあったと思われます)が運ばれました。

註 : 「海のシルクロード」と聞くとシルク(絹糸・絹布)が海路で運ばれたとの印象を持ちますがシルク(絹糸・絹布)は軽いのでラクダの背に乗せられて 陸 のシルクロードで運ばれ、船には乗せられなかったと思います。

この戦争は、そういった交易に関する既得権益国 対 喜望峰迂回新参国、すなわち直接中国や東南アジアと交易しようとして突然現れた新しい西欧勢力との大規模海戦でした。

地中海のベニス共和国やドブロブニク共和国(アドリア海沿岸国)というキリスト教国がイスラム教諸国(オスマン[トルコ]帝国・マムルーク帝国[ナイル川河口一帯支配]・グジャラート[インド西岸の国])等と協力し合って大艦隊を組織しポルトガルとの海戦に臨んだのですが大砲を積んだ荒海なれしたポルトガル船隊を寄せ集めの船団で防ぐことは出来ず大敗したのです。

この戦いの後、ポルトガルはゴア(ゴア州)、スリランカ、マラッカ、ホルムズといったインド洋沿岸の重要な港を急速に占領していき、エジプトのマムルーク朝やグジャラート・スルターン朝を無力化しました。

以下は 現代(2016)の IS 国 問題の解決方法についての 寸考 です 
2017,8,27 記
 


「聖地奪還」の戦いを仕掛けたのは重装備の十字軍でした。十字軍は突然イスラエル旧市街を襲撃(1095)し、残虐な方法で市民を皆殺しにしたといわれています、キリスト教国とイスラム教国の戦いはそれ以前から続いており、キリスト教国は劣勢でした、すでに 711年にはイベリア半島の大半を奪われており、奪い返しの戦争での初勝利は 722年 でした。

イスラム勢力に勝つには重装備・急襲・残虐の戦法が必要だったのですが、圧倒的な勝ち方をしたのは最初の「聖地奪還」の時だけで後は勝ったり負けたりの繰り返しが続き結局は「聖地奪還は失敗 1270」でした。イベリア半島グラナダ地方には美しいイスラム様式のアルハンブラ宮殿まで建てられていました(1240年頃完成)。770年間(1492-722=770)にもわたって優勢だったイスラム教国の勢いがアルハンブラ宮殿陥落(1492)後は勢いを失い、その後がこのディーウ沖海戦での敗北(1509)でした。

その後のイスラム世界(旧称サラセン世界)は歴史の表舞台から引退し続けて今日(2017)に至ります。

イスラム教諸国は決定的な自信喪失状態に陥ったと見ることが出来ます。その後イスラム教諸国に良いことは起こらず、自信喪失は現在まで続いていると見る事が出来ます。ディーウ沖海戦以降 508年間(2017-1509=508)もの長期間続いた自信喪失状態はユダヤ教国家からの追い打ち(現代中東戦争の25年間 1973-1948=25)も重なって自力では解決不能な絶望状態に陥っています。(2004年から始まり 2017 現在に至る  民主化を目指した アラブの春革命、{チユニジアに始まるジャスミン革命等} も先行き不透明です)

特にイスラム教徒の若い人たちは経済的な貧困にも陥って、栄光に満ち溢れていたかつてのサラセン帝国(622〜750)復活という夢に最後の望みをつないで IS 国 を作ろうとしているように私には見えます。

彼らにはモハメット(ムハンマド)のような指導者が必要であるにも関わらずそういう人物は現れません。現在は彼らの取る方法が極端に残酷であるために、欧米の先進諸国はなんと最新式の戦闘爆撃機やミサイルで彼らの住居地を「空爆」しています、よってたかって彼らを皆殺しにする予定らしいですがうまくはいかないでしょう、いくら殺されても次々と新人が現れ「目に見えない国」を作って生き延び 報復 するでしょう。解決の糸口は 「全く無い」 といわれていますが私は 「ある」 と思っています、それは「原点に立ち戻って考える事」だと思います。

原点とは、十字軍です。十字軍は1096年に、平和に暮らすエルサレム旧市街地を重武装で突然襲い住民を全滅させたといわれています。襲った理由は 「キリスト教の聖地を奪い返す事」 でした。しかし、当時エルサレムに暮らしていたイスラム教徒はキリスト教徒の巡礼者を暖かく迎え入れていました。決して宗教対立はありませんでした。

実際は、トルコ系・サラセン人(「イスラム」の中世式用語)によって、ボスボラス海境やダーダネルス海境(当時世界最大の東西貿易中継地)を占領され、慌てふためいた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が西ローマ帝国に対して援軍を求めた事によります。「領土を奪い返す」 ための戦いであって 「聖なるものを守る」 戦いの要素は全くありませんでした。

2017年の現在、IS国 のなりふり構わぬ暴力的復古主義(手段を選ばずにかつてのサラセン帝国の栄光を復活させようという主義主張)に立ち向かうにはこの歴史事実に立脚して、キリスト教国がイスラム教国に当時の残虐行為(エルサレム急襲大虐殺)を謝罪することに「解決の糸口」があると思いますが皆さんはどう思われますか? 
以上は 現代の IS 国 問題の解決方法についての 寸考 でした 

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1517年マルチン・ルター、ローマ・カトリック教会改革(宗教改革)を開始、於ドイツ、以後ネールランド(オランダ)、スイス、イギリス等の国へと広がって行き、キリスト教に沢山の分派を生じます。これがプロテスタント(抗議する者という意味)と呼ばれる会派です。

マルチン・ルターは「免罪符」の廃止をはじめとする 95ヵ条の抗議点をラテン語の書簡にまとめてローマ教皇に送ります。この書簡は直ちにドイツ語に翻訳され、広く人々に読まれ、「改革」の意識は高められ改革運動は広がって行きました。

「免罪符」は、十字軍(1096〜1270)への参加を奨励するために、ローマ教皇が「無料」で発行したのがその始まりです。それが一般化して、「目的は教会堂建設」と言って「免罪符」を売るように変わって行きました。

中世の西欧社会では「警察」がありませんでしたから「教会」が社会の秩序維持に一役買っていました。悪いことをすれば「告白」し「反省の祈り」をし「償い、つぐない」をしをしなさい、ということです。教会は理想的な「神の世界」に人々を導こうとしますので次第に「小さい悪」にも「反省の祈り」と「つぐない」をさせるようになります。

一生を普通に過ごしても「反省の祈り」と「つぐない」は大量となります。そこで「お金を払う」事によって積もり積もった大量の「反省の祈り」と「つぐない」を帳消しにすることが出来るという発想が生まれます。

すなわち悪いことをしてもお金さえ払えば天国へ行くことが出来るという考えが流行します。 この現象は「宗教の堕落」です。この点を指摘して「改革」を唱え出したのが「宗教改革」です。
グーテンベルク、活版印刷(1455〜)による聖書の普及は庶民にまで及び宗教情報の庶民化現象が宗教改革を助長しました、これは現在(2017)の情報多様化現象の先がけです。

勤勉、質素倹約、貯蓄 の奨励は資本主義を芽生えさせた。

自分に厳しい姿勢はキリスト教系統のユダヤ教改宗にまで及び、改宗しないと分かるとキリストを殺した人種としてユダヤ人を差別した、これはWW2時(1939-1945)のナチスドイツのユダヤ人大虐殺につながった。 

諸教会一致推進運動について
1054年、ローマ・カトリック教会とギリシャ正教は互いを破門することを宣言して分裂し、1618年からの30年間は 宗教戦争 があり、ローマ・カトリック教会とプロテスタント諸教会・正教諸教会は互いを無視することをつい最近(2000ころまで)続けてきました。
しかし、「宗教」 が、WW1・WW2 (1914〜1945) を防ぐことが出来なかった反省からキリスト教各派内部に 「神無き地球・絶望の世界」 という危機感が募りました。そこで、諸教会一致推進運動が起きました。
1965には、ローマ・カトリック教会とギリシャ正教は互いを破門した行為を取り消しました。2017年には日本の長崎で、ローマ・カトリック教会とマルチン・ルター派教会(ルーテル教会)は「世界平和」 を共に祈りました。ルンド教会(世界ルーテル連盟発祥の地)でルンド声明という平和に向けた相互協調推進声明 を出しました。
キリスト教は自分自身を 「改革」 しようとしています。1517年にマルチン・ルターがしたことを一言で言うならば 人類の「福音(神からの愛の言葉)を感じる力の回復」でした。以後500年を経た2017年現在、再び 人類の「福音(神からの愛の言葉)を感じる力の回復」のために諸教会一致推進運動を実行中です。それほどまでに、現代人は 神を意識しない 状況に陥っているとも言えるでしょう。
( 以上は [ ローマ・カトリックと宗教改革 500年 ]  カトリック中央協議会 発行パンフレット ) より、私なりの要約です
マルチン・ルターは出てくるのが遅すぎたのです。十字軍(1096〜1270)が「宗教の堕落(宗教現象が政治現象に飲み込まれた)」の始まりですから 1517年 に出てきたのでは手遅れ(421年もの遅れ) と言えるでしょう。421年もの間ため込まれた改革のエネルギーは一気に爆発し、大航海時代 [(コロンブス 1492、西回り)(マゼラン 1522、西回り )(ドレーク 1580、西回り)] の 100年超 の期間、「地球は一つ」の時代精神とも合致して世界中に広がって行き、反省したローマ・カトリック教会も海外への宣教に熱心になって行きます(日本には1549年にフランシスコ・ザビエル[スペイン人]) 
寸考 宗教改革はこれから人類規模で始まると思います。 
ローマカトリック教会の内部で起きた「革命」はごく狭い範囲の出来事です、従来の歴史家は西欧史を重んじるためにまるで世界規模で宗教の改革が起きたように言いますが、ギリシャ正教、ユダヤ教では改革は行われておらず、イスラム教では改革ではなく分裂(図説その1)  (図説その2)が見られます。キリスト教世界で「改革」が行われたことは、宗教の内面化・定着には大きく貢献しました。人々は、宗教はローマ教皇にすがりつくことには無く、自分の内面と神との関係のなかにあるという当たり前のことに気づくようになったからです。

今後、イスラム教内部での改革、キリスト教とイスラム教の和解という宗教革命が起きる事こそ人類史における「宗教改革」なのだと思います、そういう理由で、私はここでは「狭い範囲の出来事」に触れることについてはこれで終わることにします。
 

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1519年〜22年、マゼラン、ポルトガル人、スペインに西端のセビリア港を出航、航海費用はスペイン王(船名はビクトリア号大航海時代初の西回り、3年かかって地球一周、マゼラン自身はフィリピンで現地人に殺された航海日誌の1日の誤差(西回り航路のため一日分の日没を節減していた、出発地は木曜日なのに船は水曜日に帰ってきた)により地球が丸い事も証明された。
註:コロンブスの「勘違いインド往復」はこれよりも30年先行(1492年)していた。
註1 : もしマゼランが東回りでこの航海を行ったならば船は金曜日に帰着したはずです。
なお、二人目の世界一周者ドレークについてはここで述べています。
※※※※※※※※※
1519年〜22年 マゼランの船(ビクトリア号) 画像
はここにありましたが、現在はここにあります
なお、航路図は下部に連続して表示しました 
※※※※※※※※※
*検索文言一覧表はここ
註2 : 下図にはコロンブスとマゼランの2名だけを書き込んでいますが、この当時歴史に名を残している冒険者(バスコダガマ等)は沢山います。多くは「喜望峰(キボウホウ)」を迂回して太平洋に出て東へと向かいました。
マゼランだけが徹底的に「西」に執着し奇跡的にマゼラン海峡を発見し通過したのです。
※※※※※※※※※
1519年〜22年 地球一周航路図、コロンブスは自分の思い込み、マゼランは正解、 画像
はここにありましたが、現在はここにあります
ビクトリア号を上位に航路は下図にて確認できます。 
※※※※※※※※※
*検索文言一覧表はここ
比較検討 : コロンブス・マゼラン と 鄭和(ていわ)



小さい模型はコロンブスが乗った「サンタマリア号」
正確なデータは一切残っておらず、ネットでのいくつかの
ページからは、小さく見積もれば全長18メートル、
大きく見積もれば全長 32.21 メートルでした。
(ドバイにあるイヴン・バテュータ・モール で展示されています 2014,8〜)

大きい模型は江蘇省で公開(2005)の「鄭和宝船」
正確なデータ
は一切残っておらず、ネットのいくつかの サイトは、
小さく見積もれば、全長 61.2m、大きく見積もれば
全長 120メートルを超える、でした。

私は次の手順でこの書きこみの寸法を決めました。

江蘇省の模型が最大推定値 125メートルを採用しています
のでサンタマリア号も最大推定値 32.21メートルを採用
して倍数を計算し、

約4倍 (125/32.21)=3.8≒4 

としました。

※※※※※※※※※
江蘇省で公開(2005)の鄭和船団宝船の模型 はここにありましたが、現在はここにあります
 1405年ごろの実船には鄭和が乗っていました。   
※※※※※※※※※
*検索文言一覧表はここ
寸考1、後世への影響力について
コロンブス・マゼランの行動は個々人の「進化の矢印衝動」に突き動かされたものであったのに比し、鄭和の行動は「主君(永楽帝)」を喜ばせるためでした。マゼランたちの船は鄭和宝船の大きさの 1/4 しかありませんが、小さい船の方に「進化の新芽」は芽吹いていました。鄭和宝船は人々を驚かせ、永楽帝の偉大さを広く世間に知らしめましたが人類の歴史を一歩前進させる力は無く、永楽帝の死と共に消え去りました。

寸考2、船の構造からの推定
探検船の舳先(へさき、船首)は細長く尖ってその延長線上に帆があることが必要です。狭く曲がりくねった水路を無事に通過するには複雑な向きや強さの風を的確にその帆で捕えます。
この通りの理由で、探検船は舳先が尖っていることが必要であるにもかかわらず鄭和宝船の舳先は遣唐使船の舳先よりも扁平で、先に突き出るべき角状(つのじょう)の帆柱もありません、これでは通過不可能と思われる陸の割れ目に試験的に入りこむことは出来ません。

ということは鄭和宝船は艦隊の母船であって「艦隊と共に狭く危険な海域を行く船」ではないということが出来ます。

したがって、鄭和の艦隊は初めから「朝貢」用に作られており、目的は「既存の世界秩序の中での力の誇示」であり、「未知の世界の謎を解明する事」は期待されていなかったといえると思います。

後日註 : 【海のシルクロードについて、】
この構想は2015年4月に現中国(中華人民共和国)が打ち出した(AIIB国家構想と一対の構想)です。過去の一時期(明時代[1400から20年間]の永楽帝の一代限り)に行なわれた「朝貢(みつぎもの)外交」にちなんで名付けられた文言です。
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ニクソン訪中(1971,7)のおかげで急激に経済大国となった中共国は大国として何らかの貢献をしたいらしく次々と斬新な世界規模経済構想を発表しています。その中に「海のシルクロード」という文言がありますが、この文言は1400年ごろに、永楽帝(明朝3代目皇帝)が鄭和という忠臣を使って約20年間サウジアラビアまでの航路を利用して、寄港地の国々に「明国にあいさつに来てください、よろしく」と言って土産物を配りました。寄港地からは何の宝も積み帰らなかったので交易とは言えず、明国の財政は急激に悪化しました。いわゆる「朝貢(みつぎもの)外交」というもので、永楽帝の名を諸外国に宣伝するための航海でした。

世界史上の「海のシルクロード」とはソロモンとシバの女王の時代(紀元前950年頃)からディーウ海戦 (1509,2)頃までの地中海と東南アジア地方との交易の事を言います。ディーウ海戦以後はアフリカ南端の喜望峰を回るルートで大型帆船による海上東西貿易がなされるようになりました。

「海のシルクロード」があたかも中国を重要起点としていたかのように聞こえる宣伝は要注意です。タクラマカン砂漠経由の陸のシルクロードと同等に海のシルクロードも中国が重要起点だったという歴史事実はありません。


〜〜〜〜〜( 寸考)大航海時代がもたらした「富」と「覇権」について〜〜〜〜〜〜〜〜
註 : 以下に現れる色鮮やかな画像は、 盛衰の世界史地図よりいただきました、刻々と変化する地球表面の政治現象を動画で表現する試みを初めて知り、その素晴らしさに感動しています、これを観て世界史を好きになる人が増えると思います。
先ず、ポルトガル・イスパニアがなぜ「地球は一つの球」の概念を生み出すほどの力を発揮したのか? 力の源泉は何でしょうか? それは「レコンキスタ」を実現させた「自信」、もう一つは「信仰を世界中に広めなさい(新約聖書のキリストの言葉)」の信仰心に基づく「勇気」だと思います。中世最後の宗教心の燃焼があったのだと思います。

「海の果てにある国」として彼らは具体的にどこをイメージしたと思われますか? 私は、ジパング(日本)だったのではないかと思います、なぜなら、彼はマルコポーロの「東方見聞録(1299)」で「・・・・更に東に「黄金にあふれた豊かな国」があり、その文化度の高さはヨーロッパのルネッサンスを上回っていたことがヨーロッパでは語り伝えられていたから。とにかく外洋を日本へと向かったのだと思います。
ヨーロッパ民族にはバイキング(ノルマン人の大移動)に見られるような「1点の可能性さえあればそれに生命をかける」という行動力が備わっていると思います、多くの死者を出しても誰か一人でも生き残って配偶者を見つけ、子孫を残せばいいと。
この冒険主義的行動力は日本民族には無いものです。
ポルトガル・・・・アジアから「コショウ」を持ち返り、肉食の調味料として売りさばき「富」を蓄積した。
イスパニア(スペイン)・・・・・新大陸(南アメリカ)から「金、キン」を略奪して持ち返り「富」として蓄積した。
イングランド(イギリス)・・・・・「富」を運ぶ船を襲って「コショウ」や「金」を奪う「海賊行為」によって「富」を蓄積した。  
ポルトガルとイスパニアは合併(1580-1640 [60年間]同君連合)して2国をイスパニアが代表する事によって
イスパニアには世界中の「富」が蓄積された。
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1580年〜1640年 ポルトガルとイスパニアの同君連合(イスパニアが代表)世界交易を独占1580〜1640の図 はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
上図はこことも繋がります(日本の戦国時代の世界情勢図)
寸考ノルマン・コンクエスト(1066-1154)でノルマン人に征服されたのになぜイングランドは海洋強国へと成長したのか? 
(一)、でノルマン・コンクエストの好影響を述べ、次に
(二)、でエリザベス1世(女性・生涯未婚)が海洋強国となるべくして現れた新芽だった事について述べ、最後に
(三)、フランシス・ドレーク(海賊)が海洋強国となるべくして現れた新芽だった事について述べます。
 
(一)、ノルマン・コンクエストの好影響について

1)、当時(1066)のイングラドは、数種類の民族が多数の城を持ち互いに領地争いをしておりノルマン人が攻めてきても迎え撃ったのは一つの城主だけだったのであっけなく負けたと言い伝えられています。
古代からのケルト系原住民族が先ず紀元前に、ローマ帝国の支配を受け(BC43)中世に入り、アングロ人やサクソン人等がデンマークやその付近の内陸から来て次々に住み着き(400)、以後、ノルマ人が征服(1066-1154)するまで諸侯にまとまりは無く、「常時戦争」状態でした。そこへ、ノルマン人がやってきてフランス流の中央集権政治を、フランス語を用いて行い、88年間統治しました。

2)、この統治は、イングランドの文化度を高めた(オックスフォード大学1167、マグナカルタ 1215)と同時に、城主たちに団結することの大切さを教え、「言葉」の大切さを教えました。

3)、そして最後に、「国を持つことの誇り(アイデンティティー)」を教えました。
ノルマン朝からイギリス王朝への移行は一時的混乱はありましたが比較的順調にイギリス王朝が立ち上がりました。
アイデンティティー(自分は何者か?と問うた時の答え)確立のため、ノルマン朝出身地・フランスとの100年戦争、内戦(バラの紋章の城主同士の戦い)や跡目相続争い、を経て、ようやくエリザベス1世というイングランド進化の新芽が現れます。
エリザベス1世戴冠時の領土についてはここ

エリザベス1世という新芽が育つには資質のほかに試練の連鎖がありました、以下の通りに。
(誕生[1533]前には)
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(A)、フランスとの100年戦争でイングランドが負け(1453)、フランス本土の領土はカレーだけ、カレーも戴冠式の時には失っていた。
(B)、イングランド内戦[バラ戦争](1485終わる)、
(C)、エリザベスは庶子(愛人の子)として誕生(1533)
(誕生後には)
(a)、実父(ヘンリー8世)がローマ教皇と対立、「正妻と離婚し、エリザベスの母親と再婚すること」 を認めないローマ教皇に絶縁状をたたきつけ、自ら「国教会」を樹立(1537)、彼の「浮気」は「世継ぎの男子」がほしいためであって自らの信心にやましいところは無いという自負があったようです。ルターの宗教改革(1517年)は彼の決断のよりどころとなったと想像することが出来ます。
(b)、実父が実母を殺す(1536)、
(c)、国王の座を狙っているとの疑いをかけられ殺されそうになる(1554)。
(d)、もう一人の女性王位継承候補者が現れる、その人物はフランス(ギーズ公)と戦い、負け(1558)、イングランド王家がノルマン朝から引き継いだフランスの最後の土地(カレー)を失う。その人物は落胆して病死する。
4)、このようにしてエリザベス1世は王位を継承しました、在位は、1558年〜1603年。  
(二)、エリザベス1世(女性・生涯未婚)がなぜ海洋強国となるべき新芽だったといえるのか

1)、実父がローマ教皇と対立した後を引きついだ彼女は、ローマ教皇から十字軍の対象国とならないよう気を付けながら政治の舵を取りました。まず、極端なプロテスタント派(ピューリタン[清教徒]1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した「馬鹿正直者たち」と言われた改革過激派)とは距離を置き、イギリス国教会の儀式・典礼や服装はカトリックに似せた状態に保ち自らの信仰心はカトリックのままでしたが公開はしませんでした。

2)、その一方で、教皇がお気に入りの国、イスパニアの言うなりにはならず、侵略の気配があればすかさず反撃しました、アルマダの海戦〔下記にあります〕で見る通りに。アルマダの海戦では自ら戦場に出向いて兵士たちを激励する演説をしています。

3)、イングランドが大航海時代に登場する事についてはポルトガルに 58年 も出遅れ、イスパニアの地球規模商業活動(金の略奪事業)にかなわないと見るや、すかさず「海賊行為の合法化」すなわち、イングランドが国として国民に「海賊免許状」を発行し、航海術にたけた人物に活動の場を与えました(エリザベス一世の気持ちは「イスパニア船中の『金』はインカ帝国からの略奪品、それをイングランドが奪い取ることにためらいは不要」だったと推察することが出来ます)。フランシス・ドレークのように優秀な海賊をサーに叙勲し、国民に海賊活動を奨励しました。

4)、彼女の教養の豊かさとやさしさと決断力の強さは国民を団結させる力を持っていました、国民は彼女が王位に就くときに拍手喝采で歓迎しました、それまでの王の中には「血まみれ女王」と呼ばれるほどに残酷な血なまぐさい人物も居ましたから。
 

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(三)、フランシス・ドレーク(海賊)がなぜ海洋強国となるべき新芽だったといえるのか   
ドレーク航路

1)、1577-1580、マゼランに次いで2人目の世界1周者です。マゼランは帰途フィリピンで原住民に殺されましたが、彼は、生きて帰りました。彼は既知のマゼラン海峡を通らず、独自の通過点を探して、南アメリカ大陸東岸を、マゼランよりももっと南下し、ホーン岬とドレーク海峡(南アメリカ大陸と南極大陸の間の海峡)を発見しました。人類に、地球の南端には大きな陸地があるらしい事を知らせました。

2)、ドレーク海峡は一年中方向の定まらない強風が吹きます。ドレークも一旦南太平洋に出てから東向きの強風に吹き流されてホーン岬付近まで押し戻されたそうです。気象を読むための細かく鋭い観察は数値化されて記録され、それを元にさらなる検討がなされたことでしょう、この行為は「科学」する行為です。

3)、彼の心の中に作用した「進化の矢印」は「科学の芯芽」を成長させるにふさわしい力強いものでした。ドレークは「科学の芯芽」を大木へと成長させる際に現れる沢山の「新芽」の一つでした。

4)、ドレークは「国家免許」を持った「海賊」として、「富」を「科学の芯芽」に注ぐという役割も果たしました。彼は航海中の海賊行為によりイングランドの国庫歳入よりも多い富(金銀財宝)をエリザベス女王に献上しています。女王は彼にサーの称号を与えました。
 
(以上の記事と図形は、Wikipedia の「エリザベス1世」等を参照) 

イングランドにはイスパニア次ぐ「富」が蓄積されましたイングランドとイスパニアは「無敵艦隊」を持っていましたが、
イスパニアの方がレパント海戦(1571 地中海、オスマン(トルコ)帝国軍を破った)実績がありましたがイングランド艦隊はまだ未実績でした。

この2国は宗教上の対立(イスパニアはカトリック、イングランドはプロテスタント)もあり、両国は数回に及ぶ「海戦」で「覇権」を競い合いました。
アルマダの海戦(1588年)

註 : この画像はホビコムに載っていた「アルマダの海戦画像」から旗のある船を切り抜かさせていただきました アルマダの海戦図、イスパニア(スペイン)巨大艦対イギリス・オランダ軽量俊足船
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1588年 アルマダの海戦図 はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
イスパニアの「世界1の無敵艦隊」はイングランド・ネーデルランド(オランダ)の連合艦隊に負けました。

敗因は、イングランド艦隊の「海賊作戦[海峡・沿岸戦闘]」が作戦上優れていたのと、風任せの操船のため「突風による大型船同士の衝突」の偶然がイスパニア側に起きた不運。何よりもイングランド艦隊を副司令官として実質的に指揮したキャプテン・ドレーク(海賊のキャプテン)が小型船で、風を読みながら、ヒットアンドアウェイ戦法で大型船を中核としたイスパニア艦隊を翻弄したこと、イスパニアの船団の主目的は「海戦」ではなく兵を輸送し上陸させてロンドンを攻略する事でした。イスパニア艦隊には手漕ぎの中型船が多く風が無くても動けましたがイングランド戦では「帆船だけ」でした。イングランドは「風」に賭け、賭けに勝ったのです。
風向きを読んで、狭い海域に誘い込んでイスパニアの主力艦を集中攻撃したことが最大勝因だと思います。

註 : 日露戦争(1904年)で、日本海軍がロシアのバルチック艦隊(サンクトペテルブルグが母港)という当時世界1の大艦隊を狭い日本海入口で待ち受けて撃破した作戦の手本になったのではないかと私は思います。

この1回の海戦で決着がついたわけではなく、徐々に「覇権」がイングランドに移るきっかけでした。 1604年のロンドン条約で両国は和解し イングランドは海賊行為をやめ、イスパニアはネーデルランド(オランダ、[イスパニアに植民地化され搾取されていた])の独立を認め、イスパニアの力は衰え、代わりにオランダがアジアから「富」を得るようになり「東インド会社」を設立、現地人の土地を取り上げ、現地人用の食料の代わりに西欧人用の作物(コショウ、ナツメグ[丁子]、シナモン[肉桂]、サトウキビ、コーヒー、藍)などを生産させ現地民を奴隷労働させて得た産品を本国に持ち帰って売りさばき儲けた。日本はキリスト教を布教しないオランダに出入りを許した。

日本が出入りを許した西欧人はオランダ人だけだった。イスパニア人(フランシスコ・ザビエル)は「南蛮人」と呼ばれ、オランダ人は「紅毛人」と呼ばれた。
寸考イスパニア(スペイン)とイングランド(イギリス)のその後について
イングランドはイスパニアから海賊行為で奪った「金(きん)」で、先ず「軽量・少量火薬・命中精度高」の大砲を開発、「重砲」のまま命中確率の低い砲弾を撃ってくるイスパイア艦を破壊する事例が多くなった。
戦場を離れても、イングランドは「金」を「技術開発」に生かし、「産業を興す」ために使ったので国はますます力を付けていった。

それに比し、イスパニアは「金」を 不動産 として蓄えようとした、例えば「豪華絢爛な教会堂を建てる」「広い土地を持つ」など、自国に「毛織物産業」を持っていたにも関わらず「機械・設備の改良」に投資することは無かったので膨大に蓄えられた「金」もあっという間に消え去った、現代人の私たちが学ぶべき一つの事例だと思います。
イングランド(イギリス)はイスパニア(スペイン)から奪った「金(きん)」を資本として産業革命を成功させ(1775)、1800年代に入ると蒸気機関を動力とした鉄船の艦隊で「海洋覇権」を握りました。20世紀に入り、イングランド(イギリス)の帝国主義(植民地主義)は地球を覆い、世界の隅々にまで「植民地」を持ったため「日の沈まない国」と言われました。

一方、イスパニア(スペイン)は急速に国力を高めた新興国アメリカに、キューバ、プエルトリコ、などのカリブ海の島々を奪われ、太平洋のグアム、フィリピンも奪われ、世界史から姿を消していきました、WW1にもWW2にも国家としては参加しませんでした。
 

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以下の8つ画像で「海洋覇権」」の移り変わりをお見せします、第8図 の段階でイングランド(大英帝国)が海洋覇権を握り、船の構造が 木造帆船 ⇒ 蒸気機関鉄船 でますます イングランドは1極的な「海洋覇権」国家となりました。
この画像も参照してください、日本の戦国時代を取り巻く世界情勢     この画像はイスパニア(スペイン)が世界を席巻していた時代の 様子です(画像2 の単独表示)リンク先のほんの少し上に画像有   さらに時間が進んだ 江戸初期 の世界情勢画像はここです
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1550〜1700ポルトガル、イスパニア、オランダが世界覇権ポル、イスパ、オランの覇権。日本は江戸時代(1603〜)列島縦断道出来平和、鉄砲の改良で武力強化 画像(1)(2)(3)(4)はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
1550〜1700日本は鉄砲の改良、列島縦断道路道路整備による人の全国往来、文化伝搬、庶民文化の開花
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これと同じ画像(5)(6)(7)(8)は現在同ページのここ(下方)にもあります
1700〜1870オランダ、イギリスが世界覇権、日本は平賀源内など創意工夫、過料朱子学(陽明学)で道徳と主体的行動深まる、 江戸末期不安、安政の大獄、解体新書、万国公法(国際法)を消化、1868明治維新はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
1700〜1868日本は創意工夫(平賀源内)新しい道徳学(儒教⇒朱子学⇒陽明学、「主君と農民は身分は違うが人間としての価値は同じ」)、江戸末期に安政の大獄等の社会不安あり、それを乗り越え、江戸城の無血開城により 「流血の少ない社会革命に成功」 

2014年現在ではイングランド(イギリス)は衰弱し、かつてはイングランドの植民地だったアメリカが国際社会を主導(軍事的覇権で1極的に覆う)しているがアメリカも戦争のしすぎで衰弱し、国際社会は多極化しつつあり、中華人民共和国が多極構造の中で頭角を現している。
〜〜〜〜〜以上が、大航海時代がもたらした「富」と「覇権」についての(寸考) でした〜〜〜〜〜〜〜〜
【n1543年9月日本に鉄砲伝来、交易によってではなく、台風によるポルトガルの漂着船に積まれていたことによる。場所は種子島(タネガシマ、屋久島の東隣の南北に細長い島)。
1543年、ポーランド、コペルニクス亡 地動説。カトリック司祭、70歳で死亡したその日に『天体の回転について』が出版された。しかしカトリック教会はこれを無視した。宗教現象が科学現象を支配した。宗教現象はクレメンス6世(1348)のペスト事件で権威を失墜させていたがまだ世俗への干渉力は保持していた。
【n1549年、日本、フランシスコ・ザビエル(スペイン[イスパニアのバスク人、イエズス会宣教師]、船はポルトガル船で)、日本にキリスト教(カトリック)を布教、しかし、うまくゆきませんでした、理由は、日本人は彼の説教を批判するほどに教養の程度が高かった、「これまでに出会ったことの無い知的な人種にどう対処したらよいか?」とイエズス会本部に手紙を書いている

〜〜〜〜〜以下は布教分担〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なぜキリスト教国の中で、カトリック国(ポルトガルとイスパニア)が海のかなたに布教先を求めて冒険の旅に出たのか? 日本には先に種子島鉄砲を積んで漂着したポルトガル船、次にザビエル。
フィリピン等アジア南部にはイスパニア船が行くと決められていた。冒険に出た理由は、@イスラム教徒の牙城アルハンブラ城の無血開城(陥落 1492年、イベリア半島南部地方のイスラム支配は770年間に及んでいた)の功績を教皇に褒められ、自信に満ち溢れていた事、A金や香辛料の略奪により富を蓄えたかった事、Bマルチン・ルター(ドイツ系統、旧教を批判)の宗教改革(1517年)に端を発した宗教紛争は長引き、遂に戦争に到り(1618〜30年間)、旧教のカトリック教会はヨーロッパ大陸で劣勢となったので布教地開拓に乗り出したかった事。
以後、次第にドイツ系統のオランダ、イギリスも海に乗り出す。布教についての取り決めはほぼ次の通りでした、アジア地方と北アメリカ大陸南部以南はポルトガル・イスパニア、オランダ。北アメリカ大陸北部はイギリス。

アメリカ大陸でも、現在のブラジル〜メキシコ地方はポルトガル、現在のアルゼンチン地方はイスパニア。

★、寸考、現在のアルゼンチンは何故「白人国」なのか?

イスパニア人は現地民を虐殺(現地民のミイラ信仰はキリスト教を受け入れず、食料をめぐる争いから殺人が発生、現地民の武器は「石器」だったので虐殺に発展)、「金(キン)」を奪った。強姦によって病気(ハシカ等)を伝染させた、混血児は多数生まれたが病気への抵抗力の無さゆえに現地民の多くは集落ぐるみでほぼ絶滅したと考えられます、その後に地中海系統の移民が殺到、結果、現在は「白人の国アルゼンチン」となっていると考えることが出来ます。 

〜〜〜〜〜以上は布教分担でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話9 フランシスコ・ザビエルの苦労です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
フランシスコ・ザビエル
日本の各地でザビエルは布教するのですが、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があります。それは、

「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。 そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。

つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけた。

元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、ザビエルもそう答えました。すると日本人が追求するわけです。

「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」

ザビエルは困ってしまいまして、本国への手紙に次のように書きました。


「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」と。

当時の中国にも、韓国(朝鮮)にも、インドシナにもこうしたキリスト教の急所(?)を突くような人間はいなかったわけです。

http://totalmatomedia.blog.fc2.com/blog-entry-577.html より引用。
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〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話9 フランシスコ・ザビエルの苦労でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1568年〜1648年、八十年戦争(80年間、後半12年間休戦)後半は宗教戦争[30年間の宗教戦争と重複]、ヨーロッパ、オランダ前身地方の神聖ローマ帝国からの独立戦争、八十年戦争、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州(現ベネルックス3国 [オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ] の原型)がスペイン(イスパニア、神聖ローマ帝国を軍事的に支える最高実力国)に対して反乱を起こし、独立しようとした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある[Wikipedia]。なお、スペイン軍には売春婦が 1200人 随行したとされている(Wikipedia 軍隊と娼婦)。

この後の近代戦には売春婦が性欲旺盛な兵士の後に付いてゆくようになり、売春婦はプラス面よりも性病伝染源として勝敗に影響を及ぼすことが認識され、次第に「管理」されるようになってゆく。ナポレオン皇帝が65万の軍勢でモスクワを攻め、惨敗した時(1812)にも売春婦管理不十分のため帰国敗残兵からの性病がヨーロッパ中に広まった、コロモジラミが媒介する発疹チフスも兵力を弱める原因病として戦争の時には肌着の衛生状態も管理されるようになった。

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付記:売春婦の次には看護婦も戦争に参加、その経緯、クリミア戦争(1853)での看護婦誕生の経緯。
世界史初の国際規模戦争である クリミア戦争(1853)にはドナウ川最下流地域および黒海沿岸には100万人の兵士が入り乱れて戦ったにもかかわらずトイレが無かったために宿営地の周辺は糞尿で足の踏み場もないほどに不衛生となった、

ナイチンゲールは最初の看護婦として有名ですが、その前に、この不衛生を目の当たりにして、先ず、自費を投入して大規模トイレを作りました、戦場での「自分の居場所」をトイレ創設によって確保して

「女性の戦争への参加」を先ずイギリス軍に認めさせたのです。したがってナイチンゲールへは初めての戦場看護婦としての賞賛の前に先ず、『戦場における衛生感性の実践者』、「戦争には女性の身体能力(売春婦や雑役婦)のほかに『女性的感性能力』が必要であることを証明した初めての女性としての賞賛が必要です。
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1572年、インカ帝国 滅亡。スペイン人の持ち込んだ天然等で90%近くの人々が死に、騎馬や鉄器や鉄砲を持たないインカ兵は数百名のスペイン兵士によって滅ぼされた。スペイン人は大量の「金、キン」を略奪し、熔かして等身大のマリア像とされた「金、キン」がスペイン本国に運ばれた。
【n1568年織田信長 入京織田信長が京都に入り、100年間もの長期間続いた戦乱(1467〜1568)が間もなく終わることを人々に見せつけた。
ムッヤッ(68)と気合を入れて信長入京 
映画 「七人の侍」 はこのころの日本を想定して作られています。
【n1573〜1582年(9年間)安土時代、織田信長1575年の長篠の戦いで火縄銃を実戦で有効に使った。馬に乗った敵の武将 を 最下級兵達が一斉射撃で次々と倒した。天下統一を目前にした織田信長は本能寺で部下に不意を突かれて焼死。
【n1582〜1600年(18年間)桃山時代、豊臣秀吉は本能寺の変の時、中国山陰地方に出兵していたが「大がえし」と呼ばれる高速帰京で日本統一機運を完成させた、日本の政治を世界水準以上まで高めたが高齢のため日本統一は子孫ではなく実力者の徳川家康が果たした。
【n1582年太閤検地開始耕地1筆ごとに耕作者を検地帳に記載して年貢担当者を確定した。これによって荘園制下の所有関係が整理され、近世封建制度の基礎が確立された

〜〜〜〜〜〜〜〜以下は 挿話33 太閤検地です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
太閤検地の主目的は、税徴収の効率化による富の1極(太閤・政治の最高権力者)集中でした。太閤秀吉(豊臣秀吉)は農民出身でしたので、税徴収の現場事情に精通していました。隠し田畑、多勢課税、多目的課税、税の横領、税の着服、労働放棄・逃亡 等の実情に詳しかったので次の通りの改革をしました。
1)、全国一律・一定の税徴集方法を採用する。
2)、税額を米に換算した石高(こくだか)で計算する。
3)、耕作者と耕作地と課税額を対比して把握し、武士が管理し検地帳に記録する。
4)、耕作地の持つ生産能力に等級を付け、等級に見合った税を納めさせるる。
5)、税額算定のための全ての単位を全国一律とした、例えば、米の量は「京枡(きょうます)」で計らせる、長さと重さの単位は 尺と貫を使わせた。、

太閤検地の効果は絶大で、太閤は富の力で人を集め動かし、「朝鮮出兵」と言う大事業を実施する事が出来た。
〜〜〜〜〜〜〜〜以上が挿話33 太閤検地でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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【c1582年(天正10年)、天正遣欧少年使節団、 九州のキリシタン大名、大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年(14才)を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、

彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。[目的]、日本の少年達を見せながら、イエズス会が日本宣教で活躍できるよう、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル(同君連合)にお願いすること、および、少年達にキリスト教世界がいかに立派であるかを見聞させ、その体験を日本で語らせる事。[結果]、帰国した時は キリスト教布教禁止令(1587)直後だったため彼らのその後は悲惨だった、日本に帰らずイスパニアに残って現地で子孫を残したものもいる、使節団よりも先に来ていた(1555年)のベルナルドなど。

【c1583年、満州族 族長ヌルハチ、急速に勢力を拡大 、当初 「女眞部」 と名乗っていたがやがて 「後金国」 と名乗り、最終的に 「清」 と名乗り、「明」 を滅ぼして 「清国」 を建国、以後中華地方は 1911 の辛亥革命で滅びるまで 328年間(建国1644からは267年間)満州人が支配した。 

【n1587年、日本、伴天連(バテレン、キリシタン宣教師)追放令 豊臣秀吉のキリスト教の布教禁止政策、キリシタン憎悪感情はその後も募り、1597,2,5 には下の画像の通りの極めて残酷な集団処刑が行われた、人々はこの処刑見たさに海からは多くの船で、陸からは群衆となって、見物した
寸考何故 豊臣秀吉 はこのように残酷なキリシタン弾圧を行なったのか?
1)、宣教師についてきた奴隷商人が日本人を捕まえて国外へと売った、この行為を宣教師が止めなかったから。具体的に言うと次のとおりだった、すなわち、キリシタン大名が高性能火薬をキリスト教宣教師随伴商人から買い、その代償を「人」で支払ている(火薬1樽=人間50人[女性が多かった])ことを知って激怒したため。
2)、宣教師の多くは仏教寺院の破壊・焼却を奨励し、それを実施したから。
3)、宣教師の多くは「いずれ日本はイスパニア(スペイン)に征服される、インカ帝国のように」(リンク先のわずか上に現れます) と考えていたから。 
4)、 豊臣秀吉 は 自分の老化を自覚していたので、日本を救う行動を急いだため。
 豊臣秀吉 は 自分に寿命があるうちに、イスパニア(スペイン) の東洋植民地化防止のため後日、朝鮮出兵を実施した、イスパニア(スペイン)が 中国・朝鮮 を植民地とするよりも先に日本が 中国・朝鮮 を植民地とする計画が実施されたのです。それほどまでに 豊臣秀吉 のスペイン嫌いは甚だしかった。宣教師 はイスパニア(スペイン)の政治的スパイであると考えていたから。
長崎、西坂の岡でのキリシタン処刑
註 : 画像はヤフー画像集より頂きました。後方にも同じ画像が現れますがこの画像で代表させます
【n1588年 豊臣秀吉、刀狩令(兵農分離令)布告
1588年アルマダの海戦でイスパニア(スペイン)無敵艦隊が負ける、アルマダ(英仏海峡(ドーバー海峡)での戦艦海戦、地名ではない)でイングランドとの海戦に敗れ、以後ズルズルと地球規模の「覇権」はイングランドが握った、豊臣秀吉はこの海戦の事を宣教師(カトリック系統)から聞いて知っていた。
豊臣秀吉は2回中国制覇を目的に海外出兵(朝鮮出兵)していますが、中国の主権がイスパニア又はイングランド又はオランダによって奪われた場合は日本は対抗出来ないと知っていて、先手を打って中国を武力制覇する意思を固めたのです。

海外出兵は豊臣秀吉が誇大妄想に取りつかれたと解釈するよりも「先見性があった」と解釈すべきであると思います。

徳川家康も「地球規模」で活動する西欧諸国対策について、中国を武力制覇する豊臣秀吉のような方向は選ばず、「鎖国」を選び、隣国の李氏朝鮮王国とは朝鮮通信使を政治の節目に招待して友好外交の名目で中国の情報を集め、国の安全保障を維持しました。西欧諸国については、開港地の最初は長崎平戸島だったがより安全を期して長崎本土につながる人工島(「出島」)を造設して「西欧列強関連情報収集窓口」とした。西欧でのキリスト教の勢力は分裂しておりプロテスタントのオランダが優勢で、キリスト教布教よりも東インド会社による通商を重んじ、当時は文化程度がカトリック系統の旧教国よりも優れていた、イギリスもプロテスタント国で諸文化はオランダよりも優れ、狙いは日本ではなく未開人の住む北アメリカにおける植民地形成だった(西インドであるとの錯覚のもとにオランダと、インド覇権を競った)江戸幕府は出島にはオランダ人のみを出入りさせて西欧の文化を吸収し、常に西欧諸国の政治情勢を掌握しました。
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1592年、イギリス、シェークスピアこの年の後約20年間に、四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」(映画の概説はここ)、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残した。
1592年、日本、第1回朝鮮(李氏朝鮮国)出兵中国(明朝)は李氏朝鮮国へ援軍を派遣する、1593年に休戦。
1597年、日本、第2回朝鮮(李氏朝鮮国)出兵、原因は講和交渉決裂、1598年豊臣秀吉の死(61才)で日本軍は撤退。
日本の出兵目的は、スペインと言う世界帝国からの侵略を防ぐこと、日本はスペイン艦隊に勝つだけの兵力(鉄砲の数)はあったが、スペインによって中国が征服された場合は中国の人口数がスペインに味方するので日本は負けると読んで日本は先手を打った。ウィキペディアは「この国際戦争は、16世紀における世界最大の戦争としている。以後日本は朝鮮半島国を「併合(1910年)」した事はあったが侵略した事は無い。

〜〜〜〜以下は「朝鮮出兵」についての寸考です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
豊臣秀吉はイスパニアやポルトガルに征服される恐怖を持っていました。1274年と1281年に中国(元朝)からの突然の侵攻で「てつはう(爆裂弾)」が使われた事、神風の好運に恵まれなければ中国の属国となっていたかもしれません。

天下を平定した今や武士の戦意は高く戦力(武士の人数は200万人、イギリスの騎士人口は3万人)も強く、武器も、世界全体の半数の鉄砲(50万丁以上)を持ち、イスパニア無敵艦隊に勝つ自信がありました。
(註:実際の派兵数は15万、(関ヶ原の戦いでも、東軍7万、西軍8万)

