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※※※※※※※※※
2000年現在バルカン中心、国名入り白図、日本との比較図あり
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世界黒地図
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※※※※※※※※
朝鮮南北分断基礎図 下の 南北境界線図と一緒に見てください
E 漢江(ハンガン), E2 臨津江(イムジン川), F 大同江, G 鴨緑江, G2 豆満江,
※※※※※※※※
南北境界線図
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現ロシア連邦地図2 河川を強調
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※※※※※※※※
北東アジア基礎図
【川の名前を補完】 A 利根川, B 天竜川, C 信濃川, D 石狩川, E 漢江(ハンガン), E2 臨津江(イムジン川), F 大同江, G 鴨緑江, G2 豆満江, H ウスリー江, I 松花江, J ノン江, K 遼河 |
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※※※※※※※※
東南アジア地図 1と2 (北半分と南半分)
シンガポール (南半分図に
赤線 で囲っています) の狭さの特殊性
※シンガポールの狭さの特殊性 : 人口密度で、世界第2位 6773(1位はモナコ 3位はバチカン)、面積は 710平方キロ、都市国家であるため首都は無しです。参考 : 日本の佐渡ヶ島は 855平方キロ、人口密度 70。 以上 Wikipedia |
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※※※※※※※※
西欧広域図(山河)
※※※※※※※※
西欧広域図(山河地名図)
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※※※※※※※※[日本軍支配範囲]を含む
<2013年5月23日、記、太平洋戦争の始まり(1941)と終わり(1945)の日本支配範囲地図、下部に図示>
この戦争の真実は何であったのかについて無数の意見がありますが、この地図の中に、あまりにも悲惨な負け方をした日本の細く小さな姿が痛々しいのに比し、世界上最も広範囲な
「西進侵略」を行なったアメリカ本土の姿が地図上にはハワイのみである事はアメリカの戦争犯罪性を雄弁に物語っています。アメリカはハワイを侵略した段階で
「西進侵略」を終わるのが正しかったのです。
.............................................................................
なお、「連合国」とはアメリカ・イギリスを中核とする反日本諸国の事です。
注 :太平洋戦争の始まり(1941)時点のアジアで独立国だったのは、日本国とタイ国 だけでした、その他の国々は欧米諸国の植民地(隷属国)でした。
ヤフー 知恵蔵 almeida616さん 回答日時:2007/7/27 22:59:36 によると
太平洋戦争での死者数はつぎの通りです。
...............................................................
日本人は軍人が230万人、一般人が80万人死亡しました。
朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。
台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。
その他の国は・・・
中国1000万人
インド350万人
ベトナム200万人
インドネシア400万人
フィリピン111万1938人
ビルマ5万人
シンガポール5千人
モルジブ3千人
ニュージーランド1万人
アメリカ人40万5399人
オーストラリア2万3365人
..............................................................................
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http://wWW2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html
によれば
1945年の敗戦時、国外にいた日本人は、軍人・軍属(軍人以外の軍所属者)、及び民間人がそれぞれ約330万人、合わせて
660万人と見られている。祖国に戻れず亡くなった人も多く、海外から
引き揚げた軍人・軍属は310万人、
民間人は318万人である(当図録の参考資料は東京新聞大図録2007.8.19)(終戦時海外日本軍の兵数は図録8050)。すなわち、死亡した軍人・軍族数は 20万人(330-310=20)、死亡した民間人は 12万人(330-318=12) 。
アメリカがそれ以上「西」に向かって侵略した事は「極端な侵略」を行なったと見る事が出来ます、そしてイギリス本土やオランダ本土が全く地図上に無い事はイギリス・オランダはアメリカの戦争犯罪の裏方を務めた事を物語っています。
なお、ここに掲載する「地図」は「世界史年表・地図 亀井高孝、三上次男、林健太郎、堀米庸三、[編] 吉川弘文館、第8版」からの引用です。
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※※※※※※※※
太平洋戦争の始まりと終わり天皇の言葉、口語訳 2013年1月2日私が記したものです、
<2013年1月2日、記、
日本国天皇の言葉、太平洋戦争の始まりと終わり>
この戦争の真実は何であったのかについて無数の意見がありますが最も信頼すべき手掛かりは日本国天皇が発した言葉であると思いますので現代語に翻訳して書き留めます
http://jiritsusaisei.blogspot.jp/2011/02/blog-post_12.html(ブログ、日本が日本であるために よりいただきました)
米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書、
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《現代語訳》
天の神々のご助力を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、はっきりと忠誠にして武勇ある汝ら国民に示す。
余はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。余の陸海軍の将兵は、全力を奮って交戦に従事し、余の政府関係者・官僚・役人のすべては、つとめ励んで職務に身をささげ、余の国民は、おのおのその本分をつくし、億兆の心をひとつにして、国家の総力を挙げ、攻め戦う目的を達成するために、手ちがいのないように心がけよ。
そもそも、
東アジアの安定を確保し、それをもって世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その大いさを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、余も日頃、かたときも忘れずに心がけている事である。
そういう理由であるから、各国との交流を篤くおこない、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の
外交の要諦とするところである。今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)
中華民国政府は、以前より帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を攪乱(かくらん)し、遂(つい)に帝国に武器をとらせる事態
(慮溝橋事件)にいたり、現在まで四年が過ぎた。
さいわいに、国民政府は、汪清衛・南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するに至ったが、重慶に残存する蒋介石政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟であるはずの南京政府と、いまだに相互の境をはさんでせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、蒋介石政権を支援し、東アジアの戦禍と混乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋を征服する非道なる野望をたくましくしている。あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには禁輸措置を意図的におこなって、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
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余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態が、そのまま推移したならば、
東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。
ことここに至っては、帝国は今や、
自存と自衛の為に、決然と立上がり、
英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。
皇祖皇宗の神霊は、天にましまし、余は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに英米による禍根をとり除き、
東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
御 名 御 璽(←昭和天皇の署名)
昭和十六(1941)年十二月八日
......................................................................
終戦の詔勅−玉音放送−、
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(1945(昭和45).8.15正午)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1108/15/news007.html(ソフトバンク サイバー大学 よりいただきました)
《口語訳》
世界の情勢と日本の現状をよくよく検討した結果、ありえないと思われる方法をあえてとることにより、この状況を収拾したい。常に私に忠実であるあなたがた日本臣民の皆さんに、今から私の決断を伝えよう。
私は日本政府担当者に米国、英国、中国、ソビエト連邦の4カ国に対して、日本が(
ポツダム)共同宣言を受け入れると伝えることを指示した。
そもそも私たち日本国民が穏やかで安心な暮らしができ、世界全体と繁栄の喜びを共有することは、歴代の天皇が代々受け継いで守ってきた教えであり、私自身もその教えを非常に大事なことと考えてきた。
最初に米英2カ国に宣戦布告した理由も
日本の自立とアジアの安定を願う気持ちからであり、ほかの国の主権を侵したり、その領土を侵したりすることが、私の目指すところであったわけではない。
けれども戦争はすでに4年も続いており、我らが陸海軍人たちの勇敢な戦いぶりや行政府の役人らの一心不乱の働きぶり、そして1億人の庶民の奉公、それぞれが最善を尽くしたにも関わらず、戦況は必ずしも好転せず、世界情勢を見るに、日本に有利とはとても言えない状況である。
その上、
敵は残虐な新型爆弾を使用して多くの罪のない者たちを殺傷し、その被害の及ぶ範囲は、測ることもできないほどに広がっている。もしもこれ以上戦争を続ければ最後には我が日本民族の滅亡にもつながりかねない状況であり、
ひいては人類の文明すべてを破壊してしまいかねない。
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そのようなことになれば、私はどのようにして1億人の民を守り、歴代天皇の霊に顔向けすることができようか。これが私が政府担当者に対し、共同宣言に応じよと指示した理由である。
私は、
アジアを(西欧列強から)開放するために日本に協力してくれた友好国にたいして大変申し訳なく思う。
また、日本国民であって戦地で命を失った者、 職場で命を落とし、悔しくも天命をまっとうできなかった者、そしてその遺族のことを考えると、 心も体も引き裂かれんばかりの思いがする。戦争で傷つき、戦災被害にあって家や仕事を失った者たちの暮らしについても、非常に心配に思っている。
この後、日本が受けるであろう苦難は言うまでもなく尋常なものではないであろう。みなさん臣民の悔しい思いも、私はよくよくそれを分かっている。けれども私は時代の運命の導きにそって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、これからもずっと続いていく未来のために、
平和への扉を開きたい。
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私はこうやって日本の国の形を守ることができたのだから忠誠心が高く善良な臣民の真心を信頼し、常にあなたがた臣民とともにある。
感情の激するがままに事件を起こしたり、もしくは仲間同士が争って世の中を乱したり、そのために道を誤って世界からの信頼を失うようなことは、最も戒めたいことである。
何とか国全体が1つとなり、子孫にまでその思いを伝え、神国日本の不滅を信じ、任務はとても重く、行く道は非常に遠いことを覚悟して、将来の建設に向けて総力を結集し
道義を守り志と規律を強く持って、 日本の力を最大に発揮することを誓い、世界の先進国に遅れをとらずに進むのだという決意を持とうではないか。
私の臣民たちよ、ぜひともこの私の意思をよくよく理解してもらいたい。
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<朝鮮通信使、資料>
ウィキペディア
より、彼らは衣食医薬品など移動に必要なものを全て持ち、長い道中を移動した、本国に貨幣経済が無く物々交換しか無かったためである、したがって日本の貨幣との両替行為も無かった。全行程には8ヶ月から10ヶ月を要した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
室町期朝鮮通信使履歴 | |
回数 | 第1回 | 第2回 | 第3回 |
年 | 1428年 | 1439年 | 1443年 |
目的・名称等 | 将軍就任祝賀 | 旧交 | 将軍就任祝賀 |
豊臣秀吉朝鮮通信使履歴 | | |
回数 | 第1回 | 第2回 |
年 | 1590年 | 1596年 |
目的・名称等 | 通信使 | 通信使 |
江戸期朝鮮通信使履歴 | |
回数 | 第1回 | 第2回 | 第3回 | 第4回 | 第5回 | 第6回 | 第7回 | 第8回 | 第9回 | 第10回 | 第11回 | 第12回 |
年 | 1607年 | 1617年 | 1624年 | 1636年 | 1643年 | 1655年 | 1682年 | 1711年 | 1719年 | 1748年 | 1764年 | 1811年 |
将軍 | 徳川秀忠 | 徳川秀忠 | 徳川家光 | 徳川家光 | 徳川家光 | 徳川家綱 | 徳川綱吉 | 徳川家宣 | 徳川吉宗 | 徳川家重 | 徳川家治 | 徳川家斉 |
朝鮮正使 | 呂祐吉 | 呉允謙 | 鄭ャ | 任絖 | 尹順之 | 趙? | 尹趾完 | 趙泰億 | 洪致中 | 洪啓禧 | 趙? | 金履喬 |
名称 | 回答兼刷還使 | 回答兼刷還使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 | 朝鮮通信使 |
目的 | 日朝国交回復、捕虜返還 | 大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還 | 回答兼刷還使、家光襲封祝賀、捕虜返還 | | 家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀 | 家綱襲封祝賀 | 綱吉襲封祝賀 | 家宣襲封祝賀 | 吉宗襲封祝賀 | 家重襲封祝賀 | 家治襲封祝賀 | 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め) |
明治時代の朝鮮通信使 |
1880年、後に内閣総理大臣となる金弘集を始めとする朝鮮通信使が訪れている |
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1901年 北京議定書による中国分割図、下方に ★西太后系図あり ★清朝最後の皇帝の系図もある、清朝最後の皇帝は2才の宣統帝が即位、5才まで在位、姓は愛新覚羅(あいしんかくら、名は溥儀(ふぎ)。その後は紫禁城内で暮らし、イギリス人英語教師によって諸事を学びて成人し、結婚もした。政変に巻き込まれて紫禁城を追われてからは、日本大使館に保護されたり、天津の外国租界平民として庶民生活をし、日本の関東軍が満州事変を引き起こしたことで、再び政治の表舞台に登場することとなった。関東軍の保護を受け執政を引き受け、次いで1934年3月1日、
28歳となった溥儀は満州国皇帝(在位1934〜1945年)となった([世界史の窓]より)。溥儀は清朝皇帝としては宣統帝と言われたが、満州国皇帝となってからは、日本ではそのまま名にすぎない溥儀と呼ばれていた。また満州国の実際も日本人が官僚、軍隊の実権を握り、傀儡国家にすぎなかった。
関東軍が溥儀を担ぎ出したのは、満洲人の反漢民族意識を利用しようとたこと、日本人の直接支配ではなく満洲人の国家であることを国際的にも示す必要があったためであるが、溥儀も満州国家の復活に期待するところもあってその要請に応えたものであった([世界史の窓]より)
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光緒帝は同治帝の没後4歳で即位し、
18歳(1889年)で親政を始めるまで同治帝の母親である
西太后(母の姉)が摂政として政治を動かしていました。
※※※※※※※※※
◆区画の移行 [歴史の真実を探る という区画 ] ◆
■[区画のはじまり]■
【ここの区画は 世界史概観・下 から切り取って移植したものです】
(歴史の真実を探る、その1)
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<2012年、11月、9日、記、戦争犠牲者達の声無き声を代弁する人々、ホームページ「