秀吉の目的は朝鮮征服ではなく「唐入(からいり)」すなわち明国征服でした。イスパニアが明国征服を計画している事を知った秀吉はイスパニアよりも先に明国を入手し、日本国の安全を確保しようとしました。 この戦争はたったの7年で終わりましたが、3回目の出兵の計画はされており、イスパニアの東洋拠点であるマニラ総督府に対し「服従と朝貢」を要求しながらの出兵でしたので、「16世紀では最大の国際戦争」でした。

当時の国際情勢概要と私の感想
1588年、アルマダの海戦1588でイスパニアはイギリス・オランダ連合軍に負け、海洋における覇権を失った
1590年頃、日本はイスパニアのフィリピン、マニラ総督府に宣戦布告状を突き付ける、イスパニアはフィリピンから逃げるように立ち去った。
1592〜1593年、第1回朝鮮出兵、目的は 明国 の支配する地域を植民地化、結果は 日本からの「明国の降伏と皇帝の娘を天皇に嫁すること、朝鮮の南半分を割譲すること」の要求(「世界史の窓」より)を 明国 が拒否して 休戦
1597〜1598年、第2回朝鮮出兵、1598年に豊臣秀吉の死亡(61才6カ月)と同時に日本軍は全軍が帰国。朝鮮国は 明国 への通り道として踏み荒らされ、「やきもの戦争」の言葉に代表されるごとく、「陶芸文化等の優れたものを人ぐるみ持ち去られる」という被害を被った。    
★私の感想 : もし、この侵略が成功したとしてもあの広い中国地域を統治することは不可能に近いことがその後の世界史を見れば明らかです、統治に成功した時期には、宦官や纏足といった対人不信感の徹底が必要でした。人民の人権を無視する統治は2020年の現在でも行なわれていますが、日本に固有の文化とは絶対的になじみません。私はあの時点で中国の植民地化に失敗してよかったと思います。

秀吉軍に対する明・朝連合軍は、戦意は低く、戦力は合わせて30万、武器も槍や刀が主で鉄砲は原始的なものでした。

秀吉軍は海上での数回の敗戦はあったものの、圧倒的な強さで、朝鮮半島の北辺を突破しヌルハチ(中国地方北辺の豪族、後に明国を倒し 清 を興す)とも戦った。

朝鮮人民の苦しみは耐えがたいものでした。食料は朝鮮軍、日本軍、明軍に奪われ、田、畑は踏み荒らされ、家屋は焼かれました。この時の日本への恨みが尾を引き現在(2014年)でも日本へと意味不明の恨みを向け続けています。

『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した」(ウィキペディ゙ア)

この戦争で疲弊した明朝はヌルハチに敗れ、満州族支配の「清朝」になりました。

戦後、朝鮮より正式な使節である回答兼刷還使が派遣されて和平が果たされたのは、1607年二代将軍徳川秀忠になってからでした。

この戦争は、のちにロシアの南下政策を防ぐために、明治日本(1868〜)が行なった政策に酷似しています、明治日本も西欧列強の日本侵略を阻止するために先ず「征韓論(西郷隆盛)」が検討されました。秀吉との相違点は国力を養ってから清国に勝ち、次にロシアに勝ち、それから朝鮮半島国を「併合」しました。朝鮮半島を列強包囲圧力の「緩衝地帯」とする考え方は同じなのです。

朝鮮半島国は秀吉時代よりも前から中国の属国ではなく「中国の隣国(例えばベトナムのように)」として「緩衝地帯国」として独特の主体性有る存在感を示しつつ積極的に世界とかかわるべきでした。世界が大航海時代→国際条約体制(万国公法体制) と変化しているにもかかわらず、李氏朝鮮王朝があくまでの冊封体制にこだわる中国(清朝)につき従う属国として生きながらえようとした卑屈さがこの国の現在の分裂(同一民族の南北分断)を産んでいます。
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日本は徳川幕府の270年間、李氏朝鮮王朝から「朝鮮通信使」を自国政治の節目(例えば将軍職の交代時)に招き、相互に文物の交換事業を合計12回行なっています。両国ともに「儒教」による政治体制を敷いていましたので互いに得るところはあったようですがやがて朝鮮半島国の「朱子学」の時代遅れに日本は批判的となり、且つ、農業技術についても日本から持ち返ったはずの「揚水機」は朝鮮半島国では生かされないなどの問題点が現れ、朝鮮半島国は支配層の堕落(怠惰)によって時代から落ちこぼれて行きました。
〜〜〜〜以上で「朝鮮出兵」についての寸考を終わります〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

豊臣秀吉は国際人 であって 天下人(てんかびと) でも 誇大妄想老人 でもありません
豊臣秀吉の日本国統治手法と実績 彼はたったの18年間( 1582〜1600)に日本国統治の基礎を作り上げました、経過は次のとおりで、日本を国際政治に参加させました。

1582年 太閤検地  成功
1587年 キリスト教布教禁止令  成功
1588年 刀狩令 成功
1592〜97年 朝鮮出兵イスパニアよりも早く中国を奪う(唐入 カライリ) 計画、この時イスパニアの東洋総督府(フィリピンのマニラ)と外交交渉をしています    失敗
1600年 関ケ原戦、豊臣秀吉亡後の天下分け目の国内戦で豊臣方完敗、以後は徳川家康が日本国を統治した。

その後は明治維新までの約270年間、国内的にも国際的にも1回も戦争せず、「出島」という覗き窓から国際社会の動きを監視しつつ、且つ 「出島」 に出入りするヨーロッパ人(主としてオランダ人)から国際政治に関する情報を入手しつつ、文化的水準が世界一流の国を維持した。

徳川家康が実施できたこれらの政治は豊臣秀吉の政治感覚と行動のおかげであると思います、豊臣秀吉の側近として日本国統治および、イスパニア、中国、朝鮮との外交実務を行った 石田三成 の功績も高く評価されるべきだと思います。
 
 

【n1603 〜1868年〔265年間〕江戸時代、徳川家康、関ケ原の戦い(1600年)、58歳この戦に勝ち、首都を江戸(現在の東京)に移し(1603年)、約200の大名の本妻を江戸に住まわせ(人質に取るということ)、3年に1度の割合で本妻に会いに来させ(参勤交代)全国の交通網を整備させるとともに、大名に散財させ、富が一部有力者に偏らないようにした
徳川家康の内政、人口増に利根川治水で対応
徳川家康は暴れ川・利根川を太平洋へと付け替え(方向転換)江戸を洪水から守りつつ、その利水で、舟運整備と関東平野の新田開発を敢行。 その結果100年でGDP(米の生産高)は倍増し、人口も 1.5倍 に。もはや戦争つまり土地争いをする必要のない平和な社会が実現した。
このことは単なる 「遷都(国の中心部を移すこと)」 ではなく、

弥生時代から続く西日本中心の国家体制の根本的転換を意味した

★、2018,5,16 毎日新聞、 発言 「江戸に映すTOKYOの未来」 竹村眞一、文化人類学者 より、一部を引用


寸考1  : 何故厳しく キリシタン を弾圧したのか。
徳川家康は独自の調査(宣教師軟禁、出島からの情報)により、当時のキリスト教が極めて政治的であると知ったため。やがての天草 (現在の熊本県天草市) でキリシタン一揆(島原の乱 1637)が起きた時、キリシタンの人々は 「やがてスペイン(イスパニア )から援軍が来る」 と信じて戦っていたことが判明し、徳川幕府はキリシタンをますます強く排斥する政策をとった。
寸考2  : 何故お付き合いする国を スペイン(イスパニア)⇒ オランダ と変更したのか。
カトリック教の国であるスペイン(イスパニア、南蛮人)よりも プロテスタント教の国であるオランダ(紅毛人)の方を信用したため(プロテスタント教宣教師は日本には来なかった) 。徳川家康はヨーロッパの 宗教戦争(1618-48)の背景(オランダの反カトリック戦争 [イスパニアからの独立が目的,1568] ) を知っていた。  

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外交では、鎖国し、西洋文明国からの侵略を防いだ。ただし、1609年から、長崎の「平戸」だけは「開港」状態を保ち(1641年からは「出島」[平戸よりやや南、より交通の便良し] )オランダ船の出入国を許します、地球規模のあらゆる情報を入手するためです。当時は下画像の通りアジアはオランダがイスパニアと共に通商権を持っていました。
註★、清国とも交易しました。清国人の交易意欲は高かったので、幕府は貿易統制を強化しつつ、長崎に唐人屋敷を建て、清国人の居住を限定した。江戸幕府は 清国 にも 「開港」 していたのです
1630年頃日本人、山田 長政(やまだ ながまさ、天正18年(1590年)頃 - 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。 出生は駿河国の富厚里とされるが、同じく駿河国の馬場町、伊勢国や尾張国とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、(交易[含日本])防衛で頭角を現しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となった。

その後、日本人町の武力を活かし、二度に渡るスペイン(イスパニア)艦隊の侵攻を防いだ(スペ・ポル同君連合中、スぺが代表国、"イスパニア"は古代ローマ人が用いたイベリア半島地方を表わす呼び名[ニッポニカ百科より])。アユタヤ国王より高官に任ぜられ王女と結婚したという伝説が生まれたが、シャム側の記録に該当する人物が見られないことから、王族との結婚に関する歴史的事実は明らかでない部分が多い。註 : シャム(現在のタイ)は東南アジアで唯一ヨーロッパ人の植民地にならなかった。これは山田長政がいたこともその原因の一つとも考えられる。以上は、Wikipedia 等を参照。



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1603〜1868 オランダが交易覇権握る、「鎖国」免除 オランダが西欧文化を日本に伝え続けた
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
明治維新(1868)まで約270年間、対外的戦争無しの安定した社会、庶民文化(寺子屋教育、三味線、浮世絵、落語 等、)が花開く。また、産業技術の面でも、漆器 は世界最高水準、人糞尿の肥料利用技術も世界最高水準、刀剣製作に代表される金属加工技術も世界最高水準、大阪を中心とした市場経済も高い水準の「商業道徳」を生んだ。これらの高水準社会は明治時代に入って西洋文化・技術を極めて短時間で吸収・定着・発展させた。
1608年、北米大陸初のヨーロッパ人(フランス人)植民地(現ケベック)発足、イギリスのメイフラワー号(1620年)よりも 12年 早い。
【c1610年「金瓶梅」
「明」の、小説「金瓶梅」作者不詳、中華地方の国で初めて著わされた「個人向けの男女情愛話」、中共国ではほぼすべての「小説」は例えば「西遊記」のような一度に多数が見聞きすることを目的に描かれるのに反して「金瓶梅」は「個人」が楽しむために描かれる男女の情景が文章化されているようです。

この描き方はこの時初めて現れ、かつその後も現代に於いても「初恋の来た道(チャン・イーモウ 監督の映画)」くらいしか知りません。そういう意味で「奇書」と呼ばれることもあるようですが私はこの物語の中に中共国人が情緒的に「大人(おとな)」になりにくい原因を探求する手がかりがありそうな気がします(Wikipedia解説のみを手掛かりとした推察)。
【n1615年支倉常長の慶長遣欧使節団、仙台藩主・伊達政宗が派遣
カトリック(キリシタン)宣教師達を「正使」、日本人を「副使」に、総勢180名。宮城県石巻市を出発、イタリアのチビタベッキア町に到着、法王パウロ5世が使者を送って一行を迎えた。
目的は「外交(植民地関連外交、日本が植民地とされないための宣教制限交渉)だったため不成功に終わる。日本人たちは帰国後罪人扱いを受けた。支倉家は「お家断絶」となり、他の者たちも信仰心を表さずひそかに次々と死んで行った。
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1618年〜1648年宗教戦争 (30年間、30年戦争とも呼ばれる)ウェストファリア条約(1648)で決着
最終的宗教戦争(キリスト教新旧両派の神聖ローマ帝国内戦)、プロシアの新旧両派の争いに、ヨーロッパの新旧両派の国家が介入し戦場は ヨーロッパ全土に及ぶ政治戦争に発展。ウェストファリア条約(1648)。

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『映画 クリスチナ女王』
1933年の長編映画。配給は MGM。スウェーデン出身のハリウッド女優グレタ・ガルボがクリスティーナ女王を演じた。 このDVDは1933年の映画をもとに2019年に韓国で制作されました。この時期の世界を理解するのに有効と判断し、Wikipedia での解説文とともにここに載せました。

父王の死後、6歳(1632)で即位。初め宰相であるアクセル・オクセンシェルナ伯爵の補佐を受けたが、三十年戦争およびトルステンソン戦争終結の1644年(18歳)頃から親政(自らの判断で政治を行うこと)を行った。彼女の治世下でもスウェーデン軍はフランス王国と提携して中央ヨーロッパに進出し、ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約(1648、22歳)ではポメラニアのほか多数の都市と賠償金を得る

(スウェーデンは当初、戦勝国として膨大な要求を敗戦国に突き付けたが、クリスティーナ(22歳)はそれを拒否して大幅な譲歩をして交戦国と妥協した。クリスティーナの寛大な譲歩は、臆病な平和とスウェーデン国内から非難され、オクセンシェルナなど守旧派の反発を招いたが、女王が意志を貫き通したこともあり、講和が成立した)。

神聖ローマ皇帝に迫って新教徒(プロテスタント教徒)の権益を拡げさせることにも成功している。オリバー・クロムウェルが護国卿をしていたイングランド共和国と同盟を結び、スウェーデンのヨーロッパにおける大国の地位を安定させた。

クリスティーナは財政に疎く、あるいは無関心だった。後にスウェーデンは国家財政の財政難を招いてしまうが、この財政難の元凶の一端を担いでしまったのが彼女であった。しかし彼女は無能ではなく、高い政治能力を有していた。平和を願い、カトリックとプロテスタントの融和を説き、キリスト教の安寧と言う高貴な理想を抱いた一己の自由主義者であった。また彼女なりの王権成立に努力した騎士道精神の持ち主であった。神聖ローマ帝国におけるスウェーデン領のレーエン関係の成立などがそれを現している。しかし、絶対主義化とプロテスタント主義を目指すスウェーデン政府との軋轢が彼女を苦しめたのである。スウェーデンの国益と自由主義の狭間で揺れ動いた彼女は、最終的に己の意志を貫き、退位(1654、28歳)を決意したのであった。

豊かな教養を持つクリスティーナは、グロティウス(国際法〔万国公法〕の父と呼ばれる)やデカルト(「我思う故に我在り」哲学、すべての意識内容は疑いえても、意識する自分の存在は疑うことができない)らと交わり、彼らを宮廷に招聘している。一方、早くも20歳の時に王位を去る計画を立て、その7年後(1654、28歳)に従兄カール10世に王位を譲り、外遊を始めた。
翌1655年にインスブルックで誓絶式を行い、カトリックに改宗(1655、29歳)した。1655年12月ローマに到着し、以後ローマに居を定めフランス・ドイツ・スウェーデンを旅行して廻った。1660年(クリスティナ34歳)に従兄カール10世が亡くなり、その子カール11世が5歳で即位すると、クリスティーナはすかさずストックホルムに戻り、

「カール10世とその子女に王位を譲っただけなので、カール11世が亡くなった場合は復位する」と宣言した。しかし、クリスティーナはすでにカトリックに改宗しており、この宣言はスウェーデンで受け入れられるものではなかった。このため、彼女は王位継承権の放棄を再び宣言、1662年(36歳)にローマにもどった。
1668年、ポーランド王ヤン2世が退位し、クリスティーナはポーランド王国の国王自由選挙に名乗りを上げた。彼女はカトリック信仰と結婚するつもりのないことを主張し支持を集めようとしたが、王位はマグナートのミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキが継承した。
その後、ナポリ王国の王位につこうとして失敗したのち、1668年(42歳)からローマに定住し、学問・芸術・文学を研究する日々を送る。1674年(48歳)にはローマにアカデミー(後のアルカディア学会(英語版))を創設した。
1689年(63歳)、ローマで逝去。遺体はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に葬られた。
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以後、国際社会の秩序は「主権者(国王)」同士の「条約」によって保障されるようになる(「条約体制」)。アジアでの中国による隋朝以降清朝滅亡までの「冊封体制」(589〜1911)とは大いに異なる。
註 : 「冊封体制」の詳述はここ

1618以前のものは「教義をめぐる対立」だったが、1618以後は領地増加目的の政治戦争である。1618以前のものは シュマルカルデン戦争(ドイツ,1546)、ユグノー戦争(フランス,1562)、オランダの反カトリック戦争(イスパニアからの独立が目的,1568)、これら以後は政治家が宗教家の争いを利用して自分の領地を増やそうとした戦いである。

1648年に締結されたウェストファリア条約で「主権概念」が確立され、「主権国家」が乱立、ドイツ地方は諸邦乱立し弱体化した。「主権国家体制(条約体制)」を「ウェストファリア体制」と呼ぶ。 フランス革命が「主権国家体制」を打ち破り、「国民国家概念」を生んだ。 フランス・ナポレオン民法典の「こころ」は「国王・貴族・特権階級を認めない」です。 しかし、「主権概念」は国際関係の基本概念として生き続け「国民国家概念」と併存して「帝国主義(植民地主義)」概念を生み国際秩序は混乱し、世界戦争(WW1)でヨーロッパは再び戦場と化す。

この戦争は人類に「政教分離」の知恵を残した。これ以後のヨーロッパでは「宗教現象」の「政治現象」への影響力は無くなり、「宗教」は「政治」から分離された(ただし、この「知恵」はカトリック教会とその分派内部に限られ、ギリシャ正教系統のいわゆる東方教会に於いては「政教分離」は「知恵」として機能していない(例 : 2015年現在のロシア正教)

註 : 新旧宗教間対立は無くなったが「新旧共存概念」が生まれた。「新大陸(南北アメリカ、アフリカ大陸)」を新旧で分け合い共存する「宗教共存概念」が生まれた、例えば、南北アメリカ大陸に於いては、「北アメリカは新教、プロテスタント」が支配し、「南アメリカはカトリック」が支配するという両者共存概念が生まれた。
1620年ころフランス、ルネ・デカルト「我思う、ゆえに我あり」の二元論哲学(思う自我とその他で世界は成り立っている)を発表。
意味は「私が存在する」という証拠は「私が今存在する理由を考えているから」。これまでの中世哲学では「私が存在する」という証拠は「神がこの世を創造したから」でした。従来のキリスト教的な中世哲学を打ち破った人物です。 BRAVE ANSWER https://brave-answer.jp/14895/#outline_2より引用。
1620年、メイフラワー号、北アメリカ大陸コッド岬に上陸、



イングランド人清教徒(ピューリタン、反イギリス聖公会)の北アメリカ入植開始。
後にイギリスとフランスは北米大陸植民地域の領有を巡って戦ったがフランスはイギリスに完敗し、北米大陸植民地域は全てイギリス領となった。

(以下はすぐ後に同文が現れます)
1775年アメリカとイギリスアメリカ、植民地からの独立戦争、1776年がアメリカ独立記念日、実際の独立は1783年、
アメリカはフランス系カナダ諸州にも独立を呼びかけたがカナダ諸州はこれを拒否しイギリスへの所属を選んだ。
註 : カナダがイギリスから独立し完全な主権国家となるのは 1962年 である。
アメリカとカナダの国民性の違いにについて、毎日新聞、2014,10,31 金言より 
カナダは欧州との結びつきを強めることに、アメリカは欧州と断絶する事に国造りの理念を求めた。方向は正反対」 

(以上はすぐ後に同文が現れます)
註 : 画像はヤフー画像集から頂きました。

【n1637年〜1638年、日本、島原の乱、日本国史上最大規模の農民一揆、原因は、重税、キリシタン弾圧、飢饉

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1637年〜1638年 島原の乱
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ

(要点、Wikipedia 参照)
1)、規模について島原半島、天草諸島(2018年現在の熊本県 島原・天草地方)
2)、名称について「島原の乱」 「島原・天草の乱」 「島原・天草一揆」 が使われる。
3)、原因について
[重税 : 島原藩主は、江戸城改築公儀普請役受諾  独自のルソン島遠征計画を実施  島原城建築 などの費用を農民身分 (農業、漁業、手工芸、商業 等に従事) の者から税として取り立てた]  

[キリシタン弾圧 :  改宗を拒んだキリシタンを拷問・処刑]

[飢饉 : 何らかの農産物不作があった] 


徳川家光(3代目将軍)治下、幕府軍戦死8000人、一揆軍死者26800人、一揆軍の多くはキリシタンだったが、武器を持って戦った為殉教とは見なされず、列聖も列福もされていない。

島原藩主は「仁政(じんせい)」を行なわなかったという罪に問われ、「斬首の刑」に処された。江戸時代に大名が切腹ではなく斬首とされるのは、この1件のみである。以後、武士は領民に「仁政(じんせい、愛情のある政治)」を持って臨むべしという掟(おきて)が武士社会に根付いた。同時に、キリシタン禁制政策は徹底された。
註 : 画像はヤフー画像集から頂きました、後に同じ画像が現れます。

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〜〜〜〜〜〜〜〜以下は 挿話10 ガリレオ・ガリレイ、宗教裁判(異端裁判)、終身刑です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1630年頃、 イタリア、カプラーとガリレオガリレイはコペルニクスの地動説支持を表明
1633年、イタリア、ガリレオ・ガリレイ、宗教裁判、終身刑、カトリック教会はクレメンス6世のペスト事件で権威を弱めていたが世俗への干渉力はまだ強かった、(宗教現象の科学現象への干渉力はまだ強かった)。
破門を解いた法王(つい最近の人)宗教裁判でのガリレオ著書『天文対話』が「地動説」の立場をとっている事をとがめられ、教皇からカトリック教会破門宣告、すべての役職を剥奪され、地動説放棄を命じられた。

1642年、ガリレイは幽閉先で78年の生涯を終えた。正式な埋葬は1737年まで延ばされた(カトリック教会は 権威 にこだわった)(左図、1633)。

彼は幽閉先でも自説を曲げず、
「それでも地球は動く」 とつぶやいていた
と言い伝えられて来ました。

後世(1992)になり、ローマ教皇ヨハネス=パウロ2世(位1920-2005)は初めて、裁判の見直しを発表(1980)、教皇自身も裁判の誤りを認め(1983)、翌年調査委員会はガリレイの有罪判決を撤回した。そして1992年、2回目の裁判から 289年 ぶりに、ガリレイは教皇によって破門を解かれたのであった。 http://www.kobemantoman.jp/sub/106.htm より引用。画像は ヤフー画像集よりいただきました。



註 : ガリレオ・ガリレイの名誉回復はつい最近の出来事です。
1992年、「ガリレイの破門を解く」と宣言するローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世(左図,1992)。

〜〜〜〜〜〜〜〜以上は 挿話10 ガリレオガリレイでした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1649年、帝国主義時代の世界初の「奴隷」がイングランド植民地(西インド諸島)に労働力として売られた、イングランドの独裁的護民官オリバー・クロムウェルがこれを実行。帝国主義時代の世界初の「奴隷」は「白人奴隷」すなわちアイルランド人だった。
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【c1644〜1911年(267年間)清国 実質的に中国支配を開始、首都は北京、明の皇帝は逃げ回り側近に自殺者相次ぎ、それでも潔く政権を清に渡さなかった、この動きはすでに島原の乱の頃(1637) には芽生えており、ヌルハチ(後金国王)は徐々に 明国 を侵略すると同時に李氏朝鮮をも侵略しようとした。この時、約60万人の朝鮮人男女が拉致されたが李氏朝鮮国王はこの事態を放置した。そのおかげでヌルハチは侵略の矛先を 明国 に集中させることが出来た。朝鮮国王が30万人もの美女を人質としてヌルハチに差し出したのです。
出典は 「赤い韓国」櫻井よしこ・呉善花、産経新聞出版
中国大陸地方、清国 の政治支配力確定、明国 は日本の豊臣秀吉の2回にわたる李氏朝鮮侵略 (1592 、1597) 対応での兵力援助及び軍事機材提供で国力を衰弱させていた。新興勢力である後金国(満州族、頭目はヌルハチ)に襲われ、皇帝が殺された。清国 は、康熙帝(1661-1722聖帝と呼ばれ、康煕字典を作る)や乾隆帝(1735-95、明史作成、乾隆窯で陶磁器の質向上)の後は「愚帝」が続き、近代化に失敗し、1911年に辛亥革命にて滅び、以後はひどい目に合い続け、今日(2015年)に至る。(中華民国→中華人民共和国)。

1665年、イギリス、ニュートン、万有引力発見、(物質界の第1の力)
ペストとニュートン、以下は、「世界史の窓、黒死病/ペストの流行」からのコピーです
1665年のイギリスでのペストの大流行が、科学の歴史上きわめて重要な副産物を残したとされている。というのは、ニュートンはこのときケンブリッジ(ロンドン)のトリニティ=カレッジを卒業したが、大学がペスト流行の凄まじさのために休校を繰り返していたので、しかたなく故郷の田舎に帰り、ぼんやりと日を過ごすうちに、光の分光的性質と、重力の逆二乗法則(球の表面積、[4πr×r] 、の拡大をイメージ、引力源からの距離の2乗に反比例して力が弱まってい行く、天体同士のバランス、万有引力)を、そしてさらに微積分計算の基本的アイデアを発見したと言われているからである。この「已むを得ざる」休暇とか、「創造的休暇」と呼ばれるエピソードはペストのもたらした最も大きな成果と伝え継がれてきた。この話はニュートン自身が後年ライプニッツと微積分法の発明の先取権を争ったときに自ら証言したことであるが、どうやらよくある英雄譚(英雄の活躍を描いた物語)の一つであるようだ。

1674年微生物の発見、アントニ・ファン・レーウェンフック。
1689年、ロシア帝国、ピョートル大帝、ロシアの近代化に着手、先ず黒海へと進出、次にバルト海、次にカスピ海へ。
1698年ネルチンスク条約引き続きキャフタ条約(1727)、清国とロシア帝国は国境や交易協定を決める、ロシアはアルバジン城を放棄、清国の完全なる外交勝利だった。ロシア帝国は清国から「朝貢国」扱いを受けた。アムール川(黒竜江)上流から徐々に下流へと臣民を定住させてきたロシア帝国は、その作戦を放棄した。以後1860年の沿海州領有(北京条約)までの 130年間(1860-1727=133≒130) は清国を刺激しないようアムール川沿岸には近づかず、東ヨーロッパの病人と呼ばれたオスマン(トルコ)帝国を滅ぼすことに専念したがイギリス・フランス等の予期せぬ異教徒支援に遭い果たせなかった(クリミア戦完敗 1856)。
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しかし、清国の衰弱(太平天国の乱 1850-64)は明白と判断するや否や東方衰弱国に狙いを定め、一気にアムール川流域一帯を制覇した(江東64屯虐殺事件[1900年]、2万5千人の死者の群れはアムール川を筏のように流れて行った)。この「衰弱した清国最後の情景」は、ロシア帝国の「弱い国に狙いを絞って集中攻撃する民族性」「執念深さ」と「忍耐強さ」と「残忍さ」を歴史に残した。
1712年トーマス・ニューコメン蒸気機関を発明【科学の地球支配現象】が始まる

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1712年 ニューコメン 蒸気機関を発明
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
トーマス・ニューコメンは鉱山の排水用の蒸気機関ポンプを製作し、彼の出身地のイギリス(イングランド)南西部、特にコーンウォールの石炭や錫の鉱山に設置した。1733年に特許が切れるまでに100機以上の蒸気機関(ニューコメン機関)が各地で使われた。(文章も動画も Wikipedia より)。

註 : その後、ジェームス・ワットが「改良」し、ジョージ・スチーブンソン が蒸気機関車を発明、蒸気機関を原動機とする諸道具は産業分野に拡散しました。

以後、世界を「科学」が方向づけ、大量生産・大量消費・帝国主義・植民地争奪戦争の時代へと突入して行きました


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話28 産業革命が起きた原因(私の仮説)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★、何故ヨーロッパで産業革命が起きたのか、私の仮説★ もっと詳しい説明はここでしています
それは、インドで発生したゼロの概念が845年にイラク(当時のサラセン帝国、首都はバクダード)へ伝播 → サラセン文化の中で古代ギリシャ科学とゼロの概念の融合 → 中世イタリアへ伝播 → ペストで宗教権威の失墜(ローマ法王が信徒を見捨ててペストから逃げた、1348年5月) → 科学(医学)の発達でペスト克服、「科学」に自信が発生 → 文藝復興[古代ギリシャ諸都市は廃墟となっていた](ルネッサンス 1400〜1500)、古代ギリシャの「科学」の復興 → マゼラン等(1522)によってさらなる「科学」の発達 → ガリレオガリレイ(1630)によるさらなる「科学」の発達 → ニュートン(1665)の「力学」によって「科学」の「技術」への適用現象が発生→帆船戦艦の発達→ ニューコメン(1712)による蒸気機関の発明 → 産業革命隆盛(1775)

〜〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話28 産業革命が起きた原因(私の仮説)ででした 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1746年、オランダ、ミュッセンブルーク、ライデン瓶(コンデンサー)を発明、摩擦によって出来る静電気の蓄電装置(エレキテル)の発明にも組み込まれた。人類最初の「蓄電」。ベンジャミン・フランクリン(アメリカ)の凧揚げの実験にも使われた。
1748年、フランス、モンテスキュー、「法の精神」を出版、「三権分立」思想を広める。国家が内包する権力が三権(立法権・司法権・行政権)のみならず、四権ないし五権にまで分立されるべきであるという論旨はアメリカ合衆国憲法の枠組みや、フランス革命中の1791年憲法の制定にも多大な影響を及ぼした。Wikipediaより。
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1752年、アメリカ、ベンジャミン・フランクリン、雷を伴う嵐の中で凧をあげ、凧糸の末端にワイヤーで接続したライデン瓶により雷雲の帯電を証明するという実験を行った。避雷針を発明。政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者、でもあった。
1775年、イギリス、 産業革命最盛期(大量の布、小麦、大工場、鉄道、奴隷貿易)  鉄製軍艦(後の戦艦・巡洋艦)   イギリスは海上覇権をオランダから奪い、大西洋間の奴隷貿易は頂点を迎えた。  
1775年、イギリス、産業革命最盛期、革命は周辺諸国に及ぶ、 1775年〜ロシア共産主義革命(1917)、イギリス ⇒ 西欧諸国 、資本主義市場経済 が伝搬。
寸考、資本主義の発生とその現況(2017)
資本主義市場経済とは
生産手段を持つ資本家が、生産手段を持たない賃金労働者を使用して利潤を追求する社会システム である。
資本家による「富の生産」「利益のための生産」であり、「使用のための生産」では無い。 従来、機械の発明は 「生まれた富を使用するため、人間の労役軽減のため」になされてきたが、この時期からは 「より多くの利益をあげるため、お金を増やすため」へと変わった。資本家同士で競争し、負ければ賃金労働者になるので必死にお金を増やすことに専念し、賃金労働者の 「福祉」 を考えることは無かった。

「市場」 は生き物のように気ままに動くので 「読み」 が当たれば大儲けし 「お金を増やす」 事が出来ます。 「福祉」 よりも 「市場の読み」 が大切になるのです、後日、市場は植民地人民の「福祉」を無視した帝国主義市場経済へと変質 [ インドをイギリスが植民地化(1857) ]、帝国同士が圏域を争う時代 ( ww1 [1914〜1920 ] ) を経て ロシア共産主義革命が 「福祉」 を組み込んだ 新しい市場である「社会(共産)主義経済圏市場 1922〜1991」を興したが貧富の格差を嫌うあまり、相互監視社会の弊害が現れ、結局 「賃金労働者の貧困」 は解決されませんでした。「ロシアだけが巻き込まれなかった世界経済大恐慌」 を経て WW2(1939〜1945) という世界帝国主義大戦が起き、ロシア共産主義革命も結局は失敗に終わり(1991)ロシアの「社会(共産)主義経済圏」は消滅した。

現在(2017)、「社会主義市場経済」という名称を使って世界市場に参加しているのは、中華人民共和国、ベトナム、北朝鮮 ですが、「市場」 としては 「世界規模相互調整経済市場」 とでも呼ぶべき 市場状況である。

1国の経済異常は瞬時に世界に及ぶのでこの市場を正常に機能させることが人類の今後の課題であると思います。

1775年〜1783年(8年間)、アメリカとイギリスアメリカ、イギリスの植民地からの独立戦争、大義名分は「自由・平等」1776年がアメリカ独立記念日、独立戦争と言う「革命」に成功し国民国家(アメリカ合衆国)を建国した。(独立発効は1788年、憲法発布)、
アメリカはフランス系カナダ諸州にも独立を呼びかけたがカナダ諸州はこれを拒否しイギリスへの所属を選んだ。
註1 : 近代国民国家へと変身するための市民革命はフランスでよりもアメリカで先に起きた
ここにあったと同じ画像(5)(6)(7)(8)は現在同ページのここ(上方)にもありますのでまず(上方)に行ってリンクを使い有用な画像を見てください。
1775年7月4日アメリカ13州独立宣言(トマス・ジェファーソン宣言)
1788年「アメリカ合衆国憲法」発効
1804年フランス民法典(ナポレオン法典)発効、 

註2 : カナダがイギリスから独立し完全な主権国家となるのは 1962年 である。
アメリカとカナダの国民性の違いにについて、毎日新聞、2014,10,31 金言より 
カナダは欧州との結びつきを強めることに、アメリカは欧州と断絶する事に国造りの理念を求めた。方向は正反対だ」 

【n1776年日本、平賀源内、エレキテル(静電気発生・蓄電装置、摩擦作用とライデン瓶を使用)を模造製作。
エレキテル オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていた。日本へは江戸時代に持ち込まれ、1751年ごろオランダ人が幕府に献上したとの文献がある。破損したエレキテルを古道具屋から入手し、工人の弥七らとともに1776年(安永5年)に江戸深川で模造製作に成功した(ウィキペディア)
医療器具として好奇心は集めたが「科学」として内面化・深化される事は無かった。明治維新(1868年)で再注目された。

▲▲ページの先頭へ▲▲ 註:画像はヤフー画像集より頂きました。
1782年〜1788年火山噴煙の傘のため北半球各地で飢饉発生
北半球一体で飢饉の発生が見られた。主たる原因はグリーンランドの火山の大噴火(1783-1785)、噴煙は成層圏にまで達した、フランス革命の遠因にもなった、ユーラシア大陸の東端の日本では時期を同じうして東北地方に大飢饉発生(1782-1788 天明の飢饉)、日本の場合はこの時期に岩木山と浅間山がほぼ同時に噴火し、グリーンランドからの傘の下に日本発の傘が大地を覆った、下北半島の飢饉が最悪で、人肉まで食べたと言われている、人々は故郷を捨て、江戸に向かって逃げた、江戸は避難民であふれ、米騒動・打ちこわしが発生

1789年7月フランス革命勃発、バスティーユ監獄襲撃
フランス革命の大義名分
暴動の目的は 王政廃止・民主主義政治開始、政治理念は 自由・平等・友愛、国家理念 政教分離 、 法治・国民主権・共和制
 
1798〜1801年、、ナポレオン1世、エジプト遠征、
目的は、イギリス王国およびトルコ帝国への政治的牽制。エジプトは イギリスーインド の中継地、且つ、トルコの統治領なのでイギリスとトルコの力を弱める事。
結果は、短期的には圧倒的勝利、世界初の発明保存食である 「缶詰」 と、銃剣が奏功。
収穫の一つはロゼッタストーンの持ち帰り、この碑文によって古代エジプト文字であるヒエログリフの解読が可能となった。 
1799年フランス革命を、準貴族身分で軍人の、ナポレオン1世 が中間整備、ナポレオン法典(フランス民法典)、「フランス第1共和政」発足、フランス内戦89〜92。
註 : 画像はwikipedia より、第3身分者(農民等)が聖職者と貴族を税で養っています

1775年頃のフランスの税制を表す画像です、第3身分者(農民等)が聖職者と貴族を税で養っています、イギリスが産業革命で資本主義を芽生えさせていたの比べて雲泥の差があります、聖職者と貴族は農民を思いやったり、政治権力が農民に渡る事を想像する能力は決定的に欠けていました。 イギリスとの競争意識は100年戦争 (1338-1453 フランスが勝つ) に現れている通り、当たり前でしたので、アメリカがイギリスからの独立戦争(1775〜1783)を始めた時は累代の赤字財政や王室の浪費(マリーアントワネット)で財政が大赤字であるにもかかわらずアメリカに資金援助をしました。

農民はラキ火山(1783 アイスランド)噴火で農業危機にも遭遇していました。農業危機であるにもかかわらず 「増税」 を強いられ、飢饉が起き、不満が爆発しました。アメリカの革命(イギリスからの独立 1776  憲法 1788)に比べフランスの場合は 革命 が何回も失敗しては 何回も大虐殺があり、1793年1月ルイ16世のギロチン死刑。10月にはマリー・アントワネットも、後ろ手に縛られ肥料運搬車で市中を引き回された末にギロチン死刑にされた。

1794年7月、過激派のロベスピエールら22人がギロチンで処刑されてやっとギロチン刑の恐怖は止んだ。
ナポレオンによる フランス民法発布の成功(1799 第一共和政)、フランス一帝が誕生(1804)、ナポレオン1世皇帝によるモスクワ遠征の失敗(1812)ナポレオン皇帝の退位ナポレオンはエルバ島へ軟禁。(1814)、王政復古(1814 ルイ18世)、ナポレオン エルバ島脱出し皇帝復位(1815 百日天下)、対イギリス ワーテルロー戦、ナポレオン1世の負け(1815)。 ルイ18世復位(1815 王政再復古)後もゴタゴタが続いた。

(その後の経過を捕捉します)
1848年まで王政が続いたが、再び革命発生、第二共和政(1848〜1852)、第二帝政(1852年から1870年まで存在した君主政体)、ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオンが1851年12月2日にクーデターで政権奪取 ナポレオン3世を名乗った。

その後、フランス第三共和政、普仏戦争さなかの1870年に樹立したフランスの共和政体。1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻によるヴィシー・フランス成立まで存続した。
「フランス共和国」 の概念は 「第一 〜 第三共和政体」 で確立し、現在に至っていると思われる。
ミュージカル 映画 「レ・ミゼラブル」 (監督:トム・フーパー 、 原作:ヴィクトル・ユゴー  、製作国:アメリカ  、公開: 2012年12月) は 1815年、王政再復古時代の学生暴動を描いており、第3身分者の悲惨は英雄ナポレオン1世出現後も続いており、革命を目指した学生運動が鎮圧される様子を描いている、フランス革命は バスティーユ襲撃暴動(1789)後26年経ってもまだ学生が暴動を起こし殺されていたのです。
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結局、最終的な決着は、普仏戦争(1870年 プロシャ戦)での国民一致団結政体(フランス第三共和政体 1870 発足)を待たねばならず、革命勃発(1789)より80数年がかかった、Wikipedia。しかし、これでフランス社会が安定したとは言えず、その後も第一次世界大戦(1914)で多くの死者を出し、第二次世界大戦(1939)ではドイツによってヴィシー傀儡政体が出来、共和政体政府はイギリスに亡命し、1945年 に本国に復帰した。民衆の苦難は今(2017年)もチュニジア発民主革命のアラブ地域拡散による難民流入で政治的に混乱している。

〜〜〜〜〜以下は挿話6 法治国民国家の誕生と盛衰です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(法治国民国家の誕生と盛衰)

イギリスは別格でマグナカルタ(1215)、産業革命(1775)以降世界に君臨しWW1〜WW2〜現在は老熟国。

1776年アメリカがイギリスからの植民地独立戦争に勝利して独立国家(アメリカ合衆国・国民国家)となり西進主義侵略開始(アメリカ大陸東部→西部→メキシコ→ハワイ→フィリピン)、国民国家として西へと膨張、次の通りその影響は波及(近代国民国家の発祥はフランスでは無くアメリカ、フランス革命でのナポレオン法典(フランス民法典)で文章化)

 フランス革命 → ドイツ国民国家誕生 → イタリア国民国家誕生 →大日本帝国誕生 → ロシア革命でソ連という国民国家連邦誕生

フランスの市民革命、ナポレオン法典(フランス民法典)が  「法治国民国家概念」 を創造、次の通りにこの概念は拡散する。

(寸考) 
ナポレオン法典の掲げた「自由」「平等」「友愛」の理念の内、「友愛」理念は「ヨーロッパ世界内部限定」であると私は感じます。
その理由は、その後のフランスは「植民地」を持ち、現地人の人権を無視して酷使したから。
また、イスラム教など他宗教にも不寛容と感じます、2015年の現代においてもイスラム風刺漫画を「表現の自由」を根拠にしつこく出版させていますから。


(法治国民国家の友好国群同士が大きな戦争をする)
普仏戦争(1870-1871)ドイツの前身国(プロシ ア王国) × フランス
WW1(1914-1918)ドイツを中心とした国々 × フランスを中心としたそれ以外の国々
WW2(1939-1945)ドイツ・イタリア・日本という後発国同盟 × イギリスを中心としたそれ以外の国々(最も後発のソ連は最先発のイギリスの群に入る)
ワーテルロー戦(1815)以後普仏戦争までの55年の間、ヨーロッパを舞台とする大きな戦争は無かった。ただし、東方ではクリミア戦争(1853-56)という大規模かつ長期間(3年)の戦争があり、イギリスやフランスは出かけて行った。ドイツ連邦(プロシア[プロイセン]王国+オーストリア帝国)は参加していない、ただし、オーストリア帝国は最後の段階でロシア寄りの中立を破りイギリス側に入って終戦の調停をした、ロシアはヨーロッパを深く恨み、その恨みは調停をしたオーストリア帝国へと向けられ、サラエボ事件(WW1のキッカケ)を生んだ。 

WW2後には、イギリスを抜き世界1の力を持ったアメリカが世界に覇権を及ぼした、それを阻もうとしたのがソ連。米・ソ「東西冷戦期間」があった 約70年間(1917-1991)に亘るソ連の「共産主義国家の実験」は失敗に終わり(軍事費の膨張が原因と言われている、ゴルバチョフ談)。2014年現在のソ連は「ロシア連邦」という BRISC(ボラジル、ロシア、インド、ミナミアフリカ、中国)という新開発途上国の一員となっている。

アメリカはWW2後の相次ぐ戦争で経済力が衰え、中華人民共和国 の経済力が急進している。

なお、中華人民共和国 は未だに「法治国民国家」 とは言えず、共産主義1党独裁 の世界的に異質な人口大国でありその侵略力の増大(軍事費の膨張)が恐れられている。

今後の世界秩序が向かう方向は不明確で、かつての ナポレオン法典(フランス民法典) が示したような目標は無い。
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〜〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話6 法治国民国家の誕生と盛衰です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


1787年、ロシアととオスマン(トルコ)帝国〜92、領土。
1788年、ロシアとスエーデン〜90領土。
1795年、西欧、ポーランド消滅、ロシア、プロイセン(現ドイツの母体 プロシャ)、オーストリア三国が分割。
1804年ナポレオンは「皇帝」の地位に就く、
註 : 下の画像はWikipediaに載っていた画像から切り抜かさせていただきました
戴冠式「ナポレオン戴冠式の絵画」は史実ではありません。もっとも重要な「ナポレオンが戴冠する」場面が描かれてはいないからです。史実は次の通りです、

「ナポレオンは自分の頭に自ら王冠をかぶせた」 です。 絵画は象徴的な場面を描く宿命にあるにも関わらず「皇帝が戴冠する」場面を後世に残さず、手に取った王冠を自分の 妻 の頭にかぶせた状況描写が残ったのはなぜでしょうか?
それは、「世間の反発」を恐れたからです。例えば、ショパンは「英雄」という曲を作るほどに「共和制」のナポレオンを尊敬していたにもかかわらず「皇帝」という権力者に変身したことを激しく批判しています。
なので、自分の 妻 の戴冠という画像を後世に残したのです。

しかし、「史実」の次の重要点は残しています。すなわち、

※、政教分離・・・・教皇を背後に回して腰かけさせ、皇帝が中央に立って政治を行うという構図はその後のヨーロッパに「政教分離(政治権力と教皇権威との分離)」思想を広めました。
直後イギリスに勝ち(トラファルガー海戦)ヨーロッパのほぼ全土を支配下に治める。
1805年、 フランス、政教分離 を法制定。
1805年、イギリスとフランス、覇権争い(トラファルガー海戦)、ネルソン負け、ナポレオン勝ち。
1806年、ロシアとトルコ〜12、領土。
1808年、ロシアとスウェーデン〜09、ロシアはフィンランドを奪う。
1812年6月〜12月、フランスとロシア、フランスの負け。ロシア人の自信過剰癖の芽生え。ナポレオン フランス皇帝はフランス正規軍兵力45万、服従国軍兵力20万を引き連れてネマン川(ロシア帝国国境線)を渡りモスクワに侵攻
、目的は、イギリスを孤立化させる事(「大陸封鎖令」というイギリス孤立政策を無視して農産物をイギリスへ輸出したロシア征伐)。
ナポレオン皇帝ロシア遠征、完敗 の映画解説はここに在ります 

ロシア軍(兵力40万)とは 士気・練度の差、武器の差(大砲の性能、小銃の性能)動員兵力の差が際立っており、ほぼ無傷でモスクワに至るがロシアは降伏せず、モスクワ市街に火を放ち内陸(ドニエプル川畔)へと逃げのびた、が、数十万の死者を出していた、降雪を切っ掛けに反撃に転じた。