シルバー回顧録 掲示板」からの抜粋>
[
【その1】ミズーリ艦上で降伏文書の調印式が行われていた最中にも、ソ連軍は作戦行動を継続した]
<ミズーリ艦上で降伏文書の調印式が行われていた最中にも、ソ連軍は作戦行動を継続した>
8月15日以後の戦闘 投稿者:北方太郎 投稿日:2006年 5月25日(木)18時31分19秒 返信・引用
昭和20年8月15日正午に行われた天皇のポツダム宣言受諾放送以後、日本軍は戦闘行為を止め、アメリカを初めとする連合国もソ連を除き停戦した。しかしソ連だけは別で、参謀総長が公式声明を発表して、
「日本政府の声明は単なる宣伝に過ぎず、日本軍は未だに抵抗を続けているため、ソ連軍は戦闘を継続する」と述べた。
[領土の囲い込み]
ではなぜそのような声明を出したのか?。それには8月8日に対日「駆け込み参戦」をした、ソ連側の事情があったからである。7日後の8月15日の段階では、ソ連軍は満州には侵攻したものの、
少しの領土しか制圧できず、樺太の南半分や千島列島、それといわゆる北方4島には手付かずの状態であった。この状態で停戦することは
1:ヤルタ協定(戦後の日本の領土に関する米、英、ソ連の3国協定)によってソ連の領土となるのを認められた地域を、
労せずして「棚ボタ式」に入手したと連合国側から「みなされる」のを防ぐために、軍事占領の既成事実を作りたかったこと。
2:日露戦争で日本に敗れ奪われた領土(樺太の南半分や千島列島)を、
今度は日本を打ち破り取り戻したとする、
国民向けの「宣伝、実績」を作る必要性があったこと。
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以上の理由から8月15日の即時停戦は受け入れられないことであった。
その為停戦には応じず、一部では白旗を掲げて停戦交渉に来た日本の軍使を射殺した例もあった。大本営からの停戦命令には、相手側から攻撃を受けた場合には、
「自衛的戦闘」は認められていたため、ソ連軍の攻撃に対しては日本軍も応戦する事となった。
[北方領土におけるソ連との戦闘]
1:8月16日に樺太の西海岸に上陸しようとしたソ連軍を撃退した。
2:8月18日、千島列島の占守(しゅむしゅ)島に突如上陸したソ連軍と交戦し、
ソ連艦船4隻を撃沈し上陸軍に大損害を与えた。
3:8月20日、樺太西海岸にソ連軍が上陸。
4:8月28日、国後(クナシリ)島に上陸。
5:9月4日、5日に歯舞(ハボマイ)諸島に上陸。
注目すべきは9月2日に東京湾上のミズーリ艦上で降伏文書の調印式が行われていた最中にも、ソ連軍は作戦行動を継続したという、国際法違反行為をしていたことである。
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[
【その2】欧米諸国が朝鮮戦争に注意を奪われていたスキに乗じて、隣国のチベットを侵略し、自国領とした中国]
<欧米諸国が朝鮮戦争に注意を奪われていた
スキに乗じて、隣国のチベットを侵略し、自国領とした中国>
NHK の討論番組 投稿者:ピイチク 投稿日:2006年 8月17日(木)15時33分33秒 返信・引用 編集済
終戦記念日の夜、N H K は「日本のこれから、アジアの中の日本」という視聴者参加型の討論会を放送したので、見た人もかなりいると思う。それを見た感想を書くと、日本人の中国に対する警戒心の無さであった。
第二次大戦後に領土を拡大した国は少なくとも三つあったが、昭和二十年八月十五日のポツダム宣言受諾に伴う停戦(Cease Fire)以後に、北方四島に敵前上陸して軍事占領し自国領土とした現ロシア、数次に亘る中東戦争の結果、ヨルダン川西岸、ガザ地区を占領したイスラエル、欧米諸国が
朝鮮戦争に注意を奪われていたスキに乗じて、隣国の
チベットを侵略し、自国領とした中国である。
また中国ほど
多数の自国民を殺害した国家は、地球上に存在しない。
毛沢東によれば共産党革命の際に、
壱千万人の中国人を殺したと自ら述べた。その後の大躍進政策の失敗の結果、
数千万人の餓死者を出し、十年続いた文化大革命では
千万〜二千万人が殺されたといわれている。
天安門事件の際に
ケ小平が何と言ったかご存じか?。「窓を開ければ(改革開放をすれば)
ハエ(余計な思想)が入ってくる。ハエが入ったらピシャリと叩けばよい。そのためには
百万人ぐらいが死んでもかまわぬ。」 彼は天安門事件を暴乱と認定し、武力による弾圧を命じた。
中国の意向に従い首相が靖国参拝を止めれば、海底ガス田、尖閣諸島、などの日中間の懸案事項が全て解決するなどの妄想にふけり、中国人の侵略性、残虐性に無知な日本人が多過ぎる。小泉首相の「突っ張り」は、「靖国カード」がもはや日本に「効果が薄れた」ことを中国に悟らせる意味で、日本の国益に十分叶っている。
[
【その3】昭和天皇は国民に謝罪をしたかったのです]
<「朕ノ不徳ナル、深ク天下に愧(は)ヅ」>
幻の謝罪詔書の草稿 投稿者:非左翼 投稿日:2006年11月 4日(土)10時30分28秒 返信・引用 編集済
この件については、最後の投稿にします。
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そとわ小町さんの天皇に対する「思い入れ」はよく分かりましたが、実は調べてみると
昭和天皇は国民に謝罪をしたかったのです。いま私の手元に2003年7月発行の文藝春秋がありますが、表紙には広告として大きく「朕ノ不徳ナル、深ク天下に愧(は)ヅ」の文字が書いてあります。その96頁から113頁までが「封印された詔書草稿を読み解く」の記事になっています。
その詳しい内容についてはインターネットで「謝罪詔書草稿」を検索すれば読むことができますし、文春の記事も掲載してあります。以下の U R L には、読みやすい口語訳がありますので、クリックしてください。
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http://homepage1.nifty.com/zpe60314/bungei.htm
謝罪詔書の起草者は宮内府長官(後の宮内庁長官)をしていた田島道治ですが、天皇の下命なしに「朕で始まる詔書」を書ける訳ではないので、東京裁判の判決が下り、七名の B級戦犯が処刑された昭和23年末〜24年の頃に、天皇の意向を汲んで書かれたものだといわれています。天皇の国民に対する謝罪の気持ちと、彼の留位の決意を国民に伝え、けじめをつけることが必要と、天皇と田島の意見の一致をみた結果でした。
しかし吉田茂などの保守派、政治家の謝罪に対する反対により、謝罪詔書は遂に日の目を見ずに封印されてしまいましたが、国民に謝罪する千載一遇の好機を失ったことは、昭和天皇にとって「本当の気持ち」を国民に知らせることができずに、また国民にとっても「その気持ちを知らされずに」実に残念なことだったと思います。参考までにその抜粋を記します。
[
【その4】北朝鮮が求める「過去の償い」を、今後一切しないというタイムリミット設定が必要]
<北朝鮮が求める「過去の償い」を、今後一切しないというタイムリミットを設定>
対抗措置 投稿者:水子 投稿日:2007年 3月 9日(金)09時32分14秒 返信・引用 編集済
[その一]、
アメリカ下院が従軍慰安婦問題で、日本に謝罪と補償を求める決議案を採択する可能性が高いといわれている。ならば日本も女性子供を含む非戦闘員に対する、無差別大量虐殺という核爆弾投下の戦争犯罪に対して、アメリカ政府に謝罪と補償を求める決議案を、議員提案の形で国会に提出すべきである。
[その二]、
北朝鮮との拉致被害者交渉に関しては、被害者の親たちは年老いていくばかりなので、
例えば三年の期限を設けて、その期間内に問題が解決しなければ、北朝鮮が求める
「過去の償い」を、今後一切しないというタイムリミットを設定すべきである。
[
【その5】東京裁判のおさらい、ポツダム宣言関連問題、提起された犯罪(人道に対する罪)は当時国際法上裁く法律は無かった。
<極東国際軍事裁判のおさらい、ポツダム宣言問題、提起された犯罪は当時国際法上犯罪では無かった(裁く法律は無かった)>
極東国際軍事裁判のおさらい 投稿者:カエルの子 投稿日:2007年 5月29日(火)16時15分13秒 返信・引用 編集済
[裁判管轄権、その1]
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昭和21年5月13日に極東国際軍事裁判が開かれると、弁護側副団長の清瀬一郎が冒頭陳述において、裁判の根幹にかかわる動議を提出しました。「この裁判の管轄権は、どこの国に属するのか。