ナポレオンは橇で脱出、ナポレオン皇帝軍は食糧不足と寒さのために死者多数、生き残ったのは数千人と言われるほどの惨敗。この戦争はロシア側では 「第1次大祖国戦争」 と呼ばれるほどの、国の存亡をかけた戦争でした。ロシア軍の損害は著しかった、だが、ヨーロッパ世界に最強軍として知られたナポレオン皇帝軍に勝ったことはロシアに過剰なまでの自信を生みました。その自信はより広大となった領土を背景に クリミア戦争(1853) で姿を現すのです。
ちなみに、「第2次大祖国戦争」 とはWW2(1939〜45) 時の対ドイツ戦を意味します、この時もかろうじて勝ちました。 
フランス(ナポレオン皇帝)は、軍事上は負けたがフランス革命の 民主・共和・国民国家 の概念はロシアに伝わり、この概念はのちのロシア共産主義革命(1917〜22)の 芯芽 となりました(しかし、残念なことですが、この 芯芽 は発芽は順調でしたが時間とともに生命力を失い 自滅 しました(1991年12月)。
ナポレオン皇帝への服従国は次の通りだった
オーストリア ポーラント ドイツ イタリア スイス スペイン クロアチア ポルトガル オランダ ベルギー 
 
ロシア帝国ただ1国 がこれに対応しました

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1812年、ナポレオン皇帝のロシア遠征、大敗北の画像はここにありましたが、現在はここにあります
 
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*検索文言一覧表はここ
★寸考★、ロシア人の 自信過剰癖 について
ロシア帝国1国が西欧諸国軍と戦って事実上勝利(第1次大祖国戦争で勝利)したことはロシア帝国に 自信過剰癖 をもたらした。この自信過剰癖クリミア戦争で顕著に現れた、その後も強引に日本を力で抑え込もうとしたが負けている(日ロ戦争)  国家ぐるみの共産主義革命では前半は自信過剰癖共産主義経済圏を作って押し通した、しかし、WW2 でドイツと第2次祖国戦争で勝ってからは、この自信過剰癖が再び災いし、国家ぐるみの共産主義革命は結局は失敗に終わっている(ソ連邦崩壊 1991)
2018年現在のロシア連邦は再び 「スラブ民族主義(汎スラブ主義)」という名の元に 自信過剰癖 が台頭しており世界に緊張をもたらしている。

★註★、地球規模の大きな戦争(世界大戦)に関する鳥観的考察についてはここに記しています
1815年、フランスとイギリス連合、ワーテルロー、ナポレオンの負け復活第一帝政は100日間で終わり、王政再復古。 ナポレオンは戦争では負けたがナポレオン民法典の精神(法治 国民国家、共和制国家)はヨーロッパから世界へと拡散した。
1815年 スイス誕生 於ウィーン会議(1814〜1815)、永世中立国 スイス 誕生、「中立」 とは、両方の 味方 ではなく、両方の 敵 ヨーロッパの中心、アルプスの山岳地帯にある多民族国家。13世紀に諸邦の連合国家として自立、1648年ウェストファリア条約(宗教戦争の決着)で独立を認められ、1814〜1815年 ウィーン会議(ナポレオン戦争後の秩序回復会議)で 永世中立国となった。その後も強国(イタリア、フランス、ドイツ、オーストリア)に囲まれながら武装中立地域分権直接民主政など独自の性格を維持し、典型的な小国としての政治形態と文化を継承している、「世界史の窓」を参照。
(寸考)中立 とは隣接する各国と互いに 「敵」 である状態を維持する事です(「中立」 とは、両方の 味方 ではなく、両方の 敵 です [倉山 満]、「嘘だらけの日韓現代史」より)、
1819年、イギリスとシンガポール、シンガポールは植民地化。
1821年、ギリシャとトルコ〜29、ギリシャ独立。
1823年モンロー主義。 アメリカ合衆国第五代大統領のモンローが出した宣言に由来するアメリカの外交原理の一。いわゆる孤立主義の原型のひとつであり、ヨーロッパに対して「お前のものはお前のもの、オレのものはオレのもの」を宣言、アメリカの中立、相互不干渉を求めた。転じて、孤立主義全般を指す語としても用いられる。
1827年、フランスとアルジェリア、〜30、アルジェリアは植民地化。
1828年、ロシアとトルコ、〜29、第1バルカン。
1830年、オランダトベルギー、ベルギー独立。
1833年イギリスに於いて「奴隷貿易禁止法」制定、イギリス単独法
1836年『国際法原理』(『万国公法』の原著)、著者はヘンリー・ホイートン(アメリカ人)。

〜〜〜〜〜〜以下は挿話31『万国公法』についての覚え書きです〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 国際関係を律する秩序原理が書かれている、「主権国家間の法的平等原則」を掲げた。彼の「条約体制概念」は「国家・国力の大小に関係なく、主権を持つ国家は法的には平等・対等である」と言う「法治概念」である。

同時代に中国大陸地方及び周辺に流布されていた概念は「冊封体制概念(朝貢概念)」であり、「徳の高い中華皇帝が人徳により治める」と言う「人治の概念」でした。 宣教師 W.A.P. Martin(マーティン、中国語名:丁?良) の漢訳『万国公法』は、1864年11月北京で刊行された。

それにもかかわらず、清国では軽視され、清国最後の外務大臣 李鴻章 も「冊封体制概念(朝貢概念)」で外交交渉を行ない、「条約体制概念」を国益のために利用しようとした。国益のために「調印」した結果は国益を損なう事を知るようになった。条約体制に於いても「不平等な調印(在留外国人の治外法権有り、関税自主権無し)」があり得たからです。
註 : 1864年当時の『万国公法』は白人国同士は互いに平等だったが有色人種の国に対しては差別が有り、この差別は日ロ戦争(1904)やWW2(1945)を経て徐々に弱まっていった、名称も『万国公法』 ⇒ 『国際法』 と変化した。
日本国が欧米列強と互角に戦う姿を見た有色人種は「有色人種と白色人種は対等」との自信を得、WW2後に有色人種の「独立国」が雨後のたけのこの如く増えたためであると考える事が出来る。(森本の解釈)
〜〜〜〜〜〜以上は挿話31『万国公法』についての覚え書きです〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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【n1837年日本内乱、大塩平八郎の乱。天保飢饉(1835-1837)は全国に波及し、天皇の居住地である京都が餓死者であふれたのを見て、大阪下級武士の指導者だった大塩平八郎は天皇への「忠」を念頭に、主君たる幕府への「諫言、(かんげん、目上の人をいさめる事)」を行う
行政面での対応策は全て失敗したので大塩平八郎(42才)は民衆とともに大砲等で重武装蜂起した、しかし、蜂起当日に鎮圧され、十数人の遺体は1年間塩漬けにされたのち磔(はりつけ)刑に処せられた。朝廷は主な神社に豊作祈願を命じ幕府にその費用を出させた事は幕末に向かい、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上昇していく兆しと見ることができる(Wikipediaより
なお農民出身の二宮尊徳[金次郎]は飢饉発生当時48才だった、彼はお上に協力してこの飢饉に立ち向かい誠実と勤勉により多くの農民を救った、なおこの飢饉の原因は全国規模の洪水と冷害だった。
【c1840年アヘン戦争
清国とイギリス〜42、アヘン戦争、イギリス議会は開戦法案を僅差(わずか9票の差、賛成271票、反対262票)で議決した。イギリス人の良心は「金もうけ主義」という悪意に負けたのです。
この事は中国地方に住む人々(現在は中華人民共和国人)の「民主主義への不信」を産み今日に至るまで西欧の「人権意識」を深く疑っている。

イギリスは「自国で消費する膨大な量の中国茶」の代金を「アヘン(植民地としていたインドで無限に採れた)」で支払う事を清国に認めさせ、清国人口の 10% をアヘン中毒患者となし、清国人の脳を破壊しつつ清国を戦争に引きずり込み「香港」を割譲させ5港(広東、厦門、福州、寧波、上海)を開港させた。
【c1842年8月29日南京条約、南京条約、「香港島」は清からイギリスに割譲され、イギリスの永久領土となった。
註 : 香港については、「香港島」はイギリスの領有、香港島周辺地区99年間(1941,8,29まで)イギリスが借りるとの約束が交わされた。
香港島とその周辺地区
画像はhttp://wWW2m.biglobe.ne.jp/~ZenTech/world/infomation/q007_map_hongkong.htm
より頂きました。
注 :アヘン戦争は終結しましたが、しかしこの終戦条約には戦争の原因となった、 アヘンの輸入禁止の件がまったく記載されておらず 、戦後になるとこれまで以上の大量の アヘンが、強欲な イギリス商人によって清国に流入するようになりました。1850年には戦前の水準を超えて 48,000 箱となり、その後も増え続け1860年には85,681箱となった(アヘン1箱の重量は60kg、1888 年に ピークを迎えた、すなわち明治元年(1868)には未だ増加中だった)。以上の大意はシルバー回顧録より引用。すなわち、イギリスは 50年間強(1888−1840=48≒50)もの長期間中国の人々に大量のアヘンを売りつけて儲けたのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下は香港地域返還についての覚え書きです〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

≪1842年8月≫南京条約で「香港島はイギリスの永久領土」、
≪1898年≫香港領域拡大協約で99年間の租借((1997年7月に返還)が決まった)ただし、香港島の領有権はイギリスのままとされた
≪1941年12月〜1945年8月≫日本の領土(大東亜戦争中)、
≪1945年8月≫香港島だけはイギリスの領土(大東亜戦争で日本が負けた為)、香港島周辺地域はイギリス租借地。
≪1949年≫中国大陸地方の内戦が終わり、中国共産党政府が成立した、共産主義を嫌う多数の優秀な中国人が本土から「香港島」に逃れ香港島はイギリス風の自由な政治風土の下に経済発展する、「香港島」周辺のイギリス租借地も隣接する中華人民共和国本土(深セン市)も発展する、やがてシンガポール、台湾、韓国とともにアジア四龍と呼ばれる経済発展を遂げる。
≪1966-1976年≫文化大革命、香港地方でもその影響下に暴動が発生し、紅衛兵が深セン市方面から越境し、香港警察と撃ち合いになることもあったが、間もなく周恩来が長期的な利益から香港を回収しない方針を明らかにし、香港暴動は沈静化した。
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≪1983〜1984年≫ケ小平の改革開放政策で経済はますます発展し、中華人民共和国本土内(深セン市)にも製造業が進出、香港島を中心とする地域は金融、商業、観光でも栄えたケ小平サッチャー英国首相 【 鉄の女 と呼ばれていた [人頭税やフォークランド紛争指揮の強引さで] 】 の「香港島は英国領」の主張を認めたくないと思うようになった。ケ小平はサッチャー首相に英国がどうしても応じない場合は武力行使や水の供給停止もありうることを示唆した。
≪1984年12月19日≫,中英双方が署名した中英共同声明が発表され、英国は1997年7月1日に香港(含「香港島」、「九竜」、「新界」)の主権を中国に返還し、 香港地区(上図の点線内部)は中華人民共和国の一特別行政区となることが明らかにされた。 この中で中国政府はケ小平が提示した「一国両制(一国二制度)」政策をもとに社会主義政策(共産主義政策)を将来50年にわたって香港地区(上図の点線内部)で実施しない(「高度の 自治 を認める」)ことを約束した。http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19841219.D1J.html(日本政治・国際関係データベース)
≪1997年7月1日≫,この様にして実際に1997年7月1日に香港(含「香港島」、「九竜」、「新界」)の主権は中華人民共和国に返還されたただし、50年間は「高度の自治を認める」との条件のもとに。
しかし、
現状2 2014年の現状は、習近平政権がこの約束を早くも破り、「一国一制度化(共産主義化)」しようとし(桜井よしこのコラム)、これに対し「雨傘革命」と言う根強い学生運動が起きている。 
現状3(2016年9月の現状)は、「雨傘革命」グループが「香港こそ自分たちの 本土 」と考える「本土派」に変質、中共国全体の民主化ではなく「香港地区のみの民主化」を目指し、習近平政権に香港行政の見直しを迫っている。  毎日新聞、2016,9,16 社説「中国は新勢力(本土派)と対話を」はここに載せました
現状4(2019年6月〜11月の現状)は、暴力も伴なう激しいデモ直後の区議選で民主派(雨傘革命派)が圧勝、このことを記した毎日新聞記事を載せました。
現状5(2020年7月の現状)は、2047年までの50年間は「一国二制度」の下で高度な自治を認めると英・中が合意した国際的案件をいとも簡単に中共国は破った。まさにこの世に怖いもの無しとの傲慢心をむき出しにした事件が起きた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以上は香港返還についての覚え書きでした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1846年〜48年ジャガイモ病飢饉、ヨーロッパ各地、アイルランドが極端な被害。フランスでは市民革命が 富裕層主体 から 貧農・労働者 主体となり、共産主義思想が起きる、しかし、選挙では「皇帝社会主義」を掲げたナポレオン3世が圧勝、以後フランスは 「第二帝政(1852年〜1870年)」 へと移行する。この流れは ナポレオン1世の時と同じく、ヨーロッパ全体に影響を及ぼす。
1846年〜48年、アメリカとメキシコ(米墨戦争)、アメリかが勝ち、メキシコは国土の1/3を失った。アメリカは、ここに存在した金鉱を獲得、1849年から世界規模のアメリカ西海岸への カリフォルニアへのゴールドラッシュ 始まる、アメリカの西進侵略の流れが本格化する。
【c1851ー1864年太平天国の乱、清国内部崩壊が始まり、1911に滅ぶ
清国、太平天国の乱(長髪族の乱)、南京(ナンキン)を占領し、キリスト教(景教とは違う、キリストの弟と名乗る人物)の狂信的思想のもとに、清朝打倒・土地私有反対・経済的平等をうたったが、56年頃から主要各地域で内乱が激化(人類史上最大の内乱と言われ、死者5000万人 {「清」の人口の 1/5 } を出したと言われている)し、李鴻章・ゴードン(イギリス軍人)らの連合軍によって鎮圧された。弁髪を禁じたため長髪賊の乱ともいう、64年滅んだ。義和団事件(1899ー1901於 各地)、辛亥革命(1911)へと続き清国は滅亡していった。
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寸考、当時の諸国首都の人口、文化度比較、特に人糞尿の扱いについて
日本の首都である江戸では(1853ペリー来航ころ)武家地65万人、寺社地5万人、町人地60万人、総計130万人(Wikipedia)が識字率90%、清潔な体と居住環境、人糞尿は農作物肥料としてリサイクル、農家が町人や武家屋敷に大八車(木製リヤカー)で人糞尿を回収しに行っていた、争いの無い庶民文化が花開いていた。

江戸の人口は世界でも3番だった。1番はロンドンの 230万人だったが産業革命勃興期で空気や水は汚れ、生活環境の清潔さや、識字率に於いては日本よりも低かったと思われる、
2番はパリの 130万人、江戸の人口とほぼ同じだが居住環境は土足にベッド、人糞尿は石作りの道路の排水溝に流し、リサイクルは無かったようです、2階から人糞尿が降ってくるという話も聞いたことがあります(Wikipediaを参照)、いずれにせよ、清国末期のような「文明の衰退現象」は見られず、英・仏・日 ともに文明の上昇期にあった。アメリカ(首都ニューヨーク推定人口100万人)も「いとしのクレメンタイン」 の歌にあるようにメキシコ戦に勝ち(1846〜1848)金鉱へと人々が押し寄せた1849年の人々(フォーティナイナー)のもたらした「金(キン)」で活気にあふれていた(上述の通り)。

1890年ころの旅行家イザベラバードは「首都の人糞尿腐敗による悪臭の最もひどいのは朝鮮国の首都漢城(ソウル、推定人口20万人)と中国の首都北京(推定人口40万人)」と書いているとのことである(YouTube マストゥラ・チャンネルを参照)、したがって、滅亡寸前の中国首都北京の人糞尿腐敗臭は異常なほどに不快だったと想像されます 

〜〜〜〜〜以下、ヤフー知恵袋より〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<太平天国の乱の原因
当時の国情としてアヘン戦争・アロー戦争で疲弊し戦時賠償に苦しむ清帝国は増税を行い貿易による銀の流出から経済的にインフレーションを起こしていました。
また軍のモラルは低下し守るべき民衆からの略奪なども行われるようになりました。

こうした世情の中、結党の経緯は奇怪なものでしたが現世利益を説く太平天国が苦しむ民衆には魅力的に写った事で多くの信者を獲得し一大勢力となってゆきます。

また太平天国は膨張過程で各地の匪賊・流賊をも吸収していきます。
一応、軍紀は厳正と評価していいものでしたので民衆は略奪を働く清軍より太平天国を支持したようです。

ヤフー知恵袋
kenken_s_2508さん 2012/6/1710:19:24 より
〜〜〜〜以上、ヤフー知恵袋より〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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1712〜1852 ロシア帝国最大版図(日本画像もある)
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
1853〜56年(3年間)クリミア戦争、人類史初の 「地球規模文明国戦争」 、ロシア帝国が 最大版図 に到達していた時期にこの戦争は起こりました、イギリス人ナイチンゲールが戦場に女性(看護婦)が必要であることを先ずイギリス軍に認めさせました
一発誤算 1853 
ロシア帝国1国 対  フランス、イギリス、サルディーニア連合国(イタリア西隣)、オスマン・トルコ帝国 
1843年には、クリミア戦争に先駆けてフランスから黒海まで運河が通じていました。


この運河(ライン・マイン・ドナウ運河)はすでに、1843年〜1950年の間は 馬で船を引く 方式で運営されていました。フランスとイギリスはクリミア戦争に参加するために ライン川 ⇒ 運河 ⇒ ドナウ川 ⇒ 黒海 ⇒ クリミア半島 と進軍しました。

ロシア帝国は ドニエプル川 を利用しました。
★註 : 2000年現在のドナウ川の流程図は 下巻のここ にあります、そことこことは部分的に互いにつながり合います

ロシアの負けで終わる。 当時のロシアがいかに現実離れした自信過剰状態だったか、ロシアの本質は 2016年の現在 まで少しも変わって居ないと私には思われます。
クリミア半島で、ロシアとオスマン(トルコ)帝国・フランス・イギリス・サルディーニア連合国(イタリアの西隣)が戦ったのです。
原因を一言でいえば、「汎スラブ民族主義で力をつけたロシアと西欧とのキリスト教聖地管理権争い」、もっと詳しく言えば、ロシア通史に書きとどめた最大版図画像(上図)の通り、 たったの 370年間 でペトログラード(ペテルスブルグ)からバルト海へ出、アラスカまでをも領土とし、自信過剰状態にあったロシア が西欧側諸国に、 黒海→地中海→大西洋 と出る「南下政策」を実力で承認させようとした事。
結果はロシアの完敗、聖地管理権は保留、ダーダネルス海峡もボスボラス海峡も通行禁止(1856,パリ列国会議)、ロシアは西欧諸国から全く相手にされず追い払われた。この時セルビア人(スラブ民族)はオーストリア帝国への深い恨み心を持ちました、オーストリア帝国は戦いには不参加ながらロシア寄りの中立姿勢を保っていましたが戦いがスラブ側(ロシア帝国側)に不利と判明してから参戦し、終戦の調停をしましたが、その変節ぶりがスラブ民族を悪く刺激し、オーストリアへの怨念感情を増幅させて行きました。一方、自信をつけたオーストリアは弱体化しつつあったトルコ帝国からサラエボを中心とする地方(ボスニア・ヘルツェゴビナ)を奪い取り自国領としました(1908,10)。
この部分の解説文は「世界史概観・下」の「私の寸考」の箇条書き部分と通い合います


しかし、この地方はトルコ支配下にありながらもセルビア人(スラブ民族)は「セルビア公国」として「自治権」は確保していました。1908,10 にその自治権もオーストリアによって剥奪されたのですからその恨み心は強烈にオーストリアへとむけられ、後日のサラエボ事件を生んだのです。こうして、

セルビア人のオーストリア帝国への深い恨み心が第1次世界大戦の原因となったのです。

1914年、サラエボで数発の銃声が響き、コソボ古戦場観光のために通りかかったオーストリア皇太子と妃(愛人ともいわれている)を待ち伏せていたセルビア人青年が、馬車の妃を殺しました、そして第一次世界大戦が始まったのです。
註 : 下の画像は 2014年現在の地勢図・政治区画図です
クリミア地勢
クリミア戦争、ペドロパブロフスク・カムチャツシュキー

ボスボラスダーダネルス・海境

マルマラ海周辺 註:ここの画像はヤフー画像集から頂きました

ロシアの南下侵略の失敗。その戦闘地域はドナウ河周辺・クリミア半島・カムチャッカ半島(ペトロパブロフスク・カムチャツキーにまで及び、ロシアの 完敗、南下政策の方向転換:極東へ(シベリア鉄道へと情熱を燃やす)。
ロシアの黒海艦隊がペトロパブロフスク・カムチャツキーへ向けて脱出したのではなく、1853年に日本の長崎まで来ていた3隻の黒船が、同じく日本に来ていた英・仏の黒船に追われてペトロパブロフスク・カムチャツキーへ向けて逃げ延びたと思われる(森本) 

=====以下ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦=====

クリミア戦争の太平洋戦線における主要な戦いである。1854年の8月から9月にかけて、ロシア帝国の極東最大の拠点だったカムチャツカ半島のペトロパブロフスクに対して、イギリス・フランス連合軍の艦隊が砲撃を浴びせて上陸を敢行しようとした。これに対して、艦船の数でも兵力でも劣るロシア側が防戦に成功し、ロシア側の犠牲者100人ほどに対して英仏連合軍は5倍ほどの犠牲者を出して撤退した、Wikipedia。
しかし、その直後艦隊は外洋に出、守備隊はカムチャツカ半島の陸上を逃走したのちにペトロパブロフスク・カムチャツキー砦に入ったと思われる。「1855年の初頭雪の中を脱出」という記述も見られるので英仏連合軍の攻撃はしつこかったと思われる。
=====以上ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦=====

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以後ヨーロッパ勢力は増大し、ナイチンゲールの人道感覚が普及した。

それまで負傷兵の看護は下層階級の女性がする「いやしい」仕事とみなされていた。ナイチンゲールはイギリス人、「仕事」と見なされていなかった 「野戦病院の便所掃除という仕事」 に私財を投じて戦地に居場所を作り次第に「従軍看護」は「誇り高い」仕事であるとの概念を定着させ、看護女性の地位を高めた。

★註 : ナイチンゲールの偉業については八十年戦争(1568年〜1648年)での千人規模売春婦の付記 で早々と解説しています


註 : 「Istanbul(イスタンブル)」に至るまでの名称変遷について(ビザンティオン→コンスタンティノープル→イスタンブル)
紀元前667年頃、古代ギリシアの植民都市ビザンティオン ⇒ 330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世がコンスタンティノープル ⇒ 1453年にオスマン(トルコ)帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅亡すると、 ⇒ この街はオスマン(トルコ)帝国の首都となりトルコ語によるイスタンブルが使われて2015年現在に至っている。
クリミア戦争の原因 自信過剰、及びWW1への伏線的影響(オーストリア帝国(ドイツ連邦)への深い恨み
クリミア戦争は、ロシアの南下政策現象だが核心的原因は汎スラブ民族主義で力を付けてきたロシア皇帝ニコライ1世の自信過剰へのイギリス・フランス・イタリア・オスマントルコ民衆のロシアへの憎悪感情の衝突。
ニコライ1世はキリスト教の聖地、エルサレムの管理権限を自分の宗派であるギリシャ正教系キリスト教に移そうとしローマ・カトリック系キリスト教徒と感情的に対立
セバストポリを攻め落とされても降伏しなかったロシアもオーストリアから最後通牒を突きつけられ調停に同意(オーストリアはロシアの敗戦が確実になってからイギリス側に入る
「調停」という役割は果たしたがイギリス側からは軽い国と思われ、ロシアは深く憎んだ)。かくてクリミア戦争は終わったが、ロシアはオーストリアに強い恨みを抱き、また、ロシア国内ではフランス革命のような近代化を目指す西欧派に対抗して汎スラブ民族主義勢力が台頭、オスマン・トルコ帝国領内の親ロシア派(セルビア公国)と結びついて、ここに第1次世界大戦の伏線が引かれる事になる(民族主義政治理念は日本にも及びつづけWW2後70年経った2015年でも当時の非人道侵略を認めず、千島列島領有を当然のこととして主張し続ける姿勢はつい最近(2014)での下記のクリミア併合の理念と全く変わらない、また、つい最近での下記のクリミア併合事件までにも、ユーゴスラビア・ボスニア紛争(1992)では、旧ユーゴスラビアでボスニア紛争を引き起こした親ロシアセルビア人勢力はボスニアのイスラム勢力を「民族浄化(強姦等)」「虐殺 7000人」している、森本)

註 : 「ユーゴスラビア」は 「南スラブ」 を意味する、南スラブの中でセルビア人がバルカン半島進出が最も古く、且つ諸能力、人口で抜群、旧ユーゴスラビア連邦共和国建国の中心となった民族。

汎スラブ主義勢力は第1次世界大戦中に起きたロシア革命で反革命派(白軍)となって負け、革命派はソ連邦を形成し汎スラブ主義勢力は体制に埋没していたがソ連邦崩壊後再び姿を現し2014年3月には「親ロシア派」勢力としての実力を発揮、ロシア正規軍では無いにもかかわらずクリミア地方とウクライナ東端地方をロシア連邦に併合し、現在(2015年)も紛争当事者である) 
    2015,7,12 毎日新聞、「クリミア戦争」、オーランド・ファイジス著、染谷徹訳、鹿島茂評、を参照。 

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クリミア戦争後のロシア帝国
ロシア帝国は日露戦争(1904-05)に黒海艦隊を参加させることが出来なかった。 「世界史の窓、[黒海の中立化]」より。経緯は次の通りです : 戦後処理のパリ条約で(1856年)、黒海中立化すなわち、黒海での軍艦の航行禁止と沿岸での軍港建設禁止および2つの海峡の軍艦通行禁止が再確認された、その後、ロシアは黒海中立化を一方的に破棄すると宣言し、列国も承認する(1871)が2つの海峡のロシア軍艦通過は認められなかった。なお、日露戦争の最中、ロシアの黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで反乱が起こっている。
 

1853年、アメリカのペリー来航[1度目]、浦賀に、(砲艦外交・侵略力外交)アメリカが日本との外交交渉に集中出来たのはロシアを含む西欧列強がクリミア戦争とその余波のカムチャッカ戦(またロシアの負け、ロシアのペトロパブロフスク・カムチャツキー守備隊は 1855年の初頭に雪の中を脱出した。)に関心が向いていたから。
1853年、ロシアのプチャーチン長崎に来る。(日本外交部の配慮によって、クリミア戦争で敵対中のイギリス・フランスと鉢合せの無いよう長崎を指定された、ロシアはアメリカと違い、態度が紳士的だった)詳細はここ
1852年、イギリスと ビルマ〜53、ビルマは植民地化
1854年2月、、アメリカ、ペリー[2度目]の日本来訪。

〜〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話12 ペリー来航・砲艦外交です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ペリー来航・砲艦外交
註:画像はヤフー画像集より頂きました。
ペリーは日本に対し、友好よりも「おどし」による開国を目指していた事は岡山藩に残る古文書で明白です。ペリー艦隊は江戸湾(東京湾)では空砲ばかりを発射したが太平洋岸の土佐藩(高知県)では実弾を発射し、反撃に出た日本の武士300名ほどが死傷しています。以下、は Wikipedia より引用。

事件は1854年2月20日(嘉永7年1月23日、2度目の来航時)丑の下刻(午前3時)、洲崎(現高知県須崎市)を警護する備前岡山藩陣地への砲撃であった。艦船の砲弾は陣地の手前10メートルほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行って大砲5門を以って砲撃、蒸気船二隻は逃走したが、帆船三隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300名ほどが死傷したが、三隻を「御取り上げ」(拿捕)した

アメリカの態度は威圧的で日本にとっては不快、クジラの鯨油が機械のすり合わせ部分の潤滑剤として、また、ローソクの材料として大西洋のクジラを取りつくしたので日本に寄港して捕鯨をしたいというのが表向きの開港要請理由でしたが実際は日本を脅しだましての搾取が本当の狙いでした。

日本はアメリカの下心を読んでいたので東京湾に「お台場(4基の砲台)」 を1年で、かつ手作業で作り、陸から砲撃と呼応した十字砲火で挑む態度を示していた。

また、不平等条約締結防止に当たっては、結果的に敗北した、日本にはまだ国際金融の巧みな取引技術が無かったので 小判1枚=銀貨4枚 という日本だけで通用する両替を行ない続けたが、アメリカは上海相場で扱われる両替概念で臨み 小判1両=上海の銀4枚 で臨んだ(これは日本の無知に乗じた卑劣な取引です)。

上海銀は劣悪な銀貨で 上海銀貨4枚=日本銀貨2枚 の値打ち、すなわち純銀の含有率が日本の半分、なのに、大量の上海銀貨を持ち込んで 金 と交換し続けた、そのために、幕府の 金保有量は激減し、貧乏になった幕府は政治の表舞台を降り、実権は長州藩が握ることとなった(明治維新)

そして、アメリカに渡った大量の日本金(キン)は南北戦争北軍で使われ、大砲から小銃、軍服までをも大量に購入し使用した。

アメリカの南北戦争が終わると、大砲、小銃、軍服 は日本に安値で売られ、日本では長州軍も幕府軍も同じ軍服を着て同じ武器を使って戦いあった。

〜〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話12 ペリー来航・砲艦外交でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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【n1854年不平等条約、日本とアメリカ・イギリス・ロシア・フランス・オランダ、安政和親条約、[在留外国人の治外法権を認める、関税自主権無し。]
【n1855年日露和親条約締結
【c1856年アロー号戦争、イギリスと清国、アロー号戦争(第2アヘン戦争)〜60、清国また負け。
イギリス船籍のアロー号が海賊容疑で清国に臨検され、この際イギリス国旗が引きずり降ろされ、イギリスが清国に侮辱されたとの理由で、イギリスは清国に宣戦布告した。
実際は、この船はイギリス船籍期限を数日過ぎており、清国の臨検は合法であり、イギリス国旗への侮辱も無かったが、イギリスが強引に清国の不法行為であるとの主張を押し通した、フランスも宣教師殺害事件を口実に清に宣戦布告した。
1857〜1867年、世界最初の経済恐慌、西欧各地に波及。
【c1858〜1860年、清国と米英仏ロシア、また清国の負け。
1857年、イギリスとインド〜58インドは植民地化
【c1860年清国は沿海州をロシアに渡す、アロー号事件の際にロシアに借りが出来ていた、しぶしぶ、脅し取られたのであって常識的な取引は無かった。清国は精神的国力が衰弱していた。
【n1860年日本、桜田門外の変、井伊直弼 暗殺。
1861〜1865年〔4年間〕、アメリカ内戦、[南北戦争]
戦争の原因、大義名分は 「平等な政治の実現」 
北部はアメリカを一つにまとまった国民国家としてヨーロッパ列強と対等な国力を持ちたかった、奴隷制度には反対。

南部は、ヨーロッパ列強を意識することは無く各州バラバラのままでもよいと考えていた、しかし、農業生産は奴隷に頼っていたので、奴隷制度に賛成。

民主主義の原則に従って投票で決を採った所、州の数が多い北部が勝った。南部は多数決の結果に従わなかったのでリンカーン大統領は南部を武力で制圧する決断を下した。
1863年11月19日、ゲティスバーグで、有名な「奴隷解放演説」がリンカーン大統領によって行われた。
 

最終的な動員兵力は北軍(アメリカ合衆国軍)が156万人、南軍(アメリカ連合国軍)が90万人に達した。両軍合わせて62万人もの死者を出し、これはアメリカがこれ以降、今日まで体験している戦役史上、最悪の死者数である。戦闘参加者の 25%(156+90=246 62÷246=0.25203≒25%) が死んでいる。
ゲティスバーグの戦い (1863,7,1-7,3ペンシルバニア州アダムス)は、南北戦争において事実上の決戦となった戦い。アメリカ合衆国軍とアメリカ連合国軍が双方総力を結集、南北戦争史上最大の激戦となった。この戦いが転換点となり、アメリカ合衆国軍が優勢になったと見るのが伝統的見解である、Wikipedia 
この時期を時代背景にした  「赤い河」 という映画は史実に基づいているので世界史の理解に有効です 
この時期を時代背景にした  「風と共に去りぬ」 という映画はほぼ史実に基づいているので世界史の理解に有効です 
南北戦争後のインディアンの「最後の結集力」 については 「黄色いリボン」 という映画が参考になります 

▲▲ページの先頭へ▲▲ この戦争は戦闘が終わってからも南北分裂の危機は続いた、先ず、3年後の戦勝記念式典後の観劇で白人の北部過激派が大統領(リンカーン大統領、黒人奴隷解放論者)を暗殺した、次に黒人男性が白人女性を性的に犯す事件が起きた。

黒人が自分もアメリカ人であることに目覚め、自信が生じ、白人が自信を失う傾向が現れた。幾つかの州では黒人が議会の多数を占め、多数決で 「黒人は白人と結婚しても良い」 との法律を通し、白人女性に結婚を強要した結果白人女性が死んだ事件が発生した、
(モノクロ・サイレント 映画 「国民の創生」 アメリカ、D・W・グリフイス監督 1915)は参考になります。
このこと(白人男性が白人女性を守れなかった事)を切っ掛けとして、白人男性達がKKK (クークラックスクラン)  という黒人暗殺秘密結社を作り、白人が黒人を私的理由で秘密裏に殺す例が多発した。KKK は黒人の選挙権も事実上 「無い」 に等しくした。

また一方では、黒人はまだ文化や経済水準が低かったため、「平等」 を自力で勝ち取る実力は持っておらず、不満を抱きつつも白人に従属する状況は続き、黒人差別は日常生活場面の隅々に及び、固定化されました、例えば、公衆トイレは白人とは別、バスなど公共交通車両も座ることの出来る座席は黒人専用座席のみ、選挙権はあっても教育差別のため黒人のほとんどは文盲、予備調査で除外され、ほとんどすべての黒人は選挙に参加することが出来ませんでした。

黒人が堂々と 「公民権(全てのアメリカ人への平等の保障)」 を行使できるようになるのは、なんと南北戦争後 100年 もかかっています。1964年のキング牧師(後日暗殺された)の公民権運動成功からです。

私の感覚としては、リンカーンの一派は民主主義の理念としての 「平等」 を掲げて 「民主主義先進国(フランスのような国)」 に見せかけようとしただけで 「平等」 を黒人の日常生活水準引き上げ(例えば、文盲の根絶等)から開始するという 「平等実現」 を目指す能力は無かった、南北戦争を起こさせた原動力は 「黒人労働力獲得欲」 だと思います。

南部に、綿花畑等での農業労働力として多数存在している黒人を、北部で急速に必要性が高まった工業労働力として使いたかったのだと思います。

ひとことで言えば、この戦争は白人同士の黒人労働力奪い合い戦争だったと思います。 

この戦争で受けたアメリカ人(白人)の自信喪失の程度は著しく大きく、一方ではインディアン殺戮計画にも苦労していましたので、以後伝統的な国際姿勢である モンロー主義 に閉じこもり西進侵略で自信を取り戻そうとしたのだと思います、(メキシコ侵略 (1846〜1848)、ハワイ侵略 1893, フィリピン奪取 1898 )。
ルシタニア号がドイツ潜水艦によって沈没させられて (1917) 初めて国際舞台(第1次世界大戦)に登場して来るまでに、南北戦争後 50年 もかかっています。
1862年、フランス、ヴェトナムの一部植民地化
1863年、アメリカ、リンカーン大統領の演説、ゲティスバーグの国立軍人墓地の奉献式でわずか3分間の演説を行なった。3年後に暗殺された。
演説内容は次のとおりです。

「多くの勇敢な兵士が死んだことは無駄ではない、その損失の結果として、奴隷制が終わるのであり、民主主義の将来が保証される」 「私は 人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させない」。
 この時以後は黒人に 選挙権 が与えられたが、その行使は 白人暗殺集団 (KKK,クークラックスクラン) の実力行使により 選挙権行使阻止 が行われた。 100年後(1964年)にキング牧師の公民権運動が成功し、黒人の公共の場での平等を保障し、「平等」 が現実化した。キング牧師は白人により暗殺された。
3年後、妻と側近者を伴って喜劇を観劇中に、北軍の俳優に 1.2メートルという至近距離から拳銃で後頭部を撃たれて死亡した。 Wikipedia を参照。
【c1864年11月漢訳『万国公法』が東洋に出現。丁?良の漢訳『万国公法』が、北京で刊行された。しかし、中国はこの国際法の持つ「条約体制」を理解することが出来ず、「隋朝(589)」以降連綿と続いてきた「冊封体制」をもとに「条約」を解釈しようとし続けた。中国が国際社会を秩序づける「条約体制」を理解したのは「馬関(下関)条約(日清戦争終結会議)1895」以降である。
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1866年、プロシアとオーストリア、7週間、
1867年3月30日、アメリカ合衆国、アラスカをロシア帝国から買収。 ロシア、アラスカを領有(1799)してから、 アラスカは 68年間 もの間ロシアが経営していたのだとは! ロシア帝国の国策会社・勅許会社である「露米会社」が北東アジアと北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を行っていたが、アザラシなど海洋動物の毛皮を採集・販売は運送費がかさむこと、乱獲による海洋動物の激減により毛皮事業がなりたたなくなっていた。
註 : 
1896年
カナダのユーコン準州で金鉱が発見された、その後アラスカ州でも次々と金鉱が発見され、アメリカにアラスカへの ゴールドラッシュ をもたらした。アメリカはアラスカ州を「安く買った」のです。
 

1867年、スウェーデン人ノーベル、ダイナマイトを発明。

寸考  ダイナマイト と 戦争抑止力
ノーベルにとってダイナマイトが戦争目的で使われる事は想定内であった。むしろノーベルは、ダイナマイトのような破壊力の大きな兵器が使われる事で、それが戦争抑止力として働く事を期待した[2],Wikipedia。
現在でも使われている概念、すなわち、 「大爆発には戦争抑止力がある」 という概念はすでに ノーベル が発明しています。2016年現在でも、大国と呼ばれる国々の一般民衆は 「核爆弾」 の破壊力を 「ダイナマイトの何倍の破壊力があるか」 で評価します。
ダイナマイト爆発は 化学反応 の力」 であり、 「核爆発 は 核破壊反応 の力」 である事を知らないようです。両者は本質的に異なります、後者は 放射線 を発し、宇宙創造の時には無かった新物質(高レベル核廃棄物等)を生み出しますから。
 

【n1868年(明治1年)、日本は無血近代化革命に成功、明治時代へ。以下で詳細を記す。
元号(和歴)・西暦 換算方法
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(慶4=明1)¶ 明治 ⇔ 西暦 : ± 1867 ¶ (明45=大1) ¶大正 ⇔ 西暦 : ± 1911 ¶ (大15=昭1) ¶昭和 ⇔ 西暦 : ± 1925 ¶ (昭64=平1) 平成 ⇔ 西暦 : ± 1988 ¶ (平成31=令和1) 令和 ⇔ 西暦 : ± 2018 ¶ (  ) ¶ 
より使いやすいものはここ 毎月の書き込み内容案内の(ちなみに)に在ります

                西暦 1868年は 慶応4年 = 明治1年
西暦 1912年は明治45年(1912-1867=45)=大正1年( 1912-1911=1 ) 、西暦数値 引く 1911 は 大正数値
西暦 1926年は大正15年(1926-1911=15)=昭和1年( 1926-1925=1 )、西暦数値 引く 1925 は 昭和数値
西暦 1989年は昭和64年(1989-1925=64)=平成1年( 1989-1988=1 )、西暦数値 引く 1988 は 平成数値
西暦 2019年は平成31年(2019-1988=31)=令和1年( 2019-2018=1 )、西暦数値 引く 2018 は 令和数値 
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★日本の年号変更、「明治」へ★ 明治天皇は 16歳 で即位されました。
(慶4=明1)¶ ;「慶応」 は 4年(1868,10,23) で終わり、「明治」 が その直後から始まる。詳しくは下記  「棲み分け」 を参照してください。
、 慶応4年は 1868年10月23 日 まで、
明治1年(元年)は原則上は 1868年10月24日から始まる。 1868年は 慶応と明治 の「棲み分け」状態に在るものの年号の一般的表記は、 明治2= 1969としている(西暦 − 年号 早見表 を見てください)、しかし、明治1年(元年)は西暦表記では 1968年 と公表されており、 この公表の原因は当時の日本が世界に向かって、6ヶ月(10月-4月= 6ヶ月)前倒ししてでも近代化が 1986年4月 に行なわれた事を宣伝したかったためだと思います。
、和歴 ⇔ 西暦 簡易換算方法について、   67 を足したり引いたりして正解の見当を付けられる、
ただし、引き算で 0 が出た場合は前年号の純粋最終年とする
例 明治 0 年(1867-1867=0)は慶応3年(1867-1864=3) 

例1:天皇制復古である明治維新の明治1年は
西暦1868年(1+1867=1868)
西暦1868年は慶応4年(1868-1864=4)=明治1年(1868-1867=1)
..................................................................................................................................................................................
例2:日ロ戦争の 明治37年は
西暦 1904年 (37+1867=1904)
西暦 1904年は明治37年(1904-1867=37)
..................................................................................................................................................................................
例3:対米関税自主権完全達成の明治44年は
西暦 1911年 (44+1867=1911)
西暦 1911年は明治44年(1911-1867=44)
..................................................................................................................................................................................
例4: 大正1年と同年の明治45年は
西暦 1912年 (45+1867=1912)
西暦 1912年は明治45年(1912-1867=45)
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【n、1868年9月8日明治維新、日本、年号が慶応から明治へと改元され、一世一元の制が定められた。施行は1868,10,23 と思われる
ムッヤッ(68)と志士の気合で明治維新 
(近代化を無血革命で成功させた)明治政府発足。西郷隆盛は勝つ見込みのない内乱を起こし、不平武士14000人をまとめて一度に道ずれにして殺し新政府発足に道を開いた。当時の日本国人口は3400万人、1868年は明治1年(元年)1869年は明治2年
寸考、私立大学の重み、福沢諭吉が興こした私塾(のちの慶応大学)が日本の近代化を方向づけた】 
慶応大学創始者の 福沢諭吉は「脱亜(だつあ)」とは、言ったが「入欧(にゅうおう)」とは言っていないことを Wikipedia で知りました。

「脱亜(だつあ)入欧(にゅうおう)」がひとまとまりの 文言 となって福沢諭吉と関連付けて論じられるようになったのは WW2 終結後である事も Wikipedia で知りました。

しかし、「脱亜(だつあ)」という概念が明治以降の日本を方向づけたことは疑いようのない事実であり、この概念を初めて生んだのは「東京大学等の公立大学」ではなく「慶応大学の前身、慶応義塾という私立学校」であったことについて、慶応義塾の存在は日本史を論じる上で「重い」ものだと思います。

「脱亜論」は書籍ではなく自身が主宰する新聞『時事新報』の社説として掲載されたものです。
朝鮮半島から福沢を訪ねてきた開化派の金玉均(きんぎょくきん)ら数名は福沢に自分の若い時の情熱を思い出させ、この人たちを全身全霊で応援しようと思いました、しかし、半島独特の「党争文化」の壁は厚く、甲申(こうしん)政変で完敗、首謀者の三名は三親等まですべてがむごたらしい処刑(全身の皮膚をそぎ落とすことによって苦しみの極限を味わわせて死なせ、遺体はバラバラに分断されて山野に撒き散らされた)。

福沢は改革派の自分と彼らが芯芽となって東アジアに文明の共栄圏を作ろうとしていた理想が無残な終わり方をしたことに衝撃を受け、中国大陸の盲腸のような所には何ら期待出来ない、ましてや国を西洋列強にいいように分断占拠(1901,北京議定書)されている中国にも期待できないことを痛感しました。福沢の「東アジアに文明の共栄圏を」の概念は崩壊し、この概念を立てなおす気力を奪いました。したがってこの二国には「友情」や「同士」という道義的なおつきあいはあきらめ、関係を持つとしても「国際法」という「人工連帯」のレベルで付き合うのが将来にわたる正しい付き合い方であると深く悟ったのです。この考え方を世に広めるために「脱亜論社説」を書き続けました。

(私の感慨)、中華大陸地方の政治情勢は、130年前(北京議定書[1901]直前ころ)も現在もほとんどその本質は変わっていない、日本はこの地方の 「党争文化」 に巻き込まれないよう、十分に注意して「友情」や「同士」といった繋がりを持たずに「人工連帯」のレベルすなわち「国際法」という「人工連帯」での付き合いに徹してゆかねばなりません。しかし、最近のお隣りさんは「国際法」すら守りませんので時には「無視」で緒要請を押し切る必要性を感じています。今後の予想としては、この二国の文化性は2700年前の中国戦国時代(宦官文化発生のころ)までいったんは後退するのではないかと思います。
 

1869年、エジプト、スエズ運河完成、フランス人レセップスがエジプト王の許可の元開通させた、人類初の地球改造大工事だった。やがて経営難に陥り、イギリスに経営権は売却された。
1869年、ロシア、メンデレーエフ、元素の周期表を発表周期表の空蘭に ? を付け、将来このヵ所に新しい元素が発見されるであろうとの予言し、この予言は全て当たった。以後核物理学は飛躍的に発展する
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1870年普仏戦争、(ふふつせんそうプロシア(ドイツ帝国の前身)とフランス)〜71、フランス大敗。