アメリカの裁判なのか、それとも国際法に基づく国際裁判なのか」?。
それに対してウエッブ裁判長は、
即答できませんでした。
結局、協議をした結果戦勝国である連合軍から依託されて、
マッカーサー司令部の権限で裁判をするという結論になりました。極東国際軍事裁判所の「国際」とは、日本人が誤解し勝ちな「国際法とは無縁」の、戦勝国が勝手に決めたルールに基づく
「戦勝国の、戦勝国による、戦勝国のための」裁判だったのです。
[裁判管轄権、その2]
「この裁判所には平和に対する罪、人道に対する罪を裁く権限がない」と清瀬弁護人が主張しました。言うまでもなくこの裁判所は、昭和20年7月26日のポツダム宣言を受諾し、その中の「連合国の俘虜に対して残虐行為をなした者を含む全ての戦争犯罪者に対しては、峻厳なる裁判が行われるべし」という条規がその根源です。
しかし
当時の国際法のいかなる条文にも、「平和に対する罪、人道に対する罪」は
存在しないことは明白でした。「実行時に適法であった行為について、
事後に作られた法律により処罰されない」というのが、いかなる国(但し法の原理原則に無知で、今も事後法で人を罰する
韓国を除く)においても法律の大原則です。
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[日本はポツダム宣言を受諾したのであって、無条件降伏したのではない ]
多くの日本人は日本が無条件降伏をしたと、マッカーサーから言われた言葉を未だに信じています。昭和20年9月6日に大統領のトルーマンからマッカーサーに宛てた指令によれば、「我々と日本との関係は、契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とする」とあり、それ以後ポツダム宣言を踏みにじり、対日政策を変化させ、つまり日本をだましたのです。
ポツダム宣言の第11項
我らは日本国政府が、ただちに全日本軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動における同政府の誠意につき、−−−。
とあり、日本政府の無条件降伏ではありません。日本は宣言を受諾し、日本の軍隊の「無条件降伏を条件」としての
停戦( Cease Fire )に合意したのです。
「ドイツと日本は降伏の仕方が違っています。ドイツは最後まで抵抗し、ヒトラーは死んで、ゲーリングも戦列を離れ、遂にドイツの
政府は崩壊したので無条件降伏となりました。日本については連合国が日本本州に上陸しない状態で、ポツダム宣言を受諾しました。
その第5項によれば、
「我らの条件は左のごとし。われらは左の条件より離脱することなかるべし。左に代わる条件は存在せず、我らは遅延を認めるを得ず。」とありました。
そしてこの宣言は9月2日にミズーリ号上の降伏文書調印式において連合国、日本国により確認されました。それ故ポツダム宣言の各条項は日本を拘束するだけでなく、
連合国もその拘束を当然受けるものです。
[結論]
つまり連合国にはポツダム宣言でいうところの戦争犯罪人に該当しない者(平和に対する罪、人道に対する罪を犯したとされる者、{当時の国際法上犯罪ではない行為をした者})に対する
裁判管轄権は存在せず、連合国から権限を委任された最高司令官
(マッカーサー)にも、その裁判管轄権は無いということでした。
清瀬弁護人が出したこの動議は、インドのパル判事の判決と同様に占領中はその公表が禁じられ、日本人の目に触れることはありませんでした。 ウエップ裁判長は昭和20年5月17日にこの動議を却下し、
理由は将来宣告すると言ったのみで、裁判終了まで遂に述べませんでした。却下の理由など説明できるはずがありませんでした。
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[
【その6】悪逆非道の日本軍を 毛沢東の紅軍が打ち破ったとする思想教育をしているが実際に戦ったのは国民党軍で毛沢東軍は日本軍の背後から手榴弾を投げる程度でした]
<悪逆非道の日本軍を
毛沢東の紅軍が打ち破ったとする思想教育をしている>
2015年3月 9日 (月):以下ブログ複写
中国(中華人民共和国)は対日 戦勝国か?
中国は 対日 戦勝 (?)
70 周年 にあたる 2015 年 9 月には、軍事 パレードを含む記念式典を開催するといわれている。
中国政府 ・ 外交部の報道官は 3 月 2 日、記念式典には第二次世界大戦の主要参戦国と アジアおよびその他の地区の国家指導者、国連など国際組織の責任者、中国の抗戦勝利に貢献した国際的な友人と遺族を招待すると述べた。
ところで 1930 年代における
中国大陸は内戦状態にあり、蒋介石 ( しょうかいせき )率いる中華民国の国民党政府軍と、毛沢東 ( もうたくとう ) 率いる共産党軍 ( 紅軍、日本名、八路軍、はちろぐん ) とが長年互いに主導権争いをしていた。
国民党軍 ( 蒋介石軍 ) に敗れた共産党軍 ( 紅軍 ) が、中華 ソビエト共和国の中心地であった江西省の瑞金 ( ずいきん ) を放棄して、1934 年から1936 年にかけて国民党軍と交戦しながら、1 万 2 千 キロを徒歩で延安山中まで
退却を続けた敗戦を、長征 ( ちょうせい、 Long March )などと共産党軍は称した。
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言葉では勝ったように見せかけているが、その実体は 負け戦による敗残兵の逃避行であり、
8 万人もいた共産党軍兵士が、延安の山中にたどりついた時には
千人といわれている。上の写真(ブログには疲れ果てた毛沢東の馬上姿が載っています)
は毛沢東の馬上姿だが、服装 ・ 装備もばらばらでこれでも軍隊か?。
日本が中国大陸において戦った戦闘の八割は蒋介石 ( しょうかいせき ) 総統率いる中華民国 ( 首都、南京 ) の国民党政府軍との戦いであり、当時は主として ゲリラ活動をしていた 八路軍 ( はちろぐん ) といわれた中国共産党軍 ( 紅軍 ) との戦闘は、
二割にしか過ぎなかった。
昭和 20 年 ( 1945 年 )8 月 15 日の日本がポツダム宣言受諾 ( 敗戦 ) の時点で日本が勢力下に治めていた中国の主な都市は、南京 ・ 北京 ・ 大連 ・ 上海 ・ 天津 ・ 旧満州国 ( ハルピン ・ 長春 ・ 瀋陽 ・ 現 吉林省など東北部一帯 ) ホンコン ・ 広州などであった。
これで中国共産党軍が対日戦争に勝利した、などとよく言えたものである。
日本が負けたのは主として東南アジア ・ 太平洋において
米軍との戦争に負けたのであり、中華民国の国民党軍 ( 現 ・ 台湾政府 ) や共産党軍に負けたのでは決してなかった。
一時的には日本軍が損害を蒙った戦闘もあったが、中国国民党軍(蒋介石軍)との主導権争いの戦闘が主であった共産党軍(八路軍)にとっては、日本軍との戦闘に勝利できる状態ではなかった。
より明確な証拠を示せば日本が ポツダム宣言の受諾により、 1945 年 9 月 2 日東京湾上の戦艦 ミズーリ艦上で降伏文書調印式がおこなわれた。
その際に
中国代表 として署名したのは、当時の中華民国 ( 現 ・ 台湾を支配する政権 ) 代表の 徐永昌( じょ えいしょう ) であった。
ここが重要な点で、 中華人民共和国 ( 中国共産党政権 ) が誕生したのは、
その 4 年後の 1949 年 10 月 1 日のことであった。
つまり日本の敗戦当時には 存在しなかった国が、「 対日 戦勝国 」 を自称しているのに過ぎない。
いつから 僭称 [ せんしょう、身分を偽り、勝手に ( 戦勝国の ) 称号を唱えること ] するようになったのか?。 その答は 2008 年から始めたものである。
さらに付け加えると、中華人民共和国 ( 現 ・ 中国政府 ) が中華民国 ( 現 ・ 台湾政府 ) に代つて 中国大陸を代表する国であると国連で認められたのは、
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1971 年 10 月 25 日に、 「中国代表権に関する決議 2758 」(
アルバニア決議案) が国連総会で採択された時からであった。
これは
現 ・ 中国共産党による建国から 22 年後のことであり、中国政府による 歴史の歪曲 ( わいきょく ) 宣伝には 、真実の歴史を指摘することによって対抗しなければならない。
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以下は掲示板より抽出
チベットの戦犯、胡錦濤 投稿者:山田カカシ 投稿日:2008年 5月 5日(月)09時16分44秒 返信・引用 編集済