原因はプロシアがフランスを軍事的に挑発し、フランスが挑発に乗った事、当時、ドイツ帝国の前身であるプロシャ地方は経済的軍事的に実力をつけつつあった、領土を南方へと拡大し、「大国ドイツ」を作ろうとしていた、プロシャの南方すなわちフランスとの隣接地を得ようとする行動が続いた、フランスは怒り、プロシアの計画通りフランスはプロシアに宣戦布告した。

結果は、フランス皇帝(ナポレオン3世)が捕虜となるほどの惨敗を喫した、この年(1870)に第二帝政が終わり第三共和政体が発足。
また、これを境に強い大国「ドイツ帝国」が誕生する。
註 : ワーテルロー戦以後のヨーロッパでは55年間大きな戦争は無かった。この戦争はWW1、WW2の さきがけ。 。

寸考ヨーロッパを内戦(WW1)へと引きずり込んだ侵略性の 「芯芽」は ドイツ騎士団 に既に存在していた。   
ドイツ騎士団→プロシア王国→ドイツ帝国 と イギリス王国 と ロシア帝国

2016年現在のカリーニングラード(旧呼称はケーニヒスブルグ)を本拠地として1230年代に、教皇の十字軍政策の一環としてドイツ騎士団が根付いた、騎士団は南方面へと勢力を伸ばし、プロシャ王国となり 普仏戦争 でフランス帝国(ナポレオン3世時代)を破り、強大な軍事優先国家であるドイツ帝国となり、従来のフランス・ナポレオン覇権は衰え、ヨーロッパの軍事バランスは崩れた。このことに先立って、ナポレオン1世皇帝はロシアに侵攻、モスクワまで行って「フランス革命」の 「民主・共和精神」 は輸出したが軍事上は敗北、ヨーロッパは上掲3ヵ国(英独ロ)が覇権を競い合う混乱の時代に突入(WW1)する。
 

1870年、イギリス、マクスウェル、電磁気力を概念化(物質界の第2の力)
1871年ドイツ帝国誕生、宰相(首相)はビスマルク、フランス東部アルサス・ロレーヌ地方(地政学的に欧州の中心(ヘソ)且つ石炭、鉄鋼石、毛織物 産業で豊か)を併合、以後  EU 誕生まで独仏間の争奪戦が繰り返される。
【n1871,12-1873,9、2年間弱岩倉具視使節団が地球一周の文明視察、留学性・留学希望生を含む総勢107名、女性も多し、伊藤博文、木戸孝允、大久保利通、(西郷は征韓論で孤立していたため含まれず)ドイツ側連合国が普仏戦争で勝ち、ドイツ帝国・々憲法(ビスマルク憲法)が出来、世界から注目されていた。一行はビスマルク憲法に多くを学んだ。明治政府の中枢部分を創設すべく地球を一周する施策研修・実地検分の大旅行団だった
【n1873年、(明治6年)キリシタン(カトリック)信仰の解禁、政教分離(政治と宗教(信仰)の分離)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話11 島原の乱です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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1597年2月5日の処刑画像、ここに在った画像 「長崎、西坂の岡でのキリシタン処刑」 は上方にも全く同じものがありますのでそちらを見てください
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*検索文言一覧表はここ
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<島原の乱>
一揆軍はキリシタンを中心に団結して1年間も「原城」にたてこもって(籠城して)江戸幕府軍と戦った。

日本では1587年、豊臣秀吉によるキリシタン禁制・迫害がはじまり徳川の治世(江戸時代)へと引き継がれ明治維新後6年目で「解禁」となりました、この 286 年間に島原の乱(1637年)では26800人、禁制・迫害 による死者(殉教)は 4045 人、計3万1千人(26800+4045=30845≒3万1千) が殺されています。「解禁」前後の時期に最も多く殺されました。
キリシタン高札


きりしたん宗門は累年御制禁たり、自然不審成もの有之ハ申出へし、御ほうびとして
はてれんの訴人 銀五百枚
いるまんの訴人 銀三百枚
立かへり者の訴人 同 断
同宿並宗門の訴人 銀百枚
右之通被下候。たとひ同宿宗門の内たりといふとも訴人に出づるにより銀五百枚可被下候、
かくし置他所よりあらわるるにをひては、其所の名主並五人組迄、一類共に可被厳科者也、仍下知如件
天和二年五月 日  奉行
右之通被仰出候間当領内之輩急度可相守候者也
日 向

http://www.geocities.jp/kakejiotto/jiichi/n048.htmlより。

この現象は「宗教の深化失敗」であると思います、西暦70年〜73年、ローマ帝国マサダの戦いでユダヤ教徒が政治支配者であるローマ帝国と真正面から戦争したのと同じの「宗教の深化失敗」現象であると思います。西欧社会においてはこの失敗はユダヤ人のディアスポラ(地球規模離散、難民とは違い帰る土地が無い)、民族絶滅政策にまで(1941〜1945、於、ナチス・ドイツ)に至ったが、日本では、この失敗現象は尾を引かず 286 年間に及ぶ「政治」の「キリスト教絶滅政策」の影響は国内にとどまった。

日本では「解禁」後の一時期(1935年(昭和10年)〜1945 「国体明徴(メイチョウ)声明(内閣府が「天皇は神の代理人である」と声明した)で国民を精神的にまとめ WW2 を勝とうと試みたが失敗に終わった、WW2戦後直ちに天皇は「人間宣言」をするために全国を回った。この間もキリスト教弾圧は無く、「信教の自由」は定着し、今日(2020年)に至っている。 )

註 : 「マサダ城」と「原城」のちがいについて。
「マサダ城」: 現在でも多くのユダヤ人はこの城跡に参拝し古代ユダヤ人の無念を慰めしのび、冥福を祈っている。
「原城」: 現在、宗教礼拝を行なうために訪れるキリシタン(カトリック教徒)はいない、訪れる現代人は観光客のみである。


日本は世界で唯一、「政教分離(政治と信仰との分離併存)」について発言するに足る歴史背景を持った国なのだと思います

註 : キリシタン信徒が約300年もの間信仰を守っていた事の発見物語について。

1873年(明治6年)、キリシタン解禁政策が実施される直前の、1865年(元治2年)3月17日の午後(於、長崎大浦天主堂)、プティジャン(ローマ・カトリック神父)が庭の手入れをしていると、やってきた 15人 ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していた。彼が扉を開いて中に招き入れると、一行は内部を見て回っていた。プティジャンが祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、
「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」
とささやいた。
浦上から来た彼らこそ300年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた隠れキリシタンといわれる人々であった。プティジャンは驚き喜んだ(Wikipedia)。

以後、日本では「宗教の深化」が進み、「政治と宗教(信仰)の分離」が進んでいます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話11 島原の乱でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【n1874年、(明治7年)日本国初の海外派兵(琉球国宮古島の難破船乗務員数十名が台湾人に虐殺(首狩)された 1871.10 事への報復、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん))、清国に台湾統治能力が無かったので派兵し虐殺集団を滅ぼした
【n1875年、(明治8年)日本とロシア北方領土交渉 :樺太(カラフト)と千島列島交換条約成立、千島列島とは、得撫(ウルップ)〜占守(シュムシュ)。
1877年、ロシアとトルコ〜78、トルコ負け。
1876年、アメリカとスー族内乱〜77、スー族居留地へ。
1882年、イギリスとエジプト〜1914、エジプト負け。
1884年〜1885、西欧列強アフリカ分割に関するベルリン会議。
1886年、イギリスとビルマ、ビルマ植民地化
1887年、フランス、インドシナ植民地化。
1887年、マカオ、ポルトガルが植民地とした。香港地域の活気に比し、マカオはポルトガルの国力衰退に伴って寂れて行く、
1888年世界最初の映画(サイレント)誕生、庭園を歩き回る人々を撮影した上映時間2秒の作品、1927年(昭和2年)に世界初のトーキーとされる『ジャズ・シンガー』が出現する、以後は娯楽、芸術、宣伝に大いに活用されている。
1890年、「米州連合」成立、米国を盟主として南米諸国がスペイン・ポルトガルの植民地から脱却を計った。WW2後に「米州機構(OAS)」に発展。
映画 「海難1890」 (トルコ帝国帆船軍艦遭難事件於日本和歌山県沖) の時代背景はこのあたりです 
【n1891年(明治24年)5月11日、日本、大津事件、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世、ロシア革命で家族ぐるみ暗殺)を津田巡査が切りつけ、負傷させた
背景にはロシア南下侵略(シベリア鉄道建設計画)があるがこの事件は円満に収まった。明治天皇自らが直ちにニコライを見舞った事をロシアは高く評価しロシアは日本に友好的だった。津田巡査は日本マスコミの死刑論調にも関わらずロシアの御蔭で死を免れ、無期懲役、監獄で病死した。
1891年より、ロシア・フランス両国の交渉が公然化し、最終的には1894年、に露仏同盟が締結された。
1893年1月、ハワイ王国はアメリカに侵略され、女王は幽閉された。以後、アメリカはハワイを太平洋西進侵略の拠点とした。アメリカが西進侵略をここで止めていれば以後の世界大戦は無かったと思います。
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【c1894年、日清戦争発端:東学党の乱、李氏朝鮮王国、「日本人を駆逐し、李氏朝鮮王朝を滅ぼせ!!」。保護国である李氏朝鮮王国の宮廷に常駐していた清国(光緒帝 22歳統治下)の 袁世凱 は「李氏朝鮮は暴動を鎮圧するどころか混乱に乗じて婦女暴行をしている、日本が軍事介入する前に清国は軍事介入すべきである」と清国政府に提言、日清戦争に発展。甲午農民戦争(朝鮮名)、甲午戦争(中国名)。李氏朝鮮王朝に特有の「党争」が国際戦争(日清戦争)〜95へと発展した 。
東学党の乱の原因 
1)「支配階級(両班)」の堕落を批判する新しい知識人(宗教家・東学党)が生活困窮中の農民の不満を道都全州規模で取りまとめた。
2)、日本との日朝修好条規(江華島条約1876年)が最も警戒された。日本の明治維新政府(1868〜)は西郷の征韓論は退けたが富国強兵政策を進めていたためいつ侵略されるか分からないと言う漠然とした不安におびえていた。
3)、他の先進国民国家達も何の資源も無い朝鮮半島を「中国大陸市場への軍事上の要衝」としての価値に目を付ける国が多かったので外国からの侵略への警戒心が半島規模で高まっていた。、
4)、李氏朝鮮王朝は反乱軍を鎮圧出来ないほどに弱体化していた。  

【nc1894年〜95年(明治27〜28) 日清戦争、[概説]日本と清国(中国)、清国負け、日本と清国(中国)、清国負け(光緒帝 23歳)、日本に遼東半島(除、旅順・大連)・台湾・澎湖諸島を取られる。日本は清国に朝鮮が自主独立国である事を認めさせた。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等を廃止させた。以後朝鮮国は「大韓帝国」と称した(1897〜1910[1910年は日韓併合の年])。[経緯・経過] は上段に有ります。
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原因は、迫りくるロシアを背景として、日本国と清国が朝鮮半島領有権 を競い合ったこと。以後 清国の列強分割〔北京議定書1901〕、日英同盟(1902)、日本はロシアにも勝ち(1905)世界第1級国となり、朝鮮半島の併合(日韓併合1910)、清国滅亡(辛亥革命1911)へと歴史の波を乗り切って行き、WW1(1914-1922)では荒れた欧州への物資供給で大儲け、大正デモクラシー、モボ・モガ 景気と一時的繁栄を味わったが、大東亜共栄圏を目指して勝つ見込みのない戦争へと民族の誇りをかけて戦い(1941-1945)負ける。日本のこの戦(イクサ)の功績は、南アジア諸国(9カ国)を白人の植民地支配から解放・独立させた事。
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中国地方の清国・満州国・中華人民共和国・要衝、概念図、(手書き) はここにあります
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1932〜1945 後日日本が作った「満州国 1932〜1945」の図説はここにあります。

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遼東半島(含、旅順港・大連市)争奪史メモ 
1894 の日×清 戦争 時】、には遼東半島は 清 に残った。

(三国干渉 1895,4,23)、フランス、ドイツ、ロシアの三国が日本に対して行なった勧告。日本と清の間で結ばれた下関条約(馬関条約 1895,4,17)に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求める内容だった。理由は「まだ 清 に残っている(多分、書類の細かい不備の点をロシアがほじくり出したのでしょう)」でした。
日本は、イギリス、アメリカ、イタリアなど他の列強の協力で勧告を牽制し、撤回させようと目論んだが英米が局外中立を宣言したため勧告を受諾した、遼東半島返還の代わりに清からは3000万両(4500万円)を獲得した。
ロシアが最も欲しかった南下拠点を日本から策略を巡らせて奪ったのです、清と戦争して勝ったのは日本なのにも関わらず、フランスとドイツを仲間に抱き込んで最も優れた軍港のある遼東半島をロシアが好きなように自分のものにしました。ロシアの狡さへの怒りとロシアの野蛮性への懲らしめ(江東六十四屯大虐殺[1900,8])がロシアへの日本の宣戦布告を決意させました。

1903 清→ロシア、】、ロ×清 戦争(ロシアの満州地方への南下侵略戦争でロシアが勝つ、そのまま居座り、次は朝鮮の岩竜浦を占拠、奉天も占領)
1904 ロ→日本 、】、日×ロ 戦争(ロシア軍の日本方面への南下を止め、反省を促すべく日本がなんとロシアに真っ向から宣戦布告したのです。そして武運に恵まれ、ロシアに勝ったのです)
1945 日本→中華民国、】、第2次世界大戦,WW2で日本が負けたため
1949 中華民国→中華人民共和国、】、中国地方内戦で蒋介石が負け毛沢東が勝ったため
 

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【nc1895年5月(明治28年)下関条約(馬関条約 1895,4,17)日清戦争終結条約、日本の台湾併合決定(日台併合、台湾島と澎湖諸島は明記されたが尖閣諸島については明記されなかった、尖閣が 日本領である事は自明とされていた)

反対を唱える漢人により台湾民主国の建国が宣言され進駐した日本軍との乙未戦争に発展した。日本軍の圧倒的に優勢な兵力の前に政権基盤が確立していなかった台湾民主国は間もなく崩壊、

1896年に三一法が公布され台湾総督府を中心とする日本の統治体制が確立した。日本は台湾を東アジア共栄圏の一地方として「併合」したのであり西欧列強がしていたような「隷属国(植民地)」として搾取したのではない。

その証拠に、未開の地であった台湾の生活・産業インフラを日本並みに整備し教育水準も日本とほぼ同等(義務教育・女子教育・大学教育)の水準にまで引き上げた、これが無ければ台湾は現在の海南島(台湾とほぼ同じ大きさ)と同じ程度に未開の地のままだったでしょう。現在の台湾の人々が親日的である理由が理解できます。

一方、同じ扱いを受けた韓国・北朝鮮(かつての大韓帝国)が現在に至るも嫌日的である理由は、朝鮮民族に特有の「恨みの文化・党争文化」が主たるものですが従たるものとしてWW2後(1945〜)のアメリカとソ連の政治駆け引きの中で国の運命がいじり回された事(朝鮮戦争)があると思います。私達日本人はこの点に配慮し韓国・北朝鮮の嫌日メッセージを受け止めて上げなければならないと思います。詳しくはここに記述
1896年4月、ギリシャ、近代オリンピック発足、第1回 アテネ大会(ギリシャ) <1896年4月6日〜15日>13ヵ国、295人 8競技42種目、出場選手は男子のみ、マラソンでは地元ギリシャの選手が優勝。

〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話7 「五輪は主催国の節目」、ただし、古代のような純粋性に欠け、主催国の政治経済発展の節目に利用されている〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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新聞記事 五輪は主催国の節目
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
[2014年、2月7日、西川 恵氏 金言「五輪は主催国の節目」 毎日新聞 より]。
(私なりの要約)
1)オリンピックは主催国のその後の政治、経済、社会潮流に、少なからず象徴的節目となって来た。
2)1980年のモスクワ大会は日米や西独(当時)など約50ヵ国がボイコット(アフガニスタン侵攻に抗議の意志を表明)このボイコット事件はソ連崩壊の始まりを告げる弔鐘となった。

東西冷戦が最も緊張をはらんだ時期だった、「核戦争の危機」が公然と人々の口端に上がる緊張状態は次の通りだった。
A)ソ連はこの数年前から西欧諸国を標的にした中距離核ミサイルを大量配備。
B)これに対抗して米欧は巡航核ミサイルなどを配備
C)「原油」の価格の動きは次の通りの経過をたどった。

◆(西欧)、当時の西欧は「原油」高騰(1978, 第2次オイルショック)で経済は低迷(民衆の核ミサイル反対デモで社会は混乱) →「原油」価格下落(1985大暴落)→レーガン米政権の仕掛けた軍拡競争がソ連経済を圧迫→ソ連の崩壊(ソ連邦の消滅
◆(ソ連)、当時のソ連は「原油」パイプラインで西欧諸国に高騰中(1978, 第2次オイルショック)の「原油」を供給、西欧の首根っこを抑え経済は順調、モスクワ五輪は西欧に対する優越誇示の絶好の機会だった →「原油」価格の下落(1985大暴落)→軍拡競争に耐えきれない→1980年代半ば(チェルノブイリ原発事故(核力発電所事故) 1986年)に情報公開(グラスノスチ)へとカジを切ったが流れには抗しきれず、1991年にソ連邦消滅

註 : 石油(原油)が人類政治現象を左右する他の例1大東亜戦争開戦前夜(1941年)、日本に対するABD包囲網は日本を対米開戦へと追い込んだ
註 : 石油(原油)が人類政治現象を左右する他の例2、2014年12月現在において、アメリカとキューバが50年ぶりに国交を正常化する方向へと動きました。ベネズエラの安い石油(原油)に頼っていたキューバが石油価格下落とベネズエラの石油が出なくなってピンチ、アメリカに頼りたい、一方、アメリカも中華人民共和国の超巨大運河(パナマ運河の西側)建設に対抗の必要上「裏庭の隣国」のトゲであるキューバを味方につけたい、これらの政治要素のバランスを取る主要原因が石油(原油)なのです。

3)、主催国が五輪をスプリングボードにして発展した例は次の通りである。
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A1)1964年、東京五輪。1988年ソウル五輪。
A2)2008年、ペキン五輪は、その後のリーマンショック(アメリカに端を発した金融工学理論崩壊による経済恐慌)で多くの国が右往左往する中で中華人民共和国だけ大規模財政出動で乗り切ったことと絡めて見るならば、目立たない低姿勢から威圧的な態度に転換する契機となった。
A3)今後のロシア共和国の未来はどうであろうか? 「原油・天然ガス」は、輸出依存度が1980年では67%、現在では75%と高止まって経済を支えているが、いわゆる「高ころび」するのか? 「高ころび」するならばモスクワ五輪の2の舞となるだろう。


(近代オリンピックでの不祥事)
1)、1972年ミュンヘンオリンピック事件、1972年9月5日、旧西ドイツのミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われた人質事件。「黒い九月事件」。ミュンヘンオリンピック開催中に発生し、イスラエルのアスリート11名が殺された殺人事件。
2)、1990年頃東西ドイツが統一(1990)され、旧東ドイツ国家規模ドーピング事件が次々と発覚、有望な少年少女にドーピングを強制し、オリンピックのメダルと引き換えに多くの若者の健康を蝕んだ、以前から人口に比しメダル獲得数が異常に多いので疑惑に目が注がれていたが東西統一で実態が明らかにされた。例えば1975年に重量挙げで世界一の力持ちとして表彰されたゲルト・ボング選手は2014,10,20 に63歳で亡くなった。薬害のためモントリオールオリンピック(1976)で、意識不明で倒れ、以後重度障碍者となり37歳から障害年金受給者となっていた[ 2014,11,14 現代ビジネス 川口マーン恵美記者、シュテゥットガルト通信 ]。

註1 : 2014年ロシア・ソチ冬季五輪では国家ぐるみのドーピングが行われたと疑われています。

註2 : 2015年現在では、ロシア連邦におけるドーピングが問題視されています。

註3 : 2015年7月現在ではロシアに対し、この8月からのリオデジャネイロ五輪へ参加しないようにという勧告が出されています。


(ボイコット事件)
中華人民共和国のボイコット件数が最も多い、実体は次の通りです。
1956年 メルボルン五輪、選手団が現地に到着後にボイコット(理由は台湾問題)
1960年 ローマ五輪 ボイコットの理由は台湾問題
1964年 東京五輪 ボイコットの理由は台湾問題、(開会式当日に合わせて同国初の核実験を行った)
1968年 メキシコ五輪 ボイコットの理由は台湾問題
1972年 ミュンヘン五輪 ボイコットの理由は台湾問題
1976年 モントリオール五輪 ボイコットの理由は台湾問題
1980年 モスクワ五輪 ボイコットの理由はアフガン問題と台湾問題


(現代の参加国数)
2012年、ロンドンオリンピックでは、204の国と地域から約11,000人が参加。26競技302種目。男女。


〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話7 「五輪は主催国の節目」ただし、古代のような純粋性に欠け、主催国の政治経済発展の節目に利用されているでした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


〜・・〜〜・・〜・・〜〜〜以下は挿話7-2 「五輪の歴史的鳥観、2016,7,29 毎日新聞 余禄 を書きとどめます〜〜〜・・〜〜・・〜〜〜・・〜〜・・〜〜〜・・〜〜〜〜・・〜〜〜〜
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新聞記事 五輪の歴史的鳥観
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
〜〜〜・・〜〜〜〜以上は挿話7-2 「五輪の歴史的鳥観」でした〜〜〜〜・・〜〜・・〜〜〜・・〜〜〜〜〜・・〜〜〜・・〜〜〜〜

【n1897年(明治30年)「大韓帝国」成立 1910年(明治43年)まで、(この年に日韓併合)13年間のみ存在。
★森本の註 : 「帝国」という呼称は大げさであり「大」がつくのでなおさら大げさです、実態は「主権(独立権、自主権)」がなく、「大日本帝国の保護国」です。この時期には「竹島は我が領土」との立法がなされたと2020年現在でも韓国は主張していますがこれは「嘘」です、「大日本帝国」がこれを認めた証拠はなく、単に「国内決定」であったようです。
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【c1898年、清国は先進国に次々と領土を取られる(ドイツ、膠州湾(山東付根南部、含、青島、チンタオ)、フランス、広州湾、(福建省)、1899イギリス、九龍半島(香港側)・威海衛(山東先端))。 以後1903、ロシア、旅順・大連
【c1898年9月清朝、光緒帝(当時27 歳)の政治改革はわずか3ヶ月で失敗に終わる(ただし、1908年 37歳 までは名目上の中国皇帝)。
1898年、アメリカとスペイン(米西戦争)スペインはキューバと、フィリピンで海戦に負ける、アメリカはフィリピンとグアムを植民地とし、以後西太平洋の軍事拠点とする。フィリピンはスペイン支配下での生活水準は世界水準より高く豊かでした。アメリカ支配に移行(1898年)直後は貧困に陥りましたが宗主国のアメリカが軍事基地政策を進めるうちに大韓民国等貧困国を上回る豊かさを回復していきました。
植民地化当初は反米戦が続いたが 1916年 のジョーンズ法により「将来の独立」をアメリカが約束して以降は「自治の雰囲気」が高まり親米に変わって行った。
【n1899年7月17日(明治32年)、日米通商航海条約締結、不平等条約を解消)
【n1899年7月29日(明治32年)、陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約成立、 オランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された。日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准(国会で承認)、1912年(明治45年)1月13日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するのではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。その後改定(1907)
1899年9月、アメリカ、中国に関する門戸開放宣言、中国の領土分割に参加を表明。
1899〜1902年、イギリスと南ア入植中のオランダ人、ボーア戦争(2回)〜1902、ボーア人の負け、金・ダイヤモンド鉱山の権益をイギリスに取られる、金やダイヤッモンドが出なければこの戦争は無かった。
【c1899年義和団事件。清国を守り外国侵略を防ぐ事を目的として東中原各地から軽武装の武力集団が多数北京に集結し外国勢力(イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアと日本)と戦ったが武器の劣勢、訓練の未熟のため兵力では圧倒していたにもかかわらず完敗し、西太后は息子の嫁を井戸に投げ込んで息子とともに紫禁城を脱出。
1900年8月ロシア満州に南下、大義名分はつぎの通り「北満州住民の保護」。あわせて朝鮮半島にも勢力をのばす。
20世紀の帝国主義競争を鳥観すると、アメリカはようやく南北戦争という内乱を乗り越えたばかり。いわば、帝国主義の後発組でした。
先頭を走るイギリスとフランスを、一馬身差でドイツとロシアが追い、さらにその後を日本とアメリカが追いかけているという状況だったのです。20世紀中盤のWW2でイギリスとフランスはドイツには勝ったものの力を使い尽くしたヘトヘトの状態となりました。
20世紀中盤で、白人国で先頭を走ることとなったのは20世紀初頭ではビリだったアメリカとなり
21世紀の現在(2015年)の今日に至っています(森本の覚え書き)。 

【c1901年7月(明治34年)北京議定書、列強が中国を分割支配(義和団事件最終議定書または辛丑[しんちゅう]条約)、この体制は 辛亥革命( 1911 )まで続いた。
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〜〜〜〜〜〜〜〜以下は 挿話36 です、北京議定書に見る「乱」の状態は外見上発展途上にあるかに見える現政権(2017)にも潜在するこの国の本質だと思います、隣国として気を使わねばなりません〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
寸考 
中国のこの混乱状況(下図、北京議定書図示参照)は、WW2 終了までの 44年間(1945-1901=44) 続き、さらに戦後の国共内戦が4年間(1949-1945=4)続きました。合計48年間という長期間の内戦状態を経てもまだ落ち着かず、さらに「文化大革命 1966-77」の11年間を加えれば 60年間(48+11=59≒60)もの長期間続きました。さらに、混乱の範囲は国際規模に及んでいます、すなわち、「文化大革命」は当初、老境の毛沢東の「権力闘争妄想」実現闘争(劉少奇からの権力奪還闘争)だったのですが権力への野望は青少年を巻き込むまでに国内規模で発展させた後、この闘争を「国際連合」という表舞台にのせ 中華民国 追い落としに利用するという「大バクチ」を仕掛け、成功させたのです(1971,2758号決議)。この大規模政治闘争に利用されたのは中国国内青少年のみならずバルカン半島の小国「アルバニア」まで巻き込まれました。アルバニアは国連総会での「中華民国追い落とし案(アルバニア案)」の多数派工作をさせられたのです。

「文化大革命」の本質は実は 中華民国(台湾政府)追い落としの「大ばくち」であり掲げられた大義名分は

「マルクス・レーニン主義のさらな発展、ソ連を抜き去るもの」
だったのです。

このようにして 中華人民共和国 は国連で中国地方代表国且つ安全保障常任理事国の座を得たのですが2016年の現状を見る限り「荷が重すげて政治が背のびし上滑りしている」と思います。

すなわち、中共国民衆が政治権力闘争に右往左往させられたこの 60年間は中共国民衆は落ち着いて自己の教養を高めることが出来なかった 「教養空白」 の期間だったということが出来ます。

この長い 「教養空白」 の期間を経てやっと ケ小平 が「人治」を掲げ、「共産党一党独裁且つケ小平独裁」による「共産主義市場経済・一国二制度(概念不明)」という経済最重視政策によって極めて性急な経済発展を遂げて2016年の現在に至っています。

しかし、「文化大革命」後の混乱は「民主化」を求めるデモ隊を「人民解放軍」が戦車と機関銃で殺すという「暴力政治(第二次天安門事件 1989)」が締めくくりました。「人民解放軍」が「人民」を殺したのです。そしてこの事実は中華人民共和国共産党史から消され、「暴乱があったので暴徒を排除した」とされているようです、その後、人口13億と言われる人々は「人権」よりも「経済力と軍事力の政治」を大切にする無教養な政治の下に置かれています。

60年間という長期間、国民は政治家の政治闘争に巻き込まれ続け、勉強する機会がありませんでしたので「経済力と軍事力の政治」を改革する知恵を働かす事が出来ずいらだっています、政治家は国民のいらだちを外部へと発散させる幼稚な政治手法を採用しました、すなわち、ある日突然(1992,「海洋法」制定・尖閣は我が国の領土と宣言)、友好関係(1978 日中平和友好条約)にあった日本を攻撃するという幼稚な政治手法「反日政策」を取り、南京城攻略では大虐殺があり日本軍に20万人殺されたという政治主張を「学問的事実」であるとして「国連・世界記憶遺産」に登録させるという無教養なことも行いますし、歴史的けじめの行事として対日本戦勝70周年記念行事に際し「日本軍に打ち勝ったのは中華人民共和国である事は輝かしい歴史事実である」と世界に公言しています。これは明らかな歴史のまちがいで、真実は「日本軍と最後まで戦ったのは 中華民国」 が正しいのにもかかわらず、「経済力と軍事力の政治」を信じる現在の政府は「歴史事実」を「政治力」で自由に書き換える事を行いますのでその無教養さが目立ちます。

中華の国の「人権無視」体質は、北京議定書の時代にも「宦官」「纏足」が行われていた事からも分かります、この二つの習俗からは「人間をロボットと見る」無教養さを見る事が出来ます、清国が滅びた(1911年)時点で「宦官」は無くなりましたが「纏足」は人民の習俗としてその後もかなりの期間続きました。

この 北京議定書内容図示図 で見る事の出来る「乱」の本質は 2016年 の現在でも全く同じといっても過言では無いと思います。

人々はどんどん外国に出て勉強し、教養を身に付け一日も早く「人権重視」「議会制民主主義」の国を作ってほしいと思います。

現在の政府の実施する諸政策は「100年遅れた政治」「無教養」「派手」で政策が一種の「賭け事」「人気取り」であるように見受けられます。

国民が「日本は政府の言うような悪い国では無い」と知って不平不満を政府に向かってぶつけ始めたとき、再び「太平天国の乱」「義和団の乱」のような「乱」が起こり得ます。
 

 「蒼穹の昴」 という映画の主人公 西太后 についての概説
清朝末期に、近代化に 無関心で、日清戦争中(1894)にも趣味の庭園増築に国費を使ったほどの利己主義者
紫禁城を舞台にして、いかに政治の実権を奪い、且つ継続したかの年代を先ず把握します。
1861年(明治まであと7年の時期)にクーデターで実権を握る(25才)その後、幼少の「名ばかりの皇帝」二人(同治帝 19才で死)(光緒帝 37才で死)の皇帝を操り光緒帝の死直後に、1908年(明治41年)72才で死、この間、47年間もの間清国の支配権力を維持し、清国を「死滅(辛亥革命 1911)」へと導いた。彼女の頭にあったのは「紫禁城内での己の権力の保持」 だけでした。
 

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下の文章の骨子は西欧列強(含日本)による中国分割、アメリカの出遅れ、変法運動、戊戌の政変より頂きました
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1901年 北京議定書による  中国分割図
はここにありましたが、現在はここにあります

その後の清朝皇族のたどった人生、皇族を利用した日本のあらましも移転先(「自己紹介」)に述べてあります、実力を失った大きな国、清国の最後は大海を漂う大船のようです。日本の関東軍も一時はその船の操縦をしました。満州国皇帝の名は 愛新覚羅 溥儀 皇帝即位時は28才、清国皇帝即位時は2歳、政治の荒波にもまれて極めて特異な人生を送った皇帝です。
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【日清戦争終結の1895頃(光緒帝 24歳)〜日ロ戦争終結1905頃(光緒帝34歳)】
このころに列強諸国が中華地方を分割所有した事情はこの上図の通りです。
この 約10年間は中華の国、清国の特殊性(改革拒否・現体制維持)が凝縮されています】


日清戦争後、「眠れる獅子」として潜在的な能力を恐れていた西欧列強は、小国日本に中国が敗れたことで、清朝の弱体化を再確認しました。

西欧列強や日本は、鉄道敷設権や鉱山採掘権、租借など、中国の利権獲得により一層積極的になっていきます。

鉄道の敷設権や鉱山採掘権は列強資本の投下先となり、租借は中国の領土を一定期間借りることを指します。租借期間内では、租借地の立法・行政・司法権や軍隊の駐留が認められ、事実上期間が決められた領土割譲のようなものでした。

列強による中国分割

日清戦争後、下関条約で日本に割譲された遼東半島は、1895年にロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉を受けて清に返還されました。

この三国干渉の見返に、ロシアはシベリア鉄道に接続しウラジヴォストークにいたる東清鉄道の敷設権を獲得します。

また、ドイツは中国で起こった宣教師殺害事件を口実に山東半島南西の膠州湾を占領し、1898年に99年間期限付きで租借し、青島市を建設、ドイツ東洋艦隊の基地にします。

現在でも有名な中国の青島ビールは、租借地経営の一環としての産業振興策としてビール生産の技術移転を行ったことがきっかけで設立されました。

このドイツの租借地獲得を受けて、再びロシアが中国に迫り(1903頃)、遼東半島の旅順・大連を租借し、南下政策の長年の目的だった不凍港を獲得します。

こうしたドイツやロシアの租借の成功を知ったイギリスやフランスも中国に迫り、1898年に香港の対岸九龍半島と山東半島東端の威海衛をイギリスが、1899年に広州湾をフランスがそれぞれ租借します。

こうして1899年ころには、ロシアが東北地方、ドイツが山東半島、イギリスが長江流域、フランスが広東・広西、日本が台湾の対岸の福建地方を獲得(1898、福建省は西欧列強には渡さない、すなわち日本の半植民地とする日清約定)し、勢力図が決まりました。

アメリカの出遅れと門戸開放宣言

同時期、アメリカも領土獲得政策に乗り出し、1898年にスペインとの米西戦争に勝利し、フィリピンとグアムを獲得しました。

中国進出に遅れをとったアメリカは、1899年に国務長官ジョン=ヘイにより門戸開放宣言を出し、中国の門戸開放と機会均等(アメリカにも分割に参加させよ!)、翌年1900年には中国の領土保全を訴えました。

門戸開放宣言は、清朝に配慮したものではなく、アメリカの中国進出のために出されたものでした が、列強もこれに一応賛同したため、中国分割の勢いはひとまず落ち着きます。

変法運動

日清戦争の敗北により、それまで行われていた洋務運動が挫折しました。

列強の中国分割の勢いが激しくなる中、中国の政治家や知識人らは危機感を覚え、日本の明治維新を参考にした近代化の必要性を痛感します。
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洋務運動は中体西用のスローガンのもと、伝統的な政治体制を維持したまま行われましたが、列強と渡り合うためには、中国の伝統的な専制君主体制の変革を含む議会政治や立憲君主制の樹立が必要でした。

1890年代から行われた近代化のための一連の運動を、変法運動(変法自強)といいます。

変法運動は、公羊学派に属する儒学者で政治家の康有為・梁啓超らが中心となり行われます。

公羊学とは、儒教の経典である『春秋』の公羊伝という注釈書を重んじ、儒学を政治上の実践にあてることを重要視していました。対照的なのが、儒学の文献研究に重きをおく考証学です。

康有為や梁啓超は、中国を変えるためには専制君主制から君民一体の立憲君主制への政治転換を図らなければならないと主張しました。

こうした主張は、若き皇帝清朝11代光緒帝の心を強く動かし、1898年6月、皇帝は反対する多くの保守派を抑え、康有為・梁啓超を重用し、政治改革を行わせます。これを戊戌(ぼじゅつ)の変法といいます。

光緒帝は同治帝の没後4歳で即位し、18歳(1889年)で親政を始めるまで同治帝の母親である西太后(母の姉)が摂政として政治を動かしていました。

戊戌の変法により、科挙の改革、新官庁の設立、後の北京大学となる京師大学堂の設立など多くの改革案が出されました。

西太后と戊戌の政変

こうした改革が進むにつれ、清朝内の保守派は激しく反対し、長年政治権力者の中心だった西太后のもとに集まります。

西太后と反対派は、同じ年(1898,西太后 62歳)の9月にクーデターを起こして光緒帝を幽閉(年齢は27歳)し、実権を奪いました(ただし、1908年 37歳 までは名目上の中国皇帝でした、1908年に毒殺(ヒ素の使用)されたとのうわさがあります、また、西太后は光緒帝の死直後に死んだ(72歳)とされています)。

保守派が政権を奪ったあと、改革派の6人の政治家が処刑され、康有為・梁啓超は日本に亡命し、戊戌の変法はわずか3ヶ月で失敗してしまいます。(失敗の原因は、急ぎすぎ と言われています。
数千年の中国の歴史によって「奇形化」した 諸文化 を いきなり 「近代化」しようとした、それも、毎日のように 「新しい命令」 が皇帝から行政へと発せられ、行政官たちはこの 急ぎすぎ をやがて無視するようになり、皇帝の権威は短期間で地に落ちた。 
なお、 「蒼穹の昴」 という映画をここに位置づけました、歴史的事実の参考にはなりますが、清朝衰弱問題の本質(人権問題)に迫る映画ではありません 


この西太后らが中心となり起こしたクーデターを戊戌の政変といい、この結果改革運動は頓挫した、しかし、西太后は義和団事件(1899ー1901)で外国勢力を追い払うことに失敗して逃亡、清朝は滅亡へと加速し辛亥革命での滅亡(1911)へとつながって行きます。
清朝最終期の二人 の皇帝
光緒帝、在位 1875(4歳)〜1908(37歳) ほぼ全期間 伯母の 西太后に実権を握られた。
宣統帝 、在位 1908(2歳)〜1911(5歳)幼児の皇帝が3年間存在した

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※ 註、宦官 と 纏足 について、
紫禁城(王城)には常時数千人の 宦官 が居た(映画、 「蒼穹の昴(ソウキュウのスバル)」より)、また、皇帝の妾(めかけ)としての女官も同じ数居た、この妾達の足は纏足(足の人為奇形)だったと思います、しかし、映画では 纏足らしい所作の女性は一人も居ません。
皇帝(宣統帝・溥儀)は満州地方に逃避、のちに満州国(日本の植民国家)皇帝となる(1934年、28歳)。

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〜〜〜〜〜以上は、挿話36 でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1902年〜1921年(明治35年〜大正10年)(19年間)日英同盟成立。以後日本はイギリスの多数の植民地の軍事紛争の防止・解決に精力的に活躍、日本とイギリスは堅く結ばれる、日本はイギリス植民地が地球規模で散在しているのでイギリスから次々と軍艦を購入して海軍力を増強し、イギリスの要望にこたえた。後の WW1 では地中海に於いてドイツとの海戦に勝ち続ける事によってイギリスを助けた。しかし、イギリスの本音はロシアの力を東アジアで衰えさせることでした。日本がロシアを破り(日ロ戦争)、ロシアで共産革命が発生し、ロシアが帝国主義競争から脱落すると、イギリスは日本の力を警戒するようになる。イギリスは日本の勢いを嫉妬していたアメリカと組んで世界制覇を続ける道を選び、やがて 日英同盟 は解消される。
イギリスはロシアの世界制覇を阻むために日本を利用し、目的が達成されると日本を見捨てたということが出来ます。日英の結束はアメリカの嫉妬心を産むほどに強かったのです。
1900年8月、ロシア、江東六十四屯の大虐殺、理由は「鉄道敷設に協力的でない」、25,000人が殺されアムール川(黒竜江)に捨てられた、死体はまるでイカダのように流れて行った。
1902年、ロシア、シベリア鉄道全通、日英同盟に対しロ仏宣言。
1903年、ロシア、満州をさらに南下し奉天(現在の瀋陽)占領そのまま居座る。
1903年ロシアと清国ロシア、満州を占領、難攻不落の天然要塞と言われた 旅順港 を手に入れる(日清戦争後の三国干渉を言い出した目的を果たした、日本からの宣戦布告を徴発)。
1903年、ロシアと大韓帝国、龍岩浦を占領し大韓帝国支配を目指す(日本からの宣戦布告を徴発)。
1903年12月、アメリカ、ライト兄弟世界初飛行、以後、兵器としても急速に発達、空中戦、空爆(ヒトラーのゲルニカ空爆、世界初、1937年4月26日、スペイン内戦に介入)の道具となる。
1904年、オランダ領東インド成立。
【nr1904年〜05(明治37年〜38年)日ロ戦争、1904年2月10日に日本政府からロシア政府へ宣戦布告、(李子朝鮮王 高宗 は 中立 を宣言したが無視された、巌流浦をロシアに侵略されていたので)結果はロシアの負け。ロシアの東洋における南進侵略の失敗(西欧でも東洋でも南進侵略政策は失敗に終わった、ただし、東洋では旅順港は失ったが 1878 に開港のウラジオストック港は確保していた)、西欧列強特にイギリスはロシアの急速な発展(シベリア鉄道全線開通など)に嫉妬してロシア艦隊の水・石炭補給を妨害し日本への到着予定日を遅らせ、日本に勝たせようとした。戦後処理はアメリカが仲介、ロシアは、満州権益・南カラフト権益を日本に渡す。
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以下は 現代(2017)における「日ロ戦争分析」、ロシア外交の強引さは全く変化しておらず 1904 の時点では朝鮮人居住地域の処遇に付き終始あいまいで後日ロシアに有利になるような「領土分割」交渉術を使い、この時点での最大被害者は朝鮮人だったことが分かります。
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以上は 現代(2017)における「日ロ戦争分析」、日本の天皇はロシアと戦うことに反対だったことが分かります、また日本の勝利理由は 「日英同盟 1902 」だったことも分かります。
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新聞記事 日ロ戦争分析
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
【n1905年(明治38年)、ポーツマス条約、日露戦争の終結条約の締結。
この戦争で最も「得」したのは 清国 でした。日ロ戦争に日本は勝ちましたが日本の国力は衰弱しました、ロシアから得たものは「不毛の地・南カラフト」だけでした
満州権益についてはこの戦争で最も「得」したのは 清国 でした。日本はロシアを満州地方から追い出し、満州地方を「清国」に戻しました。ヨーロッパ列強が相談していた「中国地方の分割支配」を免れる事が出来たのです。現在の中国地方支配政権である現在の「中華人民共和国」が存在する事が出来るのは日本人が日ロ戦争で流した血と汗の結果なのです。「中華人民共和国」は日本に感謝すべきなのです。
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旅順港 :旅順艦隊は旅順港に停泊してバルチック艦隊(サンクトペテルブルグが母港)との合流を計画していたロシア海軍は日本陸軍の203高地からの砲撃と日本海軍の海からの艦砲射撃を同時に受けバルチック艦隊到着前に全滅していた、旅順港の位置は、黄河が流入する海(渤海)を囲むように北側から延びる半島(遼東半島)の先端。)。
バルチック艦隊 :スエズ運河は浅すぎて通れず日本の同盟国イギリスの港湾は利用できず、ロシアの同盟国フランスも中立を保っていたためあからさまな協力はできなかった。戦艦と装甲巡洋艦合計数は、 日本は12 ロシア14、 ロシア艦はほぼ全滅、ウラジオストックまでたどり着いたのは巡洋艦1隻、駆逐艦2隻だけだった。日本の損害は水雷艇3隻のみ。)

註 :日ロ戦争で「日本が勝つ」事を予想した人間は世界中のどこにも居ませんでしたのでこの歴史的戦争の結果は世界の人々に衝撃を与えるとともに日本軍人のその後の傲慢の直接的原因となり日本はこれらの傲慢軍人によって国の軍国主義化が進みました。日本の一般人も新聞社(徳富蘇峰)の影響で「負けない国、神が守る国、日本」との信仰を持ちました。この結果、第二次世界大戦,WW2では大敗しました。これは建国以来初めて「対外戦争」における完璧な敗戦でした、特定の国には大きな心理的傷を負わせ現在でもその傷は癒やされていない・・・日本を「悪の権化」として国内団結に利用している国もある。

しかし、私は地球規模で その後の 日本 を見た場合は、次の点を高く評価しています、
1)、日ロ戦争の場合、「小国でも勝てる」 という希望を小国に芽生えさせた。
2)、大東亜戦争(太平洋戦争)の場合、日本が支配した国では現地人に差別なく接し、特に教育を重視して現地人の教養を高め、団結力を高めさせた。このため戦後は雨後のタケノコのように「独立国」が誕生した。西欧列強に300年〜400年の間 「植民地」 として支配せれ、人権無視の奴隷状態だった人々に「非白人でもその気になれば白人支配から脱出して独立できる」との自信を与えた、日本には 奴隷 という概念が昔から無かったからです。 

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〜〜〜〜〜〜〜〜以下は 挿話26 生かされなかった旅順戦です(日ロ戦争の経験 [大量物量消費による旅順戦勝利] が生かされなかった)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

旅順包囲戦、6ヶ月間で、日本は4000トンの砲弾を使った、日本側、総動員数約30万人、戦死 55,655人、ロシア側、総動員数約50万人、戦死 25,331人、日本はかろうじて勝ったのです。
近代戦に勝つには局地戦といえども大量の物資と多数の兵士が必要である事を知る事の出来た戦いでした。
近代戦のこの特徴は後のチンタオ(青島)要塞包囲戦、8日間で、ドイツに勝った時も1600トンの砲弾を使いました。1日に200トン旅順戦の10倍(200÷22=9.1≒10)({4000}÷6×30=22.22≒22トン)

日本は旅順包囲戦直後の日ロ日本海海戦でこの「近代戦の原則」からかけ離れた偶然とも言える勝利を納め、この勝利と後日のWW1初戦(ドイツ対ロシア)の50万対15万ドイツ勝利(タンネンベルク戦)の偶然とも言える勝利とにこだわり、「少量・少人数でも精神力で勝てる」と言う一種の「少量勝利戦法」におぼれこんで行きました。

この間にアメリカとイギリスは「物量・兵士量」が勝敗を決すると言う「大量勝利戦法」を採用しWW2で勝利しました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以上は 挿話26 生かされなかった旅順戦(日ロ戦争の経験 [大量物量消費による旅順戦勝利] が生かされなかった) でしたこの書き込み部分の大意は 2014,9,23 毎日新聞、文化、6、日本参戦、井上卓弥記者の記事に依ります〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本における文学者の戦争への態度について
1) : 徳富蘇峰について、Wikipedhia より意訳抽出
徳冨蘇峰 : 『國民新聞』社主として明治・大正・昭和と長期間日本人を「戦争」へと駆り立てた。軍部と提携し大日本言論報国会、 東條内閣のもとで文化勲章を受章した。この年蘇峰は80歳、敗戦時には戦犯指定を高齢(82歳)を理由に免れた。1946年文化勲章を返上した。94歳で死去。 
2) : 与謝野晶子 (短歌集「みだれ髪」 1901,明治34 発表) について、は日ロ戦争(1904,2〜1905)中であるにも拘わらず 短歌 「君死に給う事なかれ・・・親は・・・人を殺して死ねよとて二十四までをそだてしや」 を雑誌 『明星』 に発表(1904,10)し、弟の出征を悲しむ気持ちを表明し、「非国民」 と世間の批判を浴び、自宅に石が投げ込まれました。Wikipedia 参照
3) : 平塚らいてう について、彼女は女性の人権(自由)復古を雑誌 『青鞜』 (自ら創刊 1911 明治44 )で、主張以来、社会の現状打破派女性の象徴だったにも関わらずWW2中は 「戦争肯定」 論者だった。2017,12,15 毎日新聞、森まゆみ 参照。 
 

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しかし、2017年の今日に至るまでどの国ともまた国内でも「戦争」を1回も起こしていない事に国民は自信を持たなければならないと思います。
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日本はロシアを満州地方から追い出し、満州地方を元の状態とした(清国の領土とした、ただし、旅順港、大連市等の遼東半島先端地方は日本領土)
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以下特別註 : 局地戦とは言え有色人種の日本人が白色人種のロシア人に勝った事は有色人種に大きな希望を与えた、「白色人種も有色人種も同じ人間」という概念を生み、当時植民地支配を受けていた国々(特にインドを始めとする東南アジアの国々)の独立心を芽生えさせた、

第2次世界大戦,WW2後これらの国は「絶対に勝てない神様のような人であった 白人 と戦い独立を勝ち取った、第2次世界大戦,WW2中に日本軍がイギリス人・オランダ人等の白人を捕虜とした姿を目の当たりに見聞きしたことは独立心を強めた、また、日本軍人の中には独立を援助すべく大戦後も現地に残り独立軍を育てた人達も多い。
以上特別註

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1905年、ドイツ、アインシュタイン、E=m×c2 という公式を発表、物質の持つ質量(m)とエネルギー(E)は本質的には同じであるとの概念の誕生。「c」は真空中の光速。質量に 「cの2乗」 を乗じたものがエネルギー。 「光エネルギーの誕生」 についてはここを参照してください
【c1905年、清国の孫文は中国革命同盟会結成(東京で)。
1905年、ノルウェーがスウェーデンより分離独立。
1905年ロシアで血の日曜日、。
1907 年10 月、改定陸戦条約(捕虜に関するオランダのハーグでの条約、捕虜の生存権の保障等戦場作法を定めた国際法)、日本も批准。改定前のものはここ(1899)
その後、⇒ 1929俘虜(捕虜)待遇条約(ジュネーブ条約)、日本は署名するも不批准。
そして ⇒ 1949,ジュネーブ諸条約、第1(捕虜)〜第4(文民)  と改良

1908年、コンゴ自由国がベルギーに編入される。
1908年、アメリカ、T型フォードの大量生産開始、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産された[3]。4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1[4]が存在するのみである。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及した,Wikipediaより。
【c1908年中国皇帝に 清朝皇帝に即位宣統帝(溥儀 2歳) 即位、先代 光緒帝 の突然死のため。
1908年10月6日、オーストリア、トルコからボスニア・ヘルツェゴビナを奪う。
【n1909年10月(明治42年)、日本、韓国統監伊藤博文の暗殺、於ハルビン駅(かつてのロシア領、現在の中華人民共和国黒竜江省ハルビン)帝国蔵相ウラジーミル・ココツウェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根(アンジュングン)によって射殺された。当時の朝鮮人の知識階級は徹頭徹尾腐敗していた(エルヴィン・フォン・ベルツ、ドイツ人医師談)、清国だけがこの事件を「抗日義挙」と大韓帝国に好意的に報じ、欧米列強はこの事件を「テロ、暗殺」と日本に好意的に報じた。2014年現在では、韓国はアンジュングンを英雄視しているが北朝鮮は「同郷(朝鮮半島北部)出身の義士」程度には評価し、キムイルソン(金日成、ロシア共産主義革命系列の抗日パルチザン)を抗日の英雄としており、ハングル語を話す同じ朝鮮民族の中で見解が異なる。
詳しくはここ 朝鮮半島国現代史 を見て下さい
【n1910年8月(明治43年)日韓併合(朝鮮併合)、大韓帝国は日本に吸収される
日韓併合(朝鮮併合)、大韓帝国は日本に吸収される(日本が大韓帝国と戦争して植民地化したのではない、当時世界最貧国と言われた大韓帝国を隷属国として搾取するのではなく本国とほとんど同額の予算を投入(毎年赤字だったと言われている)して生活・産業インフラを造り教育水準を日本並みに引き上げ安全保障上重要な大日本帝国共栄圏の一地方として育て上げた)。日韓併合(朝鮮併合)は世界のどの国も賛成した。東北アジアの永久安定を諸国が望んだ、ロシアまでもが賛成した。
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............以下は「シルバー回顧録」 より意訳引用.....................................
ロシアが大韓帝国を占領すれば ロシアによって日本はその脇腹に ナイフを突き付けられるという危険な事態になるため、国防上の理由から、日本は明治 43 年 ( 1910 年 ) に 「 併合に関する条約 」 を大韓帝国と締結し日本に併合しました。
併合に際しては 大韓帝国の元首である高宗は賛成し 、政府との間に 軍事的衝突も起こりませんでした。マッチ一箱を生産する工場すらない世界最貧国(自分では生きていけない大韓帝国) について、文明国日本が国際的秩序の観点から取り込むということは、当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は 違法なものではなかったのです。
............以上で「シルバー回顧録」より意訳引用終了................

【c1911年10月10日 辛亥革命起きる、武漢(ブカン)市武昌区で民衆蜂起、中国大陸地方で 267年間続いた 清国が 崩壊、中華地方最後の王朝の滅亡、 孫文 が選挙で臨時大統領に就く、
1912,1,1 に中華民国(共和国)が成立、袁世凱(52才、北洋 [北京] 軍閥の総帥) が初代大統領。 孫文は政治を彼に任せて自分は広大な中華大陸に鉄道網を敷く構想に熱中したと言われている。
孫文についての私の評価

孫文は 1905年(39才)に中国同盟会が創設されたとき三民主義を唱え、その内容は、民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つと主張したが 5000年という長年月の歴史上現れては消えて行った 10回ほどの皇帝政治信仰をしのぐほどの政治的求心力を発揮することは出来なかった。、
また、世界一多い人口(数億人)を養うだけの経済指導力もなく、
広い中国地域に無数に散在する暴力集団(軍閥)を束ねるだけの軍事才能もなく、

臨時大統領に推挙された瞬間的一時期だけは中国に「まとまり」を出現させたが、その後は軍閥の乱立抗争を治めきれず、彼の死去直前(1924,57才)には 蒋介石集団 と 毛沢東集団 の二つの軍閥が残った。

辛亥革命当時の三者の年齢は、孫文が45才、蒋介石が34才、毛沢東は18才でした。

蒋介石は 36才の時(孫文47才)孫文と面談し、孫文から 「ロシアの第一革命(1905 血の日曜日事件、戦艦ポチョムキン事件)とその収束状況」 について 「見ておくとよい勉強になる」 と、本格的ロシア革命前夜の 政治的・軍事的 視察を勧められたと言われている、実際に視察に行っている。

毛沢東は極めて若く、孫文による直接指導を受けたことは無く。社会の激変を目の当たりにした彼は人格を深く異常化させたと思われます。孫文との年齢差は 27年、蒋介石との年齢差は 19年、
18才 という若さで人類初の大革命に遭遇した彼は 「政治」 をあたかも戦争ゲームのごとくにとらえる一種の狂気を内面化させていったと思われます、それが晩年になって結実し、権力欲に凝り固まった怪人(化け物)としての 毛沢東 を出現させたと思われます。
挿話23 孫文と蒋介石と毛沢東 も 見てください

清朝最終期の二人 の皇帝
光緒帝、在位 1875(4歳)〜1908(37歳) ほぼ全期間 伯母の 西太后に実権を握られた。
宣統帝 、在位 1908(2歳)〜1911(5歳)幼児の皇帝が3年間存在した
 
皇帝(宣統帝・溥儀)は満州地方に逃避、のちに満州国皇帝となる(1934年)。

.....以下、孫文と魯迅について挿入します............................................................................................................
教えてGoo より
孫文と魯迅について 教えてGoo より。

質問者:train010
投稿日時:2004/01/11 13:10

中国の孫文と、魯迅はそれぞれ日本に留学しましたが、それぞれ日本のどの大学に留学したのでしょうか?
No.1ベストアンサー20pt

回答者:s-shigeo
回答日時:2004/01/11 13:44

私自身、孫文も魯迅と同様に日本に留学したと勘違いしていました。
孫文はハワイ大学と香港医学校で学んだのち、革命運動に身を投じ、その後日本への亡命を繰り返しています。(辛亥革命で清朝を倒し、孫文は臨時大統領になったにも関わらず中国の政治風土を次の通りに嘆きました「中国人は 『誰が 皇帝 になるか』 が最大関心事であり、『どのような政治が行なわれるべきか』については無関心である」)
http://www.mainichi.co.jp/news/kotoba/ra/20011105_01.html
毎日新聞 2018,3,8 木語、坂東賢治 は次の通り記している
孫文は欧米流の三権分立(立法 行政 司法)だけでは中国の実情に適さない」 「監察院 と 公務員考試院 を加えた五権体制 を提唱した」
 

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魯迅は、東京弘文学院(中国人留学生の為の速成教育学校)で1年日本語を学んだ後、仙台医学専門学校(東北大学医学部の前身)で学んでいます。
http://www.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi6/mm6-m.htm

Kotobank.jp より。
魯迅は革命後の旧態依然たる現実に幻滅し、中国社会の病態を鋭くえぐり(中国革命の無力さを文学的に表現しました)ました。
.....以上、孫文と魯迅についてでした............................................................................................................

1911年、イタリアとトリポリ戦争(対トルコ)〜12、トルコの負け、リビア等を取られる。
【n1911年2月(明治44年)、日本とアメリカとの間の日米通商航海条約改正、日本は関税自主権の完全回復を達成した。日本とイギリスとの新通商航海条約は、同年4月3日に調印され、7月17日に発効した。
【n1912年1月、清国倒れ、中華民国誕生、しかし、中国地方各地に軍閥(武力を持った集団)や強盗団が発生し治安は極度に乱れた、軍閥戦争(南北戦争1918〜1928)蒋介石(国民政府主席)が混乱を一時収束させる、しかし、満州地方を収めるだけの力は無くこの地方は無法地帯として残った
【n1912年(大正1年)、日本、大正時代へ。
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★日本の年号変更、「大正」へ★ 大正天皇は 33歳 で即位されました。
(明45=大1)¶ ;「明治」 は 45年(1912) で終わり、「大正」 も 1年(1912) から始まる、ただし、「大正1年」 は 1912,7,30-12,31 詳しくは下記  「棲み分け」 を参照してください。
、 明治45年は 1912年の 7月29日 まで、 大正1年は 1912年の 7月30日から, 1912年は 明治と大正 の「棲み分け」状態にある。純粋の大正は 2=1913 から。
和歴 ⇔ 西暦 簡易換算方法について、   11 を足したり引いたりして正解の見当を付けられる、
ただし、引き算で 0 が出た場合は前年号の純粋最終年とする
例 大正 0 年(1911-1911=0)は明治44年(1911-1867=44) 

例1:天皇死去に伴い誕生した 大正1年は
西暦1912年(1+1911=1912)
西暦1912年は明治45年(1912-1867=45)=大正1年(1912-1911=1)
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例2:第1次世界大戦開始の 大正3年は
西暦 1914年 (3+1911=1914)
西暦 1914年は大正3年(1914-1911=3) 
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例3:関東大震災の大正12年は
西暦1923年 (12+1911=1923)
西暦1923年は大正12年(1923-1911=12)
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例4: 大正15年は
昭和1年と同年西暦 1926年 (15+1911=1926)、
西暦 1926年は大正15年(1926-1911=15)       戻る
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大正デモクラシー(大正民主主義)について
期間 : ドイツ革命 [1918年(大正7年)] から満州事変 [1931年(昭和6年)まで] 13年間。
内容 : 日本で1910年代から1920年代にかけて(概ね大正年間)に始まり、その後も上記13年間を超えて、長く日本社会に底流し、WW2後に復活した 政治・社会・文化の各方面における 民本主義、自由主義思潮の総称である。具体的には、普通選挙運動、天皇主権否定(議会主権、天皇機関説、日本初の政党内閣 [原敬・平民宰相] ) Wikipedia 参照 

1912年4月、タイタニック号(当時世界最大の豪華客船)
北大西洋航路でイギリスのサザンプトン港からアメリカのニューヨーク市へと処女航海の往路で氷山と衝突して沈没、死者はほぼ1500人。wikipedia

1909年 ラルフ・ノーマン・エンジェル(イギリス人)「大いなる幻影(原題は Europe's Optical Illusion)」を発表、11ヵ国語に翻訳され大いに読まれた、平和主義楽観論 戦争の気配は目の錯覚である、 すなわち、今や世界の先進国は互いに持ちつ持たれつの関係にあり、戦争をしても勝者は無い、したがって戦争の実行はもはや不可能(戦争の気配が見えるという人は幻影を見ているのだ)という論旨

しかし、皮肉なことに現実はこの論旨とは正反対に動いた、彼の執筆視野からは 「植民地人」 が抜け落ちていたためである。「植民地(ボスニア・ヘルツエゴビナ)在住セルビア人」 の宗主国(オーストリア)皇太子夫妻暗殺(1914,6)によって第1次世界大戦(WW1)は起こり4年4ヵ月間も続き、戦後の世界は未だかつて経験したことのない混乱状態に陥った、その理由は 植民地人の 「実力自覚」 だった。局地戦争に於いて白人にこき使われる中で、自分たちの実力を自覚し 「民族独立機運」 が盛り上がり、世界は人類未経験の混乱状態となった。
この小説は 1937 年に映画化され WW1で絶望した人々を癒した。しかし、癒しの効果はなく、WW2 がすぐに起き(1939 から6年間)、その戦争はヨーロッパ規模を超えて世界全体が巻き込まれる地球規模の戦争となり、ついに人類は 「原子核」 を壊してまで破壊エネルギーを得るに至って、2019年現在では 「核」 を壊して出て来るエネルギーを平和利用しようとしている、しかし本質的に 「大量破壊・大量殺人のエネルギー」であるために平和利用は不可能と分かり、現代文明の基礎(科学偏重 政治・経済 万能主義)が揺らいでいる。    

なお、彼はノ−ベル平和賞を受けた、授賞理由は、この著作と国際連盟への支援。
1912年、バルカン同盟とトルコ、トルコの負け、領土を削られる。

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1914年、6月28日サラエボの凶変、オーストリアの皇太子夫妻がセルビアの1青年(ガヴリロ・プリンツイプ 19歳)に暗殺される、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告、引き続きロシアに宣戦布告、

第1次世界大戦,WW1 1914年6月28日〜1918年11月11日、大正3年〜大正7年〔4年4ヵ月〕

連合国
 
フランス、イギリス、ロシア(ただし、1917に革命(内戦)が起こり、戦争終結後は連合国の負担となった、1922 内戦終了)、セルビア、モンテネグロ、 註: アメリカと日本は後日参加、次の国々も参加 : ベルギー、イタリア、ルーマニア、ポルトガル、ギリシア、中華民国、他多数
註 : ロシア2月革命 ( 1917,3 [西暦] )   々 10月革命( 1917〜1922 )発生のため、この戦争は複雑となった
 

同盟国
 
ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン〔トルコ]帝国、ブルガリア 
  同盟国 が負けた

====以下、兵士死亡率===============================
【ヨーロッパ戦線での兵士死亡率はフランス人兵士で16%
ドイツとロシアは軍人の死者数が最大で、それぞれ177万3,700人と170万人でした。フランスは動員兵力の16%を失いました。これは、動員された兵士の死亡率としては最も高いものでした。第一次世界大戦 | The Holocaust Encyclopedia
https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/world-war-i
大量の死傷者が出た原因の1つは、機関銃や毒ガス(その他 初歩的な空爆、戦車)のような近代的新兵器の導入でした。これに加え、軍事的リーダーが新兵器増加による戦闘方法に戦術を対応させていけなかったことも大きな要因となっています。
★註 : アメリカ南北戦争(1861-65)では25%
======以上、兵士死亡率=============================
註1 : モノクロ・サイレント映画 「ノアの箱舟」 はこの時代を理解するのに役立ちます 
特別註1 : この戦争の主たる原因はすでにクリミア戦争直後に発生していました。原因とは、セルビア(スラブ民族、親元はロシア帝国)のオーストリア帝国への深い恨み心です。
特別註2(寸考) : 
映画「サラエボの銃声」スラブ民族が今後の世界を戦争へと引きずり込む主役を演じる可能性を示唆しています。
スラブ民族のユーラシア大陸からの南下がすでに 1389年(コソボの戦い)で政治現象として現れ、クリミア戦争(1853)⇒WW1(1914)⇒WW2(1939)⇒ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争(1992)⇒ロシア連邦のクリミア併合(2014)⇒ロシア連邦のカリーニングラードへの核兵器集結(2017 核兵器を使う訓練をしているといわれる)と続き、スラブ民族が今後の世界の 「台風の目」 として、現在(2017)成長しつつある事を示唆する映画だと思います、この対策には 「核廃絶運動」 が国連主体でなされることだと思います。
  

なぜ暗殺が6月28日にオーストリア・ハンガリー領土内で起き、成功したのか??
註 : 銃撃画像の出典は Wikipedia

セルビア国内には暗殺専門の秘密結社があり、ボスニア・ヘルツエゴビナ側のセルビア人と緊密に連絡を取り合っていた、6月28日は民族的敗北記念日( 1389,6,28 にセルビア侯を中心としたスラブ系諸侯がオスマン(トルコ)帝国軍の侵略を阻止しようとして コソボ平原 で大敗北を喫した日 ) でもあったため、皇太子夫妻の訪問(目的は観光)はセルビア人(スラブ民族)の神経を逆撫でしていた。

秘密結社側にはバルカン半島のスラブ化という理想があり必死でこの時の車列に3回の暗殺点を定めていたが皇太子夫妻側には結婚記念日観光旅行というのんきさがあった、決して真剣な 「親善視察旅行」 ではなかった。

殺された皇太子妃は 「妃」 とは名ばかりで実質上の身分は愛人でチェコ人(スラブ民族)、オーストリア王室は 「妃」 とは認めていない存在、この点もセルビア人(スラブ民族)の神経を逆撫でしていた、Wikipedia 参照。 映画「サラエヴォの銃声」 ダニス・タノビッチ監督 からも部分的に引用。
 

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この世界大戦の特徴は、一言で言うと、塹壕戦と電信ケーブル切断 を主体に展開されたこと、まだ無線が無かった Wikipedia より 


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1914 電線巻き取り機付き戦車
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
註 : 電線巻き取り機付き戦車 の 出典は Wikipedia
この戦争は1918年11月に終わっています、ドイツ側の負け、ドイツ キール軍港での水兵暴動からドイツ革命が起きたから。暴動の原因はアメリカの参戦 (1917,1)、水兵たちは「アメリカ相手では勝てない」と思った、革命とは当初は共産主義へ、終息時にはドイツ共和国(ワイマール共和国)。
上図のあとに  ⇒ ロシア革命 ⇒ WW2 ⇒  ユーゴスラビア社会主義共和国連邦誕生(第二のユーゴ) と続く、

そして
 ⇒ ユーゴスラビア地域ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争およびコソボ独立紛争で大きな戦争は終わり

世界大戦 ( WW1,WW2 ) の世紀 は終わった(1999年)
ユーゴスラビア地域国家連合史はここです 
   

この事に関する鳥観的考察はここ( 毎月の書き込み内容案内 2017年9月は次の通りでした の 7)、人類の20世紀は・・・ ) でしています。すなわち、 世界大戦の世紀は コソボで芯芽が現れ(1389)、コソボで終わった(1999)、 [1999-1389=610] 610年間に及ぶ地球規模の戦争の世紀だったのです。


〜〜〜〜〜〜〜〜挿話35 第一次世界大戦(WW1)の原因についての寸考集(ちょっとした思考)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(寸考1、森本の論)
第1原因は スラブ民族のオーストリアへの復讐心、第2原因は スラブ民族のオスマントルコへの復讐心、第3原因は 帝国主義国同士の領土獲得争い。
1984年2月のサラエボオリンピックでのオーストリア人選手への競技妨害は異常でした。また、1992年に起きたユーゴスラビア・ボスニア紛争では、このオリンピック施設のほとんどが破壊されました。その恨みは異常です、ここの書き込みはボックスぐるみ リンクポイント です 


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1389〜1914 コソボ地方を中心に据えた年代古い順3連画像、コソボ戦、クリミア戦、WW1戦
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
オーストリアの占領政策(クリミア戦争以降のオーストリアは ボスニア・ヘルツェゴビナ を オスマン・トルコ から奪って領有した、1908,10 )をいかに深く恨んでいたかがわかります。



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 「コソボの戦(1389,6,28)」 でバルカン半島のスラブ民族諸侯がオスマントルコ帝国に敗れた恨みがWW1の遠因(根源的原因)で クリミア戦争敗戦 1853時のオーストリア・ハンガリー帝国への恨みが近因だと思います、スラブ民族は 1389 当時南下本能に駆られてバルカン半島に根付きつつありました(1331 大セルビア王国誕生)、しかしそれを止めようとするオスマントルコ帝国は強く、スラブ民族は完敗し、ドナウ川以南はオスマントルコ領となりました。この恨みは 「コソボ記念日の恨み」 としてスラブ民族の内面に定着しました。

ワラキ は ワラキア の事です。
ブルガ は ブルガリア の事です。
ビ はビザンチン帝国(東ローマ帝国)の事です。
神ロマ は神聖ローマ帝国 の事です。


しかし、ロシア帝国の領土急速拡大(ピョートル大帝)とバルカン諸国の独立運動に連続的に立ち向かったオスマントルコの国力は弱まりました。スラブ民族の内面に定着していたコソボ敗戦の恨みはロシアの南下政策(クリミア戦争)に呼応して失地の奪還を図りました、スラブ民族の母体であるロシア帝国の領土拡大力に大いなる期待を寄せたのですが、1908,10 にすでにオーストリアに奪い取られていたボスニア・ヘルツェゴビナ地方を完全に手放すことになったので以後はオーストリア・ハンガリー帝国への恨みを募らせ、その恨みがWW1を生んだ最大の原因です。


したがってWW1の遠因(根源的原因)はすでにスラブ民族に強く内在していた 「コソボ記念日の恨み」 で、その恨みはクリミア敗戦時の恨みよりも前から存在していたのです。「コソボ記念日の恨み」のその記念日にオーストリア皇太子夫妻が物見遊山でサラエヴォを訪れた(1914,6,28) 為にWW1の引き金が引かれたのです。スラブ民族の 「恨み感情」 は極めて強く根深い、そして領土拡大欲(南下欲)も極めて強くかつ極めて強い自信過剰が伴っていると理解すれば一連の大きな戦争の謎が解けます。 

、バルカン半島のスラブ民族は、1389年の コソボの戦いでトルコに負けたため全ての領土を失いましたが、セルビアは 「公国(被保護国)」(上図) としてしぶとく立ち上がり、他の諸侯もオスマン・トルコからの独立戦争を起こしては次々とよみがえったと思ったら WW1 によってドイツ・オーストリア・ハンガリー と オスマン・トルコ の挟み撃ちに遭って再び戦乱状態に陥ったのです。オーストリアはクリミア戦争では 「中立」 の立場だったにもかかわらず、戦況がロシア側に不利に傾いた時に 「調停」 をせず、あからさまに西欧連合国側に味方したのもオーストリアへの強い 「恨み」 の原因です。  

しかし、 WW1 後は ユーゴスラビア(南のスラブ人国家 という意味) として 「国家連合体」 (1918〜2006)を維持しました。しかし、バルカン半島に居たのはスラブ民族だけではなかったので20世紀最後のむごたらしい内戦(ユーゴスラビア・ボスニア紛争 1992年〜1995年)をしてしまいました。2018年現在はかなり安定していますが コソボ地域 が実際に独立するのは大変難しいと思います。セルビアが民族意識にすがりつく限りはダメでしょう。2017年現在でもスラブの本拠地(ロシア連邦)で、政治とロシア正教が一体化した国家主義が台頭していますので心配です。

上記3連画像における略称の正式呼称は次の通りです。
モンテ はモンテネグロ の事です。
アルバニア は読み取りにくいですが アルバニア の事です。 
ハンガリー君主 の文字列の最後尾は 国 です。
コソボはスラブ民族の南方へのあこがれの象徴の地です。セルビア王国がコソボを大切に守っていましたが、領有者がつぎの通り転々とします、セルビア(1331 大セルビア王国建国から 1389 前年まで 58 年間)  ⇒ オススマン・トルコへ(1389〜1915 526年間) ⇒  ブルガリアへ(WW1で、1915〜1931 16年間) ⇒ セルビアへ(1931 ユーゴスラビア建国〜コソボ独立宣言 2008年アルバニア人国家としてのコソボ独立宣言まで 77年間 ) ⇒ 2008年コソボ地域の建前上のアルバニア人国家独立宣言から 2018 現在まで 10年間
サラエボはWW1発火地点として有名ですが、バルカン半島のスラブ民族にとって最も重要な地域は コソボなのですがコソボの今後が心配です。「聖地」が 他国領内に有っても平気であるというおおらかさが必要だと思います。
 

(寸考2、入江 昭 氏 の論)
第一次世界大戦(WW1)の原因は民族紛争の一つとしての「サラエボの凶変」だと言われて来たが、広い視点に立った思考からは革命前夜のロシアがヤブレカブレに「第2次クリミア戦争」を起こしたととらえることも出来る(クリミア戦争の戦後処理時点で 既にこの戦争の伏線 [オーストリアへの恨み] は引かれていた)。それは、ここ数年のオスマン帝国の弱体化につけ込んでオーストリアへの恨みを晴らし、クリミア半島を手に入れ、黒海を制覇し、ボスボラス・ダーダネルス海境から地中海へと出るというロシアの意思(南下政策の再実行)が原因だった。(2014,11,28 毎日新聞 入江 昭 氏 の論考を参照)

(寸考3)
イギリス→アメリカ→フランス→ドイツ→オランダ→イタリア→日本→ロシア
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民族自決(1民族1国家主義)の風潮と連鎖する「国民国家」建国の雰囲気下、イギリス対ドイツの対立を軸とする帝国主義・植民地主義の芽生えの中での対外的膨張政策同士が利害損得を巡ってぶつかりあった、植民地人や併合地の人達は手柄を立てることによる自治権拡大を目指して積極的に戦争に参加した。この戦争の芯の原因は圧迫された植民地人達の熱心な自立心である。(註 :国際連盟成立後「委任統治」の表現が生まれました、連盟が指名した受任国による「委任統治」と言う意味です、連盟を介在させた国際統治という 建前 によって「併合統治」の搾取性を克服しようとしたのです)

(寸考4)
各国は経済的に互いに依存関係に在った。経済的に緊密であったが為に後進国(オスマン帝国)の弱さが各国の征服慾を高めた(サラエヴォ[ボスニア国]の凶弾はオスマン帝国の属するドイツ同盟側で放たれた)

(寸考5)
対外的膨張政策同士の急激な利害損得権益争いの中で各国ともに「繁栄の中の苦難(貧富格差・不平等・労働争議)」を抱え込んでいた。民衆は貧富の格差を不満とし、放置すれば「革命(ロシアでは現実に起こった)」が起こる社会の不安定さを抱えていた。各国の為政者は国内の不満を外に向かわせる方法、すなわち「他国の悪意が自国に向けられているので自衛のために戦争する」方法を取った。

自国の内政の苦難を他国の政策の悪意の結果と捉え、祖国の危機を救えと訴えた時、戦争を選ばない為政者は居なかったのである。100年前のお話で済めば良いのだが。2015,2,1 毎日新聞 書評 加藤陽子評 「第1次世界大戦開戦原因の再検討」小野塚知二編 岩波書店 

〜〜〜〜〜〜〜〜以上、挿話35 第一次世界大戦(WW1)の原因についての寸考集でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1914年8月1日、ドイツが対ロシア宣戦布告。初戦のタンネンベルクの戦い(東部戦線)では、ロシア軍は二手に分かれ総勢50万人、ドイツ軍は15万人。ロシア軍の二手戦法は連絡の不備から総崩れとなりドイツ軍に包囲殲滅(ほういせんめつ、かこまれて全滅)させられた。

1914年8月4日、イギリス、対ドイツ宣戦布告、
【n1914年8月、イギリス、日本に、日英同盟を理由に欧州派兵を要請、しかし日本は「日本の軍隊は唯一国防を目的としているので遠征は出来ない」と断った。イギリスは納得して、日本への派兵要請を取り消した。
1914年8月、アメリカ欧州戦に中立を宣言。
【n1914年(大正3年)8月、日本、ドイツに宣戦布告、イギリスの意向(日本は参戦しなくても良いと言う意向)を無視して「日本に近い中華民国内のドイツ領、への出兵」。
イギリスは中華民国内や南洋諸島でのドイツ戦はしていなかったので日本の協力は必要が無かったにもかかわらず日本はイギリスが「同盟国としての支援は要らない」との意向に逆らって「我欲」のためにドイツの中華民国内権益地や南洋諸島を奪って行くこととなる。
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日本の国際的孤立の 芯芽 の誕生(ドイツへ宣戦布告)  
日本がアメリカと戦った戦争(WW2)の 芯芽 はこのあたりで誕生したと思います、以下で経過をたどります 
(日本の心情、イギリスの心情、中華民国の心情、アメリカの心情)

(日本の心情) :  明治維新から学ぼうとしてきた中華民国は日本の「日支友好」路線に理解を示すはずである。日本は遠い欧州で起きた想定外の悲惨な4年間もの戦争の痛手は理解できないので中国地方で戦争を起こすことに抵抗感は無い、日本世論も日露戦での利益に納得しておらす、財界とともに対ドイツ宣戦布告に賛成している。

(イギリス心情) : 
チンタオ戦 日本は WW1 ヨーロッパ戦線へとのイギリスの招きを拒否した、

東洋では強引にドイツに宣戦布告してしまい、

軍事同盟上仕方なく日本の軍事行動を認めた、

しかし「ドイツ軍艦だけの攻撃でとどめるよう」との要請も振り切り、チンタオ権益やドイツの南太平洋権益まで奪ってしまった。

東洋でのロシアつぶしに、渋っていたフランス(露仏同盟 1894)を誘ってバルチック艦隊(サンクトペテルブルグが母港)への妨害工作までして日露戦争に勝たせてやったのに、

日露戦勝国となったとたんに横柄な態度を取るようになった日本を好きになれない。
(中華民国の心情) :  日本がロシアから満州地方を取り返してくれたことおよび今回対独チンタオ戦でチンタオ利権の一部を返してくれた事には感謝するが、「日支友好」を口にしながら、提案している「21ヵ条要求」を見れば「本音」は中国地方を植民地化したいのである。したがって日本は時代の大義「民族自決」に逆行している。日本の出してくる要求(21ヵ条要求)には部分的には賛成するが(南満蒙・東部内モンゴル関連事項は賛成)大部分は反対したい。

(アメリカの心情) : 先進国の中で唯一、アメリカは中国進出に後れを取った(この図にアメリカは居ない)、「民族自決」理念を最初に言い出した国としてはなんとか中国地方で先進国の中間入りを果たしたい。目障りなのは日本である、ドイツの南太平洋権益を奪ったから。今後は中華民国と協力して日本を敵視したい。遠い欧州で起きた想定外の悲惨な4年間もの戦争の痛手は理解できないので中国地方での戦争に関わることに抵抗感は無い。
満蒙権益ー図1 満蒙権益ー図2については 
ロシアが得ていた権益を次の通りに借り受け期限付きのまま日本が引き継ぎましたが、日本は期限を延長したかった、イギリスは日本の全満州領有には反対していたが、期限の延長は認めていた。
WW1勃発と想定外の長期化のため、この問題にけじめが付けられないまま日本は後に21ヵ条要求(1915年)を中華民国に突き付けて受け入れさせ、満蒙を中心にした地域を先ず入手し、次に北満州に「満州国」を無理やり(侵略的に)建国しました
時刻を戻して、ロシアが清国と約束(北京条約)を交わしていた借り受け期限は、
遼東半島・・・・1923年、
南満州鉄道・・・・1939年 
WW1への参戦についての日本の態度は次の通りでした。
当初、日本は、イギリスから 日英同盟 のよしみで「参加して欲しい」と言われたが日本は「遠方派兵は出来ない」と断った。イギリスも日本への参加要請を撤回した(参加して欲しくない)。
その後、イギリスの意向に逆らってドイツに宣戦布告しました、WW1は人類に何の教訓も残さず、人類は再び世界規模の戦争(WW2)へと突入しました、
WW1後、日本を取り巻く外交環境は格段に厳しくなった。日英同盟の結束力は弱り(イギリスの日本への信頼は揺らぎ)、アメリカは日本への警戒心を強めた。大日本帝国海軍の活動と、ドイツ領南洋諸島の獲得は、太平洋における海軍バランスを塗り替えた。その後膨れ上がる多くの問題の種が必要のなかったWW1参戦によって巻かれたのである(ドイツへの宣戦布告をせず、満蒙権益の段階で留めておけばイギリスもアメリカも日本への警戒心や嫉妬心を持たせず、また、ドイツも日本近代化の恩義をあだで返されたと言う日本不信感を持たなかったでしょう。日本のドイツへの 宣戦布告 は日本の国際的孤立の 芯芽 だったのです)。中華民国とアメリカは互いに親密度を増し、日本は孤立してゆく。 

【n1914年9月〜11月 、日本、中華民国のドイツ領を次々と入手(山東省膠州湾(コウシュウワン)一帯(含、青島(チンタオ)および、ドイツ領南洋諸島)、ドイツは日本に対し次の通りの無念を抱いた「日本は明治維新以降、軍事政策・科学技術でさんざんドイツに世話になっておきながらなぜ裏切るのか」と。
1914年、パナマ運河開通。
1915年、ドイツ軍ワルシャワ(ポーランド)占領。
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【c n1915年、中華民国へ、21ヵ条要求(日本→中華民国)欧州戦線に出兵しなかった日本は、中華民国にあったドイツ領(山東省膠州湾一帯(含、青島(チンタオ))の獲得に成功した、ドイツ領の外にも満州の獲得も計った。これらの領土要求を、21ヵ条にまとめ、中華民国に提示、中華民国は「最終通告」という形で要求をのまされた。
日本が中国に特殊権益(中華民国は日ロ戦争で、日本のおかげで満州を取り戻している)を有することはイギリス、フランス、ロシアは認めていたが 中華民国とアメリカは納得しておらず、民族主義者の反日宣伝も功を奏し中華民国民衆は激しい怒りを日本に向けるようになった(日貨(日本製品)排斥運動や暴動)。
ヴェルサイユ条約(1920)の調印も学生デモを発端に各地でストライキが起こり(五四運動)中華民国は調印拒否をした。清国は列強各国の侵略を受けてズタズタにされていたにもかかわらず最 も罪深いイギリスへと「怒り」を投げつけず、最も付き合いが長く「日支協調」を提案していた「日本」へ向けて「怒り(うっ憤)」をぶつけた、私は歴史を動かす原動力は合理的な「外交交渉」よりも感情的な「ねたみ」だと思っていますが、中華民国は国内団結力の強い「日本」を「ねたんで」いましたし、アメリカはWW1で同じ立場(ほぼ中立の立場)をとって国力を付けた「日本」を「ねたんで」いました。
註 : 21ヵ条の内、少なくとも「南満州及び東部内蒙古」を日本の勢力圏とし、日本の権益を認める事だけは中華民国政府が同意していました、(中国地方の過去・現在 周辺図 のオレンジ色斜線で塗りつぶした部分)。日本はこれに満足せず、 熱河省 を取り込みつつ範囲を徐々に北西へと拡大させました。
歴史家 加藤洋子氏の主張する「南満州及び東部内蒙古」の図示はここにあります。斜線部分が 南満州 、2重斜線部分が「東部内蒙古」です。 


この強引さは、後の満州事変・満州国建国へとつながりました。
また、この強引さは今日(2014年現在)の中華人民共和国の復讐行為(尖閣諸島奪取運動)にもつながっています(日中共同声明・日中平和友好条約締結後も国内情勢が貧富格差問題等で不安定になる度に国民の不満を過去の満州事変・満州国建国での不満に向けさせては反日感情で国をまとめようとします)。

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21ヵ条にアメリカが介入したことは、イギリスを中心とした旧秩序が壊れ、アメリカが中国を含めた地球に覇権を及ぼす予兆だったと思います。21ヵ条はアメリカの実力向上・西進侵略と日本の軍事自己防衛力が正面衝突の気配を見せ始めた時期を象徴しています。
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1917年1月、アメリカ対ドイツ宣戦布告、モンロー主義の廃棄、英国ルシタニア号(Lusitania)がドイツ潜水艦に撃沈されアメリカ人も約130名死亡、戦況が予想外に長引いたため中立政策を転換し、WW1に参戦し、WW1 終結を早めた、この事は欧州におけるアメリカの発言力を高め、イギリスはアメリカの姿勢の変化を高く評価した、以後、イギリスは日本の海軍力よりもアメリカの国力を高く評価するようになる。
1917年2月、ドイツ、無制限潜水艦作戦の宣言。
【補記 爆撃機について】
ドイツはこのころ初歩的な爆撃機も開発、1917年6月、3回目の爆撃でロンドン昼間爆撃に成功、イギリスは歴史始まって以来初の空爆被災、死者162名・負傷者432名の被害。死者のうち46名は子供であり、彼らはポプラーの小学校に落下した爆弾によって命を奪われた Wikipedia。
映画 「哀愁」 はこのころのロンドンを背景に物語を展開している
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1917年頃には陸戦でも西部戦線で一時的にドイツが優勢となっていたが、アメリカの参戦による兵士の戦意喪失でドイツ革命(1918,11)が起き、あっけなくドイツは負けた

1917年3月(ユリウス歴では2月)12日ロシア2月革命 グレゴリオ歴 [西暦] では3月)。タンネンベルクの戦い(1914年8月)でドイツに敗れてからの民衆は苦しい戦時生活に不平を持ち、不平は皇后(ドイツ出身、怪僧ラスプーチンの精神指導に頼る)に向けられ、食料配給の改善を求めるデモをきっかけに暴動は軍を巻き込んで全国規模に拡大、 3月初めには他の都市でも革命が始まり、軍の部隊もそれに同調しつつあった。
ツアーリ(皇帝)を尊敬する組織「ソビエト(評議会 穏健派)」 が暴動を鎮圧した。
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映画 「武器よさらば」
という映画はこのころのイタリア北部戦線の脱走兵を主人公に描かれています。ロシア2月革命でロシアの弱体化が始まったのでドイツはロシアへの兵力をイタリアへと向けたためイタリアは敗走しました、しかし、1918年ドイツ キール軍港暴動でドイツ革命(共産主義革命、共和制に落ち着く)が起こりドイツは戦力を落とした。そのおかげでイタリア北部戦線の勝負はイタリアが勝った。
 
映画 「夫婦善哉}
ロシア革命始まりの頃 (1917[大正6年]) から 関東大震災(1923[大正12年])にかけて [大正デモクラシーと呼ばれる自由尊重文化の芽が発生] を経て日中戦争始まりの頃(1938[昭和13年])まで、という長い時間経過(21年間)を背景として描かれています。ヨーロッパが戦争(WW1)と革命(ロシア、ドイツ)で荒れ果てて、日本はアメリカと同様に平和だった時期を利用して、日本の男女の 「夫婦(めおと)」 像 の確立を探った作品だと思います。 「夫婦(めおと)」 像 の確立とは、日本人の 「個人のアイデンティティー確立」 です。 

1917年10月12日〜1922年(5年間)、ロシア10月革命(これを「ロシア革命」暗黒の 内乱状態という)。レーニンが 「共産主義者集団」 を結成し、ソビエト政権(共産主義過激派)樹立、ソビエトとは、「評議会」「会議」という意味。 皇帝退位、皇帝一族は暗殺され、ひそかに埋められた。
寸考、「革命」 と 「自信過剰癖」について

「革命」 は スラブ民族の「自信過剰癖エネルギー」 が 「内(うち)に向かって激突した現象」 であると思います。1917年当時、世界の政治情勢は帝国主義経済圏争奪戦で混沌としており、スラブ民族の 「自信過剰癖エネルギー」 が立ち向かうに適した集団 (例えばかつて、ナポレオン皇帝軍) が無かったために、「連合国側の一員 の立場を取らざるを得なかった。
このことは 「民族意識の一致団結による敵の打倒」 へと向かわず 「民族内部の異質集団打倒」 へと向かったのです。結果は 「異質集団」 の勝利でした。 「異質集団」 とは 「共産主義者集団」 です。  国際社会はこの 「ロシア内戦(ロシア革命)」 でも、かつてのクリミア戦争の時と同じように スラブ民族の「自信過剰癖エネルギー」 に振り回されたのです。 
、スラブ民族は その後 70年間は この 異質集団 に支配されますが、1991年に 「スラブ民族主義者集団」 が政治の実権を奪い、2015年現在は 「汎スラブ民族主義」 が勢いを増しつつあり、世界はこの勢力に振り回される危険性に直面しています。
  

<2017年3月30日、毎日新聞論説、松本崇氏、「ロシア革命 100 年」革命の原因は「貧富の差」>

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新聞記事 「ロシア革命 100 年」革命の原因は「貧富の差」100 年のロシアは豊かだった
はここにありましたが、現在はここにあります

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(私なりの要約)
1)、革命が起きた時のロシアは豊かだった。経済も順調な発展途上にあった。フランスが多額の貸し付けをして経済発展に応援していた。
2)、経済は発展途上にあったが  貧富の差 が拡大し国民の間に不満が満ちた。
3)、100年前のロシア革命から学ばねばならないことは、経済が成長する中でも格差問題は国家の根源に関わる問題を引き起こす。
4)、2017年の日本はこの観点から見て危険な状態にある(老後格差、雇用格差、介護格差、少子化格差、不寛容(いらだち)、健康格差、労働条件格差)
中共国も国民の貧富格差が拡大しつつあるので危険である 。


〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話13 「白系ロシア人とは何者??」です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜.