中国政府はこれまでパンダを有料 [ 一億円 ] で外国に貸し出してきたが、明日来日する胡錦濤は、上野動物園の死んだ代わりの パンダをお土産に、使い古したパンダ外交をまたするらしい。
しかし パンダよりも何百倍も重要な東支那海における EEZ( 排他的経済水域 )の 中間線 問題や、尖閣諸島の領有権問題などは例によって引き延ばしを計り、その間に海底ガス田からはガスを取り出す作業は継続している。福田 無能総理によれば、「 相手の イヤガル ことはしない 」 方針なのだそうな。たとえ相手から自分の嫌がることをされても−−−。
胡錦濤といえば平成1年 (1989年 ) からの、ラサの戒厳令を思い出す。 チベット自治区の最高責任者にあった四年間に、チベットの独立を求める民族独立運動が激しくなった。彼はこの運動を徹底的に弾圧したことで共産党指導部の信頼を勝ちとり、出世のきっかけを掴んだが、翌年には チベット軍区 中国共産党委員会の第一書記に抜擢された。
日中友好などの 世迷い言( ごと )を唱える愚かな日本人は、以下の事実を知るべきである。中国では北京の西南にある盧溝橋のそばの中国人民抗日戦争記念館や、南京の南京城攻略時の死者数記念館(「南京虐殺記念館」との看板有り)を初め、国内の 275箇所以上に抗日戦争記念館を設け、そこでは南京虐殺 30万人 ( ? ) の写真を初め、日本軍が 三千万人 ( ? ) の中国人を殺したとする江沢民の宣伝をとりいれて、悪逆非道の日本軍を
毛沢東の紅軍が打ち破ったとする思想教育をしている。
子供の頃から共産党独裁を正当化するための思想教育を受け続けてきた中国人に、日中友好を願う者など 千人に 一人もいない。いるのは金儲けに日本を利用しようとする者だけだ。
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[
【その7】日本人は海の男、戦争中でも、沈没船から脱出したイギリス兵を助けた、同じ立場の日本兵はオーストラリア兵に機銃掃射で殺された]
<日本人は海の男、戦争中でも、沈没船から脱出したイギリス兵を助けた>
差があり驚いています。 投稿者:えこね 投稿日:2008年 9月18日(木)19時08分38秒 返信・引用
戦争記事が詳しいので驚きました。
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オーストラリア兵が、船を沈められて泳いでいた
日本兵を救出せず機銃掃射を繰り返していた事実に対して
日本の軍艦の一つは、船を沈められて泳いでいたイギリス兵を救出していたのです。リンク(工藤俊作 (海軍軍人) - Wikipedia)にあります。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%97%A4%E4%BF%8A%E4%BD%9C_(%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA)
この差は、やはり大東亜戦争中の人種差別から来るのでしょうか。なんとも痛たまれません。
<漂流中の敵兵を五百名近く救助した工藤艦長>
人種差別 投稿者:中島 昇 投稿日:2008年 9月20日(土)21時21分19秒 返信・引用 編集済
有色人種に対する蔑視、差別は大東亜戦争中だけのものではなく、アメリカ、イギリスを初め白人種の国へ行けば現在も存在している。ホテルで同じ料金を払っても有色人種には良くない部屋を割り当てるし、レストランの席でも同様である。日本人旅行者はそれに気付かないか、気付いても言葉の問題から文句を言えないので、よけいに カモ にされる。
人種差別をしない白人国がもしあれば、教えてほしい。
漂流中の敵兵を五百名近く救助した工藤艦長の件は、下記にもある。
http://wWW2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog458.html
[
【その8】自分に戦争の意思が無くても、相手に侵略する意図があれば戦争は起きる(ポーランドの例)]
<自分に戦争の意思が無くても、相手に侵略する意図があれば戦争は起きる>
戦争の賛成者などいない 投稿者:ひまわり 投稿日:2009年 8月15日(土)11時16分29秒 返信・引用 編集済
今日は8月15日の敗戦記念日だが、韓国では光復節というそうである。数日前からテレビでは、いろいろな人の証言を交えて戦争反対を述べていた。
平和を求め戦争には反対を主張するのは当然であるが、口で唱えるだけで平和が保たれ、戦争を防ぐことができると思ったら大間違いである。 ポーランドは 16世紀以来、自らが他国に戦争を仕掛けたことは 1度も無かったが、バロック文化の花を咲かせたものの軍事的に弱体だったために、国境を接する ロシア、オーストリア、プロイセン( ドイツ )の 3 国により 3 度も国土を分割され、ついには1775年に国家が消滅してしまった。
その後 ポーランドが独立を回復したのは1918年のことであった。 自国に他国を侵略する意図がなくても、相手から侵略された実例は世界史に数多くあるが、1950年に起きた朝鮮戦争も同じであった。キム・イルソン( 金日成 )が朝鮮を武力統一の野望から、
突然38度線を越えて南に攻め込んだのが原因であった。
ベトナム戦争終了後の 1979年には、中国が ベトナムに 懲罰を与える として、20万の軍隊で突如侵攻した中越戦争が起きた、
ベトナムには中国と戦争する意図など毛頭無かった。
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米軍との長年にわたる近代戦に鍛えられたベトナム軍の手痛い反撃を受けて、人民解放軍は
2万人の損害を出して
1カ月後に撤退せざるを得なかった。
繰り返して言うが、自分に戦争の意思が無くても、
相手に侵略する意図があれば戦争は起きるものであり、その際に中国の属国になりたくなければ、あるいは核武装した将軍さまの奴隷になりたくなければ、妻子や子孫のためにも戦うしかない。
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シルバー回顧録の掲示板より収録記事]
<シルバー氏(管理人)の応答>
[
【その9】核爆弾投下はソ連への威嚇と人体実験(ハーグ陸戦条約違反)であり、有色人種軽蔑の現れ]
投稿者:管理人 投稿日:2010年 4月 3日(土)22時34分13秒 返信・引用 編集済
>開戦はアメリカに追い込まれたからではなく、自らを追い込んでいったのです。
この考え方には ケンカの相手である アメリカの戦略が スッポリ抜け落ちています。 ハワイ、フィリッピンを領土化し植民地化した西進主義(西方への侵略主義)の目的地が、「 遅れてやって来た帝国主義者 」 と世界から言われた、中国大陸であったことをお忘れ無く。
さらに ポツダム宣言を日本が受諾した、昭和20年 (1945 年 ) 8月14日 ( 日本よりも 1 日、日付が遅くなる ) の ニューヨーク・タイムズ紙の紙面で、「 太平洋の覇権を我が手に 」 という大見出しの下に、
「 我々は初めて ペリー( 提督 )以来の願望を達した 。もはや太平洋に邪魔者はいない。
これで アジア大陸の マーケットは、我々のものになった 」とありました。
他国が中国や朝鮮を侵略主義の草刈り場とするのを、単に黙視することが日本の採るべき態度だったのでしょうか?。国の安全を含む国益については、守る必要が無かったとでもお考えでしょうか?。ちなみに当時の国際法によれば、侵略行為は国際法違反ではありませんでした。
>核爆弾投下は人種差別によるものではありません。ドイツに投下しなかったのは完成前に降伏したから。日本もポツダム宣言を早期に受諾し、天皇制維持の可否に日を費やしていなければ核爆弾投下には遭っていないのです。
言わんとするところはドイツが核爆弾完成の 2 ヶ月前の 1945 年 5 月に降伏したから核爆弾の被害に遭わなかった。しかるに核爆弾完成後も日本が降伏するまで日数を浪費していたから核爆弾を投下されたというご意見ですが、それでは 「 降伏寸前 」 の日本に対して種類が異なる、核爆弾を投下した目的は何だとお考えですか?。
第2次大戦終了後の対ソ連戦略をにらんだ
威嚇と、 ウラン235を原料にした広島型核爆弾を第 2回目の 実験 に、プルトニュウム239を原料にした長崎型核爆弾投下を第 3回目の 実験 と公式文書に分類し、その被害状況を公式記録文書に詳細に記録した、
人体実験であったことは間違いありません。
その当時白人種から 人間以下と蔑視・差別されていた有色人種の ジャップだから核爆弾を投下したのであり、ハーグの陸戦法規により毒ガスや ダムダム弾 でさえも大量殺人の兵器、人体に過度の苦痛を与えるものとして禁止されていたにもかかわらず−−−です。
参考までに核爆弾被害者の訴えに対して、1963年12月7日に東京地方裁判所は核爆弾の使用を、国際法に違反した「 戦争犯罪 」であると認定しました。
>日本も( 核爆弾 )計画があったが資金力がなく頓挫。もし持っていれば間違いなく日本も使っています。
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だからといってアメリカの核爆弾使用を正当化する理由には、少しも役立ちません。 あたかもケンカの際に
ナイフで相手を刺した犯人が被害者に、「もしお前が
ナイフを持っていたら、俺を刺したはずだ」、というようなものです。
>できるだけバランスのとれた歴史認識に基づいた歴史観をもつ努力をしたいものです。
それに関しては同感です。しかしそれ以前に1945年以降 占領軍の指令により学校教育の現場で教え込まれ、
偏向したマスコミが流布した
極東国際軍事裁判史観や
自虐史観を打破するのが先決です。
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【その10】韓国の強気に押されて「従軍慰安婦」の言葉を低年齢の義務教育の教科書に書かされ、韓国の教科書には
元寇の際の 高麗侵略軍の事は書かないと言う身勝手さを許すお人よしの日本
韓国の要求に屈服し、低年齢の義務教育の教科書に「 従軍慰安婦 」 のことまで記載しましたが、当の韓国の国定教科書では
元寇の際に 高麗が日本を侵略した事実を歪曲隠蔽し、歴史年表からは削除 していました。
【その11】イギリスの教科書では「アヘン戦争(50年間にわたり中華人の脳を破壊し続けた)を教えない
【その11】イギリスの教科書では「アヘン戦争」に関する記述が無いそうですが、次の世代を担う子供に「民族の誇り」を植え付け育てることの重要さを、イギリスも韓国も気付いていたからです。残念なことに
日本では、「民族の誇り」など死語 になりましたね
註 :(この文言には次の通りの反論がありました)
民族の誇りのために自らに都合の悪い歴史は国民に教えない。それって、ホコリでもなんでもないじゃん。本当のことを知らされて洗脳がとけ、深い精神障害を患うようになった哀れな韓国人もいるよ。
(歴史のねつ造例、またはねつ造が意図された例)
<歴史のねつ造、
シルバー回顧録のホームページより部分転載>
[
(その一)朝鮮戦争の原因について、
韓国と米軍が北へと侵略 ]
ソビエト連邦崩壊の結果、ソ 連内部の資料や公文書が公開されましたが、それによれば北朝鮮の
金日成 が武力による朝鮮半島統一を計画し 、スターリンに対して
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南の解放は短期間で成功する
と述べたので、彼が金日成に 同意を与えました 。その結果、北朝鮮が韓国を侵略し朝鮮戦争を起こした事実が明白になりましたが、ではなぜ金日成は戦争に踏み切ったのでしょうか?。彼は朝鮮半島に戦争が起きても、 アメリカ は介入しないだろう とする彼の判断を スターリン に述べていました。
その根拠となったのが、昭和 25 年 ( 1950 年 )1 月に アメリカ の アチソン 国務長官が上院の外交委員会及び、ナショナル ・ プレス クラブ の演説で明らかにした下記の主旨の演説でした。
朝鮮半島は、我々 アメリカ の防衛地域から除く
この発言は アメリカ にとっては大失敗であり、その結果 5 ヶ月後の 6 月 25 日には朝鮮戦争が起きましたが、
金日成にとっても アメリカ の参戦や国連軍の派兵は想定外 のことでした。彼の計画では
李承晩 ( リ ・ ショウバン ) 大統領の下で
腐敗堕落し弱体だった韓国を容易に解放 ( 占領 ) することができ、朝鮮半島を武力により統一できると判断して
朝鮮戦争を始めたのでした。
[ 注:1、歴史の
ねつ造 ( その一 )]
昭和 34 年 ( 1959 年 ) に発行された 岩波新書の 「 昭和史 ( 新版 ) 」 、著者グループ、藤原彰、今井清一、遠山茂樹、における記述 ( 277 頁 ) によれば、
1950 年 6 月 23 日、在日 アメリカ空軍戦闘機部隊は、
九州に集結した。そして 25 日、北朝鮮が 侵略したという理由 で、
韓国軍は 38 度線を越え進撃した。
つまり朝鮮戦争の原因は、米軍の支援のもとに
韓国側が仕掛けたとする 大 ウソ が、歴史書に堂々と書いてありました。左翼主義の歴史学者達がどのような思想信条を持とうともそれは本人の自由ですが、問題は マルクス主義にとって有利になるように、 意図的に歴史の真実を歪曲して記述したことの是非です 。それは目的の為には手段を選ばない、マルクス主義者の 常套手段 でした。
[ 注:2、歴史の
ねつ造 ( その二 )]
当時の 社会党 ( 現社民党 ) は党の公式文書である 「 朝鮮をめぐる情勢と、当面する我が党の政策 」、{ 昭和 49 年 ( 1974 年 ) 6 月発表 }において、
朝鮮戦争は、
米軍が 北朝鮮を侵略したのが原因である。
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と明確に規定しました。マルクス主義を信奉する政治家、言論人、歴史学者、教育者達はこれに基づき、ねつ造された歴史を真実とする発言を公式の場で長年繰り返すと共に、虚偽の歴史を本に書き、学校でも日教組の教師達が虚偽の歴史を生徒に教えてきました。
[
(その二)、拉致事件は無い ]
[ 北朝鮮の代弁者 ・ 社民 ( 旧 社会 ) 党、]
拉致の問題 についても 社民党 ( 旧社会党から 1996 年に名称変更 ) は平成 9 年 (1997 年 )以来、5 年間も党の ホームページに掲載してきた、「 食料援助を拒否する日本政府 」という下記の拉致否定論文を、小泉、金正日会談で拉致の真相が判明してから 17 日も経った平成 14 年 10 月 4 日になって、他から指摘を受けてようやく削除しました。
拉致 疑惑 事件は朝鮮 ( 北 )に食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出され発表された事件であり、
横田めぐみさん の事件についても、朝鮮 ( 北 ) には日本人少女を拉致する理由がない。証拠は何一つ無い
でっち上げ 事件である。
歴史を ねつ造 するだけでなく社会党( 現社民党 )は北朝鮮に対して 過去 20 回 も訪朝団を派遣して親密な関係を築きましたが、昭和 40 年 ( 1965 年 ) に調印成立した日韓基本条約の存在を平成 5 年 ( 1993 年 )まで認めず、
しかも
[
(その三)、朝鮮を代表する国は唯一 北朝鮮だけである ] とする ドグマ ( 思想上の独断的教義 ) により、1988 年には ソウルで オリンピックが開催されたにもかかわらず、
韓国の存在を長年認めませんでした。
北朝鮮の代弁者として拉致事件の存在そのものを長年否定し続け、拉致事件の真相が明らかになった以後も、あろうことか朝鮮労働党との 友党関係を未だに保持して いますが、これこそ正に社会主義革命を目指す、イデオロギーの権化というべきものです。
その対応を含めて、北朝鮮、中国、ソ連をこれまで熱心に擁護し、地上の天国とまで礼賛し、その宣伝に荷担してきた マルクス主義者達は、歴史の真実が明らかになった後も自らが犯した過去の発言、主張の過ちを訂正、謝罪もせずにいます。そして今も恥じることもなく国会議員を務め、歴史について論評し、教科書を書き、学校では児童、生徒に 平和教育 と称して、 マルクス主義 に偏った思想教育をしています。
[
(その四)、北朝鮮工作船の引き揚げにも反対 ]
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平成 13(2001) 年 12 月 22 日夜、高速で日本の領海から逃走中の北朝鮮工作船が発砲したために、追跡中の巡視船 「 あまみ 」、「 きりしま 」、「 いなさ 」 が被弾しましたが、このため、巡視船側が反撃したところ、逃げられないと思ったのか同船は自爆して、九州南西の水深 90 メートルの海底に沈没しました。ところが工作船を引き揚げる件に関して、社民党や左翼主義者たちが反対しましたが、 北朝鮮の国益擁護 のためのその主張とは
工作船を引き揚げれば、
北朝鮮との間に 修復できない亀裂が生じる