註:画像は Wikipedia,ヤフー画像集より頂きました。
日本、源平合戦(1185年) 白系ロシア人とは、ロシア革命のときに、源平合戦の源氏のような「白旗」を掲げて戦った人々ではありません、現在のロシア連邦旗と同じ旗(ロシア帝国旗[白軍旗])を掲げて革命軍(赤軍)と戦い、敗れて地球上に離散(ディアスポラ)した人々の事を言います。

次の通りの誤解がありますので敢えて注意申し上げます。
(誤解例1) : 白系ロシア人 の「白」とはロシア革命の時に「皇帝軍(白軍)」が「白い旗」を掲げて「革命軍(赤軍)」と戦い、負けた人々。
(誤解例2) : 多民族国家のロシア連邦に住み、人種的特徴が白人の人々。
(誤解例3) : ルーシ人(ベラルーシ系スラブ人)(ロシア人に対する白ロシア人 {現在のベラルーシ人}、 ポーランドとロシアの間に位置する国の人々。ルーシ人(ベラルーシ系スラブ人)はロシア人の純血人種、現在のロシア人のほとんどは1250年頃〜1480年にかけてこの地を支配したモンゴル人(キプチャク汗国)との間の混血種との説が有力。

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ロシア内戦、旗と兵力 日ロ戦争敗戦(1905年)の衝撃はロシア国内を「帝政」への不平不満で満たしました。
1914年に始まった第1次世界大戦, WW1 バルカン半島のサラエボで (オーストリアの皇太子夫妻がセルビア (ロシア側) の一青年(汎スラブ民族主義勢力過激派)に拳銃で同時に暗殺( サラエボの凶変 )されたことがきっかけ)でした。
ロシアの 汎スラブ主義勢力派 は クリミア戦争終結(1856)の時のオーストリアの態度(ロシア寄りの中立でありながらロシア劣勢と見るやイギリス・フランス側についたこと)および 1908,10 にはトルコと戦争して勝ち、サラエボを中心都市とするボスニア・ヘルツェゴビナ地方をオーストリア領土に組み込んでスラブ民族のバルカン半島拠点を奪ったこと) に激しい 「恨み感情」 を抱いており、この 「恨み」 が 1914年の 第1次世界大戦を引き起こしたのでした。

さらにこの 「恨み」は第2次世界大戦 (1939-1945) 中は、ソ連邦 という「国際派」が「汎スラブ主義民族派」を抑え込んでいたので表には現れる事が出来ずおとなしくしていたが、ソ連邦 が崩壊(1991)したために 78年後 の1992年には ユーゴスラビア・ボスニア紛争で 「セルビア人の暴走」 という形で表に現れたのです。

さて、話をもとに戻しましょう、ロシア帝国は

連合国(ロシア [後日内部分裂] 、フランス、イギリス)の側に入り
同盟国(ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、チェコ、オスマン帝国)

と戦っていましたが、

1917年10月にロシア革命発生、皇帝は家族ぐるみ殺され、ソビエト政権(赤軍{西欧派})誕生、図示の通りの内戦が同時に発生しました。
内戦の原因は、革命政権(赤軍)が同盟国と停戦し、戦線を離脱 した事。停戦の条件は次のとおりでした。

(戦線離脱の条件)
「革命政権(赤軍)はドイツに領土(ウクライナ・ベラルーシ・バルト三国)を割譲する」


旧政権 ( 白軍{汎スラブ主義勢力派} ) は革命政権(赤軍)に反対して連合国側にとどまり、同盟国側と戦ったのですが、旧政権(白軍)は赤軍に負け続けたため、連合国、特にイギリス ( 連合国側・旧政権にとっては味方のはず ) は革命の伝播を恐れてソビエト政権の内政に干渉、(ムルマンスクに駐留)。

チェコ捕虜の虐殺
チェコの捕虜を虐殺

大戦中にロシア旧政権は同盟国側(ドイツ・オーストリア帝国)の「チェコ捕虜」を多数抱えていましたが、革命政権(赤軍)はこの「捕虜」を虐殺し始めました。この「チェコ捕虜救出」「革命の伝播阻止」を目的にシベリア出兵(参加国は日本 アメリカ イタリア イギリス カナダ フランス 中国)が行なわれ、ロシア国内は大混乱に陥りました。
シベリア出兵の中心国は 日・米 でした。連合国側のイギリス・フランスは 「西部戦線」 で同盟国側と果てしない塹壕戦の最中で兵力に余裕が無かったからです。

(下記 ドイツ革命でWW1終結、ロシアはさらに混乱へ)
1922年12月(大正11) 】、ロシア革命終結 社会主義経済圏 を作り、世界規模の市場経済から脱落した。重工業を重視し、次の世界大戦 WW2 ではこのことが有利に働いた。
ロシア「内戦」 「白軍追討戦」 へと変わり、白軍が完全に全滅(シベリア東端の沿海州まで追いつめられて全滅,1922年12月)するまで続きました。


1918年11月、ドイツでキール軍港暴動⇒ドイツ革命、第1次世界大戦終結の切っ掛け、。
ドイツに革命が起き(1918年11月)、ドイツ側の「休戦」申し出により WW1 は突然終結に向かったのです。 ドイツに革命が起きた原因はドイツ兵の 不満・暴動 でした、アメリカがモンロー主義を捨てて西欧戦線参戦(1917,1)、ドイツ海軍水兵達が出撃命令を拒否し暴動を起こした(於キール軍港 1918,11)。水兵たちは「アメリカ相手では勝てない」と思った、その思いは労働者と一般兵士に広まり当初は共産主義を目指したが失敗、終息時にはドイツ共和国(ワイマール共和国)が誕生した。
なぜ 4年4ヵ月 もの長期にわたったのか??
WW1 開戦当初(1914,6)は 「クリスマスまでには終わる」 と誰もが思っていたが4年4ヵ月も続いた、その原因の一つは 「新兵器・食料 開発・試供」 にあった、膠着状態の塹壕戦対策として農業用トラクターがキャタピラー付戦車となって塹壕を簡単に乗り越えた。戦車に対抗するためには地雷が開発され、飛行機が急速に高性能化され、空から機関銃を撃ったり爆弾を落としたり、食料の冷凍技術も発達し、缶詰類と共に長期塹壕戦を可能にした。
 

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1918年11月11日、ポーランド復活独立とシベリア孤児、東欧、ポーランドは共和制国家として独立を回復(1795年に3分割されて国が消滅していたのを復活させた)。ロシア革命勃発直後の1920年、かつての自国領土を奪い返すべく革命後で混乱しているロシア領に侵攻し独立を回復、しかし、多くの犠牲者も出した。(ソヴィエト=ポーランド戦争)、この戦争により復活独立を宣言した。しかし、
・・・より詳しくはここ(人類進化の「芯芽」を育てましょうのページ、現代史に輝く4つの人道行為事件)を観てください
【n
1918年7月〜1922年12〔4年5ヵ月〕日本、シベリア出兵

(シベリア出兵の大義名分は「チェコ捕虜救出」「革命の自国伝播防止」、アメリカと日本が中心となったが両国は互いに協調しなかった)

(シベリア出兵、参加国は日本 アメリカ イタリア イギリス カナダ フランス 中国、の特徴)

1)、日本が最初に出兵、ウラジオストックに駐留、次にアメリカ等が出兵、日本の兵力はアメリカの約10倍の7万、WW1が終結し、他国は撤兵へと向かったが日本だけはWW1が終結後も駐留を続けました。富山県では戦争による 米特需 を見込んだ商人たちが 米 を買い占め、米の価格が暴騰、住民は米問屋を 破壊・焼き討ち し、この暴動は全国に波及し、2ヶ月間(1918,7〜9)に及んだ(米騒動)、政治対応として初の政党内閣(原敬)誕生。
2)、抗日パルチザン(非正規的な武装勢力)が各地に結成され、日本軍を追い出そうとしました。日本軍も応戦しました。
3)、内戦で「白軍」は負け続け、「チェコ」も撤兵、「チェコ捕虜救出」の目的は無くなった(アメリカは 1920年撤兵)にも関わらず日本軍は駐留を続けたので他の列強からは「日本は極東に覇権を及ぼすつもりがある」と非難されました。
4)、"尼港"事件、「白軍」とつながりが深かった「日本軍」はほぼ全滅させられた。ニコライエフスク(日本語名は"尼港"。にこう。1918年9月より日本軍が占領)が4000名の抗日パルチザンによって包囲された。
5)、日本軍の"尼港"敗退。日本守備隊および居留民はほぼ全滅、
6)、日本軍は報復として、北樺太を占領したあと、"尼港"奪還を試みたが抗日パルチザンは日本人数百人・白軍派ロシア人数千人を殺した(1920年6/1-6/2 (大正9)、尼港事件)
7)、日本軍は国際連盟の成立(1920年1月)、ワシントン会議(1921年11月)という国際協調の雰囲気の中でも撤退しなかった。
8)、日本軍がシベリアから撤兵したのは1922年12月(ソ連誕生時)白軍が太平洋岸まで追いつめられて消滅した事を確認してからだった。
9)、シベリア出兵によって、日本が得たものは何もなく、逆におよそ10億円の戦費と何千という尊い人命を失い、悲嘆と落胆と欧米列強の日本への不信感だけが残り、WW2へとつながって行った。

以上はほぼ、http://www.kobemantoman.jp/whe.htm 「世界史の目、極東での惨劇」より要約。
10)、しかし、1)、〜9)、までは、いわゆる「自虐史観」の観点から書かれた文章だと思います。日本は悪い事ばかりしてきたという論調の延長線上にあるという気がしますので、私の見解を 短文挿話 としてここ(「人類進化の『芯芽』を育てましょう」のページの現代史に輝く4つの人道行為事件)を読んで 「将来への自信にあふれた日本人」の史観を持ってほしいと思います。 

(私の所感)
1)、ロシア革命(帝政→共産主義)はWW1のさ中、世界中の列強を巻き込んで1922年12月にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)を誕生させます、「ソビエト」とは「評議会・会議」の意味で政治の会議化という民主主義の印象を与えますが実体は正反対でした、スターリン書記長は政敵を次々と粛清(処刑)し、逃げた政敵は執拗に追いかけ南米まで暗殺者を派遣して殺しており、31年間もの長期間狂気の独裁者となりました。
一時期は「国際共産主義」を体現した「平等な社会」の国として世界中の理想主義者が集まり、「インターナショナル」という歌が流行しましたがやがて共産主義の主導権を宣伝上手な中華人民共和国に握られ共産主義政治思想は暗く悲しい権力闘争に深入りし自滅してゆきます。 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/international.html 例えば、人類の「政治実験」であったこのロシア革命も「秘密主義」の破たんによる「チェルノブイリ核力発電所事故」、「軍事優先」による「財政破綻」等の原因で 70年目 で崩壊、人類の「政治実験」は失敗に終わりました(1991年12月、ソ連邦崩壊、無政府状態発生)。
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2014年現在では「白軍」が掲げたと同じ「旗」を掲げる「ロシア連邦」が地下資源(天然ガス)を国力の源泉として「民主主義の国」として再起しています。離散(ディアスポラ)していた「白系ロシア人」は世界中から資産を持って帰国し、国力増強に加坦しています。

中華人民共和国は毛沢東の文化大革命という一大政治イベントが権力闘争の本性をむき出しにして自滅寸前にまで国民は貧困化しましたが「改革解放」「1国2制度」という自由主義化を採用してどうにか表面上の平穏を保っています(2020年現在)

2)、日本は欧州戦線に参加せず「戦争成り金」「大正デモクラシー」の平穏な状態だけが存在したのでは無く、儲けたお金の多くはシベリア出兵で消えたのではないかと推察しています。日本は当時、イギリスと「日英同盟」という強固な「2国間同盟」を結んでおり、WW1の時にはイギリスから欧州戦線(西部戦線)への派兵」を要請されたのに対し「日本の軍隊は唯一国防を目的としているので遠征は出来ない」と断っています。シベリア出兵の場合は、イギリスは革命の伝播を恐れてソビエト政権の内政に干渉(ムルマンスク駐留)していますので、これにならって日本もイギリスが撤兵した時点で撤兵すべきだったと思います。そうすれば日本のシベリア派兵は「チェコ捕虜救出」「革命の伝播防止」という大義名分のある出兵であったとして国際協調が出来たでしょう。

これが出来なかった理由は原敬(はらたかし)暗殺事件(1921,11)が象徴する「過激軍人」の台頭にあります。この事件後海軍青年将校クーデター事件(1932,5)、陸軍青年将校クーデター事件(1936,2)、を経て日本は中華民国内戦(1937年7月7日、盧溝橋事件(於北京市南西地域))、に巻き込まれていきます。

(私への課題、答えは挿話14として書き込みます)

課題1、当時の国際社会にそもそも「国際協調」という精神風土は芽生えていたのか?
課題2、なぜ日本に「過激軍人」が生まれたか?
課題3、「過激軍人」台頭を予防する事の出来る可能性は当時あったのか?

この3つの課題への答えは挿話14として書き込みます。

〜〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話13 白系ロシア人、ロシア革命関連事項でした。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1918年〜2006年ユーゴスラビア地域国家連合史、第一段階 〜 第三段階 

 第一段階のユーゴ 
第一次世界大戦末期の1918年、民族自決の原則が認められて独立した南スラブ系の国家は、当初は「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国」と称していた。1929年から 「南スラヴ」 を意味する ユーゴスラビア王国 となった。ユーゴスラビア王国は1941年、第二次世界大戦中にドイツ軍のバルカン侵攻によって枢軸側に占領されて消滅した。 ティトー
 第二段階のユーゴ
第二次世界大戦中、ナチスドイツに対するパルティザン闘争を戦ったティトーの主導の下に共産党が権力を握り、1945年10月国際連合加盟、 しかしソ連共産党と一線を画すティトーの路線は次第にソ連との対立を強め、1948年には 国際共産党組織(コミンフォルム) から除名され、連邦制・自主管理・非同盟という独自路線(自主管理社会主義路線)を進むこととなる。
自主管理社会主義
ユーゴでは企業の国有化と土地改革が進められ大企業や富農は一掃されたが、農業の集団化は行われなかった。1948年のコミンフォルム追放後、ユーゴスラビアではソ連型の人民民主主義からの転換に迫られたが、新たな社会主義の理論として提起されたのが自主管理社会主義であった。自主管理とは、国有化された工場で、労働者が生産から分配にいたるすべての権限をもつことで、その機関として各工場に労働者評議会が設立された
 

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1946年に共和政の連邦国家としてユーゴスラビア社会主義共和国連邦が建設された。民族、文化、宗教の違いを含む多民族国家であるが、ティトーはソ連と一線を画した社会主義路線を採用して、第三勢力(米ソいずれの陣営にも入らない勢力)の中心として国際政治でも重要な役割を担った、
例えば、1953年バルカン三国軍事同盟の盟主、1961年中共国(中華人民共和国の略称)等をオブザーバーに第三勢力首脳会議を開催、参加国は118、オブザーバーは中共国など24。
寸考 ティトーはアルバニア決議案が成立しないよう影響力を発揮すべきでした
ティトーは隣国アルバニアもソ連を嫌っていたので中共国についても自分と同じく中共国はオブザーバー国であるとの認識で一致していると思っていたのです、ところがアルバニアは中共国を共産主義の理想の国と思い込んでいたのです。これはティトーの失敗でした、ティトーはアルバニアの自分への対抗心を読み切れなかったのだと思います。1971年10月25日 アルバニア決議案可決。
世界中の若者は中共国での共産主義は質の高いものであると思ったでしょう、しかし、その実態は理想のない権力闘争という醜いものでした。毛沢東は自分の権力を守るために小中学生・高校生や大学生を総動員して政敵を暴力で失脚させていたのです。
中共国は文化大革命という名前倒れの政治権力闘争中だったにも関わらず、アルバニアのせいで分不相応な自信を持たされてしまい、世界中の若者達も国連での中共国の扱いを見て、中共国は最先端を行く共産主義の国と思ってしまいました。
そのため、アルバニア案の成立は中共国内のみならず東アジア全域に破壊と混乱をもたらし(中台 [中共国と中華民国] の対立抗争 カンボジア内戦ベトナム内戦、フィリピン内戦、ラオス・ベトナム交戦)、日本では「連合赤軍」 事件を生んだのです。
 

 第三段階のユーゴ
NATOがこの地域全域を空爆
ティトーの死(1980 88才)後、内部の民族対立が起こり、1991年から 分離独立 が相次ぎ、1992〜1995のボスニア・ヘルツエゴビナ紛争が最も過酷で、次に起きたコソボ独立紛争(1998〜1999)も過激だった。セルビアとモンテネグロの 「国家連合」 も民族問題のため、2006年に消滅し、以後ユーゴスラビアの名残をとどめる 「国家連合」 は世界地図上に存在しない。
2018 現在進行中の課題は コソボ の国家としての実質的な独立(アルバニア人国家としての独立)であるが、アルバニア人自身が 虐殺・セルビア人の臓器摘出販売 等の人道に対する罪に問われ、難航中。
註 : 以上の文章の骨子は 「世界史の窓」 から頂きました。

1918年11月11日〔4年4ヵ月〕 第1次世界大戦、WW1 終わる戦争終結の最大要因は 最終盤のアメリカ参戦、見逃せない要因はスペイン風邪(ウィルス性肺炎)の第二波が戦場を襲い、第一波よりも強毒性だったため兵士たちを衰弱させていたこと。
中央ヨーロッパ時間 (CET) 午前6時、フランスのコンピエーニュの森において、ドイツは連合国との休戦協定に調印。同日午前11時、発効
WW1の特徴と人類の損失程度 後世への影響、失敗は生かされず20年後には全世界を巻き込むWW2が起きた  
特徴 :  広大な植民地を持つヨーロッパの大国が国力の全てをつぎ込んだ「総力戦」、帝国主義を掲げ、経済圏の拡大を図ったこの戦争は WW2 へと続いた損失程度 : 1000万人弱の戦死者、膨大な数の負傷者、膨大な数の民間人犠牲者、特に英仏両国の支払った代償は WW2よりも大きかった(WW2の英仏合計は 71.5万人)、井上卓弥、毎日新聞(2015,5,14)、より 後世への影響 : WW1によってコミュニズム(共産主義・社会主義、ソ連圏)とリベラリズム(自由主義・民主主義、アメリカ圏)という二つの「全体主義」が生まれ、1990年代冷戦終結まで(70年間)続いた特異な「戦争の世紀」を形づくった(々左より) 


挿話34、〜〜1916 ヒジャーズ王国の建国と分裂消滅〜〜〜〜〜〜〜〜以下はイギリスの罪深い3枚舌外交のお話です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この史実を理解するには 映画 「アラビアのロレンス」 が参考になります。

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1914〜1918頃の中東地域
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ

中東の政治現象の核となる民族は「クライシュ族」である。旧約聖書に出てくるアダムにまで血統をさかのぼることが出来、イスラム教始祖ムハンマド(マホメット)もこの種族の出身である。
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5世紀末、クライシュ族はイスラム教徒の総本家としてメッカの商業支配権を有し、アラビア半島の紅海沿岸地域(ヒジャーズ)に大きな勢力を持ち一般人の宗教は多神教で偶像を崇拝していました。

ムハンマドの3代前の曽祖父に当たるハーシムは、マッカ(メッカ)からダマスカスにいたる交易路を開拓し、ヒジャーズ地方は大いに栄え、メッカを中心とした緩やかな部族連合が形成されていった。 。570年頃、ハーシムの息子は東ローマ・エチオピア連合軍の侵略を跳ね返し、ハーシム家はさらに栄えた。

繁栄の一方で、メッカ内での貧富の差が生まれ部族としての連帯感が失われ、社会的矛盾をクライシュ族は抱えるようになる。これが預言者ムハンマドの誕生と新宗教(イスラム教)拡大の基盤になった。

610年に、ムハンマドは「平等」を掲げ、初期には同族の強い反対を受けたが戦争と和解を繰り返しつつイスラム教を完成させ、メッカに在った全ての偶像を破壊して政・教一致・1神教のイスラム世界を興しました。

従って、ヒジャーズ地方はイスラム教徒にとっては最も権威ある政治・宗教の中心地方でしたが、ムハンマドの死後、メディナに首都を置く正統カリフ国を担った後はサラセン帝国(中世イスラム帝国)の主流からは遠ざかり、サラセン帝国消滅(1258年)後はヒジャーズ地方人(純度の高いクライシュ族系アラビア人)は政治的に非ムハンマド勢力の「属国」となり権威は傷ついていました。長い間(約 650 年間)オスマン帝国の「属国」として過ごしました。

第1次世界大戦(1914〜1918)をオスマン帝国の属国として迎えた時にイギリスの3枚舌外交(サイクス・ピコ協定)の餌食(えじき)となりました。

イギリスは、1915年、名門ハーシム家と書簡を交換、「オスマン帝国に対し反乱を起こせば 『ヒジャーズ王国を中核としたアラビア民族国民国家』 を建国させてあげる」と言う意味の事が約束されていました。誇り高いクライシュ族系アラビア人はイギリス人の将校「アラビアのロレンス」の指揮の下でヒジャーズ王国を建国(1916年)、ヒジャーズ鉄道破壊、アカバ港強奪でオスマン軍を壊滅させダマスカスを占領し、1932年まで 王国は存続しましたがイギリスは政治的に「国民国家建設」までの面倒は見ず、ロレンスただ一人に任せる形で放置したために王国は内部分裂・自然消滅し、名門ハーシム家は屈辱を味わい「イギリスへの不信」を深めました。

この屈辱の背景には、イギリスのいわゆる「3枚舌外交」があったのです、


(イギリスの3枚舌外交とは次の通りのものでした)
1)、1枚目の舌は、アラビア人に対し「オスマン帝国から独立させてあげる(『ヒジャーズ王国を中核としたアラビア民族国民国家』 を建国させてあげる」)」。
2)、2枚目の舌は、フランス・ロシア白軍と秘密協定し「戦争が終わったらオスマン帝国の北部地域(含シリア地域)をあげる」。
3)、3枚目の舌は、ユダヤ人に対し、「戦争が終わったらオスマン帝国の土地(パレスチナ地域)に「ユダヤ民族国民国家」を建国させてあげる」。

イギリスの3枚舌は、第1次世界大戦でオスマン帝国と同盟を結んだドイツを打ちのめしたい一心から出たその場しのぎの約束の連発でした。実ったのはただ一つ、「ユダヤ民族国民国家」でしたが、アラビア人を含むイスラム教徒達の怒りは強烈で、ユダヤとイスラムの戦争(中東戦争)は4回も起こり、2014年現在はさらに複雑かつ深刻化しています。

第1次世界大戦の結果はドイツ・オスマン側の負けで終わりました(1918年)が、イギリスと言う大きな国が犯した「その場しのぎの約束」は根深い問題の原因となり2014年現在、次の通りに深刻化しています。

(2014年現在、当時よりも深刻化している問題点)
1)、ハーシム家はヒジャーズ王国内部分裂抗争で、リヤドの豪族サウド家に敗れヒジャーズ地方を追われ、ハーシム家の血統を継承している国はヒジャーズ地方とは北隣のヨルダン王国だけとなり、『ヒジャーズ王国を中核としたアラビア人国民国家』は出来ず、アラビア半島は「サウド家の私的支配地(サウジアラビア)」となったという不平不満がイギリス・フランス・ロシアへと向けられイスラム過激派の世界規模テロ暴動を起こしているのだと思います。
註 : イスラム過激派の暴動の起源は「十字軍」にまでさかのぼる事が出来ます。「十字軍」事件の場合も最初にしかけたのはキリスト教徒側(西欧諸国)でした。平和裏に共存していたエルサレム市民を「聖地奪還」と言う偽造された宗教目的のためにある日突然キリスト教徒軍(十字軍)が重装備でエルサレムに押し寄せ、民衆を虐殺したのです。

イスラム過激派の西欧諸国への憎しみの第1回の起源は十字軍で、第2回は第1次世界大戦でのイギリス・フランス・ロシアの裏切りであると思います。
2)、同じ不平不満がシリア地域国境無視問題(イスラム国{ IS }の建国暴動)として噴出していると思います。イスラム国建国暴徒(IS)はイギリス・フランス・ロシアが勝手に引いた国境線を無視して自主的に国境線を引こうとしているのです。
3)、パレスチナ問題(イスラエル国の暴走)の泥沼化を進行させています。
挿話34、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜以上はイギリスの罪深い3枚舌外交のお話でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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第1次世界大戦が長引いた理由と植民地独立への影響 
開戦当初はクリスマスまで(4カ月後)には終わると思われていたにもかかわらず、実際は4年もかかった理由は、イギリスが世界中に持っていた植民地が「手柄を立てて自治権を拡大しよう」の意図があり、世界各地域から志願兵がロンドンに殺到した。イギリス側の国々もドイツ側の国々も手柄を立てて自治権を拡大しよう」の意図は同じであった。この状態でヨーロッパ戦線は世界中から集まった兵士で混戦の状態に陥り、戦局は4年もの長期に亘ったのである。
イギリス側(世界中)にもドイツ側(アフリカ、オスマントルコ帝国属国)にも多数の植民地出身の戦死があった。この事はイギリスやドイツの植民地統治能力を弱め、第一次世界大戦後イギリスは植民地に「委任統治」と言う名の「半独立状態」を認め、他の列強もその概念を採用した。
「委任統治」はWW2後の「独立」の芽生えでした。毎日新聞記事 2014,10,28 の要約 


〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話1 「西部戦線異状なし」 と 「わが青春のマリアンヌ」 です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


1)、1916年「西部戦線異状なし」

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「西部戦線異状なし」の画像はここに在りましたが現在ではここに在ります
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*検索文言一覧表はここ
長引く塹壕戦(ざんごうせん)に疲れ、情緒障害に陥った兵士が塹壕の上を飛ぶチョウチョにふるさとを思い出し、チョウチョを抱きしめようとして銃撃されて死ぬ。何事も無かったかのように戦闘は続く。
第一次世界大戦,WW1に参戦した国の兵士たちは「この戦争はすぐに終わる、このクリスマス(6ヶ月後)には終わる」

と考えていました、実際に、クリスマスには「停戦」が実行され、前線の兵士達はクリスマスを互いに祝ったのですが戦争は再開され、結局 4年間 もの長期に及びました。
列強の中で最も「得(とく)をした」のは 日本 でした。造船業が特に活気づき、いわゆる戦争特需(大量破壊による大量需要の発生に応じる大量生産) で日本は一気に「成り金国」となり、大正デモクラシー という一時的な平和・繁栄が訪れ、世界への発言力も高まりました(注:シベリア出兵という長期間の難題を抱えながらの繁栄) 。

これを最も妬んだ(ねたんだ)のが アメリカ でした。アメリカも日本に次いで「得(とく)をした」国家として発言力を高めた、(イギリス船籍の豪華客船ルシタニアがドイツに沈められてドイツに宣戦布告(1917))、第一次世界大戦(WW1)に参戦。
一方、日本は同盟国イギリスから参戦の誘いを受けながらも 距離的に近い「ドイツの所有する東洋の植民地奪取はします」「ヨーロッパ戦線への本格参戦は、「遠方なので」遠慮する、ただしイギリス援助の目的で地中海等のイギリス領地防衛には軍を出します」という方法で同盟国イギリスの要望に応えた。 

第二次世界大戦(WW2)の後半では 日本 は「大東亜共栄圏構築」という戦争目的をかかげ 「西欧植民地人民の主権獲得 東洋の経済的自立共栄圏確立」 を主張してアメリカの覇権主義と正面衝突します(大東亜戦争)。

この大戦(第一次)を象徴すると私が思う映画はこの2つ 「西部戦線異状なし」 と 「わが青春のマリアンヌ」(「さすらいの青春」)です。

なお、第一次世界大戦(WW1)のキーワードは情緒障害、急速に発達した強力な機械式兵器はこれまでの 「戦争」 とはかけ離れたむごたらしい死体をまき散らし、兵士の死亡率は WW2 を上回るとされている。夫や恋人のむごたらしい死体や戦傷体を見た女性たちは人類初の謎の情緒障害を多く発症、その謎を解明し治療に乗り出したのがジークムント・フロイドを筆頭とする「潜在意識力学理論」学派です。


2)、「わが青春のマリアンヌ」(「さすらいの青春」)、画像はヤフー画像集から頂きました。

若く美しい戦争未亡人が情緒障害のため古城に幽閉されている、それを寄宿舎生活の高校生が発見しマリアンヌを逃がそうとするが父親の妨害で失敗に終わる。

註 : この映画に対応する「史実」は無く全てが創作です。しかし、私は第一次世界大戦(WW1)の4年間にあったことであると思います、思いもよらぬ破滅的進展を見せた欧州各地戦線で無残な傷を負い多くの国の多くの若者が死にました。そして若い未亡人や婚約者が沢山出ました。未知の情緒障害も沢山現れました。
損失程度 : 1000万人弱の戦死者、膨大な数の負傷者、膨大な数の民間人犠牲者、特に英仏両国の支払った代償は WW2よりも大きかった(英仏死者合計は [71.5 万人を超える] )、井上卓弥、毎日新聞(2015,5,14)、より  

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〜〜〜〜〜〜〜以上が挿話1 「西部戦線異状なし」 と 「わが青春のマリアンヌ」 です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
映画 「チャタレー夫人の恋人」  もこの時期のヨーロッパ社会の裏面を象徴しています、負傷のため半身不随となり、生殖能力を失った夫の世話への失望感は 「不倫」 も生んでいます、この時期、この精神状態の女性は沢山居たと思います。死んでいった兵士はこの世の地獄を早めに終えたので、ある意味では幸せだったともいえるでしょう 

1919年1月パリ講和会議、がヴェルサイユ宮殿で行なわれた
1919年ヴェルサイユ条約調印、アメリカは不参加、ヴェルサイユ体制が稼働。
1919年3月1日から約1年間、朝鮮半島国(朝鮮民族、日本統治下)、3-1運動 、「民衆蜂起・独立デモンストレーション」。各種宗教の指導者が中心となり、たとえ1年間でも「朝鮮民族」として団結する事が出来た事はWW2終結(1945)以来南北分断国家であり続ける朝鮮民族に今後の国家統一に向けて希望を与える事件であったと思います。
1919年8月11日、ドイツ憲法(ワイマル)成立。
1919年5月〜1922年10月、希土戦争(ギリシャ×トルコ)、ギリシャがトルコに侵攻(ケマル・アタチュルク軍が守るアンカラに迫った)、ギリシャは大敗、民族主義に燃えた両国の戦いはすさまじく、3000年にわたるギリシャ文明の象徴的な都市(スミルナ→イズミル)の住民を放置してギリシャ軍はエーゲ海へと船で逃げた。 スミルナは炎上、住民125万人は難民となってギリシャ本国のアテネなどへと追い払われた。
トルコ側も、40万人がギリシャのトラキア地方からトルコへと追放された。オスマン帝国はスルタン制度を廃止し滅亡、トルコ共和国と名を変えた。
この侵略戦争の原因は、ギリシャ側にある。ギリシャはWW1連合国のあこがれの地である事、クーベルタンによる第1回近代オリンピックで成功を収めた事によって異常なまでに「民族主義」精神が高まっており、オスマン帝国の弱体化も作用して国土を広げようとした、その大義名分は「ギリシャ人の保護」。
詳細はここで見てください
1920年セーブル条約、国際海峡委員会、ダーダネルス=ボスボラス 海峡通過に関する取り決めがなされる。
海峡通過権をめぐる争いと協議の経緯 
ダーダネルス=ボスフォラス海峡(近代)について 
黒海から地中海進出をめざすロシアとそれを警戒する諸国の間で海峡航行をめぐり紛争が続く。特にロシアとオスマン帝国(トルコ)は激しく争った(東方問題の焦点)。
攻撃を仕掛けたのはいつもロシアだった。
しかし、この通行権問題は2国間のみで解決できる性質のものではなく、常にイギリス、フランス等列強が関わった。次の通りに、
註 : データは「世界史の窓」http://www.y-history.net/appendix/wh1202-016.htmlよりいただきました
 
1774年 オスマン帝国、キュチュク=カイナルジャ条約でロシアに商船の通過を許可する。
1809年 列強の妥協により、すべての国の軍艦の航行禁止される。
1833年 オスマン帝国とロシアでウンキャル=スケレッシ条約締結。ロシア軍艦の航行を認め、他国の軍艦の航行は禁止。
1841年 ロンドン会議で5国海峡協定締結。ウンキャル=スケレッシ条約を廃棄、各国軍艦の航行禁止、海峡封鎖。
1856年 クリミア戦争後のパリ条約で、黒海中立化、海峡封鎖の原則確認。
1878年 露土戦争後のベルリン会議で締結されたベルリン条約でも海峡封鎖の原則維持。
1914年 第一次世界大戦 オスマン帝国がドイツ側に参戦したので、イギリスはロシア軍との連絡を確保するため、15年4月、ダーダネルス海峡入口にガリポリ上陸作戦を敢行。しかしトルコ軍の抵抗で失敗。
1917年10月、オスマン帝国が降伏。ダーダネルス=ボスボラス海峡の封鎖は解除され、連合国の管理下におかれる。
1920年 第一次世界大戦後のセーヴル条約で、国際管理下に置かれることになる。実際には英、仏、伊、日、ギリシア、ブルガリア、ルーマニアからなる国際海峡委員会が運営する。トルコは各国の船舶、軍艦、航空機の通過の自由を認めた。
1923年 ローザンヌ条約でセーヴル条約の原則を継承。国際海峡委員会のもとで各国に開放されたが、沿岸部のトルコ主権は承認された。
1936年 モントルー会議、ソ連の提唱で開催され、黒海沿岸国以外の軍艦・航空機の通過は制限される。
 

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1920年国際連盟成立。本部はスイスのジュネーブ、ここに 連盟事務局が常設された。

註 : 「国際連合」と比較して下さい
国際連盟、その 設立精神 欠点 
設立精神 
WW1の悲惨の反省の元に作られた人類史上初の国際平和機構、
「武力による植民地獲得」は禁止され、WW1敗戦国が持っていた植民地は連盟による「委任統治」許可の元に「植民地」として分配された(例、ドイツ領だった所を日本に委任統治させる、山東省膠州湾(コウシュウワン)一帯(含、青島(チンタオ)および、ドイツ領南洋諸島)
軍備については各国の「軍備縮小」が奨励された。 
欠点 
1)、「民族自決」の理想は掲げられたが「少数民族保護の方法」「民族のモザイク状混在への対処法」への方向付けがあいまいだった。
2)、独自の軍を待たないので国際法に違反した国に何の制裁も行なえなかった( 註 : WW2後に出来た「国際連合」では「国際連合軍」を持ち、国際法に違反した国には制裁を加える事が出来るようになった、戦いの後には 平和維持軍{PKO}が 活動し紛争解決後の完全な平和を達成する事が出来るように改善した)
3)、主要国(アメリカ、ソ連)の不参加
4)、全会一致の原則があったため、国際関係上微妙な問題に現実的な裁定を下す事が出来なかった(「国際連合」では 参加国全員一致 → 安全保障常任理事国(5ヶ国)のみの全員 一致 と改善された)。 

日本は常任理事国として参画、事務次長には新渡戸稲造(にとべいなぞう)が選ばれ6年間就務した。
新渡戸はスウェーデンとフィンランドとの間のオーランド諸島紛争を「知恵」をもって解決に導いた、「知恵」とは次の通りでした、すなわち、
主権はフィンランド、島の自治権は国際連盟が保障公用語はスウェーデン語、非武装・中立(2014,3,30,増田寛也、毎日新聞より)

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========以下は連盟準備会から 国連後まで==========
国際連盟委員会(準備会議)での牧野提案(有色人種差別撤廃案)は賛成11、反対5、で多数決では勝ったが、議長ウッドロー・ウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言した。
[寸考]、人種差別撤廃案が通れば、白人たちは世界中に持つ「植民地」での有色人種搾取による莫大な富を瞬時に失う事となるので決して賛成はしない。なので ウィルソンは「このような重要な法案は全員賛成が必要」と述べ廃案とした。しかし、牧野は今後の世界が2度と戦争を起こさないために有色人種差別撤廃案の成立に向けて努力した、このことが白人たちからの「日本潰し意欲」を高めた。

その代表的な例が蒋介石の米英協力でした。蒋介石は将来を考えるという思考回路が無く、あるのは政治的勝利で、そのために利用できるものは何でも利用した。自分が有色人種でありながら白色人種に協力する態度は民族の愛和共存理想とはかけ離れており、後日、日本が大東亜共栄圏理想を掲げて白人種からのアジア開放を目指して戦った時(1941〜1945)も全く反応せずもっぱら米英から金を得ることばかりを考えて日本の邪魔をした(ベトナムからの援蒋ルート[蒋介石を援助するルート]を通じてきわめて多額の資金が米英から蒋介石へと流れた、

蒋介石は若い時、日本で砲兵将官として訓練を受けているにもかかわらず、戦闘技術によって日本とともに白人支配と戦おうとせず、真逆の態度を取り続け、金を部下に分配しては日本軍から逃げることばかりを考え、結果共産党の毛沢東に負け台湾に逃げ込んだが(1949)、台湾に蒋介石がいた痕跡は2021年現在、何もない。

蒋介石は典型的な、大義を投げ捨てて金を持つ側に付く、いわゆる強く金のあるほうに味方する精神に凝り固まった人物です。

蒋介石は南京城攻防戦で日本軍に負けた理由として、南京大虐殺(30万人を日本軍が虐殺したという大嘘)の罪が作り出され 松井石根大将 は極東軍事裁判で絞首刑となりました。

人間は何時かは必ず死ぬのですからすがすがしく死んで行きたいものです、蒋介石は反面教師としては巨大な人物でした。人々に「金をくれ」と言いながら死ぬのは醜いと分からせたから。
=========以上は連盟準備会から 国連後まで=========
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国際連盟についての追記
1)、アメリカは連盟の必要性、を発案しておきながら(ウィルソンの14カ条提案)最後まで不参加。ウィルソン提案の一つである「民族自決」は自国の首を絞め、多民族で成立している国に動揺をもたらした。アメリカは日本提案の「人種差別撤廃案(アメリカ西海岸での日本人差別、中国人差別、黒人差別とうの撤廃案)」に不快感を持った、また、アメリカ・イギリスはソ連という多民族国家弱体化に「民族自決」案を利用しようとした。
2)、アメリカは中国との親密化を図る事によって日本を孤立させようとした。中国は国際連盟を利用して、自国の利益を図った、既に日本と21ヵ条条約を結んでいたにもかかわらず連盟に対し21ヵ条廃棄を発案しアメリカも舞台裏で中国を支持した。
3)、ソ連は革命中のため不参加。建国(1922)後の1934年に加入、しかし、1939 フィンランド提訴(侵略提訴)により除名された
4)、日本も1933年3月脱退、理由は満州国建国承認決議案で42対1で負けたため
1920年、、ヴェルサイユ条約で、アメリカ大統領ウィルソンが「十四か条の平和原則」で「民族独立(自決)」を提唱、自らの帰属を民族自身が決めるという原則、独立国家をつくるのも、旧宗主国内に留まるのも民族自身が決めるという原則、その後の国際政治指導原理になったとされる。
1920年1月10日、ドイツ、ヴェルサイユ条約批准(ドイツは再起不能な額の賠償金を課せられ、フランスとの国境地帯をフランスに奪われる)。
1921年3月、フランス軍ドイツ各地を保障占領、11月、賠償支払いの停止。
1921年11月〜22年2月、ワシントン軍縮会議、ワシントン体制稼働。
寸考
ワシントン軍縮会議は急激に台頭する日本を巧みに陥れる外交の罠(わな)でした。 

アメリカが提唱しておきながらヴェルサイユ体制不参加のまま2年が過ぎ、やっとアメリカに国際協調路線が復活した。その路線を具体化するためにワシントンに主要9ヵ国(英仏伊日中蘭ベルギー ポルトガル)を集めて軍縮会議を主催。

国際連盟が 「ベルサイユ体制」 と呼ばれるのに対し、この軍縮会議は「ワシントン体制」と呼ばれた。実際は、日本、アメリカ、イギリスの3国が世界を指導する体制だった。イギリスは WW1 で大きな損害を受けていたので経済負担の大きい軍艦建造競争をやめさせたかった。

日本はアメリカと共に WW1 で距離を置いた参加だったため戦後経済は好調で、特に日本は軍備拡張に熱心だった。

日本本国では国際協調の 原敬(はらたかし)の暗殺があったにも関わらず、国の路線としての国際協調は国際舞台では機能し(国際連盟では新渡戸稲造が頑張っていたので)アメリカ提案の「主力艦に限って米英日の比率を 5:5:3とする」を了承した。また、日英米仏が強調する証として「4ヵ国条約」が結ばれ20余年続いた「日英同盟」は解消され、これは日本を警戒していたアメリカ・イギリスの外交勝利だった。

中国・朝鮮半島に関しても、「北京議定書(1901)」に乗り遅れたアメリカが提唱していた 「中国に対する門戸開放宣言」 が「9ヵ国条約」として確認され、アメリカが従来「日本の特殊権益」と認めてきた日米2国間協定は破棄された。これもアメリカの日本に対する外交勝利だった。

これでは日本にとってあまりにも不利なので、文書にはしない形で「日本の満州進出計画」を了承し、同時に、日本に「ロシア革命」「中国革命」流出の防波堤となるこよう期待する意向を示した。日本はこの「内諾」に喜び、山東省駐留軍及びシベリア派兵中止を決定した、これも実質的にはアメリカの外交勝利だった。

しかし、ワシントン軍縮会議の次のロンドン軍縮会議(1930)からはアメリカの日本に対する対抗意識が露骨となり、日本の満州経営への非協力、日本人移民の受け入れ拒否もアメリカ州(南北アメリカ)で際立っていった。

この時期の歴史を動かした中心国は先ずイギリスで、急激に台頭するロシアを打ち負かすために日本を利用して成功、次はアメリカでロシアのあと急激に台頭する日本を打ち負かすために主要9ヵ国を味方につけ、日英同盟を解消させた。

イギリス・アメリカが行うべき方向づけは、アジア地域の団結促進だったと思います。日、中、朝 が一つの「経済共栄圏」を構成する方向だったにもかかわらず、日本を「悪者(わるもの)」に仕立て上げ、アメリカが中国を裏で支援し日本と中国の分断を図り、日本を国際的に孤立させたことは罪深い事だったと思います
★註 : 外交での勝利は 「[正義]とは一致しない」。以後、日本はアジア民族の主権確立(独立)を目指した戦いをするが、中国という広い地域を蒋介石・毛沢東という精神よりも物質(お金、土地、権力)を重視する人物たちにいいように利用されて、大東亜共栄圏の理想を掲げながらも負ける。しかしその結果植民地とされて約500年間奴隷のように搾取されて来た南アジア諸国を独立させた。最も献身的に日本国の理想に献身したのはいわゆる「残留日本兵数千名」です、この人たちは敗戦後も日本に帰らず、使っていた兵器とともに現地にとどまり、現地民に、一般教養(主権の意味を知らしめる)・軍事訓練・兵器取り扱い を教え、植民地を取り返しに戻ってきた白人たちと戦った、現地民には「独立は戦って勝ち取るもの」との手本を身をもって示しました。その結果、9カ国が独立しました。この人たちは次の通りに2021年現在言っています、

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日本というお母さんは、一度は死んだけれど九つの独立国を産み落としてくれた、私たちは日本に感謝しています(YouTube マストゥラチャンネル)
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1921年2月、国際司法裁判所設立(ハーグ)。
1921年3月、フランス・ベルギー両軍、ルール保障占領開始。
【n1921年11月(大正10)、日本、原敬(はらたかし)暗殺、大きな政治力を持ち「平民宰相」と言われた彼の暗殺は以後の日本に大きなマイナスの影響をもたらし、政治勢力の分裂・衰退、軍人の政治への介入をもたらし、徐々に軍人が政治の実権を握って行った、十数年後に 5-15事件・2-26事件 が連続して起きた。
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1921年8月、オスマン帝国国民軍(ケマル、アタチュルク)ギリシャ軍を撃破。

【n1921年12月日英同盟解消、4ヵ国条約発効、アメリカの日本への嫉妬が原因。以後、日本は国際社会からアメリカによって孤立させられていく(アメリカの西進侵略主義は、中国市場を欲する、日本は邪魔)。

アメリカにとって当時世界最強のイギリスが自分が叩くべき日本と同盟を結んでいることは不都合だった。日英同盟の代わりとして日本、アメリカ、イギリス、フランスによる「太平洋に関する四ヶ国条約」が締結された。これは太平洋の現状維持を取り決めたもので大した意味はなく、本当の目的は日英同盟を解消させることだった

日英同盟はロシアとドイツに対するものだが、「第一次世界大戦,WW1でロシアもドイツも弱くなったのに日英同盟が続いているのは両国が我国を挟み撃ちしているのだ」などとパラノイア(妄想症)のようなことをアメリカが言い出した。日本の海軍力をイギリスが高く評価している事への妬みと警戒心がアメリカのパラノイアをもたらした。日英同盟継続については大英帝国内ではオーストラリアやニュージーランドは賛成したが、アメリカの隣国のカナダが猛烈に反対した

<四ヶ国同盟>
第一次世界大戦,WW1でヨーロッパの国々はアメリカに経済的・軍事的に協力してもらったのでイギリスもアメリカの要求を断れない。イギリスは同盟廃止を言い出したくないので日英にフランスとアメリカを加えた四ヶ国同盟に移行することになった。「連帯責任は無責任」といわれるようにこの四ヶ国同盟はまったく役に立たなかった、(アメリカの本性である「西進侵略」の野心を掻き立てた)。 日本は純情にも、四ヶ国条約は平和を求める各国の希望の結晶であるなどと信じ込んでしまい、全権・幣原喜重郎は軽率にもこの提案に乗ってしまい受け入れてしまう。(この時点で日本はアメリカの西進侵略主義に負けたのである、 日本には天才的な外交思想家や優れた外交官が居なかった)こうして日英同盟は消滅し、 アメリカは日英同盟という最後の砦を崩すことに成功、 強力な同盟国を失った日本を狙い撃ちし始める(ABD経済包囲網を形成し日本を孤立させる方向性を持って行動し始める)。

(アメリカの西進侵略主義(東海岸、メイフラワー号[1620]西部(インディアン殺戮、居留地への押し込め)カリフォルニア(メキシコを侵略し金鉱地帯を奪い黄金ラッシュで富を得る)独立国であるハワイを侵略、ハワイを東太平洋の軍事拠点とするフィリピン侵略、スペインから太平洋軍事拠点を奪う)、東アジア市場を得る上で日本は邪魔)
画像によるアメリカインディアン殺戮の歴史を詳しくここに書き留めておきます、以下の通りでした
出所はTRIBES(ネイティブ・アメリカン)です。

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インディアン殺戮史、アメリカの西進主義政策の最も悲惨な犠牲者
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
コロンブスに発見された当時、アメリカ大陸には300の異なった言葉を話す人達がいたとされています。現在残っている部族(言葉)はわずかに10に満たない数であり、それでもアメリカには263の部族が今でも存続しています(居留地・不毛の砂漠地帯で少数に分散して存在)。