ということでした。工作船の引き揚げを阻止することにより、日本人の拉致や麻薬の密輸などに使用された 明確な物的証拠の隠蔽 ( いんぺい ) を図ろうとしましたが、警備当局の 北朝鮮による犯罪の証拠保全のため引き揚げるべし という主張を世論が支持したために、引き揚げられました。その結果工作船の船体構造はもちろん、船体内部に格納し、麻薬運搬、人員の密出入国用に使用した小型連絡艇や ロッケット発射器、機関銃、小銃など、
1,000 点以上の証拠品が押収されました。
注:)北朝鮮への卑屈な態度
1978年訪朝エピソード、これについては以下のおもしろい エピソードがあります。昭和 53 年 ( 1978 年 ) の第 5 次訪朝団の際に、キム
・ イルソン ( 金日成 ) 主席との会食で、北朝鮮側の人間が主席の質問にいちいち
ハシを置き、起立して答える様子を見た社会党の連中が、いつの間にか、主席の質問に同じように起立して答えるようになった・・・というものでした ( 原彬久著 『 戦後史のなかの日本社会党 』 中央新書より )。
つまり 20 回も訪朝していながら日本の政党人、政治家としての品位に欠ける、卑屈な態度を取り続けることに務めたのでした。社会党の代表団は訪中もしていましたから、そこでも中華人民共和国に対する 属国の代表 として相応しい(?)態度を取っていたに違いありません。
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[ 賞味期限切れ ]
社会党 ( 現社民党 )は平成 2 年 ( 1990 年 ) の衆議院選挙では
136 議席も獲得しました(当時、共産圏は世界の 1/3 日本の知識人の多くは、今後世界は全て共産圏化すると信じた。[知人談] 1991 ソ連崩壊でその予想は外れた)が、その後明らかにされた北朝鮮や中国に対する追従一辺倒の姿勢が国民から愛想をつかされ、それ以後は選挙の度に議席を減らし続け、平成 15 年の選挙では議席が 三 分の 一 に激減しました。土井党首自身も兵庫 7 区 ( 西宮 ) の小選挙区で落選して、比例区でようやく復活しましたが、社民党は僅か 6 議席しか得られませんでした。
土井党首は平成 9 年 ( 1997 年 )10 月 23 日、東京都千代田区の朝鮮会館で開かれた 金正日総書記、推戴祝賀宴 にも出席していましたが、まさに 「 朝鮮総連詣で 」の典型でした。平成 17 年 9 月の選挙でも、棚から ボタ餅式に自民党比例区から議席を一つもらったものの、土井 センセイは落選し、秘書給与をだまし取り詐欺罪で懲役 2 年執行猶予 5 年の有罪判決を受けた 辻本清美 センセ も地方区で落選し、比例区でようやく当選しましたが、社民党は 7 議席 しか取れませんでした。
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時代の変化にも気が付かず、 バカ のひとつ覚え のように 時代錯誤の護憲念仏や
自衛隊反対 に 「 うつつ 」 を抜かしていては、賞味期限が切れた社民党に対する選挙民の支持を失うのは当然のことです。
[
(その五)、 共産圏の核実験は正しい ]
彼等は昔から
米国の核実験は 「 侵略戦争に使用する為 」 と称して反対してきましたが、
ソ連や中国の核実験は 「 平和を守る為である 」 として反対しませんでした。 放射能自体に侵略や平和の区別などあるはずがなく 、危険な レベルの放射能はあくまでも危険なはずですが、ソ連や中国を革命の先輩であり祖国と仰ぐ マルクス主義者が唱える 平和や反核運動 とは、それほど偏向した内容なのです。
毎年 8 月になると旧社会党 ( 現社民党 )、
総評系の左翼主義者たちが主催する 原水協 、( 原水爆禁止日本協議会 ) と、
共産党系が主催の 原水禁 の 2 派に分かれて、核兵器反対の集会が広島と長崎でおこなわれています。日本に核の脅威を現実に与える左傾した韓国の核開発による プルトニュム抽出事件や、2005 年 2 月 10 日に
北朝鮮が発表した核兵器保有宣言について、左翼主義政党や反核運動をする連中は、抗議や反対もせずに
黙認していました。
これこそ正に西側の核についてだけ反対するという、 左翼主義の忠実な下僕 ( げぼく )に過ぎない 反核運動の本質 を露呈したものです。
[
(その六)、 自虐史観、あの戦争は日本だけが悪かった ]
自虐史観にも異議があります。個人に長所、短所がある如く、いずれの国の歴史にも光と陰、功と罪の部分が存在します。その人や国を貶( おとし )める目的で、ことさら短所や陰、罪の部分だけに光を当てることは公平な態度とはいえないからです。
まして近隣諸国の 「 陰や罪の部分 」には目を塞いでおきながら、それらの国の主張を事実かどうかの検証もせずに無批判に受け入れてその主張を代弁し、
自国( 日本 )の過去の行為のみを声高に非難する行為は、日本国籍所有者としての態度として理解し難いものです。
愛する人や国を批評する際には根底に、その人や国に対する 暖かい気持ち が必要です。「 あら探し 」という悪意の視点からしか日本の歴史を見ようとせず、しかも歴史について是々非々( 良い所は良い、悪い点は悪いと公平率直に判断する ) の態度を取ろうとしない人達は、中国、韓国、北朝鮮などの 「 召使い 」か、それらの国の 精神的国籍所有者 なのかも知れません。
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まして国の将来を担う児童、生徒に対して、偏った視点から日本の陰と罪についてのみ教育することは日本人としての誇りを失わせ、 日本の国土やそこに住む人達を愛する心 の育成を阻害するのは当然です。自虐史観を主張し支持する者達は国際的な常識である自国や自国民を愛する気持ちを否定し、代わりに彼等が憧れ、思いを寄せる 中国や朝鮮半島の国の利益 を意図することに間違いありません。さらにそれらの国の意向に従い、 戦争や
植民地支配などの加害責任について
世襲制 さえ導入しようと主張しているのです。
参考までに
植民地支配について
謝罪し補償した国は、G−8 諸国を初め、スペイン、ポルトガル、ベルギー、オランダなどの旧宗主国のうちで、日本以外にありませんが、 それが国際社会の常識 だからです。
国際常識に無知な日本は、韓国などに際限の無い謝罪と カネ の支払いを要求され、応じています。
注:)
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かつて江藤隆美元総務庁長官が朝鮮半島の
植民地支配について、日本も悪いことだけでなく、
良いことも行なった と発言しました。この発言に対して韓国が強く反発し、
その尻馬に乗って日本のマスコミや、
自虐史観の支持者も一斉に非難しました。しかし日本の
植民地政策を見た場合、「
欧米の植民地収奪支配国に比べて格段に優れた統治政策 」が存在したことは否定できない事実でした。
それについての詳しい説明については
ここ(大韓帝国への近代化援助説明文)をクリックしてください。
[
(その七) 皇国史観、歴代天皇の政治は全て良かった ]
だからといって皇国史観を採るつもりはありません。日本の長い歴史の中で天皇が自ら政治をおこなった期間は敗戦までせいぜい 5 百年前後でしたが、その期間を除き天皇は庶民にとっては無縁の存在でした。
皇国史観華やかなりし戦時中でも私達が国史( 歴史 ) の時間に習った天皇、皇后の敷いた善政とは、 124 人もいた歴代天皇 の中で
僅か 2 例 だけでした。第 16 代
仁徳天皇が、高殿から見て民の 「 かまど 」 から立ちのぼる炊煙が少ないのに気付き、3 年間租税を免除した事 ( 注参照 )と、奈良の正倉院に第 45 代聖武天皇の遺品を納めたことで有名な
光明皇后 ( 701〜760 年 ) が、病人の為に悲田院、施薬院を建てて社会事業をおこなったことだけでした。
明治維新以後軍国主義と共に盛んになった皇国主義 ( 史観 ) は、ともすれば愛国主義と同一視されますが、
両者は峻別 されなければなりません。
皇国民教育を受けて育ち、敗戦当時は小学校 6 年生でした私にとって天皇制とは、千数百年以上もの間 マッカーサー を含めて時の政治権力者に 、その権威を 利用されることのみに 存在意義 ・ 価値 があり 、国民にとっては 有害無益な 寄生虫 である と思ってきました。
しかし年を取るにつれて考え方も穏やかに変わり、世界に例がない 125 代 (?)も続く天皇制の 文化財的価値 /
生きている 文化遺産 から、その存在を認めてもよいと思うようになりました。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genin-1.htm#netsuzou
]
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(歴史の真実を探る、その2)
<その2-1、虫けらのように殺した>
<2012年11月13日、日中戦争(1937〜1945)についての新知識、日中戦争の真実>
http://wWW2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi05.htm
久保有政氏はこのサイトで「日中戦争(1937-1945)の真実の一面」を次の通り述べています。
(中国民衆を虫けらのように殺した中国軍)
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中国軍と、日本軍の間には、
大きな質的差異がありました。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。梁啓超は、中国の民衆を
「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼んでいます。
[
(その八)、黄河の堤防を爆破したのは日本軍と中国軍は宣伝、しかし実際に之を行ない100万人の人民を餓死させたのは中国軍]
「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた
蒋介石の軍隊は、一九三八年、日本軍の進撃の道をはばもうと、
黄河の堤防を爆破(1938年6月),(Wikipediaで再確認)しました。
このとき、大雨が降ったこともあって一一の都市と、四千の村が水没し、
水死者一〇〇万人、その他の被害者六〇〇万人という大惨事となりました。
しかも、それだけでは終わりませんでした。この人為的水害の結果、
黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、
民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、
「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」
と報じています。中国側はまた、事件直後から、
堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、のちに
外国人記者に見破られています。
この堤防決壊のとき、
日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
堤防決壊の直後、
日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた
中国民衆を、必死になって救済したのです。
こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、
共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、
最低一週間は兵士たちの好きなように
略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
日中戦争(1937-1945)における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。
むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに
「督戦隊(とくせんたい)」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。
つまり中国兵が中国兵を殺したのです。
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中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争(1937-1945)時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。
また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。
日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。
[
(その九)、日本軍は残虐だったと中国では宣伝されている、しかし、本当は日本軍が中国人民の困窮を救ったのです]
また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。
中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。
つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。そのため
中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。彼らの行動の特徴は、
略奪と破壊だったのです。
それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める
農民たちでした。
一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。
日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約四〇%、また耕地面積の五四%に及びましたが、日本はすぐにその地域での農業
再建、道路や潅漑施設の
復興、工場の
再建などに取り組みました。
日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、
日本軍を熱烈に歓迎しました。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、
彼らは生まれて初めて見たからです。
本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。
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日本が占領地域でとくに力を入れたのは、
農民の救済でした。日本政府はすでに一九三八年に中国での農業復興の計画を発表し、実行に移しています。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。
それにより、日本の占領地域での
農業は飛躍的に増大しました。日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。
【その12】中国残留孤児が大切に育てられたのは日本軍が中国の民衆を助けたから
中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。
戦後、日本人が中国大陸から引き揚げてくるとき、多くの日本人が帰りそこなって、そこに取り残されました
(いわゆる中国残留孤児)。しかしそのとき、残留日本人を助けてくれた中国人たちがかなりいました。
そうした中国人の多くは、戦時中の中国兵がいかに悪かったか、また日本軍が中国の民衆を助けたことを、よく知っていたので、日本人を助けてくれたのです。
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<その2-2、霧社事件(首狩)>
<2012年11月17日、記、台湾は西にある小さな澎湖 ( ほうこ )諸島よりも価値が無かった>
ここに霧社事件を書きとどめる理由は日本の統治が台湾という島の文化水準を高める上で如何に重要であったかを物語る人が一人でも多くいなければならないと痛感するからです。
この歴史エッセー(歴史の裏面を語る短文)を書いたのは
「シルバー回顧録」をネット上に公開している人です。このサイトの「プロフィール」で詳しく知ることが出来ます。私は本名を存じ上げていますがご本人がペンネームで通しておられますので私も、書いた人は 飛雲院孤峰義翔居士さん と紹介させていただきます。
[削除に関する乞ご容赦]
霧社事件
この記事を全面的に、私のページから消すことをお許しください。霧社事件 について知りたい方は
「シルバー回顧録」をインターネットで見てください。
理由は、私のホームページの許容能力が限界に達したため、私は留めたかった。2020,12。
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