左端の画像は1492年、コロンブスが来たころ、次は1820年、アメリカがイギリスから独立する戦争に巻き込まれて「うらぎられ死」のための人口減少、次は1840年、西部で金鉱発見され始め、1849からゴールドラッシュフロンティア精神 = 西進侵略主義  は加速されてインディアンの存在は無視された、インディアン居住地に金鉱があれば追い出された。
次は1860年、バッファロー(インディアンの主食)狩り(アメリカへの渡来人の娯楽のための狩り)によるインディアン飢死のための人口減少。南北線終結(1865)、カスター将軍のインディアン大虐殺(1868)。
映画「黄色いリボン」はこの頃を時代背景として描かれています、若いインディアン達が大同団結して有名なカスター将軍の第7騎兵隊を全滅させた(1876)まではその勇猛さを示しましたがゴールドラッシュ(1849〜)での白人西部集中の勢いには逆らえず歴史の表舞台から消えて行きました、今では居留地(作物栽培に向かない砂漠・ウランの天然存在地)を指定された生活を送らされています 
次は1977年、インディアンたちは「居留地(保留地)、荒れ地」に押し込められて今日に至る。

註 :これらインディアン殺戮政策は1930年ころから「西部劇」として娯楽映画化されインディアンは地獄から来た鉄砲を持った悪魔として描写され、映画では常に殺され、白人達はそれを見て大いに喜んだ、インディアンの無念さに思いをはせるアメリカ人は居なかった。1960年代に入ると、人権意識の高揚の御蔭で露骨なインディアン殺戮映画の数は減ったが依然として大衆を熱狂させる娯楽映画としてインディアン殺戮映画は作られ続けた。1964 年 、 公民権法(市民権法)成立まで続いた。
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アメリカの排日

イギリス人から見れば、日英同盟の廃止が世界に広大な植民地を有する大英帝国にとって致命的だった。当時は軍艦一隻で十分植民地を抑えられた。ところが第二次世界大戦での日本との戦争で、イギリスはプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈された。それからインド洋艦隊も、ドイツのビスマルク号を沈めた重巡洋艦ドーセットやコンウォール、さらには航空母艦ハーミスを撃沈された。それをインド人が知ったのだから、抑えが利かなくなるのは当たり前だった。
イギリスは日本と戦争をしたから、インド、パキスタン、ビルマ、シンガポール、マレーなどを失う羽目になった。

イギリスの植民地だったこれらの国々は東洋人が西欧人を打ち負かす様子を目の当たりに見て 「白人も有色人種も人種的能力は同等」 との自信を得る。
日本が第2次世界大戦,WW2でこれら元植民地諸国の独立に勇気を与えた事は世界史上まれに見る功績であると日本を高く評価する事が出来る。

1922年10月ムソリーニ、イタリアの政治をクーデターによって奪取。
  ファシズム概念とムソリーニ
ファシズム(結束主義)とは、イタリアのムソリーニと彼が率いた国家ファシスト党が提唱した思想や政治運動、および1922年から1943年までの政権時に行った実践や体制の総称である。広義にはドイツのナチズムや日本の 軍部独裁政治 など他国の類似の思想・運動・体制も含めて「ファシズム」と呼ばれる場合も多い、

ムソリーニは既存の 非共産主義 の様々な思想(ナショナリズム、コーポラティズム(協調組合主義、生活分野に限定すれば「生活協同組合主義」、産業分野では「企業主義」)、国家労働組合主義(サンディカリスム)、帝国主義、反共主義)を理論的に結合し、新しい政治思想としてファシズムを構築した、 Wikipedia参照。

ムソリーニの足跡
1922年10月 ファシスト党によるクーデターを決行、臨時政権。
1940年 - 日独伊三国軍事同盟締結
1945年 - 家族を亡命させていたスペインへ出国を試みる途中にガリバルディ自由旅団に拘束され、銃殺された。
日本のファシズムについての有力な見解
保阪正康氏、2016,12,11 毎日新聞、日本のファシズムは独伊とは異質
ドイツやイタリアの様に指導者が思想をもってファシズ体制を作ったのではない。日本社会では個々人がまじめに自らの持ち場で懸命に働く、そうして出来上がったのが軍事に都合のいいファッシズム体制だった。結果的にそうなったのだ。
 

1922年12月ロシア革命(1917 以降5年間) 終結、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国 の4つを統合し、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連邦 [USSR])が誕生した。世界市場からは脱落(共産主義経済圏の形成)、そのおかげで経済大恐慌(1929〜  6年間)に巻き込まれず、重工業重視で次の世界大戦 WW2 へ向けて国力を向上させることが出来た。
1923年、オーストリア、ジークムント・フロイト、書籍 「自我とエス」 を発表。第1次世界大戦後の原因不明の精神疾患多発の原因と治療法を模索、その後の 「無意識病理」 探求の道を開いた。

人類が初めて経験した4年間にも及ぶ第1次世界大戦は大量同時戦死の連続であり、戦争参加者は恐怖と不安と疲労の極限を体験し、民間人も空爆によって同時大量に殺された。

多発した精神疾患とは現在でいうところの PTSD (心的外傷後ストレス障害)で、帰還兵の多くが乱暴を働くかまたは自殺した。未亡人の多くはヒステリー発作を起こすかまたはウツ神経症を発症し社会的に不適応を起こした。

フロイトの功績は、原因を 無意識領域での心理外傷 とし、治療方法として 心理外傷の描画化と言語化 を採用し、他者との意思疎通を図った。この方法は効果的だった。

従来、人間は恐怖や不安を体験すると、心の奥底に恐怖や不安を閉じ込め、時間がそれらをいやすのを待ったものである。しかし、第1次世界大戦がもたらした PTSD は個人の努力で乗り越える事の出来ないほどに程度がひどかった。フロイトは他者に個人の恐怖や不安を知らしめる方法を取ることによって世界大戦での恐怖や不安を人類全体の 「無意識世界」 に加えていったのです。

後日、(1941) エーリッヒ・フロム(ドイツ人) が「自由からの逃走」という書籍を発表します、人間は、「自由な個人」 で居ることは PTSD に陥りやすいので、他者に自分の恐怖や不安を知らしめつつ 自由 を捨てて楽になろうとする。恐怖や不安の無意識世界が国家レベルまで膨らんだ結果が 全体主義、民族主義 となり、それが暴走した状態がナチズムだった との分析を公表した。

フロイトの治療方法は 「個人レベル」 の PTSD暴走 を救うことは出来たが 「国家レベル」 の PTSD暴走 を防ぐことは出来なかった と言うことが出来ると思います。

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<寸考>
では今後、 「国家レベル」 の  PTSD暴走   を未然に防ぐにはどうすればよいのか? それは、「人類レベル(国連レベル)」 で 「国家レベル」 の  PTSD  の描画化・言語化 を計ればよいのだと思います
 
【n1923年(大正12年)、日本、荻野久作『人類黄体の研究』を発表、月経と排卵の関係についての学説は「荻野学説」として世界に知られる、次回の排卵日を予測して妊娠を計画化出来るとする学説です。彼の本意は「妊娠のために」使ってほしかったのですが避妊にも使える事から、のちに「基礎体温記録法」と合わせて「オギノ式避妊法」が定着した。最も人間らしい避妊法として世界中に知られるようになった。

【n1923年9月(大正12年)関東大震災。マグニチュード 7.9、10万5千人余が死亡、数千人の朝鮮人が流言飛語(放火した、井戸に毒を入れた、少女を強姦した)で殺されたと言われる。後日、東京都は「朝鮮人暴動」の事実を肯定するも流言が含まれる旨の結論が出された。朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した、言語障害者も殺されたと言われる。なお、2017,9  作家 黒川 創 はほぼ次の通り書いている(於毎日新聞寄稿) 「虐殺には知識人も加わっていた、人心が恐怖に駆られて殺気立っていたのは大地震直後の10日間ばかりだった。大災害対応初動の時間帯には異常心理が働き、いくら教養の有る人でも殺人を犯す。今後の大災害に備えてこの記憶を生かさねばならない」

(筆者註 : WW2へと一直線 )
関東大震災
をきっかけにして日本は、第2次世界大戦 WW2 へと巻き込まれて行きました。「巻き込まれ」の経過概略は

⇒ の通りです。

⇒ 大正デモクラシーという平和ボケの中でシベリア出兵での国際的孤立(アメリは 1920 に撤兵したのに日本は 1922 のソ連邦成立まで居たため野心ありと疑われた)また、2年間で国費を浪費した事を軽視していた 
 世界大恐慌を乗り切るために 大東亜経済圏構想実現を急いだ  満州国建国
 関東大震災が「戦争による大規模破壊 」を日本人にめざめさせた、大規模破壊を受け無いためには軍備の増強が必要との自覚の発生 
 第1次大戦で政治的に破壊(戦争)されたヨーロッパの惨状の現実直視と危うい立場の自覚(日本とアメリカは自力で豊かな国になったのではなく、2国ともにWW1戦争成金国である事の自覚)  豊かさを軍備増強へと振り向けた 
 アメリカとの対立(アメリカの日本への妬み)、アメリカは最後まで国際連盟に参加しなかったのに反し、日本は「人種差別廃止論」や「武士道(新渡戸稲造)による国際紛争調停」で人気が高まっていた、これをアメリカは妬んだ 
 日中戦争 中国内戦に巻き込まれる形をとって 大東亜戦争敗戦まで 国・共 両軍にもてあそばれた
 ABD包囲網(アメリカ、イギリス、オランダによる日本への原油禁輸 )という日本封じ込め戦術に気付くのに遅れた 
 日本軍部の暴走  アメリカへの真珠湾奇襲  第2次世界大戦(大東亜戦争)で敗戦

1923年10月、トルコ共和国成立。
1923年、ドイツ、大インフレーション、ミュンヘン暴動。
1925年10月アメリカのドイツへの資金提供が活発化、軍備平等権の保障(ドーズ案、ロカルノ条約)が試みられたがフランスの不満とその後の経済恐慌が重なってドイツは経済的に追い詰められた。
以上、http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1921-30/1922_nichiei_domei_haki.html  による。
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【n1926年(昭和1年)、日本は昭和時代へ。
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★日本の年号変更、「昭和」へ★ 昭和天皇は 25歳 で即位されました。
(大15=昭1)¶ ;「大正」 は 15年(1926) で終わり、「昭和」 も 1年(1926) から始まる、ただし、「昭和1年」は、1926,12,25-12,31 の7日間だけ。詳しくは下記  「棲み分け」 を参照してください。
、 大正15年は 1926年の 12月24日 まで、 昭和1年は 1926年の 12月25日から, 1926年は 大正と昭和 の「棲み分け」状態にある。純粋の昭和は 2=1927 から。
、和歴 ⇔ 西暦 簡易換算方法について、  25 を足したり引いたりして正解の見当を付けられる、
ただし、引き算で 0 が出た場合は前年号の純粋最終年とする
例 昭和 0 年(1925-1925=0)は大正14年(1925-1911=14) 

例1:天皇死去に伴い誕生した 昭和1年 は
西暦1926年(1+1925=1926)
西暦1926年は大正15年(1926-1911=15)=昭和1年(1926-1925=1)
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例2、第2次世界大戦(大東亜戦争)参戦の 昭和16年は
西暦1941年 (16+1925=1941)
西暦1941年は昭和16年 (1941-1925=16)
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例3、第2次世界大戦(大東亜戦争)敗戦の玉音放送 昭和20年は 
西暦 1945年 (20+1925=1945)
西暦 1945年 は昭和20年(1945-1925=20)
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例4、昭和天皇(74才)のアメリカ訪問 昭和50年は
西暦 1975年 (50+1925=1975)
西暦 1975年は 昭和50年 (1975-1925=50) 天皇はアメリカに敗戦直後の食糧援助のお礼をのべられた。 この礼にアメリカ人は感動した 。
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例5、 昭和63年(平成0年)は 
西暦 1988年 (63+1925=1988)
西暦 1988年 は昭和63年 (1988-1925=63)         戻る 
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   中国 過去・現在周辺図はここ
1927年、中華民国、毛沢東、江西省井岡山(せいこうざん)に革命拠点樹立、中国共産党誕生
【n1928年6月(昭和3)、中国、張作霖爆殺事件(奉天事件、現在の瀋陽)、日本軍による軍閥(馬賊の頭目)暗殺事件別名「奉天事件」、当時の北満州地域には軍閥や強盗団(匪賊、含馬賊)が沢山居り、張作霖は吉林省の馬族、奉天に拠点を移し「満州王」と呼ばれ更に勢力を伸ばし北京で「大元帥」を名乗った2年後の帰途、日本軍(関東軍)に爆殺された、軍閥や強盗団は住民を略奪・強姦していた、またロシア革命で敗北した「白軍」関連勢力もここへにげこんでおり、白軍絶滅を目的にソ連秘密警察も入りこみ共産主義イデオロギー(政治社会的考え方)を浸透させる運動をしており、張作霖爆殺もソ連が行なったとの説もあった。
これら諸勢力の中で最も住民に信頼されたのが南満州鉄道を守る関東軍でした。住民たちは日本軍に 親しみを抱き北満州地方でも日本軍の支配をうけることを望んだと思われる、日本軍は道路・橋・建造部を破壊せず、略奪せず、住民に農作業を教えていたからである。関東軍は自分の軍事力で北満州に治安をもたらそうとした。
1928年8月27日、世界、パリ不戦条約、当初15ヶ国、1929には54ヵ国、最終的には63ヶ国、日本の憲法第9条のさきがけとなったと言われていますが、大国(英米)の我わがままのゆえに「骨抜き条約」となり、参加各国の1年間の必死の外交努力は徒労に終わった。

〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話18 パリ不戦条約です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
パリ不戦条約とは 簡単に言うとなんですか? (ヤフー知恵蔵問答より複写)質問者 mymelo_abcさん 2012/6/909:42:55
註 : この書き込み内容は、ウィキペディアで「裏」を取っています、分かりやすい点を買って採用させていただきました。

(ベストアンサーに選ばれた回答、回答者:isbn4413003012さん、ただし、回答が解説と重なる部分は解説部分を削除させていただきました)。

1928年(昭和3年)、フランスのブリアン外相と、アメリカ合衆国のケロッグ国務長官の提唱で、15ヵ国(のち63ヵ国)によって、調印され、国際紛争解決の手段として戦争に訴えないことがちかわれた条約。
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簡単に言うとこうですが、アメリカ合衆国は、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出しましたし、またイギリスとアメリカ合衆国は、国境の外で、国益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行いましたし、アメリカ合衆国は自国の勢力圏とみなす中南米に関しては、この条約が適用されないと宣言しました。

留保 : 条約の特定条項が自国に適用されないという意思表示。

留保の効果は相互的です。すなわち、留保した国とほかの当事国との間では、留保の限度において、条約規定は変更され、または不適用となります。したがって、留保した国は、ほかの当事国に対して、自国が留保によって免れた条約上の義務(戦争しないという義務)の履行を求めることはできません。

また、世界中に植民地を有するイギリスは、国益にかかわる地域がどこなのかすらも明言しませんでした。

まとめると、アメリカ合衆国は、中南米で、戦争を起こしても、パリ不戦条約に違反しませんし、イギリスは、世界中で、戦争を起こしても(ほとんど全ての地域がイギリスの勢力圏なので)パリ不戦条約に違反しないということです。



国益が何であるかは、アメリカ合衆国やイギリスが一方的に決めることができるので、こうなるのです。

そのため、当時の世界中の学者から、事実上の空文と評されていた条約であり、条約の締結に向けて精励した外交官・政治家の努力は、徒労に終わってしまいました。

当時、イギリスやアメリカ合衆国は大国であったので、パリ不戦条約は、事実上の空文になってしまいました。

..........以下はWW2の原因に関する私の歴史認識の詳細です。......................................................
原敬首相が政治に不満を持っていた民間人に、東京駅で短刀で心臓を一突きされて暗殺され(1921,11)て以降、日本では、右翼が濱口雄幸(おさち)首相を暗殺(1930,11)、海軍青年将校達 が 5・15事件(1932,5)で犬養毅首相を暗殺、皇道派を宣言した右派政党は政府を脅して「天皇 は神の代理人である」との信仰を普及させました、(政府が「国体明徴(メイチョウ) 1935,10」声明を発表」)
陸軍青年将校が「昭和維新」と称し2・26事(1936,2)件をおこし、大蔵大臣、内大臣、 陸軍教育総監、陸軍大佐(総理大臣と間違えられた)、侍従長(負傷)、らを暗 殺。

これらのいわゆるファシズム暴走(日本軍軍部暴走 ドイツナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)暴走の根本原因は次の1)、2)、3)、 です。
註 : ファシズムとは「1党独裁による国家主義+全体主義+侵略主義の政治理念」の事です。
1)、1920年の国際連盟へのアメリカ不参加
2)、1921年の日英同盟解消、(日英同盟は1902年成立、日本はイギリスを助け続けた、特に WW1 下の地中海での対ドイツ海戦では日本には何の利益をもたらさないにもかかわらず献身的にイギリスを助けた。日英同盟解消はアメリカがイギリスを説得して実現し、その目的は来る(すぐにやってくる)大東亜戦争に於いて日本を孤立させる事だった)。
3)、1928年のパリ不戦条約崩壊(上記)

原因を作ったのは主としてアメリカです。アメリカは西進侵略主義を取りつつWW1の戦争特需で儲け、イギリスを助け、て急速に力を付け、同じく戦争特需で儲け、力を付けた日本を巧みに孤立させて行きました。資源(特に石油)の無い日本のあせりが「日本軍部の暴走」を産んだのです。以後の日本は「自滅」の道を歩みます。

ドイツでは、ゲルニカ空爆(世界最初の空爆)、ドイツがイギリス・フ ランスに宣戦布告  第2次世界大戦勃発、イタリア、ドイツ、日本  の順に敗戦、現在に至っています。
ドイツナチ党の暴走はWW1敗戦で周辺国から「袋叩き」の目に遭わされた事への復讐心の現れだと思います。ドイツも日本と同じく「パリ不戦条約」参加の最初の15ヶ国に入っていますので「パリ不戦条約」でもアメリカとイギリスに裏切られ、周辺国への復讐心に燃えつつ孤立化させられ「ナチスの暴走」を産んだのだと思います。
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歴史に「もしも」は禁物ですが、もしも「パリ不戦条約」が成功していたら日本の軍部暴走もドイツの暴走(ゲルニカ空爆やいわゆるユダヤ人絶滅法)も無く、第2次世界大戦も無かったでしょう。

この観点からすれば、世界を地球規模に亘って戦乱に陥れた第2次世界大戦の責任はイギリスとアメリカ(主にアメリカ)が取らなければならないと言う結論に至ります。
............以上はWW2の原因に関する私の歴史認識の詳細です。....................................................................


〜〜〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話18 パリ不戦条約でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1928年10月、ソ連、スターリン、内戦終結後に訪れた私的商人・私的実業家による安定志向を打ち破るために、第一次五カ年計画を発表した。こうして1930年代、ソ連は隔絶した経済圏を持つことで順調に重工業を発展させていくとともに、ソ連型社会主義として再び強硬な社会主義化路線に戻る、農業も集団化、各種民族の独自性否定による中央集権の強化、政治犯等囚人の酷使、政敵の暗殺(粛清)によりスターリン独裁体制が出来上がる。
1928年10月、中国蒋介石、国民党政府主席となり「中華民国」代表者となる、以後「国民党」と「共産党」の両党は対立を続け、この内戦で多くの中国人が死ぬ(1000万人)、大東亜戦争終結後は蒋介石が負けて台湾に逃げ込む

1929 年7月俘虜(捕虜)待遇条約(スイスのジュネーブで調印された條約(捕虜を殺した者は処刑される等の補強がなされた)、日本は、署名したが批准していない。なお、この条約は不十分であったため 1949年ジュネーブ諸条約 で補強されました。
【n1929年、8月(昭和4) 、日本、水野廣徳(みずのひろのり)海軍大佐、日本は戦争の出来ない国、日本戦争無資格論主張するも、無視される。

〜〜〜〜〜〜〜以下は挿話14 過激軍人の台頭は防げたか??です〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

課題1、当時(WW1終結[1918]〜2.26事件[1936])の国際社会にそもそも「国際協調」という精神風土の芽生えはあったのか?

(私の答)
次の理由により「無かった」と思います。(ただし、日本とポーランドという個別の戦場弱者救済という芽生えはあった)。
陸戦条約 [1907、捕虜に関する国際条約、日本は批准済み] 捕虜(俘虜)待遇条約([1929]ジュネーブ条約 日本は署名のみ、未批准)は「国際協調」的ではあったが、「不戦」に関する条約成立の兆候(パリ不戦条約[1928])の崩壊、海洋国日本にとって不平等な[1930,1936] 海軍軍縮国際会議。などによって「無かった」と言う事が出来ます。

まず、パリ不戦条約[1928]のあっけない無力化(挿話18、上記)が「無かった」事を証明しています、不戦条約を空文化し葬ったのは、アメリカとイギリスです。

人々は日本とドイツにWW2の責任を負わせ東西国際軍事裁判でドイツと日本の「戦争犯罪人」を絞首刑にしていますが、これは間違っているのです。真の犯罪国は挿話18に述べてある通り、アメリカとイギリスなのです。しかし、この裁判をやり直せば我慢に我慢を重ねて作り上げて来た「戦後世界の新秩序」を破壊し再び戦乱状態に陥れ(おとしいれ)ますので実施すべきではありません。

[理由] ヴェルサイユ条約画像は Wikipedia より頂きました。
1)、ヴェルサイユ条約はWW1におけるドイツ敗北を「無条件降伏」のように扱い、とても「国際協調的」な条約とは言えない。

アメリカ合衆国は調印したが、批准しなかった。 中華民国も講和会議に参加したが調印を行わなかった。

ドイツは、本国の領土を削られ、植民地のほとんどを失い、支払い不可能な賠償金を科せられ国内に不満が渦巻いた。
2)、 「国際連盟」は誕生した(1920)が、アメリカは連盟創設提案国でありながら最初から最後まで不参加だった。この事は「国際協調」という精神風土の芽生えをアメリカが摘み取ったことを意味している。以下は Wikipedia より大意引用。 「原加盟国は42カ国で、イギリス・フランス・日本・イタリアといった列強が常設理事会の常任理事国となった。1934年のソビエト連邦の加盟で加盟国数が60カ国に達したが、以降は脱退・除名等で加盟国が減少に転じている(ソ連は1934年に加盟したが侵略(フィンランド)のため除名)[3]。

提唱者が大統領(ウィルソン)であるアメリカ合衆国自身は、上院外交委員長であったヘンリー・カボット・ロッジなどモンロー主義(「非同盟主義」「孤立主義」「自国の優越誇示主義」)を唱える上院の反対により各講和条約を批准せず、その後の政権も国際連盟には参加しなかった。また、ロシア革命直後のソヴィエト社会主義共和国連邦(1934年加盟)や敗戦国のドイツ(1926年加盟)は、当初は参加を認められなかった。このように大国の不参加によってその基盤が当初から十分なものではなかった」。Wikipediaより大意引用。
3)、 「国際連盟」が世界平和に貢献した実績はほとんど無く、日本人の新渡戸稲造事務次長のスエーデン×フィンランド紛争解決だけともいえるほど無力だった。
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4)、 「ソ連共産主義革命」による 『政治』(富の分配現象)の理想主義は、現実とはかけ離れた面が多く、共産党指導部内での「権力闘争」が建国(1922)以後10年間くらいは続いた。
5)、 西欧列強は自国の「政治安定」、「富の獲得」「原料集め」「製品の販売先」のため「植民地」を経営し、「宗主国」としてアジア、アフリカ、中東地域等地球上のあらゆる土地の分捕り合戦をしており、「外交」で折り合いがつかないときは「軍事力」で勝った方が欲する領土を手に入れていた。特にイギリスは「日の沈まない国」と言われるほどに地球上の地面を最も広範囲に植民地としていた。
6)、 1921年11月〜22年2月史上初のワシントン軍縮会議は行なわれたが海洋国日本は同じ海洋国イギリス・アメリカと比べて軍艦保有数について不利な扱いを受けた。また、軍備を維持するに足る植民地不足について無理解な扱いを受けた。

課題2、なぜ日本に「過激軍人」が生まれたか?

(私の答)
次の理由を上げる事が出来ます。 海軍兵学校生徒画像は、ヤフー画像集から頂きました。
1)、大日本帝国の教育は幼児期から、絶対に自分が正しい事を前提に「相手を論破する」事に重点を置いた教育が行なわれた。実際の戦闘場面では通用しても国際的に「応用」が効かない軍人が育った。大声で相手を言い負かすのではなく、相手を認め落ち着いて議論する・人はそれぞれ違う と言う観点を教えられることが無かった。

明治維新直後の軍人達には様々な人生体験をした者が多く、万国公法によって国際性を学んだが大正時代に入って、「国際性ある軍人」は消えた。「多様性」を理解する軍人はほとんど居なくなった。
陸軍幼年学校生徒画像は、http://www.asahi-net.or.jp/~BY3S-SKI/hitoshi/yonen/yonen.html より頂きました。
2)、近代化に出遅れた 小国 である日本人の中でも特に「安全保障」に携わる「軍人」には「あせり」があった。地球上を見渡せば植民地とすべき「豊かな地」はもはや何処にも存在せず、「自己防衛」 のために貧しい地域(台湾、朝鮮半島等)を「併合」する事が必要で、国民は戦争で勝っても常に貧困だった、せめて自国の「自己防衛」・「安全保障」だけは自分たちでやらねばならないとのあせりがあった。
3)、陸軍幼年学校・海軍兵学校での13歳くらいからの偏った軍事指導者養成教育は、軍事的観点からのみものを考える人間が育った。
4)、明治維新以来立て続けに「戦争」をし、国の財政は底をつき、国民の貧困化が進み、「自己防衛」のために台湾と朝鮮半島国家を「併合」していたが「富」は不足していた、軍隊は「貧困者を救済する」組織となっていた。不平を持ち且つ「軍事力」を持った軍人は国内政治が行き詰まると「テロ(暗殺)」によって政敵を殺した(原敬首相暗殺(1921)、濱口雄幸首相暗殺未遂(1930)、犬養毅首相暗殺(1932,5)、高橋是清大蔵大臣等政府中枢の政治家達をまとめて暗殺(1936,2)、以後、軍人に対する文民統制は利かなくなった。
「敵を倒す(玉砕戦法や特攻戦法)」事にしか知恵が働かない軍人が多く現れ、軍人が全く専門外の「政治」「宗教」「科学」「教育」「経済」を支配し日本文化を変質させた(「和」の精神の変質)。「軍人でない人は日本人ではない」との社会現象が見られ、成績優秀な少年はこの風潮の中で競って陸軍幼年学校や海軍兵学校に入った。
5)、成績優秀な陸・海軍国少年達でも俘虜(捕虜)待遇に関する国際条約未批准の及ぼす国際的孤立化、パリ不戦条約崩壊や国際海軍軍縮会議の持つ「日本孤立化作戦」の兆候への対抗策を打ち出す能力を育てる事は出来なかった

以下は見識を深めた上で書き足して行きます。

課題3、「過激軍人」台頭を予防する事の出来る可能性は当時あったのか?

(私の答)
次の理由により「無かった」と思います。
[理由]
1)、第1次世界大戦,WW1の悲劇を体験しなかった日本の軍人は国際感覚が鈍く、当時の「軍縮による平和」という理念を理解する事が出来なかった。第1回ロンドン海軍軍縮条約(1930年10月)の内容に不満を持った。欧米側としては資源弱小国日本には破格の優遇をしたが日本海軍は不満を持った。第2回会議には欠席し翌年(1936年1月)には海軍軍縮条約からは脱退した。

海軍の神様的存在だった東郷平八郎元帥(日ロ戦争の英雄)が政党内閣を信用しなくなり、それまで政党内閣との協調を基本としてきた海軍はやがて軍事力の文民統制に反発する、そして、先ず海軍が5-15事件(1932年5月)というテロで政治に異議を唱え、次に陸軍までもが海軍よりも徹底したテロでクーデター(政権乗取り1936年、2・26事件)を実行するも天皇は政権が軍部に渡る事に反対した。

2)、小国日本独自の植民地政策すなわち「国防・安全保障」「近隣国との共栄」のための植民地政策(満州国経営)は当時の理念としては画期的な新しさを持つものではあったが西欧の「合理主義的植民地・儲かる植民地」理念から見れば「非現実的理想主義」でした。結局、資源は乏しく(石油は出ない)農業生産性も低く、「満州国経営」は西欧の植民地のようには儲からなかった (経済は、約60%の自給率といえる。Wikipedia)、初期には現地人に治安上歓迎されたが、次第に日本経済の負担となり、軍事的な「国防・安全保障」を重視するあまり熱河省を「侵略」し、国際的に孤立し、国際連盟を脱退し、「国防・安全保障」は「満州国経営」で、「近隣国との共栄」は南アジアへで「石油を獲得」という方針に変え、北・南広範囲戦で勝つ見通しも無く一直線にWW2へと突入した。

3)、近代化に出遅れた日本には特に「石油資源」を確保する事が難しく、軍備による「国防・安全保障」の実力を持つ軍人が日本の運命を担わされたが日本海海戦のように「勝つ」事は続けられず、経済的な勝ち目は次第に希薄化して行った。

4)、WW2への突入について軍人に責任を負わせる論調が多くみられますが、はたしてそうでしょうか?。「経済人」を育て、「石油資源」を獲得する能力を持つ人材を育てなかった日本国(日本民族)そのものにWW2突入の責任があると思います。

5)、新渡戸稲造が国際連盟事務次長に就き、フィンランド紛争の調停や「武士道」の英語版を著わすなどで日本の国際的評判は高まっていたにもかかわらず肝心の日本人は本国で「武士道」を変質させました。「死ぬこと」だけを強調し「負け」る場合もあり得る事を考えなくなった。
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(所見)
以上の理由により、過激軍人の暴走を止める手立てはなかった、行き着くところまで行く(負け切る(徹底的に負かされて出直す))必要があった。

その他のことは見識を深めた上で書き足して行きます。
〜〜〜〜〜〜〜以上は挿話14 過激軍人の台頭は防げたか??でした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

大恐慌 1929年(昭和 4)10月24日発生〜1935年(昭和 10) 頃終息〔6年間〕世界経済恐慌(大恐慌)起こる、★★★ニューヨーク・ウオール街の株価大暴落、毎日新聞の後日記事(2016,7,1)を挿入★★★
原因を一言で言うならば「物資の供給過剰と流通調整計画力の欠如」、WW1 直後から富がアメリカに集中(狂乱の20年代、これはのちのWW2 直後のアメリカと同じです)通貨が泡のように増殖して突然破裂(バブルの崩壊)自由主義経済市場が機能しなくなった。有効な解決手段が見つからず、再び戦争(WW2)をして戦争特需を引き起こす以外の方法を人類はみつけることが出来なかった。
私の寸考はここにあります

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新聞記事 戦争の世紀研究[15]大恐慌
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
【満州事変 2016,7,29 毎日新聞解説記事、「戦争の世紀[16]」へとつなぎます】

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新聞記事 戦争の世紀研究[16]満州事件
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ

戦争の世紀研究[15]大恐慌に登場する文言一覧 
★1、アメリカ景気狂騒の20年代、
★2、ドイツ賠償金支払いにアメリカが援助
、ドイツへの賠償金は天文学的数値、
、仏英がドイツから奪いアメリカに返換したお金は天文学的学的なので
★3、ケインズの「ドーズ案」採用、
★4、大国ドイツは復興し始めた、
★5、直後にバブルの崩壊株価の大暴落、
★6、大恐慌発生、恐慌のひどさはドイツが抜きんでてひどかった(アメリカは大恐慌発生後はヨーロッパとのかかわりを絶ち、極端な保護貿易主義を取った、儲けるだけ儲けたあとは自国貿易圏内にとどまり大国としての責任から逃げた)、
★7、1932年末には世界の失業者は5000万人、
★8、大国は相次いで金本位制をやめて「通貨ブロック方式(帝国主義経済圏)」、
★9、「金(キン)」という国際経済流通基盤は失われた、
★10、人類は大恐慌を終わらせるために「WW2を起こした」、
★11、大軍備支出が経済の均衡を保ったのである、
★12、大恐慌の終焉に最も功績があったのはヒトラーである。
森本註1 : ソ連は1922,12 の ソ連邦建国 の時に世界金融市場から脱落したので世界経済恐慌には巻き込まれず、共産主義経済圏の下に重工業に励み、WW2 へ向け実力をつけていた。
森本註2 : 日本はシベリア出兵をソ連邦成立まで(1922)続けて富を失い(アメリカは 1920 で引き上げていた)、関東大震災(1923)でも富を失い、世界大恐慌解決に参加できなかった、金本位制経済で参加しようとしたが外交的に適期を逃し、金は直ちに諸外国に吸い取られた。
森本註3 : 日本は特産品だった 生糸(絹糸、贅沢品) が売れず、ほかに有力な販売物資が無かったので大恐慌に巻き込まれた。貧しい人々は娘を売ったり、満州国建国(1932,3)に協力するため中国東北部に移住する人が多かった。   
 


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上図の通りの 「経済好循環」 は1925年 頃が絶頂期で、その後は物資が余りはじめ、1929頃にはヨーロッパが生産力を回復した、 WW1 で発達した兵器生産技術が優秀な産業機械の大規模大量生産、食品の冷凍保存法の普及等の影響で、物資の価格は大暴落し、世界規模のデフレーションに陥った。

アメリカが対策(ニューディール政策、フランクリン ルーズベルト、[新規まき直し政策]Wikipedia)を打ち出したのは 1933年7月〜1943年 、対応が遅すぎました

ニューディール政策はアメリカの経済回復にはあまり貢献せず、実際的に効果があったのは 「真珠湾攻撃への復讐心」 を抱いて WW2 に参加(1941,12〜1945,8 の大東亜戦争)した事であるとの説が有力です。

大恐慌前後の、アメリカ庶民の 「大失業時代」 を生き抜く生活を知るうえで、「怒りの葡萄」 という映画が参考になります 

戦争の世紀研究[16]満州事件に登場する文言一覧 
★1、大恐慌の影響は世界に及んだ、
★2、イギリスは金本位制を停止し、
★3アメリカもアメリカ大陸経済圏を構築した、
★4、フランス、ベルギー、オランダもひとつの経済圏を構築した、
★5、ドイツは中央「ヨーロッパからバルカン半島方面に一つの経済圏を構築、
★6、日本は「東亜ブロック群」の構築を目指した、
★7、ソ連は共産主義の全体・平等主義により第1次5か年計画、や農業の集団化に成功し自信を強めた、
★8、ソ連はスターリン主義によって「権力の集中と非常事態的体制の常備に成功、
★9、満州事変勃発、日本は経済圏を広げるためになりふり構わず 「満州国」 を作った、しかし、寒冷地のため土地の農業生産性は悪く、石油も出なかったので経済圏自立度は低かったと推定することが出来ます(森本)。
★10、アメリカは中国に於いては影響力は無く「我が国にも中国の領土を分けてほしい」、
★11、日本は、満州地方は民族自決理論に従えば「満州人(モンゴル・蒙古系)」として独立すべきであるとの原則論を掲げていた。清朝の政権担当者は モンゴル・蒙古系 だが支配されている民族は「中原に古来住む『漢民族』」で孫文の革命以降は漢民族の国となっている。したがって満州人(モンゴル・蒙古系)は独立すべきであり、この独立に日本は協力すべきであると主張、
★12、満州には有力な統率者が居ないので独立国が必要と主張し強引に中国から分離して「満州国」を創出、
★13、日本のような後発の帝国主義国は生き延びるための経済ブロックが必要で、
★14、日本、ドイツ、イタリアは世界再分割を行動で示した、
★15、各国の目が「東アジア」からはなれている間に、日本軍は軍事的侵略を開始した、
★16、ドイツもヒトラーが権力を選挙によって獲得し全権委任法(授権法)で個人のいかなる種類の野望も通す道を開いた、イタリアのムソリーニもエチオピア侵攻に公然と舵を切った、
★17、日独伊の現状変更勢力の伸長によりWW1以降試行錯誤を重ねて維持されてきた国際秩序に強烈な遠心力が作用し始めた
 


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満州国の経済 Wikipedia より抽出
1931年には、日本国内の天然資源の総生産額は2億8300万円だった。不足分は海外(主として満州国となる予定の国 [1932建国 ] と思われる、森本)からの輸入を行っており、それが2億2200万円だったことから、日本の自給率は約60% (28/[28+22]=28/50=0.56≒0.6=60% ) といえる。

従って天然資源の生産分野で満州国が貢献した割合は日本国総生産額の約40%(100−60=40)と思われる、建国直後の満州国(1932〜1937)は日本にとって頼りがいのある国だったと思われる(自給自足していた上に日本に輸出までしていた)。

しかし、1937年に日中戦争が勃発したため、4月から始まった計画は鉱工業生産を中心に投資予定は大幅に増額修正され、約50億円(2.2億⇒50億)となった。満州国の自給自足経済の確立も困難となり、日本への原材料供給基地としての意味合いが強くなった。
 

1930年10月 2日(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約(第1次世界大戦,WW1のような悲劇再発防止が狙いだった)、日本も批准したが、第1次世界大戦,WW1での被害が無かった日本には「軍縮」の必要性についての認識が薄かった。欧米側としては資源弱小国日本に破格の優遇をしたが日本海軍は不満を持った。海軍の神様的存在だった東郷平八郎元帥が政党内閣を信用しなくなる。それまで政党内閣との協調を基本としてきた海軍の反発が、その後の五・一五事件などを生む。1935年12月に第2回の会議が開催されたが、日本は翌1936年1月15日に脱退し、軍縮時代(第1次世界大戦,WW1のような悲劇再発防止を計画する時代)は終わった。[wikipedia]。
【n1930年11月(昭和5)、日本、濱口雄幸(おさち)首相暗殺未遂事件(翌年死亡)、於、東京駅。濱口の実験的文民統制手法(軍部の国防策は「狭義の国防」、濱口の国防策は「広義の国防策」、「広義」には軍事力も、外交力(友好親善力)も経済力 も含むとして軍事力にこだわる軍部を論破する手法)に反発した民間人(右翼)による至近距離からの銃撃を受けるも一命は取り留めたが1年後にその傷が悪化して死去。以後、海軍の暴走事件(1932,5,15)陸軍の暴走事件(1936,2,26)を経て、第1次世界大戦,WW1の悲劇を実体験していない日本人は同じ悲劇(第2次世界大戦,WW2)へとまっしぐらに突き進んでいった。当時のマスコミ(国民新聞の徳冨蘇峰)も戦争への強力な先導者だった。
1931年8月、中国の大水害、中共国、当時の中国の首都だった南京市に壊滅的被害を与えた長江と淮河の大洪水が発生している。この大洪水では、水害の他に水媒介による伝染病も発生したため、数十万人から数百万人が死亡、20世紀最悪の自然災害とされている
(中国側の調査では死亡者数は約14万人、欧米側の調査では約400万人と、情報にばらつきがある)

中国では現在も、記録を塗り替えるような大洪水が発生し続けている。Wikipwdia より引用。
【n1931年9月18日(昭和6)満州事変、中国の満州で、柳条湖事件(於奉天、現在の瀋陽)、日本軍が日本の敷設した鉄道線路を自ら爆破し犯人を中華民国軍(国民党軍)とした事件。

nc1931年(昭和6)10月8日、日本軍が中国、錦州市(キンシュウ)空爆、世界史上最初の空爆(ゲルニカ空爆 1937 よりも早い、加害規模はゲルニカよりも小さい)
満州事変開始直後の1931年(昭和6)10月8日、日本軍は全満州(中国東北部)の占領を目指して、熱河省錦州市(キンシュウ)を空爆しました。目的は大東亜共栄圏構想に反対する軍閥達への攻撃。軍閥達はあくまで日本に抵抗し匪賊(食料や日用品を掠奪する集団)となって民衆から嫌われていた。一方で、清国の支配者だった満州族は元皇帝の子孫(宣統帝)を国王として迎え入れ、日本の援助で「満州国」を建国した。

なお、日本国天皇は軍部に「熱河省には入らないように、条約(国際連盟)に違反する恐れがあるので」と注意を促していたにも関わらず、空爆まで行なったことは「軍部の暴走」と後日言われても軍部には変す言葉もなかったと思われます。

      中国地方の過去・現在周辺図はここ
1932年2月、日本陸軍、爆弾3勇士、第一次上海事変中、3人が爆発筒を抱えて敵の鉄条網を爆破、自らも死ぬ。一種の特攻だったが、非常に危険性が高いものの救う手段は考えられており、後に行われたような確実な死を前提とした作戦ではなかった(Wikipedia)。
1944年頃からは死を前提として海軍と歩調を合わせた「特攻」が行なわれた。
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【n1932年3月1日(昭和7)満州国建国日本、満州国建国宣言、革命で清国皇帝はふるさとの南満州に逃れていた、日本の援助により創った国の治安は良く、内戦の続く中原(中国の中心地方、数十の軍閥[多くはならず者の集団、暴力団のような])から難を逃れて多くの人々(100万人)が流入した、日本からも 農業移民(満蒙開拓団) が、長野県、新潟県、東北地方、沖縄県等の地方から27万人(このうち2603人が沖縄人、毎日新聞記事 2014,2,10)が移住し繁栄したが日本がアメリカに戦争で負けたために国は消滅した(13年間の存在だった)。
満州国および現在(2014年)行政区画、戦争要衝図はここ。  満州国経済はここ


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1915,1 南満州及び東部内蒙古 の画像はここ
「満蒙」と言う場合「満」「南満州」を意味する。
上の図面は Yahoo japan ヤフー智恵袋より孫引き
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1185751736
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「満蒙の危機」についての質疑応答、2012/4/16 samantha181212さん質問、ousinkeiさん回答 でousinkeiさんが紹介した加藤陽子氏の説 「斜線部分は 南満州」「2重斜線部分は 東部内蒙古
加藤陽子著、『満州事変から日中戦争へ』(岩波新書)

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1945,8 満州国の鉄道路線
はここにありましたが、現在はここにあります

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*検索文言一覧表はここ
<以下、〜〜〜〜鉄道功罪物語 松村金助著 昭和4年刊 第4編 満州鉄道の諸問題 から引用〜〜〜〜>
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/matumura.htm

日清戦争に勝って日本は、朝鮮と台湾と遼東半島を手に入れました。
 しかし独仏露の圧力で遼東半島を中国(清朝)に返還しました。
 逆にロシアはシベリア鉄道につながる満州里−ハルピン−長春−遼東半島の旅順港までの東清鉄道を完成させ、遼東半島を手に入れました。註 : 鉄道の呼称は主権交代に応じてコロコロと変わっている。この図での「満鉄」は「南満州鉄道」を意味する。

 ロシアが日本へ進出してくるのを恐れた日本は、日露戦争をしかけ勝利を収め、遼東半島(関東州)を取り返し、ロシアの東清鉄道の長春以南を手に入れました。

 その他、樺太(サハリン)の南半分と千島列島全部を手に入れました。
 その後20年近く日本が満鉄を運営した昭和4年に、松村金助は”鉄道功罪物語”を出筆しました。
 その中の第4編”満州鉄道の諸問題”を以下に掲載します。

 この時代は世界の激動期で、ロマノフ王朝がロシア革命で、清朝が辛亥革命で滅び、西欧では第1次世界大戦でドイツが敗れました。

 そして日本では関東軍の独走で満州事変が起こり、さらに満州国を建国し長春(新京)以北の東清鉄道を日本が手にいれました。
<以上〜〜〜〜鉄道功罪物語 松村金助著 昭和4年刊 第4編 満州鉄道の諸問題 からの引用です〜〜〜〜>

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【n1932年5月(昭和7)、日本、五・一五事件。武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。クーデターというよりは「暗殺」、使われた武器は「拳銃」、犬養は満州国建国等大陸進出政策に反対していた。
【n1932年9月(昭和7)(リットン調査団報告概要、簡単に言えば、「実業は認めるが政治支配権は国際連盟にある」)
1)、もと不毛の荒野であった(北)満州の住人の大半がいまや支那人でありこれは日本の地域経営の成果である。
2)、支那中央政府の権力が極めて微弱であり日本人が保護されていないが、柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
3)、満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。
4)、(北)満洲は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担うべきである。
以上は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%9B%A3,Wikipedia による。
【n1933年1月10日、(昭和8) 、日本、熱河省を含む概念図(手書き)へ侵略、制圧。国際連盟が満州国(北満州地方)の非武装地帯化へと日本に調停案を出している最中のこの侵略は国際連盟を怒らせた。(加藤陽子氏はここで日本は進路を間違えた(中国大陸侵略の開始)と述べています、於「それでも日本人は『戦争』を選んだ」朝日出版 が、私はこの考えに同感します、天皇も一度出した熱河入り承諾を取り消すよう命じていたと言われています)
1933年1月ドイツ、ヒトラー首相となる(国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)党首)
ナチスの語源について
National「国民という意味」 の Nati(ナチ)が語源。政党は個人の集まりなので 複数の Natis (ナチス) とされた。
 
1月30日 パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は、周囲に説得されてクルト・フォン・シュライヒャーに代わってアドルフ・ヒトラーを首相に任命
【n1933年3月(昭和8年)、日本、国際連盟脱退。理由は満州国建国承認決議案で42対1で負けたため、日本代表団は議場を退場した。国際連盟創設提唱国の アメリカ が連盟に参加しない状況下で 新渡戸稲造等が連盟に尽くしてきたにも関わらず、国際社会は日本に冷たく、アメリカに暖かい態度(特に中華民国、イギリス)を取っていることへの抗議の意思を示したものと思われる。
1933年7月〜43年、アメリカ ニューディール政策実施
ニューディールの語源は New Deal ( 新しく物を分け与える )、行政が民間産業に介入、経済を社会主義化するという意味
テネシー川流域開発公社などによる公共事業
民間資源保存局による大規模雇用
全国産業復興法による労働時間の短縮や賃金の確保
農業調整法による生産量の調整
全国労働関係法による労働者の権利拡大
               Wikipedia より抽出
 
ニューディール政策実施中に真珠湾攻撃(1941,12)を日本から受け、アメリカ中に日本への復讐心が満ち溢れる、日本と提携しているドイツへの攻撃という名目で WW2 のヨーロッパ戦線へも参加、この WW2戦線参加こそが大恐慌で破綻していたアメリカ経済を復興させ、以後はイギリスと手を組んで世界の覇権を握る。付き合いを避けていた ソ連 とも手を組んた。
1933年10月ドイツ、国際連盟脱退。理由は軍備平等権が認められ無い事、国民投票で脱退の是非を問うたところ 「95%が 是 だった」 事。
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国際連盟は、アメリカの最初からの不参加、日本・ドイツの脱退 によって 「集団安全保障の 空白 」が生じた。
この 空白 を埋めたのは ソ連 だった。ソ連は 世界恐慌 に巻き込まれず(共産主義政治体制が成功、恐慌の前年 1828 から 2回 にわたる 重工業5ヵ年計画 を成功させていた)
農業の5ヵ年計画は失敗(獲得形質は遺伝する というルイセンコ学説を信じたため農業集団化政策は失敗、大規模な飢饉が起きた)、
註 : この学説は 「努力した結果は報われる」 という共産主義政治思想に合致するため 中国 や 北朝鮮 でも行われて失敗し 多くの餓死者を出した。

重工業で軍備を充実させた ソ連 は 「唯一の共産主義大国」 として 国際政治を動かす地位を得た。ほんの 5年間 だけではあったが(1934-1839)国際連盟に加盟し、WW2 での 米ソ協力 の基礎を作った。
 
北満州から中国中原(中心部)へと、日本の侵略を知るための挿入文
大日本帝国の「満州の権益」とは、具体的にどのような権益だったのですか? Yahoo japan 智恵袋  ayumasa319さん 2011/4/219:29:06

ベストアンサーに選ばれた回答
k1_121さん 2011/4/512:45:02 日清戦争に勝利した日本だったが、三国干渉(ロシア、ドイツ、フランス)により取り上げられた満州の地は、その後ロシアが支配(中国から租借という形で)していた。そのロシアとも戦いこれを辛うじて破り(日露戦争明治37年(1904))、戦争の賠償として、その支配権が日本に移った。更に、中国に以前ドイツが持っていた権益を継承した(大正3→4年(1914→1915)第一次世界大戦でドイツ降伏(1918))このとき(1915)に日本は中国(大統領・袁世凱)に二十一ヶ条にわたる要求を突きつけ(要求は受け入れられ)た。

「満州の権益」とは、具体的に次の事を言います。
1)、山東省にドイツが持っていた権益は全て日本が受け継ぐ。
2)、南満州・東部内蒙古を日本の植民地のように扱うことを認める。
3)、中国沿岸の港や島などを、外国に与えたり貸したりしない。
4)、中国警察に多くの日本人警察を雇うなど、

これらの下で、南満州などには毎年日本人が1千人〜1万人近くが農業や工業で従事するために大陸に渡った。そこで遼東半島や南満州鉄道を守るために日本からは軍隊が派遣され駐留した、これが関東軍

このように日本が実行支配した経緯があり、日本側としては日清戦争&日露戦争(第一次世界大戦で中国駐留ドイツ軍とも戦ったが)での幾多の尊父たちの尊い血が流された結果の果てに得た満州(南満州)の地はいわば聖地であったのです。

森本の註
「満州の権益」と聞くと「満州地方全体に及ぶ権益」のように聞こえますが、実は南満州・東部内蒙古だけです。従って「満州国」を作るために「南満州」で旧日本軍が行なった下記の 爆殺・爆破行為等は「侵略」に当たります。

「北満州」は次の通りの経過で「満州国」に編入されました、これをきっかけに日本は中国中原(中心部)地方へと侵攻しました。
1)、1928,6 張作霖爆殺(於奉天、現在の 瀋陽)
2)、1931,9 柳条湖鉄道爆破事件(於奉天、現在の 瀋陽)
3)、1932,3 満州国建国(清国皇帝の先祖は南満州地方の豪族(ヌルハチ)であり、辛亥革命で殺されそうになった、旧清国皇帝一族は身の危険を避けるためにこの地に来ていた、その元皇帝を国王として新しい国が作られたが リットン調査団は「独立国では無い、日本が操縦する国」との報告書を国際連盟に提出した)、リットン調査団は 南満州・東部内蒙古 における日本の権益の行使は認めていた。北満州については「国際連盟が特別な 治安維持 を計画していた」 
4)、1933,1 熱河省へ侵攻国際連盟が北満州における匪賊の無法行動解決に努めている最中に日本は「自然の流れ」と言う感覚しか持たずに熱河省に戦争を仕掛けた(錦州空爆 1931,10)、この行為は日本が考えている程度を遥かに超えた重大な「連盟規約違反行為」であり、日本はこれ以後「全ての連盟国の敵」と見なされた。
5)、1937,7 盧溝橋事件">で中国中原(中心部)へと侵略開始(日中戦争)
中国地方の戦争時間空間鳥観図はここにあります

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1934年、ソ連 国際連盟に加入、以後国際連盟に加入していた、しかし、 1939 フィンランド「ソ連に侵略された」と提訴、これにより除名された
【n1935年(昭和10年)、日本、湯川秀樹、核力の発見、(物質界の第3の力)アインシュタインの理論に具体性を与えた
【n1935年(昭和10年)10月5日、日本、国体明徴(メイチョウ)声明」、皇道派思想を掲げる 政友会・軍部・右翼 が一体となって当時の内閣を脅迫しこの声明(日本国民は今後、天皇は「神の代理人」であるとの信仰を持たせなければならないとの声明)を出させました。この声明を日本国民は信じました。一般の日本人は「天皇=神」と信じて国、大東亜戦争に向かって走り出す精神的よりどころとしたのです。

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それまで常識とされていた「天皇機関説」が完全に否定された。「大日本帝国憲法」が解釈次第で 「戦争奨励憲法」 へと化けたのです。
天皇機関説を確信していた昭和天皇は当時この事に関連して次の通り述べました「私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういう事を言われては迷惑だ」と、昭和天皇は「国体明徴(メイチョウ)運動」には批判的でした、しかし、軍人・右翼勢力による国民啓蒙の力には抗しきれませんでした。それほどまでに(意識が正気を失うほどまでに)日本は国際社会から孤立していました)昭和天皇のこの気持は
「土光俊夫『改革と共生』の精神を歩く」
http://webheibon.jp/dokotoshio/2012/07/post-3.htmlより引用しました。
昭和天皇はWW2終戦直後(1946,1,1)「人間宣言」をし、全国を巡って、国民の意識の正常化に務めました。
........................................................................

.........................(以下は日本国民の政治信条に関する私の意見です)..........................
「現時点での権力多数派の意見のみが正しい」という情緒的なあなた任せ信条すなわち、昔も今も、日本国民の政治的弱点は「政治は権威者まかせ、長いものには巻かれろ」です。結果が悪く出れば権力多数派だった者達の責任を問い、自分自身の個人としての責任は問いません。結果が良く出れば自分をほめます。
.........................(以上は日本国民の政治信条に関する私の意見です)..........................



経済大恐慌に関する寸考
大恐慌はこのころ(1935)には終息に向かっていました。

ドイツのヒトラーやイタリアのムソリーニが世界規模帝国主義戦争の準備を始めたのです、やがて WW2 が起き、戦争特需景気が経済恐慌を一時的には終わらせたからですが、WW2がもたらした 死者の多さ や 大規模環境破壊、世界規模での人心の荒廃 は大恐慌前よりも甚だしい状況が続き、現在(2017年)では地球規模での 「総合的荒廃」 が起きており、次に世界規模大戦(WW3)があれば 「戦争特需どころか人類滅亡」 が懸念されます。

国々は互いの政治利害を調整すべく 「外交」 に必死の努力を重ねています。もはや「帝国主義」 で領土を増やそうとしても地球上にはフロンティア (未開発地域、新天地) はありませんので人類にとって、経済的な活気 を政治目標とする事が出来ないのです。

では何を? と問うならば、その答えは、日本史で言えば 「江戸時代」 のような 「自給自足・質素倹約・同じ生活水準の暮らし」 を目指すのが良いのだと思います、そこまで考えを進めるまでには以下に書き留める通りの 「帝国主義経済」 という経済信仰が人類を導きました。アメリカ型帝国主義 も ソ連型帝国主義 も行き詰って人々は過剰に備蓄した武器の膨大な量におびえています。
 

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1935年10月、イタリアと第2次エチオピア戦争〜36、エチオピア負けイタリア、ムッソリーニの植民地化。
【n1936年 1月15日(昭和11)、日本、ロンドン軍縮会議脱退、世界の軍縮志向時代は終わった。
1936年7月、第二共和政期のスペインで内戦勃発。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した、ドイツはゲルニカ空爆 1937,4,26(世界最初の空爆)を実行した。ヘミングウエイ等文化人達の参戦と敗北、ヘミングウェイは 「誰(た)が為に鐘は鳴る」 という小説でナチズム・ファシズム阻止への無力感を表現しています。
ヘミングウエイ等文化人達( 国際旅団  [イギリスやアメリカなど各国の義勇兵] ) はちょうどゲルニカ空爆の頃に実際に内戦に参加していました、その時の体験を小説として著わしたのが 「誰(た)が為に鐘は鳴る」 です、その映画をここに載せています。人類がWW2へとのめり込んでゆく初期の欧州戦乱はスペインで起きていたのです 
スペイン独裁者フランシスコ・フランコのその後
WW2戦中は 日・独・伊 寄りの中立、WW2戦後しばらくは、国連に入れてもらえなかった、日和見の態度をアメリカに非難されたため。1953年アメリカの怒りが日時と共に薄まり、米西防衛協定締結、経済力回復、しかし、右派独裁政権は続ける、1969年王政復古を遺言し、83歳で没する、スペインではその後、王政(フランス系・ブルボン朝)が現在(2017)でも続いている、国名は「スペイン王国」。  Wikipedia の要約
 

1936年10月、ベルリン=ローマ枢軸の結成。
【n1936年(昭和11年)、日本、2・26事件(11,2,26 事件)、大日本帝国陸軍青年将校が1483名の兵を率い“昭和維新”と称して政府中枢を襲ったクーデター事件。大蔵大臣、内大臣、陸軍教育総監、陸軍大佐(総理大臣と間違えられた)、侍従長(負傷)、らを暗殺、体制転換・権力奪取を狙った。以後日本の軍部の政治介入力強まり、大東亜戦争へとつながる軍国主義の流れを誰も止める事が出来なかった。
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【n1936年11月(昭和11) 、日独防共協定。 。
1937年4月26日ドイツ、ゲルニカ空爆 (世界最初の空爆)を実行した(経緯は上記[1936,7 スペイン内戦]の通り)。

1937年(昭和12)以降戦後復興開始 (1956 昭 31) に至るまで、石橋湛山(いしばしたんざん)、小国主義、頭脳中心、人間中心の政治理念、戦後日本再建に貢献
映画 「墨東異端」 の時代背景の始まりはこのころで、終わりは1952年頃 


      中国地方の過去・現在周辺図はここ
nc1937年(昭12)7月7日〜1945年(昭45)8月15日日中戦争蒋介石軍(国民党)と毛沢東軍(共産党)の内戦の中に日本軍が参入、日本軍の目的は中国大陸における既得権益(上海租界、台湾とその対岸一帯)を足掛かりに、中国大陸地方を大東亜共栄圏内部に取り込む事盧溝橋事件(於北京市南西地域)、が発端、夜間に紛れて毛沢東軍が日本軍宿営地に発砲、日本軍はてっきり蒋介石軍からのものと勘違いした。中国共産党が漁夫の利(日本軍と国民党軍とを戦わせて共産党は損害を出さない)を得るためだった。日本軍は蒋介石軍と毛沢東軍によって広い中国大陸地方をあちこちと引きずり回されて、初期の目的である「大東亜共栄圏構想」を踏みつぶされていった、英米からの多額の援助を背景にした蒋介石と、ソ連からの指示に従った毛沢東の断続的 協調・離反 行動は日本軍の勢いを衰弱させていった。

1937,7,7 於北京市盧溝橋、日本軍は夜間演習中に何者かからしつこい銃撃を受けつづける、日本軍はこの銃撃を国民党軍(蒋介石軍)からのものと思い込んだ、実態は、毛沢東軍からの攻撃だった。毛沢東軍の攻撃の目的は、蒋介石軍と日本軍とを戦わせて双方の戦力衰弱・自軍の安泰。

以後日本軍は広い中国での内戦(国民党軍×共産党軍)に巻き込まれて憎まれ役として利用された、後日2回の国共合作(共産主導の両軍協調 [国民が共産に操り人形化される形で 譲歩・協調])で、逐次 内戦停止・協力して日本に敵対した。

日本軍には現在の中国政府(中華人民共和国政府[中共国])が言うような残虐行為は皆無と言ってよいほどに無く、ほぼすべての残虐行為は中国人同士の戦いで行なわれたという説が現在では有力、中国軍(国民党軍と共産党軍)の行なった 略奪・虐殺は 中国語で 「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼ばれていた。「軍」が通った後には 「戮民」(りくみん)の残骸が散乱していたとされている。これらの「戮民」(りくみん)行為はすべて日本軍が行ったという宣伝工作が両軍共同で大々的に宣伝されたので日本軍は宣伝戦に負けたのです。
宣伝戦は、2020年現在(江沢民主席)民衆の不満エネルギーを日本へと向けるることによって内乱を防ぐ政治技術として使われている。
日中戦争の戦場実態は、次のとおりでした、国民党軍が先ず通り、次に共産党軍が通過した地域は二重に 略奪・破壊・強姦・虐殺 を受けて荒れ果て、そこに日本軍がやってくる、「民衆は日本軍に助けを求めて集まってくる」 という状態が続いた、国民党軍と共産党軍 は「軍隊隊列」と「軍服」は外見上日本軍と似ていたが、その内実は 「軍人」 というよりは 「ならず者」 だった。軍律はあいまいで、日本軍との合戦で不利を悟った指揮官は部下を放置してひたすら逃げた。部下を伴えば「食べさせねば」ならないから。

日本軍が残虐行為を行ったとする一般中国人の証言は、「軍服が似ていた」 ことにが原因。「ならず者」たちは「軍服姿」で指揮官を追いかけていれば「飢え死に」は免れるので逃げる「指揮官」のあとを必死で追いかけた、この現象が最も鮮明な形で見られたのが南京城落城直後の大人数溺死事件(於、長江渡河時) です。「指揮官達」が大船で渡河した後を追って 「ならず者」 たちが残された 「小舟」 に殺到し小船の相次ぐ転覆によって大人数溺死事件が起きたのです。  
以後、今日までの日中関係概略表
1945年この戦争は日本の WW2 敗戦によって中国内戦へと変質、内戦は
1949年で中国共産党軍が勝った。しかし国連代表権は中華民国が保持したまま文化大革命(1966〜1977)が起き、国土は再び乱れた。
1971年に国連代表権を中華人民共和国が奪ったが、まだ革命中だった(文化大革命、失脚していた毛沢東の一発逆転の権力闘争)。革命中日中共同声明(1972年)で一息ついたが、革命が収まったのは
1977年だった。その後も国内は落ち着かなかったが
1978年すかさず、日中平和友好条約。以後数年間は、高倉健、中野良子、芹洋子 など日本の芸能人が大人気を博する。
1983年胡耀邦 来日し日中友好ムードを高めるが、1987年失脚
1989年の第2次天安門事件(100万単位の反体制若者を殺したとされる)後 ケ小平 の 法治ではなく「人治」 (人民解放軍総司令官の地位を利用した個人による支配) 政策(クーデター)により落ち着きを見せ始め、
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1992年(平成4年)日本の平成天皇を招待して第2次天安門事件の国際的悪評を薄めようとした。しかし日本との友好ムードが継続していたため、日本の豊かさを知って 国民の貧困不満 は高まっていた。
1993年、ケ小平の弟子の江沢民(コウタクミン)が国家主席となるや否や極端な 反日政策を実施、 国民の貧困不満 のエネルギーを 「日本の過去の侵略を憎ませる」「日本のかつての悪行を懲らしめたのは共産党である」 との一大宣伝事業を行ない、日本との友好ムードは極端な速さで 「日本憎悪」 へと向かった。余りにも極端な対日政策の転換に日中両国民は不本意ながら互いに 「嫌い」 にさせられ、今日(2017年)においても「日本鬼子」映画が朝から晩まで上映され、国の隅々まで日本を憎ませる映画が上映されている。思うに、またもや平成天皇の使い捨てが行われたのです。
1997年2月19日、ケ小平  死去(92歳)
1998年、長江周辺大水害(100年に1度の大きさ)江沢民(コウタクミン)は国家主席として兵士13万人を投入自己の権威を高めるために水害を利用した。  
★、共産党一党独裁政治の頂点に ケ小平 が座るという政治原型(一人物の独裁政治)は、国家主席が誰に替わっても同じで、現在(2020年)も続いている(習近平、2期目、7年間在任中)
 
日中戦争とは実は、日本軍と国民党軍との戦いだった、共産党軍は補助的な役割を演じたに過ぎない。

日本軍には戦(いくさ)の大義名分すなわちアジア地域に主権国同士の共栄圏を作ること がありました、しかし、「中華思想のもとに数千年の間極めて高い誇り(プライド)を持ってきた両軍(国民党軍 [蒋介石] ・共産党 [毛沢東] )」は日本が共栄圏の盟主となることを拒否した。「日本軍を中国大陸から追い払う事」だけを目的に戦(いくさ)をしているうちに白人からの莫大な援助(蒋介石は米英から食料・最新兵器、毛沢東はスターリンから共産革命指令)を受けてでも勝つという白人隷属状態に陥り、日本軍が無条件降伏(1945)した後は、両軍は主導権を巡って内戦した(〜1949)、中国本土の大規模破壊・大量虐殺 の罪はすべて日本軍に着せつつ戦(いくさ)をする姿は醜いものでした(註: この部分の文責は 森本 にあります)
イギリスBBCの中国ネット記者が国民党軍元行政院長のカクハクソン氏のインタビュー記事で次の事が判明している、(2015,7,9 毎日新聞、木語 より引用)

国民党軍の担当した正面戦場が95%共産党軍の敵後戦場が5%だった」「敵後とは日本軍の背後に回っておこなったゲリラ活動の事を意味する、共産党軍は正面戦をしておらず、わずかのゲリラ部隊が手投げ弾を投げたに過ぎない

では、何故「国共内戦」では共産党軍が勝ってしまったのか? 私は次の通りに思います、第1理由は、毛沢東は内戦の節目節目に共産主義独裁者スターリンの指図を受けていた事。その第2理由は、第2次国共合作のあったとき、蒋介石は捕えられて毛沢東の前に引き据えられ、日本軍と正面戦を行うのは国民党軍(蒋介石軍)とするとの約束のもとに命を助けられた事。
拉致監禁された蒋介石
西安事件(せいあんじけん)は、1936年(民国25年)12月12日に中華民国西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石拉致監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる

兵力・軍事技術共に遥かに優れていた国民党軍が内戦に負けた理由の直接原因は「黄河堤防爆破による農民約100万人死亡」によって人民の恨みを買った為であると思います。国民党軍は日本軍に勝つために黄河堤防を爆破(1938,6,9)、人為的な大洪水を引き起こし400万人の避難民を出し100万人もの死者を出したのです、この事によって民意は、恨みのため、国民党軍を離れ共産党軍の方に付き、その雰囲気を敏感に感じ取って ケ小平人民解放軍司令官は連勝を続けることが出来たのだと思います。

1937年8月、中ソ不可侵条約。

1937年9月、中国、第2次国共合作。蒋介石は暴徒にとらえられ、毛沢東の前に引き出された、この時以降蒋介石の序列は ソ連のスターリン ⇒ 毛沢東 ⇒ 蒋介石 となり、最も困難の多い前線(日本軍との戦闘現場)で正面から戦うことを強いられた。ゆとりの生まれた毛沢東はソ連からの援助を受けながら兵士の戦闘意欲と戦闘技術を高めていき、次第に諸軍閥も毛沢東に従うようになった。
【n1937年11月6日(昭和12)、日独伊三国防共協定。
nc日本軍が南京城攻略1937年12月(昭和12)【現中共国が主張する日本軍による大虐殺は無く、城門突破の激戦で双方に死人が出た程度の戦況だった】、中国、日本軍が南京城攻略、中華民国軍(蒋介石)と日本軍、12月10日開始、正門は2重構造であることを知らなかった日本軍はかなり苦戦し、現場指揮官を戦死させている。12月13日終了。
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日本軍が入城した時には広い南京城内は シーンと静まりかえっており、火災はおろか死体の1体も無かったが荒れ果てていた。場内住民の家財や食料は蒋介石軍によって略奪されていた、日本軍は馬に乗って粛々と入城し、生き残っていた貧民の救命、インフラの整備、食料調達に力を費やした、今でいう PKO (戦後の平和維持軍)活動をしたのです。捕虜は貧民収容所の中に紛れ込んでいるのを発見したが皆逃がしてやった、彼らを養う分の食料は日本軍にはなかったから。

城門を突破されそうになり、戦況を不利と判断した蒋介石は副指揮官に戦闘の指揮を任せ、自分は城を脱出、長江(揚子江)を大型の船で対岸に渡り武漢へと逃亡、やがて副指揮官も城を脱出、この時、長江を対岸まで渡れるほどに大きな船はすべて持ち去るか破壊した。残った船達(小さい船達)には逃げ遅れた兵士が多数乗ったためほとんどの船は転覆し多くの死者を出した。なぜここまで兵士たちは蒋介石に従うのか? 

それは、軍隊についてゆけば「食べることが出来る」からであり、蒋介石は若い時に日本で下士官の勉強を少ししただけで、優れた戦闘指導者ではなく、したがって 「下級の兵士は日本軍と戦う」 ことをなるべく避けて、ただひたすらに蒋介石のあとについてゆきたがった、民衆のこの気持ちは、毛沢東に従った民衆も同じであり、「双方の軍隊共にいつバラバラな暴民衆団」と化すかわからないいわゆるならず者集団であり、暴力に秀でたものが少人数をひきつれ、「頭目」 となり「頭目」 の集まりが「軍隊」と称されていた、民衆は「頭目」たちが生き残るためにだけ利用されたため「下級の兵士」は住民たちに恐れられた。「下級の兵士」は軍隊に入っていれば「食っていける」という理由だけで蒋介石に従っていたのです。

日本軍人は規律正しく、目的を持った戦闘行為をしており、民衆の食料を徴発する時もその量に適切な限度を設け、「後で取りに来るように」 と言って 「預かり伝票」 を手渡して感謝の意を表明したので日本兵の周りには人が集まった。

12月13日(戦闘開始後4日目)に南京城陥落、中華人民共和国の学者の中には300万人の市民が虐殺されたとの説を述べる者もいる、しかし、当時の南京市の人口は20万人(ほとんどが内戦による虐殺から逃げて来た貧民達であり、富裕層はほとんどが前もって日本軍の撒いた攻撃予告ビラ見て、逃げ去っていた)。中国では実際と遠くかけ離れた 「宣伝・嘘」 を学者と言われる知識人でも行なう国民性があるのでこの国の「宣伝・嘘」には要注意です。

「嘘」について言及するならば、日本軍の虐殺とされる目撃証言は異常に生々しく事細かな点まで述べられています、なぜか、それは自分たち(蒋介石軍)が民間人を極端にむごたらしい方法で殺しており、むごたらしさの極端な例を沢山知っていたから。
南京虐殺この時、約2ヶ月弱の期間に日本軍が中華民国軍、共産党軍及び民間人を大虐殺(30万人あまり)したとされる説には多くの異議があがっている、

例えば、南京の人口は20万だった、当時南京には駐留外国人が多かったにも関わらず「虐殺」の報道は発信されていない、
最も多くの殺人は民間人に変装して逃げる中華民国軍兵士や共産党軍兵士を自軍が背後から大量に撃ち殺した「督戦隊」(とくせんたい)虐殺であったなど。

なお、2010年1月公表の「日中歴史共同研究報告書」によると、日本側研究者は「20万人を上限に、4万人、2万人」と推計し、中華人民共和国側は「30万人余」としている。
(註 : )アメリカが日本に落とした2発の核爆弾による死者(8月〜12月[4ヵ月])数は「21万人」、日本軍の通常兵器で4日間に「30万人余」もの数の人を殺す事は困難、なお東京大空襲での死者数は、累計で「10万人余」です。南京城争奪戦の4日間で使われた兵器は、質に於いては 「大砲・機関銃」 が最高の殺傷力を有しますが、たったの 4日間 で 30万人  を殺すことは不可能であることは明白です。この30万人大虐殺を理由に東京国際裁判では 松井石根大将 が絞首刑とされたことは今後の人類史の中での名誉回復作業を必要とします。 


ー・−・−・−・−<以下、挿入、南京城攻略についての覚え書き>ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−
1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に敗れた中国軍(蒋介石(総統)の率いる国民政府軍(後の中華民国軍))は撤退を始め(国民政府軍の精鋭部隊は上海から南京に続く約4ヶ月の戦闘で殆ど壊滅状態になり)、(南京へと)逃げる行きずりに堅壁清野作戦と称して、民家に押し入り、めぼしいものを略奪したうえで火を放ち、[要出典]当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。

日本軍は、撤退する中国軍の追撃を始めたが、兵站(補給,輸送,管理)が整わない、多分に無理のある進撃であった。蒋介石(総統)は12月7日に南京を脱出し、後を任された唐生智(総指揮官 )も12月12日に逃亡した
その際、兵を逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊(脱走兵の背中を銃撃する部隊)を置いていった[1]。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、日本軍は12月10日より総攻撃を開始。12月13日、南京城は陥落した、Wikipedia、(4日間で戦闘は終わった)。
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(私の意見)
1)、日本軍の「投降勧告」に中華民国軍が応じなかった事が最大の問題点です。
2)、指揮官の蒋介石(総統)が部下を見捨てて脱出した事が次に大きな問題点です。
3)、後を任された唐生智(総指揮官)も逃亡した事がその次の大問題です。

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(特別挿入文)2021年(令和3年)1月17日 YouTube 「参戦勇士九人が語る『南京事件』の真実」によれば、従来言われていた 南京城攻略時の死者数数について、「中国軍はこの市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した」「捕虜になった兵の数は 1万5百人」 とありますが、これは「嘘」です
http://kenjya.org/nankinkazu.html。
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4)、督戦隊の逃亡兵銃撃、狙撃で数万の中国兵が死んだものと思います、総統や総指揮官が逃亡するのですから兵達はわれ先にと逃げたと思います、民間人の服装で逃げる大勢の中国兵を督戦隊が殺したものと思います。
5)、「投降勧告」を冷静に受け止めるだけの「軍事組織」が存在せず、南京城内の兵は皆軍服を脱いで民間人の服装をしたゲリラ兵ばかりだったと思います。
6)、4日間の戦闘でゲリラ兵は戦死するか捕虜になったのであって、その後で日本軍が民間人を大量虐殺したと言う説は不自然です。
7)、当時の南京市の民間人の人口は20万人(金陵大学教授ルイス・S・C・スミス説)、中華民国の首都ですから鉄壁の城壁に囲まれた南京城には中国軍の虐殺・略奪を逃れて逃げ込んできた避難民が多く、富裕者はいち早く城外へと逃げていました。
8)、実際には日本軍が3日前にビラを撒いて、戦争するから市民は避難しなさいと通達していたから、ずいぶん多くの人が日本軍が来る前に逃げていた。(当時の南京の人口は90万、うち逃げたのが70万、日本軍が入城した時の人口は20万だった 金文学 http://kenjya.org/nankinkazu.html 。
9)、南京城攻略のおりに、欧米の宣教師が現地に居て苦労した揚げ句、安全区をつくり、10万人の無辜の市民を守ったことを誇らしげに記した手紙が、エール大学の神学校に残されているといわれる。それが事実なら、大虐殺などなかったということになる。松原仁 http://kenjya.org/nankinkazu.html。        
10)、中国人の学者が書いた資料を見ると、最初は犠牲者の数は300万だった。しかし、いくらなんでも300万じゃ多すぎるだろうということで、30万になったという。実際にそういう話が出てくる。金文学  http://kenjya.org/nankinkazu.html 
11)、南京市は中華民国の首都なのですから海外のジャーナリストも多かったはずです、市民の大虐殺があったのならいち早く報道したはずなのにもかかわらず、大虐殺報道は見当たりません。
12)、蒋介石には、アメリカ・イギリスから必要に応じて「軍資金・軍需物資」が届けられており、特に軍服は重要視されたと思われる、日本軍から見るといかにも軍人らしく見えたと言われていますが、戦闘意欲は低く戦況が不利になると軍服を脱ぎ捨てて平服に着替えてひたすら逃げたと言われている。アメリカ・イギリスは援蒋ルートという極秘道路を使って絶えず蒋介石を援助していた、その金額は莫大だったと言われている。蒋介石は東洋人であるにも関わらず、アメリカ・イギリスの手先となって日本軍に対抗したのはあくまでも「私欲」のためだったと思われます。
(特別挿入文まとめ)2021年(令和3年)1月17日 YouTube 「参戦勇士九人が語る『南京事件』の真実」の補強
1)、九人はすべて100歳前後、当時自分で撮影した8ミリ映画、写真、場内貧民の店で作ってもらった印鑑(水牛の角を材料とした高級品)を見せながら「真実」を語った
2)、最も驚いたのは城門近くで、トーチカ内に、鎖で足を固定された兵士の死体があちこちで見られた事
3)、城内は静まりかえっており、広い道路の真ん中に老婆が一人居てひとなつこく近寄り「よく来てくれたという意味の感謝」の気持ちを現した
4)、城内は安全であり、将官と部下の二人で調査に出歩いても銃撃されることはなかった、
5)、「難民区(保護区)」はキリスト教司祭たちによって出入りは厳重に管理されており、身分のはっきりしたものでなければ立ちることはできなかった、日本軍大将の発行した証明書を見せて中に入ると、武器庫(沢山のドイツ製武器が有った)の周りには指揮官から見捨てられた敗残兵が数名おり、名前を控えて逃がしてやった。「難民区」にはかなりの数の敗残兵が紛れ込んでいるのが分かったが、彼ら捕虜の担当兵は 「厨房係りの兵」 であり、敗残兵は逃げ放題だったのでやがて彼らの姿は消えた、結果、10万人くらいの避難民が残った。
6)、4日目になると、続々と人々が帰ってきてさっそく商売を始めた、散髪屋、靴屋、立ち食いソバ屋、ハンコ屋等 

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ー・−・−・−・−<以上、挿入、南京城攻略についての覚え書き、でした>ー・−・−・−・−・−・−・−・−・−

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以下、寸考、国民党(蒋介石、国民政府軍・中華民国代表)と共産党(毛沢東、後の中華人民共和国代表)の敵対妥協について〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

1937年8月22日、 共産党軍の国民政府軍への編入、妥協
8月下旬、蒋介石は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸が自軍内に居る」として漢奸狩りを実行、敵対
9月15日22日、 第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は4,000名に達し、中には政府の官吏も300名以上含まれていた、敵対
9月22日。、 対日本「第二次国共合作」妥協と呼ばれる下記⇒★註 : へと続く
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孫文と国共合作、他
孫文はその後、中華革命党を中国国民党と改組 ソ連の働きかけを受けて中国共産党との連繋に踏み切り、「連ソ・容共・扶助工農」を加えた新三民主義を掲げ、国民党への共産党員の加入を認める形で1924年1月に、第1次国共合作が成立した。その勢いに乗り、革命推進のため広東から北京に入ったが、1925年3月12日(58歳病死)、 第1次国共合作は1927年に決裂。

⇒★註 : 第2次国共合作は1937年に成立し46年に決裂した、この合作はソ連をバックにした毛沢東の宣伝力の前に国民党の蒋介石は毛沢東の思うままに操られ(暴漢によって拉致された蒋介石は毛沢東の面前に引き据えられ「協力するから命は助けてほしい」と言和された)、結局は操った毛沢東も文化大革命で失敗、1976年9月9日、毛沢東没(82歳)。蒋介石は内戦で毛沢東に負けて台湾(1945,8 日本敗戦で自動的に中国領となっていた)に逃げ込んで新政府を構えた(1949年12月7日)が、国連での毛沢東の多数派工作にも負け(1971年10月25日)1975年4月5日台湾にて死去(87歳)。
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国民党軍と共産党軍の敵対意識は、日本軍に対する意識よりもはるかに強い。それを形だけ抑えて国共合作と称して日本と戦っていた。日本軍の前で国民党軍と共産党軍が戦闘を始めることもあった。
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9月28日、 国際連盟の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍により無差別攻撃は、同年4月26日のゲルニカ爆撃と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だった。
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12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始。12月13日、南京は陥落した。南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の敗残兵・便衣兵の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと中華人民共和国では言われている。 註 : 南京城攻略時の死者数(中華人民共和国の主張)があったとすれば、この期間(4日+6週間)に行なわれたことになる。

≪WW2で日本敗戦後の敵対
毛沢東は農民支援(土地革命)に優れ、蒋介石は国際支援(アメリカからの支援)に優れ、両者は互角に戦ったが、 アメリカが戦後のヨーロッパ対策や日本対策で蒋介石への支援を弱めた事、農民を味方につけた毛沢東の農村戦略によって蒋介石の勢力は劣勢となり、1949年1月の徐州戦以降は共産党軍の ケ小平司令官に負け続けた。ケ小平はこれ以後「最強権力である『軍』事力」を掌握し続け、毛沢東死亡後の中華人民共和国の事実上の 最高権力者 として振る舞い続け、自分の意向に沿わないと見た人物はそれまでの親しい部下であっても容赦なく権力の座から追放した(胡耀邦・初代『党』中央委員会総書記、趙紫陽・第2代『党』中央委員会総書記)。
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『軍』を掌握する者(中国共産党中央軍事委員会主席=人民解放軍総司令官)が中共国を動かす権力構造の覚え書き 
『党』を掌握していても『軍』には勝てない、例 : 胡耀邦・初代『党』中央委員会総書記、趙紫陽・第2代『党』中央委員会総書記 
『国家主席』は欧米感覚では「大統領」に当たる、「国家の顔」であり実力は無いと思われる 
『軍』を掌握しただけで毛沢東(1976亡)後の最高実力を保持し続けたのはケ小平だけである 
最高実力の地位は、先ず『軍』掌握権の受け渡しが行なわれ、『党』と『国家』はその次に受け渡される(江沢民はそのようにして最高実力を受け渡された、ただし、ケ小平の影響下で。ケ小平死亡(1997)までは一人立ち出来なかった) 
『軍』『党』『国家』の3権をほぼ同時にワンセットで受け渡されたのが胡錦濤と習近平である、従って2015現在の最高実力者である習近平は 『軍』事力 を最優先させると思われる、ただし、江沢民と同様に、実力で 『軍』事力 による「戦勝」を得た事は無いのでケ小平ほどの影響力を強力且つ長期に及ぼし続ける事は出来ないと思われる 
中国共産党中央軍事委員会主席≠中華人民共和国中央軍事委員会主席 で、党中央軍 の方が 共和国中央軍 よりも 格 が上のようである。ケ小平は 党中央軍総帥(党中央軍事委員会主席) の地位で最高実力を行使した。
それほどまでに、WW2後の内戦勝利のケ小平の影響力は大きく且つ長く続いたのです。
中共国の権力構成は分かりにくい、この様な複雑怪奇な権力構成で、中共国の政治は今後の世界を生き延びていけるのだろうか? との疑問を感じます
註 : この書き込みの主な情報源は Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%9C%80%E9%AB%98%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%80%85%E4%B8%80%E8%A6%A7です。

1949年10月1日、共産党による中華人民共和国が成立した。

[白団(日本軍義勇将校引率)による防共戦成功、20年間]
弱体化した中華民国政府と蒋介石は台湾への撤退を決定し、残存する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、最終的には12月に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。

このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による軍事行動は一時的に停止する。

なお、1949年に根本博中将(元支那派遣軍参謀長)はアメリカ占領下の日本から台湾に密航し、中華民国の軍事顧問として古寧頭の戦いの作戦指導を行い、中共軍を殲滅している。
古寧頭の戦い

註1 : 画像自体がリンクポイントとなっています
註2 : 画像はヤフー画像集から頂きました
古寧頭 [金門島の西北端] の戦い (1949,10,25-10,27)根本旧中将率る部隊    金門砲戦(1958,8,23-10,5 砲撃停止は 1979,1,1 ) パイダン(白団) [旧日本軍将校団] 率る部隊 
(結果)
金門島等に侵入していた共産党軍を完全排除。
2018年現在も台湾政府(中華民国)領土となっている

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蒋介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蒋介石を支援した。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦防衛に成功、際立った効果をあげた。

白団(ぱいだん)による中華民国国軍への顧問は1960年代末まで行われた。

以上、主としてウィキペディアより抄録。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上、寸考、国民党(蒋介石、国民政府軍・中華民国代表)と共産党(毛沢東、後の中華人民共和国代表)の敵対妥協についてでした〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

nc1938年6月蒋介石黄河堤防を爆破、日本軍の進撃をはばむため。大洪水と飢饉のため中国人100万人が死亡、日本軍には1名の死人も出なかった。


nr1938年前後、ソ連のスパイ ゾルゲ 日本で組織的情報収集(諜報)活動、1941年に逮捕された、諜報の目的は「日本は南進するのか北進するのか」を見極めること。実際はまず北進(ノモンハン事件 1939)後に下記の通り南進、コタバル急襲、少し遅れて真珠湾急襲。

nc1938年〜1943年、中国、重慶市(ジュウケイ)空爆、日本軍は、1938年(昭和13)12月から1943年10月まで中国四川省重慶市(ジュウケイ)(臨時首都)に合計4300トン強の空爆、蒋介石は 南京⇒武漢⇒重慶 と、首都を替えつつ逃げていた、もう逃げる所は無く、この空爆は非常に苦痛であったと日記に記したと言われている。
1939年5月の爆撃で、重慶市中心部の居住地は火の海と化し、数千人が死傷しました。爆撃目的は、蒋介石にこれ以上逃げる所は無いので戦闘継続を断念させ日本の大東亜共栄圏確立構想を受け入れて日本への協力者となることへの最後通牒。

往復1800キロ(漢口[武漢市の北部]⇔重慶)の爆撃には1940年8月からはゼロ式戦闘機が護衛機として使われました、ゼロ式戦闘機は攻撃能力に優れるのみならず航続距離も長い(最長3000キロ、補助タンクをつけた場合)という当時としては常識外れの能力で爆撃機を護衛。蒋介石は毛沢東の共産革命軍とも戦い、日本軍からの戦災をも被りながらも大東亜共栄圏構想受け入れを拒否し続け、米英との同盟を選んだ。

戦争になる前は、日本で軍務研修(砲術)を受けた身でありながら日本に協力しなかった理由は「メンツ(面子)」。4000年の歴史を持つ中国人の誇りがあったと思われます(実は中国の歴史は10ほどの王朝が屠城(トジョウ 皆殺し)を繰り返し、屠城の度にそこの文化文明は滅んでいた、「一つの中国文化」というのは無かった)。

米英は膨大な富(食料、最新式の武器弾薬、軍服等)を蒋介石支援に費やし続けた(於、援蒋ルート)、結果は第二次世界大戦が終わっても共産党軍と戦い、負け、やがて国際連合からも追い出され、かつては中華民国の領土だった台湾に逃げ込んで晩年を過ごしました。しかし、外省人の突然の独裁政治は台湾人(内省人)には歓迎されなかった、彼が来る前の台湾は日本の領土であり、大東亜共栄圏の一員として、高い文化度と自尊心を保っていたためです。
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歴史に「もしも」は禁句ですがあえて述べれば、蒋介石がしっかりしていれば大東亜戦争は成功し、ヨーロッパ人と同等の経済圏が東洋に出現していた可能性があります。

(私の考えでは、蒋介石は誇りと自信の代わりに お金 を選んだ、しかし、戦時に必要なのは 戦意 と 練度 、何も訓練せずに お金で 人を集めた軍隊は日本軍の前にはまるで農作業人のようで、彼らはひたすら逃げていたと言われています、なお「大東亜会議」には中国を代表して南京市にいた、蒋介石の競争相手である汪兆銘が出席しています)
【n1938年4月1日(昭和13)日本、国家総動員法成立、日本国の持つすべての力を結集して、大東亜共栄圏という帝国主義経済圏構築を目指す事業が発足します、これは米英に対する宣戦布告へとつながって行きます。英国は世界規模で展開する植民地経済圏を有し、アメリカはインディアンやメキシコから取り上げた広大で肥沃な農地と原油と鉱石、工業力があり、かつ、南米とも経済圏協定を結んでいました。

生産物を互いに回し合えば共存共栄できますが、日本は有力な輸出産物は絹織物と石炭と頭脳しかない状態で、国家・国民の生存のための原材料特に 原油 は必需品だったのです、原材料を日本国で加工して輸出する道を取るには一つの巨大な経済圏の中に居ることが必要なのです。

しかし、たとえ広い中国を経済圏の中に組み入れたとしても原油は生産しないので東南アジア地域で原油の出る国との提携が必要なのです。しかし、その産出量はブルネイの油田分しかありませんので中東で産した原油がタンカーでアメリカに運ばれる途中で、(シンガポールあたりで)、分けてもらいたかったのですが、アメリカは日本の弱みを十分に知りながら頑として協議に応じず(ハルノートで交渉拒絶実態が分かります)、これでは日本の生存のために 原油を奪う しか残された道はないとの判断を下さざるを得なかったのです。

大東亜戦争(アメリカでは 太平洋戦争 と呼ばれます)が始まったのは実はマレーシアのコタバル(英国の植民地・軍港)で始まったことからも戦争の真実が分かります。

【n1941年12月8日(昭和16年)大東亜戦争開始
この戦争がハワイの真珠湾で始まったというのは正しくありません。ここの話は ★1-2、世界史概観・下 の「大東亜戦争」の端緒となります、歴史の連続性を重んじた結果こうなりました。  
攻撃開始時刻の詳細を下記で表示しました、この表で分かることは 

@、日本国国民は 大東亜戦争の開始はラジオ放送での 「本日未明 西太平洋に於いて米英と戦闘状態に入った」の通りでした、12月8日の開始は、於西太平洋 コタバルでした、日本の陸海空軍の連携は綿密で素早く、2日後には 世界最大戦艦プリンスオブウェールズ は日本軍戦闘機の爆撃で沈没、イギリス軍は戦意喪失状態に陥り、15日にはシンガポールを失いました。

A、12月8日、約1時間遅れて真珠湾が攻撃されました。ハワイの真珠湾は朝の目覚めの時刻でした、日本軍の戦闘機群が突如飛来したので、真珠湾軍事基地は混乱状態になりました。 
日本時間  コタバル
1941,12,08 午前02,25 

真珠湾
1941,12,08 午前03,23 
現地時間  コタバル
1941,12,08 午前01,35 
真珠湾
1941,12,07 午前07,53


時刻表示の位置は動かない
右端図の原図はここ 
左端図出所は Wikipwdia。
中図出所は、YAHOO!知恵袋 naihsojnihsさん 2013/5/1215:00:47 http://livedoor.blogimg.jp/aritouch/imgs/1/f/1f86e27e.jpg

シンガポールでアメリカ行きのタンカーから原油を分けてもらえればあのような悲惨な戦争は起きなかったと思います。私は大東亜戦争の原因は当時のアメリカ大統領ルーズベルトの病的日本憎悪心であると思います。彼は今から思えばひとかけらの 「おもいやり」 の心もなく、日本人絶滅という異常な情熱にとらわれて精神のバランスを失っていたと思います。

日本とは絶対に交渉はしないという気持ちは精神的に異常です、すなわち日本人絶滅主義者だったのだと思います。彼は対日本戦勝利を見届けることは出来ずに死んで、あの戦争に終止符を打ったのは副大統領だったトルーマンでした、トルーマンは大きく流れていた「天皇処刑」の流れを変えた人です、「無条件降服とは」「軍隊の無条件降服」であり 天皇制国家体制(国体)を無条件に消滅させる意味ではないとの最終決断を下しました。原爆投下については前任者のルーズベルトが決めた「投下する」を撤回するほどの政治力はありませんでした。

★註 : フランクリン・ルーズベルトと昭和天皇の原爆(核爆弾)使用意欲比較表
  フランクリン・ルーズベルト  昭和天皇
極端に積極的(早く日本の国体と日本民族を絶滅させたい)、ドイツが 1945,5,7 に降伏した時、ドイツの原爆開発はまだ初歩的段階だったのを知っても開発計画を急がせた、最初から日本絶滅のための決定的爆弾を早く作りたかったことが分かります、それほどまでに病的に日本を憎んでいた、その極端さを忠告する友人もいたが耳を貸さなかった 極端に消極的 山下輝雄メモランダム第七十三話によれば、「原爆使用を奏上した時 絶対反対 とのご返事に感動、天皇陛下は原爆を使用してまで戦争に勝つことは人類に不幸をもたらすと考えておらることに感動した」

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